「想山著聞奇集 卷の貮」 「鎌鼬の事」
鎌鼬(かまいたち)の事
[やぶちゃん注:「かまいたち」のルビは目録にある。]
世に鎌鼬と云(いふ)もの有(あり)。【關東の鎌鼬、北國の魑魅、西國の河伯(かつぱ)、俗に江戶にて河太郞と云(いふ)、是を日本の三奇と云とぞ。】人にふるゝ時は、必(かならず)、其人知ずして大成疵出來(でき)、初(はじめ)は血出(いで)ず、痛(いたみ)もなくして、追付(おつつけ)、夥敷(おびただしく)血出(いづ)。痛み骨髓に徹し、惣身(そうしん)にせまるといふ。【さして血も出ず、痛みの薄きも有ある)よし。】鎌鼬と云ふ事を知らずして、疵の甚敷(はなはだしき)と血の多く出るとに驚き、小兒などは虫持(むしもち)とも成(なり)、大人にても驚顚(きやうてん)臟腑に入(いり)て、病身と成(なる)者も多く、中には死に至るものもあり。能よく)心得置(こころえおく)べき事也。故に、纔(わづか)、見及び聞及(ききおよ)びしかぎりを記置(しるしおく)なり。
[やぶちゃん注:「虫持」の「虫」はママ。「癇の虫」などの小児性の精神変調ともとれるし、後の大人の症例で激しいショックが「臟腑に入」って「病身と」なる「者も多く、中には死に至る」ケースもあるというところからは、何らかの消火器性寄生虫疾患を指しているようにも読めないことはない。しかし、やはり痛みのないところにパックリと傷口が開いて、血が出てくるというのは心因性ショックの方が腑に落ちる気はする。]
此ものゝ形ち、人眼に見ゆる事なくして、疵斗(ばかり)つく也。その疵口、必、曲尺(かねじやく)のなり[やぶちゃん注:L字形。]に付て、鎌の形なればとて鎌鼬と云ふとぞ。疵、大小品々有。小なるは二三寸より五六寸[やぶちゃん注:六~九センチメートルから十五~十八センチメートル。]にいたる、深さ五六分より一二寸[やぶちゃん注:一・五~一・八センチメートルから三~六センチメートル。]に至る。野州大桑村にて、究竟(くつきやう)[やぶちゃん注:「屈強」に同じい。]なる土民をかけたるは、内股五寸[やぶちゃん注:十五センチメートル。]程の疵口にして、深さは骨迄當りて、白々と骨出たりと云。恐ろ敷(しき)曲物(くせもの)なり。
[やぶちゃん注:「野州大桑村」栃木県日光市大桑町(まち)であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「かけたる」「掛ける」「懸ける」で鎌鼬がその傷害を及ぼすの謂いか、或いは「鎌」を引っ「掻(か)けたる」の謂いであろう。]
初、疵口付(つく)時は、必、我知ずして付事也。尤(もつとも)、怪物の目に見ゆる事はなき也。故を以(もつて)、もと獸はなくて、月々風の當りて切(きれる)といふ說あれども、左にはあらぬか。大桑村にては、風なくて切らるゝ事也。目に見えねば、鳥か獸か鬼か氣(き)かは分らざれども、何にもせよ不思議なる物也。先(まづ)最初、疵の付たる時は、肉白く切裂(きりさけ)、疵口少し黃色ににじみてねまり居(を)る也。【此白きねまりたる物は、俗説に鎌鼬の唾(つば)也と云傳(いひつたふ)る所もあり。】血はいでず、痛もなし。暫(しばし)過(すぎ)て血夥敷(おびただしく)出(いで)、痛みも甚敷(はなはだしき)との事なり。疵は、能(よく)切れる剃刀にて切割(きりわり)たる如きもの也。
[やぶちゃん注:この「疵口少し黃色ににじみてねまり居る也」という観察は興味深い。これは切創を生じさせたものが、何らかの個体か溶けかけた半固体物、或いは、ある種の生物(植物或いは動物)であった可能性を窺わせるものだからである。]
此疵、必、人の股・膝・臑(すね)に出來るなり。多くは膝口抔(など)につく也。腰より上につく事は稀なり。此もの、察するに、地を離るゝこと僅(わづか)一尺餘りに過ず。猶考(かんがふ)るに、頭・顏などをかけられたるは、多くは轉びての事なり。又、立(たち)ながらかけたるは、皆、旋風の吹來る時也。左すれば、旋風に乘じて中を飛行するものか。前に云(いひ)たる大桑村にて股をかけられしと云ふは、深田の中へ入居ての事也。
[やぶちゃん注:私が中学生の時に目の前で実見し、「〈鎌鼬〉だ!」と教師が叫んだそれは、同級生の顔(眼球を含む)の部分だったがね。「耳囊 卷之七 旋風怪の事」の私の「鎌鼬」注の太字の箇所を参照されたい。私は今でもあれは〈鎌鼬なんかじゃあない〉と思っているのだ。
以下、の一段落は営本では全体が二字下げ。]
予一年、野州大桑村に逗留の時、給仕に出(で)たる十五歳になる小童(しやうどう)の鼻より頰へかけてかぎ疵有(あり)、鎌鼬に似たる疵也(や)と問ふに、果して鎌鼬の疵也と云。童(わらは)の兩親、側(かたはら)に居て咄せしは、五歳の時、向(むかひ)の山へ子供どち遊びに行(ゆき)て轉びたるに、此の如き所、鎌かけ申候。小鎌(こかま)ながら子供の事故、其時は顏一面に疵と成り、鼻突拔(つきぬ)け、穴明(あなあき)て、頭中(かしらうち)悉く見え、甚(はなはだ)恐敷(おそろしき)ものに候ひしが、癒るに隨ひて、肉(にく)癒合(いえあひ)、穴埋(うづま)り、頭中も見えぬ樣に成(なり)しと云(いへ)り。是は轉びてかけられたる故也。大井川にて天窓(あたま)をかけられたるも轉びしゆゑなり。【此事、末に言。】
