柴田宵曲 續妖異博物館 「死者の影」 附 小泉八雲 “A DEAD SECRET”+同戶川明三譯(正字正仮名)+原拠「新選百物語/紫雲たな引密夫の玉章」原文
死者の影
東晉の董壽が誅せられた夜、壽の妻が燈下にひとり坐つてゐると、自分の傍に夫が立つてゐる。どうして今時分お退(さが)りになつたかと聞いても、彼は一言も答へなかつた。彼がそこを出て鷄籠の周圍を𢌞つて行く時、籠の中の鷄が俄かにけたゝましく騷ぎ立てる。火を照らして見たら、籠の傍には血が流れてゐる。壽の妻は夫の上に凶事のあつたことを直感したが、夜が明けると壽の死が傳へられた。
かういふ話が「搜神後記」に出てゐる。これはマクベスの前に現れたバンコーの姿のやうなものである。大饗宴の席を外して扉口に出たマクベスが、刺客からの報告を聽取して戾る途端、バンコーがどこからか入つて來て、マクベスの掛けるべき椅子に腰をおろす。マクベスはまだ氣が付かずに、これであのバンコーさへ來てくれられれば、國中の名族は悉く一室內に集まつたわけなのだが、などと云つてゐる。この際バンコーの事で頭が一杯になつてゐるのはマクベス一人なのだから、愈々亡靈と顏を見合せて棒立ちになるのは當然であらう。亡靈は他人には少しも見えず、一度消えてまた現れる。マクベスが取り亂した結果、折角の大饗宴は滅茶滅茶になつてしまふ。董壽の場合と違つて衆人環視の中の出來事であり、バンコーの姿は他の何人にも見えぬだけに、マクベスの言動が餘計に目立つわけである。
[やぶちゃん注:先の「搜神後記」のそれは「第三卷」の「董壽之」。
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董壽之被誅、其家尙未知。妻夜坐、忽見壽之居其側、歎息不已。妻問、「夜間何得而歸。」。壽之都不應答。有頃、出門、繞雞籠而行、籠中雞驚叫。妻疑有異、持火出戶視之、見血數升、而壽之失所在。遂以告姑、因與大小號哭、知有變。及晨、果得凶問。
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「マクベス」( Macbeth )はウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)の一六〇六年頃に成立した彼の四台悲劇の一つ。「バンコー」(Banquo:現行では「バンクォー」と音写することが多い)はマクベスの友人であった将軍であるが、疑心暗鬼に陥ったマクベスの放った暗殺者によって殺されてしまう。ここは第三幕第四場のそれで、バンクォー暗殺を何食わぬ顔をして受けるマクベスが、髪を血に染めたバンクォーの亡霊が宴席の自分の席にいるのを幻視する、圧巻のシークエンスである。]
倂しこの二つの話はいづれも血を伴つてゐる。事が行はれて忽ちに亡靈が現れるのもそのためと解せられるが、もつと平凡な場合にも同樣の話がないことはない。鵜殿式部といふ家の召仕ひで、病氣のため暫く宿に歸つてゐた女が、お蔭で永い間養生致しました、と云つて挨拶に來た。見れば顏色もよくないから、もつと養生したらよからうと云ふと、いえ、もうこの分ならば御奉公も出來ますことと存じます、これはうちで拵へた品でございますから、と云つて重箱に入れた團子を差出した。それなら養生旁々勤めたらよからう、といふことになつて、女は次の間へ立つて行つた。鵜殿の老母が勝手へ出てこの話をしたところ、家の者は、おや、いつ參りましたか、一向存じません、と云ふ。方々搜しても更に姿は見えぬ。それにしても慥かに土產があつた筈と、前の重箱を取り出して見たら、重箱に變るところはなかつたが、中に詰めてあるのは全部白い團子であつた。慌てて宿へ人を遭つた結果、はじめてその女が二三日前に亡くなつたといふ消息を知り得た。
「耳囊」に出てゐるこの話は、下女が死後に挨拶に來たといふまでで、怨みも何もある次第ではない。たゞ幻に見えただけでなく、佛前に供へるやうな白い團子を重箱に詰めて持參したといふのが話の山であらう。氣味が惡いには相違ないが、多少卽(つ)き過ぎた嫌ひがあるかも知れぬ。そこへ往くと「怪談登志男」の中の一話は稍々離れ得てゐる。
[やぶちゃん注:以上の「耳囊」の話は「卷之四 女の幽靈主家へ來りし事」である。私の電子化訳注でどうぞ。]
