甲子夜話卷之三 26 摩多羅神のこと幷松前氏神祖を奉崇の事
3-26 摩多羅神のこと幷松前氏神祖を奉崇の事
一兩年前か、下谷新寺町なる松前氏の邸の邊を、月夜にとほりたる人【其名今忘】の見たると聞しは、夜半過、八頃とも覺しきに、彼邸の屋上に、棟に跨り居る人あり。怪み見れば烏帽子を戴き淨衣を著て、風詠して居たり。月いと晴たれば能見へたるとなり。其後も度々この如き人の、彼屋上に居たるを見しと云しことは聞たり。然を去年冬、松前の舊領蝦夷迄を、官より返し給りける。因て人言へるは、此怪と見しは摩多羅神の現ぜしなるべし。其故は、この神は神祖殊に御信仰の神にして、其像の所傳有るもの、淨衣烏帽子の體なり。又奈何にして彼の邸に出現せしと云に、松前氏先領御取上の後、悉く神祖の御重跡を崇敬して、代參遙拜怠なかりし。其御祐にや、本領に復せり。因て彼の異形の者は、神祖常に奉崇せられし、摩多羅神の出現して、加護ありしならん抔云ふ。近頃又聞。船橋に鎭坐ある神祖の御宮に、二百石の知行を永代寄附せしと云ふ。又奇異符合の談もある也【文政壬午春記】。
■やぶちゃんの呟き
「摩多羅神」ウィキの「摩多羅神」によれば、「またらじん」あるいは「摩怛利神」と書いて、「またりしん」と読み、『天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。常行三昧堂(常行堂)の』「後戸(うしろど)の神」『として知られる』。「渓嵐拾葉集」(天台僧光宗(建治二(一二七六)年~正平五/貞和六・観応元(一三五〇)年)の仏教書。百十六巻。文保二(一三一八)年序。天台の故事・口伝を集輯し、自己の思想や先輩の諸説を整理したもの)第三十九の『「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている』。『しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流』(日本天台宗における恵心(えしん) 流と檀那 (だんな) 流の二流。良源門下の恵心僧都源信と檀那僧都覚運をそれぞれ祖とする天台教学の流派)『によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇』(げんしきみょうだん:嘗て天台宗に存在した一派で、後に淫祠邪教扱いされて江戸時代には絶滅したとされる)『の成立時と同時期と考えられる』。『この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)の二童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒と煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという』。『江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった』。また、『一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる』。『一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾を被り、服は和風の狩衣姿、左手に鼓、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多のニ童子は、頭に風折烏帽子、右手に笹、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という』。『なお、大黒天と習合し大黒天を本尊とすることもある』。『この神の祭礼としては、京都太秦、広隆寺の牛祭が知られる』とある。
「松前氏」ウィキの「松前藩」によれば、松前藩は渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩で、藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。初代藩主松前慶広(よしひろ)は慶長四(一五九九)年に徳川家康に服し、『蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが』、第五代将軍『徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇にな』り、享保四(一七一九)年からは一万石格の『柳間詰めの大名となった』。しかし、『当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり』、「一万石」とは『後に定められた格に過ぎなかった』。慶長九(一六〇四)年に『家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めてい』る。『松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、ニシンが不漁になったため』、『蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は』天保四(一八三三)年までには人口一万人を超える都市となって繁栄したとある。『藩の直接統治が及ばない蝦夷地では』、寛文九(一六六九)年に『シャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させ』ている。それ以降は林業政策に力を入れ、十八世紀前半から、『松前藩の家臣は交易権を商人に与えて運上金を得るようにな』り、『請け負った商人は、出稼ぎの日本人と現地のアイヌを働かせて漁業に従事させた。これにより松前藩の財政と蝦夷地支配の根幹は、大商人に握られた。商人の経営によって、鰊、鮭、昆布など北方の海産物の生産が大きく拡大し、それ以前からある熊皮、鷹羽などの希少特産物を圧するようになった』。また、漁業では『漁場の拡大に伴い、日本人は東蝦夷地にも入り込んだが、その地のアイヌは自立的で、藩の支配は強くなかった。この頃には蝦夷地全体で商人によるアイヌ使役がしだいに過酷になっていた。東蝦夷では』寛政元(一七八九)年、『請負商人がアイヌ首長を毒殺したとの噂からアイヌが蜂起し、クナシリ・メナシの戦いへと至っ』ている。十八『世紀半ばには、ロシア人が千島を南下してアイヌと接触し、日本との通交を求めた。松前藩はロシア人の存在を秘密にしたものの、ロシアの南下を知った幕府は』、天明五(一七八五)年から『調査の人員をしばしば派遣し』、寛政一一(一七九九)年には遂に『藩主松前章広から蝦夷地の大半を取り上げ』、同年一月十六日に『東蝦夷地の浦川(現在の浦河町)から知床半島までを』七年間に亙って『上知することを決め』、同年八月十二日には『箱館から浦川までを取り上げ』られてしまう。『これらの上知の代わりとして武蔵国埼玉郡に』五千石を『与え、各年に若干の金を給付することとした』が、享和二(一八〇二)年五月二十四日を以って七年間に及ぶ上知の期限を迎えたにも拘らず、『蝦夷地の返還は行われ』ず、そればかりか、文化四(一八〇七)年二月には『西蝦夷地も取り上げられ、陸奥国伊達郡梁川』(現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡)に九千石で転封されてしまう。『なお、この際に藩主であった松前道広が放蕩を咎められて永蟄居を命じられた(一説には密貿易との関係が原因に挙げられているが、当時の記録には道広が遊女を囲ったとする風聞に関する記事が出ており、放蕩説が有力である)』。その後、文政四(一八二一)年十二月七日、幕府の政策転換によって、『蝦夷地一円の支配を戻され、松前に復帰した。これと同時に松前藩は北方警備の役割を担わされることにもなった』とある(下線太字はやぶちゃん)。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年であるから、本文のこの奇怪事件の目撃が「一兩年前」(二年前に同じい表現)というのは、時系列では実にしっくりくることが判るのである。
「神祖」徳川家康。
「八頃」「やつごろ」。定時法ならば「丑三つ」の午前二時頃で、怪異出来には御誂え向きの時刻である。
「怠」「おこたり」。幕府の掌返しを恨むことなく、家康を崇敬したということである。
「御祐」「おたすけ」。
「船橋に鎭坐ある神祖の御宮」現在の千葉県船橋市本町にある船橋東照宮か。ウィキの「船橋東照宮」によれば、『現在は小さな祠が残るのみであり、「日本一小さい東照宮」の異名を持つ』。『この東照宮は』慶長一七(一六一二)年に『家康の命を受け、伊奈忠政が建てたとされる』船橋御殿の跡地に船橋大神宮の富氏が貞享年間』(一六八四年~一六八七年)『に建立したものであると言われている』とある。但し、こちらの記載を読むと、かつては生前の家康の鷹狩のための御殿まであったものが、本文記載の当時は荒廃して開墾されてしまい、畑地となっていたとあるから、違うか? 識者の御教授を乞う。現在の船橋駅の北東直近である。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「文政壬午」(みずのえうま)は松前氏の松前復帰の翌文政五(一八二二)年。