南方熊楠 履歴書(その12) ロンドンにて(8) 「落斯馬(ロスマ)論争」
オランダ第一の支那学者グスタヴ・シュレッゲルと『正字通』の落斯馬という獣の何たるを論じてより、見苦しき国民攻撃となり、ついに降参せしめて謝状をとり今も所持せり。(これは謝状を出さずば双方の論文を公開してシュレッゲルの拙劣を公示すべしといいやりしなり。)落斯馬(ロスマ)と申すは Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)というノルウェー語の支那訳なり。十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)の『坤輿図説』という書に始めて出づ。これを、その文を倉皇読んで Nar Hhal(ナル ウワル)(死白の 鯨)(一角魚(ウニコール))とシュレッゲルは言いしなり。これより先ライデンより出す『人類学雑誌』(Archiv Für Ethnologie)にて、シュレッゲル毎々小生がロンドンにて出す論文に蛇足の評を加うるを小生面白からず思いおりしゆえ、右の落斯馬の解の誤りを正しやりしなり。しかるに、わざと不服を唱えていろいろの難題を持ち出だせしを小生ことごとく解しやりしなり。さていわく、汝シュレッゲルが毎度秘書らしく名を蔵(かく)して引用する(実は日本ではありふれたる書)『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある。むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると、汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり。汝は日本人に向かって議論をふきかけながら、負けかかりたりとて勝つ者に無礼よばわりをする。実は片足挙げて小便する犬同様の人間だけありて(欧米人は股引をはくゆえ片足を開かねば小便できず、このところ犬に似たり)、自分で自分の無礼に気づかざるものなり、と。いわゆる人を気死せしめるやり方で、ずいぶん残念ながらも謝状を出したことと思う。また前述ジキンスのすすめにより帰朝後『方丈記』を共訳せり。『皇立亜細亜協会(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)雑誌』(一九〇五年四月)に出す。従来日本人と英人との合作は必ず英人を先に名のるを常とせるを、小生の力、居多(きょた)なれば、小生の名を前に出さしめ A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタおよびF. Victor Dickins と掲げしめたり。しかるに英人の根性太き、後年グラスゴウのゴワン会社の万国名著文庫にこの『方丈記』を収め出板するに及び、誰がしたものか、ジキンスの名のみを存し小生の名を削れり。しかるに小生かねて万一に備うるため、本文中ちょっと目につかぬ所に小生がこの訳の主要なる作者たることを明記しおきたるを、果たしてちょっとちょっと気づかずそのまま出したゆえ、小生の原訳たることが少しも損ぜられずにおる。
[やぶちゃん注:「グスタヴ・シュレッゲル」オランダの東洋学者・博物学者グスタフ・シュレーゲル(Gustave Schlegel/Gustaaf Schlegel 一八四〇年~一九〇三年)。ウィキの「グスタフ・シュレーゲル」他によれば、ライデン大学中国語中国文学講座の初代教授で、オランダ語読み音写では「スフレーヘル」とも表記される。著書は「中国星辰考」「天地会」「地誌学的問題」等。一八九〇年に東洋学研究の学術雑誌『通報』(当初の正式な雑誌名は『通報 若しくは アジア・オリエンタル(中国・日本・朝鮮・インドシナ・中央アジア及びマレーシア)の歴史・言語・地理及び民族に関する研究のための記録』(T’oung Pao ou Archives pour servir a l’etude de l’histoire, des langues, la geographie et l’ethnographie de l’Asie Orientale (Chine, Japon, Coree, Indo-Chine, Asie Centrale et Malaisie) )をフランスの東洋学者アンリ・コルディエ(Henri Cordier 一八四九年~一九二五年)とともに創刊している。
