南方熊楠 履歴書(その5) ロンドンにて(1)
さて小生、ロンドンにありしこと九年、最初の二年は亡父の訃(ふ)に摂して大いに力を落とし、また亡父の死後次弟常楠その家を継ぎしが、年ようやく二十三、四にて、兄より財産分けに対し種々の難題を持ちこまれ、いろいろ困りたることもありとて小生への送金も豊かならず。小生は日々、ケンシングトン公園にゆき牧羊犬の中に坐して読書し、また文章を自修せり。そのうち正金銀行支店より招かれ今の英皇新婚の式の行列を観しことあり。その座にて足芸師美津田(みつた)という人と知り合いになる。この人はかつて明治九年ごろすでにその後小生が歴遊せし諸国を演芸して廻りしことありて、談(はなし)が合うのでその家へおとずれしに、この人の知る片岡プリンスという者来たり合わす。これは故土井通夫氏の甥なるが、何とも知れぬ英語の名人。
[やぶちゃん注:南方熊楠がイギリスのロンドンに渡ったのは明治二五(一八九二)年九月で、そこから日本に帰国したのは明治三三(一九〇〇)年であるから、実際の滞英期間は八年であった。
「英皇新婚の式」これは後のグレートブリテン及びアイルランド連合王国(イギリス)ならびに海外自治領の国王ジョージ五世(George V, George Frederick
Ernest Albert 一八六五年~一九三六年)ヨーク公時代、メアリー・オブ・テック(Mary of Teck 一八六七年~一九五三年)と結婚したその式典を指す。一八九三年七月六日にセント・ジェームズ宮殿のチャペル・ロイヤルで結婚式は執り行われている(彼は一九一〇年五月六日にエドワード七世の死去に伴い、「ジョージ五世」として王位を継承し、翌一九一一年六月二十二日にウェストミンスター寺院で戴冠式を執り行った)。
「足芸師美津田(みつた)」美津田瀧次郎(嘉永二(一八四九)年?~?)は足芸(あしげい:仰向いて寝て挙げた足だけで樽や盥などを回したりする曲芸)を得意としたサーカス芸人である。「南方熊楠コレクション」の注によれば、南方熊楠の明治二六(一八九三)年『七月の日記に「美津田滝次郎を訪、色々の奇談をきく」とあるように、しばしば親交を結んだ』とあるので、検索して見たところ、ブログ「熊楠の庭」の『南方熊楠「秘魯國に漂著せる日本人」』(大正元(一九一二)年十月発行『人類學雜誌』初出)の電子化中にその日記が引用されているのを見出し、その部分(日記引用後にも)には美津田のかなり詳しい事蹟が記されていた。以下に当該部を引かさせて戴く(「秘魯國」は「ペルー」のこと。引用では「秘」を始めとして一部の漢字をさらに正字化し、一部の記号を削除・変更した。ブログ主に謝意を表する)。『明治廿六年七月十一日夕、龍動市[やぶちゃん注:後でルビが振られる通り、「ロンドン」市。]クラパム區トレマドク街二十八館主美津田瀧次郎氏を訪ふ。此月六日皇太孫ジョールジ(現在位英皇)の婚儀行列を見ん迚、ビショプスゲイト街、橫濱正金銀行支店に往し時相識と成し也。此人武州の産、四十餘歳、壯快なる氣質、足藝を業とし、毎度水晶宮等にて演じ、今は活計豐足すと見ゆ。近日西班牙に赴き興行の後歸朝すべしと云ふ。子二人、實子は既に歸朝、養子のみ留り在り、其人日本料理を調へ饗せらる。主人明治四年十一月本邦出立支那印度等に旅する事數年、歸朝して三年間京濱間に興行し、再び北米を經て歐洲各國より英國に來り、三年前より今の家に住すと云々。旅行中見聞の種々の奇談を聞く。西印度諸島等の事、大抵予が三四年前親く見し所に合り、氏、祕魯國に往しは明治八年十二月にて、六週間計(ばか)り留りし内奇事有り。