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2017/04/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「髑髏譚」(その1)

 

 髑髏譚

 

 小野小町の髑髏(どくろ)の話は、日本の髑髏譚の代表的なものである。何しろ髑髏の主が絶世の美人で、弔ふのが天下の美男在原業平と來てゐるのだから、これ以上の配役はあるまい。業平が奧州八十嶋に宿つた時、野中に聲あつて「秋風の吹くたびごとにあなめあなめ」と云ふ。翌日そこへ行つて見ると、一つの髑髏がころがつてゐて、その目の穴から薄(すすき)が生えて居つた。小野小町がこの國に下り、ここで亡くなつたといふ話を聞いて、業平もあはれに思ひ、「小野とはいはじ薄生ひけり」と下の句を付けた、といふのが「古事談」の記載である。

[やぶちゃん注:「奧州八十嶋」不詳。以下の「古事談」の参考底本の注にも、『陸奥の海辺の一地名という以上に何処かに比定することは無意味』とする。

「あなめあなめ」「あな! 眼!」「あな! 目痛し!」の略とする、判りやすい通俗的語源解釈説で採っておく。

「古事談」は鎌倉初期、村上源氏の刑部卿源顕兼(永暦元(一一六〇)年~建保三(一二一五)年)の編になる説話集。。建暦二(一二一二)年から没年の間で成立。以上は「卷第二」の「二七 業平、小野小町の髑髏と連歌する事」。以下に岩波新古典文学大系版(二〇〇五年刊)の書き下し文を参考底本として、漢字を恣意的に正字化して示した。〔 〕は原典の傍注、【 】は原典の割注。読みは参考底本の一部に限った。

   *

業平朝臣、〔二条后高子、長良子、淸和后、陽成母〕【宮仕以前】を盜みて、將(ゐ)て去る間、兄弟達【昭宣公等】、追ひ至りて奪ひ返す時、業平の本鳥(もとどり)を切る、と云々。仍りて髮を生(おほ)す程、歌枕を見ると稱(い)ひて、關東に發向す【伊勢物語に見えたり】。奥州八十嶋に宿する夜、野中に和歌の上の句を詠ずる聲有り。其の詞に曰はく、「秋風の吹く般每(たびごと)に穴目々々」と。音に就きて之れを求むるに人無し。只だ一つの髑髏有り。明旦猶ほ之れを見るに、件(くだん)の髑髏の目の穴より薄生(お)ひ出でたりけり。風の吹く毎に薄のなびくおと此くの如く聞えけり。奇恠(きくわい)の思ひを成す間、或る者云はく、「小野小町此の國に下向して、此の所において逝去す。件の髑髏なり」と云々。爰(こ)こに業平、哀憐を垂れて下の句を付けて云はく、「小野とはいはじ薄生ひけり」と云々。件の所を小野と云ひけり。此の事日本紀式に見えたり。

   *

最後の「日本紀式」などという書物は存在しない。]

 小町の話は小町として獨立して差支へないが、「述異記」に見えた「周氏婢」の話などは、短いながら頗る似通つたところがある。その婦が山へ薪を採りに行つて晝寢をしてゐると、夢に一人の女が現れて、私の目の中に刺(とげ)がある、どうかこれを拔いて下さい、と云つた。目が覺めてあたりを見たら、一棺の中に髑髏があつて、その目から草が生えてゐる。乃ちこれを拔いて歸つたが、後に路傍で金の指環を二つ拾つたとある。この女は小町のやうに有名な人物ではないので、美人であつたかどうかわからない。金の指環は蓋し棺と共に葬られたもので、目の草を除いてくれたお蔭にくれたのであらう。何しろ相手が山へ薪を探りに行く婢だから、業平の場合のやうな應酬が見られぬのは致し方がない。

[やぶちゃん注:「太平廣記」の「夢一」に「述異記」(南朝梁の任昉(じんぼう 四六〇年~五〇八年)が撰したとされる志怪小説集。二巻)からの引用として載る「周氏婢」。