築地の本願寺近くに住む岩崎といふ老人は、閑散なるまゝに謠や仕舞を何よりの樂しみにして居つたが、或日の午後、日も西に傾く頃になつて、小網町に住む彥兵衞といふ町人がこの隱居を訪ねて來た。彦兵衞は岩崎老人の講仲間で、かねてこの人を通じて京都に仕舞の扇が誂へてあつた。一別以來の挨拶が濟むと、彥兵衞は扇の事を云ひ出し、疾くに出來上つてゐたのに、道中の間違ひで遲延したことを詫び、今日漸う到著致しました、と云つて註文の品を差出した。倂し彥兵衞の樣子が何となく元氣がない。岩崎老人は扇の出來をよろこんで、若侍などを呼び集め、一しきり酒を酌み交した果ては、主人は立ち上り今の扇をかざして舞ふ。彥兵衞も御屆出來の御祝儀にと、續いて舞ひ出したが、いつの間にかその姿が見えなくなつた。座に在る者は主人と若侍と小坊主ばかりで、彥兵衞はどこへ行つたものかわからない。八方搜索しても知れぬので、狐でも化けて入り込んだものかなどと話してゐたところ、翌日彥兵衞の倅藤七なる者が扇を屆けて來た。昨日持參の扇と寸分違はぬやうだが、あれはどうしたと尋ねても更に見當らぬ。藤七の話で彥兵衞が昨日亡くなつたことがわかり、末期(まつご)に近い頃、京都からの荷物が到著し、扇を一見して滿足の笑みを漏らし、自分が亡くなつたら佛事供養より前にこれを持參してお詫びを申せと遺言した話を聞いては、皆昨日の幻の偶然ならぬことを感じたのである。
同じ亡靈の出現にしても、扇をかざして一さし舞ふなどは大分風流で、重詰の白團子の比ではない。
[やぶちゃん注:以上は「卷之二」にある「八 亡魂の舞踏」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来る。]
「怪談登志男」は寬延三年版であるが、それより三十年餘りおくれて出た「諸越の吉野」(天明三年)にも「幽靈芭蕉の舞を奏て實演を告る事」といふのがある。人名その他に相違はあるけれど、全體の筋は同じである。「怪談登志男」の話を蒸し返したまでのものか、當時何かこんな話が行はれてゐたのか、その邊はよくわからない。
[やぶちゃん注:「寬延三年」一七五〇年。
「諸越の吉野」天明三(一七八四)年板行の奇談集「近古奇談 諸越の吉野」。詳細不祥。所持もしないし、国立国会図書館デジタルコレクションにもない。「幽靈芭蕉の舞を奏て實演を告る事」、これ、是非とも中身を知りたいのだが。]
小泉八雲の「葬られたる祕密」は、「新選百物語」にある「紫雲たなびく密夫の玉章」に據つたものださうである。丹波國の富裕な一商人稻村屋源助の娘でお園といふのが、一族の商人に嫁して四年後に亡くなつた。お園の結婚後の生活には何の問題もなかつたのに、葬式の晩から彼女の姿が二階の部屋に現れる。第一にこれを發見したのは、彼女の小さい子供であつた。お園は何も口を利かず、子供を見て微笑したといふ。簞笥の前に立つてゐる彼女の姿は外の人にも見えた。結局これは簞笥の中の物に執著があるためだらうといふ解釋の下に、中の品物は悉く寺に約められた。抽匣(ひきだし)は空虛になつたが、お園は依然として姿を現し、簞笥を凝視することをやめぬ。この話は彼女の姑によつて檀那寺の大玄和尙に告げられた。和尙はお園の部屋にひとり坐つて經を誦することにした。夜半を過ぎてお園の姿は現れたが、無論何も云はぬ。氣がかりな事があるやうに、簞笥を見据ゑてゐるだけである。和尙は立つて簞笥の中を丹念に點檢したが、どの抽匣にも何もなかつた。或は抽匣の中を貼つた紙の下に隱されてゐるかも知れぬといふ氣がしたので、それを剝がして行くと、四番目の抽匣の貼り紙の下から一通の手紙が出て來た。和尙は彼女の影に向つて、あなたの心を惱ましたものはこれかと念を押し、誰にも見せることなしに寺で燒き棄てることを約した。彼女は微笑して消えてしまつた。お園は結婚する前に、藝事を修業するために京都へ出てゐたことがあり、この手紙はその頃貰つた艷書であつた。「新選百物語」では數十通とあるのを、八雲が一通にしたのださうである。
[やぶちゃん注:「葬られたる祕密」は小泉八雲の名作“ Kwaidan : stories and studies of strange things ”(一九〇四年)の中の一篇“A DEAD SECRET”である。原文(ネット上で最も信頼出来ると判断したものを選んで加工データとし、例の通り、いつも厄介になっている“Internet
Archive”の原典画像を視認して本文を作製した。原注は邦人には不要と考え、除去した)及び戶川(秋骨)明三訳(こちらにある昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」の当該訳画像)のものを以下に示す。なお、後者の第一段落の「ながらやと云ふ」は、底本は「ながらや云とふ」であるが、誤植と断じて訂しておいた。また、後者の第六段落目は底本の版組(改頁行頭から始まっており、前頁最終行は空行でない)から詰っているが、シークエンスからも、原典に則り、空行を施した。
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A DEAD
SECRET
A long time ago, in the province of Tamba , there lived a rich merchant named Inamuraya Gensuké. He had a daughter called O-Sono. As she was very clever and pretty, he thought it would be a pity to let her grow up with only such teaching as the country-teachers could give her: so he sent her, in care of some trusty
