柴田宵曲 續妖異博物館 「龍宮類話」(その1)
Ⅲ
龍宮類話
浦嶋太郎の話は、一番早い「浦嶋子傳」を見ても、その次の「續浦嶋子傳記」を見ても、浦嶋は海上に靈龜を釣り、船中に眠る間に靈龜變じて美女となり、蓬萊宮に伴はれることになつてゐる。御伽草子の時代になると、先づ釣り上げた龜を海に放し、翌日小舟にたゞ一人乘つた女房に逢ふ。これが龜の化したものであることは、龍宮城に伴はれて三年を過し、暫しの別れを告げる段になつてわかるのである。小學唱歌で習つたり、お伽噺で讀んだやうに、子供から龜を買ひ取る一條はどれにもない。
[やぶちゃん注:「浦嶋子傳」「うらしまこでん」と一応、読んでおく。柴田は「一番早い」と言っているから、これは浦島伝説の現存する最古の記載である「日本書紀」(舎人親王らの撰により養老四(七二〇)年完成)の「雄略紀」中の雄略天皇二二(四七八)年秋七月の下りである。ウィキの「浦島太郎」によれば、『丹波国餘社郡(現・京都府与謝郡)の住人である浦嶋子は舟に乗って釣りに出たが、捕らえたのは大亀だった。するとこの大亀はたちまち女人に化け、浦嶋子は女人亀に感じるところあってこれを妻としてしまう。そして二人は海中に入って蓬莱山へ赴き、各地を遍歴して仙人たちに会ってまわった。この話は別の巻でも触れられている通りである、と最後に締めくくるが、この別巻がどの書を指しているのかは不明』である。孰れにせよ、「日本書紀」が完成した『頃までには、既にこの浦島の話が諸々の書に収録されていたことが窺い知れる』とあり、「日本書紀」の当該条は以下の下線部。後の下線部の訓読は自己流。
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廿二年春正月己酉朔、以白髮皇子爲皇太子。秋七月、丹波國餘社郡管川人・瑞江浦嶋子、乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是、浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬萊山、歷覩仙衆。語在別卷。
(秋七月、丹波國(たにはのくに)餘社郡(よざのこほり)の管川(つつかは)の人、端江浦嶋(みづのえのうらしま)の子、舟に乘りて釣りす。遂に大龜(おほがめ)を得たり。便(たちま)ちに女(をとめ)と化-爲(な)る。是に、浦嶋の子、感(たけ)りて婦(め)にと爲(な)す。相ひ遂(した)ひて海に入る。蓬萊山(とこよのくに)に到りて、仙-衆(ひじり)を歴(めぐ)り觀る。語(こと)は別の卷に在り。
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「餘社郡」は現在の京都府与謝郡は若狭湾奥西端と丹後半島の先端東部にあるが、「管川(つつかは)」は現在の河川名の「筒川(つつかわ)」と思われ、その川沿いのここ(グーグル・マップ・データ)に「浦嶋神社」(京都府与謝郡伊根町本庄浜)も現認出来る。同神社は創祀年代を天長二(八二五)年七月二十二日とし、「浦嶋子」を「筒川大明神」として祀るのが始めであると伝えられている。主祭神は「浦嶋子(浦島太郎)」である。
「續浦嶋子傳記」「ぞくうらしまこのでんき」と読む。作者不詳。延喜二〇(九二〇)年成立で、浦島伝説を神仙譚風に漢文で記し、後に主人公「浦島子」に代わって詠じた七言二十二韻、浦島子の和歌、絶句各十首に、「亀姫」の和歌・絶句各四首を付す。「丹後国風土記」(これが古浦島伝承では記載が最も詳しい。先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい(但し、中間部が省略されてある)。柴田が記す通りの展開で、海中の「博大の嶋」(龍宮城というより蓬莱山っぽい)へと向かう)「日本書紀」「万葉集」(八世紀半ば以降の成立。「卷九」の「高橋虫麻呂」作の長歌(第一七四〇番歌)に「詠水江浦嶋子一首」として浦島伝説が韻文化されている。やはり先のウィキの「浦島太郎」に引用されていあるので参照されたい)などの浦島伝説を基に、中国の「柳毅伝」・「漁父辞」・「高唐賦」・「洛神賦」「桃花源記」「続斉諧記」中の「劉阮天台」・「遊仙窟」などによる潤色を施したものである(以上は平凡社「マイペディア」に拠る)。
