南方熊楠 履歴書(その6) ロンドンにて(2)
その時ちょうど、『ネーチュール』(御承知通り英国で第一の週間科学雑誌)に、天文学上の問題を出せし者ありしが、誰も答うるものなかりしを小生一見して、下宿の老婆に字書一冊を借る。きわめて損じた本でAからQまであって、RよりZまで全く欠けたり。小生その字書を手にして答文を草し、編輯人に送りしに、たちまち『ネーチュール』に掲載されて、『タイムス』以下諸新紙に批評出で大いに名を挙げ、川瀬真孝子(当時の在英国公使)より招待されたることあるもことわりし。これは小生見るかげもなき風してさまよいおるうちは日本人一人として相手にするものなかりしに、右の答文で名が多少出ると招待などはまことに眼の明らかならぬ者かなと憤りしゆえなり。(小生はこの文出でし翌週に当時開き立てのインベリヤル・インスチチエートより夜宴に招かれたるなり。)この答文の校正ずりを手にして乞食もあきるるような垢じみたるフロックコートでフランクスを訪ねしに(この人は『大英百科全書』一一板にその伝ありて、英国にかかる豪富にして好学の人ありしは幸いなり、と記しあり)、少しも小生の服装などを気にかける体(てい)なく、件(くだん)の印刷文を校正しくれたる上、
[やぶちゃん注:以下の「自覚しおる。」までの一段落は底本では全体が二字下げ]
字書に、sketch と outline を異詞同意(シノニム)とせり。小生もそのつもりで「星共が definite sketch を画き成す」とか書きたるを見て、これは貴下が外国人ゆえかかる手近きことすら分からぬ。これは英人に生まれねば分かりがたきことなり。シノニムはただ多く似た詞というほどのことなり。決して全く同一の意味というにあらず。Sketch は図の猫Aのごとく、sketch はBのごとし。definite なるは sketch にあらずしてと outline なり。sketch は indefinite にして definte ならず、と教えられたり。他人は知らず、小生などは、外国語を学ぶに字書のみあてにしてこのような誤ち今もはなはだ多し、と自覚しおる。
大いなる銀器に鵝(が)を全煮(まるに)にしたるを出して前に据え、みずから庖丁してその肝をとり出し、小生を饗せられし。英国学士会員の耆宿(きしゅく)にして諸大学の大博士号をいやが上に持ちたるこの七十近き老人が、生処も知れず、たとい知れたところが、和歌山の小さき鍋屋の悴(せがれ)と生まれたものが、何たる資金も学校席位も持たぬ、まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日始めて学問の尊きを知ると小生思い申し候。それより、この人の手引きで(他の日本人とかわり、日本公使館などの世話を経ずに)ただちに大英博物館に入り、思うままに学問上の便宜を得たることは、今日といえどもその例なきことと存じ候。大英博物館にては主として考古学、人類学および宗教部に出入し、只今も同部長たるサー・チャーレス・ルチュルス・リード氏を助け、またことに東洋図書頭サー・ロバート・ダグラス(この人は大正と改元する少し前に四十年勤続ののち辞職せるを、世界中の新紙に賞讃止まず、わが邦の諸大新聞にも何のことやら分からずに、ほめ立てたり)と、余(われ)汝(なんじ)の交りをなし、『古今図書集成』などは縦覧禁止なりしも、小生に限り自在に持ち出しを許されたり(『大英博物館日本書籍目録』ダグラス男の序に小生の功を挙げたり)。この大英博物館におよそ六年ばかりおりし。館員となるべくいろいろすすめられたれども、人となれば自在ならず、自在なれば人とならずで、自分は至って勝手千万な男ゆえ辞退して就職せず、ただ館員外の参考人たりしに止まる。そのあいだ、抄出また全文を写しとりし、日本などでは見られぬ珍書五百部ばかりあり、中本(ちゅうぼん)大の五十三冊一万八百頁に渉(わた)り、それをとじた鉄線がおいおい錆びるには、こまりきりおり候。
[やぶちゃん注:「ネーチュール」(Nature)は一八六九(明治二年相当)年十一月四日、イギリスで天文学者ノーマン・ロッキャー(Sir Joseph Norman Lockyer 一八三六年~一九二〇年)によって創刊された総合学術雑誌。現在も続いて発行されており、世界でも特に権威のある学術雑誌の一つとされている。
「天文学上の問題を出せし者ありし」所持する「南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇」(二〇〇五年集英社刊。訳本で訳者は松居竜五・田村義也・中西須美氏)の当該論文の松居竜五氏の解説によれば、一八九三年八月十七日号の『読者投稿欄に掲載されたM・A・Bという人物の』『全五条からなる』『質問』で、『基本的にはアッシリアからギリシアに至る星座の異同を問うたもので』、『最後の二条は、その他の民族が固有の星座を持っているか否かという問いかけと、そうした星座の異同を、それぞれの民族の近親関係の判断のために利用できないかという提案からなっていた』とあり、南方熊楠の日記には、特にこの最後の二条に就いて答えようと起稿した旨の記載が載るとあり、稿は同年八月三十日に完成したと記されてある。即ち、『この日付を信頼するならば』、熊楠はこれをたった『二週間弱で書き上げたことになる』とある。但し、松居氏はこの「履歴書」の脱落した辞書を片手に書いたとする回顧は、『独特の誇張が含まれていいるように思われる』と注意喚起を促しておられる。なお、同翻訳書にはその投稿質問文も「参考資料」として訳出されてある。
「『ネーチュール』に掲載」掲載は一八九三年十月五日号の『ネイチャー』誌の読者投稿欄であった。タイトルは“The Constellations of Far East”(「極東の星座」)であった。現在これは、事実上の南方熊楠の処女学術論文と位置づけられている。