attendants, to Kyōto, that she might be trained in the polite accomplishments taught to the ladies of the capital. After she had thus been educated, she was married
to a friend of her father's family ― a merchant named Nagaraya;― and she lived happily with him for nearly four years. They had one child, ― a boy. But O-Sono fell ill and died, in the fourth year after her marriage.
On the night after the funeral of O-Sono, her little son said that his mamma had come back, and was in the room upstairs. She had smiled at him, but would not talk to him: so he became afraid, and ran away. Then some of the family went upstairs to the room which had been O-Sono's; and they were startled to see, by the light of a small lamp which had been kindled before a shrine in that room, the figure of the dead mother. She appeared as if standing in front of a tansu, or chest of drawers, that still contained her ornaments and her wearing-apparel. Her head and shoulders could be very distinctly seen; but from the waist downwards the figure thinned into invisibility;― it was like an imperfect reflection of her, and transparent as a shadow on water.
Then the folk were afraid, and left the room. Below they consulted together; and the mother of O-Sono's husband said: "A woman is fond of her small things; and O-Sono was much attached to her belongings. Perhaps she has come back to look at them. Many dead persons will do that, ― unless the things be given to the parish-temple. If we present O-Sono's robes and girdles to the temple, her spirit will probably find rest."
I was agreed that this should be done as soon as possible. So on the following morning the drawers were emptied; and all of O-Sono's ornaments and dresses were taken to the temple. But she came back the next night, and looked at the tansu as before. And she came back also on the night following, and the night after that, and every night; ― and the house became a house of fear.
