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2017/04/10

柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その1)

 

 難病治癒

 

 禪珍内供の異樣な長い鼻は、大正初年まで「今昔物語」や「宇治拾遺物語」の中に眠つてゐた。芥川龍之介といふ靑年作家は、この鼻を掘り出すことによつて、文壇に乘り出す最初の機會を捉へ得た。この話を讀んだ人はどれほどあつたかわからぬが、これを作品として活かすだけの新しい眼孔と手腕とを缺いてゐたのである。

[やぶちゃん注:芥川龍之介の「鼻」は大正五(一九一六)年二月十五日発行の第四次『新思潮』創刊号に掲載された。御存じの通り、これが夏目漱石に激賞され、龍之介はここから新進気鋭の作家として歩み出したのであった。因みに、芥川龍之介の本格小説の最初は前年の第三次『新思潮』(五月刊)に載せた「老年」で、芥川龍之介自身、新潮社から大正一四(一九二五)年四月に刊行された「現代小説全集第一卷」の「芥川龍之介集」の自筆年譜の中で、この「老年」を『處女作の短篇』と明記している(リンク先は孰れも「青空文庫」であるが、おぞましい新字新仮名版である。近いうちにこの二本は私が正字正仮名版で電子化したいと思う)。

 「今昔物語集」のそれは「卷第二十八」の「池尾禪珍内供鼻語第二十」(池尾(いけのを)の禪珍(ぜんちん)内供(ないく)の鼻の語(こと)第二十)である(ここの「禪珍」はママ)。以下に示す。

   *

 今は昔、池の尾と云ふ所に、禪智(ぜんち)内供と云ふ僧、住みき。身淨くて、眞言など吉(よ)く習ひて、懃(ねんごろ)に行法(ぎやうぽふ)を修(しゆ)して有りければ、池の尾の堂塔・僧坊など、露(つゆ)荒れたる所無く、常燈(じやうとう)・佛聖(ぶつしやう)[やぶちゃん注:常夜灯と供物。]なども絶えずして、折節の僧供(そうぐ)、寺の講説(かうぜつ)など滋(しげ)く行はせければ、寺の内(うち)に僧房隙(ひ)ま無く住み賑はひけり。湯屋(ゆや)には、寺の僧共(ども)、湯不涌(わか)さぬ日無くして、浴(あ)み喤(ののし)りければ、賑ははしく見ゆ。此(か)く榮ゆる寺なれば、其の邊(わた)りに住む小家(こいへ)共、員數(あまた)出來(いでき)て、郷(さと)も賑はひけり。

 然(さ)て、此の内供は鼻の長かりける。五六寸許り也ければ、頷(おとがひ)よりも下(さが)りてなむ見えける。色は赤く紫色にして、大柑子(だいかむじ)の皮の樣にして、つぶ立ちてぞ(ふくれ)たりける。其れが極(いみ)じく痒(かゆ)かりける事、限り無し。然(さ)れば、提(ひさげ)に湯を熱く涌(わか)して、折敷(をしき)を其の鼻通る許りに窟(ほ)りて、火の氣(け)に面(おもて)を熱く炮(あぶ)らるれば、其の折敷の穴に鼻を指し通して、其の提に指入(さしい)れてぞ茹(ゆ)づる。紫色に成りたるを、喬樣(そばざま)に臥(ふ)して、鼻の下に物をかひて、人を以つて踏ますれば、吉(よ)く茹でて引き出でたれば、色は黑く、つぶ立ちたる穴每(ごと)に煙(えぶり)の樣なる物出づ。其れを責めて踏めば、白き小さき蟲の穴每に指し出でたるを、鑷子(けぬき)を以つて拔けば、四分許りの白き蟲を穴每よりぞ拔き出でける。其の跡は穴にて開きてなむ見えけるに、其れを亦、同じ湯に指し入れてさらめき、湯に初めの如く茹づれば、鼻、糸(いと)小さく萎(しぼ)み(しじまり)りて、例(れい)の人の小さき鼻に成りぬ。亦、二三日(ふつかみか)に成りぬれば、痒かりて(ふく)れ延びて、本(もと)の如くに腫れて、大きに成りぬ。如此(かくのごと)くにしつつ、腫れたる日員ひかず)は多くぞ有りける。

