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2017/05/31

「想山著聞奇集 卷の四」 「耳の大ひ成人の事」

 

 耳の大(おほ)ひ成(なる)人の事

 

Oomimitabu

 

 天保九年【戊戌】の春。向島木母寺(もくぼじ)の少し手前の土手に、乞食(こつじき)躰(てい)の者、人の手の内を乞居(こひゐ)たり、此者、面躰は三十有餘と見ゆれども、體(からだ)の大(おほき)さは十三四歳の丁稚(でつち)程にて、右の方(かた)、耳垂珠(みゝたぶ)、甚だ大く、厚さ三寸計(ばかり)にて、巾六七寸も有。長さは一尺四五寸も有て、着座なし居(ゐ)て、耳たぶ、地を摺(する)程有たり。共其色、紫黑(むらさきくろ)にて、肌もぶつぶつとして、全く疝氣玉(せんきだま)にそのまゝ也ければ、疝(せん)も、耳に入るものと見えたり。珍敷(めづらしき)病(やまひ)もあるものなり。由(よつ)て、其ありさまを畫(ゑが)きもらひたり。か樣のかたは成(なる)ものは、まゝ有ものにて、強て奇とするには足(たら)ざれ共、一奇病ゆゑ、爰(こゝ)に記し置(おき)ぬ。

[やぶちゃん注:「天保九年」一八三八年。

「木母寺(もくぼじ)」現在の東京都墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。謡曲「隅田川」所縁の寺として知られる。

「一尺四五寸」四十三から四十六センチメートル弱。挿絵は白く抜けてしまって、しかも右耳の下が深く切り込んで衣服の模様が見えている(その点於いて、これは耳朶(みみたぶ)ではなく耳介の一部の肥大という方が適切なようにも思われる。ぶるんとして下がっているから想山は「耳たぶ」と思い込んでしまっただけかも知れぬ)。ともかく、これは想山の言うような畸形者の事実記録の資料画としては上手く描けているとは言えない。

「疝氣玉」通常、疝気とは漢方で下腹部から睾丸部にかけての鋭い差し込むような痛みを伴う男性の病気を指す。想山はそうした本来は男性の下腹部疾患が耳に入って生じて肥大したものとして彼のそれを「耳に入るものと見えたり」と言っているようだが、どうもこの「全く疝氣玉(せんきだま)にそのまゝ也」というのは、これ以前に想山が一般的な疝気の腫瘤としての現物を知っており、それを前提として語っているように感じられるところが不審である。疝気は多様な疾患が想定されるが、或いは結石類もその候補に上っているから、或いは膀胱結石や尿道結石の自然体外排出されたもの(或いはされたとするもの)を彼が見たことがあったのかも知れない(尿路結石類はカルシウム・マグネシウム・シュウ酸・リン酸・尿酸・シスチン酸などの物質が結晶化する結果、その主成分によって色(及び形)が違ってくる(尿路結石中でその八十%を占めるのはシュウ酸カルシウム結石とされ、不均一でギザギザした特徴的な表面を持つ)が、結石の色は黄褐色や黒褐色が多く見られる)。ともかくも、これは何らかの後天的な疾患というよりも、先天性の耳介にのみ生じた畸形か(ただ彼が顔は三十代であるのに身体が小さいのはそれ自体が、深刻な腰椎や脊椎の先天性奇形である可能性も示唆しているようにも思われる)、何らかの耳介下部に発生した長期に亙って徐々に肥大化していった良性腫瘤のようにも感じられる。色と肌合いの異常はこれだけの大きさで垂れ下がっている以上、血流不全が発生した結果としては納得出来る(しかし挿絵のそれは原典画像を見ても全く白く描かれているのは不審である)。]

 

「想山著聞奇集 卷の四」 「雁の首に金を懸て逃行たる事 幷、愚民の質直、褒美に預りたる事」

 

 雁(がん)の首に金(かね)を懸(かけ)て逃行(にげゆき)たる事

  幷、愚民の質直(じつちよく)、褒美に預りたる事

 

Karinosaihu

 

 文化八年【辛未】[やぶちゃん注:一八一一年。]の冬の事と覺えし由。勢州神戸(かんべ)宿[やぶちゃん注:東海道から伊勢神宮に向かう伊勢街道の宿場町。現在の三重県鈴鹿市神戸(かんべ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の東の隣村に、【村名は能(よく)聞置(きゝおき)たれども忘れたりと。】久兵衞と云ふ老農有て、段々困窮に及び、纔(わづか)八兩程の年貢の金に差詰りて、名主より日々嚴敷(きびしく)催促を受(うく)れども、金子の才覺、少しも出來かね、如何(いかゞ)ともせん方なく、當惑して居(ゐ)たるを、十六歳に成(なる)娘の見かねて、いつまで待(まち)ても金子の出來るべき術(てだて)もなければ、何とぞ、われを勤(つとめ)奉公に身をうりて、年貢金を納め給へと追々進むるに、初は不便成(ふびんなる)事なりとて、兩親も納得なし兼たれども、年貢金の事なれば、名主の催促もきびしければ、是非なく、娘に勤をさせん事に成(なり)、同國一身田[やぶちゃん注:現在の三重県津市一身田町。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下の高田専修寺との関連からもここしかない。神戸からも坤(ひつじさる)の方向にある。但し、その間は十三キロメートルはあり、以下の二里とは合わないのが不審である。]【二里程(ひつじさる)の方、高田專修寺の有所なり。】の旅籠屋四日市屋市郎兵衞といふものゝ方へ、娘を同道なして、三ヶ年金六兩二分に賣渡し、【飯盛女と唱(となへ)る賣色なり】金子を請取(うけとり)て財布へいれ、懷中なし、彼是(かれこれ)引合(ひきあひ)[やぶちゃん注:人身売買の契約取引のこと。]に手間も取(とり)たれば姥(ばゞ)も待居(まちゐ)るべしと、急ぎて歸りけるに、右一身田の直(すぐ)東のかた、中野村[やぶちゃん注:現在の一身田の南、海に近い側に津市一身田中野がある。ここの一帯であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の地内を通り越(こゆ)るとき、菜畑(なばた)に、そめ繩(なは)[やぶちゃん注:後の「そめ竹」とともに染めた鳥除け・鳥威しの類いであろうか。]の張(はり)ある内へ、雁の數羽下り居て、久兵衞の間近く來るを見て、立上(たちあが)り逃行(にげゆく)とて、如何成(いかなる)拍子にや、一羽の雁(がん)、その繩に足を引(ひき)からみて、逆さまと成(なり)、ばたばたとして居(ゐ)る故、見遁(みのが)しかねて、あたりを見𢌞せば、近邊(きんへん)に人もなきまゝ、畠(はたけ)へ入(いり)て、その竹を引ぬき、件(くだん)の雁を手捕(てどり)となし、〆殺(しめころさ)んとすれども、死(しに)かね、其内に、跡より人の來(きた)るまゝ、咎められじと思ひ、むりに雁を懷(ふところ)へおし入(いれ)、かの財布の紐をもつて、無性に首を縊(くく)りあげ、足早に道を急ぐに、折節、草鞋(わらぢ)の紐解(とけ)て、足に纏ひて步み兼(かね)る故、とく結びて急ぎ逃行(にげゆく)べしと、腰をかゞめて、草鞋の紐を結び居(ゐ)る内も、雁(がん)はばたばたとあがき居(ゐ)て、かの財布を首に懸(かけ)たるなりに、懷よりのたり[やぶちゃん注:のたくって。]出(いで)たり。急ぎ取押(とりおさ)ゆべしと思ふ間もなく、雁は懷を出(いづ)ると直(ぢき)に、羽をのして、ずつと立行懸(たちゆきかか)りたる故、思はず畑(はた)へ飛込(とびこみ)て、長きそめ竹を引拔(ひきぬき)て、漸(やつ)と一ッ打(うち)たれども、僅(わづか)に尾先をかすりて打たれば、其内に、雁は遙(はるか)の空へ飛上り、唯(ただ)一(ひと)のしに、艮(うしとら)[やぶちゃん注:東北。]のかたをさして飛行(とびゆき)たり。如何(いかゞ)とも、手に汗を握りても仕かたなけれども、白子(しろこ)[やぶちゃん注:現在の三重県鈴鹿市白子町(しろこちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と津との間、根上り[やぶちゃん注:不詳。孰れにせよ、一身田(現在の津よりも北)と先の白子町の閉区間の中間点辺り、伊勢鉄道線の「伊勢上野駅」附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云邊(へん)迄、思はず雁の跡をしたひて追行(おひゆき)たれども、雁は忽ち、右、根上りのわきのかたにある小山の松林をはるか向(むかふ)へ越行(こへゆき)て、其内には、形ちも見えぬ樣に成果(なりはて)たり。久兵衞は良(やゝ)暫く地に倒れ、大聲を出して男泣(をとこかき)に泣悲(なきかなし)めども、如何(いかゞ)とも仕方なく、唯、此儘に此所(このところ)にて死ぬべくも思へども、姥や娘は、此譯(わけ)は辨(わきま)ふべからず、されば、一先(ひとまづ)、宿へ歸り、此事を咄して、兎も角もなすべしと、心を取直(とりなを)し、漸(やうやう)と夜(よ)の五ッ[やぶちゃん注:午後八時前後。]前にわが村迄歸り來(きた)ると、姥は待兼(まちかね)て、村はづれまで迎(むかひ)にいで居(ゐ)て、首尾は如何(いかゞ)にて有しぞ、思ふ程の金と成(なり)たるやと尋らるゝにも、消入(きえいり)たき心地して、宿へ歸りて後、隱すべき樣もなく、段々の譯合(わけあひ)を語りてきかすると、姥もわつと泣出(なきいだ)し、年來(ねんらい)、鳥殺生(とりせつしやう)などなし給ふ故、自然と其樣なる事の出來(でき)しも天罰なるべしと悔めども、仕方もなく、又々、共に悲みて、茫然と打しほれて、泣より外の事もなく、哀れ至極の事ども也。爰(こゝ)に、同所より二里計(ばかり)も北の方(かた)、四日市宿の漁人(ぎよじん)何某、其翌朝に當りて、未明に起出(おきいで)、例のごとく、濱邊をさして漁(すなど)りに出かけ行けるに、此濱邊には鴈鴨(がんかも)多くむれ居(ゐ)、石を打て、よき所にあたれば、をりふしは手捕(てどり)となす事も有故、兼て道にて、袂(たもと)に石を三ッ四ッづゝ拾ひ入れて行(ゆく)事なるが、此朝も、土手の傍(かたはら)に、鴈(がん)五羽あさり居(ゐ)たるまゝ、例のごとく石を打(うつ)に、當らずして、鴈は驚きて立行(たちゆく)を、又、續けて一ッ打(うて)どもあたらず、然るに、右(みぎ)鴈の内、一羽立得(たちえ)ずして殘り居(ゐ)る故、如何成(いかなる)事かと不審に思ひながら、土手の後ろへ𢌞りて、急にかの鴈を追(おふ)に、速(すみやか)に立得ずして、傍の小溝(こみぞ)の中(なか)へ追込(おひこみ)、遂に手捕と爲(な)して〆殺(しめころ)してみれば、こは如何(いか)に、首に何か纏ひたるものあり。よくみれば財布也。中(うち)をみるに、金六兩二分有しまゝ、大(おほひ)に悦び、其日(そのひ)は漁(すなど)りを止(やめ)にして、急ぎ内へ持歸り、事の樣(やう)を具(つぶさ)に女房に咄して、此金は全く天より授(さづか)りたる金也迚(とて)、悦ぶ事限りなし。其時、女房の云(いふ)には、去(さり)ながら、其金は故(ゆゑ)こそ有らめ、何人(なにびと)か首に付置(つけおき)たるものなるべし、篤(とく)と見給へとて、財布を取て、金を改めて能々(よくよく)見るに、中(なか)に書付あり、四日市屋市郎兵衞の女を買取(かひとり)たる書付也。此書付ある上は、金主(かねぬし)は分るべきまゝ、急ぎ吟味して返し給へと勸むれども、天より我等に與(あたは)りたる金なれば、取置(とりおく)こそ宜(よろ)しけれとて、初(はじめ)は亭主も納得せざりしが、子を賣(うる)と云(いふ)事は、能々難儀の事也、決(けつし)て取置(とりおく)金に非らずと、段々女房の諫(いさむ)るにまかせ、左(さ)すれば、吟味して返すべしと聞探(きゝさぐ)り見るに、四日市屋市郎兵衞と云(いふ)は、一身田也(なり)と直(ぢき)に分りたるまゝ、金を失ひし方(かた)にては、嘸々(さぞさぞ)心づかひをなし居(ゐ)申(まうす)べきまゝ、今より直(ぢき)に尋行(たづねゆき)給へとて、女房はまめやかに辨當を拵へ、夫(をつと)を出(いだ)し遣したり。それより、かの漁夫は、市郎兵衞方へ尋行て、賣主も明らかにしれたる故、直(すぐ)に久兵衞方へ尋行て見るに、表をば戸ざして、内に老夫婦、歎きに沈み居(ゐ)たる樣子也。依(よつ)て鴈(がん)の首に金を付置(つけおか)れずやと尋(たづぬ)るに、か樣か樣の次第にて、其鴈を取逃(とりにが)せしと云(いふ)ゆゑ、其鴈は、我等が手捕と成(なり)たるに、首に財布をからみ居(ゐ)て、金子あり、四日市屋市郎兵衞の書付もある故、一身田まで尋行、又、此所まで、態々(わざわざ)尋來りたり、金子を受とり給へよと、財布を出(いだ)しければ、老人夫婦は、誠に思ひよらぬ事なれば、膽(きも)を潰すのみにて、しばし言葉もなし。扨ては左樣なる事に候や。御深切の段、言語(ごんご)に盡し兼(かね)、有難き事也。元、此金は、我等が金ながら、鴈の首に付置て鴈に取(とら)れ、其鴈を捕(とり)給へば、そなたの金なり。然れども、我等もよぎなき入用(いりよう)の金にて、既にきのふより死すべくも思ひ居(ゐ)たる程の儀(ぎ)、且(かつ)は遙々(はるばる)御深切にて持來り給りし事故、半分は戴き申べしとて、半分取て、跡は漁夫へ返しけれは[やぶちゃん注:「は」は底本・原典ともにママ。]、是も中々請(うけ)とらず。鴈といへども、元そなたの一度捕(とり)給ひたるのなれば、そなたのものなれども、我等が捕たる事なれば、もらひ置(おく)べし、金はそなたの金なれば、我等がもらふ筈(はず)なしとて辭退なし、互にとらじと色々爭ひて、遂に、骨折代として、かの漁夫は二朱の金を申請(まうしうけ)、歸り行て事濟(ことすみ)たりと。此事、遂に、領主へ聞え、漁夫は、深切に尋行て返し來りたる事を感じられて、靑差(あをざし)[やぶちゃん注:銭(ぜに)の穴に紺染め(古来はこの色を「青」と称した)の細い麻繩の「緡(さし)」を通して銭を結び連ねたもの。一般には一文銭を二百文を一緡とした。]五貫文[やぶちゃん注:標準では「一貫文」は一文銭一千枚。江戸後期だと、現在の一万円ほどか。]・米五俵を褒美として下し給(たまは)り、又、久兵衞は、留場(とめば)[やぶちゃん注:天領及び社寺仏閣の領域であったり、藩自体が規定するなどして、公的に殺生を禁じていた場所を指す。]にて竊(ひそか)に鴈を捕(とり)たる罪はかぞへられずして、娘を賣(うり)てまで年貢を出(いだ)さんとして、餘儀なき才覺の金なれども、義理を辨へて、段々辭讓(じじやう)なしたる事どもを感じられて、是も靑ざし五貫文下し賜りしと也。此一條は戲場(たはむれば)[やぶちゃん注:芝居小屋。]の作り狂言のやうなる事なれども、我(わが)知音(ちいん)、中村何某、其頃は實方(じつがた)、津の藩中に在(ある)時の事にて、近邊故、現に其事を見聞(けんもん)して、よく覺え居(ゐ)て、具(つぶさ)に咄せし珍事也。

