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2017/04/09

柴田宵曲 續妖異博物館 「五色筆」

 

 五色筆

 

 [やぶちゃん注:「ごしきのふで」と読んでおく。これは中国の古伝承の中にある不思議な仙筆で、それを持って書けば、或いは、それを授けられる夢を見れば、たちどころに名文名句が書けるようになる、という魔法の筆である。]

 

       雷公圖

   筆に靈ありて夕立を祈るべく   子規

 

 筆に靈ある話は和漢ともに少くないが、筆の妖に至つては恐らく支那の專賣に歸するであらう。

 杜昭遠のまさに寵幸を失はんとする頃、その家には引き續き妖事が起つた。眞晝間、狗が雞のやうな聲を立てて鳴くなども妖の一つであつたが、或時は筆架に置いてあつた筆が急に起つて舞ひ、ダンスでもするやうに相對してぐるぐる𢌞り出した。杜がそれを見て、巳に祟りをなす以上、何か字を書いて見ろと云ふと、一方の筆が硯の中に倒れて穗先を浸し、机の上に大きく「殺」の一字を書いた。果してその年に杜は重罪に問はれたと「志怪錄」にあるが、これなどは慥かに物凄い。

[やぶちゃん注:子規の句は明治三〇(一八九七)年夏の句。句の後に底本にはない空行を設けた。

「志怪錄」明の祝允明の撰になる志怪小説集であるが、中文サイトの幾つかの原本に当たったものの、当該記事を見出せなかった。ところが、別にサイト「肝冷斎日録」のこちらに、五代の陳纂撰の「葆光錄」の「卷三」にあるものとして、以下が出る。『杜昭遠が権勢を失った』頃のこと(以下、リンク・ページの漢文部分を恣意的に正字化して繋げて見た)、

   *

家多妖物晝見。狗作雞鳴。架上双筆起舞、相對囘旋不已。『杜昭遠これを見て』、既爲祟。能自書乎。右一筆倒硯中、漬其亳、於案上大書一殺字。『昭遠は茫然とした』。其年杜陷大辟。

   *

漢文部分をリンク先の書き下しを参考にして、示してみると、

   *

家に妖物多く、晝、見ゆ。狗(いぬ)、雞鳴(けいめい)を作(な)す。架上の双筆、起舞(きぶ)し、相(あひ)對して囘旋(くわいせん)して已(や)まず。「既にして祟りを爲す。能(よ)く自書するか。」と。右の一筆、硯中(けんちう)に倒(さかしまにな)り、その亳(がう)を漬(つ)け、案上(あんじやう)に大書するに、一つ「殺」の字のみす。其の年、杜、大辟(たいへき)に陷れり。

   *

最後の「大辟」とは「重い刑罰」のこと。]

 元和年間に博陵の崔といふ男が長安に假住ひをして居つた。或日例によつて書物を讀んでゐると、窓の下から小僧が一人出て來た。身の丈(たけ)は一尺足らずで、帽子も何も被らず、黃色の著物を著てゐる。崔の腰掛けのところまで來て、あなたの硯の邊に參りたいのですが、いけませんかと云ふ。崔が取り合はないので、私はまだ若いのです、一つお役に立ちたいのですが、どうして相手になさらぬのですかと、詰め寄つて來たが、崔は依然として答へない。そのうちに腰掛けに飛び上つて、子細らしく腕組みなどをしてゐたが、袖から小さな掛物を出して見せた。粟粒のやうな細字で詩の書いてあるのが、はつきり讀める。その詩が崔に對する話の代りなのである。最後に崔が笑談半分に、お前が五色でないのが殘念だと云つたら、小僧は笑つて腰掛けの下に入り、北側の垣根にある穴の中へ入つてしまつた。崔が下男に命じてそこを掘らせると、一管の筆が出て來た。新しいもののやうに穗先が鋭かつたが、使用すること一箇月ばかり、何も變つた事はなかつた(宜室志)。