[やぶちゃん注:真相は違うんじゃないかい? 一緒に行った子供らが怪しい気が私はするね。]
予が聞及びしは、多く素足の者なり。荷ひ物抔する者に多し。侍を懸しと云ふを聞かず。袴など身に纏(まとひ)たるは切(きり)がたきか。夫(それ)も構はず切割(きりわる)か。魔障の類(たぐひ)に至りては、人智の及ばぬ事をなすもの也。去(さり)ながら、多くは、か樣のものは、刀劍には恐るゝものなり。夫も利刀(りとう)有(あり)、鈍刀(どんとう)あり。甚敷(はなはだしき)に至りては竹刀(しない)・木刀有(あり)。侍なればとて侍の德を備(そなへ)ぬ人も有(ある)べし。猶考べき事なり。廣大和本草にも、貴人士君子ヲ傷ルコトアタハズ、皆、匹夫奴隷ヲ傷ルモノナリ、是又奇トスべシ、と有(あり)。
[やぶちゃん注:「廣大和本草」(こうやまとほんざう)は本草学家直海元周の著。宝暦五(一七五五)年刊。彼は儒家で知られた本草学者でもあった松岡恕庵(寛文八(一六六八)年~ 延享三(一七四六)年)で、本居宣長とも接触があったが、人物も書籍も非常に評判のよくない人物である(こちらの個人サイト内の宣長の年譜の宝暦五年九月十三日の条を参照されたい)。同書は国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で全巻を視認出来るが、人柄を知ってしまっては、調べる気も起こらなくなった。悪しからず。
武士が鎌鼬に遭わないなどといのは、ますます以っておかしいじゃあないか! 私が中学時代に見た被害者の脇には、呆然とした同級生のとある秀才が立っていたのを思い出すんだよ。そうして盛んに「鎌鼬だ! 鎌鼬なんだ!」と教師が異様に怒るように叫んでいたんだよ。]
土俗多くは、此もの、旋(つじ)風に乘じて飛行(ひぎやう)すと云傳(いひつたふ)るなり。名古屋にては旋風(つじかぜ)の中に旋(つじ)と云(いふ)怪物有(あり)て、人に觸れば切るゝと云て、鎌鼬の方言、尾州にては旋(つむじ)ともいへども、名古屋は平穩の土地故か、懸られしと云ふ人を聞かず。
尾州石田村にてかけたるは、旋風(つむじかぜ)吹來(ふききた)りし時、馬士(まご)、急ぎ、馬の頭(かしら)に着ものを打(うち)かけしのぎたるに、馬士の顏と馬の尻と二ケ所までかけて行(ゆき)たり。是は珍敷(めづらしき)所をかけたり。風に乘(じやう)ぜし故にや。此馬士の旋風を恐れて馬の頭を塞ぎしは、ギバのかける事を恐れてせし事なり。ギバの事は壹の卷に記し置たり。ギバも旋風に乘じて、馬の鼻より入ると云傳(いひつたふ)る故也。
[やぶちゃん注:「尾州石田村」複数あるので特定不能。
「ギバの事は壹の卷に記し置たり」「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」を参照のこと。]
此怪物、彼(かの)旋風(つむじかぜ)の渦卷(うづまく)所を好み、駈入(かけいり)て飛行(ひぎゃう)するか。大塚護持院の門前にてかけられしと云(いふ)前栽物賣(せんざいものうり)は、旋風吹來りて後、鎌疵、額に出來(でき)しとの事を聞(きき)ぬ。されども、此怪の多き所にては、尤、旋風の論なく[やぶちゃん注:つむじ風の発生の有る無しを問わず。]疵出來る事也。大桑村などの如し。
[やぶちゃん注:「大塚護持院」現在の東京都文京区大塚にある真言宗神齢山悉地院大聖護国寺(通称・護国寺)の東に隣接してあり、護国寺と一体のものとして存在した護持院(筑波山大御堂の別院)。新義真言宗で最も格式の高い寺院であったが、明治時代に護国寺に合併した。
「前栽物賣」庭の植え込みなどに用いる植え木(或いはその幼木)を売る露店商であろう。]
此怪物、在所(ありどころ)知れ難しと雖も、第一、山川に多し。東海道にては箱根・薩埵(さつた)[やぶちゃん注:現在の静岡県静岡市清水区にある薩埵峠(さったとうげ)。東海道五十三次では由比宿と興津宿の間に位置し、山が直ちに駿河湾に迫っており、箱根に次ぐ東海道の難所とされた。ここ(グーグル・マップ・データ)。]などの山路に常々有事なり。薩埵は興津川續き故、別(べつし)て多し。天龍川・富士川・大井川・金谷・佐夜の中山など、甚多き所と心得、僅一度の旅行にも隨分用心すべき事也。江戶も元は平山(ひらやま)[やぶちゃん注:平野が主体で山があっても低い丘陵程度であることを謂うのであろう。]との事、住能(すみよき)所ゆゑか、時々有(ある)事なれども、人數(にんず)多く、殊に廣き所故、夫程に人にも申傳へず。