 然(さ)れば、物食ひ粥など食ふ時には、弟子の法師を以つて、平(たひ)らなる板の一尺許りなるが、廣さ一寸許りなるを、鼻の下に指し入れて、向ひ居て、上樣(かみざま)に指し上げさせて、物食ひ畢(は)つるまで居て、食ひ畢つれば打ち下(おろ)して去りぬ。其れに、異人(ことひと)を以つて持ち上げさする時には、惡しく指し上けげれば、六借(むつか)りて、物も食はず不食(くはず)成りぬ。然(さ)れば、此の法師をなむ定めて持ち上げさせける。

 其れに、其の法師、心地惡しくして不出來(いできざり)ける時に、内供、朝粥食ひけるに、鼻持ち上ぐる人の無かりければ、

「何(いか)がせむと爲(す)る。」

など、繚(あつ)かふ程に[やぶちゃん注:仕儀に窮していたところが。]、童(わらは)の有りけるが、

「己(おのれ)はしも、吉(よ)く持ち上げ奉りてむかし。更によも其の小院(こゐん)[やぶちゃん注:小僧。]に劣らじ。」

と云ひけるを、異弟子(ことでし)の法師の聞きて、

「此の童は然々(しかしか)なむ申す。」

と云ひければ、此の童、中童子(ちうどうじ)[やぶちゃん注:寺院で奉仕した中位の年齢の童髪(わらわがみ:束ねずに単に垂らした髪型)の少年。]の見目(みめ)も穢氣無(きたなげな)くて、上[やぶちゃん注:上座。]にも召し上げて仕ひける者にて、

「然(さ)は、其の童、召せ。然(さ)云はば、此れ持ち上げさせむ。」

と云ひければ、童、召し將(ゐ)て來りぬ。

 童、鼻持ち上げの木を取りて、直(うるは)しく向かひて、吉(よ)き程に高く持ち上げて、粥を飮(すす)らすれば、内供、

「此の童は極(いみ)じき上手(じやうず)にこそ有りけれ。例の法師には増(まさ)りたりけり。」

と云ひて、粥を飮(すす)る程に、童、顏を喬樣(そばさま)に向けて、鼻を高く簸(ひ)る。其の時に、童の手、篩(ふる)ひて、鼻持ち上げの木、動きぬれば、鼻を粥の鋺(かなまり)に、ふたと、打ち入れつれば、粥を内供の顏にも、童の顏にも多く懸けぬ。

 内供、大きに瞋(いか)りて、紙を取りて、頭面(かいらおもて)に懸りたる粥を巾(のご)ひつつ、

「己(おのれ)は極(いみ)じかりける心無しの乞丐(かたゐ)かな。我れに非ずして、止む事(ごと)無き人の御鼻(おほんはな)をも持ち上げむには、此(か)くやせむと爲(す)る。不覺の白者(しれもの)かな。立ね、己(おのれ)。」

