「想山著聞奇集 卷の貮」 「風に倒れし大木自然と起たる事」
風に倒れし大木自然と起たる事
伊勢の國松坂の入口左り側に、松崎屋と云(いふ)建場茶屋あり[やぶちゃん注:屋号と位置から推すと、現在の三重県松阪市久米町にある紀伊本線松ヶ崎駅周辺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]。其茶屋の側(そば)なる細道を七八十步入(いり)たる所に、五間[やぶちゃん注:九メートル九センチ。]四面程の社地に小祠有(あり)。土人、福神の社と云(いふ)。此祠の側に椋(むく)[やぶちゃん注:クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum
camphora。]の樹一株あり。此樹、天保八年【丙酉(ひのえとり)】八月十四日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一八三七年九月十三日。]の大風に【諸國大風、別(べつし)て尾州は無類の大風にして三・勢・美[やぶちゃん注:三河:伊勢・美濃。]等これにつぐ。】根ごき[やぶちゃん注:根こそぎ。]と成(なり)て隣の民家へ倒れ懸りて、家も少し傾きたり。里人集りて評議するに、此樹は神木と云傳へたる木なれば、此儘にも打置(うちおか)れまじ。人足を集(あつめ)て、元の如く起さねばなるまじ、などいひあへり。然るに此樹、一夜の中(うち)に自然と元のごとく起直(きなほ)りたるは、誠に不思議成(なる)事也と人足どもの咄に驚き、かの社に至り見るに、方五六間[やぶちゃん注:「六間」は一〇メートル九十一センチ弱。]の社地にて、如何にも古き鎭座にや。五圍(めぐり)半[やぶちゃん注:これを身体尺で成人男子の両腕幅単位(「比呂(ひろ)」)とすると、一比呂は百五十一・五センチメートルであるから、約八メートル三十三センチなるが(クスノキの幹は周囲が十メートルを越える大木は稀ではない)、次の松の「五圍」がちょっと大き過ぎる感じはする。後で実地検証に行った人物の証言部分で実際の値が出てきて私はやっと納得した。]程の楠の木の梢は枯懸(かれかか)りて、枝葉の繁らざる大木一株と、五圍程の松一株と、件(くだん)の椋と三株のみにて、餘は小き雜樹、間ばらに生立(はえたち)たるのみにて、物凄き森にてもなく、其中に小き二つ續きたる祠有(あり)て、祠に向ひて右の方に此椋の樹有て、竹を立(たて)、注連(しめなは)を引𢌞(ひきまは)し、傍に建札(たてふだ)あり。其文に云く、
[やぶちゃん注:以下の立札の引用部(二段落分)は底本では全体が二字下げ。]
抑(そも)、此大福殿と申(まうし)奉るは、大國主命・事代主命御二柱の御所にて、椋を愛し給ふ。今年天保八酉八月十四日巳の上刻[やぶちゃん注:午前九時過ぎ。]、風雨甚しく、この神木、風雨の爲に根がへりし事ををしまぬはなかりしに、其夜、戌の上刻[やぶちゃん注:午後七時過ぎ。]、あやしき物音有(ある)を隣の人々、何事やらんと、當社の邊をながめしに、此椋、本のごとくに立替(たちかへ)り、生々(いきいき)と有(あり)し事。誠に大福殿の靈験いちじるき事、奇想、妙也。委敷(くはしく)は近家(きんけ)の人々にきゝ、その靈を感じ給ふべし。
俗に、ゑびす大黑と申奉る御神なり。
樹の𢌞り三圍半[やぶちゃん注:約五メートル三十三センチ。]あり。如何にも若々として、朽腐(くちくされ)たる樹には非ず。勿論、人力を以(もつて)は、中々起臥(きが)の出来る樹にあらず。此社の裏の方は、打開(うちひら)きたる田畑のみの所。又一方は松坂の町續きにて、社地の側(そば)より民家建續きたれば、近きわたりに天狗など棲べき森も見えず。いかにも不思議なる事也。松崎屋の亭主にも逢(あひ)て、篤(とく)と聞正(ききただ)すに、建札の趣に少しも違(たが)ひなし。本來、民間の一小祠ゆゑ、むかしより福神の社とは申せども、人の祈願する神にてもなく、又、別に利益(りやく)を得たると云(いふ)咄しも承らず。神慮のなさしめ給ふ事は人智の及ばざる御事なりとて、彼亭主も恐入(おそれいり)て咄たり。漢書(かんじよ)に云。山陽槖茅郷社有二大槐樹一吏伐斷ㇾ之、其夜、樹復立二其故處一、又昭帝時、上林苑中大柳樹斷仆ㇾ地、一朝起立生二枝葉一、有ㇾ蟲食二其葉一成二文字一曰、公孫病已立、又哀帝建平三年、零陵有ㇾ樹、僵ㇾ地、圍丈六尺長十丈七尺、民斷二其本長九尺餘一皆枯、三月、樹卒自立二故處一など云(いふ)事を始め、漢土の書にも見えたれども、斯(かく)靦(まのあた)り慥(たしか)に見來(みきた)るこそ奇なれとて、具(つぶさ)に咄せし人より聞取(ききとり)て記しぬ。
