真に「絶対の孤独」と言い得るものは、私は中島敦の「山月記」の虎に変じてしまった李徴が漸近線的に人間の心を失ってゆく過程以外には当て嵌まるものはないと考えている(事実、私は三十三年間の国語教師時代、黒板に「絶対の孤独」と自信を持って板書したのは「山月記」の授業中だけであった)。李徴が言うように、虎に成り切ってしまえば、そこに「絶対の孤独」は無くなる。閉じられた単独の「系」の中では「孤独」は存在し得ない。その無効化を齎してくれるのは実は我々の「死」でもある。有象無象の詩人よろしく「絶対の孤独」《感》を殊更に表明する輩は、その実、誰かに救いを求めている惨めな似非孤独者に過ぎない。
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