The mother of O-Sono's husband then went to the parish-temple, and told the chief priest all that had happened, and asked for ghostly counsel. The temple was a Zen temple; and the head-priest was a learned old man, known as Daigen Oshō. He said: "There must be something about which she is anxious, in or near that tansu."
― "But we emptied all the drawers," replied the woman; ― "there is nothing in the tansu." ―
"Well," said Daigen Oshō, "to-night I shall go to your house, and keep watch in that room, and see what can be done. You must give orders that no person shall enter the room while I am watching, unless I call."
After sundown, Daigen Oshō went to the house, and found the room made ready for him. He remained there alone, reading the sutras; and nothing appeared until after the Hour of the Rat. Then the figure of O-Sono suddenly outlined itself in front of the tansu. Her face had a wistful look; and she kept her eyes fixed upon the tansu.
The priest uttered the holy formula prescribed in such cases, and then, addressing the figure by the kaimyō of O-Sono, said: ― "I have come here in order to help you. Perhaps in that tansu there is something about which you have reason to feel anxious. Shall I try to find it for you?" The shadow appeared to give assent by a slight motion of the head; and the priest, rising, opened the top drawer. It was empty. Successively he opened the second, the third, and the fourth drawer; ― he searched carefully behind them and beneath them;― he carefully examined the interior of the chest. He found nothing. But the figure remained gazing as wistfully as before. "What can she want?" thought the priest. Suddenly it occurred to him that there might be something hidden under the paper with which the drawers were lined. He removed the lining of the first drawer:― nothing! He removed the lining of the second and third drawers:― still nothing. But under the lining of the lowermost drawer he found ― a letter. "Is this the thing about which you have been troubled?" he asked. The shadow of the woman turned toward him, ― her faint gaze fixed upon the letter. "Shall I burn it for you?" he asked. She bowed before him. "It shall be burned in the temple this very morning," he promised;― "and no one shall read it, except myself." The figure smiled and vanished.
Dawn was breaking as the priest descended the stairs, to find the family waiting anxiously below. "Do not be anxious," he said to them: "She will not appear again." And she never did.