平田某次郎と云ふ人、七十餘歳と見え、其甥三十餘と見えたり。此老人字は書けども、本朝の言語多く忘却しぬ。美津田氏一行本邦人十四人有て、毎日話し相手に成し故、後には九分迄本邦の語を能するに及び、此物彼品を日本にて何と言りやなど問たり。兵庫邊の海にて風に遭ひ漂流しつ。卅一人乘たる船中三人死し、他は安全にて祕魯に著せり。甥なる男當時十一歳なりし』。『其後他は盡く歿し、二人のみ殘り、老人は政府より給助され、銀行に預金して暮し、甥は可なり奇麗なる古着商を營み居れりと。老人も以前は手工を營みし由、健全長壽の相有て、西班牙人を妻(めと)れりと。其乘來りし船は、美津田氏一行が著せし三年前迄、公園に由來を記して列し有りしが、遂に朽失せぬ。美津田氏一行出立に臨み、醵金して彼人に與へ、且つ手書して履歷を記せしめ、後桑港[やぶちゃん注:「サンフランシスコ」。]に著するに及び、領事館へ出せしに、祕魯政府に照會の上送還せしむべしと也。以後の事を聞及ばずと云ふ。一行リマ市を離るゝ時、老人も送り來り、名殘惜げに手巾を振𢌞し居りしと。美津田氏等桑港に著せし時、在留の邦人纔に三人、領事柳谷と云ふ人親ら旅館へ來訪されたり云々』。『美津田氏は質直不文の人なれど、假名付の小説を能く讀みたり、其談話は一に記臆より出し故に、誤謬も多少有るべきと同時に、虛構潤色を加る事無しと知らる。又、予が日記には書かざれど、確かに美津田氏の言として覺ゆるは、件(くだん)の老人に歸國を勸めしに、最初中々承引せず。吾等既に牛肉を食ひたれば身穢れたり。日本に歸るべきに非ずと言ひしとか』。『件(くだん)の美津田氏は、其後二子(共に養子也。日記右の文に一人は實子とせるは謬り也)倶に違背して重き家累を生じ、自ら歸朝するを得ず。更にモトと名くる一女(邦人と英婦の間種、芳紀十五六、中々の美人也)を養ひ、龍動(ロンドン)に二三年留り居、予も一二囘訪しが、其後の事を知らず。右の日記に書留めたる外にも、種々平田父子の事を聞きたるも、予只今記臆惡く成て、一筆を留めざるは遺憾甚し。近頃柳田國男氏に問合せしに、柳谷謙太郎氏明治九年十月九日より十六年三月三十一日迄、桑港領事として留任せりと答へらる。因て考るに、美津田氏一行、九年正月中リマを出立し、諸方を興行し廻り、其年十月後、桑港に著きたるならん。ブラジル、アルゼンチン等に到りし話も聞きたれば、斯く思はるゝ也』。『序(ついで)に述ぶ、右の日記二十六年七月二十二日の條に「美津田氏宅にて玉村仲吉に面會す。埼玉縣邊の人。少時足藝師の子分と成り、外遊中病で置去られ、阿弗利加沿岸の地諸所多く流寓、十七年の間、或は金剛石坑に働き、又ペンキ塗などを業とせし由、ズールーの戰爭に英軍に從ひ出で、賞牌三つ計(ばか)り受用す。予も其一を見たり。白蟻の大窼等の事話さる。日本語全く忘れしを、近頃日本人と往復し、少しく話す樣に成れりと。龍動(ロンドン)の西南區に英人を妻とし棲み、子有りと也」と有り。所謂ズールーの戰爭は、明治十二年の事にて、ナポレオン三世の唯一子、廿三歳にて此軍中蠻民に襲はれ犬死せり。當時從軍の玉村氏廿歳ばかりの事と察せらる。日本人が早く南阿[やぶちゃん注:南アフリカ。]の軍に加はり、多少の功有りしも珍しければ附記す。明治二十四年頃、予西印度に在りし時、京都の長谷川長次郎とて十七八歳の足藝師、肺病にてジャマイカ島の病院にて單身呻吟し居たりし。斯る事猶ほ多からん』。
