母 山村暮鳥
母
國から母がでかけてきた
やつとのことできたのだ
母はもう、いつ眠つたぎりになるかわからないほどの齡
そんなよぼよぼのお嫗(ばあ)さんだ
ひさしぶりであつたうれしさ
自分達がなつかしくはなしかけても耳が遠く
だから氣持が溶けあはないで
ぽかんとおほかたひとりぼつち
それだからとて
あへて寂しいとおもふでもない
自分達がめづらしいものをあれこれとさがしまはつて
それを食卓にのせてあげても
咽喉にはとほすが
とりわけ、これはうまいと舌も鳴らさず
やつぱり喰べ馴れた自分のはたけの
お芋か大根がいいやうな顏をしてゐる
それなら何處か
見物にでもつれてゆかうとさそつても
いやはや、景色のなんのといつてさわぐのは若い時分のことさ
それよりはかうして足でも伸ばしてゐるはうが
どれほどありがたいか知れないと言ふ
母はかうして一日二日
おそらくうまれてはじめてのやうに緣側の日あたり
あるひは炬燵の附近などでぶらぶらしてゐたつけが
たうとうたまらなくなつたとみえて
はるばるもつてきた
だいじなだいじなその合財囊(がつさいぶくろ)を
自分の手もとにひきよせた
おや、何があんなにふつくりと一ぱいはいつてゐるのかとおもつたら
自分達はあいた口が塞がらなかつた
それこそ一抱きほどもある糸の屑ではなかつたか
まあ、そんなことをはじめないで
滅多に來るのでもないのに
せめて此處にゐるあひだぐらゐは暢氣に
ゆつくりとやすんだらどうです
としよつた母ははじめてにつこりと
あいよ、だがのう
わしにはなんにもしないで遊んでゐるほど
つらいつまらない退屈なことはないのさ
と云つて二寸三寸
稀には一尺ほどの糸の屑が
その老眼鏡のしたで一本一本と
干枯らびた
血の氣のない
まるで細い榾木でもへし折つてならべたやうな指尖でたんねんに
つつましくも繫ぎだされた
としよつた母はぷツつりともいはず
ちようどお祈りでもしてゐるやうに
すわりこんだらもう大磐石
此方から聲でもかけなければいつまでもいつまでも
それこそ腹の空いたのもしらず
日のくれたのもしらないで
その仕事のために
自分自身をすらいつかどこへか
まつたくなくしてゐるのであつた
その糸をどうするのですと
自分達の目はみはられないではゐなかつた
え、かうしておけば
何にでもなるよ
これを織れば蒲團の皮にでも
またお前達の平常着(ふだんぎ)にでも
幾日ぐらゐで繫ぎをへますか
そうだのう
とても人間一生の半分
そればつかりにかかりきつたところで
一年二年ではやりきれないでせうね
そうだのう
そんなことはかんがへてみたこともないが
かなりひまのかかることだの
その糸屑はどこからもつてきたんですか
これかい
みんな若い時分から
丹精して棄てられるのをためてきたのさ
糸はかうして一本一本とつながれ
つながれたものは
そこで一つの球に捲かれた
時に、自分が揶揄(からか)つて
おつかさんは此の世へなんのために生れてこられたんです
すると眼鏡越しに
え、何か言つたかえ
自分のこころはぴんと眞面目に跳ねかへされ
そしても一ど
おつかさんは此の世へなんのために生れてこられたんです
皺くちやな澁紙色のその頰つぺたに
かすかな微笑の泛んだのは
問はれた意味がわかつたのか
もぐもぐ口が動いたとみると
わしは無學でなんにも知らないよ
だがそんなことはどうだつていいぢやないかえ
ただ、わしにはなんなりとして
一日だつて働かないではゐられないんだ
自分の頭(かうべ)はうやうやしく低(さ)がつた
おう、たふときものよ
あなたが自分の母上なのか
あなたから自分は世界にでてきたのか
あなたに、あなたに自分は天地創造の力と生とをみとめます
なんといふ平凡な
けれどこれほど偉大な言葉がどこにありませう
母上よ
わしにはなんなりとして
働かないではゐられないんだと言はれるあなただ
あなたは永遠に生きてゐられる
そのいのちにおいて
その無智において
その愛において
混亂に秩序をあたえる
あなたの指尖
あなたのその廢物利用は
まさに更生の奇蹟そのもの
いまはじめて、自分は一個の田舍媼さんのあなたにおいて
生ける神
神そのものの像をみました
おう、それにしてもこの一抱えの糸屑
それを一本一本と繫ぐこと
それがみよ
死の底なき淵をまのあたりにして
ひとりしよんぼりと
にんげんのいのちの最終(いまは)の懸崖(がけつぺ)につツたつたものの仕事だとは
[やぶちゃん注:「ちようどお祈りでもしてゐるやうに」、「一抱え」はママ。
「合財囊(がつさいぶくろ)」合財袋(がっさいぶくろ)は女物の小型の下げ袋。明治年間に流行したもので、長方形の籠を底にして胴を作り、口紐で絞める「籠信玄(かごしんげん)」、丸い巾着型のものを底にした「千代田袋(ちよだぶくろ)」などがある。財布・手拭・紙・化粧道具など小間物一切を入れたところからかく呼んだ。明治四十年代()には大型の信玄袋が生まれ、衣服入れに用いられたというから、このシチュエーションでは大型の信玄袋ととってよかろう。