名古屋にては絶(たえ)て聞及(ききおよ)ばず。宮(みや)[やぶちゃん注:熱田宿。私の妻の実家が近いので、以下の地名は自明につき、注は附さない。悪しからず。]と鳴海(なるみ)の間、笠寺邊(あたり)にて、かけられて死たりと云ふを聞たり。これは天白川(てんぱくがは)など云(いふ)山川(さんせん)の末(すゑ)もあり。此先(このさき)、鳴海の東、桶狹間などいふ邊は如何にも居(ゐ)そふ成(なる)所也。却(かへつ)て淺き山にも多く居る也。【木曾深山などは如何にや、是等の事に志深く成て後、久々旅行もせず、仍(よつて)、探索せざりし。惣躰(さうたい)か樣な事は中々人傳(ひとづて)にて聞(きき)ては違(たが)ふなり、自身に探索せねば分らざるなり、廣大和本草には、近時には木曾山中にもありと云々。】名古屋のことき平穩なる所にては先(まづ)はなき事なり。諸國の人に尋(たづね)ても、多くは心なく知らぬ人多し。予、文政六年[やぶちゃん注:一八二三年]、野州大桑村に【日光の三里傍(かたはら)】暫(しばし)逗留せし時、此地は鎌鼬多き土地ならんと尋(たづぬ)るに、澤山にもなく候へども、村中にては、年々一人か二人はかけらるゝと云て不審とせず。【此大桑村はわづか八十軒餘の小村なり。此地は日光山の山續きながら、いかにも小(ちさ)き岡山の麓なれど、其山のすそに、日光山の奥栗山と云より出(いづ)る大河有(あり)、絹川の上也、又こなたの方には日光山より流れ出る大谷川(おほたにがは)有ㇾ之(これあり)、山川に挾(はさま)りたる所なり、夫(それ)故、澤山にある土地なり。】夫(それ)より歸路に宇都宮に宿りぬ。【此地は山遠(とほく)して畑多く平原の野地(のぢ)なり。】旅宿の主(あるじ)等(ら)呼出(よびいだ)して、鎌鼬の事を懇(ねんごろ)に尋(たづぬ)るに、左樣の儀は一向存(ぞんじ)奉らずと云。予、日光邊(あたり)にては有(ある)事也。僅(わづか)十里の違ひなり。聞及(ききおよ)ばすやと問ふに、成程、日光邊にては左樣の事も有樣(あるやう)に承りたることも御座候へども、虛實、一向慥(たしか)ならざる事と存奉り候と云へり。
[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]
是皆、夫地氣候の然らしむる所、人智も又此(かく)の如きか。我(わが)耳目に見聞(みきき)せぬ事は、知ぬ人多き物也。況(いはんや)、幽明三世一貫の理(ことわり)は會得せぬ人の多きも理也。大桑村の土民は、此怪は、世界中に常々有(ある)事と心得居(をり)、不思議を見て不思議とせず。宇都宮のものは、か樣の怪は世界になきことと思ひ居(をり)て、怪事を聞(きき)ても却(かへつ)て怪とせず。井中の蛙(かはづ)の俗諺(ぞくげん)、實(げ)にうべ成哉(なるかな)。
元、尾州七里の者【七里の者と云は、東海道筋宿々(しゆくしゆく)に在住して、御屋形(おやかた)の御用飛脚。荷宰領などつかさどる者也。[やぶちゃん注:「七里」は「七里繼宿(しちりつぎやど)」で、尾張・紀伊の徳川家などの大名が、東海道筋七里ごとに役所を置いて、江戸と国元との急な連絡に備えた七里役所のことであろう。この「御屋形」もその尾張藩及び主家大名家を指すと考える。]】を勤(つとめ)し水野何某と云もの島田宿の在役中に、大井川に出(いで)て、御用荷を才領[やぶちゃん注:底本は「才」の右に訂正注で『(宰)』とする。]する折節、見付宿[やぶちゃん注:東海道五十三次の二十八番目の宿場である見附宿現在の静岡県磐田市中心部に当たる。天竜川の左岸であったが、ここの叙述とは違い、ウィキの「見附宿」によれば、『大井川と違って水深があったため』、『主に船が使われており、大井川ほどの難所ではなかった』とあり、以下の叙述からは、やや不審ではある。宿の位置からして、渡しはこの附近(グーグル・マップ・データ)かと思われる。]の輕き者、身延山へ拔參(ぬけまゐ)りするとて、渡し場へ來り、報謝越(ほうしやごえ)[やぶちゃん注:信仰目的の旅行者が川越えなどをする場合、渡守や人夫が施しの意味で無料で渡したことを指す。]を賴むゆゑ、こなたより向(むかふ)へ荷物をのせ行(ゆき)し明(あき)手の川越(かはごえ)[やぶちゃん注:渡した後に手ぶらで対岸に戻るはずの渡し人夫のこと。]、返り懸(がけ)に、大勢にて、彼(かの)者一人を直(ぢき)に其連臺(れんだい)[やぶちゃん注:人夫による川越えの際に旅客を乗せる平たい台。附図の右端の岸にある物や、川中の駕籠を載せているもの。通常は人夫四人で担いだ。]にのせて渡しゝが、無賃なれば、大事に扱ふ事なく、みなみな立(たち)ながら、肩より連臺を捨(すつ)る如く、其儘、地に下し置(おき)て散去(ちりうせ)りぬ。此響きに、彼(かの)者仰向(あふむけ)に倒れて、良(やや)暫くして漸(やつ)と起上(おきあが)りたるとき、面躰(めんてい)を見るに、一面に血流れたり。