「片岡プリンス」片岡政行(文久三(一八六三)年~?)。「南方熊楠コレクション」の注によれば、『美津田の友人で骨董商。大英博物館のフランクス[やぶちゃん注:オーガスタス・ウォラストン・フランクス(Sir Augustus Wollaston Franks 一八二六年~一八九七年:大英博物館の英国・中世古美術及び民族誌学部部長。晩年、博物館理事を兼務。英国古美術協文学博士。英国学士院名誉会員・英国古美術協会会長・王立美術院名誉会員。]やリード[やぶちゃん注:チャールス・ハーキュリーズ・リード(Sir Charles Hercules Read 一八五七年〜一九二九年:大英博物館英国・中世遺物及び民族誌学部部員。フランクスを補佐し、フランクス引退後は同部長。博物館終身理事・英国人類学会会長・英国古美術協会会長。]とは片岡の紹介で知り合った。日記では、初めて逢ったのが一八九三年九月三日、ブリチッシュ・ミュージェム[やぶちゃん注:大英博物館。]に行ったのは同九月二十日となっている』とある。しかし、この男、佐藤太郎(仮名)氏のブログ「荒野に向かって、吼えない…」の「プリンス片岡」によると、実は相当に怪しい男である。孫引きになるが、そこに引用された唐澤太輔著「南方熊楠」の一節を引くと、『熊楠にフランクスを紹介したのは、片岡政行(一八六三?~?年)という人物だった。英国が誇るこの名士を知っているくらいだから』、『片岡もさぞ名のある人物であろうと考えるのが普通だが、実はこの男、詐欺師であった。英国で自ら「プリンス片岡」と名乗り、日本の華族や皇族を装い、さらには海軍大佐を意味するキャプテンの称号を用いていた。また片岡は、日本美術の専門家を自称し、日本の安価な骨董・古美術品を英国で高価で売りさばき、大金を得ていた。富裕なイギリス人の未亡人から亡き夫の遺産を奪いとるなどの悪事も働いている。しかし、英国において、外国人である片岡がこれだけの悪事を働けたということは、彼がそれだけ英語、そして英国事情に通暁していたということでもある』。『詐欺師の鼻は鋭い。同じ日本人である熊楠の論考が『ネイチャー』に掲載されることに、何かしら美味しい匂いを嗅ぎつけたのであろう。英国を中心に活躍し、すでに熊楠と知合いになっていた美津田滝次郎(一八四九?~?年)という軽業師(曲芸師)の家で、熊楠と片岡は知り合った。熊楠によると、片岡の「得意」にはフランクスもいたようだ。このような縁から、片岡は熊楠を知り合いのフランクスに紹介した』というトンデモない手合いであった。続けてブログ主佐藤氏は、『それにしても気になるのは「プリンス片岡」こと片岡政行という人物だ。引用にあるように没年が不明となっているということは晩年の足取りなどはわかっていないのだろう。偽王族というのは洋の東西を問わず詐欺師の常套手段であるが、しかしこういった話を聞くたびになぜこんなことに騙されるのだろうかという疑問も湧いてくる。逆にいえばそれだけ口八丁手八丁の人物しかこういった詐欺師として成功することはないのだろう。「英国において、外国人である片岡がこれだけの悪事を働けたということは、彼がそれだけ英語、そして英国事情に通暁していた」とあるように、その才能を別の道に活かせばまっとうに成功することもできたのだろうが、そうはできないのも詐欺師の宿命なのかもしれない』。『片岡の生涯についてはこれから何らかの資料が発掘されるというのは難しいのかもしれないが、小説などのネタとしては使えるかもしれない。「キャプテン」を名乗っていたということから『クヒオ大佐』のインターナショナル版として映画化しても面白くなるかもしれない。こちらも没年不明になっている軽業師、美津田滝次郎もなかなか気になる存在でもある』と記しておられる。激しく共感した。