「御伽草子の時代」室町時代に成立した短編物語集「御伽草子」の「浦島太郎」が代表例で、現行の伝説の「亀の報恩」モチーフ(但し、ここでも自身が亀を釣るも放生の仏心を起こして海へ返すのであって子らが亀をいじめているのではない)や竜宮城・乙姫・玉手箱などのアイテムがここで完備された。しかし、竜宮城は依然、島嶼か陸地の如く描写されており、道教的な仙界としての蓬莱山の呪縛から自由になっていない。
「小學唱歌」文部省唱歌「浦島太郎」は、明治三三(一九〇〇)年の「幼年唱歌」の「中 第五 浦島太郎」(石原和三郎・作詞/田村虎蔵・作曲)が最初。その一番の歌詞は以下で、
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一 むかしむかし、うらしまは、
こどものなぶる、かめをみて、
あはれとおもひ、かひとりて、
ふかきふちへぞ、はなちける。
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ここで初めて、積極的生物虐待者としての「チビッ子ギャング」像が形成されたのである。
「お伽噺」先のウィキの「浦島太郎」によれば、『明治期には長谷川武次郎が『日本昔噺』(ちりめん本)の一篇としてまとめ、ジェームス・カーティス・ヘボンやバジル・ホール・チェンバレン、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が英訳を行った』。明治三〇(一八九七)年『にはハーンの著書『Out of the East』によっても紹介されている』。『さらに巌谷小波が前代の物語を恩返しに主眼を置いた子供向けの読み物に改作し、ダイジェスト版が明治』四十三年から三十五年間の長きに亙って、『国定教科書の教材になり定着していった』とあるから、まさに先の石原和三郎の作詞になる「浦島太郎」が小学校の音楽の授業で歌われるようになった明治三十年代こそが、「チビッ子ギャング」出現のエポック(現在(二〇一七年)から丁度、百二十年前)であったことが判るのである。]
龜を助けて放す話は支那にもある。「稽神錄」の宋氏も、「河東記」の韋丹も、漁夫に捕へられた龜を憫れみ、その價を拂つて水中に放してやるので、韋丹の如きは寒空に脱ぐべき著物もなし、自分の乘つてゐた驢馬を以て龜に易(か)へるのであつた。後日いづれも龜の化した人物にめぐりあび、宋の子は水死しなければならぬ運命を免れ、韋丹は四十歳近くまで碌々としてゐたのが、俄かに運が開けて御史大夫に至る。胡蘆先生なる者の説によると、韋丹に助けられた龜は實は神龍だといふことであつた。他人の運命を左右するほど靈威ある者が、どうして漁夫に捕へられて苦しんだか。それは一時の困厄で、聖人たると凡人たるとを問はず、皆免れ得ぬのだといふことになつてゐる。
[やぶちゃん注:『「稽神錄」の宋氏』は「太平廣記」の「水族八」に「宋氏」として、「稽神錄」からとして載る。
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江西軍吏宋氏嘗市木至星子、見水濱人物喧集、乃漁人得一大黿。黿見宋屢顧、宋卽以錢一千贖之、放于江中。後數年、泊船龍沙、忽有一僕夫至、云、「元長史奉召。」。宋恍然。「不知何長史也。既往、欻至一府、官出迎。」。與坐曰、「君尚相識耶。宋思之、實未嘗識。」。又曰、「君亦記星子江中放黿耶。」。曰、「然、身卽黿也。頃嘗有罪、帝命謫爲水族、見囚於漁人、微君之惠、已骨朽矣。今已得爲九江長、相召者、有以奉報。君兒某者命當溺死、名籍在是。後數日、鳴山神將朝廬山使者、行必以疾風雨、君兒當以此時死。今有一人名姓正同、亦當溺死、但先期歳月間耳。吾取以代之、君兒宜速登岸避匿、不然不免。」。宋陳謝而出、不覺已在舟次矣。數日、果有風濤之害。死甚衆。宋氏之子竟免。
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「河東記」のそれは「韋丹」。