   *

陳留周氏婢入山取樵、倦寢。忽夢一女子、坐中謁之曰。吾目中有刺、願乞拔之。及覺、忽見一棺中有髑髏、眼中草生、遂與拔之。後於路傍得雙金指環。

   *

中国語はやはり凄いな。原文は柴田の訳の半分以下の字数だもの。]

 髑髏の目の話はもう一つある。寶龜九年といふから、小町よりこの方が古いわけだが、備後國葦田郡大山里の人が正月の物を買ふために、同國の深津の市(いち)まで行く途中、日が暮れて葦田の竹原に一宿した。然るに終夜呻り聲を發し、目が痛いといふ者があるために睡り得ず、夜が明けて見れば一つの髑髏があつて、芒(すすき)でなしに笋(たかんな)が目の穴に生えて居つた。乃ちこれを除き、自分の携帶した食物を供へ、何卒我れに福を得しめ給へと精々慾張つた祈願を籠めた。それより市に到り買ふものが皆意の如くなつたので、偏(ひと)へに髑髏に祈念したお蔭であると喜んで、歸りにまた竹原に到ると、髑髏が後シテには人の形で現れた。さうして自分の生國や名前を名乘り、こゝに髑髏となつてころがつてゐるのは、伯父秋丸に殺された爲である、風が吹く每に目が痛くて堪らなかつたが、その苦しみはお情けによつて免れ得た、あなたの御恩に酬いたいから、今月の晦日の夕方、自分の父母の家に行つていたゞきたい、その晩でないと報恩の折がない、と云つた。大山里の男は怪しみながら誰にもこの事を告げず、約を踐(ふ)んで行つたところ、髑髏の靈現れ、手を執つて屋内に入る。そこに供へられた食物を共に食べ、殘りをつゝんでくれた上、靈は搔き消す如く失せてしまつた。父母は諸靈を拜せんがために入つて、知らぬ男のゐるのに驚き、こゝへ來たいはれを尋ねる。髑髏に聞いた子細を委しく述べたので、父母は愈々驚き、秋丸を呼んで嚴しく問ひ糺した。事こゝに至つてはどうにもならず、秋丸は自分の罪狀を逐一告白する。髑髏もはじめて浮び得たわけであらう。父母は改めて大山里の男に感謝し、厚くこれをもてなした。「日本靈異記」はこの話の末に、髑髏すらなほ是の如しと云つて、大いに忘恩の徒を戒めてゐるが、この話は小町や周氏の婢の場合のやうに單純ではない。一命を奪はれた伯父に對し、深い恨みを懷いてゐるわけであるから、何よりも枉屈(わうくつ)を伸べる點に重きを置かなければならぬ。時代が古いに拘らず、江戸時代の芝居じみた感じを受けるのは、犯罪事件の絡むためと思はれる。

[やぶちゃん注:「寶龜九年」七七八年。

「葦田郡」(あしだぐん)は、広島県の旧郡。現在の府中市の大部分と、福山市及び神石郡神石高原町の一部に相当する。

「大山里」不詳。

「深津の市(いち)」旧深安郡内にあったと考えられる市(いち)。現在の広島県福山市内に比定されている。

「葦田の竹原」現在の広島県府中市(福山市の南西。ここ(グーグル・マップ・データ))附近に比定されている(後注に出す角川版板橋氏の注に拠る)。

「呻り聲」「うなりごゑ」。

「今月の晦日」十二月であるから、大晦日である。古くは邪気を払う追儺(ついな)の儀式が行われた神聖な日であり、以下の原文にも出るように、この日は霊祭りも行われた。従って、霊がこの日に来訪を限ったことは深い民俗的な関係(霊的パワーの最大値の発揮点など)があると考えてよい。