[やぶちゃん注:……この娘の「あとのこと知りたや」……]

「想山著聞奇集 卷の四」 「信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」

 

 信州にて、くだと云(いふ)怪獸を刺殺(さしころし)たる事

 

 信州伊奈郡松島宿の北村と原村の間に【中山道下諏訪より五里計(ばかり)南、高遠よりは二里計北西へふれたる所と也。】より僅(わづか)五六軒の家あり。此所(このところ)に小右衞門と云百姓の妹、廿六七に成(なる)女、享和年中の事と覺えし由、夜分寢てのち、聲をかぎりにヒイヽと云て泣出(なきいだ)してやみかね、難儀の旨にて縣(あがた)道玄に療養の事を賴みたり。其頃は、道玄至て若き節(をり)にて右近隣、松島と云所に遊歷なし居(ゐ)て、何心(なにごゝろ)なく彼(かの)家に行(ゆき)て見るに、如何にも大(おほひ)なる家なれども、零落の樣子にて、廿疊敷ばかりの座敷もあれど、疊も上げて、其所(そのところ)へは、久々、人も立(たち)さはらざる樣子に見え、荒果(あれはて)たる有樣にて、隨分、妖物(ようぶつ)の住家(すみか)ともなすべき古家(ふるいへ)なり。夜に入(いり)て、手水場(てうづば)は何(いづ)れぞと子供に尋(たづぬ)るに、彼(かの)疊の上げてある古座敷の椽側を傳ひて、向(むかふ)の方(かた)に有(あり)と教へしまゝ、燈火(ともしび)を持(もち)て彼椽を傳ひ、曲りくて古き便所の口の所へ行懸(ゆきかゝ)ると、額(ひたひ)の左(ひだ)りの所、ひやりとせし故、合鮎(がてん)行ず、※(のり)にても付たる樣につめたき故[やぶちゃん字注:「※」=(上)「殷」+(下)「皿」。「つめたき」という表現からは「糊(のり)」のようだが、後のシークエンスからは「血糊」の謂いである。]、手にて顏を拭(ぬぐ)ひ見るに、何事もなく、又、行(ゆか)ふと思ふと、ひやりとはせしかども、素(もと)より目にさへぎるものもなく、何事もなし。依(よつ)て小便をして、再びその所を通ると、又、ひやりとせしかども、元來、道玄は、か樣の事には驚(おどろか)ぬ豪傑故、外(ほか)に何事もなければ、其儘に座に復して、有(あり)し次第を云て、不思議成(なる)事也と尋るに、あの便所へは、祖父の代に參りたるまゝにて、親の代よりも一切參らざる所なれば、妖物にても居(ゐ)申べきかと云たり。其夜は、妹も泣(なか)ざるまゝ、又、明晩參るべしと約して歸りて後も、道玄は不審晴兼(はれかね)、暮(くるゝ)を遲しと、又、彼(かの)家へ行。程なく、夜前の如く燈火を付(つけ)て、左りの手に持、右の手には、兼て薄き紙を黑く塗(ぬり)て脇差の身に張付(はりつけ)、白刄(はくじん)を隱し置たるを、そつと拔持(ぬきもち)、柄(つか)を左りの腰骨の所に當(あて)、切先(きつさき)を上になし、左りの肩先の所に當て、左りの袖にて見えぬ樣に、何(なに)と無(なく)能(よく)隱して、かの所へ至ると前夜の如く、左りの額、ひやりとすると等敷(ひとしく)、力に任(まかせ)て骨も通れと突上(つきあぐ)ると、すさまじく手答(てごたへ)して、だらだらだらと※(のり)、額へ流れ懸りて、怪物はにげ失(うせ)たり。よつて勝手へ歸り、能々見るに、額より肩へ懸(かけ)て、夥しく血懸(かゝ)りたり。よく拭ひて後、再び明りを照して、かの邊(へん)を尋るに、血は流れあれども、何もなければ、夫(それ)なりに臥(ふし)たるに、彼(かの)妹は、其夜も泣もせず。依て翌朝は緩々(ゆるゆる)起出(おきいで)て朝飯(あさはん)をたべて居たるに、かの便所の方の隣家(りんか)にて、彼是、人聲(ごゑ)の喧(かまびす)しく聞ゆるを聞(きけ)ば、變なる獸(けもの)の深手にて死(しん)で居(ゐ)ると云故、行て見るに、右便所の直向(ぢきむかふ)の所、隣家の地面に、芋(いも)を圍(かこ)ふ室(むろ)の高く築上(つきあ)げたる上の方へ、便所より飛行(とびゆき)たるなりに、其大(おほき)さ、大猫(おほねこ)程有て、顏は全く猫のことく、體(からだ)は獺(かはうそ)に似て、毛色は惣躰(さうたい)、灰鼠(はいべづみ)にて、尾は甚だ太く大ひにして、栗鼠(りす)のごとくなる怪獸、左りの下腹(したはら)の所より、右の脇腹(わきばら)の所迄、斜(なゝめ)に突通(つきとほ)されて死に居(ゐ)たり。此異獸は、誰人(たれびと)も見知(みしり)たる者はなけれども、信州の方言に、管(くだ)と云(いふ)獸(けもの)なりと、人々究(きはめ)たりと也。此管と云ものは、甚(はなはだ)の妖獸なり。一切(いつせつ)、形は人に見せずして、くだ付(つき)の家とて、代々、其家の人に付纏(つきまと)ひ居(ゐる)事にて、此家筋の者は、兼て人も知居(しりゐ)て、婚姻などには、殊の外きらふ事と也。其くだと云は、餘國にて云(いふ)管狐(くだぎつね)の事にやと問へば、彼所(かのところ)にては、くだ狐とは云ず、くだと計(ばかり)云事のよし。然れども、尾の太き所は、全く狐の種類にや。三州・遠州などにて管狐と云(いふ)は至(いたつ)て少(ちいさ)く、管(くだ)の中(なか)へ入(い)る故に名付たる狐とはいへども、實(じつ)は其形ち、鼠程有(ある)狐にて、慥(たしか)に見たりと云者、三州荒井に有て、能々聞置たることもあれども、此類の種類も、いくらも有事と見えたるゆゑ、管に入のも有にや。しかし、其管狐と云ものとは全く別種のものと見えたり。何にもせよ、この妖獸は彼地(かのち)にても、誰(たれ)人も見ざるものにて珍敷(めづらしく)、評判高くなりて、高遠の城下よりも、人々見に來りて、彼婦人の泣(なく)事は、此ものゝなす業(わざ)と見えて、其後は止(やみ)たりと。此事は、右、縣(あがた)より直(ぢき)に聞たる咄にて、餘り珍敷事故、右同氏に其形ちを圖(づ)しもらひて、後證(かうしやう)となせり。道玄は、萬藝(ばんげい)とも、人に長じたる内に、武藝もすぐれたる人なり。

 

Kuda

 

[やぶちゃん注:以下、図の上部のキャプション。]

 

大(おほき)さ、大ひ成猫程ありて、顏は全く猫にして、尾は甚だ大ひなり、先(まづ)、狐の尾にて、惣身、獺(かはうそ)のやうにて、見馴(みなれ)ざる故か、小獸ながら、甚だ(はなはだ)變怪成(なる)ものとなり

 

[やぶちゃん注:「くだ」本邦の古くからの憑き物の一種である妖獣管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐」より引く。『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある』。『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキ』(オサキギツネとも称する狐の憑き物の一種。漢字表記は「尾先」「尾裂」「御先狐」など。主に関東地方(埼玉県・東京都奥多摩地方・群馬県・栃木県・茨城県・長野県等)の一部の山村に伝わる妖獣で、元は那須野で滅んだ九尾狐由来とするものが多い。狐同様に人にも憑くが、家や特定の家系に憑くと信ぜられ、そうした家を「オサキモチ」「オサキヅカヒ(使い)」などと呼ぶ。ここは主にウィキの「オサキ」に拠った)『の勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」「クダ屋』」「クダ使い」「くだしょう」と『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。小泉八雲(当時はまだラフカディオ・ハーン)も『落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (七)』の中でこの七十五匹云々を狐持ちの家の話として強い興味を持って記しているので是非、読まれたい(リンク先は私の電子化注)。なお、「管狐」の実在モデル(及び本章の挿絵のそれはどう見ても)は所謂、「鼬(いたち)」、哺乳綱ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ属ニホンイタチ Mustela itatsi 或いは同イタチ属イイズナ Mustela nivalis である

「信州伊奈郡松島宿の北村と原村の間」現在の愛知県足助から長野県飯田・伊那のある伊奈盆地(伊那谷)を通って長野県中部の塩尻に到達する三州街道中の松島宿は現在の諏訪湖の西南の長野県箕輪町(みのわまち)に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「北村」「原村」に相当するような地名は見出し得ない。この箕輪町ということでご勘弁を。

「享和」一八〇一年~一八〇四年。

「ヒイヽ」表記のように原典では「引」の字が右に有意に小さく記されている(こうした例は今まで述べていないが、想山が自分を「予」と書く場合にもそうである)。これは恐らくオノマトペイアの音を引くことの記号と私は読む。即ち、ここは「ヒイイイイイイーー!!」なのである。

「縣(あがた)道玄」不詳であるが、本巻で先行する「大(おほ)ひ成(なる)蛇の尾を截(きり)て祟られたる事 幷、強勇を以、右祟を鎭(しづめ)たる事」を伝えた医師として既に登場しており、想山の大事な情報屋であったことが知れる。]

 

「想山著聞奇集 卷の四」 「死に神の付たると云は噓とも云難き事」

 

 死に神の付(つき)たると云(いふ)は噓とも云難(いひがた)き事

 

Ebisubasimitiyukinodan

 

