甲子夜話卷之四 5 惠林寺の藏、信玄甲冑の事
4-5 惠林寺の藏、信玄甲冑の事
先年、甲州惠林寺の僧、信玄の遺物甲冑等を携て江都に出しことあり。予これを見んことを欲して、月桂寺に往てかの僧に面し、且其戎器を見るに、兵火の燼餘かと疑ひ問たれば、否らず、嘗て此寺兵亂にて燒れし後、甲州神祖の御領となりて、寺御修造あり。そのとき此等の甲冑はもと信玄の遺物なり、長く寺に藏むべしとて、神祖より賜り傳ふとなり。神祖の御文か時の老職の添翰か附てありしと覺ふ。明細に寫して藏め置しが、戊寅の火に燒亡す。可ㇾ惜。
■やぶちゃんの呟き
前段に続く神祖家康の信玄絡みの逸話。
「惠林寺」(ゑりんじ)は現在の山梨県甲州市塩山小屋敷にある臨済宗乾徳山(けんとくさん)恵林寺。甲斐武田氏の菩提寺である。ウィキの「恵林寺」によれば、天正一〇(一五八二)年三月、『織田・徳川連合軍の武田領侵攻(甲州征伐)によりで武田氏は滅亡する。武田氏滅亡後、織田氏は恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引渡しを要請するが、寺側が拒否したため』、『織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼らによって恵林寺は焼き討ちにあった。この際、快川紹喜が燃え盛る三門の上で「安禅必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し」と、『碧巌録』第四十三則の偈を発して快川紹喜は火定したといわれる。後代には快川の遺偈(ゆいげ)として広く知られ、再建・改築された三門の両側にも、この偈が扁額として掲げられている。一方で、これは『甲乱記』では快川と問答した長禅寺僧高山と問答した際に高山が発した言葉で同時代の記録においては見られず、近世には臨済宗の編纂物において快川の遺偈として紹介されており、佐藤八郎は快川の遺偈でなく後世の脚色である可能性を指摘している』。さて、同年六月、『本能寺の変により信長が討たれ、甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱を経て三河国の徳川家康が甲斐を領する。武田遺臣を庇護した家康は織田氏による焼き討ちを逃れ、那須の雲巌寺に遁れ潜んでいた末宗瑞曷(まっしゅうずいかつ)を招き、恵林寺を再建した』とある(下線やぶちゃん)。
「江都」「えど」。
「月桂寺」現在の東京都新宿区河田町にある臨済宗正覚山月桂寺であろう。ウィキの「月桂寺(新宿区)」によれば、同寺の創建は、寛永九(一六三二)年、市ヶ谷に建てられた庵が基になっているとし、『その後、同庵は当地に移転し、円桂山平安寺とな』り、さらに、『小弓公方家・足利頼純の娘で、豊臣秀吉や徳川家康などに仕えた月桂院の篤い帰依を受けた』。『月桂院からは』百石の『朱印地を受け』、明暦元(一六五五)年に『彼女が死去した際には同寺で葬儀が行われ、寺号も正覚山月桂寺と改めたと言われている』。この寺は『江戸時代には臨済宗の関東十刹の一つに数えられる格式ある寺院になった』とある(下線やぶちゃん)。
「戎器」(じゆうき(じゅうき))は戦さに用いる武器・武具を言う。
「燼餘」「じんよ」。燃え残り。
「否らず」「しからず」。
「燒れし」「やかれし」。前注の織田信忠による焼き討ち。
「寺御修造あり」前注の下線部参照。
「藏む」「をさむ(おさむ)」。収蔵する。
「老職」老中職。
「添翰」「そへかん」と読んでおく。添え状。由来を認めた鑑定証のようなものであろう。
「附て」「つけて」。
「戊寅」「つちのえとら/ぼいん」。「甲子夜話」は文政四(一八二一)年十一月起筆で、何も冠せずにかく書く以上は、直近の戊寅ということになるから、文化一五・文政元(一八一八)年で、この年、恵林寺は蔵を焼くような大きな回禄に遭ったのであろう。
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