「土井通夫」(どいみちお 天保八(一八三七)年~大正六(一九一七)年)は旧宇和島藩士で実業家で大阪財界の指導者。ウィキの「土井通夫」より引く。『予宇和島藩士の大塚南平祐紀の子として生まれ』たが、四歳で、『藩士・松村彦兵衛清武の養子となり保太郎と改名した。少年時代には三好周伯に書道を学び、藩校・明倫館で大阪の越智士亮の弟子である金子春太郎に漢学を学』んだ。十二歳からは、『窪田清音から免許皆伝を許可された窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門の道場に入門、竹馬の友である児島惟謙』(こじまいけん 天保八(一八三七)年~明治四一(一九〇八)年):後の有名な司法官で貴族院議員・衆議院議員。かのロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ二世)が滋賀県滋賀郡大津町(現在の大津市)で警察官津田三蔵に斬りつけられて負傷した暗殺未遂事件(明治二四(一八九一)年五月十一日発生)を審理した際、大審院長として司法権の国政からの独立を守り通して「護法の神様」と高く評価された人物である)『と共に剣術修業に励み』、十六歳の『正月に初伝目録を授与された。同じころ壱岐三郎太夫に越後流軍学、不川顕賢に算数を学』び、十七歳で『元服、彦六と改めた』。『この頃の宇和島藩は海外への関心を強め、高野長英を匿って、蘭学の師に迎えていた。やがて長英に替わり』、『緒方洪庵の高弟である村田蔵六に兵書、砲台の設計を翻訳させていた。家が近かった蔵六の門人である立田春江と親しくなり、長英の門人である大野昌三郎とも交友があったことから蘭学にも関心を持つが、途中で諦め』た。二十二歳で『窪田派田宮流の免許皆伝を授与された後』の、文久元(一八六一)年のこと、この『田都味道場へ坂本龍馬がやってきて、道場に他流試合を申し込まれている。この時に龍馬から「脱藩すればいい、こんな城下で何ができるのか。」と言われる。この時は驚いたが』、『後に脱藩する行動のきっかけとなった』とある。二十三歳で『養家を去り、父の母方の姓である土居を名乗』った。慶応元(一八六五)年、『勤皇を志して脱藩、土肥真一と改名して大坂に出る。伯父の紹介で大身代の金貸し・高池三郎兵衛家を紹介され、用心棒として奉公、町内の夜景一切を任されるようになるが、剣だけでなく金銭出納の能力を発揮する。半分商人の剣客として大阪で評判になった頃、宇和島で匿われていた薩摩藩の中井弘と再会したことがきっかけで勤皇運動に関わる。鳥羽・伏見の戦いにおいて土佐藩の後藤象二郎配下で活躍、遠からず京が戦乱に巻き込まれるから、その時は宇和島藩邸に米を送ってほしいと、大津の米問屋で依頼する。戦いの後、この功を認められたこと、薩摩藩からの謹白書が出されたことで帰藩』している。王政復古後は『宇和島藩主・伊達宗城が議定職外国係と大阪鎮台外国事務を兼務すると、外国事務局大阪運上所に勤務する。ここで外国事務局判事に就任した五代友厚の部下となったことが生涯の重要な方向付けとなる』。明治二(一八六九)年には『大阪府権少参事とな』り、明治五年、『親友の北畠治房に誘われて司法省に出仕して兵庫裁判長、大阪上等裁判長を歴任、児島惟謙と再会』した。『退官までに井上馨、伊藤博文、大隈重信、大久保利通らとの政界人脈を築くと同時に、住友家、鴻池家ら大阪財界と関係を深めた』。明治一七(一八八四)年、『鴻池善右衛門が府知事・建野郷三へ事業再建のための人材紹介を懇願、建野が五代友厚に相談すると』、『「土居通夫以外にありえない。」