「枉屈」(おうくつ)は、身を屈め、遜(へりくだ)ること。

 以上は「下卷」の「髑髏(ひとかしら)の目の穴の笋(たかむな)を掲(ぬ)き脱(はな)ちて、もちて祈(ねが)ひて靈表を示す緣第二十七」である。以下に示す。角川文庫の板橋倫行校注本(昭和五二(一九七七)年第十八版)を参考底本とした。

   *

白壁の天皇のみ世、寶龜九年戊午(つちのえうま)の冬十二月下旬に、備後の國葦田(あしだ)の郡大山の里の人、品知(ほむち)の牧人(まきと)、正月の物を買はむが爲に、同じ國の深津(ふかつ)の郡深津の市に向かひて往く。中路(みちなか)にして日晩(く)れ、葦田の郡の葦田の竹原に次(やど)る。宿れる處に、呻(によ)ぶ音(こゑ)有りて言はく、

「目痛し。」

といふ。牧人聞きて、竟夜(よもすがら)寢ねずして踞(うづくま)る。明くる日見れば、一つの髑髏(ひとかしら)有り。笋(たかむな)、目の穴に生ひて串(さ)さる。竹を掲(む)きて解(と)き免(ゆる)し、みづから食へる餉(かれいひ)を饗(あへ)して言はく、

「吾に福(さきはひ)を得しめよ。」

といふ。

 市に到り物を買ふに、買ふ每に意(こころ)の如し。疑はくは、彼の髑髏、祈(ねがひ)に因りて恩を報いるかとうたがふ。市より還り來りて、同じ竹原に次(やど)る。時に彼の髑髏、變じて、生ける形を現はして、語りて言はく、

「吾は葦田の郡、屋穴國(やなくに)の郷(さと)[やぶちゃん注:不詳。]の穴(あな)の君(きみ)の弟公(おとぎみ)なり。賊なる伯父(をじ)秋丸に殺さるるものなり。風吹きて動く每に、我が目、甚だ痛し。仁者(にんざ)の慈(いつくしみ)を蒙(かがふ)りて、痛苦、既に除かる。今、餉(かれいひ)を饗(あへ)を得たり。其の恩を忘れじ。幸(さきはひ)の心に勝(た)へず、仁者の恩(めぐみ)に酬いむと欲(おも)ふ。我が父母の家は、屋穴國の里に有り、今月の晦(つきごもり)の夕、吾が家にいたれ。かの宵にあらずは、恩に報いるに由無し。」

といふ。牧人、聞きて、ますます怪しみて他人に告げず。晦の暮を期(ちぎ)りて、彼の家に至る。靈、牧人の手を操(と)りて、屋の内に控(ひ)き入れ、具せる饌(け)を讓りて、もちて饗(あへ)して共に食ひ、殘りはみな、裹(つつ)み、幷せて財物を授く。やや久しくして、かの靈、たちまちに見えず。父母、諸靈(たまだま)を拜せむが爲に、その屋の裏(うち)に入り、牧人を見て驚き、入り來れる縁(えに)を問ふ。牧人、ここに、先の如くに具に述ぶ。因りて、秋丸を捉へ、殺せる所由(ゆゑ)を問ふ。

「汝が先の言の如くば、汝、『吾が子と倶に市に向かふ。時に汝、他(ひと)の物を負ひて、未だ其の債(もののかひ)を償(つぐの)はず。中路(みちなか)に遇ひて徴(はた)り乞はれ、弟公を捨てて來つ』[やぶちゃん注:たまたま途中で悪いことに、債権者にばったり行き合ってしまい、その場できつく返金を迫られたので、弟を残して逃げて来てしまった。]といひ、『若し來(きた)るや否や』といひき。我、汝に答へて言はく、『未だ來らず、視ず』といひき。今、聞く所は、何ぞ先の語に違(たが)ふ。」