「正字通」中国の字書。明末の張自烈の著。初刻本は一六七一年刊行、直後に本邦にも渡来して多く読まれた。現行通行本には清の廖(りょう)文英撰とするが、実際には原稿を買って自著として刊行したものである。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上・中・下に分け、部首と画数によって文字を配列し、解説を加えたもの。形式は、ほぼ明の梅膺祚(ばいようそ)の「字彙」に基づくが、その誤りを正し、訓詁を増したものである。但し、本書自体にも誤りが少くない。「字彙」とともに後の「康煕字典」の基礎となった。その当該部分は以下。
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落斯馬長四丈許足短居一海底罕出水面皮堅剌之不可入額一角似鉤寐時角挂石盡日不醒
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このシュレーゲルとの「落斯馬(ロスマ)論争」は、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの松居竜五氏の「シュレーゲル(スフレーヘル) Schlegel, Gustav 1840-1903」によれば、南方熊楠が一八九七年一月三十日附でロンドンの南方が、ライデンのシュレーゲルに宛てて書いた書簡で反論をしたのが最初であった。そこには『「シュレーゲル教授は一八九三年の『通報』誌上で、十七世紀中国の辞書『正字通』にあらわれた『落斯馬(ロスマ)』という動物をイッカク(前頭部に長い角を持つイルカに似た海の哺乳類)であるとしているが、これは誤りである。『落斯馬』とはおそらくノルウェー語のロス(馬)・マル(海)に由来する西洋起源の言葉であり、海馬つまりセイウチのことを指している」。』と記されてあるという(「南方熊楠コレクション」の注によれば、この書簡を皮切りに『三月上旬まで数回の書簡の応酬があった』とする。この「イッカク」本文の「一角魚(ウニコール)」は、
脊椎動物亜門哺乳綱鯨偶蹄(偶蹄)目Whippomorpha亜目Cetacea 下目ハクジラ小目イッカク科イッカク属イッカク Monodon monoceros
を、「セイウチ」、本文の「Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)」は、
哺乳綱食肉目イヌ型亜目アシカ上科セイウチ科セイウチ属セイウチ Odobenus rosmarus
を指す。老婆心乍ら、この二種は海洋性獣類ではあっても、目レベルで異なる全くの別種である。なお、この前後の出来事は南方熊楠の「人魚の話」の中にも出てくる。リンク先は私の古い電子テクストである。未見の方は、どうぞ。
「Ros Mar(ロス マール)(馬 海の)」「ロス マール」が「Ros Mar」のルビで、「(馬 海の)」は本文である。
「十七世紀に支那にありし Verbiest(南懐仁という支那名をつけし天主僧なり)」フランドル出身のイエズス会宣教師フェルディナント・フェルビースト(Ferdinand Verbiest 一六二三年~一六八八年)。ウィキの「フェルディナント・フェルビースト」によれば、『清代の中国を訪れ、康熙帝に仕えながら布教活動を行った。漢名は南懐仁』とした。『ヨーロッパの天文学、地理学など科学技術を中国に紹介、また中国の習慣を身につけて中国語で書物を著し、日本を含め近世初期の中国および周辺諸国の科学技術に大きな影響を与えた』。一六二三年に『南ネーデルラントのコルトレイク近郊のピテム(Pittem, 現在はベルギー、ウェスト=フランデレン州)に、役人で徴税人をしていたヨース・フェルビースト(Joos Verbiest)の第一子として生まれる。ブルッヘ、コルトレイクでイエスについて学び、ルーヴェンのルーヴェン・カトリック大学に進学して哲学と数学を学ぶ。メヘレンでも学んだ。その後、セビリャ、ローマで天文学、数学を学ぶ』。その頃、『ヨーロッパではプロテスタントが急増していた。カトリック教会はその覇権を維持拡張するために、航海技術の発達に』合わせ、『アジア、アメリカなど世界各地に宣教師を派遣した。このような背景により』、『東アジアにもその活動が広がっていた』。彼は一六四一年九月にイエズス会に入会し、一六五七年、『マルティーノ・マルティーニ(Martino Martini)とともに中国に向かい』、一六五八年、『マカオから清に入り、南懐仁(ナン・ファイレン)を名乗って山西省で布教活動を行った』。一六六〇年には『北京へ移り、欽天監副(天文台副長)として欽天監正(天文台長)』となっていたドイツのイエズス会士で科学者でもあったヨハン・アダム・シャール・フォン・ベル(Johann Adam Schall von Bell 一五九二年~一六六六年:中国名:湯若望)を補佐し、『天球儀なども製作した』が、一六六四年から一六六五年にかけて『カトリックを嫌う守旧派官吏の湯光先らにより、アダム・シャールとともに入獄させられ』た。