と進言され』、『これにより司法省を退官、鴻池善右衛門家の顧問となり諸事業に参画、「剣豪商人」と言われた』。明治二〇(一八八七)年頃、『大阪での本格的な照明を』、『東京に倣ってガス灯にするか、電灯にするか有力者の間で対立が続く中、通夫は電灯への斡旋調整を行い』、明治二十一年、『大阪電灯を設立して初代社長に就任』し、以後、三十年務めた。他にも『日本硝子製造、長崎電灯、日本生命、大阪毎日新聞、大阪貯蓄銀行(現在のりそな銀行の源流の一つ)、明治紡績、阪鶴鉄道(現・福知山線)、大阪馬車鉄道→浪速電車軌道(現・阪堺電気軌道上町線)、宇治川電気、大阪染織、大阪土地建物、京阪電気鉄道など多くの企業の役員に就任』、また、『堂島米穀取引所理事長、大阪銀行取引所理事長、日本電気協会会長、大阪実業協会会長を歴任』している。明治二七(一八九四)年三月の第三回衆議院議員総選挙で大阪府第二区より立候補して当選したものの、半年後に行われた同第四回『総選挙で議席を失っ』た。明治二八(一八九五)年より大阪商業会議所会頭となって二十二年に亙って在任し、『近代大阪財界の基盤を固めた五代友厚亡きあとの大阪財界最有力指導者として活躍した』。特に明治三六(一九〇三)年の第五回『内国勧業博覧会誘致において、東京との激しい招致合戦に勝利、パリに飛びパリ万国博の仕組みを詳細に調査して成功に導いた功績が大きい。この博覧会の跡地に作られた新世界ルナパークに、周囲の猛反対を押し切ってパリのエッフェル塔を真似た通天閣を建設する。藤沢南岳によって命名された通天閣は、ルナパーク開発会社である大阪土地建物の社長であった土居の名前を入れる意図が含まれているとされる』(下線やぶちゃん。私は通天閣に登ったことがないが、これは面白い話だ)。大正三(一九一四)年、『電気、電灯、電鉄関係者の社交組織である中央電気倶楽部を創設。「中央」という名に、東京に対する当時の大阪財界人の気概を感じさせると今に伝えられている』。『児島惟謙とともに関西大学の創立にも関わるなど、教育・文化面でも活躍している』。『浄瑠璃は竹本摂津大掾に師事、南画、囲碁、二畳庵桃兮に学んだ俳句も熟達しており、松木淡淡派を継いだ名門俳流「八千房」の八世八千房を継いだ時期があるなど、剣以外にも多芸多才で知られた』とある。]
むかし曽彌荒助氏などと同じくパリに官費留学して、帰朝の途次シンガポールで、もとパリで心やすかりしジャネという娼婦に邂逅し、共に帰朝して放佚(ほういつ)に身を持ち崩し、東京にいたたまらず、またパリにゆき、窮居中ジャネは流行病で死に、それより種々難行してとうとうあるフラマン種の下宿屋老寡婦の夫となり、日本人相手に旅宿を営みおる、諏訪秀三郎という人あり。韓国王后を刎(たば)ねたる岡本柳之助の実弟なり。この秀三郎氏の仏語を話すを障子一枚隔てて聞くに日本人と聞こえず、まるで仏人なり。
[やぶちゃん注:「曽彌荒助」(そねあらすけ 嘉永二(一八四九)年~明治四三(一九一〇)年)は長州閥の一人として歴代内閣で大臣を歴任した政治家。長門国萩藩家老の家格であった宍戸家の宍戸潤平の三男として生まれたが、長門萩藩士曾禰祥蔵の養子となった。明治五(一八七二)年にフランスに留学し、五年後に帰国してからは、陸軍省に勤務した後、太政官書記官から初代衆議院書記官長となり、明治二十五年に衆議院議員となる。翌明治二六(一八九三)年には駐フランス全権公使に任ぜられ、明治三十一年の第三次伊藤内閣で司法大臣に就任、以後、山県・桂各内閣の法相・農商務相・蔵相を歴任した。明治四二年には第二代韓国統監となり、韓国併合を進めた。韓国統監となり韓国併合をすすめた。