頭(かしら)を怪我したる事と驚き、人々寄來り、笠を取(とり)て見るに、月代(さかやき)[やぶちゃん注:成人男子が額から頭の中ほどにかけて髪を剃った部分。武士階級だけでなく、庶民の間にも広く見られた。]より髮の中(なか)懸(かかけ)て、六七寸程の鎌疵出來(でき)たり。血の出る事、誠に夥敷(おびただしき)ゆゑ、怪我をさせしかと、川越(かはごえ)共(ども)も驚(おどろき)てかけ集りたれ共、皆々、鎌鼬鎌鼬とて立去(たちさ)り、一向驚かざりしとぞ。【海道にては鎌と通言(つうげん)して鎌鼬とはいはず。】。是(ここ)に甚(はなはだ)奇成(きなる)事の有(あり)しは、此者、菅笠を冠り居(ゐ)たるに、笠にも笠當(かさあて)[やぶちゃん注:被り笠の内側の頭に当たる所に附ける小さな布団状の装具。]にも例の疵付(つか)ず。頭中(ずちう)に斗(ばか)り大疵出來たり。右何某、眼前に是を見居たり迚(とて)、具(つぶさ)に語りたり。是を以て見る時は、風氣(ふうき)の魔物にして、形ちなき物のやうにも思はる。
[やぶちゃん注:「拔參り」底本の注に、『主人や父母の許可を』得ずに、『神仏参詣の旅に出ること』を指す。『本来は、伊勢参りを意味したが、のちには、他の神仏の場合にも称されるようになった。正規の関所手形などは持たないが、信仰による旅行として』、大抵は『大目に』見られた、とある。
以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]
又、行膝(はゞき)を懸(かけ)て居たる者、その行膝の下をかけられて疵付(きづつき)たるに、はゞきには聊のさはりもなかりし事も有(あり)と聞けり。此菅笠に疵の付(つか)ざると全(マツ卓)同日(どうじつ)[やぶちゃん注:同様。]の談なり。
[やぶちゃん注:「行膝(はゞき)」通常は「脛巾」「行纏」等と書いた。「脛穿(はぎはき)」の転とされ、幅布を脛(すね)に巻き付けて紐で結び、脚を保護しすると同時に、歩行時の動作をし易くするための固定保護パットとして用いたもので、後世の脚絆(きゃはん)や近代のゲートルに相当する。]
此怪物、水中にも住ものと見えたり。四谷御門内にての事なりしが、凹成(なかくぼ)所[やぶちゃん注:平地でありながら妙に窪んだ箇所。]有(あり)て、雨上りに溜り水せし故、子供集り、水中を渡りて遊び居たるに、坊主なりし丹羽一德と云ふもの、いまだ幼少にて十歲斗りの節、右溜り水の中にて、此鎌にかけられたり。又、予が知る人、松井又市と云【御家人の隱居なり、麻布古川に居(をり)し時の事也。】の悴(せがれ)十八歳の時、魦(はや)をすくふとて近邊の川を渡り、水中にて、足の裏より甲をかけて懸られしが、対遂に此疵が基と成(なり)て身まかりしとなり。
[やぶちゃん注:「魦(はや)」ハヤ(「鮠」「鯈」などが漢字表記では一般的)は本邦産のコイ科(条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科 Cyprinida)の淡水魚の中でも、中型で細長い体型を持つ種群の総称。釣り用語や各地での方言呼称に見られ、「ハエ」「ハヨ」などとも呼ばれる。呼称は動きが速いことに由来するともされ、主な種としてはウグイ(コイ科ウグイ亜科ウグイ属ウグイ Tribolodon hakonensis)・アブラハヤ(ウグイ亜科アブラハヤ属アムールミノー亜種アブラハヤ Rhynchocypris logowskii steindachneri)・タカハヤ(アブラハヤ属チャイニーズミノー亜種タカハヤ Rhynchocypris oxycephalus jouyi)・オイカワ(コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属オイカワ Opsariichthys platypus)・ヌマムツ(コイ科 Oxygastrinae亜科カワムツ属ヌマムツ Nipponocypris sieboldii)・カワムツ(カワムツ属カワムツ Nipponocypris temminckii)などが挙げられる(以上はウィキの「ハヤ」他に拠った)。
以下、一段落は底本では全体が二字下げ。]
鎌鼬に懸られたる咄は、數十人聞(きき)たり。此疵にて死たりと云ふは、前に云(いふ)、笠寺にて懸たるのと、此又市の悴と兩人のみ也。疵は大くとも、まづは死(しな)ぬものなりとぞ。
[やぶちゃん注:死亡した二例は、その傷から侵入した細菌やウィルスによる、何らかの重篤な感染症が深く疑われる。]