しかし、『湯光先は暦法改定を行っていたが、これを完結できず失脚し、フェルビーストがこれを任され、中国の太陰暦とヨーロッパの太陽暦を比較し』、一六六八年に『中国の天文暦法を改定した』。一六七三年から一六八八年まで『欽天監正となり、シャールの後を継いだ』。一六七四年の三藩(さんぱん)の乱(清の第四代康熙帝の治世の一六七三年に起こった漢人武将による反乱)では『大砲を製作した。また、工部侍郎までなった。満洲語も習得しており康熙帝から信頼を置かれ、天文学・数学・地理学なども満洲語で講義した』。『フェルビーストは北京で亡くなり』、『マテオ・リッチらの眠るそばに埋葬された』とある。
「坤輿図説」フェルビーストが一六七二年に刊行した、当時のヨーロッパ技術による世界地図。これは清とロシアとの国境制定へも影響を与えた。
「倉皇」(そうこう)は「慌てて」の意(形容動詞語幹)。
「Nar Hhal(ナル ウワル)(死白の 鯨)」「ナル ウワル」は「Nar Hhal」のルビ、「(死白の 鯨)」は本文。
「一角魚(ウニコール)」「ウニコール」は「一角魚」のルビ。
「『和漢三才図会』に、オランダ人は小便する時片足を挙げてすること犬のごとし、とある」私は原本影印も訳本も所持しているが、未だこれがどこに載っているのか、提示出来ない。発見し次第、追記する。
「むかしギリシアに、座敷が奇麗で唾をはく所なしとて主人の顔に唾吐きしものあり。主人これを咎むると、汝の驕傲(きょうごう)を懲らすといえり。その時主人、汝みずからそのわれよりも驕傲なるに気づかざるかといえり」出所不詳。識者の御教授を乞う。
「気死」(きし)は憤死すること。或いは、怒りのあまり、気絶すること。
「『方丈記』を共訳せり」サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらで、その英訳が読める。
『皇立亜細亜協会(ロヤル・アジアチック・ソサイエチー)雑誌』“The Journal of the Royal Asiatic Society”。
「A Japanese Thoreau of the 12th Century, byクマグス・ミナカタ」「Thoreau」はアメリカの作家で詩人・博物学者でもあった、かのヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau 一八一七年~一八六二年)である。鴨長明を「十二世紀の日本のソロー」と訳したのもアジだねえ!(鴨長明は久寿二(一一五五)年生まれで建保四(一二一六)年に亡くなっており、「方丈記」は建暦二(一二一二)年成立で、十二世紀の、冠するのはごく自然である)。
以下の二段落は底本では全体が二字下げ。]
前年遠州に『方丈記』専門の学者あり。その異本写本はもとより、いかなる断紙でも『方丈記』に関するものはみな集めたり。この人小生に書をおくりて件(くだん)の『亜細亜(アジア)協会雑誌』に出でたる『方丈記』は夏目漱石の訳と聞くが、果たして小生らの訳なりやと問わる。よって小生とジキンスの訳たる由を明答し、万国袖珍文庫本の寸法から出板年記、出板会社の名を答えおきぬ。またこの人の手より出でしにや、『日本及日本人』に漱石の伝を書いて、その訳するところの『方丈記』はロンドンの『亜細亜協会雑誌』に出づ、とありし。大正十一年小生上京中、政教社の三田村鳶魚(えんぎょ)氏来訪されしおり、現物を示して正誤せしめたり。大毎社へ聞き合わせしに、漱石の訳本は未刊にて、氏死するとき筐底に留めありし、と。小生は決して漱石氏が生前かかる法螺を吹きたりとは思わざるも、わが邦人が今少しく海外における邦人の動作に注意されたきことなり。
ついでに申す、むかし寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠(りょうりゃく)して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり。長崎の浜田弥兵衛、かの商船の持主末次茂房に頼まれ行きて、オランダ人を生け捕って帰り大功名せしことあり。平田篤胤の『伊吹おろし』その他の日本書にはただただ浜田氏が猛勇でこの成功ありしよう称揚して措(お)かざれども、実は当時この風聞ペルシア辺まで聞こえ、仏人当時ペルシアでこの話を聞いて賞讃して長文を書き留めたるを見るに、浜田氏のそのときの挙動所置一々条理あり、実に何国の人も難の打ちどころなかりし美事なるやり方なりしと見え候。今日の米人なども無茶な人ばかりのようなれども、実は道理の前には心を空しうして帰服するの美風あり。これに対する者、例の日本男児など独讃的の自慢でなく、いずれの国にても通ずるような公然たる道理を述べ筋道を立てられたきことなり。