といふ。

賊盜秋丸、惣(しかしながら)、意(こころ)悸然(おそり)り、事を隱すこと得ずして、乃ち、答へて言はく、

「去年十二月下旬、正月元日の物を買はむが爲に、我、弟公と市に率(ゐ)て往く。持てる物、馬・布・綿・鹽なり。路中にして日晩れて、竹原に宿り、竊(ひそか)に弟公を殺して、彼の物とり、深津の市に到りて、馬は讚岐の國の人に賣り、自餘の物等は、今、出して用ゐる。」[やぶちゃん注:最後の部分は、その他のこまごました物品はこっそり自分の物としてしまい、今に密かに自宅で使っている、といった意味か。]

といふ。父母聞きて、

「嗟呼(ああ)、我が愛子(まなご)、汝が爲に殺さる。他(ほか)の賊(あた)に非ず。」

といふ。父母を同じくする弟は、葦蘆(あしをぎ)の璅(くさ)る[やぶちゃん注:根が連続している。]が如きが故に、内は其の過失(あやまち)を匿(かく)し内(をさ)め、擯(お)ひ出して見(あらは)さず[やぶちゃん注:身内の犯罪であるが故に一族の恥じとなることから、内々に秋丸を里から追放した上で、世間にはこうした事実総てを伏せ隠したのである。]。外は便ち牧人を禮し、更に飮食を饗(あへ)す。牧人、還り來て、狀を轉(つた)へ語りき。それ、日に曝(さ)れた髑髏(ひとかしら)すら、なほすら、かくの如し。食を施せば福を報じ、恩を與ふれば恩を報ず。何にいはめや、現(げに)の人、豈(あに)恩を忘れむや。「涅槃經」に説くが如し。

「恩を受くれば恩を報ず。」

といふは、それ、これを謂ふなり。

   *]

 髑髏に關する話は古今東西を通じていろいろある。莊子が楚に於て髑髏を見、大いにこれを憐れんで枕にして寢たら、夢に髑髏が現れてこんな事を云つた。死は上に君なく、下に臣なく、また四時の事もない、天地を以て春秋としてゐる、王者の樂しみと雖も、これ以上の事はあるまい、といふのである。もう一度人間に還る氣はないかと聞いて見たが、眞平御免だと答へた。要するに髑髏はその人に相應した者が出て來るので、業平に對しては小町、周氏の婦に對しては無名の女子といふ風に、枕にした者が莊子だから、こんな達觀的髑髏が現れたのであらう。この趣向は落語の「野ざらし」あたりまで續くわけであるが、一切の死者が悉く成佛して居らぬやうに、あらゆる髑髏もまたすべて枯木冷灰となりはしない。福州の弘濟といふ僧が砂の中から髑髏を發見し、衣籃の中に入れて寺に持ち歸つたところ、數日たつた或晩、睡つてゐる弘濟の耳を嚙む者がある。夢中で拂ひのけたら、凄まじい音がして何か牀(とこ)の下に墜ちた。多分髑髏の所爲であらうと思ひ、夜が明けてから見ると、髑髏は碎けて六片となつてゐる。そのまゝ溝の中に棄ててしまつたが、今度は夜中に卵のやうな火が家に入つて來た。弘濟一喝を與へ、はじめて怪が絶えたと「酉陽雜俎」にある。この髑髏の主は如何なる者とも知れがたいが、とにかく妄執去りやらぬ徒輩らしい。夜半に弘濟の耳を嚙んで拂ひ落され、化して六片の骨となつてもまだあきらめきれず、妄念の火を然してゐるなどは沙汰の限りと云はなければならぬ。弘濟の一喝で成佛したか、相手が惡いと見て河岸を替へたか、その邊は固より疑問に屬する。

[やぶちゃん注:「莊子」の著名な、そして私の好きなそれは、「外篇」の「至樂」中の一節(但し、外篇は既に荘子の筆になるものではないと考えた方がよい)。

   *

莊子之楚、見空髑髏、髐然有形、撽以馬捶、因而問之、曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事、斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。

夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似辯士、視子所言、皆生人之累也、死則無此矣。子欲聞死之説乎。」。莊子曰、「然。」。髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下、亦無四時之事、從然以天地爲春秋、雖南面王樂、不能過也。」。莊子不信、曰、「吾使司命復生子形、爲子骨肉肌膚、反子父母妻子閭里知識、子欲之乎。」髑髏深矉蹙頞曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人閒之勞乎。」。

   *

書き下しておく。

   *

莊子,楚に之(ゆ)き、空髑髏(くうどくろ)を見る。髐然(きようぜん)として、形、有り。撽(う)つに馬捶(ばすい)を持つてし、因りてこれに問うて曰く、

「夫(そ)れ、子(し)は、生を貪り、理を失ひて、此れと爲(な)れるか。將(ある)いは子に亡國の事、斧鉞(ふえつ)の誅(ちゆう)ありて此れと爲れるか。將いは子に不善の行ひあり、父母妻子の醜(はぢ)を遺(のこ)さんことを愧(は)ぢて、此れと爲れるか。將いは子に凍餒(とうたい)の患(うれ)ひありて、此と爲れるか。將いは子の春秋、故(もと)より此れに及べるか。」

と。是(ここ)に於いて、語り卒(おは)り、髑髏を援(ひ)き、枕して臥(ぐわ)す。

 夜半、髑髏、夢に現はれて曰く、

「子の談は辯士に似たり。子の言ふ所を視れば、皆、生人の累(わづら)ひなり。死すれば、則ち、此れ無し。子、死の説を聞かんと欲するか。」

と。莊子曰く、

「然り。」

と。髑髏曰く、

「死すれば、上(かみ)に君無く、下(しも)に臣無し。亦た、四時の事(しごと)無し。 從然(しようぜん)として天地を以つて春秋と爲す。南面の王の樂しみと雖も、過ぐる能はざるなり。」

と。

莊子、信ぜずして曰く、吾れ、司命(しめい)をして、復た子の形を生じ、子の骨肉肌膚(こつにくきふ)を爲(つく)り、子の父母妻子と閭里(りより)の知識に反(かへ)さしめば、子 、之れを欲するか。」

と。髑髏、深く顰蹙(ひんしゆく)して曰く、

「吾れ、安(いづ)くんぞ能く南面の王の樂しみを棄てて、復た、人閒(じんかん)の勞を爲さんや。」

と。

   *

「司命」は、人の寿命を司ると考えられた神。「閭里」郷里。「知識」知人。旧知の友。

『落語の「野ざらし」』同演目の元となったとされる上方落語の「骨釣(こつつ)り」(私は復元された、原型に近い、楊貴妃と張飛の霊の出る奴が、殊の外、お気に入りである)面白い。ウィキの「野ざらしで、どうぞ。

「弘濟」「ぐぜい」と読んでおく。

 後半の「酉陽雜俎」のそれは、「卷十三」の「尸穸(しせき)」の中の一章。

   *

醫僧行儒説、福州有弘濟上人、齋戒淸苦、常於沙岸得一顱骨、遂貯衣籃中歸寺。數日、忽眠中有物齧其耳、以手撥之落、聲如數升物、疑其顱骨所爲也。及明、果墜在床下、遂破爲六片、零置瓦溝中。夜半、有火如雞卵、次第入瓦下、燭之。弘濟責曰、「爾不能求生人天、憑朽骨何也。」。於是怪絶。

   *

因みに、柴田は一喝の内容を訳していないが、「爾(なんぢ)、人天(じんてん)に生まれんことを求め得ること能はずして、朽骨に憑(つ)きて何をかせんや。」で、

「お前! 人の世に再び生まれ出でんとして得られず、かくも無惨に朽ち果てた骨に憑いて、それをまた頼りとするとは! これ、何事カッツ!」

という「カツ」である。]

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