 予が壯年の頃、我方へ出入たる按摩に、可悦(かえつ)と云盲人(まうじん)有。此者、若年(じやくねん)の頃、江府(かうふ)の屋敷方(がた)に奉公なし、遠國在廰の衆にも隨從して、所々步行(ありきゆき)、武道の事も粗(ほゞ)心得居(ゐ)、氣性も餘程衆に秀(しゆう)たるをのこにて、何事も物の數共(とも)思はざる氣質(きしつ)にて、放蕩抔(など)も人に增(まさ)りてなしたるよし。内瘴(そこひ)の症にて、忽ち盲人となりしかば、斯(かく)廢人となりて後(のち)は、三都の住居(すまひ)は無益(むやく)成(なり)とて、速(すみやか)に按摩と成て、生國なれば尾張へ歸り、我(わが)名古屋に居(きよ)をしめたり、此者、大坂在官の人の供して、かの地へ至り居(ゐ)し節(をり)、風(ふ)と、嶋の内の何とか云、大成(おほひなる)女郎屋へ行て、纔(わづか)兩三度遊びしに、右女郎の云には、心中【江戸にては相對死(あひたいし[やぶちゃん注:「し」は原典のママ。])といふ】してともに死呉(しにくれ)よといふ。隨分、死申(しにまうす)べし。去(さり)ながら、何故(なにゆゑ)に死を究(もとむ)ると問(とひ)ければ、惚(ほれ)たる故と云。其心に僞(いつはり)なくば、隨分、其意に任すべしと答(こたへ)しに、さらば、明晩、死申べしとの事にて、其夜は快く遊びて後、歸るに臨みて、約束の通り、明晩は、ぜひ早(はや)う參り呉(くれ)よと、心に留(とめ)て申せし故、勿論のことよと云捨(いひすて)て歸りしが、變成(へんなる)ことを申す女かな、明晩參れば彌(いよいよ)しぬ事にやと、不審は思ひながら、其翌夜(よくや)は友達とともに出(いで)て、道にて酒抔給(たべ)、遲くかの樓へ行見(ゆきみ)るに、女は待わびて、何故、斯(かく)は遲く來りしぞと怨(うらむ)る故、道にて友達に出會(いであひ)て、遁れがたく、心ならずも酒など呑(のみ)て時も移りたり、皆々も同道にて、辛うして來りたると云。死なふと思ふに、義理所(ぎりところ)にてはなし、多分は心變りし給ふ事と、宵より怨みて計(ばか)り居たりと云しかば、鳥は立(たつ)とも跡を濁(にご)さずと云諺もあり、待べしとは思へども、友達の付合も是非なし、時刻こそ遲れたれども、來(きた)る上は、疑(うたがひ)も晴(はら)し申べしと答ければ、夫(それ)は嬉敷(うれしき)事とて、死(しぬ)る氣の樣子ゆゑ、如何して死ぬ積りぞと問へば、内(うち)は僞りて、夜芝居(よしばゐ)に行(ゆく)とて出(いで)て、今宮(まきみや)の森へ行て死ぬ積りの所、最早、今宵は時も移り、連(つれ)が有ては妨(さまたげ)にも成べく、如何せば宜しからんと云故、今宵死ぬには限るまじ、此世の暇乞(いとまごひ)に、今夜は存分に酒を呑て思入(おもひいれ)、騷(さはひ)で遊ぶと了簡(れうけん)を替(かへ)べしと云に、男と云者は氣性の能(よき)もの也、さらば、明晩は必ず早う壹人で來り呉(くれ)よといふゆゑ、承知也承知也とて、無上(むしやう)に酒も呑(のみ)、大勢快く踊り戲れて遊び歸りたれども、翌日に至り、よくよく考(かんがふ)るに、あの樣に死ぬ氣に成(なり)たるは、呉々(くれぐれ)も合點(がてん)の行(ゆか)ぬ事なり、我等如きの男に惚(ほる)ると云もおかしく、又、身の上よきか、或は金に惚(ほれ)たりと云にもあらず、或は久敷(ひさしき)馴染にて、段々の情(じやう)も深く成(なり)たると云にてもなく、其うへ、互に、生(いき)て居(ゐ)ては義理の惡敷(あしき)と云べき譯もなし。おかしき事とは思へども、其頃は血氣の事にもありしかば、何(なに)にも驚かず。總躰(さうたい)の事、物の數とも思はずして、此上の成行(なりゆき)は如何(いかが)するのか、往(ゆき)てみねば分らず。相對(あひたひ)にて心中して死(しぬ)のも面白からん。何にもせよ、今宵も又參るべしと、暮合(くれあひ)より出かけ、五ツ時[やぶちゃん注:午後八時前後。]前に彼樓へ行と、女は待居、能(よく)來て下されしぞ、兼て約束の通りに、夜芝居へ參る也迚(とて)、夫々、内の片(かた)も付(つけ)、つれ立て出懸(でかけ)たり。夫より恵比須橋(ゑびすばし)迄行(ゆく)と、橋詰に、片見世は、草履(ざうり)・草鞋(わらぢ)抔商ふ八百屋有。此所(このところ)にて、彼(かの)女の云けるは、下駄にては道行(みちゆき)ももどかしく、草履を求(もとめ)てはき申すべし、そなたにもはき給へとて、二足買(かひ)たり。夫より橋の上へ行て、今の草履をはく迚(とて)、此川は名にし負ふ道頓堀にて、大坂一の繁榮なれば、橋の下には、行違(ゆきちが)ふ船も群(むれ)をなしたるに、其樣成(そのやうなる)斟酌なしに、彼(かの)下駄を橋の上より蹴込(けこみ)しまゝ、此時に至りて、此女は彌(いよいよ)死ぬ積り也と初(はじめ)て悟りたりと。扨(さて)、夫より、男にも、裏附(うらつけ)を蹴込て草履に替(かへ)よと云故、此新敷(あたらしき)裏附を入水(じゆすい)させるも無益(むやく)なり、今の八百屋に預け來(きた)るべしといへば、今死ぬ物が其樣なるとんぢやくが有べきかと申せども、死ぬる迄も費(ついえ)は費也、八百屋に置(おけ)ば八百屋の物と成べし、預け行んとむりに立戾りて、八百屋に預け、夫より浪花新地(なにはしんち)を通り拔(ぬく)るころ、彼(かの)女の顏色を能(よく)見るに、大(おほひ)に替りて、最早、一途に死ぬ事と思定(おもひさだめ)たる有さまなれば、夫迄は、うかうかと女郎の申(まうす)に任せたれども、是切(これぎり)に死(しん)で仕舞(しまふ)は思ひもよらぬ事ながら、此間中(このあひだぢう)、快よく約束して、今更いやともいひ難し、不慮成(ふりよなる)事を納得して、長き命を此場限りに縮めたると云(いふ)も、智惠のなき最上(さいじやう)、如何(いかが)はせまじと思ひつゞけしが、最早、義理も是切(これぎり)也(なり)、足に任せて逃(にげ)んと思へども、女も兼て覺悟の事故、懷より背中へ手を差入、命懸にて、下帶をしつかりと握り詰居(つめゐ)るゆゑ、中々、力業(ちからわざ)にては、扱取(もぎとつ)て逃失(にげうせ)る事も成間敷(なるまじく)、兎(と)やせまじ、角(かく)やせまじと思ふ内に、今宮の森迄、來りたり。兼て女の用意して持來りたる紐にてともに首を縊(くゝ)らんといへども、彼(かの)下帶は中々放さず。依(よつ)て先(まづ)少し成共(なりとも)、時刻を延(のば)さんと、此社(やしろ)にて多葉粉一ぷく、たべんと云。女郎の申には、もふ多葉粉所(どころ)にてはなしと答(こたふ)る故、最早、此世の名殘(なごり)なり、此所(このところ)まで逃來りし上は、其樣(そのやう)に急ぐ事はなし、好成(すきなる)たばこ位(ぐらゐ)は呑(のま)せ呉(くれ)よといひければ、さらばわらはも一ぷく呑(のみ)申べし、男の心は違(ちが)ひたるもの也とて、彼(かの)社前にて、火打(ひうち)を出(いだ)して、一打(うち)二打、打(うつ)と、思ひも寄らぬ直(ぢき)に後(うしろ)の戸をがらりと明(あけ)て、社(やしろ)より夜番(よばん)の者出(いで)て、何者なれば火を打(うつ)と、大ひなる聲して叱りたりければ、互に仰天せしはりやいに[やぶちゃん注:「張り合ひ拔けに」のことか。ふっと力が抜けるてしまって。]、詰居たる手を放ちしゆゑ、直(ぢき)に深林(しんりん)へ逃込(にげこみ)たり。夫より女は定(さだめ)て探し尋ねたるならんに、彼(かの)可悦は、けしからぬ脇へ逃翦(にげきり)、道もなき所を無上(むしやう)にたどり駈戾(かけもど)り、元の惠比須橋の八百屋へ來りみれば、いまだ寢(ね)もせずに居(ゐ)たりしかば、裏附(うらつけ)を取(とり)はきて足早にかけ歸り、夫より一二日は外へも出(いで)ず、内に居(ゐ)たれども、何分、右の事も心に懸り、欝々として樂(たのし)み兼(かぬ)る故、三日目程に、今度は方角を引離(ひきはな)れて天滿(てんま)の方へ出(で)かけ、或茶屋に休居(やすみゐ)たるに、荷物を脊負(せおひ)たる商人(あきうど)來りて、彼(かの)荷を下して、ともに休みつゝ咄しけるは、夜前(やぜん)、今宮の森に相對死(あひたひし)有(あり)たり。女は島の内の女郎と申(まうす)事也と云ゆゑ、扨、我等と能(よく)似たる事も有(ある)ものかな、若(もし)も彼(かの)女にてはなきやと思ひ、何(なに)やの女郎にやと問(とふ)に、既に我(わが)行(ゆき)たる女郎屋故、心せきこみて、夫(それ)は何と云(いふ)女郎なるやと又問へば、彼商人、女郎の名迄は承らず、何故、其樣に申さるゝ事ぞと云故、尤也(もつともなり)と心付(こゝろづき)、以前、あの内(うち)へは往(ゆき)て、大躰(たいてい)、女郎も近付(ちかづき)故、くどふも尋(たづぬ)る也と申紛(まぎ)らし、夫より人にも搜らせ、自身にも能(よく)尋見(たづねみ)るに、知己(おのれ)[やぶちゃん注:「知」はママで二字にルビする。]が死(しな)ふとせし女にて相手の男は遠國より來り居(ゐ)て、是も纔(わづか)四五度通ひ、餘程年を取(とり)たる男なりと云。此女には、世に云(いふ)、死神(しにがみ)が取付(とりつき)たるものにて、かの旅の男にも取付たるにや。何にしても、うかうかと、ひやい[やぶちゃん注:恐らくは「非愛(ひあい)」で、「危(あや)ういこと・危(あぶ)ないめ」の意であろう。]成(なる)事に逢(あひ)しとて可悦より詳(つまびらか)に聞(きき)たるなり。予、思ふに、可悦には神(かみ)有(あり)て遁(のが)れさせ給ひしか。又は、斯迄(かくまで)、心の慥(たしか)なる男故、死に神の侵(おか)し兼(かね)たるか。心得置(こころえおく)べき事なり。

[やぶちゃん注:添えられた挿絵は現在の大阪市中央区の道頓堀川に架かる戎橋(えびすばし:本文では「恵比須橋(ゑびすばし)」)上のシーンである。ここ(グーグル・マップ・データ))――「死神不可悦今宮心中(しにがみのよろこばざるいまみやしんじう)」の「恵比須橋道行の段」――である。よく見て戴きたい。……画面右手こちらの欄干の側に男女が顔を見合わせている……これが主人公の若き日の可悦と死神に憑りつかれた哀れな女郎である……何故それが分かるかって?……よく御覧なさい……そこから視線をずっと下の川面の方に目を移してゆくと……やや左手……に……彼女が死を覚悟して蹴り込んだ……下駄が……描かれているじゃ……ありませんか…………このタナトスに囚われた女は何か無性に哀れである……彼女が心中を遂げた老けた相手というのは……これ……私のことかも知れぬ…………

「内瘴(そこひ)」漢字では「底翳」と書き、視力障害を来たす複数の眼疾患のことをさす古語。現在でも俗称として用いられている。現在の疾患名では「白そこひ」は「白内障」を、「青そこひ」は「緑内障」に当たり、「黒そこひ」は瞳孔の色調変性が起こらないのに視力障害が起きる疾患を総称していたが、現在では「網膜剥離」「硝子体出血」「黒内障」などを指す(ウィキの「そこひ」に拠った)。

「嶋の内」現在の大阪府大阪市中央区島之内(しまのうち)の南部地区。ウィキの「島之内」によれば、十九世紀後半には二十四町もの茶屋御免の『町があり、遊里が点在する色町を形成しており』、ここの北に接する大坂町人文化の中心となった商業地区である船場(せんば)の『「商いどころ」に対して「粋どころ」と呼ばれた』。『異名は「ミナミ」「江南」「南江」「南州」「南陽」「陽台」「崎陽(きよう)」と多数あった。つまり「ミナミ」とは元々、島之内のことを指す名称であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「死なふと思ふに、義理所(ぎりところ)にてはなし、多分は心變りし給ふ事と、宵より怨みて計(ばか)り居たり」彼女の台詞。「義理所にてはなし」は「あんさんにはわてと死なねばならぬ義理のある訳にては、これ、あらへんさかい」の謂いであろう。

「夜芝居(よしばゐ)に行(ゆく)とて出(いで)て」こういうことが許される(江戸の吉原ではこうしたことは普通は許されなかったはずである)、比較的自由のきく女郎屋であったことが判る。

「今宮(まきみや)の森」「えべっさん」の愛称で知られる、現在の大阪府大阪市浪速区恵美須西にある今宮戎神社の森か? ここなら島之内からなら、南に二キロメートル圏内である。

「裏附(うらつけ)」裏附草履。二枚重ねの底に革を挟んで補強したもの。女が嫌ったのは、恐らくは普通の草履よりも音がするからであろうか。

「浪花新地(なにはしんち)」概ね現在の中央区難波に当たる難波新地(なんばしんち)。ここ附近(グーグル・マップ・データ)。先に渡った戎橋の南直近。

「扱取(もぎとつ)て」底本は「拔取」であるが、編者によって右に『(捥)』と訂正注がある。確かにそうすれば「もぎとり」と難なく読めるが、しかし、原典を見ると「拔」ではなく、私には「扱」に見える。これは「こく」「しごく」「細長い本体に付いている物を手や物の間に挟んで引っぱって擦り落とす」の謂いであり、想山はそうしたニュアンスを含んで確信犯でこの字を当てたとも思われるのでママとした。