[やぶちゃん注:「遠州に『方丈記』専門の学者あり」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『簗瀬一雄を指すか』とある。簗瀬一雄(明治四五(一九一二)年~平成二〇(二〇〇八)年)は国文学者。東京生まれ。早稲田大学卒業。昭和三五(一九六〇)年に「俊恵及び長明の研究」で法政大学文学博士となった。豊田工業高等専門学校教授から豊橋技術科学大学教授となって定年退官後、同大名誉教授。昭和三四(一九五九)年から謄写版で「碧冲洞叢書」として未刊古典の翻刻を百冊も続けた(ウィキの「簗瀬一雄」に拠る。リンク先を見ると、鴨長明関連の研究書の著作物が多い)。
「大毎社」「だいまいしゃ」。大阪毎日新聞社の略。
「寛永中台湾のオランダ人が日本商船を抄掠(りょうりゃく)して、はなはだ不都合の行為をなせしことあり」「台湾(タイオワン)事件」別名「ノイツ事件」。これは寛永五(一六二八)年に長崎代官末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツ(Pieter Nuyts)との間で起きた紛争。ウィキの「タイオワン事件」によれば、『朱印船貿易が行われていた江戸時代初期、明(中国)は朱元璋以来冊封された国としか貿易を行なっていなかった上に朝鮮の役による影響により日本商船はほぼ中国本土に寄港することはできなかった。そのために中継ぎ貿易として主な寄港地はアユタヤ(タイ)やトンキン(ベトナム)などがあり、また台湾島南部には昔から明(中国)や日本の船などが寄航する港が存在した』。『当時、日本、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が日本貿易や東洋の貿易の主導権争いを過熱させる時代でもあり』、一六二二年には明の『マカオにあるポルトガル王国居留地をネーデルラント』が攻撃したが、敗退、そこでオランダは『対策として台湾の澎湖諸島を占領し』、『要塞を築いてポルトガルに備えた。このことに明(中国)は大陸から近い事を理由に澎湖諸島の要塞を放棄することを要請し無主の島である台湾から貿易をすることを求めたため』、二年後の一六二四年(寛永元年)』、『ネーデルラント(オランダ)は台湾島を占領、熱蘭遮(ゼーランディア)城を築いて台南の安平をタイオワンと呼び始める。オランダはタイオワンに寄港する外国船に』十%の『関税をかけることとした。中国商人はこれを受け入れたが』、浜田弥兵衛(生没年未詳:長崎代官で朱印船貿易商の一人でもあった博多の商人末次平蔵政直(すえつぐへいぞう 天文一五(一五四六)年)頃~寛永七(一六三〇)年)の配下の朱印船船長)ら『日本の商人達はこれを拒否した。これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し』、一六二七年(寛永四年)、『将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め』て『江戸に向かわせた』。『ノイツの動きを知った末次平蔵も行動に出』同年、『浜田弥兵衛が台湾島から日本に向けて』十六『人の台湾先住民を連れて帰国。彼らは台湾全土を将軍に捧げるためにやって来た「高山国からの使節団」だと言い、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めた。しかし当時の台湾は流行り病が激しく皆一様に疱瘡を患っていたため』、『理加という者のみを代表として拝謁させ、残りは庭に通すのみの待遇となった。彼らはあまりにも汚れていたため、城の者から』二『度と連れて来ないようにと言われたという話もあり』、『具体的な話が進められたわけではなく、遠路から労いも含め皆、将軍家光から贈り物を授か』って、一旦、『帰国の途に着いた。しかしながら、結果としてノイツの家光への拝謁を阻止することに成功し、ノイツは何の成果もなく台湾に戻った』。一六二八年六月(寛永五年五月)『タイオワン(台南・安平)のノイツは平蔵の動きに危機感を強め、帰国した先住民達を全員捕らえて贈り物を取り上げ監禁、浜田弥兵衛の船も渡航を禁止して武器を取り上げる措置に出た。この措置に弥兵衛は激しく抗議したが』、『それを拒否し続けるノイツに対し』、『弥兵衛は、終に隙をついてノイツを組み伏せ』、『人質にとる実力行使に出た』。『驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲するも』、『人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続いた。しかしその後の交渉で互いに』五『人ずつ人質を出しあい』、『互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出した。無事に長崎に着くと』、『オランダ側は日本の人質を解放、オランダ側の人質の返還を求めた。ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らは』、『そのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまう』。『この事態に対応したのはオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン』で、『状況把握のためバタヴィア装備主任ウィルレム・ヤンセンを特使として日本に派遣したが、平戸藩主松浦隆信と末次平蔵はヤンセンが江戸幕府』第三『代将軍徳川家光に会うため』に『江戸へ行くことを許さず、将軍家光の名を騙った返書を作成してヤンセンに渡した。その内容というのは主に、「先住民を捕らえ、日本人の帰国を妨害したことは遺憾である。代償としてタイオワンの熱蘭遮(ゼーランディア)城を明け渡すこと。受け入れれば』、『将軍はポルトガルを憎んでいるので』、『オランダが貿易を独占できるように取り計らう」というもので』、『ヤンセンは将軍に会えないまま』、『バタヴィアにこの返書を持ち帰った』。『しかしヤンセンがバタヴィアに戻ると総督クーンは病死しており、彼を迎えたのは新なオランダ領東インド総督であり、かつて平戸オランダ商館で商館長(カピタン)を勤めていたヤックス・スペックスだった。長年』、『日本で暮らし日本と日本人を研究していたスペックスは、これが偽書であることをすぐさま見抜き』、『ヤンセンを再び日本に派遣した』。『以後の具体的な内容を記録するものは日本側に残されていない。長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に語ったのは「平蔵は近いうちに死ぬだろう。」というもので、末次平蔵はこの後、獄中で謎の死を遂げている。当時の日本は鎖国体制に入ろうと外国との揉め事を極力嫌っていたうえ、オランダ側の記録には将軍が閣老達に貿易に関わる事を禁じていたが』、『閣老は平蔵に投資をして裏で利益を得ていたため』、『切り捨てられたらしいことが噂されているなどの記述がある』。『オランダは「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるため』、『オランダ人を解放してさえくれれば良い」とし、ノイツを解雇し』、『日本に人質として差し出した。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していたが、この対応に安堵し、これが後に鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなった。なお、ノイツは』一六三二年から一六三六年まで日本に抑留された。寛永一三(一六三六)年、『ニコラス・クーケバッケルの代理として参府したフランソワ・カロンは』、将軍家光に拝謁し、『銅製の灯架を献上。家光はこれを非常に気に入って』、『返礼として銀』三百『枚を贈った。この時、以前より平戸藩主からノイツの釈放に力を貸すよう頼まれていた老中の酒井忠勝が』、『ノイツの釈放を願うと』、『すぐに許可された。カロンが献上した灯架(燈籠)は、その後日光東照宮に飾られ、今も同所に置かれている』。寛永九(一六三二)年、『閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開』し、寛永一一(一六三四)年には『日本人が台湾に渡ることは正式に禁止され、その後は鄭氏政権が誕生するまでネーデルラント(オランダ)が台湾を統治し』た、とある。
「末次茂房」これは南方熊楠の誤り。茂房は第三長崎代官となった政直の子の名である。彼もまた「平蔵」を名乗っていたことによる誤認と思われる。
「平田篤胤の『伊吹おろし』」「伊吹於呂志(いぶきおろし)」(他の漢字表記もある。彼の号にも「気吹舎(いぶきのや)」がある)。神道家で国学者の平田篤胤(安永五(一七七六)年~天保一四(一八四三)年)の講説を門人が筆記したもの。刊行年不詳。]
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