The letter was burned. It was a love-letter written to O-Sono in the time of her studies at Kyotō. But the priest alone knew what was in it; and the secret died with him.
* * *
葬られたる祕密
むかし丹波の國に稻村屋源助といふ金持ちの商人が住んで居た。此人にお園といふ一人の娘があつた。お園は非常に怜悧で、また美人であつたので、源助は田舍の先生の敎育だけで育てる事を遺憾に思ひ、信用のある從者をつけて娘を京都にやり、都の婦人達の受ける上品な藝事を修業させるやうにした。かうして教育を受けて後、お園は父の一族の知人――ながらやと云ふ商人に嫁(かたづ)けられ、殆んど四年の間その男と樂しく暮した。二人の仲には一人の子――男の子があつた。然るにお園は結婚後四年目に病氣になり死んでしまつた。
その葬式のあつた晩にお園の小さい息子は、お母さんが歸つて來て、二階のお部屋に居たよと云つた。お園は子供を見て微笑んだが、口を利きはしなかつた。それで子供は恐はくなつて逃げて來たと云ふのであつた。其處で、一家の內の誰れ彼れが、お園のであつた二階の部屋に行つてみると、驚いたことには、その部屋にある位牌の前に點(とも)された小さい燈明の光りで、死んだ母なる人の姿が見えたのである。お園は簞笥則ち抽斗になつて居る箱の前に立つて居るらしく、其簞笥にはまだお園の飾り道具や衣類が入つて居たのである。お園の頭と肩とは極く瞭然(はつきり)見えたが、腰から下は姿がだんだん薄くなつて見えなくなつて居る――恰もそれが本人の、はつきりしない反影のやうに、又、水面における影の如く透き通つて居た。
それで人々は、恐れを抱き部屋を出てしまひ、下で一同集つて相談をした處、お園の夫の母の云ふには『女といふものは、自分の小間物が好きなものだが、お園も自分のものに執著して居た。多分、それを見に戾つたのであらう。死人でそんな事をするものも隨分あります――その品物が檀寺にやらずに居ると。お園の著物や帶もお寺へ納めれば、多分魂も安心するであらう』
で、出來る限り早く、この事を果すといふ事に極められ、翌朝、抽斗を空(から)にし、お園の飾り道具や衣裳はみな寺に運ばれた。しかしお園はつぎの夜も歸つて來て、前の通り簞笥を見て居た。それからそのつぎの晩も、つぎのつぎの晩も、每晩歸つて來た――爲にこの家は恐怖の家となつた。
お園の夫の母はそこで檀寺に行き、住職に事の一伍一什を話し、幽靈の件について相談を求めた。その寺は禪寺であつて、住職は學識のある老人で、大玄和尙として知られて居た人であつた。和尙の言ふに『それはその簞笥の内か、又はその近くに、何か女の氣にかかるものがあるに相違ない』老婦人は答へた――『それでも私共は抽斗を空(から)にいたしましたので、簞笥にはもう何も御座いませんのです』――大玄和尙は言つた『宜しい、では、今夜拙僧(わたし)が御宅へ上り、その部屋で番をいたし、どうしたらいいか考へて見るで御座らう。どうか、拙僧が呼ばる時の外は、誰れも番を致して居る部屋に、入らぬやう命じて置いて戴き度い』
日沒後、大玄和尙はその家へ行くと、部屋は自分のために用意が出來て居た。和尙は御經を讀みながら、其處にただ獨り坐つて居た。が、子の刻過ぎまでは、何も顯れては來なかつた。しかし、その刻限が過ぎると、お園の姿が不意に簞笥の前に、何時となく輪廓を顯した。その顏は何か氣になると云つた樣子で、兩眼をじつと簞笥に据ゑて居た。
和尙はかかる場合に誦するやうに定められてある經文を口にして、さてその姿に向つて、お園の戒名を呼んで話しかけた『拙僧(わたし)は貴女(あなた)のお助けをするために、此處に來たもので御座る。定めしその簞笥の中には、貴女の心配になるのも無理のない何かがあるのであらう。貴女のために私がそれを探し出して差し上げようか』影は少し頭を動かして、承諾したらしい樣子をした。そこで和尙は起ち上り、一番上の抽斗を開けて見た。が、それは空であつた。つづいて和尙は、第二、第三、第四の抽斗を開けた――抽斗の背後(うしろ)や下を氣をつけて探した――箱の內部を氣をつけて調べて見た。が何もない。しかしお園の姿は前と同じやうに、氣にかかると云つたやうにぢつと見つめて居た。『どうして貰ひたいと云ふのかしら?』と和尙は考へた。が、突然かういふ事に氣がついた。抽斗の中を張つてある紙の下に何か隱してあるのかも知れない。と、其處で一番目の抽斗の貼り紙をはがしたが――何もない! 第二、第三の抽斗の貼り紙をはがしたが――それでもまだ何もない。然るに一番下の抽斗の貼り紙の下に何か見つかつた――一通の手紙である。『貴女の心を惱まして居たものはこれかな?』と和尙は訊ねた。女の影は和尙の方に向つた――その力のない凝視は手紙の上に据ゑられて居た。『拙僧がそれを燒き棄てて進ぜようか?』と和尙は訊ねた。お園の姿は和尙の前に頭を下げた。『今朝すぐに寺で燒き棄て、私の外、誰れにもそれを讀ませまい』と和尙は約束した。姿は微笑して消えてしまつた。
和尙が梯子段を降りて來た時、夜は明けかけて居り、一家の人々は心配して下で待つて居た。『御心配なさるな、もう二度と影は顯れぬから』と和尙は一同に向つて云つた。果してお園の影は遂に顯れなかつた。
手紙は燒き棄てられた。それはお園が京都で修業して居た時に貰つた艷書であつた。しかしその内に書いてあつた事を知つているものは和尙ばかりであつて、祕密は和尙と共に葬られてしまつた。
(戶川明三譯)
A Dead Secret.(Kwaidan.)