「天滿(てんま)」現在の大阪市北区天満。ここ(グーグル・マップ・データ)。大阪城の北西で、確かに今までのロケーション位置からは東北に当たって方向違いである。

「夜前」前の日の夜。主人公は逃げ帰って、その夜から三日目に天満に出かけ、この話を聴いている点に注意。] 

「想山著聞奇集 卷の四」 「美濃の國にて熊を捕事」

 

 美濃の國にて熊を捕(とる)事


Kumatori

 美濃の國郡上郡(ぐじやうごほり)の、きび嶋(しま)村と云は、僅(わづか)家數(かづ)三十軒計(ばかり)の村なれども、村(むら)内の山は、二三里に渡りて至て廣く、此山、南受(みなみうけ)にして暖(あたゝか)なる地なれば、冬は飛驒・加賀・越前・越中當りの熊、多く此山へ集り來りて、穴に住(すむ)もあり、古木(ふるき)に住も有、依(よつ)て、此邊(このへん)の狩人(かりうど)共の行て其熊を捕事也。【此邊の山は神代(じんだい)より斧いらずと云所ゆゑ、大木(たいぼく)のみ有ところなり。】先(まづ)、木に住(すむ)熊は、五圍(いつかこ)みより、七(なゝ)圍み八(や)圍み位(くらゐ)有(ある)古木(ふるき)の、中(なか)は朽(くち)てうつろに成(なり)たる木いくらも有て、其木の中に、熊五疋も六疋も、多きは七八疋位も有事もありと。狩人は四五人より十人位迄組合(くみあひ)て、獵犬を連て、正月より二月頃の、未(いまだ)、雪の消ざる内に山へ入て尋(たづぬ)ると、熊の居(ゐ)る木は犬しり居(ゐ)て、其木の根を𢌞りて、頻(しきり)に吠(ほゆ)る也。熊は犬の吠る聲を聞(きけ)ば、木のうろ深く潛(くゞ)り隱れて決(けつし)てうろ穴より出(いづ)る事なし。よつて、その邊(へん)の木を伐りて、穴の上より入(い)ると、熊は其木を己(おのれ)の穴へ段々引込(ひきこみ)て、己らは穴の底へ潛(ひそま)り込(こむ)ものゆゑ、彌(いよいよ)木を穴へ差入(さしいれ)て、如何しても出(いで)られぬ樣になして後(のち)、けふは暮に及べるまゝ、今宵は此所(このところ)に宿(やど)して、あすの事になすべしなどゝて、火を燒て夜(よ)を明(あか)し、夫(それ)より木の根のよきかげんの所に、五六寸位より七八寸位の穴を斧にて伐明(きりあく)ると、熊出(いで)んとして其口ヘ來(きた)るを待(かち)て、熊突(くまつき)といふ笹葉(さゝば)に似たる槍にて、手早く突(つく)と等しく、其槍を𢌞して直(ぢき)に拔取(ぬきとる)事と也。其槍の穗は

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か樣の形にして、(み)の長さ七八寸有て、幅は三寸繰りもあり。至て薄き能(よく)切(きれ)る關打(せきうち)の槍也。全く出刄(でば)を背合(せあはせ)にしたる如きものにして、熊笹の葉のごときもの也。【依て笹槍と云。】小耳(こみゝ)と云(いひ)て、熊の耳の下と、又、月の輪とは、急所なれば、一突にて留(とま)るゆゑ、先(まづ)、其二か所をねらひて突(つく)事なれども、其所計りは突兼(かぬ)るゆゑ、見當り次第、突事なり。斃(をち)たる熊は中へ引込(ひきこみ)て、生(いき)て居(ゐ)る熊、入替(いりかは)りて、いつ迄も出來(いできた)る故、一向、世話なしに、七疋も八疋も殺す事にて、殺し盡して後(のち)は、木を伐倒(きりたほ)して取出(とりいだ)すゆゑ、危き働(はたらき)をせずして捕(とる)事と也。惣躰(さうたい)、木に居(ゐ)るは木熊(きぐま)とて小さく、穴に居るは穴熊とて、大なる樣に聞(きゝ)およびたれども、此邊にては、木に住(すむ)も穴に住も同じ事にて、木にも小牛(こうし)程なるもいくらも住居(住みゐ)て、木のうつろの中に、二所(ふたところ)三(み)所位(ぐらい)も住居る所、色々に作り有ものとぞ。又、穴に居るのは、巖(いはを)の下などの自然と窪(くぼ)める所に、穴を掘て居るものにて、是は、穴に丈夫なる杭を打ては掘崩(ほりくずし)、又、杭を打直しては掘崩して、遂に掘發(ほりあば)きて、前の如く突殺す事と也。山海名産圍繪、又、越後雪譜・東遊記等に記し有(ある)趣(おもむき)とは、大(おほひ)に捕(とり)かた、違ひたり。國々により、種々手段替り有事と知れたり。又、夏の内、木に居(ゐ)る熊を打(うつ)と、必(かんらず)、烟りの揚りたる所を目懸(めがけ)て飛來(とびきた)る故、傍(かたはら)へ退(の)きて二の玉を打(うち)、又、三の玉を打故、大躰(たいてい)は夫にて留(とま)る事となり。廣場などにて打て飛來る時は、蓑(みの)にても打付(うちつく)ると、腹立(はらたち)て、夫を懷き抱へて、いつまでもむしり居るゆゑ、二の玉、又三の玉迄、打事といへり。しかし、是等は一命を的(まと)とせし働きにて、生死(しやうし)一瞬の内を出(いで)ずして、生涯を送るといふも、實に危き渡世なり。

[やぶちゃん注:「美濃の國郡上郡(ぐじやうごほり)の、きび嶋(しま)村」不詳。但し、現在の岐阜県郡上市白鳥町(しらとりまち)歩岐島(ほきじま:旧郡上郡歩岐島村)は村名が近似し(他に「きびしまむら」に近い旧村名は見当たらなかった)、位置的にも納得出来る。ここ(グーグル・マップ・データ)。もし、違っていれば、御教授を乞うものである。

「五圍(いつかこ)みより、七(なゝ)圍み八(や)圍み」本邦の身体尺である両腕幅「比呂(ひろ)」は一比呂が一五一・五センチメートルであるから、七メートル五十八センチから十二メートル十二センチとなる。ちょっと異様な巨木の感があるが、ここに記されている通り、神代の時代から伐られることがなく、しかもその洞(うろ)にツキノワグマ(哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科クマ属ツキノワグマ Ursus thibetanus)が五~八匹も棲むとなれば、これくらいないと逆におかしい。但し、ツキノワグマはこんな厖大な群れを作らぬから、これらの複数のそれは母熊と小熊であろうが、にしても、同種は産む子の数は二匹が普通でこの数自体が不審ではある。それでも後で「月の輪」と言っているからツキノワグマなのであろう(但し、この後の「又、穴に居るのは、巖(いはを)の下などの自然と窪(くぼ)める所に、穴を掘て居るものにて」というのはどうもアナグマ(クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma としか読めぬ。但し、ニホンアナグマもこのような八匹にも及ぶ群棲はしないと思われる)。ともかくもこの古木の周径もそこにいる「熊」の匹数も、孰れもかなりの誇張があると考えねばならない。

(み)」読みは原典のもの。「み」は所謂、槍の穂先の金属の刀身部分の謂いと思われる。この「」という漢字自体は「金属や石などの堅いものが打ち当たる音の形容」或いは「鐘などを撞く」の意であるから、想山はこの漢字をただその意味に当てただけのように推測される。

「關打(せきうち)」美濃国関、現在の岐阜県関市一帯は鎌倉時代より刀鍛冶が盛んで、戦国時代には武将の間で愛用され、「関の孫六」で知られる名工二代目兼元でも知られる。ここで打ち鍛え作られた槍の刃先であることを指す。

「山海名産圍繪」「日本山海名産圖會」。主に海産生物の漁法並びに食品や酒の製造法を著した物産書。蒹葭堂けんかどうの号で知られた大坂の町人学者木村孔恭こうきょうが著者とされる(序は彼であるが、本文も彼が書いたかどうかは実は不詳)。寛政一一(一七九九)年板行。

「越後雪譜」後の段に出る通り、鈴木牧之の「北越雪譜」(既注)の誤り。天保八(一八三七)年、江戸にて板行。

「東遊記」既注。橘南谿が寛政七(一七九五)年八月に板行した北陸・東北の紀行。因みに本「想山著聞奇集」は嘉永三(一八五〇)年の板行。

「是等は一命を的(まと)とせし働きにて、生死(しやうし)一瞬の内を出(いで)ずして、生涯を送るといふも、實に危き渡世なり」老婆心乍ら、熊撃ちの狩人のことを言っている。

 以下、底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

北越雪譜に、山家(さんか)の人の話に、熊を殺(ころす)事、二三疋、或は年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、必、荒(ある)る事有。山家の人、是を熊荒(くまあれ)と云。此故に、山村の農夫は、需(もとめ)て熊を捕事なしといへり。熊に靈(れい)有事、古書にも見えたり云々。然共(しかれども)、此美濃の郡上邊にては、斯(かく)の如く熊を捕事は、珍敷(めづらしき)事にあらざれども、さして荒る事を覺ずと云。尤(もつとも)、雪中の熊の膽(きも)は、惡しき分にても五六兩にはなり、好(よき)品なる分は、十五兩にも廿兩にもなり、時によりては、一疋の膽が三十兩位(ぐらゐ)と成(なる)分(ぶん)をも獲る事有て、纔(わづか)の窮民共の五七人組合(くみあひ)、一時に三十金・五十金をも獲る事有(あれ)ば、是が爲に身代をもよくし、生涯、父母(ふぼ)妻子をも安穩に養ふべき基(もとひ)ともなるはづなるに、矢張(やはり)、困窮して、漸(やうやく)飢渇に及ばざる迄の事なるは、熊を殺せし罰なるべしと、銘々云(いひ)ながらも、大金を得る事故、止兼(やみかね)て、深山幽谷をも厭はず、足には堅凍積雪(けんとうせきせつ)を踏分(ふみわけ)、頭(かしら)には星霜雨露を戴きて、實(げ)に命(いのち)を的(まと)となして危(あやうき)をなし、剩(あまつさへ)ものゝ命をとりて己(おのれ)の口腹(こうふく)を養ふと云(いふ)も、過去の宿緣とも申べき乎。

[やぶちゃん注:「熊の膽(きも)」ウィキの「(ゆうたん)より引いておく。『熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマの胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる』。『古くからアイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)がある。東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』て湿潤せず、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた』。『また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとってもヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。倭人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると松前藩の役人が毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』。『青森津軽地方でも、西目屋村の目屋マタギは「ユウタン」、鰺ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギは「カケカラ」と呼んだ』。『熊胆に限らず、クマは体の部位の至る所が薬用とされ、頭骨や血液、腸内の糞までもが利用されていた』。『主成分は胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸』で、他にも『各種胆汁酸代謝物やコレステロールなどが含まれて』おり、現在も『漢方薬として熊胆』は『珍重されている』。]

2017/05/30

「想山著聞奇集 卷の四」 「大ひ成蛇の尾を截て祟られたる事 幷、强勇を以、右祟を鎭たる事」

 