又、此怪物、緣上(えんうへ)へも上(のぼ)るものと見え、過(すぎ)し頃、江戶四谷鮫ケ橋の裏店(うらだな)の者の妻、家の内、塵の上に居(ゐ)て、鎌鼬出來、久々難儀せしといふ事、慥に聞たり。又、四谷の天王橫町にては、婦人、便所にて尻をまくりしやがむ【蟄(ちつ)する事なり[やぶちゃん注:こんな割注をするということは「しやがむ」という語が尾張では通じないことを指すか?]】所をかけたり。又、牛込榎町御先手組にては、はきものをはくとて、床上(ゆかうへ)より足を出(いだ)すを、緣の下の方よりかけたり。此餘(このよ)、猶、珍敷(めづらしく)かけられたるも種々是(これ)有(ある)べし。
凡(およそ)、此類の怪を避(さく)るには、五嶽の靈符[やぶちゃん注:中国の古来の霊山信仰に因む、道教的な五山、泰山・恆山・崋山・嵩(すう)山・衡(こう)山の咒符(じゅふ)か。]など、功驗新なるべし。九字十字護身法なども然るべきか。猶、密家[やぶちゃん注:真言宗や天台宗の密教。]には祕法種々有べく、呉々も眼前に奇を顯す不思議成(なる)怪物也。又、伽婢子(ぼうこ)續篇に、關八州の間に鎌鼬とて怪敷(あやしき)事侍り。旋風吹興りて、通行人の身にもの荒く當れば、股のあたり、たてざまにさけて、髮そりにて切(きり)たる如く口ひらけ、しかも痛み甚敷(はなはだしく)もなし。又、血は少しも出でず。女※草(じよすいさう)をもみてつけぬれば一夜の内になほると云[やぶちゃん注:「※」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」、その右に「生」を配した字。後の注で引いた原文の字とは微妙に違う。「女※草(じよすいさう)」そのものは不詳。]。
何ものゝ業(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風の荒く吹(ふき)て當ると覺えて此(この)憂(うれひ)有(あり)。夫(それ)も名字(みやうじ)正敷(ただしき)侍(さむらひ)にはあらず。唯、俗姓(ぞくせい)賤(いやし)きものは、たとひ富貴(ふうき)なるも、是(これ)に當らると云(いへ)りと見えたり。大凡(おほよそ)、此書に有(ある)ごとくなれど、疵はたてざまに裂(さく)るに非ず。曲尺(かねじやく)なりになる也。昔は關東のみの事成(なり)し歟(か)。今は關東にも限らぬ事と覺ゆ。中國・西國筋は如何(いかん)。探り置度(おきたく)思ふのみ。
[やぶちゃん注:「九字十字護身法」「九字護身法」(くじごしんぼう)は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前」の九つの文字から成る真言によって邪気を払う所作。九字の意味は「臨める兵、闘う者、皆陣を張り、列を成して、前に在り。」とする。元は道教を起源とするが、本邦では真言密教の印と結びついたものがよく知られる。「十字護身法」は先の九字の頭に一字を加えたもので、効果を一つのことに絞り込んで強化することを目的とするとされ、何に集中させるかによって加えられる一字が異なるという。加える一字としては、「命・水・行・天・鬼・大」などが知られているとネット上の記載にはあった。
「伽婢子」のそれは「五 鎌鼬(かまいたち) 付(つけたり) 提馬風(だいばかぜ)」である。岩波新古典文学大系本を元に、恣意的に正字化して示す。読みは一部に限った。
*
關八州のあひだに鎌いたちとて、あやしき事侍べり。旋風吹おこりて道行人(みちゆきびと)の身にものあらくあたれば、股(もゝ)のあたり竪(たて)さまにさけて剃刀(かみそり)にて切たるごとく口ひらけ、しかもいたみはなはだしくもなし。又血はすこしも出ず、女※草(ぢよすいさう)をもみてつけぬれば、一夜のうちにいゆるといふ[やぶちゃん注:「※」=(くさかんむり)に(下部左)に「豕」で(その最終画を右に伸ばし)、その上((くさかんむり)の右下上部)に「生」を配した字。但し、底本脚注そのものに「女※草(ぢよすいさう)」そのものを不詳とする。]。なにものゝ所爲(わざ)ともしりがたし。たゞ旋風(つじかぜ)のあらく吹てあたるとおぼえて、此うれへあり。それも名字正しき侍にはあたらず。たゞ俗姓(ぞくしやう)いやしきものは、たとひ富貴(ふうき)なるもこれにあてらるといへり。
尾濃駿遠三州(びでうすんえんさんしう)のあひだに、提馬(だいば)風とてこれあり。里人あるひは馬にのり、あるひは馬を引てゆくに、旋風おこりて、すなをまきこめまろくなりて、馬の前にたちめぐり、くるまのわの轉ずるがどとし。漸(ぜんぜん)にその旋風おほきになり、馬の上にめぐれば、馬のたてがみすくすくとたつて、そのたてがみの中にほそき糸のごとく、いろあかきひかりさしこみ、馬しきりにさほだち、いばひ鳴(いなゝき)てうちたをれ死す。風そのときちりうせてあとなし。いかなるものゝわざとも知人なし。もしつぢかぜ馬の上におほふときに刀をぬきて、馬の上をはらひ光明眞言(くはうみやうしんごん)を誦(じゆ)すれば其風ちりうせて馬もつゝがなし。提馬風と號すといへり。
*]