[やぶちゃん注:これがそのまま成長して現存すれば、相応の大木となっているはずであるが、調べて見たが、なさそうだ。松坂市飯高町の赤桶字宮東にある水屋神社には、県内有数の大神木である巨大なクスノキがある(直径約三メートルとネット上にあるから、「めぐり」は九メートル半近い)が、ここはとても「松崎屋と云建場茶屋」のある伊勢参りの街道「の側なる細道を七八十步入たる所」ではない山間部で、地図で直線距離で測っても二十六キロメートル近くあるから、絶対に違う。
「漢書」後漢の章帝の代に班固・班昭らによって編纂された前漢史。全百巻。
「山陽槖茅郷社有二大槐樹一吏伐斷ㇾ之、其夜、樹復立二其故處一、又昭帝時、上林苑中大柳樹斷仆ㇾ地、一朝起立生二枝葉一、有ㇾ蟲食二其葉一成二文字一曰、公孫病已立、又哀帝建平三年、零陵有ㇾ樹、僵ㇾ地、圍丈六尺長十丈七尺、民斷二其本長九尺餘一皆枯、三月、樹卒自立二故處一」これらは「漢書」「五行志」の中の一節を接ぎはいだもので、何故か、一部が「漢書」内の叙述の編年順列とは異なっている。まず、自己流で書き下す。読点の一部を句点に変えた。
山陽槖茅(たくばう)郷の社(やしろ)、大槐樹(だいえんじゆ)有るに、吏、伐らんとて、之を斷つに、其の夜、樹、復た、其の故(もと)の處に立てり。又、昭帝の時、上林苑中の大柳樹、斷(た)たれて地に仆(たふ)るるに、一朝、起立して枝葉(えだは)を生じ、蟲、有りて其の葉を食ふに、文字を成して曰く、「公孫病已立」(公孫たる病(びやう)、已に立つ)。又、哀帝の建平三年、零陵に樹(じゆ)有り、地に僵(たふ)れ、圍(めぐり)の丈(たけ)六尺・長さ十丈七尺、民、其の本(もと)の長(たけ)の九尺餘を斷ちて、皆、枯るるに、三月、樹、卒(つと)に自(み)づから故(もと)の處に立てり。
以下、若干の語注を附す。
・「山陽槖茅(たくばう)郷の社……」これは中文サイトの「漢書」原文に当たると、頭に「建昭五年」とあるから、紀元前三四年のことである。
・「槐」マメ目マメ科マメ亜科エンジュ属エンジュ Styphnolobium japonicum。中国原産で、古くから好まれた。かなりの大木になり、志怪小説ではしばしば霊が宿る。
・「上林苑」前漢の皇帝の造営した大庭園の名。長安の南方に広がっていた。
・「公孫病已立」ウィキの「眭弘」(すい
こう ?~紀元前七八年)によれば、眭弘は前漢の人で、『若い頃は任侠、闘鶏や馬を好んでいたが、年長になると『春秋』公羊伝を学び、百人以上の弟子を持つに至』り、『経書に通じていたことで議郎となり、符節令に至った』。昭帝の元鳳三年(紀元前七八年)のこと、『泰山の莱蕪山で数千人の人の声が聞こえ、人々が見に行くと』、三『つの石を足にして大きな石が自立しており、その傍らに白い烏が数千羽集まった。さらに昌邑国では社の枯れ木がまた息を吹き返し、上林苑でも枯れて倒れていた柳の木が自立し、葉には文字のような虫食いの穴があった。その穴は「公孫病已立」と読めた』。『眭弘はそれを「廃されて民となっている公孫氏から新たな天子があらわれる予兆である」と解釈し、友人の内官長を通じて「漢の皇帝は賢人を探し出し、帝位を譲り渡して自分は殷王、周王の末裔のように諸侯となって天命に従うべきである」と上奏した』。『当時、若い昭帝を補佐して実権を握っていた大将軍霍光はこれを問題視して廷尉に下し、眭弘と内官長は大逆不道の罪で処刑された』が、果たして『その後、戻太子劉拠の孫の劉病已が民間から迎えられて皇帝に即位』し、『眭弘の子を郎とした』とある(下線やぶちゃん)。
・「建平三年」紀元前三年。
・「零陵」湖南省永州市零陵区であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
・「六尺」漢代の一尺は二十二・五センチメートルであったから、一メートル三十五センチ。
・「十丈七尺」漢代の一丈は二・二五メートル。三十一メートル九十五センチ。
・「本の長」主幹の材として最良の部分という謂いであろう。
・「九尺」。約二メートル。]
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