 大(おほ)ひ成(なる)蛇の尾を截(きり)て祟られたる事

  幷、强勇を以、右祟を鎭(しづめ)たる事

Soemonnooohebi

 信州小縣郡(ちひさがたごほり)東上田村【上田の城下のつゞきなり、】に、曾(そ)右衞門と云百姓あり。農事の間には、蠶(かひこ)の繭を買集(かひあつめ)て、上州上田高崎邊(へん)へ送り、絹布(きんふ)の類と交易して渡世とするものとぞ。此宅(このいへ)の裏は山續きにて、其山の麓に池有(あり)て、昔より其池の邊(へん)に、大なる蛇一疋住居(すまゐ)たる故、代々夫(それ)を辨財天と崇め、池の中嶋(なかじま)にちいさき祠(ほこら)を建(たて)て、月々米壹升づゝをめしに焚(たき)、かの祠に供(くふ)ずるに、件(くだん)の大蛇出(いで)て、夫を食(くふ)事にて、かくする事、また久敷(ひさしき)事也。然(しか)るに寬政十年【戊午】[やぶちゃん注:一七九八年。]頃の事なりしが、曾右衞門は商ひにて、右、上州高崎の元町(もとまち)へ行(ゆき)て逗留なし居(ゐ)たる留守に、倅豐吉、花檀[やぶちゃん注:「檀」はママ。]の植替(うゑかへ)をするとて、誤(あやまり)て彼(かの)蛇の尾の所、貮尺餘り截落したり。【其尾先(をさき)、大摺木(おほすりこぎ)ほど有しといふ。】然るに、其夕暮より、豐吉、傷寒(しやうかん)のごとき大熱(だいねつ)して、大成(おほひなる)丸太の如き蛇、身躰(しんたい)を卷(まき)からみ〆(しめ)らるゝとて、玉のごとき汗を流し、苦しがりたり。尤(もつとも)、其蛇、餘人(よじん)の目には見えねども、豐吉の目には見えて、堪兼(たえかね)る故、祈禱すれども驗(しるし)もなく、醫師も集り、藥など用ひ試れども、少しの功もなく、豐吉は四五日の内に段々やせ衰へ苦しみければ、此姿にては、何はともあれ、其内に躰(たい)勞(つか)れ、死に至るより外なしと醫師も申聞(まうしきけ)、何(なに)にもせよ、父曾右衞門に告(つげ)しらせ、兎も角もなすべしとて、達者成(たつしやなる)、急飛脚(きうびきやく)を立(たて)て、かの元町へしらせ遣したり。扨(さて)、曾右衞門、その病氣の樣子を具(つぶさ)に聞て申樣、夫ならば、くるしみても死には至るまじ、我等すべき樣(やう)有、殘りの荷は、明日の市(いち)に賣拂(うりはらひ)、替りの反物(たんもの)は、懇意の方(かた)より買(かひ)て𢌞(まは)し貰べきまゝ、わが歸る迄、驚かずに待居(まちゐ)よとて、飛脚を先へ返し、夫より大躰(たいてい)に用事を片付て、早々歸宅なして申樣、祖父以來、我方(わがかた)の鎭守として、汝等ごとき蟲類を辨天などゝ祭り置て、月々、飯まで喰(くは)せ置(おき)たるに、己(おの)が淺々敷(あさあさしき)所に出居(いでゐ)て、誤(あやまり)てきられたる事をはぢもせで、祟ると云は惡(にく)き事なり。先(まづ)、祠(やしろ)より打崩(うちくづ)して、助け置べきものかはとて、夫より、其邊の潛み居(ゐ)そふ成(なる)所を、そこ爰(こゝ))となく掘穿(ほりうが)ち、遂に件(くだん)の蛇を掘出(ほりいだ)し、何のぞうさもなく打殺し、直(ぢき)に皮を剝(はぎ)、先、二くだ計(ばかり)切(きり)て、酒の肴(さかな)となしてうちくらひ、人にすゝめ、殘りは段々食盡(くひつく)すべしとて、鹽(しほ)に漬置(つけおき)て日々(にちにち)食(くひ)たるに、夫より病人は次第に快く、纔(わづか)二日計も過(すぐ)ると、速(すみかや)に全快なしたり。曾右衞門は、かの切捨(きりすて)たる尾先(をさき)を尋出(たづねいだ)して、此(この)皮をもはぎ、胴の方(かた)の皮と繼合(つぎあは)せ、はなしの種の證據に、子孫へ殘し置(おく)がよろしきとて、能(よく)干堅(ほしかた)め、長押(なげし)に懸置(かけおき)たりと。扨、彼(かの)醢(ししびしほ)は、廿日程も懸りて、悉く食盡(くひつく)せし由。此蛇の大(おほき)さ、火入(ひいれ)の𢌞(まは)り程有て、色は赤黑なるへびにて有しと云。夫より雲野宿(くものじゆく)【直(ぢき)東(ひがし)の並びの宿なり。】光禪寺の寺中(じちう)の僧、此咄を聞、蛇を殺したるは道理至極の事なれども、先祖より久々(ひさびさ)祭り置たる辨財天の祠を毀(こぼ)ち捨(すつ)るは宜(よろ)しからず。夫(それ)か迚(とて)、足下(そつか)の宅(いへ)には、最早、元の如くは祭り給ふまじ。我は出家の事、わが地内(ぢない)に祭り置は子細なし、かの打毀(うちこぼ)ちたる祠を修(しゆ)すべしとて、可成(かなり)に元の如くになして、右、光禪寺に祭り置たりといへり。曾右衞門の勇氣は、感ずるにも餘り有(ある)事なり。是は縣(あがた)道玄、曾右衞門父子と各別の知己にて、彼(かの)皮も常々見受居(みうけゐ)、至(いたつ)て能(よく)しり居(ゐ)ての話なり。

[やぶちゃん注:「信州小縣郡東上田村」信濃国小県郡(ちいさがたぐん)東上田村。当時は旗本領と上田藩領が混在していた。現在は長野県東御市(とうみし)和(かのう)。(グーグル・マップ・データ)。

「高崎の元町」現在の群馬県高崎市本町であろう。(グーグル・マップ・データ)。東上田からは直線でも五十キロメートルはある。

「淺々敷(あさあさしき)所に出居(いでゐ)て」浅はかにして軽率にもそのようなところにしゃしゃり出でて。

「二くだ」「管」であろう。大蛇の胴体を幾つかに寸胴切りにした、その二本。

「雲野宿(くものじゆく)」とルビするが、これは北国街道の宿場として栄えた海野(うんの)宿、現在の長野県東御市本海野(うんの)であろう。先の和(かのう)の千曲川沿いの東南に隣接する地区である。(グーグル・マップ・データ)。

「光禪寺」不詳。しかし、長野県東御市和の海野に近い位置に曹洞宗の興善寺という寺がある。であろう(グーグル・マップ・データ)。

「可成(かなり)に」それお相応に。しっかりと。]

南方熊楠 履歴書(その45)~「履歴書」エンディング 「履歴書」/了

 

 八年ばかり前に、東京商業会議所の書記寺田という人よりの問合せに、インドよりチュールムグーラが日本ではけ行く量と価格を問い来たが、何のことやら知ったものなし。貴下は御存知だろうという人あるゆえ、伺い上やるとのことありし。これは大風子とて(大風とは癩病のこと)、むかしより諸邦で療病薬として尊ぶものに候。専門もよいが、専門家が他のことを一向顧みぬ風もっぱらなるまり、チョールムーダラといえば何のことと問うに知った人ちょっとなし。ポルトガル語の専門家へ聞きにゆくと、それはポルトガル語にあらずというて答えがすむ。マレー語の専門家、支那語の専門家等に尋ぬるも、それはマレー語にあらず、支那語でないというて答えがすむ。知らぬという代りにそれは予の専門にあらずといえば、その学者の答えがすむなり。もしこれが、詳しからずとも一(ひと)通りの諸国の語を知った学者があり、それに問い合わせたなら、それはインド語だとの答えはすぐ出るところなれど、そんな人が日本に少ないらしい。さてインド語と分かったところで字書を引いて大風子と訳すると分かりて、その大風子はどんなもの、何の役に立つということに至っては、また漢医学家あたりへ聞き合わさざるべからず。いよいよその何物たるやを詳知(しょうち)せんと思わば植物学者に聞き合わすを要す。しかるに、植物学者は今日支那の本草などは心得ずともすむから、大風子と問うばかりでは答えができず、学名をラテンで何というか調べてのち問いにこいなどいう。それゆえ本邦で、一つなにか調べんと思うと、十人も二十人も学者にかけざるべかちず。槍が専門なればとて、向うの堤を通る敵を見のがしては味方の損なり。そのとき下手ながらも鉄砲を心得おり、打って見れば中ることもあるべし。小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合うことは専門家より多き場合なきにあらず。一生官途にもつかず、会社役所へも出勤せず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のことを多く知ったこともなきにあらず。

[やぶちゃん注:「東京商業会議所の書記寺田」不詳。

「チュールムグーラ」現在は英語として“Chaulmoogra”で載る。英語のネィティヴの発音を音写するなら「チャールムグラ」である。

「はけ行く量」商品として消費され購入される量。

「大風子」東インド原産の高木であるキントラノオ目アカリア科(最新説の分類)イイギリ属ダイフウシノキ Hydnocarpus wightiana で、その種子から作った油脂「大風子油」は飽和環状脂肪酸であるヒドノカルピン酸(hydnocarpic acid)・チャウルムーグリン酸(chaulmoogric acid)・ゴーリック酸(gorlic acid)と、少量のパルミチン酸などを含む混合物のグリセリンエステルで、古くはハンセン病治療に使われた。日本に於いては江戸時代以降、「本草綱目」などにハンセン病への対症効用が『書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などはある程度の効果を認めていた』という。明治四五・大正元(一九一二)年、『光田健輔は結節らいを放置すれば』七十五%『は増悪するが、大風子油』を100cc以上、『注射すれば』、投与者の八十八%は『結節を生じないと文献に』記しているが、昭和七(一九三二)年のストラスブールで行われた「第三回国際らい学会」で光田は当該治療は後の『再発率が高いこと』も発表しているという。『上川豊は「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」』で昭和五(一九三〇)年に『京都大学で学位を与えられ』ており、『彼は大風子油注射は網状織内被細胞系あるいはリンパ系統を刺激して局所的ないし全身的抗体産生機能を旺盛ならしめるとしている。結論としてらいの初期は臨床的治療状態を軽減するも、末期重症例では快癒状態に導くのは不可能とある』。『堺の岡村平兵衛は家が油製造業者であったが』、明治二五(一八九二)年『以来、良質の大風子油を製造し、日本国内では、岡村の大風子油として有名であった』。『東京にある、国立ハンセン病資料館には、以前使用されていた、大風子油を熱で融解する巨大な釜が展示されている』ともある(以上は引用を含め、概ねウィキの「大風子油」に拠った)。

「癩病」ハンセン病の旧称。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

 

 小生『大阪毎日』より寄稿をたのまれ、今朝より妻子糊口のため、センチ虫の話と庭木の話をかきにかかり申し候。それゆえ履歴書は、これほどのところにて止めに致し候。もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく、小生決して私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間、御安心して寄付さるるよう願い上げ候。また趣旨書御入用ならば送り申し上ぐべし。御出立も迫りおれば、とても望むべきこととは存ぜねども一口でもあらばと存じ願い上げ置き候。

[やぶちゃん注:「センチ虫」雪隠虫(せっちんむし)の訛り。昔の溜便所にわく蠅の幼虫の蛆のこと。この「せんちむし」の呼称は「日本国語大辞典」では方言としており、そこに示された採集地からは西日本広域の方言である。この「センチ虫の話と庭木の話」というのが現在の彼のどの著作を指すのかは不詳。

「御出立も迫りおれば」矢吹はこの時、国外長期出張の直前でもあったものか?

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 

日本の学者に、小生があきるるほど、小生よりもまだ世上のことにうとき人多し。名を申すはいかがなれど原摂祐(かねすけ)というは岐阜の人で、独学で英、仏、独、伊、拉の諸語に通じ、前年まで辱知白井光太郎教授の助手として駒場農科大学にありしが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県の農会の技手たり。この人二千五百円あらば、年来研究の日本核菌譜を出板し、内外に頒ち得るなり。しかるに世上のことにうときより今に金主なし。小生何とかして自分の研究所確立の上その資金を出したく思えど、今のところ力及ばず、小生在京中右に申せし処女の薬に感心されたる鶴見局長(今は農務次官?)の世話をたのみ、啓明会より出金しもらわんと小生いろいろ世話したるも、原氏本人が大分変わった人で、たとえば資金輔助申請書にそえて身体診断証を出せといわるると、今日健康でも明日どんな死にあうかもしれず、無用のことなり、などいい張るゆえ、出(で)るべき金も出しくれず。この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時、その宿所を問いしに、浅草辺なれど下谷かもしれず、酒屋のある処なりなど、漠たることをいう。こんな人に実は世界に聞こえおる大学者多く候。小生は何とぞかかる人の事業を輔成して国のために名を揚げさせたきも、今に思うのみで力及ばざるは遺憾に候。この人はよほど小生をたよりにしおると見え、前年みずから当地へ小生を来訪されたることあり。   匆々謹言

[やぶちゃん注:これを以って本書簡(通称・南方熊楠「履歴書」)は終わっている。

「原摂祐」植物学・菌類学者・昆虫学であった者原摂祐(はら かねすけ 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)。ウィキの「原摂祐によれば、『岐阜県恵那郡川上村(現在の中津川市川上)の生まれ』で、『岐阜農学校、名和昆虫研究所を経て』、『東京大学助手に就任』、大正一〇(一九二一)年までは『同大学で昆虫学の講義を担当し』ている。その後、昭和五(一九三〇)年に『岐阜県の農薬会社に就職した』。昭和二(一九二七)年に『白井光太郎』らが大正六(一九一七)年に『出版した日本最初の菌類目録「日本産菌類目録」を改訂、さらに昭和二九(一九五四)年にはそれを再度、『改訂した目録を自費出版し』て、実に約七千三百種の菌類目録を発行している。これはつい二〇一〇年に勝本謙によって「日本産菌類集覧」が『発行されるまで、最も多くの日本産菌類を網羅した目録であった』とある。「南方熊楠コレクション」の注には、彼が南方熊楠を訪問したのは大正一〇(一九二一)年五月十五日のことであったと記されてある。熊楠がここで敢えて名を出してまで追記している気持ちがひしひしと伝わってくる人物ではないか。

「拉語」「拉丁語」(「羅甸語」とも書く)。ラテン語。

「鶴見局長(今は農務次官?)」既出既注の鶴見左吉雄は最後に農商務次官に就任しているが、大正一三(一九二四)年に退官しており、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のものであるから、彼はもう農商務次官ではない(後に彼は本格的に実業界に移っている)。

「啓明会」大正八(一九一九)年八月四日に前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎(しもなかやさぶろう)を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体のことか? 啓明会は教員の地位・待遇の向上を目指す職能的な教員組合としての性格と、教育的社会改造運動の性格とを掲げて出発し、翌年五月の第一回メーデーでは教員組合として参加、一般労働組合との組織的連帯を図り、同年九月には全国的な運動への発展を目指して「日本教員組合啓明会」と改称、「教育改造の四綱領」を発表している。日本最初の教員組合運動の出発点とされる組織である。しかし、そこに農商務官僚の鶴見左吉雄が口利きするというのはどうも解せない気もする。識者の御教授を乞う。

「輔助」「ほじよ」。「補助」に同じい。後の「輔成」も「ほせい」で「助成」に同じい。

「この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時」この謂いから、この原の訪問は南方熊楠が寄付金集めのために東京へ出た大正一一(一九二二)年の三月から七月の間のことか? その時期ならば、原は大学の講師職を失っている頃であり(或いは郷里に戻っていた可能性も高い)、状況としておかしくない。]

南方熊楠 履歴書(その44) 遠近法に従わない絵の教訓

 

Smunakatasannjysointohune

 