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唐江西觀察使韋丹、年近四十、舉五經未得。嘗乘蹇驢、至洛陽中橋。見漁者得一黿、長數尺、置於橋上、呼呻餘喘、須臾將死。群萃觀者、皆欲買而烹之。丹獨憫然、問其直幾何。漁曰、「得二千則鬻之。」。是時天正寒、韋衫襖褲、無可當者、乃以所乘劣衛易之。既獲、遂放於水中、徒行而去。時有胡蘆先生、不知何所從來、行止迂怪、占事如神。後數日、韋因問命、胡蘆先生倒屣迎門、欣然謂韋曰、「翹望數日、何來晚也。」。韋曰、「此來求謁。」。先生曰、「我友人元長史、談君美不容口、誠托求識君子、便可偕行。」。韋良久思量、知聞間無此官族。因曰、「先生誤、但爲某決窮途。」。胡蘆曰、「我焉知。君之福壽、非我所知。元公即吾師也、往當自詳之。」。相與策杖至通利坊、靜曲幽巷。見一小門、胡蘆先生卽扣之。食頃、而有應門者開門延入。數十步、復入一板門。又十餘步、乃見大門、制度宏麗、擬於公侯之家。復有丫鬟數人、皆及姝美、先出迎客。陳設鮮華、異香滿室。俄而有一老人、須眉皓然、身長七尺、褐裘韋帶、従二青衣而出。自稱曰、「元浚之。」。向韋盡禮先拜。韋驚、急趨拜曰、「某貧賤小生、不意丈人過垂採錄、韋未喩。」。老人曰、「老夫將死之命、爲君所生、恩德如此、豈容酬報。仁者固不以此爲心、然受恩者思欲殺身報效耳。」。韋乃矍然、知其黿也、然終不顯言之。遂具珍羞、流連竟日。既暮、韋將辭歸、老人卽於懷中出一通文字、授韋曰、「知君要問命、故輒於天曹、錄得一生官祿行止所在、聊以爲報。凡有無、皆君之命也。所貴先知耳。」。又謂胡蘆先生曰、「幸借吾五十千文、以充韋君改一乘、早決西行、是所願也。」。韋再拜而去。明日、胡蘆先生載五十緡至逆旅中、賴以救濟。其文書具言、明年五月及第、又某年平判入登科、受咸陽尉、又明年登朝、作某官。如是歷官一十七政、皆有年月日。最後年遷江西觀察使、至御史大夫。到後三年、廳前皂莢樹花開、當有遷改北歸矣。其後遂無所言、韋常寶持之。自五經及第後、至江西觀察使。每授一官、日月無所差異。洪州使廳前、有皂莢樹一株、歲月頗久。其俗相傳、此樹有花、地主大憂。元和八年、韋在位、一旦樹忽生花、韋遂去官、至中路而卒。初韋遇元長史也、頗怪異之。後每過東路、卽於舊居尋訪不獲、問於胡蘆先生。先生曰、「彼神龍也、處化無常、安可尋也。」。韋曰、「若然者、安有中橋之患。」。胡蘆曰、「迍難困厄、凡人之與聖人、神龍之與耑蠕、皆一時不免也、又何得異焉。」。
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「碌々と」(ろくろくと)は平凡なさま・役に立たないさま・何事もなし得ないさま。]
宋や韋に助けられた龜は、それぞれ恩に報いてゐる。たゞその世界は浦嶋太郎とはかけ離れたもので、全然詩趣がない。後世の作者がこれにヒントを得て、浦嶋太郎の話に龜を助ける一條を加へたと解するのは躊躇せざるを得ぬ。現實的な宋や韋は最後の一段に於て、玉手箱から立ちのぼる一道の白氣のために、忽ち白髮の老翁と化するやうなこともなかつたが、浦嶋太郎の話が永く傳承され、多くの文藝に取入れられた最大眼目はこの玉手箱の白氣に在る。それは勿論蓬萊宮中の歡樂と照應すべきものだから、最初からさういふ場面を缺いてゐる「稽神錄」や「河東記」では玉手箱の出しやうがないのかも知れぬ。
「列仙全傳」の中で多少浦嶋の面影があるかと思ふのは孫思邈(そんしばく)である。或日一人の童子が小蛇を苦しめてゐるのを見、それを貰ひ受けて衣に包み、藥を塗つて放してやつた。十日ばかりたつて郊外の道を行くと、馬に乘つた白衣の少年が現れ、自分はあなたに命を助けられた蛇の兄であると名乘り、強ひてその家に連れて行つた。金碧燦爛たる立派な城郭で、庭には花木が生ひ繁つて居つたが、やがて多くの從者を隨へた紅い衣服の人が、彼を上座に招じ、厚く恩誼を謝した後、靑い衣服の少年を紹介して、これがあなたに助けられた者であるといふ。それから山海の珍味が出たけれど、恩遇は五穀を避けてゐる道士なので、酒だけしか飮まぬ。傍の人にこゝは何といふところかと問うたら、徑陽の水府であると答へた。彼ははじめて水底に不思議な世界のあることを知つたのである。三日ばかりして辭し去らうとした時、主人は多くの金銀絹綃の類を出して贈らうとしたが、堅く辭して受けぬので、今度は龍宮の妙藥凡そ三十種ばかりを持ち出し、何かの御用に立つこともあらうと云つて贈つた。果してこの藥は效驗の著しいものばかりであつた。