と云ひて、追ひ立てければ、童、立ちて隱くれ[やぶちゃん注:物蔭。]に行きて、

「世に人の此かる鼻つき有る人の御(おは)せばこそは、外(ほか)にては鼻も持ち上げめ、嗚呼(をこ)の事(こと)、仰せらるる御房(ごばう)かな。」

と云ひければ、弟子共、此れを聞きて、外(ほか)に逃げ去りてぞ咲(わら)ひける。

 此れを思ふに、實(まこと)に何(い)かなりける鼻にか有りけむ。糸(いと)奇異(あさま)しかりける鼻也(なり)。

 童の糸(いと)可咲(おか)しく云ひたる事をぞ、聞く人、讚(ほ)めけるとなむ語り傳へたるとや。

   *

 「宇治拾遺物語」の同話は、第二十五話の「鼻長僧事」(鼻長き僧の事)。以下に示す。

   *

 昔、池の尾に禪珍内供(ぜんちんないぐ)といふ僧、住みける。眞言なんどよく習ひて、年久く行ひて、貴(たふと)とかりければ、世の人々、さまざまの祈りをせさせければ、身の徳ゆたかにて、堂も僧坊も、すこしも荒れたる所なし。佛供・御燈などもたえず、折節の僧膳、寺の講演、しげく行はせければ、寺中の僧坊に隙(ひま)なく僧もすみにぎはひけり。湯屋には湯わ沸かさぬ日なく、浴(あ)みののしりけり。また、そのあたりに小家どもおほく出で來て、里もにぎはひけり。

 さて、この内供は、鼻、長かりけり。五、六寸斗りなりければ、頤(おとがひ)よりさがりてぞ見えける。色は赤紫にて、大柑子(おほかうじ)の膚(はだ)のやうに粒だちて、ふくれたり。痒がる事かぎりなし。

 提(ひさげ)に湯をかへらかして、折敷(をしき)を鼻さし入るばかりゑり通して、火の炎(ほのほ)の、顏に當らぬやうにして、その折敷の穴より鼻をさし出でて、提の湯にさし入れて、よくよく茹でて引きあげたれば、色は、こき紫色なり。それを、そばざまに臥して、下に物をあてて、人に踏ますれば、粒だちたる孔(あな)ごとに煙のやうなる物出づ。それをいたく踏めば、白き蟲の孔ごとにさし出づるを、毛拔きにて拔けば、四分[やぶちゃん注:十二ミリメートル。]斗りなるしろき蟲を、穴ごとにとり出だす。その跡は、孔だにあきて見ゆ。それを又、同じ湯に入れて、さらめかし沸かすに、茹づれば、鼻、小さくしぼみあがりて、ただの人の鼻のやうになりぬ。又、二三日になれば、さきのごとくに腫れて、大きに成りぬ。

 かくのごとくしつつ、腫れたる日數は多くありければ、物食ひける時は、弟子の法師に、平らなる板の一尺斗りなるが、廣さ一寸ばかりなるを、鼻のしたにさし入れて、向かひゐて、上(かみ)ざまへ持(も)て上げさせて、物食ひ果つるまで、ありけり。異人(ことひと)して持(も)て上げさするをりは、あしく持(も)て上げければ、腹を立てて、物くはず。されば、此法師一人を定めて、物くふたびごとに、持(も)て上げさす。

 それに[やぶちゃん注:ところが。]、心ちあしくて、この法師、いでざりけるをりに、朝粥食はんとするに、鼻を持(も)て上ぐる人なかりければ

「いかにせん。」

といふ程に、使ひける童(わらは)の、

「我(われ)はよく持(も)て上げ參らせてん。更に、その御房にはよも劣らじ。」

と言へば、弟子の法師聞きて、

「この童のかく申す。」

と言へば、中大童子にて、みめもきたなげなくありければ、上に召し上げてありけるに、この童、鼻持(も)て上げの木を取りて、うるはしく向かひゐて、よき程に高からず、低(ひ)きからず、もたげて粥をすすらすれば、此の内供、

「いみじき上手にてありけり。例の法師には、まさりたり。」

とてかゆをすする程に、この童、鼻をひんとて、そばざまに向きて、鼻をひる程に、手ふるひて、鼻もたげの木、ゆるぎて、鼻、はづれて、粥の中へ、鼻、ふたりと、うち入れつ。内供が顏も、童の顏にも、粥、とばしりて、ひともの[やぶちゃん注:沢山。]、かかりぬ。

 内供、大(おほ)きに腹立ちて、頭、顏にかかりたる粥を紙にてのごひつつ、

「おのれは、まがまがしかりける心持ちたる物かな。心なしのかたゐとは、おのれがやうなる者をいふぞかし。我ならぬ、やごつなき人[やぶちゃん注:「やんごとなき人」に同じい。]の御鼻にもこそ參れ、それには、かくやせんずる。うたてなりける、心なしの、しれ者かな。おのれ、立て立て。」