又、南谿が北窓瑣談に、佐渡の國に、かまいたちに懸らるゝといふ事ありて、其(その)氣の中(あた)る所、大いにきれて傷(やぶ)る。此時に、金瘡(きんそう)の如く縫(ぬひ)、亦は膏藥など付(つく)れば、皆悉く死するなり。只、石菖根(せきしやうこん)一味、煎じて洗ふべしとなり。又、其まゝに捨置(すておく)時は數日(すじつ)にして愈(いゆ)[やぶちゃん注:底本では右に『(癒)』と訂正注がある。]るとぞ。佐渡の外科(げくわ)[やぶちゃん注:外科医。江戸時代は比較的、「がいりやう」と読むことの方が多いように思われるが、原典(後掲)に従った。]、本多勇伯、余に語り侍りしと云々。【前に云(いふ)松井又市の悴は、若(も)し膏藥抔を付(つけ)て死にたるのにはなかりしか、聞置(ききおか)ずして殘念也。】
[やぶちゃん注:「石菖根」単子葉植物綱ショウブ目ショウブ科ショウブ属セキショウ Acorus gramineus の根茎。漢方で神経痛や痛風の治療に使用される。
以上の「北窓瑣談」のそれは「卷之三」の以下。吉川弘文館随筆大成版を参考に、漢字を恣意的に正字化して示す。柱の「一」は除去した。踊り字「〲」は正字化した。「愈」はママ。これによって想山が如何に正確に引用しているかが判る。
*
佐渡の國に、かまいたちにかけらるゝといふ事ありて、其氣の中るところ、大にきれて傷(やぶ)る。此時に金瘡(きんそう)の如く縫(ぬひ)、亦は膏藥など付れば、皆ことごく死するなり。只石菖根(せきしやうこん)一味(いちみ)煎じて洗ふべしとなり。又其まゝに捨をく時は、數日にして愈るとぞ。佐渡の外科(げくわ)本多勇伯余(ほんだゆうはく)に語り侍りし。
*
なお、「佐渡怪談藻鹽草 安田何某廣言して突倒されし事」には、厚手の着衣が裏表中綿まで完全にすっぱりと切れてありながら、身体は全く切れていない(ということが逆に怪異である)という特殊な鎌鼬様のケースが記されてある。是非、参照されたい。
以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]
右を以て見る時は、佐渡ならではなき樣に見ゆれども、左にあらず。前に記する如く、諸國に有(ある)事也。
此怪物、漢土にも有(ある)歟(か)。又、漢名、如何成(いかなる)ものにやと、醫學家博識家等に尋れども、慥ならざりしに、此程、ふと本草綱目啓蒙の虫の部に、溪鬼虫(けいきちう)と云(いふ)を見當(みあた)りたり。是、鎌鼬の類と見えたり。漢名もいくらも附してあり。その譯の所は全く鎌鼬の事なり。
[やぶちゃん注:以上の段落中の「虫」はママ。但し、原典(「本草綱目啓蒙」)では「蟲部」である。
「本草綱目啓蒙」本草学者の大家小野蘭山の「本草綱目」についての口授「本草紀聞」を孫と門人が整理した江戸後期の本草学研究書。全四十八巻。享和三(一八〇三)年刊。引用に自説を加え、しかも方言名等までも記してある。以下の「溪鬼蟲」は「卷之三十八蟲部 蟲之四 濕生類二十三種附錄七種」に掲げられている。今回は、以下の想山のそれと、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから始まる重訂版の画像を視認して校合しておいた。なお、同原典には読みは殆んど示されていない。( )の読みは今までのそれと同じく私の推定である。なお、重訂版では冒頭の目録には「溪鬼蟲」の下に割注で「水虎」とあるが、これは本文の附録で河童のことである。]
本草綱目啓蒙虫部(むしのぶ)に云く、
溪鬼蟲(けいきちう)
[やぶちゃん注:以下の部分(「本草綱目啓蒙」の「溪鬼蟲」の本文部分)は底本では全体が二字下げである。]
詳(つまびらか)ナラズ
一名射工蟲【抱朴子】 沙蝨(さしつ)【事物異名】 沙虎 溪弩【共(ともに)同上】
溪毒【典籍便覽通雅】 蜮魚(よくぎよ)【南寧府志】 石鏡【剪燈新話】
越後高田海遽ニテ、行人、曲阿(あづまや)ノ處ヲ過(すぐ)ルニ、忽チ砂高ク吹上リテ、下ヨリ氣(き)出(いづ)ルガ如ク覺ユレバ、ソノ人、コレニ射ラレテ卒倒シ、省(かへらザルコト[やぶちゃん注:ここは正気の戻らないの意。])傷寒[やぶちゃん注:熱病や腸チフスの類を指す。]ノ如シ、然(しかれ)ドモ、ミナ服藥シテ治ス[やぶちゃん注:「重訂版」ではここに『死ニ至ル者アラズ或ハ過酒酩酊シテ治ス』とある。]【同國鴨田郡】病人ノ身ニ、必、偃月(えんげつ)[やぶちゃん注:半月。]形ノ傷アリ、故ニカマキリムシ【高田】ト云(いひ)、或ハ、アカムシ【鴨田郡】。ト云、或ハ、スナイタト云フ、然レドモソノ蟲ノ形狀ハ詳ナラズ、從來、言傳(いひつた)フル越後七奇中ノカマイタチモ皆同事(おなじこと)ナリ、此事、越州ニ限ラズ、他國ニモアリ、是皆、溪鬼蟲ノ屬ナリ、正字通ニ、葛洪所ㇾ謂溪毒似二射工一而無ㇾ物者卽蜮類也ト云ヘリ。
[やぶちゃん注:各種の書名解説は煩瑣になるばかりなので省略する。以下、同断。
「鴨田郡」不詳。不審。蒲原郡の誤りではなかろうか?