「いたたまらず」ママ。
「フラマン種」フラマン人(オランダ語: de Vlamingen)。北フランスやベルギーに起源をもつ、本来はオランダ語を母語とするゲルマン民族を指す。主にフランドル地方北部に多く住む。
「諏訪秀三郎」(安政二(一八五五)年〜昭和八(一九三三)年)についてはsumus_co氏のブログ「林蘊蓄斎の文画な日々」の「松尾邦之助・蕗谷虹児・諏訪秀三郎」に詳しい。それによれば、『秀三郎は江戸詰め紀州藩士・諏訪新右衛門の三男。明治五年(一八七二)に陸軍派遣の公費留学生としてパリに渡る。明治七年一度日本に帰り、井上馨の欧米視察に従って再びパリへ(明治十年春か)。明治十一年に帰国。陸軍省に十一等出仕として登録される。十二年十二月ベルギー人女性との結婚願いを政府に提出。十三年には三たびパリへ戻る。モンマルトル大通り(アヴェニュ・ド・クリシー六番地)に五間ばかりのアパルトマンを借りて日本旅館「諏訪ホテル」を始めた。開業資金はベルギー人の夫人の持参金だったという』(以上は関連書からの要約らしい)。『陸軍でのキャリアを捨てたのはベルギー女性との恋愛のためではなく、兄の岡本柳之助が明治十一年の竹橋事件に連座し「奪官」の判決を受けたことが直接の理由ではないかという説(沼田忠孝)があるそうだ。陸軍には未来がないと見限って恋愛を取ったということらしい。岡本柳之助は閔妃を暗殺した乙未事変(明治二十八年)の首謀とみなされることになるから、秀三郎の判断は正しかったのかもしれない』。『秀三郎は、昭和八年(一九三三)二月、ベルギーのアントワープ近郊の運河で額にピストル貫通の跡がある死体として発見された。自殺か他殺かは不明だったが、石黒[やぶちゃん注:日本の柔道家で随筆家の石黒敬七(けいしち 明治三〇(一八九七)年~昭和四九(一九七四)年)。柔道普及のためにフランスにいたことがあり、レジオンドヌール勲章も受章している。]は二度目の妻の病気と死、ホテルの不振を苦にした自殺だろうと推定している』とある。sumus_co氏は記事を『パリにドラマあり。』で結んでおられる。激しく同感。
「岡本柳之助」(嘉永五(一八五二)年~明治四五(一九一二)年)は紀州藩出身の国粋主義者で大陸浪人・陸軍少佐・朝鮮宮内府兼軍部顧問。本姓は諏訪。ウィキの「岡本柳之助」より引く。『紀州藩の世臣・諏訪新右衛門の第二子。江戸藩邸に生まれる。岡本家の養子となり岡本姓を名乗る。幼少より文武の才に富み』、一五歳で『幕府の砲術練習所に学び』、翌年には『江戸定府紀州藩砲兵頭となり、彰義隊に加わって佐幕派として官軍に抗するが』、『のち敗れて伊勢松坂に送致される。維新後の藩政改革で津田出や鎌田栄吉、陸奥宗光に見出され、東上』、明治七(一八七四)年に陸軍大尉となった。翌明治八年の『江華島事件の際に朝鮮に派遣された黒田清隆に随行して渡韓』している。明治一〇(一八七七)年の『西南戦争では、大阪鎭台の参謀大尉として山路元治と共に九州各地に転戦。戦後に、功で少佐に進み、東京鎭台予備砲兵大』一『大隊長となる』。竹橋事件(陸軍近衛兵部隊が西南戦争での恩賞に対する不満から明治十一年八月二十三日に起こした武装反乱)では『呼応せんとする部下の内山定吾少尉らに押され、参加。しかし当日の決起直前に突如静観の姿勢へと転換』し、『暴動発生後も参加を勧める部下を抑え』たが、事件鎮圧後、岡本は『竹橋兵営の隊長として暴動を知りながら上官に報告もせず、暴動勃発後も鎮圧にあたらなかったとして官職を追放され』た。