譚海 卷之二 大坂にて入牢せし盜賊の事
大坂にて入牢せし盜賊の事
○大坂にて西念寺と云(いふ)某住持、幼女を破瓜(はか)致し、怪我に及びむづかしくなり、そのあつかひに入(いり)候もの、金子十五兩住持に出(いだ)させ、内々にて親元承引致させ候處、此あつかひ人元來盜人(ぬすつと)なるゆへ、金子橫取を致し打捨置(うちすておき)候ゆへ、親元承引なく終(つひ)に公訴に及び、西念寺は破戒の罪にて梟首也。此あつかひ人盜人なる事露顯に及び、入牢して居たる内、盜人牢役に申(まうし)けるは、われら事舊惡段々露顯に及候故、今度は一命助るまじ、されば我らその堤(つつみ)の下へ金子二百兩埋(うづ)め置(おき)たり、我らむなしく成(なり)候はば、此金人のしる物なければ、永く世間にすたらん事惜(おしき)事也、いづれも此金子掘出し配分致し、われら此牢内に居候間は不便(ふびん)かけくれられよといひける故、牢役人のうちより右の堤へ差越(さしこし)掘出(ほりいだ)し候處、慥(たしか)に金子ありしゆへ、持參致し歸り竊(ひそか)に配分し、そののちは此盜賊も養育深切にしけり。有(ある)時盜人牢役人に願(ねがひ)有(ある)よし、何にても刄物(はもの)を貸しくれよと申(まうし)、それは以(もつて)の外なるまじきよし答(こたへ)ければ、盜人はらをたて、全(まつたく)以(もつて)自滅などに及ぶ事にはあらねど、もし此(この)願(ねがひ)叶ひくれざる時は、各(おのおの)金子二百兩配分せられたる事言上(ごんじやう)すべし、さらば各(おのおの)も盜人同罪の御咎(おとが)め懸(かかる)べしと、無ㇾ據(よんどころなく)申懸(まうしかけ)しゆゑ、是非なくさすが壹本あたへけるに、此さすがにて牢内の板はめを切(きり)ぬき、鄰に女計(ばか)りある牢内へかよひ、其中に女の盜人ありしに姦淫し、事(こと)度々(たびたび)に及び露顯し、さすがの詮儀より牢役も不ㇾ殘(のこらず)入牢せられ、公裁(こうさい)むづかしく成(なり)たりとぞ。此盜人願申(ねがひまうし)けるは、わたくし事(こと)刑罪に行(おこなは)れ候はば、此迄(これまで)になき何ぞ珍敷(めづらしき)仕置になし下され候樣にと申ける。石川五右衞門已來珍らしき盜人也といへり。(此盜人は長柄の十右衞門と云。)
[やぶちゃん注:「破瓜」処女膜を破ること。「八」を女性の外生殖器に、中に入る最後の三画部分を男根と見立ててそれが挿入されるさまを「瓜」の字で現わすとか、瓜(うり)の実そのものを女性器のシンボルとするとか、由来は諸説あるものの、孰れも怪しい。
「破戒の罪」江戸時代、妻帯を教組が認めている浄土真宗以外の僧の女犯(にょぼん)は公的に知れればかく極刑を免れなかった。ここでも津村はこう表現しているから、表向きは幼女をてごめにした少女強姦の罪としてではなく、あくまで僧の破戒罪として処断したものと考えられる。この僧の住持した「西念寺」という寺名から考えると、この僧は浄土宗の僧侶であった可能性が頗る高いとは思う。
「その堤(つつみ)」の「その」は伏字であって、実際には特定出来る橋名か、或いは、極度に限定出来る川沿いのランド・マークの名称を述べたのである。
「不便」不憫と同じい。可哀想に思う(そして、相応に気に掛けてやる)ことを指す。
「うちより」「打ち寄り」。複数形の動作であることに注意。ここで、この盗人は一人の牢役にこの話を持ちかけたのではなく、複数の者に語り、結局、牢役複数人、「不ㇾ殘」とあるからには若しくは牢役全員が、共同で、隠し金の掘り出しから、禁制の刃物の持ち込みをしたのである。恐らくはそれが二人以上、かなりの人数に及んだのではないか? だからこそ「公裁」がかなり「むづかしく」なってしまったのである(公儀の面子が丸潰れとなるからである)。
「さすが」「刺刀(さすが)」腰に差す短刀、或いは、より小さい細工用の小刀。ここは後者であろう。
「珍敷仕置」普通に極悪人に下される「市中引き回しの上、打ち首獄門」である。そんな願いを受けてはそれこそ公儀面目丸潰れの駄目押しとなるからである。だから、処刑の部分を津村は書いていないのである。
「長柄の十右衞門」不詳。]
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