とて、追ひたてければ、立つままに、

「世の人の、かかる鼻、持ちたるがおはしもさばこそ、鼻もたげにも參らめ、をこのこと、のたまへる御房かな。」

といひければ、弟子どもは物のうしろに逃のきてぞ、笑ひける。

   *]

 内供の鼻は病氣と見るべきか、崎形と解すべきか、それは見る人の自由に任せるとして、不思議な鼻の話は支那にもある。「集異記」に出てゐる狄梁公は最も針術に妙を得てゐたが、この人が制に應じて華州に入ると、市の入口のところに人が大勢集まつて何か見てゐる。遠くからこれを望めば、見上げるやうな高札に大きな字で、よくこの兒を療する者あらば、絹干疋を酬いん、とあるのである。狄梁公も自分に緣がないことでもないから近寄つて見た。成程、富家の子らしい十四五ばかりの少年が、高札の下に橫になつてゐる。鼻端に拳ほどもある贅疣があつて、その根が鼻に繋がつてゐるのだが、少しでも觸れれば骨に徹するやうな痛みが起る。兩眼は引き釣つてしまひ、命旦夕に迫るといふ有樣であつた。富家の事だから多くの醫者に見せたに相違ないが、更に效驗がないので、最後の手段として人目の多い街頭に病兒を持ち出し、天來の奇蹟を待つ氣になつたものらしい。同情に堪へなくなつた狄梁公は、わしが一つ癒して進ぜようと云つた。兩親や親類は額を地に擦り付けて歎願するそこで瀕死の少年を扶け起させ、腦の後に一寸ばかり針を打つた。痛いところに針が屆いたかと尋ねたら、少年は僅かにうなづいた。公が針を拔き去つたのと、贅疣が手に應じて落ちたのとは同時であつた。兩眼も常態に復し、苦痛の樣子は全然見えぬ。父母親族が泣いて狄梁公を拜したのは云ふまでもない。高札に記された絹千疋は輦(てぐるま)に載せて運んであつたのを、お邪魔ではございませうが、是非お持ち歸りを願ひたう存じます、と云ふ。公は笑つて、病状が甚だ危險であつたから、一針打つたまでの事、自分は方技を賣る者ではない、と何も受けず、再び馬に跨がつて立ち去つた。

[やぶちゃん注:「狄梁公」は初唐の、後に宰相となった狄仁杰(てきじんけつ 六三〇年~七〇〇年)のこと。

「制」勅命。

「華州」後の河南省。

「自分に緣がないことでもない」医術を弁える者として病者を捨ておけぬという謂いであろう。

「贅疣」「ぜいいう(ぜいゆう)」は疣や瘤を指す。ここはかなり大きい腫瘤或いは響くような痛みがあるところは、真皮近くまで達した化膿しかけた粉瘤腫(Atheroma:アテローム)であろう。何でそんなこと言えるかって? 私は二十代の頃、それで手術したからだよ。

 以上は「集異記」の「狄梁公」。以下に示す。

   *

狄梁公性閑醫藥、尤妙針術。顯慶中、應制入關、路由華州闤闠之北、稠人廣眾、聚觀如堵。狄梁公引轡遙望、有巨牌大字云、「能療此兒、酬絹千疋。」。卽就觀之、有富室兒年可十四五、臥牌下、鼻端生贅、大如拳石、根蔕綴鼻、纔如食筯、或觸之、酸痛刻骨、於是兩眼爲贅所繩、目睛翻白、痛楚危亟、頃刻將絶。惻然久之、乃曰、「吾能爲也。」。其父母洎親屬叩顙祈請、即輦千絹置於坐側。公因令扶起、即於腦後下針寸許、乃詢病者曰、「針氣已達病處乎?」病人頷之。公遽抽針、而肬贅應手而落、雙目頓亦如初、曾無病痛。其父母親眷且泣且拜、則以縑物奉焉。公笑曰、「吾哀爾子命之危逼、吾蓋急病行志耳、吾非鬻技者也。」不顧而去。

   *]

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