 小生前般来申しのこせしが、三神と船はこんなふうに、船が視る者に近いでも三神が見る者に近いでもなく、視る目より同じ近さにある体(てい)に画くが故実と存じ候。しかるときは、会社を主とせるにも連合会を主とせるにもなく、はなはだ対等でよろしかりしことと存じ候。しかし、今はおくれて事及ばざるならん。

[やぶちゃん注:「小生前般来申しのこせしが」本書簡の冒頭でも宗像三女神の話はしているが、それではなく(船の話はそこにはない)、「南方熊楠コレクション」の注によれば、大正一三(一九二四)年『十一月二十九日付矢吹宛書簡、通称「棉神考」の補足をさす』とある。私は全集を所持せず、この遠近法に従わない画法と、矢吹が勤める日本郵船と大日本紡績連合会の関係についての判り易い注をすることは出来ない。悪しからず。冒頭及び私の注は僅かながら参考にはなるものとは思う。それにしても、二つの集団の対等性を諷喩するに、非常に面白く、厭味でない謂いと挿画であると私は思う。]

 

 小生は他の人々のごとく、何年何月従何位に叙(じょ)し、何年何月いずれの国へ差遣(さけん)されたというような履歴碑文のようなものはなし。欧米で出した論文小引は無数あり。それは人類学、考古学、ことには民俗学、宗教学等の年刊、索引に出でおるはずなり。帰朝後も『太陽』、『日本及日本人』へは十三、四年もつづけて寄稿し、また『植物学雑誌』、『人類学雑誌』、『郷土研究』等へはおびただしく投書したものあり。今具するに及ばず。もっとも専門的なは日本菌譜で、これは極彩色の図に細字英文で記載をそえ、たしかばできた分三千五百図有之(これあり)、実に日本の国宝なり。これを一々名をつけて出すに参考書がおびただしく必要で、それを調(ととの)うるに基本金がかかることに御座候。

[やぶちゃん注:「太陽」博文館が明治二八(一八九五)年一月に創刊した日本初の総合雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『一月号「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話を寄稿、その後大正三』(一九一四)『年より毎年の干支に関する史話と伝説、民俗を寄稿した』(「十二支考」のこと。但し、「鼠に関する民俗と信念」(子)については出版者の都合(不詳)で掲載されず、部分的に『民俗学』及び『集古』(明治二九(一八九六)年十一月に考古と歴史を愛する趣味人の集りである「集古会」の会報『集古會誌』として創刊、後に『集古』と改称して昭和一九(一九四四)年七月まで続いた雑誌。蔵書印譜・花印譜・商牌集の連載物、稀覯書の紹介、伝記資料の翻刻、会員書誌の随筆などを掲載した)に発表された(現在、我々が読めるものは『太陽』のために書かれた一括版に、分割されたものが挿入されたものである)。なお、全十一篇で「牛」(丑)は存在しない。しばしば幻の最後の「十二支考」として都市伝説的に語られることあるが、「牛」についての論考は準備は進められながらも遂に陽の目を見ることはなかったのが事実である)。『太陽』は大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、昭和三(一九二八)年二月まで計五百三十一冊を発行して廃刊した。

「日本及日本人」(にほんおよびにほんじん)は明治四〇(一九〇七)年一月から昭和二〇(一九四五)年二月まで国粋主義者が創始した政教社から出版された、言論の主とした国粋主義色の強い雑誌。前半は思想家三宅雪嶺が主宰した「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『三月号「本邦詠梅詩人の嚆矢」ほかを投稿、没年まで寄稿を続けた』とある。「政教社」も参照されたい。

「植物学雑誌」日本植物学会名義で牧野富太郎が明治二〇(一八八七)年二月に友人らと創刊した植物学の学術雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四一(一九〇八)年『九月「本邦産粘菌類目録」を掲載』が最初の投稿らしく、創刊号から購読していたが、明治二二(一八八九)年『五月から会員となったことがうかがわれる』とある。当時の熊楠はアメリカのアナバー在であった。なお、牧野は熊楠が日本学術雑誌にろくな論文を出していないことを言いつのって、彼を学者として認めていなかった節がある。苦学独歩の牧野にして非常に残念な事実である。

「人類学雑誌」「南方熊楠コレクション」の注では、日本人類学会が明治四四(一九一一)年四月に創刊したとするが、自然人類学者坪井正五郎(彼は南方熊楠と柳田国男を結びつける仲立ちとなった人物でもある)を中心に運営されていた「東京人類学会」の機関誌『人類学雑誌』が前身であり、それは明治一九(一八八六)年の創刊である。熊楠は『明治四十四年六月号「仏教に見えたる古話二則」ほかを寄稿。以後しばしば寄稿している』とある。

「郷土研究」柳田國男らが郷土研究社から大正二(一九一三)年三月に創刊した民俗学雑誌で、創刊当時から熊楠は精力的に投稿した。「南方熊楠コレクション」の注によれば、同年『四月号「善光寺参りの出処」ほかを寄稿、以後大正六年、同誌の休刊まで小品を夥しく投じた』とある。

「日本菌譜」キノコの自筆彩色図譜。遂に刊行することは出来なかった。長女南方文枝氏によって後にその一部が「南方熊楠菌誌」全二巻(昭和六二(一九八七)年~昭和六四・平成元(一九八九)年)として公刊され、別に実寸大複製になる「南方熊楠 菌類彩色図譜百選」(エンタープライズ社一九八九年刊)も刊行されている。この辺りの経緯は紀田順一郎氏の「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」の「柿の木から発見した新種」及び「日々これ観察」の章を参照されたい。]

 

 また仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬと申され候。わが国によく適用さるる語で、日本の学者は実用の学識を順序し整列しおきて、ことが起こるとすぐ引き出して実用に立てるという備えはなほだ少なし。友人にして趣意書を書きくれたる田中長三部氏の語に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいいし徳川時代のものよりはるかに劣れりとのことなり。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用さるべき答えをしかぬる人のみなり。小生はこの点においてはずいぶん用意致しあり、ずいぶん世用に立つべきつもりに御座候。箇人としても物を多くよく覚えていても、埒(らち)もなきことのみ知ったばかりでは錯雑な字典のようで、何の役に立たず。それよりはしまりのよき帳面のごとく、一切の智識を整列しおきて惚れ薬なり、処女を悦ばす剤料なり、問わるるとすぐ間に合わすようの備えが必要に御座候。

[やぶちゃん注:「仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬ」「ヴォルニー」なり人物自体が私には不詳。識者の御教授を乞う。

「しまりのよき帳面のごとく」これは前の女性器のそれを洒落てあることは間違いない。]

 

南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記

 

 件(くだん)の紫稍花は朝鮮産の下品のもの下谷区に売店あり、と白井博士より聞けり。しかし災後は如何(いかが)か知らず。小生は山本、岡崎等の頼み黙(もだ)しがたく、東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金を書くれた大株連へ分配せんと思う。山本前農相の好みの処女用のはもっとも難事で、これは琥珀(こはく)の乳鉢と乳棒で半日もすらねばならぬと思う。

[やぶちゃん注:前出既注した「紫稍花」=海綿動物門尋常海綿綱角質海綿亜綱単骨海綿(ザラカイメン)目淡水海綿科ヨワカイメン Eunapius fragilis は、先に掲げた琵琶湖での調査(本種の琵琶湖での調査は複数のものがネット上で閲覧出来る)等、ネット上の種々の海綿類や生物分布調査の学術論文を見る限り、本邦で全国的な分布を示しているように見受けられ(世界的にも広汎に分布する)、環境省のレッドデータリストにも掲げられてはいない(二〇一七年五月現在)。しかし、水質汚染の悪化や外来種の侵入によって必ずしも安泰な種であるとは言えないように感ぜられはする。

「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。ウィキの「白井光太郎によれば、日本に於いて植物病理学(植物の病害(病原体による感染症のみでなく、物理・化学的条件に拠る病気を含む)を診断・予防・治療することを研究対象とする植物学領域。因みに、農業国であった日本の研究レベルは現在の、世界でもトップクラスである)の研究を推進した最初期の学者で、また、旧本草学の『発展に重要な役割を果たした他、考古学にも造詣が深く、史蹟名勝天然紀念物の保存にも深く関わっ』た。明治一九(一八八六)年に『東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業』後、『すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任』、四年後には『帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した』。明治三二(一八九九)年から明治三十四年まで、『ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。この際白井は、日本でほとんど研究が進んでいなかった植物寄生菌の写生図や標本を多数持参し、ヨーロッパで記載されている種と比較を行って、種の確定や新種記載といった研究の進展に大きく貢献した』。帰国して五年後の明治三九(一九〇六)年には『東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これを担当』、翌年、『同大学の教授となった』。明四三(一九一〇)年、理学博士授与。大正九(一九二〇)年に日本植物病理学会を設立、同会初代会長に就任し』、昭和四(一九二九)年に東京帝国大学を定年退官した(従って熊楠の本書簡執筆当時(大正一四(一九二五)年)は同大教授職現役である)。『白井は植物に感染する病原菌の分類、記載を行い』、国内外の研究者『との共同研究も含め』、五〇『種類以上の新種または新変種を記載している、とある。熊楠より四歳年上。

「災後」本書簡執筆の一年四ヶ月前の大正一二(一九二三)年九月一日に発生した関東大震災。

「山本」前出の処女好みの変態政治家山本達雄。後に「山本前農相」とあるが、彼は高橋内閣の解散に伴い、大正一一(一九二二)年六月で農商務大臣を辞任している。本書簡執筆時は大正一四(一九二五)年二月である。

「岡崎」前出の玄人年増漁色政治家岡崎邦輔。

「東京滞在中日光山へゆきし時」既に注したが、熊楠が南方植物研究所設立のための資金集めのために上京した大正一一(一九二二)年三月から八月の最後の七月十七日から八月七日までは上松蓊を伴って日光に採集に行っている。

「六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)」詳細事蹟不詳。彼宛ての熊楠の書簡が残っており、ここでの共同採集の様子から見ても、かなり親しくしていたものと思われる。「ろくうたもつ」と読むか。

「大谷川」「だいやがわ」と読む。栃木県日光市を流れる利根川水系の鬼怒川支流。中禅寺湖を水源として東流し、日光市町谷(まちや)で鬼怒川に合流する。日光二荒山(ふたらさん)神社及び東照宮の手前の朱塗りの木橋神橋(しんきょう)の架かるのもこの川。]

 

 植物学よりもこんな話をすると大臣までも大悦びで、これは分かりやすい、なるほど説教の名人だと感心して、多額を寄付され候。貴殿はお嫌いかしらぬが、世間なみに説教申し上ぐることかくのごとし。かかるよしなし言(ごと)を永々書きつけ御笑いに入るるも斯学献立(こんりゅう)のためと御愍笑を乞うなり。

[やぶちゃん注:「大臣」この場合は山本達雄だけを指している岡崎邦輔は加藤高明内閣の農林大臣として入閣しているが、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のもので、彼の農林大臣就任はその二ヶ月後の同年四月十七日だからである。

「斯学献立(こんりゅう)」「斯学」(しがく)は、こうした催淫剤研究を含めた性愛学で、そうした学問を大真面目にうち建てようという吾輩の心意気の謂いであろう。「献立(こんりゅう)」は建立(こんりゅう)の誤り、或いは献立(こんだて)でそうした性愛学事始めの「順序・構成」の謂いであろう。なお、この熟語では植物学研究所創設の意味でとるには無理があると私は思うのだが、ただ、後に「愍笑を乞うなり」、憐れんで笑(わろ)うて下され、と言い添えているところでは、世間ではえげつない下ネタと思われるであろう話(注意されたいが、熊楠自身は微塵もそんな卑下は感じていない)で漁色政治家を懐柔して寄付金を集めてでも、南方植物研究所を創設したという私のなりふり構わぬ仕儀を憐れんでお笑い下されよ、という意味にもとれぬことはない。]

 

2017/05/29

絶不調

先週半ば、何年振りかで風邪をひき、今までも普通に飲んで問題のなかった市販の風邪薬「ベンザ・ブロック」を服用したところ、風邪は軽快したのだが、翌日から生まれて初めて便秘になり、丸二日間、「便座」で地獄の苦しみを味わった(出ない苦しみは激しい下痢よりも物理的に苦しく、心理的なダメージも大きいことを初めて体感した。昔、同僚女性が一週間ないなんてのも普通よとか言っていたが、私はたった二日でも脳の血管がハチ切れるんではないかとさえ思ったほどである。さる法医学書で硬化した便が閉塞して心不全で孤独死した二十代のOLの検死資料を読んだことがあるが、彼女はさぞ苦しかったんだろうなあと思ったりした)。薬の注意書きの中に副作用の中に便秘の特別な注意書きがあり、その場合は直ちに使用をやめて医師の診察を受けるようにとあったので、やめたところ、三日目の朝には正常に戻ったが、同時に風邪がまたぞろぶり返してきて、元の木阿弥、今もしゃっくりと咳と鼻水が止まらぬ。薬の副作用というのも実は僕の場合は全くの特異点なのである。
さらに昨夜、久々に眠気も覚えず楽しく文楽を見て帰ったところが、右腕脇の下の背部側に、若い時からよく出来る巨大な粉粒腫(アッテローム)が発生しているのに気づく。今朝、二倍近く梅干し大に腫れあがっていてこれは化膿していると判断、今日、医者に行って抗生物質を処方してもらったが、今も腕を動かすことも憚られるほど、ズキズキと痛む。
序でに医師に先の顛末を話して風邪薬の処方を希望すると、その副作用状況では水を多く採って自然治癒を待つしかないという。鼻から牛乳、呆然痔疾、基、自失。
そうでなくてもいろいろな瑣事によって心因性の抑鬱状態にある僕に、これは何とも「アッテ」欲しくない駄目押しの外因性の伏兵の襲撃であった。
――と、綴ってみると、それなりにまあ、気持ちは落ち着いた――