「タイムス」“The Times”(タイムズ)。一七八五年創刊のイギリスの保守系高級新聞。世界最古の日刊新聞であり、現在も発行されている。
「新紙」新聞。
「川瀬真孝子(当時の在英国公使)」「子」(し)は尊称。当時のイギリス公使であった河瀬真孝(かわせまさたか 天保一一(一八四〇)年~大正八(一九一九)年)である。ウィキの「河瀬真孝」によれば、元長州藩士で、当初は石川新五郎或いは石川小五郎と『称したが、のちに河瀬真孝、河瀬安四郎と改名』したとある。『周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の明倫館に学』び、文久二(一八六二)年に先鋒隊に入隊、翌年の、長州藩の外国船砲撃について幕府は使節団を現地へ派遣したが、長州藩兵の攻撃を受けて一時占拠されるという『朝陽丸事件での幕府使節団暗殺』計画『の首魁とされる』。元治元(一八六四)年には『御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督とな』っている。慶応元(一八六五)年の『高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した』。慶応三(一八六七)年、『トーマス・ブレーク・グラバーの協力の下イギリスに渡り』、明治四(一八七一)年まで滞在、『帰国後は工部少輔、ついで侍従長に就任するも』、明治六年には『イタリア、オーストリアに赴任。在任中にヴィンチェンツォ・ラグーザを工部美術学校彫刻科の講師として日本へ招く事に成功している』。明治一六(一八八三)年には司法大輔となるが、明治一七(一八八四)年から明治二六(一八九三)年まで公使としてイギリスに在住した。帰国して翌年に『枢密顧問官となり、死去まで務め』ている。熊楠を招待したのは公使勤務最後の年であった。
「小生見るかげもなき風してさまよいおる」「南方熊楠コレクション」の注によれば、前年の『一八九二年八月二十八日の日記にも、セントラルパークで巡査に呼び止められたのは衣服がきたないからであろうと』記しているとある。
「インベリヤル・インスチチエート」The Imperial Institute。イギリス王立研究所。
「大英百科全書」ブリタニカ百科事典(Encyclopædia Britannica)。その第十一版は、一九一〇年から翌一九一一年にかけて発行されたもので、全二十九巻から成り、二十世紀初頭の知識の集大成として評価が高い版である。
「sketch」ここは附図から見て、「略図・素描・点描」の謂いであろう。
「outline」ここは同じく附図から、「輪郭・外形」の謂いであろう。
「異詞同意(シノニム)」synonym。同意語・類義語・同物異名。
「definite」明確な。確定的な。
「indefinite」明確でない。不確定の。不明瞭な。
「鵝(が)」鵞鳥(がちょう)。イギリスでは好んで食用とされ、クリスマスはガチョウの丸焼き(ロースト・グース)が伝統。
「肝」鳥の「モツ」(内臓)料理であるジブレッツ(giblets)は西洋ではかなり好まれる。
「英国学士会員」。一六六〇年に国王チャールズ二世の勅許を得て設立された、世界で現存する最も古い科学学会であるイギリスのロイヤル・ソサイエティ(Royal Society)の会員のことであろう。
「耆宿(きしゅく)」「耆」も「宿」も「老・旧」の意で、学徳の優れた老人。老大家。
「異数」(いすう)は「特別の待遇・特別な恩恵」の意もあるが、ここは「他に例がないこと・異例」の意。
「大英博物館」British Museum。世界最大規模を誇るロンドンにある国立博物館。一七五三年に設立された。
「サー・チャーレス・ルチュルス・リード」Sir Charles Hercules Read(一八五七年〜一九二九年)。「片岡プリンス」のところで既注。
「東洋図書頭」「頭」は「がしら」か。大英博物館東洋書籍部門の部長。
「サー・ロバート・ダグラス」ロバート・ケナウェイ・ダグラス(Sir Robert Kennaway Douglas 一八三八年~一九一三年)はイギリスの中国学者。サイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載によれば、『中国領事館に勤務』後、『大英博物館へ』移り、『東洋書籍部の初代部長を務め』た。『大英博物館館長フランクス卿の後見を受けてやって来た』熊楠『と出会い、その知識に瞠目したダグラスは熊楠に東洋書籍部の仕事を手伝わせ』たが、『熊楠は大英博物館内で何度ももめ事を起こし、その度にダグラスが事態の収拾に当た』ったとある。
「古今図書集成」十八世紀の清の百科事典(類書)である「欽定古今図書集成」のことか。現存する類書としては中国史上最大の、巻数一万巻に及ぶ。
「大英博物館日本書籍目録」原題不詳。
「ダグラス男」「男」は前にも出たが、「男爵」の略。
「抄出また全文を写しとりし、日本などでは見られぬ珍書五百部ばかりあり、中本(ちゅうぼん)大の五十三冊一万八百頁に渉(わた)り」「南方熊楠コレクション」の注によれば、後年書かれた膨大なメモ書きである『「田辺抜書」に対し、「ロンドン抜書」と呼ばれている。五十三冊とあるが』、現存するのは『五十二冊』で、その『五十二冊目は「明治三十三年七月二十六日―至』以下が空白で『終りの月日はなく』、しかも『約一九〇ページを写したのみで』その後は『余白となっている』ことから、この「五十三冊」は「五十二冊」の誤りではないかと疑義を呈してある。]
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