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「新選百物語」「新撰百物語」とも。全五巻合冊。編者・板行年ともに不詳(書肆は大阪の吉文字屋市兵衛。序文及び後付(本文の一部を含む)が欠損しているため)。であるが、江戸後期の明和三(一七六六)年刊と推定される浮世草子。本“A Dead Secret”は「卷三」の第三話目の「紫雲たな引(びく)密夫(みつふ)の玉章(たまづさ)」が原話である。以下にJAIRO(ジャイロ:Japanese Institutional Repositories Online)で入手した原典(影印)PDF画像(ここで全巻をダウンロード出来る)を視認して電子化した。判読出来ないところや、疑義のある部分は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲作・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」を参考にした。踊り字「〱」は正字化した。但し、読みは私が振れると判断した一部に留め、読み易くするために句読点を私の判断で打ち、シークエンスごとに改行し、一部を直接話法と成して改行したのも私である。また、本文の誤字や歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、本書の「卷二」の「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」は、やはり、小泉八雲の「骨董」( Kottō )の中の第六話「お龜の話」( The Story of 0-Kame )の種本でもある。
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小夜衣(さよごろも)など書(かき)やりしは、嗚呼(あゝ)貴(たつと)むべし、貞女とも節女とも古今(こゝん)に秀(ひいで)し稀者(まれもの)、末世までも、その名を殘せり。かゝる賢女を當世に、不膵(ぶすい)といひ、練(ねれ)ぬといひ、白いといひ、土といふ、これ、皆、西南の蚯蚓(みゝず)[やぶちゃん注:田舎者の蔑称の隠喩か?]にして、惡(にく)むべし。人をして惡に導(みちびく)の罪人なり。かくのごときものをば鼠といふと、その所以(ゆへ)を問ヘば、食ふ事のみを好んで、人前(にんぜん)へ出る事あたはざるがゆへなりと。宜(むべ)なるかな、子は親の心にならふものなれば、假令(かりそめ)にも不義淫亂のことをいはず、女子(によし)は取(とり)わけ、孝を第一にしてつゝしみを敎(おしゆ)べし。芝居の御姬さまの、かちや、はだして出奔(しゆつぼん)なされ後(のち)には、傾城やへ賣(うら)れ給ふのイヤ私夫(まぶ)のといふ名は勿論、聞(きか)すも毒なるに、母親(はゝご)の好(すき)とて、娘子(むすめこ)を鰹汁(だし)にして、一番太鞁(たいこ)のならぬ中(うち)から幼(いとけ)なき子の手を引(ひい)てしこみ給ヘば、曆々(れきれき)の黑き膵(すい)と成(なつ)て、男の子は代々の家(いへ)をもち崩し、辻だちの狂言するやうになり、女子(によし)は密夫(まおとこ)の種(たね)と成(なる)ものぞかし。
今はむかし、丹波の國に稻村や善助とて吳服商賣する人ありて、お園といふ娘をもちしが、只ひとりの娘といひ、諸人(しよにん)にまされる容色なれば、父母の寵愛すくなからず、
「田舍育(いなかそだち)となさんも惜し。」