[やぶちゃん注:「宜室志唐」は張読撰の唐代伝奇の一つ。以上は「太平廣記」の「精怪三」の「宣室志」から引く「崔」である。

   *

元和中。博陵崔者。自汝鄭來、僑居長安延福里。常一日、讀書牖下。忽見一童。長不盡尺、露髮衣黃、自北垣下、趨至榻前。且謂曰。幸寄君硯席。可乎。不應。又曰。我尚壯、願備指使、何見拒之深耶。又顧。已而上榻。躍然拱立。良久、於袖中出一小幅文書。致前。乃詩也。細字如粟、歷然可辨。詩曰。昔荷蒙恬惠、尋遭仲叔投。夫君不指使、何處覓銀鉤。覽訖、笑而謂曰。既願相從、無乃後悔耶。其僮又出一詩、投於几上。詩曰。學問從君有、詩書自我傳。須知王逸少、名價動千年。又曰。吾無逸少之藝、雖得汝、安所用。俄而又投一篇曰。能令音信通千里。解致龍虵運八行。惆悵江生不相賞、應緣自負好文章。戲曰。恨汝非五色者。其僮笑而下榻、遂趨北垣、入一穴中。即命僕發其下。得一管文筆。因取書。鋒如新。用之月餘。亦無他怪。

   *]

 漫畫風な趣もあるけれど、何だかこましやくれてゐて童話にはならない。筆がものを言つたり、詩を書いて見せたりするのが、ちょつと奇拔だといふまでである。身體が小さいから小僧にしてあるので、実際は大人でなければ勤まらぬ役かも知れぬ。

 高郵の人顏筆仙は幼少より諸方に流浪し、宋の寶慶初年には筆を賣つて生活してゐたが、或日一人の仙人に遇つて仙道を授けられて以來、彼の樣子は俄かに變り、一日に十本の筆を賣ればもう店を閉ぢて、誰が何と云つても商ひをせぬやうになつた。嘗て轉運使と共に酒を飮み、ほゞ一斗ばかりの酒を飮み盡して立ち去つた。その時彼は携へてゐた筆を轉運使の舟に忘れて行つたので、轉運使は傍の人々に命じ、彼の許に送り返させようとしたが、重さが千斤もあつて一人の力では到底持ち上げることが出來ぬ。或男が怪しんで、その筆の一本を裂いて見たら、管の中に一枚の紙が入つて居り、筆を裂いた人の姓名、未來の禍福をはじめ、筆を裂いた月日まで明記してあつた。一本だけではない。どの筆を裂いて見ても同樣だつたので、世人は彼を筆仙と呼ぶに至つた。「列仙全傳」に入れたのもそのためであらうが、彼は九十七の時、庭前に積んだ葦に火を點じ、その煙りに乘つて昇天した。

[やぶちゃん注:「寶慶初年」南宋の理宗の治世に使用された元号で元年はユリウス暦一二二五年。

「轉運使」(てんうんし)唐代中期に置かれた官職で、当初は各地の産物を中央に運搬することを司ったが、宋代になると地方官僚の監察や刑獄などをも兼務した。

 以上は「有象列仙全傳」の「卷八」にあり、国立国会図書館デジタルコレクションの画像のここで視認出来る。]

 廉廣といふ魯の人が藥草を採りに行つて風雨に過つた。已むを得ず大木の下に避けたが、雨はなほ降り續いて、夜半に至り漸く止んだ。足に任せて步き出したら、隱士然たる人に出逢ひ、この夜更けにどうしてこんなところに居るかと尋ねられた。二人は暫く林の中で話してゐるうちに、隱士が突如として、わしはかう見えても畫の名人ぢや、畫法をお前に傳授しようか、と云ひ出した。廣が唯々として畏まつてゐると、それではお前に筆を一本上げる、これをひそかに持つて居れば、どんな畫でも思ふやうにかけて、然もその畫いたものには靈がある、と云ひ、懷ろから五色の筆を一本取り出してくれた。廣がお禮を述べてゐる間に、隱士の姿は見えなくなつたが、その後ためしに畫をかいて見るのに、彼の言の通りである。廣も用心して、畫をかくことは誰にも知られぬやうにしてゐた。