[やぶちゃん注:「孫思邈(そんしばく)」(五八一年或いは六〇一年~六八二年)は隋末から初唐の医家。京兆華原(けいちょうかげん:現在の陝西省耀県)の人。孫真人(そんしんじん)とも称される。七歳で学問を始め、二十歳の頃には老荘思想や百家の説を論じ、併せて仏典も好んだ。陰陽・推歩(天文や暦算)・医薬に精通していたが、太白山に隠居し、隋の文帝・唐の太宗や高宗が高位を約して招くも、これを受けなかったという。著書である「備急千金要方」の自序に『幼時に風冷に遭い、度々、医者に掛かり、家産を使い果たした。故に学生の時から老年に至るまで。医書を尊び親しんでいる。診察・薬方などを有識者に学び、身辺の人や自身の疾病を治すようになった。薬方や本草を学ぶのはよいが、薬方書は非常に多く、緊急時には間に合わぬ。そこで、多くの経方書(けいほうしょ)から集めて簡易につくったものが「備急千金要方」三十巻である。人命は貴く、千金の価値がある』と記しているという。他にも「福禄論」「摂生真録」「枕中素書」などの著書がある(小学館「日本大百科全書」に拠った)。
「金銀絹綃」「きんぎんけんせう」と読んでおく。「綃」は畳語で「絹」と同じく「生糸(きいと)」の意。
原文は以下(現代中国語(繁体字)に書き直したものか)と同源の話であろう。中文サイトからの引用だが、出典は明記されていないが、既に述べた通り、「列仙全傳」は所持せず、中文サイトでも探し方が悪いのか、見当たらぬので、孫思邈のポリシーではないが、応急処方として示しておくこととする。
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一次孫思邈外出、碰見一個牧童砍傷了一條小蛇、很是同情、就用衣服包好帶囘家來、用外傷藥敷好、包紮好傷口、放囘了草叢中。十幾天後、孫思邈出遊在外、遠遠來了一位穿白衣的少年。少年來到跟前、翻身下馬、跪倒便拜、「感謝你救了我的弟弟。」。孫思邈還未明白過來、少年又邀他到家中一坐、說著就把自己的馬讓給孫思邈、自己跟在後邊走得很快。不多會兒就走進了一個城廓、但見花木盛開、殿宇輝煌。
有一個人穿戴打扮像是一位王者、帶著很多侍從、起身迎接他、説、「深蒙先生大恩、特意讓我的孩子請你。」。説著指著一個穿靑衣的小孩説、「前些天這孩子一個人外出、被一個牧童砍傷了、多虧先生您脱衣相救、這孩子才有今天。」。又讓穿靑衣的小孩跪倒磕頭。
孫思邈才想起脱衣救靑蛇的事、悄悄地問一個隨從的人這是什麼地方、那人説這是涇陽水府。王者便設下酒席歌舞宴請孫思邈。孫思邈說正在練習道術的辟穀服氣、只喝了一點點酒。
在這個地方過了三天、孫思邈要走、王者搬出金銀綢緞相賜、孫思邈堅辭不要、王者又叫龍宮奇方三十首他兒子拿了、送給孫思邈説、「這些方子可以幫您濟世救人。」。就用車馬送孫思邈囘去了。孫思邈用這些方子試著給人治病、非常效驗、就把它編進了他撰寫的「千金方」一書中。
孫思邈一生治病救人、到了唐永徽三年、孫思邈已經一百多歲了。一天、他洗完澡穿好衣服、端端正正地坐在那裏對兒孫們説、「我將要到無何有之鄉去了。」。説完就咽了氣。過了一個多月、臉色還像生前一樣、沒有改變、到盛殮時、忽然屍體不見了、只剩下了一堆衣裳。
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この話は宋氏や章丹に比べて大分浦嶋に似たところが多い。伴はれた場所が水底の城郭であり、歸りがけに土産をくれたりするあたり、日本の龍宮譚とほゞ同じである。殊に發端が童子の苦しめる蛇である一點は、最も看過すべからざるものと思はれる。
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