「その老眼鏡のしたで一本一本と」は彌生書房版全詩集版では「その大きな老眼鏡のしたで一本一本と」となっている。
「懸崖(がけつぺ)」はママ。「へ」は「端」で、がけっぷちの意として何らおかしくない。
彌生書房版全詩集版。指示していないが、ルビが以上よりも有意にある。拗音表記はそのまま採用した。「此方(こつら)」はママ。方言としておかしくない。
*
母
國から母がでかけてきた
やつとのことできたのだ
母はもう、いつ眠つたぎりになるかわからないほどの齡(とし)
そんなよぼよぼのお嫗(ばあ)さんだ
ひさしぶりであつたうれしさ
自分達がなつかしくはなしかけても耳が遠く
だから氣持が溶けあはないで
ぽかんとおほかたひとりぼつち
それだからとて
あへて寂しいとおもふでもない
自分達がめづらしいものをあれこれとさがしまはつて
それを食卓にのせてあげても
咽喉(のど)にはとほすが
とりわけ、これはうまいと舌も鳴らさず
やつぱり喰べ馴れた自分のはたけの
お芋か大根がいいやうな顏をしてゐる
それなら何處(どこ)か
見物(けんぶつ)にでもつれてゆかうとさそつても
いやはや、景色(けしき)のなんのといつてさわぐのは若い時分のことさ
それよりはかうして足でも伸ばしてゐるはうが
どれほどありがたいか知れないと言ふ
母はかうして一日二日
おそらくうまれてはじめてのやうに緣側の日あたり
あるひは炬燵の附近(あたり)などでぶらぶらしてゐたつけが
たうとうたまらなくなつたとみえて
はるばるもつてきた
だいじなだいじなその合財囊(がつさいぶくろ)を
自分の手もとにひきよせた
おや、何があんなにふつくりと一ぱいはいつてゐるのかとおもつたら
自分達はあいた口が塞がらなかつた
それこそ一抱きほどもある糸の屑ではなかつたか
まあ、そんなことをはじめないで
滅多に來るのでもないのに
せめて此處(ここ)にゐるあひだぐらゐは暢氣(のんき)に
ゆつくりとやすんだらどうです
としよつた母ははじめてにつこりと
あいよ、だがのう
わしにはなんにもしないで遊んでゐるほど
つらいつまらない退屈なことはないのさ
と云つて二寸三寸
稀には一尺ほどの糸の屑が
その大きな老眼鏡のしたで一本一本と
干枯らびた
血の氣のない
まるで細い榾木(ほだぎ)でもへし折つてならべたやうな指尖でたんねんに
つつましくも繫ぎだされた
としよつた母はぷッつりともいはず
ちようどお祈りでもしてゐるやうに
すわりこんだらもう大磐石
此方(こつら)から聲でもかけなければいつまでもいつまでも
それこそ腹の空いたのもしらず
日のくれたのもしらないで
その仕事のために
自分自身をすらいつかどこへか
まつたくなくしてゐるのであつた
その糸をどうするのですと
自分達の目はみはられないではゐなかつた
え、かうしておけば
何にでもなるよ
これを織れば蒲團の皮にでも
またお前達の平常着(ふだんぎ)にでも
幾日ぐらゐで繫ぎをへますか
そうだのう
とても人間一生の半分
そればつかりにかかりきつたところで
一年二年ではやりきれないでせうね
そうだのう
そんなことはかんがへてみたこともないが
かなりひまのかかることだの
その糸屑はどこからもつてきたんですか
これかい
みんな若い時分から
丹精して棄てられるのをためてきたのさ
糸はかうして一本一本とつながれ
つながれたものは
そこで一つの球(たま)に捲かれた
時に、自分が揶揄(からか)つて
おつかさんは此の世へなんのために生れてこられたんです
すると眼鏡(めがね)越しに
え、何か言つたかえ
自分のこころはぴんと眞面目(まじめ)に跳ねかへされ
そしても一ど
おつかさんは此の世へなんのために生れてこられたんです
皺くちやな澁紙色のその頰つぺたに
かすかな微笑の泛んだのは
問はれた意味がわかつたのか
もぐもぐ口が動いたとみると
わしは無學でなんにも知らないよ
だがそんなことはどうだつていいぢやないかえ
ただ、わしにはなんなりとして
一日だつて働かないではゐられないんだ
自分の頭(かうべ)はうやうやしく低(さ)がつた
おう、たふときものよ
あなたが自分の母上なのか
あなたから自分は世界にでてきたのか
あなたに、あなたに自分は天地創造の力と生(いのち)とをみとめます
なんといふ平凡な
けれどこれほど偉大な言葉がどこにありませう
母上よ
わしにはなんなりとして
働かないではゐられないんだと言はれるあなただ
あなたは永遠に生きてゐられる
そのいのちにおいて
その無智において
その愛において
混亂に秩序をあたえる
あなたの指尖
あなたのその廢物利用は
まさに更生の奇蹟そのもの
いまはじめて、自分は一個の田舍媼(いあかばあ)さんのあなたにおいて
生ける神
神そのものの像(すがた)をみました
おう、それにしてもこの一抱えの糸屑
それを一本一本と繫ぐこと
それがみよ
死の底なき淵をまのあたりにして
ひとりしよんぼりと
にんげんのいのちの最終(いまは)の懸崖(がけつぺ)につッたつたものの仕事だとは
*]