かく『路頭に迷っていた所を、同藩の鎌田栄吉から福澤諭吉を紹介され、門人となる。福澤邸で書生を務めながら、ともに官職を追放された松尾三代太郎と慶應義塾に学び、金玉均・朴泳孝と親交を深める。次いで日蓮宗の新居日薩と日蓮主義を研究し、南方熊楠とも親交を持った。井上角五郎らと共に金玉均を追って上海に渡り、次いで大鳥圭介公使や陸奥宗光外相と共に京城に渡り、袁世凱との折衝に努める。陸軍の福島安正とはかり、雲峴宮より』高宗の父『大院君を奉じて朝鮮内部の改革を主導して朝鮮政府の軍事顧問に就任した』。李氏朝鮮の第二十六代国王高宗の王妃であった閔妃(びんひ 一八五一年~一八九五年:高宗の正妃として強い権力を持ったが、縁故主義と汚職が蔓延し、さらに義父興宣大院君と二十年以上に亙る権力闘争があり、当時の政体は致命的に混乱していた)が一八九五年(明治二十八年)十月八日に三浦梧楼らの計画に基づいて王宮に乱入した日本軍守備隊・領事館警察官・日本人壮士(大陸浪人)・朝鮮親衛隊・朝鮮訓練隊・朝鮮警務使らに暗殺された乙未(いつび)事変では、大院君が『岡本が用意したクーデター布告である「国太公告論文」を承認』、岡本は『「いざ入城し、キツネを臨機処分せん」として大隊の指揮官に立ち』、『閔妃は暗殺された』が、彼は『この事件で退韓命令を受け、広島監獄に収監された』ものの、『首謀と殺害に関しては証拠不十分で免訴となり釈放され』ている。『晩年は支那革命を援助しながら東洋政策の研究と『日魯交渉北海道史稿』・『政教中正論』などを記して北海道史や日蓮仏教の研究などを行った』が、『清国上海を視察中、急死した』とある。
「韓国王后」閔妃。
「刎(たば)ねたる」首を刎(は)ねる。]
件(くだん)のプリンス片岡は英語における諏訪氏ともいうべきほど英語の上手なり。かつ『水許伝』に浪子燕青は諸般の郷語に通ずとあるごとく、この片岡は cant, dialects, billingsgate 種々雑多、刑徒の用語から女郎、スリ、詐偽漢の套言(とうげん)に至るまで、英語という英語通ぜざるところなく、胆略きわめて大きく種々の謀計を行なう。かつて諸貴紳の賛成を経て、ハノヴァー・スクワヤーに宏壮なる居宅を構え、大規模の東洋骨董店を開き、サルチング、フランクスなど当時有数の骨董好きの金満紳士を得意にもち、大いに気勢を揚げたが、何分本性よからぬ男で毎度尻がわるる。それに英人は一度親しみし者を容易に見離さぬところから、どこまでも気長く助けくれたるも、おいおい博賭また買婬等に手を出し、いかがわしき行い多かりしより、警察に拘引せられ、ついには監獄に投ぜらるることもしばしばにて、とうとう英国にもおり得ず、いずれへか逐電したが、どうなり果てたか分からず。斎藤実氏なども、ニューヨークにありし日、片岡にひどい目に逢いしと談(かた)られしことあり。当時小生は英国に着きて一、二の故旧を尋ねしも父が死し弟は若く、それに兄がいろいろと難題を弟に言いかくる最中にて国元より来る金も多からず。日々食乏しく、はなはだしきは絶食というありさまなりしゆえ、誰一人見かえりくれるものもなかりしに、この片岡が小生を見て変な男だが学問はおびただしくしておると気づく。それより小生を大英博物館長たりしサー・ウォラストン・フランクスに紹介しくれたり。