最後の漢文は訓読しておく。
*
葛洪(かつこう)が謂ふ所の「溪毒」は「射工」に似て、物、無きは、卽ち、蜮(よく)類なり。
*
これは、
*
葛洪(二八三年~三四三年:西晋・東晋時代の道教研究家で、かの知られた神仙伝「抱朴子」の作者)が「抱朴子」の中で語っている「溪毒」は、同じ書で語っている「射工虫」に似ていて、姿・形が見えないという属性に於いて、まさしく「蜮」の仲間である。
*
という意味であろう。「蜮」は水中に住んでおり、人に危害を加えるとされた伝説上の怪物鬼蜮(きよく)であるが、寺島良安の「和漢三才圖會」(卷第五十四 濕生類)の「蜮(さごむし)」を読むと、この虫に射られた(と表現している)者は直ちに治療(蝸牛を口中に含むとある)しないと死に到るとあって、どうも鎌鼬らしくない。なお、「抱朴子」の原文を中文サイトで確認してみたが、「溪毒」は「射工蟲」は「抱朴子」の全く別々な箇所に記されてあり、関連性は一切述べられていない。「正字通」は明末の張自烈によって編纂された漢字字典である。]
廣大和本草に、狤𤟎、和名カマイタチ、廣州方物記云、狤𤟎因ㇾ風騰躍甚捷、越ㇾ巖過ㇾ樹如三鳥飛二空中一、人張二銕綱一得ㇾ之、見ㇾ人則如二羞而叩ㇾ頭乞ㇾ憐之態一、人撾二擊之一倐然死矣、以ㇾ口向風ㇾ須臾復活、惟碎二其骨一破二其腦一、不ㇾ死、一云、刀斫不ㇾ入、火焚不ㇾ焦、打ㇾ之如二皮囊一、雖下銃擊二其頭一破上得ㇾ風起、惟石菖蒲塞二其鼻一卽死再不ㇾ活、嶺南人呼曰二風狸一、卽此獸也と見ゆ。此事は三才圖會にも有(あり)。然(しかれ)ども、予思ふに、風狸は狀(かた)ち有(ある)獸(けもの)と見えたれども、鎌鼬は前に云ひ置(おき)たる通り、誰も狀ちを見しものなければ、同類異種かとも思はる。同書に、本邦ニテハ能州ニ多シ、民家、夜庭シテ居ル所へ、イヅクトモナク此獸飛來(とびきた)リテ、人ヲ傷(きずつく)ル事多シ、其疵口、刀ニテソギタルガ如シ、石菖蒲(せきしやうぶ)ニテ急(すみやか)ニ洗ヒ、又ハ煎湯(いりゆ)中(うち)ニモ石菖蒲ヲ加へ用ユ。又、石菖蒲一味ノ煎湯(いりゆ)モ佳ナリ。又、舊曆(ふるこよみ)ヲ黑燒ニシテ付(つく)ルモ佳ナリ。早ク治(ち)セザレバ、癩疾(らいしつ)ノ如クニ爛(ただ)レルナリとも云(いへ)り。石菖蒲と舊曆(ふるこよみ)の黑燒が藥と見えたり。
[やぶちゃん注:「廣大和本草」の漢文を自然流で訓読しておく。句読点には従っていない。一部は意味が半可通なので、返り点位置を変更して読んだ(「以ㇾ口向風ㇾ須臾復活」のところ)。大方の御叱正を俟つ。
*
狤𤟎(きつくつ)、和名「カマイタチ」、「廣州方物記」に云く、狤𤟎、風に因りて騰(のぼ)り躍(おど)り、甚だ捷(ずばや)く、巖(いはほ)を越え、樹(き)を過ぐし、鳥の空中を飛ぶがごとし。人、銕(てつ)の綱を張りて之れを得(う)。人を見れば、則ち、如二羞(は)ぢて、頭を叩(たた)きて憐みを乞ふ態のごとくするも、人、之れを撾擊(かげき)すれば[やぶちゃん注:打てば。]倐然(しゆくぜん)[やぶちゃん注:たちまちにして。]死すれども、口を以つて風に向かへば、須臾(しゆゆ)にして復活す。惟だに其の骨を碎き、其の腦を破れども、死なず。一(いつ)に云ふ、刀斫(たうせき)[やぶちゃん注:刀や斧。]も入らず、火にて焚(や)くも焦げず、之れを打つも皮囊のごとくして、其の頭を銃擊して破ると雖も、風を得て起く。惟だ、石菖蒲(いししやうぶ)にて、其の鼻を塞げば、卽ち、死して再びは活(い)きず。嶺南人、呼びて風狸(ふうり)と曰ふは、卽ち、此の獸なり。
*]
又、康熙字典に水經注、永昌郡北山水傍瘴氣殊惡、氣中有ㇾ物、不ㇾ見二其形一、其作有ㇾ聲、中ㇾ木則折、中ㇾ人則害、名曰二鬼彈一と見えたり。此鬼彈の形容、日本の鎌鼬に似たり。參考の爲に抄出せり。
[やぶちゃん注:漢文部分を同じく自然流で書き下す。
*
「水經注」に、『永昌郡北山の水の傍ら、瘴氣、殊に惡(あ)し。氣中に、物、有るも、其の形は見えず、其れ、作るに、聲、有りて、木に中(あた)れば、木、則ち、折れ、人に中れば、人、則ち、害せらる。名づけて「鬼彈(きだん)」と曰ふ。』と。