 その後中都縣に行つた時、李令なる者が畫が好きで、どこから聞き込んだものか、廣に酒を飮ませて頻りに畫の事を尋ねる。廣は口を緘して云はなかつたが、あまり追窮されるので、仕方なしに魔軍の兵百餘名がこれから戰ひに赴くところを壁に畫いた。一たびこの噂が傳はると、今度は趙といふ武官からも命ぜられ、廣はまた魔軍の圖を壁に畫いた。二箇の魔軍はその夕方に活動をはじめ、兩者の間に猛烈な戰ひが開始された爲、建物も何も皆ぶちこはされてしまふ。賴み手の李や趙は疾くにその場に居らず、廣も責任を問はれることを恐れて下邳まで逃げ出した。ところがこゝの役人もまた切に畫をかけと云ふ。廣は實際のところを隱さずに告げた。私は圖らずも或神人から畫法を授かりましたが、絶對に筆を執らぬことにして居ります、畫けば必ず不思議な事が起るからです、どうぞ御勘辨下さい、と云つたけれど役人はなかなか承知しない。それは魔軍などを畫くからだ、戰はないやうなものを畫けばよからう、といふので、龍を畫くことを命ぜられた。廣は一心不亂に龍を畫き、ちよつと筆を休めた途端に、雲霧湧き起り、恐ろしい風が吹き出した。畫龍は忽ち雲に乘じて舞ひ上り、連日豪雨になつたので、役人は洪水の民家を流すのを憂へ、廣は妖術を使つたものとして、遂に獄に下された。廣が頻りに妖術にあらざることを訴へても、雨は容易に止みさうもないので、空しく獄内に號泣してゐると、その夜の夢にいつかの神人が現れた。汝宜しく一大鳥を畫き、これに乘つて遁るべし、といふのである。廣はこの告げに從ひ、夜の明けるのを待つて一大鳥を畫き、一呵すれば直ちに兩翼をひろげ、廣を乘せて泰山に到つた。こゝで神人に再會すると、お前は人間にしやべるから厄難に遭ふのだ、わしがお前に筆を與へたのは、お前を幸福にするつもりであつたが、反對に禍ひを招いてしまつた、もうあの筆は還すがよろしい、と云つた。懷中を探つて筆を還したら、神人はもうどこにもゐなかつた。廣はこの後全然畫がかけなくなり、下邳の畫龍もまたもとの泥壁になつてしまつた。

[やぶちゃん注:「廉廣」「れんこう」。

「魯」現在の山東省。(グーグル・マップ・データ)。

「中都縣」旧山東省泰安県の古称。現在の山東省泰安市泰山区。(グーグル・マップ・データ)。

「下邳」「かひ」。現在の江蘇省徐州市邳州(ひしゅう)市。(グーグル・マップ・データ)。

 以上、柴田は珍しく出典を記していないが、唐代伝奇小説集の「大唐奇事」の一章である。「太平廣記」の「畫四」にある同書から引いた「廉廣」を示す。

   *

廉廣者、魯人也。因採藥、於泰山遇風雨、止於大樹下。及夜半雨晴。信步而行。俄逢一人、有若隱士。問廣曰。君何深夜在此。仍林下共坐。語移時、忽謂廣曰。我能畫、可奉君法。廣唯唯。乃曰。我與君一筆、但密藏焉。卽隨意而畫、當通靈。因懷中取一五色筆以授之。廣拜謝訖、此人忽不見。爾後頗有驗。但祕其事、不敢輕畫。後因至中都縣。李令者性好畫、又知其事、命廣至。飲酒從容問之。廣祕而不言。李苦告之。廣不得已。乃於壁上畫鬼兵百餘。狀若赴敵。其尉趙知之、亦堅命之。廣又於趙廨中壁上。畫鬼兵百餘。狀若擬戰。其夕、兩處所畫之鬼兵俱出戰。李及趙既見此異、不敢留。遂皆毀所畫鬼兵。廣亦懼而逃往下邳。下邳令知其事、又切請廣畫。廣因告曰、「余偶夜遇一神靈、傳得畫法、每不敢下筆。其如往往爲妖。幸察之。其宰不聽。」。謂廣曰、「畫鬼兵即戰、畫物必不戰也。」。因命畫一龍。廣勉而畫之。筆纔、雲蒸霧起、飄風倏至。畫龍忽乘雲而上。致滂沲之雨。連日不止。令憂漂壞邑居。復疑廣有妖術、乃收廣下獄、窮詰之。廣稱無妖術。以雨猶未止、令怒甚。廣於獄號泣、追告山神。其夜、夢神人言曰、「君當畫一大鳥、叱而乘之飛、即免矣。」。廣及曙、乃密畫一大鳥。試叱之、果展翅。廣乘之、飛遠而去。直至泰山而下。尋復見神。謂廣曰、「君言泄於人間、固有難厄也。本與君一小筆、欲爲君致福、君反自致禍、君當見還。」。廣乃懷中探筆還之。神尋不見。廣因不復能畫。下邳畫龍、竟爲泥壁。

