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2017/04/13

南方熊楠 履歴書(その8) ロンドンにて(4) 「名号」の呪力

 

 小生かつて小松謙次郎氏(前日まで鉄相たりし)に荒川巳次氏(当時のロンドン領事)宅であい、談ぜしことあり。真言仏教(またユダヤの秘密教などにも)に、名号ということを重んず。この名号ということすこぶる珍な物で、実質なきものながら、実質を動かす力すこぶる大なり。今ここに宇宙の玄妙な力の行なわるる現象を呑み込んで、阿弥陀仏と名づけるとせよ。この名号を聞くものは漸次にこの名号に対して信念を生ず。ついには自分に分かりもせぬこの信念のために大事件を起こす。一向徒(いっこうと)が群集蜂起して国守武将を殺し尽せしごとし(越前・加賀の一向一揆等の例)。そのごとくトルコ、支那、ローマ等の諸邦は昨今強弩の末で、風呂敷一枚を貫く力もなきものなり。しかるに近年日清戦争起こると聞いて、ブータン(インドの北にある小邦。これは康熙(こうき)帝に征服されたことあり)の土民が四、五輩、義兵のつもりでわざわざ数月難苦して積雪中をふんで北京に赴き、支那の官憲大いにありがた迷惑を感じて、一日に五十銭とかを給してこれを礼遇しおったと聞く。これ支那という国は弱まっても、その名号がまだ盛んに世界に残りおる証拠なり(孫はさすがにこのブータンの例は引かず、別にカシュミル等の例を引きしと記臆す)。名号とは、一国民や一種族の続くあいだ、その脳底に存する記臆にて
national reminiscence ともいうべきものなり。わが国にも田舎には到る処、今日までも蒙古、高句麗とて蒙古(モクリ)と高麗(コクリ)を怖ろしきもののごとく一汎に思い、西洋にも何のこととも分からずに、Gog and Magog(ゴッグ・エンド・メーゴッグ)という野民の来犯をおそる(おかしきことには、ロシア人はトルコ人を、トルコ人はロシア人を Gog and Magog と心得おるなり)。近時大戦争中に連合国人はみなドイツを The Huns とよべり。実はハンスはドイツ人と何の関係なきものなるに、これらにて、事実とは全くちがいながら、この名号というものが、国民の気風や感情を支配し左右する力はきわめて大なるものと知らる。

[やぶちゃん注:「小松謙次郎」(文久三(一八六四)年~昭和七(一九三二)年)は信濃国埴科(はにしな)郡松代(現在の長野県長野市松代町(まち)松代)に松代藩士横田数馬次男として生まれ、同藩士小松政昭の養子となった。ウィキの「小松謙次郎」によれば、『藩校文武学校を経て、上京後、慶應義塾から帝国大学法科大学に転じ』、明治二一(一八八八)年に卒業後、司法省参事官・試験委員から逓信省に入って書記官となった(この時期にイギリスで南方熊楠と逢ったことになる)。『日露戦争で韓国へ派遣され』、『電信電話の普及に努める。逓信局長を経て次官で退官』、同年(大正元(一九一二)年)十二月二十八日に貴族院議員に勅撰され、大正一三(一九二四)年の『清浦内閣では鉄道大臣に就任した』(就任は同年一月七日で、同年六月十一日に辞任(内閣総辞職による)しており、たった半年の在任であった)。昭和七(一九三二)年、『朝鮮総督宇垣一成の要請で京城日報社長に就任』したが、同年十月十五日に逝去している。本「履歴書」は大正一四(一九二五)年一月三十一日に書かれている。

「荒川巳次」(みのじ 安政四(一八五七)年~昭和二四(一九四九)年)は後に駐メキシコ公使や駐スペイン公使を歴任した外交官。ウィキの「荒川巳次」によれば、鹿児島県出身で明治一三(一八八〇)年に工部大学校、(現在の東京大学工学部の前身の一つ)鉱山学科を卒業、六年後の明治十九年に『外務書記生となり、交際官試補、公使館書記官、天津副領事、同一等領事、仁川一等領事を務めた』。『日清戦争の際には大本営附となり、行政庁知事として金州城の行政にあた』り、『その後、天津一等領事、蘇州・杭州一等領事、ロンドン総領事を歴任』、明治三六(一九〇六)年に『駐メキシコ公使に就任し』、明治四十二年には駐スペイン公使に転じて、駐ポルトガル公使をも兼ねたとある。

「ユダヤの秘密教」ヘブライ語で記されたユダヤ教の聖典とされる「タルムード」(ヘブライ語で「研究」の意)。モーセが伝えた、もう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群。

「名号」これは狭義の仏教用語なら「みょうごう」で仏・菩薩の称号を指す。一般には「六字名号」の「南無阿弥陀仏」、「九字名号」の「南無不可思議光如来」、「十字名号」の「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」などがそれであるが、ここで南方熊楠が言っているのはサンスクリット語原音を音写した真言類を広く含んでいるものと思われる。

「一向徒」以下の括弧書きから、戦国時代に権力に対する果敢にして過激な抵抗運動「一向一揆」を起こした浄土真宗本願寺教団(外部呼称「一向宗」)の一部信徒らを限定した謂である。

「越前・加賀の一向一揆」「越前」の一向一揆は天正二(一五七四)年~天正三(一五七五)年、「加賀」の一向一揆は長享二(一四八八)年~天正八(一五八〇)年である。越前のそれは最終的に織田信長によって徹底的に殲滅された悲惨なものではあるが、どうも、「越前・加賀」の時系列の齟齬が気になる。或いは南方熊楠は「越前」ではなく「越中」の一向一揆(文明一二(一四八〇)年から天正四(一五七六)年)と言いたかったのではなかろうか?

