甲子夜話卷之三 30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事
3-30 佐渡の潮幷象潟の勝景變ずる事
佐渡の海は潮汐の進退と云ことなし。止水の如く、海潮の深さいつにても極りてあることなりとぞ。故に海岸の岩石に、積年の鹹凝りて、一帶の白色を成せり。近年一湊地震にてゆり崩れ、海波淺くなりしに、海面より尺餘もかの白帶出たり。是にて地震に地の下りたるを驗すと云。羽州の象潟は、本朝三景の一と稱せしが、先年地震にてゆり崩し、入海の水皆干て、今は風景更に無しと云。西洋の説に、地は實したるものゆへ、橫へ震することは無く、唯上下へゆることに言しは宜なり。
■やぶちゃんの呟き
「佐渡の海は潮汐の進退と云ことなし」というのは無論、誤認である。恐らくは対馬海流の強い影響下にあること潮の満ち引きが視認し易い砂浜海岸があまり多くないことなどから、潮汐現象を明確に視認し難く、このような誤伝が伝わったものであろう。
「鹹」「しほ」。塩。海塩。
「凝りて」「こりて」。
「一帶」「ひとおび」と訓じておく。
「一湊地震」「一湊」は「いちみなと」と訓じてここで切っておく。これは佐渡島の小木(おぎ)の湊(みなと)付近で、享和二年十一月十五日(グレゴリオ暦一八〇二年十二月九日)で発生した佐渡小木地震(享和佐渡地震)のことを指していよう。ウィキの「佐渡小木地震」によれば、この地震はマグニチュード六・五から七・〇と推定されるもので、「大日本地震史料」によると、「小木町は総戸数四百五十三戸が殆んど全潰し、出火して住家三百二十八戸、土蔵二十三棟、寺院二ヶ所を焼失、死者十八名に達し、『湊は、地形変じて干潟となった」と記録されている』(「一話一言」「佐渡年代記」)が、『隆起した時刻と地震の時系列を示す資料は不十分で『佐渡年代記』には巳刻』(午前十時頃)『に所々破損する程度の地震が起こり、未刻』(午後二時頃)『に大いに震い』、『御役所を始め』、『人家に至るまで破損に及んだという。なお、金鉱山の坑夫たちは数日前から異常を察知し』、『坑道に入らずにいたため』、『犠牲者は無かったと伝えられている』。『実際に小木半島の海岸では約』二メートルもの『隆起が生じたと考えられており、露出した中新世の枕状熔岩を見ることができる』とある。静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年で十九年も前であるが、彼は文化三(一八〇六)年に家督を譲って隠居しており、例えば隠居前の聴き書きや隠居直後のそれに基づくとするなら、この「近年」は不自然な謂いとは私には思われない。
「地震に地の下りたるを驗すと云」「地震」のため「に地」面の」位置が遙か下の、元の海中であったところまで「下」(さが)「りたるを驗」(けみ)「す」(現認した)。
「羽州の象潟は、本朝三景の一と稱せしが、先年地震にてゆり崩し、入海の水皆干て、今は風景更に無しと云」「入海の水皆干て」は「いりうみのみづ」、「みな」「かはきて」と訓じておく。これは文化元年六月四日夜四ツ時(グレゴリオ暦一八〇四年七月十日午後十時頃)に出羽国を中心として発生した津波を伴った大地震、象潟地震によって象潟が隆起して陸地化してしまったことを指す。この地震は鳥海山の噴火活動と連動したものと考えられ、マグニチュードは推定で、七・〇越えか、その前後とされる。ウィキの「象潟地震」によれば、本荘藩及び庄内藩領内周辺では潰れた家屋は五千五百軒余、死者は三百六十六人に及び(夜間であったために、倒壊家屋の中で多くの被害者が出た)、象潟・遊佐(ゆざ)・酒田などでは『地割れ、液状化現象による噴砂が見られ、象潟、遊佐付近では家屋の倒壊率が』七〇%に達した、とある。
「地は實したるものゆへ」「實」は「さね」或いは「じつ」か? 所謂、根本がある・根がしかりと張っているものであるから、の謂いで採る。だから「橫には震」(ゆ)「することは無く、唯」「、上下へ」のみ「ゆる」というのであろう。これは単なる人体の地震の際の感じ方からの印象表現のようにも見えるが、ネットのQ&Aサイトの回答を見ると、プレート間の歪みが溜まり易い日本列島では、押し合って断裂が起こる逆断層が多く、押し合った結果であることから縦にズレることが多い.とし、その場合、物理的にも縦揺れ成分が多いと考えられるとする。因みに逆断層であっても横ズレの成分が多い場合は、横揺れの感じが強くえすることはあるかも知れないといった趣旨の内容が書かれてあった。
「宜なり」「うべなり」。