   *]

 吾々はこの話に於て眞の支那らしいものにぶつかつたやうな氣がする。前の話に汝の五色にあらざるを恨むとあり、魔の神人より與へられたのも五色筆であるのを見れば、そこに何かの神祕が含まれてゐるらしい。たまたま「雞肋」の中に「江淹夢五色筆」といふ六字が見當つたので、それを手がかりに搜して見たら、「太平廣記」に次のやうな記載が出て來た。江淹が若い時分に人から五色筆を授けられるといふ夢を見、それから頓(とみ)に文彩俊發するやうになつた。ところがその後どのくらゐたつての事か、夢に郭景純と稱する一丈夫が現れて、前にあなたに貸した筆を還して貰ひたいと云つた。淹は早速懷ろを探つて五色筆を取り出し、その人に渡したが、この事あつて以來、彼の文章は全く衰へ、世間では才が盡きたものと評判したといふのである。後に筆を還して貰ひたいと云つた男が郭景純ならば、前の貸してくれた男も當然同人でなければならぬ。要するにこれは夢の中だけの事で、五色筆は現實に所持したのでなく、夢で筆を授かると見て文彩俊發し、また筆を還すと見て文章が衰へたといふことになるのであらうか。天狗に手を貸してくれと云はれて字の書けなくなつた話は、江戸時代の日本にもあつた。廉廣及び江淹の場合に就いて云へば、五色筆はその人の持ち合せぬ才能を與へるものと見てよからう。

[やぶちゃん注:「雞肋」宋(北・南)の荘綽(そうしゅく)が雑事記聞を集めた小説集「雞肋編」のことか。

「江淹夢五色筆」の「江淹」(こうえん 四四四年~五〇五年)は南北朝時代に実在した文学者。ウィキの「江淹によれば、『本籍地は済陽郡考城県(現在の河南省蘭考県)。門閥重視の貴族社会であった六朝時代において、寒門の出身でありながら、その文才と時局を的確に見定める能力によって、高位に上りつめ生涯を終えた』とし、本話とそれに似た以下のエピソードが載る。『江淹のエピソードとして最も有名なものは、彼の文才が晩年に枯渇したという「江淹(江郎)才尽」で』『梁の鍾嶸の『詩品』によると「江淹が宣城太守を辞任し、首都建康への帰路の途中、夢に郭璞を名乗る美丈夫が現れた。江淹に長年預けてきた自分の筆を返してほしいと言ったので、江淹は懐にあった五色の筆を彼に返したところ、それ以来詩が作れなくなり、世間の人々は江淹の才が尽きたと言うようになった」とされている』。また、『唐の李延寿の『南史』では「夢に西晋の詩人張協が現れ、預けていた自分の錦を返してほしいと言った。江淹が懐にあった錦を取り出したところ、数尺しか残っていなかった。張協はこんなに使われては用がないと怒り、錦を丘遅』(きゅうち 四六四年~五〇八年:南梁の官僚で文人)に与えてしまうと見て目覚めたが、それ以後、『江淹の文才が尽きてしまった」とやや異なる話を伝える。これらのエピソードにもとづき、後世、文人の文才が枯渇することを意味する「江淹(江郎)才尽く」という成語が生まれた』とある。「江淹夢五色筆」もその後者から分派した成句であろう。

 以上は「太平廣記」の「夢二」の「南史」から引いたとする「梁江淹」。

   *

宣城太守濟陽江淹少時、嘗夢人授以五色筆、故文彩俊發。後夢一丈夫、自稱郭景純、謂淹曰。前借卿筆、可以見還。探懷得五色筆、與之。自爾淹文章躓矣。故時人有才盡之論。

   *]

 李林甫が宰相になつた初め、管子文といふ一布衣がやつて來て、相國に一言申し上げたいことがあると云ふ。これを賓館に通して月下に相見たところ、滔々として抱懷を述べた。その意見はこゝには別に必要がないから省略するが、彼は現代によくある自己推薦の徒と違つて、自分はただ愚存をお耳に入れたいために參上したので、お聞き濟みの上は何も用ゐるところのない人間である、これで野人に歸りたいと云つた。林甫は政治家だけに堅くこれを留め、一方では暗に人をして逐はしめた。子文は南山中の一石洞に入つて、それきり姿が見えず、あとには一本の大きな筆があるだけであつた。その筆は林甫の書閣に置かれ、香を焚いてこれを拜したりしたが、一夕忽ち五色の鳥となり、どこかへ飛び去つた、と「大唐奇事」にある。倂しこの話は筆が五色の鳥に化したので、筆が五色であつたとは書いてない。筆が鳥に化するのは慥かに奇譚であるし、五色といふ點でこじつければ繋がらぬこともあるまい。偶然見當つたまゝを附け加へて置く。

