甲子夜話卷之三 31 仙臺宗村大言の事
3-31 仙臺宗村大言の事
仙臺中將宗村は氣象高き人なりしとぞ。登城謁見の時、いつも首のさげ方高かりければ、一日同席の人々其事を申けるに、我等が首は實檢に入時、三方に載せて出べきことゆへ、其高さにてよきほどなりと云て、何知らぬふりにてありければ、皆人口を閉たりと云。
■やぶちゃんの呟き
「仙臺宗村」「仙臺中將宗村」仙台藩第六代藩主伊達宗村(だてむねむら 享保三(一七一八)年~宝暦六(一七五六)年)。父で先代藩主であった伊達吉村(仙台藩「中興の英主」と称せられた名君)の四男(長兄・次兄は早世し、三兄の村風(むらかぜ)は既に分家を興していたことに拠る)。寛保三(一七四三)年に乳より家督を譲られた。ウィキの「伊達宗村」によれば、『父と同じく文学面に優れ、多くの書を残している。また、馬術、槍術、剣術、軍術、砲術にも精通していた智勇兼備の人物であった』とあるが、満三十七で死去している。また彼のかなり知られたエピソードとして、延享四(一七四七)年八月十五日のこと、『江戸城内の厠で、熊本藩主・細川宗孝が旗本板倉勝該に斬られて死亡した』(これは何と、紋所を見間違えた誤認による刃傷であった)。『宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている』という話がある。
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