甲子夜話卷之四 3 會津領大地震の事【文政四年】
4-3 會津領大地震の事【文政四年】
會津侯の御預地、奧州大沼郡大石組と云處、高四千石計り、屬村十八九あり。人員男女合三千六七百も有り。山谷間の村なり。此處、辛巳十一月十九日、地震つよく、百三十軒ほど震壞れ、大破小破三百軒餘、人若干死亡、牛馬も損傷せり。夫より打續き晝夜いく度ともなく震りて、其ゆりよう左右前後には震はず、地上に突あげ、又地下に突さぐる如くにて、山谷鳴動し、山々裂崩、其あたりなる沼澤の沼と云大沼ぬけぬべきさまに付き【此沼周一里餘と云ふ】、人々不安、殊に雪中なれば諸人の難苦一方ならず。侯の役人出張て力を盡と雖ども爲ん方なく、領主より神社に令して祈禱せしめ、就中土津社には別て重祭あり。翌月十二日頃より地震も止み、鳴動も靜になり、諸人安堵の所、當正月四日又々地震、去冬よりも強く、鳴動も又盛んにて、大石組の村々、人の住居成り難きに至り、悉く其民を他處に移せり。時は大雪、處は山谷、老少男女四千に近き人を取扱、並に牛馬等の始末まで困難云計なし。諸人雪の上に薦筵(コモムシロ)或は席(タヽミ)を敷て日を渉る。此末いかになるべきやと衆庶安堵せずとなり。侯より御勘定所へ屆に及べりと云。
■やぶちゃんの呟き
「文政四年」「辛巳」(かのとみ)は一八二一年。この地震はネットのQ&Aサイトの回答によれば、マグニチュード五・五から六・六の直下型地震と推定されている。当時の陸奥会津藩は第七代藩主松平容衆(かたひろ)であるが、この翌年にわずか満十八歳で死去している。
「大沼郡大石組」こちらによって旧「大石組」の位置が判る。現在のこの中央の只見川左岸附近である(グーグル・マップ・データ)。
「震壞れ」「ゆりこはれ」。
「裂崩」「さけくずれ」。
「沼澤の沼」現在の福島県大沼郡金山町にあるカルデラ湖である沼沢(ぬまざわ)湖。ウィキの「沼沢湖」によれば、『福島県会津地方の西部に位置し、かつては「沼沢沼」と呼ばれていた。湖水面高約』四七五メートル、面積約三・一平方キロメートル、水深約九十六メートルで、約四万五千年前と約五千四百年前の『大規模な噴火によって誕生した、新しいカルデラ湖である。カルデラ湖をさらに外輪山が取り囲む二重カルデラ地形のように見えるが、外側の外輪山様の地形は鮮新世の上井草カルデラからなり、沼沢カルデラとは無関係であるが上井草カルデラの新期の活動と見ることもある。カルデラを形成した大規模噴火の前後にも溶岩ドームなどを形成した小規模な噴火を何度も起こしており、これら一連のカルデラや溶岩ドーム群を総称して沼沢火山と呼んでいる』とある。
「周」「めぐり」。
「出張て」「でばりて」。
「力を盡と雖ども」「ちからをつくすといへども」。
「土津社」「はにつしや」は現在の福島県耶麻郡猪苗代町にある土津神社。陸奥会津藩初代藩主保科正之を祀る。
「當正月四日」余震記録は確認出来ないが、翌文政五年。
「取扱」「とりあつかひ」。避難誘導し。
「御勘定所」幕府のそれ。会津藩内には天領が多くあり、幕府の勘定所は蔵入地(幕府直轄領)と知行地に跨る業務を担当する郡奉行系統の職務が含まれ、そのなかには治安・治水業務が含まれていた。
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