南方熊楠 履歴書(その42) 南方熊楠「処女」講談

 

 それには山本農相など処女をすくようだが、処女というもの柳里恭も言いしごとく万事気づまりで何の面白くもなきものなり。しかるに特にこれを好むは、その締(しま)りがよきゆえなり。さて、もったいないが仏説を少々聴聞(ちょうもん)させよう。釈迦(しゃか)、菩提樹(ぼだいじゅ)下に修行して、まさに成道(じょうどう)せんとするとき、魔王波旬の宮殿震動し、また三十二の不祥(ふしょう)の夢を見る。よって心大いに楽しまず、かくては魔道ついに仏のために壊(やぶ)らるべしと懊悩す。魔王の三女、姉は可愛、既産婦の体を現じ、中は可喜、初嫁婦の体、妹は喜見と名づけ山本農相好物の処女たり。この三女菩薩の処に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となりて戯(たわむ)れかかる。最初に処女の喜見が何としたって仏心(ぶっしん)動かず。次に中の可善が昨夜初めて男に逢うた新婦の体で戯れかかると、釈尊もかつて妻との新枕を思い出し、少しく心動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心大いに動き、すでに仏成道をやめて抱きつこうかと思うたが、諸神の擁護で思いかえして無事なるを得た、とある。されば処女は顔相がよいのみで彼処(かしこ)には何たる妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに三十四、五のは後光がさすと諺(ことわざ)の通りで、やっと子を産んだのがもっとも勝(まさ)れり。それは「誰(た)が広うしたと女房小言(こごと)いひ」とあるごとく、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処(かしこ)が広くなる。西洋人などはことに広くなり、吾輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥井(とりい)のあいだでステッキ一本持ってふるまわすような、何の手ごたえもなきようなが多い。故に洋人は一たび子を生むと、はや前からするも興味を覚えず、必ず後から取ること多し。これをラテン語で Venus aversa と申すなり。(支那では隔山取火という。)されど子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊(いか)が鰯をからみとり、章魚(たこ)が挺(てこ)に吸いつき、また丁字型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわす等の妙味あり。膣壁の敏感ますます鋭くなれるゆえ、女の心地よさもまた一層で、あれさそんなにされるともうもう気が遠くなります、下略、と夢中になってうなり出すゆえ、盗賊の禦(ふせ)ぎにもなる理屈なり。

[やぶちゃん注:「柳里恭」「りゅうりきょう」は江戸中期の武士で文人画家・漢詩人の柳沢淇園(やなぎさわきえん 元禄一六(一七〇三)年~宝暦八(一七五八)年。服部南郭・祇園南海・彭城百川(さかきひゃくせん)らとともに日本文人画の先駆とされる。名は里恭(さととも)であったが、後に中国風に「柳里恭」と名乗ることを好んだ(知られる「淇園」号は四十歳頃から使用したと推測されている)。因みに彼はかの側用人で甲府藩主柳沢吉保の筆頭家老であった忠臣曽根保挌(「やすさだ」或いは「やすただ」と読むか。吉保の元服の際の理髪役を務めている)の次男として江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれているが、父保挌は早い時期に柳沢姓を許されて、五千石の知行と吉保の一字をも与えられるほどに寵愛されていたという(ウィキの「柳沢淇園」に拠る。以下も同じ)。ここで南方熊楠の言っている処女についてのそれは、確認したわけではないが、或いは、彼が若き日(享保九(一七二四)年・二十四歳)に書いた随筆「ひとりね」ではあるまいか? 書かれた年に『享保の改革に伴う幕府直轄領の再編に』よって『柳沢氏は大和国郡山への転封を命じられており』(これ以後柳沢家は彼自身の不行跡も手伝って家督相続を差し止められ、改名もさせらてしまう。但し、後に赦されて二千五百石を給された。現存する彼の絵はこれ以降のものが多い)、『その直後から数年の間に記されたと見られている。文章は鎌倉時代の随筆『徒然草』や井原西鶴、江島其磧の用語を取り入れ、和文に漢文体を混ぜていると評されている』。『内容は江戸・甲府における見聞で、特に遊女との「遊び」の道について記されていることで知られる。ほか、甲斐の地誌や甲州弁の語彙を記していることでも知られる。原本は現存せず数十種の写本が知られ、明治期にも出版されている』(下線やぶちゃん)とあり(私は未読)、如何にも熊楠好みの随筆と思われるからでもある。

「魔王波旬」(はじゅん)は「天魔」とも称し「第六天魔王波旬」とも呼ぶ。波旬は悪魔と同義。仏道修行を妨げる魔のこと。以上の説は「大蔵経」の「魔怖菩薩品中」にあるようだ(こちら。但し、白文)。これを南方熊楠は「十二支考 猪に関する民俗と伝説」でも、聖アントニウス(二五一年頃~三五六年)が悪魔から誘惑を受けることを描出する段で、『悉達(しった)太子出家して苦行六年に近く畢鉢羅(ひっぱら)樹下(じゅげ)に坐して正覚(しょうがく)を期した時、波旬(はじゅん)の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を観みざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に擲(なげう)たんと脅かした』と語っている。

「三十二の不祥」内容不詳。

「初嫁婦」「しょかふ」と読んでおく。新妻となったばかりの女性。

「かつて妻との新枕を思い出し」ゴータマ・シッダールタ(釈迦 紀元前四六三年頃~前三八三年頃)シャカ族の国王シュッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶夫人)を母として太子として生まれ、父から絶大の期待を持たれた。十六歳の時、母方の従妹耶ヤショーダラー(輸陀羅)と結婚し、一人の男子羅睺羅(ラーフラ)をももうけている。妻ヤショーダラーは釈迦の出家後、その弟子となり、比丘尼(尼僧)中の第一人者となったとされ、子ラーフラも同じく帰依し、釈迦十大弟子の一人となり、「密行第一」と称され、十六羅漢の一人に加えられている。

「三十四、五のは後光がさす」私はこのような諺は知らぬ。

「誰が広うしたと女房小言いひ」バレ句の江戸川柳っぽいが、出典は知らぬ。

「九段招魂社」現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社の旧称は「東京招魂社」ではあるが、明治一二(一八七九)年に明治天皇によって現在の名称に既に改称されていたここでの当時でも今でも不敬と言われても仕方がない叙述から見ると、南方熊楠は靖国神社という呼称或いはその存在自体を実はよしとしていなかった可能性もあるように思われる

「後から取る」後背位による性交。

Venus aversa」音写すると「ウェヌス・アーウェルサ」。「後ろ向きのヴィーナス」の意。現在も英語の「後背位」の意味として生きている。

「隔山取火」「山を隔てて火を取る」。中文サイトでも後背位の意と出る。

「挺(てこ)」この場合は、タコだから和船の艪(ろ)のこと。

「丁字型凸起」不詳。子宮頸部のことか。]

 

 マックス・ノールドーの説に装飾は男女交会より起こるとあったようだが、南方大仙(みなかたたいせん)などはそこどころでなく、人倫の根底は夫婦の恩愛で、その夫婦の恩愛は、かの一儀の最中に、男は女のきをやるを見、女は男のきをやるを見る(仏経には究竟(くきょう)という)、たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思うがごとく、平生はどんな面相でもあれ、その究竟の際の顔をみるは夫妻の間に限る。それを感ずるの深き、忘れんとして忘られぬから、さてこそ美女も悪男に貞節を持し、好男も醜妻に飽かずに倫理が立って行くのだ。むかし深山を旅行するもの、荷持ちの山がつのおやじにこんな山中に住んで何が面白いかと問いしに、こんな不躾(ぶしつけ)の身にも毎夜妻の悦ぶ顔を見るを楽しみにこんなかせぎをすると言いしも同理なり。されば年増女のよがる顔を見るほど極楽はなしと知らる。しかるに、右にいうごとくトンネルの広きには閉口だ。ここにおいて柘榴(ざくろ)の根の皮の煎じ汁で洗うたり、いろいろしてその緊縮の強からんことを望むが、それもその時だけで永くは続かず。

[やぶちゃん注:「マックス・ノールドー」性科学者か性愛歴史家か? 事跡はおろか、綴りも不詳。識者の御教授を乞う

「究竟」仏語では「物事の最後に行きつくところ・無上・終極」の謂いである。さすれば、前の「き」は「喜」ではなく、「帰」か「期」であろう。まあ、こんなことを大真面目に注する私がおかしいのかもしれないが(私は性愛についての議論を不真面目なものとし、殊更に隠蔽する輩こそ猥雑な人間であると考える人種である)、ここで南方熊楠はこうした性愛行為の特異点を、単なる生理学的なオルガスムス(ドイツ語:Orgasmus)という反応の絶頂という現象面以上に(後の「その究竟の際の顔」とは見かけ上のそれではあるが)、哲学的なニュアンスでも捉えているものと考える。

「たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思う」これは言っていることが実はかなり複雑であると私は考える。即ち、我々のような性欲にまみれまみれた俗界の存在からは想像も出来ない、「天部」に存在する♂であるところの各種上下の階級のある「天人」の中でも、その等級のずっと下がった下級「天人」の♂であっても、その孰れもが、それ相応の同等階級である♀の「天女」のある者を見ては「これほどよい女はないと思う」のが当然であるのと同様に、という謂いである。]

 

 ここに岡崎老の好みあるく大年増の彼処を処女同前に緊縮せしむる秘法がある。それは元の朝に真臘国へ使いした周達観の『真臘風土記』に出でおり。そのころ前後の品の諺に、朝鮮より礼なるはなく、琉球より醇なるはなく、倭奴より狡なるはなく、真臘より富めるはなし、と言うた。真臘とは、今の後インドにあって仏国に属しおるカンボジア国だ。むかしは一廉(ひとかど)の開化あって、今もアンコル・ワットにその遺跡を見る、非常に富有な国だった。しかるに支那よりおびただしく貿易にゆくが、ややもすれば留(とど)まって帰国せぬから支那の損となる。周達観、勅を奉じてその理由を研究に出かけると、これはいかに、真臘国の女は畜生ごとく黒い麁鄙(そひ)な生れで、なかなか御目留(おめどま)りするような女はない。しかるにそれを支那人が愛して、むかし庄内酒田港へ寄船した船頭はもうけただけ土地の娘の針箱に入れ上げたごとく、貿易の利潤をことごとくその国の女に入れてしまう。故に何度往っても「お松おめこは釘貫(ぬ)きおめこ、胯(また)で挟(はさ)んで金をとる」と来て、ことごとくはさみとられおわり、財産を作って支那に還るは少ない。かかる黒女のどこがよいかとしらべると、大いにわけありで、このカンボジア国の女はいくつになってもいくら子を産んでも彼処は処女と異ならず、しめつける力はるかに瓶詰め屋のコルクしめに優れり。どうして左様かというと、この国の風として産をするとすぐ、熱くて手を焼くような飯をにぎり、彼処につめこむ。一口(ひとくち)ものに手を焼くというが、これはぼぼを焼くなり。さて少しでも冷えれば、また熱いやつを入れかえる。かくすること一昼夜すると、一件が処女同然にしまりよくなる。「なんと恐れ入ったか、汝邦輔、この授文を首拝して牢(かた)く秘中の秘とし、年増女を見るごとにまず飯を熱くたかせ、呼び寄せてつめかえやるべし、忘るるなかれ」と書いて即達郵便でおくりやりしに、大悦狂せんばかりで、いつか衆議院の控室でこのことを洩らし大騒ぎとなりし由。

[やぶちゃん注:「真臘国」(しんろうこく)初期のクメール人の王国(クメール語)チャンラの漢訳名。現在のカンボジア。

「周達観」(一二六四年頃か一二七〇年か?~一三四六年)は浙江省温州出身の漢族で、元(モンゴル帝国)の第六代皇帝テムル(成宗 一二六五年~一三〇七年)の代の外交官で、航海の経験や知識が深かったという。彼は成宗の命によって真臘招撫の随奉使の従行員に選ばれ、一二九六年に真臘へ赴き、翌年に帰国している。

「真臘風土記」周達観による真臘のアンコール朝後期の見聞録。全一巻。当時の真臘の風土・社会・文化・物産などを記した書。本書は帰国直後に書いた周の私的な著作であるが、凡そ一年半に及んだ滞在時の詳細な調査報告書であり、民俗史料としての価値が高い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「針箱」江戸時代の女性はへそくりを針箱に入れることが多かった。因みに、信州地方の方言(隠語)では売春婦をかく呼んだ。

「おめこ」「ぼぼ」言わずもがな、女性生殖器の隠語。

「一口(ひとくち)ものに手を焼く」一般には「一口物に頬を焼く」で、わずかな熱い食物をうかうかと食って口中をすっかり火傷することから、ちょっとしたことに手を出してしまって思いがけない大失敗をすることの譬えである。

「衆議院の控室」岡崎邦輔は衆議院議員であった(後の昭和三(一九二八)年には当時の上院であった貴族院の議員に勅選されている)。]

 

南方熊楠 履歴書(その41) 催淫剤としての紫稍花

 

 よって説き出す一条は紫稍花(ししょうか)で、これは淡水に生ずる海綿の細き骨なり。海から海綿をとり出し、ただちに水につけて面を掃うと、切られ与三郎ごとく三十余力処もかすり疵(きず)がつく。それは海綿には、こんなふうの