「強弩の末」「漢書」の「韓安国伝」に基づく故事成語「強弩の末(すえ)魯縞(ろこう)に入(い)る能(あた)わず」の略。強い弩(いしゆみ)で射た殺傷力の強い矢も、遠い先では勢いが弱まって魯国の名産とする透けて見える薄絹をさえ貫くことも出来ない、の意で、英雄も力衰えれば何事もなし得ぬことの譬え。

「日清戦争」明治二七(一八九四)年七月から翌年三月。まさに南方熊楠のロンドン滞在中のことであった。

「康熙(こうき)帝」(一六五四年~一七二二年)は清の第四代皇帝。在位は一六六一年二月から 一七二二年十二月。但し、この南方熊楠の謂いはブータンではなく、チベットの誤りのように思われる。康熙帝は一七一八年にチベットに遠征軍を送り、一七二〇年にチベットを支配していた外蒙古のジュンガルの軍を討ち破ってチベットを保護下に置いているからである。

「名号」この場合は比喩で前と引き続いて「みょうごう」と読んでいるにしても、意味として「めいごう」の読みで、「名声」の意味である。

「カシュミル」現行のインド北部とパキスタン北東部の国境付近にひろがる山岳地域「カシミール」(カシュミール)。標高八千メートル級のカラコルム山脈があり、パキスタン国境には世界第二の高峰K2が聳える。ここでは「有難迷惑」と熊楠は言っているのであるが、ネパールの山岳民族から構成される戦闘集団グルカ兵(Gurkha)で判るように、この一帯の民は小柄な体格を生かした勇猛且つ敏捷さを備え持った者が多く、実際に優れた兵士も多かった。

national reminiscence」「(特定の国家・集団・群の中の)固有の古い記憶」。古層の集団的記憶といった意味であろう。

「蒙古(モクリ)と高麗(コクリ)を怖ろしきもののごとく一汎に思い」「むくりこくり」「もくりこくり」は民俗語彙の一つで、「怖ろしいもの」の譬えとして使用される特殊語彙である。ウィキの「むくりこくり」によれば、鎌倉後期、文永・弘安の役で二度も『蒙古・高麗連合軍が九州を襲ったことを「蒙古高句麗の鬼が来る」といって怖れたことに由来するという。転じて子供のわがままや泣くのをとめるのに「むくりこくり、鬼来るぞ」と脅す風習となったとされる。地方によっては「もっこ来るぞ」という呼び方もある。さらに転じて「むくりこくり鬼」という鬼がいるようにも考えられた。元寇の際の元軍・高麗軍の残虐行為を指すと解釈されるのが一般的だが、一部には、元・高麗軍の兵士の水死体を指すという解釈も存在する』という。「筑前国続風土記」の『三雲の項目には、蒙古・高句麗とありルビとして「むくりこくり」とふられて』おり、鎌倉末期の「沙汰未練書」には、『「蒙古トハ異国ムクリノ事也」とあ』り、正中二(一三二五)年三月付の「最勝光院荘園目録」には『「文永年中ムクリケイコ」(警固)に任じられたという用例がある』と記す。

Gog and Magog(ゴッグ・エンド・メーゴッグ)」ルビは私の判断で拗音化してある(底本は古い出版でルビは一切拗音化されていないタイプである)。現行では「ゴグマゴグ」(Gogmagog)と一語化の表記もされ、ある英語辞書では、現在のイギリスが未だ「アルビオン」と呼ばれていた頃の太古の現在のブリテン島に住んでいたとされる巨人を指すとする。ウィキの「ゴグマゴグによれば、『その名は「敵対者」を意味し、ゴーモト(Goemot)とも呼ばれ』、『ジェフリー・オブ・モンマス著の『ブリタニア列王史』では、コーンウォール山の洞窟に棲む巨人達のリーダーとして登場する』。『ブルートゥス軍がブリテン島に上陸した時、ゴグマゴグ達は全力で抵抗したが、最終的にゴグマゴグ一人だけになり、ブルートゥス軍の副将軍コリネウスとの一騎討ちに敗れる』とある(キリスト教以前のケルト系神話が元か)、また別にキリスト教では、新約聖書の「ヨハネの黙示録」に基づき、最後の審判の前の、「ハルマゲドン」(最後の世界戦争で神と地獄の軍団の総力戦)に於いて、神の軍団に敵対する者の名として記されてもある。

「野民」野蛮人の意味のようである。

「来犯」襲来して国土を侵すこと。

The Huns」これは「フン族」で四~五世紀にヨーロッパを侵略したアジアの遊牧民族のこと、或いは古代から中国の北方の異民族国家で中国にたびたび侵犯した匈奴(きょうど)を意味する。熊楠の言う通り、ドイツ人とは何の関係も、ない。因みに、ドイツ人の名前としてごくごく一般的な「ハンス」は“Hans”で綴りが違うので、勘違いして納得せぬように。

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