甲子夜話卷之三 32 伊達村侯【遠江守】、人品の事
3-32 伊達村侯【遠江守】、人品の事
宇和嶋少將伊達遠江守【村侯】も一種の人物なり。寬政の初、米澤老侯とともに、數年國事に心を用ひしとの特賞を蒙り、恩賜などありし人なり。若き時より、遂にいづ方に臥か知るものなし。其にあるかと思へば、いつか表に居、又表かと思へば、奧に居るやうのことなりしとなり。又は朝早く近侍起出て見れば、夜具も片付てあり。庭を見れば、樹林の蔭など緩步して居るなど云類のことなり。文學など深く窮めしにもあらねど、儒士を貴び、世に名あるものは、延致して懇遇せられき。一日、常に出入の儒士、いつも案内なく近習の詰所へ通ることなれば、その如くに來りしに、一人も見へず。あまり不思議なれば、あちこち見あるく中に、少將出られて案内し、居間へ通さる。自身爐火に茶を煖て出され、或は戸棚より酒肴などとり出し、もてなされける。更に不思議に堪ざりしかば、今日はいかなることよと云しに、芝の御山、火防の命被りて在るが、此節一般流行の風邪に、家臣ども皆感冒して、外向の人員、常數を備ること能はず。よりて近習の者までも、風に冒されざる分をして、皆その缺を補ひ、火防人員を缺くこと無しと云。其官事を重んぜらるゝこと如ㇾ此。一年、國元往來の海中、風濤の變ありしとき、主人に兩三人付添、早船にて逃れしに、本船は破壞して多の人溺死せしことあり。その後參觀交代に、その海を過る每に、舟を留めて、小石百千に一字づゝ法華經を親書して、海底に抛たり。その下を恤の意深きことも亦如ㇾ此。常に酒を好めり。酣なるに及では、興に乘じて紙を展べ、字を作る。書は拙なれども、少しも拘らずして、擘窠書を作らるるを、今も傳る所多し。髮は世に云糸鬢なりき。京紳參向し御大禮ありしとき、かの糸鬢へ糸にて釣りを掛け、冠を着、大橫刀を佩られ、裝束振も聊取繕ふこともなき擧動なりしを、鷹司家見られて、武家の裝束姿と見へて、殊勝なるは、宇和島少將なりと感賞せられしと云。
■やぶちゃんの呟き
「伊達村【遠江守】「宇和嶋少將伊達遠江守【村侯】」伊予国宇和島藩第五代藩主伊達村候(だてむらとき 享保一〇(一七二五)年(或いは享保八年とも)生~寛政六(一七九四)年)。ウィキの「伊達村候」によれば、享保二〇(一七三五)年に父の死去により跡を継ぎ、外祖父で前話の主人公伊達宗村の父第五代仙台藩主伊達吉村から偏諱を賜って「村候」と名乗った。しかし、『新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家をないがしろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりした。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。これらの朝廷の努力もあり、表面的には同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残った』(この険悪な仲であった二人を敢えて連続して記して、素知らぬ風をしている静山も面白い)。『藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団』二十五『か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦年(一七五四)年からは民政三か条を出して民政に尽力し、宝暦七(一七五七)年末には『紙の専売制を実施』、寛延元(一七四八)年には『藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した』。『しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ』。『教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳袋」と「甲子夜話」で賞賛されている』とある。「耳囊」のそれは「卷之四 大名其識量ある事」である。私の電子化訳注でお読みあれ。
「米澤老侯」第八代上杉重定(享保五(一七二〇)年~寛政一〇(一七九八)年)であろうか。しかしこの男、かなり劣悪な藩主である。ウィキの「上杉重定」を参照されたい。
「いづ方に臥か知るものなし」「臥か」「ふするか」藩主でありながら、今何処で寝ておられるかを誰も知らない。
「云類」「いふたぐひ」。
「延致」「えんち」。「延」も「致」も「招く・引き来させる」であるから、招致・招聘に同じい。
「出入」「でいり」。
「煖て」「あたためて」。
「芝の御山」芝の増上寺のことか。
「火防」「ひぶせ」。幕命による防火警備。
「備る」「そなふる」。
「過る」「すぐる」。
「親書」自ら筆を執って書くこと。
「抛たり」「なげうちたり」。
「下」「しも」。家来。
「恤」「あはれむ」。
「酣」「たけなは」。
「拘らずして」「こだはずして」。意に介することなく。
「擘窠書」底本には「はくくわしよ」と編者によるルビがある。これは格子を切った紙に書を書くことを指す。碑文や墓誌を刻むことが盛んになり、その影響から紙に桝目を切ってそこに漢字を記すことが流行り、それがまた後に作品様式の一つとして定着したものらしい。
「糸鬢」「いとびん」。近世の男性の髪形の一つ。月代(さかやき)を広く左右に下まで剃り下げ、鬢を細く糸のように残して、髷(まげ)をこれまた頭のずっと後方に低く結ったもの。一般には中間(ちゅうげん)や侠客などに好まれた。
「京紳」「けいしん」と読んでおく。京の公家衆。「參向し御大禮あり」とあるから、これは所謂、「武家伝奏」の面子であろう。学問に優れて弁舌が巧みな大納言級の公卿が伝奏に任ぜられた(但し、江戸後期には幕府も形式上のことであったことから、公家側の人選もいい加減なものになってはいたらしい)。
「大橫刀」非常に長い(この場合は正式な儀式であるので)「太刀」であろう。
「佩られ」「おびられ」。
「裝束振」「しやうぞくぶり」。
「聊」「いささか」。
「鷹司家」「たかつかさけ」。五摂家の一つで、江戸後期から幕末にかけてはこの鷹司家当主が関白を務めることが多かったから、伝奏役も同家の者が選ばれたものであろう。
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