*
ここに出る「永昌郡」は後漢時代の雲南省西部にあった郡で、郡庁は現在の雲南省保山市にあった。古くより、ビルマへのルートの要地として知られる。ここ(グーグル・マップ・データ)。また「鬼彈」は「搜神記」の「第十二卷」にほぼ同内容で出る。以下に中文サイトのものを加工して示す。
*
漢、永昌郡不違縣、有禁水、水有毒氣、唯十一月、十二月差可渡渉、自正月至十月不可渡、渡輒病殺人、其氣中有惡物、不見其形、其似有聲。如有所投擊內中木、則折、中人、則害。士俗號爲「鬼彈。」。故郡有罪人、徙之禁防、不過十日、皆、死。
*
しかしこの「鬼彈」、目に見えない点では共通するものの、致命的な損傷を人に加えるから、どうも鎌鼬と同類とは思われない。ロケーションと木や人を簡単に折ってしまうという状況から見て、私は実は、人の捕食例もある、有鱗目ヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ亜種ビルマニシキヘビ Python molurus bivittatus ではあるまいかと疑っている(本種は最大亜種で最大長は八メートル超の個体が確認されている)。]
鎌鼬は越後七不思議の一にして、北越奇談・東遊記などにもしるしつれども、密ならず。右國にても、古曆を黑燒にして、さゆ[やぶちゃん注:白湯。]にて用(もちふ)る事にて、數日(すじつ)の間に愈(いゆ)ると也。越後には別(べつし)て多き事としられたり。
又、飮膳摘要に、鎌鼬の疵には、大根の絞り汁をつけてよしと云ふ。
[やぶちゃん注:「越後七不思議」各種(総数四十余り)の名数があるが、「鎌鼬」が数えられているもので知られているのは、私の愛読する、越後国の文人画家橘崑崙(たちばなこんろん 宝暦一一(一七六一)年~?(文政二(一八一九)年には存命))の筆になる「北越奇談」の「俗説十有(ゆう)七奇(しちき)」(十七不思議)があり、彼はさらにこの十七種から「新撰七奇」として「燃土(もゆるつち)」(長い年月で形成された腐葉土のようである)「燃水(もゆるみづ)」(「臭水(くさみづ)」で石油)「胴鳴(ほらなり)」(秋の晴天に鳴る雷鳴でこれが鳴るのは風雨の予兆とする)。「無縫塔」(僧籍の者の墓である卵塔であるが、ここのそれは、とある淵から自然とその石が出現するという奇談である)「石鏃(せきぞく)」(橘の附図を見ると、所謂、出土した古代の鏃(やじり)や磨石斧・石棒である)「鎌鼬」「火井(くはせい)」(天然ガス)の七つを選んでいる。『柴田宵曲 續妖異博物館 「鎌鼬」』(未読の方はこれと併せて読まれることを強くお勧めする)の私の注で、その「鎌鼬」の部を引いているので参照されたい。
以下、最後まで、底本では全体が二字下げである。]
武藏の國荏原(えばら)郡北澤村森嚴寺(しんがんじ)可雲上人、此書を閲(けみ)して曰く、下男熊藏は【生國越後の國長岡邊の者也。】今嘉永元申年六月七日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八四八年七月七日。]、庭前の池の藻を苅らせけるに、極(きはめ)て深き所へ潛り入(いり)、根引にせん迚、池に入しに、忽ち右の足の向ふ臑を三寸斗、橫にきられたり。暫時、血も出ず痛みもなく、小兒の口あきたる如き疵故、兼て越後者にて、鎌鼬と知(しり)て驚きもせず。又、飛入(とびいり)て藻を苅盡(かりつく)し、再び水より上りし時は、血も出(いで)、痛みも甚敷(はなはだしく)成(なり)たる由なれ共、其儘、外の用辨致し居しが、七月十日に其疵口を見るに、最早、大半癒(いえ)たり。今(いま)予、眼前に此事を見て、此書の說どもの誤らざる事を證すと語らる。よつてかき添置(そへおき)ぬ。
[やぶちゃん注:「武藏の國荏原郡北澤村」現在の東京都世田谷区北東部に位置する、知られた下北沢や上北沢・代沢の周辺に相当する。
「森嚴寺」東京都世田谷区代沢に現存する浄土宗八幡山森厳寺。]
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