[やぶちゃん注:「李林甫」(?~七五二年)唐の玄宗皇帝の時代の宰相。唐の宗室出身で諸官を歴任したが、「口に蜜あり、腹に剣あり」と陰口された佞臣。七三四年に宰相となると,政敵を次々に退け、玄宗の寵姫武恵妃や寵臣であった宦官高力士に取り入って、玄宗のお気に入りとなり、権勢を揮った。権勢維持のために大軍を率いる節度使に異民族を登用、安史の乱の元凶の一人となった安禄山もその一人であった。没後は同じ奸臣であった楊国忠から、生前に突厥(とっけつ)と結んで謀反の意があったと讒訴されて官爵を剥奪され、子どもらも流罪となった。

「相國」「しやうこく(しょうこく)」。中国で宰相のことを指す。本邦のそれはそれを借用した、律令制の太政官の最高職である太政大臣の唐名である。

 以上はやはり「太平廣記」の「異人二」に、やはり「大唐奇事」を出典として引く「管子文」である。以下に全文を示しておく。

   *

李林甫爲相初年、有一布衣詣謁之、閽吏謂曰、「朝廷新命相國。大寮尚未敢及門。何布衣容易謁之耶。」。布衣執刺。待於路傍。高聲自稱曰、「業八體書生管子文、欲見相國伸一言。」。林甫召之於賓館、至夜靜、月下揖之。生曰、「僕實老於書藝、亦自少遊圖籍之圃、嘗竊見古昔興亡、明主賢臣之事、故願謁公、以伸一言。」。林甫曰。「僕偶備位於輔弼。實非才器、已恐不勝大任、福過禍隨也。君幸辱玉趾、敢授教於君、君其無惜藥石之言、以惠鄙人。」。生曰、「古人不容易而談者、蓋知談之易聽之難也。必能少覽容易之言、而不容易而聽、則涓塵皆可以裨海岳也。況聖哲云、『一言可以興邦、一言可以喪邦。』公若聞一言即欲奉而行之。臨一事即恣心狥意。如此、則雖日納獻言之士、亦無益也。」。林甫乃容恭意謹而言曰、「君但一言教僕、僕當書紳而永爲箴誡。」。生曰、「君聞美言必喜、聞惡言必怒。僕以美言譽君、則無裨君之事。以惡言諷君。必犯君之顏色。既犯君之顏色、君復怒我。即不得盡伸惡言矣。美言狥而損、惡言直而益。君當悉察之。容我之言、勿復加怒。」。林甫不覺膝席而聽。生曰、「君爲相、相天子也、相天子、安宗社保國也。宗社安。萬國寧、則天子無事。天子無事、則君之無事。設或天下有一人失所、即罪在天子、罪在天子、焉用君相。夫爲相之道、不必獨任天下事、當舉文治天下之民、舉武定天下之亂、則仁人撫疲瘵。用義士和戰。自修節儉、以諷上、以化下、自守忠貞、以事主、以律人、固不暇躬勤庶政也。庶政得人卽治。苟不得人。雖才如伊呂、亦不治。噫。相國慎之。」。林甫聽之駭然、遽起拜謝之。生又曰、「公知斯運之通塞耶。」。林甫曰、「君當盡教我、我當終身不忘。」。生曰、「夫治生亂、亂生治、今古不能易也。我國家自革隋亂而治、至於今日、亂將生矣。君其記之。」。林甫又拜謝。至曙、欲聞於上。縻以一爵祿。令左右潛守之。堅求退曰。我本秪欲達一言於公。今得竭愚悃、而又辱見納、又何用阻野人之歸也。」。林甫堅留之不得、遂去。林甫令人暗逐之、生至南山中一石洞、其人尋亦入石洞、遽不見生。唯有故舊大筆一。其人携以白林甫、林甫以其筆置於書閣、焚香拜祝。其夕、筆忽化爲一五色禽飛去。不知所之。

   *]

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