[やぶちゃん注:「浪子燕青」「ろうしえんせい」と読む。燕青は「水滸伝」に登場する男性。ウィキの「燕青」より引く(下線やぶちゃん)。『梁山泊での地位は第三十六位で、天罡星三十六星では末席にあたる好漢。天巧星の生まれ変わりで、渾名は伊達者を意味する浪子(ろうし)。年齢は登場時で』二十二『歳と、時期的に考えて梁山泊でも最年少の部類に入る。体格は小柄で細身、色白で絹のような肌を持った絶世の美青年。全身に見事な刺青を入れている。多芸多才な人物で弩の腕は百発百中、小柄ながらも相撲(拳法の秘宗拳の開祖とされる)の達人である。また』、『遊びや音楽、舞踊等の芸事、商売人の隠語や各地の方言にまで精通し、頭の回転も非常に速くしばしば機転を利かせた。また、粗暴なことで知られる李逵』(りき)『を制御する事ができる』とある。私は「水滸伝」をまともに読んだことがないが、リンク先の梗概を読むと、いやいや、この頃の南方熊楠の周辺はまさに妖しい梁山泊のロンドン版という感じが強くする。
「cant」(キィァント)隠語。符牒。一時的な流行語。
「dialects」(ダァィアレクツ)方言。国(母語)による訛(なまり)。特定の職業・階層での通用する特殊語。
「billingsgate」(ビリングズゲイト)口汚い暴言。猥褻な雑言。
「套言(とうげん)」きまり文句。常套語。
「胆略」(たんりゃく)は「大胆で知略のあること」の意。
「ハノヴァー・スクワヤー」ハノーバー・スクゥエア(Hanover Square)はアメリカのニューヨーク市マンハッタン区ダウンタウンにあるファイナンシャル・ディストリクト(Financial District:世界最大の金融街で、かのウォール街もここに含まれている)の一画。
「サルチング」美術品収集家として知られたイギリス人ジョージ・ソルティング(George Salting 一八三五年~一九〇九年)のことであろう。
「フランクス」既注のオーガスタス・ウォラストン・フランクス(Sir Augustus Wollaston Franks)。
「尻がわるる」尻が割れる。隠し事や悪事が露見する・ばれるの意。
「博賭」(ばくと)は賭博と同じい。
「買婬」淫売。ここは単なる買春の謂いではなく、売買春斡旋や美人局のような稼業を指すものと思われる。
「斎藤実」(まこと 安政五(一八五八)年~昭和一一(一九三六)年二月二十六日)は海軍軍人(最終階級・海軍大将)で政治家。第一次西園寺・第二次桂・第二次西園寺・第三次桂・第一次山本の五つの内閣で海軍大臣を務めた後、シーメンス汚職事件により大臣を引責辞任した。その後、ジュネーブ海軍軍縮会議の主席全権を務め、朝鮮総督を二期務め、犬養毅が海軍将校らによって殺害された「五・一五事件」の後の第三十代内閣総理大臣となった。参照したウィキの「斎藤実」によれば、『陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも』、二年一ヶ月という『当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより』、『内閣総辞職した』。その後は内大臣となって宮中に出仕したが、「天皇を誑かす佞臣」として青年将校らから目の敵にされ、没日を見ればわかる通り、「二・二六事件」で自邸で無抵抗で射殺された。『斎藤の遺体には』四十七『箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた』とある。彼は明治一七(一八八四)年九月十九日から明治二一(一八八八)年十月二十六日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務めているから、この片岡とのエピソードはその折りのことと思われる。本書簡記載時(大正一四(一九二五)年一月三十一日)は朝鮮総督であった。]