と、一年のうち、大かたは京大坂に座敷をかり、乳母(うば)婢(こしもと)を多くつけ置(おき)、
「地下(ぢげ)でも堂上(たうしやう)まさりじや。」
と、名にたつ師をとり、
「和歌を學(まなば)せ茶の湯も少し知(しら)いでは。」
と、利休流の人へたのみ、長板(ながいた)[やぶちゃん注:茶道で風炉・水指などを載せる長方形の板。ここは細かなところまで、という喩えであろう。]までも、たてまへ覺へ𢌞(まは)り、炭(すみ)に心をくだけは、
「お精(せい)がつきやう。」
と、婢とも琴(こと)三絃(さんげん)を取出(とりいだ)し、
「明日は芝居にいたしましよ。」
と、女形の容貌(すがた)に氣をつけ、聲音(こはいろ)をうつし、仕立(したて)あけたる盛(さかり)の年、二九からぬ目もと口もと、田舍にまれなるうつくしさ、引手(ひくて)あまたの其中に、長良(ながら)や淸七とて、これも、をとらぬ身代(しんだい)がら、兩替商賣目利(めきゝ)の嫁子(よめご)白無垢娘、二世かけて夫婦の中(なか)は黃金(わうごん)はだヘ、振手形(ふりてがた)なきむつましさ、はや、其としに懷妊して玉のやうなる和子(わこ)をもふけて、世話にすがたも變らねば、
「下地(したぢ)のよいのは各別。」
と、讚(ほめ)そやされし身なりしが、秋の末にはあらねども、いつともなしにぶらぶらと、さして病氣といふにもあらず、只、何(なに)となく面瘦(おもやせ)て、氣むつかしげに衰へて、物おもはしき氣色なれば、兩親(ふたをや)、舅姑(しうとしうとめ)、聟(むこ)、にはかに驚き、醫者へも見せ、
「藥よ鍼(はり)よ。」
と、騷ぎたち、諸神(じん)諸佛へ立願(りふぐはん)をかけ奉る。御寶前に肝膽(かんたん)をくだき、いのれども、終に此世の緣つきて、會者定離(ゑしやでうり)とは知りながら、戀(こひ)こがれしもあだし野の露と消ゆく花ざかり、鳥(とりべ)部の山に植(うへ)かへて、淚の種となりけらし。
ふしぎや、野邊(のべ)に送りし夜(よ)より、お園が姿ありありと、影のごとくにあらはれて、物をもいはず、しよんぼりと單笥(たんす)のもとにたゝずめり。みなみな傍に立よりて、
「ノフなつかしや。」
と取(とり)すがれと、たゝ、雲雰(くもきり)のごとくにて、手にもとられぬ水の月、
「何ゆへこゝに來りしぞ。」
と尋ぬれども、返事もせず、淚にむせぶ斗(ばかり)にて樣子もしれねバ、詮かたなく、
「可愛(かわい)や、わが子が淸七にこゝろ殘りて迷ひしならん。」
と、さまさまの佛事をなし、跡(あと)ねんごろに吊る(とむら)へども、所も違はす、姿もさらず、
「扨(さて)は單笥の衣類の中(うち)か、手道具などにも執着(しうじやく)せしか。」
と、殘らず、寺へ送れども、猶も姿はしほしほと、はじめにかはらぬ有樣なれば、一門中(もんちう)、ひそかにあつまり、衣類手道具、寺へおくり、かたのごとく、佛事をなせども、すこしもしるしのなき時は、なかなか凡慮の及ばぬ所、
「道得(どうとく)知識のちからならでは、此妖怪は退(しりぞ)くまじ。」
と、其ころ、諸國に名高き禪僧太元(だいげん)和尙に、くはしく語れば、和尙、しばらくかんがへて、
「後ほど參り、やうすを見とゞけ迷ひをはらし得さすべし。」
と、初夜(しよや)[やぶちゃん注:午後八時前後。]すぐる比(ころ)、たゞ一人、長良やに來られしに、見れば、一家(け)の詞(ことば)にちがはず、亡者のすがた、霞のごとく、簞笥のもとにあらはれて、目をもはなさず、簞笥をながめ、淚をながし、かなしむ有さま、和尙、始終をよくよく見て、亡者の躰(てい)を考(かんがふ)るに、
