甲子夜話卷之三 25 曾我伊賀守の事
3-25 曾我伊賀守の事
曾我伊賀守は一種の風韵ある人なりき。晚年に御側を勤め、當直所にて閑あるときは、書寫計して居ける。林氏に時々うつさんと思ふ書を借ける中、板刻の書をも折々所望ありければ、それは板本にあれば、寫すより收買せらるべしと林氏申けるに、左には非ず、自筆にて寫置ときは、子孫麤末に致し兼候半。左すれば遂讀候ても見る心になり候半。夫ゆへ寫置候との答にて、林氏感じたりと云。又常常人に對して滑稽多き人なり。御側役などの衆は、威權がましき風度すること世の習なるに、伊州一人は從來のまゝにて、舊識の人など逢ときは、宮中にても途中にても、彼方より態々と會釋接語などして、聊も勢威ある色なし。あるとき御留守居勤めしときの組同心、梅林坂の邊を固めて、伊州の通行に付、往來の人に片よれ片よれと聲を掛居ければ、伊州ずかずかとその同心の方に向ひ來る。同心甚訝り、いかがのことやと思案しける内に、傍へ來り、小聲にて、是ほど片よりて通る者をなぜ叱ると云。同心驚入りしとなり。是組にて有りしとき、善良なる者なりとて、目を掛け親くせし者なりし故とぞ。又寬政に、白川侯首輔の權勢、人々恐怖して、殿中にて噂言ふ人も無りし頃の事とぞ、稠人廣坐の中にて伊州申けるは、白川を人を識るの鑑ありと云へど、拙者は左は不ㇾ存候。林大學は【述齋なり】御使ひ場のあるべき男なり。夫を見出したりとて、儒者にしたるは、さりとは目の無き事なりと云て、大に笑ふ。滿坐の人白らけて、答ふるもの無し。伊州は實に林氏の知己と云べし。
■やぶちゃんの呟き
「曾我伊賀守」以前にも出たが、不詳。識者の御教授を乞う。
「風韵」風韻に同じい。何とも言えぬ趣きのあること。
「林氏」多数既出の、後にも出る静山の友人でもあった林家第八代林述斎。
「借ける」「かりける」。
「寫置」「うつしおく」。
「麤末」「そまつ」。麁末・粗末に同じい。
「致し兼候半」「いたしかねさふらはん」。
「遂」「つひに」。
「風度」「ふと」。副詞。
「習」「ならひ」。
「舊識」古くからの知り合い。昔なじみ。旧知。
「宮中」殿中。江戸城中。
「彼方より態々と」「わざわざと」。遠くてもしっかりと相手から判るように。
「梅林坂」江戸城の本丸と二の丸を結ぶ坂で、現在の皇居東御苑にある。江戸城を築城した太田道灌が文明一〇(一四七八)年に天神社を祀り、数百本の梅を植えたのが名の由来で現在も梅の名所である。
「親く」「したしく」。
「白川侯」松平定信。
「首輔」「しゆほ(しゅほ)」。ここは老中首座・将軍補佐を唐名風に呼んだものであろう。
「稠人」多くの会衆。
「廣坐」多数が会席していることを指すのであろう。
「鑑」「かがみ」。
「不ㇾ存候」「ぞんぜずさふらう」。そのようには思うては御座らぬ。
「御使ひ場のあるべき男なり」(地位に縛られないことによってこそ)相応に、それなりの場面に於いて自由に才能を発揮出来る男である。
「夫」「それ」。
「白らけて」あまりの定信への率直な批判に、会衆は気まずくなり、蒼白となって、聞かなかったふりをして、の謂いであろう。
「實に林氏の知己と云べし」(「實に」は「げに」と読んでおく)まっこと、伊賀守殿は林述斎氏の真の知己(ちき:友)と言うべきである。
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