ある時 山村暮鳥
ある時
その聲でしみじみ
螽斯(こほろぎ)、螽斯(こほろぎ)
わたしは讀んでもらひたいんだ
おまえ達もねむれないのか
わたしは
わたしは
あの好きな毗尼母經(びにもきやう)がよ
[やぶちゃん注:「螽斯(こほろぎ)」これは見た目ではなかなか困る。この漢語「螽斯」は圧倒的にキリギリス(剣弁(キリギリス)亜目キリギリス下目キリギリス上科キリギリス科Tettigoniidae の仲間、或いは、キリギリス亜科 Gampsocleidini 族キリギリス属
Gampsocleis)を指すが、「こほろぎ」は直翅(バッタ)目剣弁(キリギリス)亜目コオロギ上科 Grylloidea に属するコオロギ類である。ポイントは詩人が「おまえ達もねむれないのか」と呼びかけ、しかも「その聲でしみじみ」「わたしは」あの御「經」(後注参照)を「讀んでもらひたいんだ」という点にある。個人的には鳴き声としては変化と寂しさに富むコオロギが私は感性的には好きだが、お経を読むような持続的な「声明(しょうみょう)」の如き唸りの響きという感じからは、圧倒的にキリギリスに軍配が上がるように私には思われるのである。
「毗尼母經(びにもきやう)」原典はサンスクリット写本と考えられているが、現在は漢訳のみが伝わる原始仏教の経典の一つ。教えよりも戒律に関するエピソードを伝える内容が主とされるものという。]