「ひとつの願ひあるゆへなり。暫く、此間(ま)の人をはらひ、障子ふすまをたて切(きる)べし。いかやうの事ありとも一人も來(きた)るべからず。追付(おつつけ)しるしを見せ申さん。」
と其身は亡者のすがたに向ひ、いよいよ窺(うかゞ)ひ居(ゐ)たりしが、立(たち)あがり、簞笥の中、一々に、よくあらため、顧(かへりみ)れとも、始(はしめ)にかはらず、とてもの事に、簞笥の下(した)をと引(ひき)のくれば、不義の玉章(たまづさ)數(す)十通ひとつに封じ、かくしたり。
「これぞ迷ひの種なるべし。」
と幽靈にさしむかひ、
「心やすく成佛すべし。此(この)ふみ共は燒(やき)すてゝ、人目には見せまじ。」
と約束かたき誓ひの言葉。亡者のすがたは、うれしげに合掌するぞと見へけるが、朝日に霜のとくるがごとく、消(きへ)て、かたちは、なかりけり。
和尙は歡喜あさからず、一門のこらず呼出(よびいだ)し、
「亡者はふたゝび來るまじ。猶、なき跡を吊ふべし。」
と、立歸(たちかへ)り、彼(かの)ふみども、佛前にて燒すつる煙(けふり)の中(うち)にまざまざと亡者は再び姿をあらはし、
「大悟(たいご)知識の引導(いんだう)にて、則(すなはち)、たゞ今、佛果を得たり。」
と、紫雲に乘じて飛(とび)されりと、大元和尙の宗弟(しうてい)の物がたりぞと聞(きゝ)およぶ。
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辛気臭い説教風の前後がカットされ、退屈な娘の花嫁修業の前振りも払拭、柴田宵曲も述べている通り、どろどろした濃厚な江戸趣味の生々しさの恋文「數十通」の禍々しい束が、ただ「一通」となって、お園の過ち(過ちであろうか?)がただ一度であったことを暗示させて、まさに小泉八雲の名筆によって、原話が美しく浄化されていると言ってよい。また、最初のお園の霊を見るのを夫から子に変えている辺り、幼少期に生き別れ、永遠に失われた母の思い出に生きた小泉八雲の気持ちがそうさせたのだと、私は思うのである。]
「新選百物語」の刊行年代はよくわからぬが、似た話が「耳囊」にも出てゐる。この方は富家の娘といふだけだから、まだ結婚しては居らぬらしい。歿後或座敷の隅に髣髴と現れることは八雲の書いたのと同じである。父母大いに歎き悲しみ、當時飯沼の弘經寺にゐた祐天和尙に成佛得脫の事を賴んだ。和尙はその出る場所は每日變つてゐるかどうかを尋ねた上、必ず退散させようと引き受けた。一間に入つて讀經することは大玄和尙と同じであつたが、簞笥の抽匣を丹念にしらべたりはしない。亡靈の每日佇むところに梯子をかけ、天井の板を放して、そこに澤山あつた艷書を取り出し、火鉢に抛り込んで燃してしまつた。祐天和尙は累(かさね)を濟度した人だから、こんな事には適役であつたかも知れぬ。
[やぶちゃん注:以上は「耳囊 卷之三 明德の祈禱其依る所ある事」。幾つかの私の語注も含め、以上の私の電子化訳注を参照されたい。]
以上のやうな話も普通に幽靈として取り扱はれてゐる。幽靈には違ひないが、累やお岩の怨靈談にあるやうな魔氣がない。何とか區別した方がよささうな氣がする。
[やぶちゃん注:宵曲は、この手の「魔氣」がないものを、怪談としては格が下がる、と思っているようである(でなければ、最後の不遜めいた一文は、到底、吐けない)。私はこうしたしみじみとした霊譚こそ、極上の怪談と思う人種であることを、ここに表明して終りとする。]
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