Sisyoukakopen

細きガラス質の刺あり、それを骨として虫が活きおるなり。その虫死してもこの刺は残る。故に海綿を手に入れたら苛性カリで久しく煮てこの刺を溶かし去り、さて柔らかくなりたるを理髪店などに売り用いるなり。痛いというのと痒いというのとは実は程度のちがいで、海綿の海に生ずるものは件(くだん)の刺大なる故つくと痛む。しかるに、淡水に生ずる海綿は至って小さなもの故、その刺(はり)したがって微細で、それでつかれても痛みを感ぜず、鍋の尻につける鍋墨に火がついたごとく、ここに感じここに消えすること止まず。すなわちハシカなどにかかりしごとく温かくて諸処微細に痒くなり、その痒さが動きあるきて一定せず、いわゆる漆にかぶれたように感ずるなり。それを撫でるとまことに気持がよい。むかし男色を売る少年を仕込むにその肛門に山椒の粉を入れしも、かくのごとく痒くてならぬところを、金剛(こんごう)(男娼における妓丁のごときもの)が一物をつきこみなでまわして快く感ぜしめ、さてこのことを面白く感ぜしむべく仕上げたるなり。ちょうどそのごとく、この淡水生海綿の微細なる刺をきわめて細かく粉砕し(もっとも素女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増には一層粗く、と精粗の別を要す)貯えおき、さて一儀に莅(のぞ)み、一件に傅(つ)けて行なうときは、恐ろしさも忘るるばかり痒くなる。(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その薄さが種々に移りあるくをいうなり。)時分はよしと一上一下三浅九深の法を活用すると、女は万事無中になり、妾悔(く)ゆらくは生まれて今までこんなよいことを知らざりしことをと一生懸命に抱きつき、破(わ)れるばかりにすりつけもち上ぐるものなり、と説教すると、山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色の涎(よだれ)を流し、ハハハハハ、フウフウフウ、それはありがたい、などと感嘆やまず。初めの威勢どこへやら小生を御祖師さんの再来ごとく三拝九拝して、寄付帳はそこへおいて被下(いらっしゃ)い、いずれ差し上げましょう、洵(もこと)にありがとうございました、と出口まで見送られた。

[やぶちゃん注:「紫稍花」私は既に私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」の電子化注で、そこに絵入りで出現する「紫稍花」を淡水産の海綿である、

海綿動物門 Porifera 尋常海綿綱 Demospongiae 角質海綿亜綱 Ceractinomorpha 単骨海綿(ザラカイメン)目 Haplosclerida 淡水海綿(タンスイカイメン)科 Spongillidaeヨワカイメン Eunapius fragilis

に同定している学術データである渡辺洋子益田芳樹共著琵琶湖棲息本種つい解説(PDF)によれば、本種の海綿体は、『不規則な平板状から塊状で護岸壁、古タイヤ、水生植物の茎などに着生する。体表には多数の凹凸がある。藻類の共生によって緑色になることがあるが、ふつう汚れた黄褐色である。複数の芽球が集まって共通の芽球殻に包まれ芽球の塊を形成し、この芽球の塊が体の底部に敷石状に並ぶ。冬期は芽球を残して体は崩壊する』。ここで南方熊楠が挙げている本種の『骨格骨片は両針体(両方の先が尖る)で平滑。長さ約 170230µm、直径 611µm。芽球骨片は先端が丸いか、または尖った有棘の棒状体で、長さ 75145µm、直径 515µm。遊離小骨片はない』(µmmicrometer(マイクロメートル)一〇〇万分の一メートル=千分の一ミリメートル。旧ミクロンのこと)とある(リンク先PDFで骨片の画像も見られる)。私は他にも寺島良安和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「紫稍花」の部分でも、実在する方の「卷八十五 寓木類 紫稍花」の電子化注も行っているここで南方熊楠は本種のそれを催淫剤の一種として力説しており、それはそれで現象的に納得のゆくものであり、「和漢三才圖會」や江戸時代の古処方を見ても、インポテンツなどの処方として挙げられているから、一種の催淫剤と捉えて問題ない

「切られ与三郎」「いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」の名台詞で知られる歌舞伎の外題「與話情浮名橫櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」(三代目瀬川如皐作・九幕十八場・嘉永六(一八五三)年初演)の主人公「與三郎」の、当時の世間の通称。作品の始めの方でめった切るにされて、傷だらけの面構えとなる。

「苛性カリ」水酸化カリウムKOHpotassium hydroxide)の別称(caustic potash:「腐食性(苛性)のカリウム」の意)。水溶液はつまり強アルカリ性を示し、蛋白質に対して強い腐食性を持つ劇薬。

「金剛(こんごう)(男娼における妓丁のごときもの)」「こんごう」はルビ。所謂、陰間(かげま:江戸時代に茶屋などで客を相手に男色を売った男娼)の見習いの少年に付き添い、一人前になるまでの教育係や、なってからの従者(というか、マネージャ)に相当する男のことで、陰間には必ずこの金剛が付き添い、陰間が客に呼ばれて客の家に行くときなでも、必ずこの金剛が供をした。されば、陰間と金剛の間には特に親密な感情が生まれたとされる。これはピクシブ事典の「陰間」に拠ったが、リンク先には詳細な内容が書かれており、必見。但し、かなり具体的なので自己責任でクリックされたい。「妓丁」は遊女見習いの処女を破瓜する男衆のことか。

「莅(のぞ)み」その行為に及ぶに当たって。

「一件」この場合は、効果を考えれば、女性生殖器の方を指すのであろう。

「傅(つ)けて」すりつけて。

「ホメク」「熱(ほめ)く」の「めく」は接尾語で、原義は「ほてる・熱くなる・上気する・赤くなる」であるが、江戸中期頃から「欲情を催す・情事をする」の意で用いられるようになる。但し、熊楠はここでは限定的に、性的絶頂、所謂、オルガスムス(ドイツ語:Orgasmus)へと向かう生理的経過に対して使っている。

「一上一下三浅九深の法」九浅一深法(くせんいっしんほう)というのは古代中国の性戯法として存在することが中文サイトによって明らかである。ここで熊楠が言っているのもそうした挿入リズムと力を入れる方向及び挿入の深さを指しているようである。

「妾」「わらわ」。

「御祖師」「おそしさま」は各宗派の始祖の尊称であるが、特に日蓮宗で日蓮を指すことが多い。因みに、南方熊楠の宗旨は真言宗である。]

 

 それから十五日に山本氏より寄付金もらい、二十五日朝、岡崎邦輔氏を訪い寄付金千円申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話せしに、僕にもくれぬかとのこと、君のは処女でないからむつかしいが何とか一勘弁して申し上げましょう、何分よろしく、今夜大阪へ下るからかの地でも世話すべしとのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女にきく方法を認め、即達郵便で差し出した。

[やぶちゃん注:「岡崎邦輔」既出既注(或いは)。

「君のは処女でないからむつかしいが」「処女でない女にきく方法を認め」これはまず、かの農相山本達雄が処女を姦淫することを性癖とする変態男であることをまず殊更に言い立て、また「政界の寝業師」の異名をとった岡崎は政界だけではなく、女の方でもそれで、しかも彼は海千山千の熟女(二段後には「ここに岡崎老の好みあるく大年増」と出る)を好んで相手にした漁色家であることを暴露していることになる。まさか、山本も岡崎も南方熊楠がこれほど有名になり、その結果として、自分の猥褻な過去が、かくも二十一紀になって人々に知れ渡ることになろうとは、予想だにしていなかったことであろう。実に面白い!

南方熊楠 履歴書(その40) ハドリアヌスタケ

 

Hadorianusutake

 

 小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計(はか)り、惚れ薬になる菌(きのこ)一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海(うつみ)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に癇癪(かんしゃく)筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛芳(ごぼう)のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられた夫ある女が来たりしを、花橘(かきつ)の昔のにおい床しくしてまた引き留め宿らせしが、情(なさけ)が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻(ただ)きかす訳には行かぬというと、それは出すからとくる。

[やぶちゃん注:この奇態なキノコ(同一個体)について、南方熊楠は後の昭和六(一九三一)年十月十八日附今井三子(いまいさんし 明治三三(1900)年~昭和五一(一九七六)年:北海道帝国大学農業生物学科助手(当時)であった菌類学者)宛書簡でも挿絵入りで解説しているので是非、私の古い電子テクストPhalloideae の一品)を参照されたい。思うにこれは、

菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 菌蕈亜門 Hymenomycotina 真正担子菌綱 Agaricomycetes スッポンタケ目 Phallales スッポンタケ科 Phallaceae スッポンタケ属 Phallus アカダマスッポンタケ Phallus hadriani

或いは

同スッポンダケ属スッポンダケ Phallus impudicus

或いは

その近縁種

ではないかと推測される。私も南紀白浜の南方熊楠記念館で二〇〇六年九月に当該個体の液浸標本の実物を拝観し、感無量であった。ウィキの「スッポンダケでは本個体をスッポンダケ Phallus impudicus に同定しており(そのように読めるように書かれてある。但し、乾燥した腐敗個体でしかも西インド諸島のものとなると、私はこの断定同定にやや疑問を持つ)、『スッポンタケ(鼈茸)とは、スッポンタケ科スッポンタケ属の食用キノコ』で『英語名はstinkhorn』(「悪臭を放つ角」の意)。『悪臭がするが』、食用は可能である。『初夏から秋にかけて林地などで発生。形は陰茎に似ている。学名もこれにちなむ』(属名 Phallus (ファルス)は「男根」の意。ギリシャ語の「脹らむもの」の意に由来)。『和名は傘の形がスッポンの頭部に似ること』に由来する。『キノコ本体はごく柔らかい。幼菌は卵のような形状で、内部には半透明のゼリー状の物質につつまれた柄と暗緑色の傘がある。この時点では悪臭はしない。しかし、成熟すると柄と傘が展開し、傘の表面に悪臭のする粘液質のものが一面に現れ、悪臭がするようになる。これはグレバで形成された胞子を含むもので、その悪臭は、ハエなどを誘引し、胞子を運ばせるためである。キノコ本体は一日でとろけるように消滅する』。『色については幼菌も含め』、『白だが、傘はグレバ』(gleba:基本体。所謂、通常、我々が「傘(かさ)」と呼称している部分で、子実体の内部に胞子を形成するキノコの胞子形成部分を、菌類学では、かく呼称する)『の色で暗緑色に見える』。『』なお、高級食材として有名な』同じくスッポンタケ科キヌガサタケ属 Phallus キヌガサタケ Phallus indusiaus『はこれにレース状の飾りが付いただけ、と言っていいものである』。『グレバを取り除いた柄の部分や、幼菌は食用である。油で揚げると魚のような味になる。ドイツのいくつかの地域やフランスで食用とされ、中華料理にも利用される』。『その形が勃起した陰茎に非常に似ていることで古くから注目された。学名Phallus impudicusは、phallus(男根)、im-(否定接頭辞)+pudicus「恥じらう」で「恥知らずな男根」という意味である。根もとにはふくらんだツボがあり、これは陰嚢に似ているとも言える。イギリスのビクトリア時代など性に関する規範が厳格だった時期には、このキノコの図は、それを見る人にショックをあたえないように、上下さかさまに描かれることがよくあった。南方熊楠が描いたスッポンタケの絵が残されているが、実際にはない血管状のすじや毛が描きくわえられており、わざと男性器に似せて描いたように見える』(下線やぶちゃん)とあって、熊楠の、少なくとも、本「履歴書」中の本図は手が加えられていると断言してある。確かに、海外サイトの“California Fungi—Phallus hadrianiにリンクされている多数の生態写真を見ると、少なくとも生体には「癇癪(かんしゃく)筋」(陰茎の血管)のようなものは見られない)。

「紀州の内海(うつみ)」(グーグル・マップ・データ)。

「六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人ある」原資料未詳。識者の御教授を乞う。

「それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す」こんな媚薬効果は甚だ怪しい。漁色家の山本の気を引いて寄付金を出させるための嘘であろう。これに山本が膝をすり寄せたのは、熊楠のしめしたやや怪しげな図によって、即ち、まさにフレーザーの言う類感呪術的熊楠術数に完全にハマった結果、である

「政教社」明治中期から大正期の主に国粋主義者が創始した思想・文化団体。明治二一(一八八八)年志賀重昂(しげたか:南進論を唱え、西欧帝国主義による植民地収奪を批判した地理学者)・三宅雪嶺(哲学者)・井上円了ら十三名によって創設され、機関誌『日本人』(後継誌『亞細亞』『日本及(および)日本人』)を発刊、欧米文化の無批判的な模倣に反対し、大同団結運動に参加して立憲主義的政治論を主張した。政府の欧化路線・条約改正に関しては、その欧米屈従の態度に反対して対外独立の国粋主義の立場をとり、日清戦争の開戦世論の喚起に努めた。陸羯南(くがかつなん)主宰の新聞『日本』のグループとは同傾向の思想を持っていて同志的関係にあり、明治四〇(一九〇七)年にこのグループを吸収し、機関誌を『日本及日本人』と改題した。大正一二(一九二三)年、関東大震災直後に三宅が離脱、その後は次第に右傾化、戦争協力体制の翼賛雑誌に堕した(主に小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の箇所はウィキの「政教社でしめた)。

「払い下げられた夫ある女」前の、山本が「処女を撰」んでおいた「下女」で添い寝させ、その結果として「孕」んでしまい、「出入りの町人に景物」(添え金(がね))をつけて「払い下げ」た中の一人。

「花橘(かきつ)の昔のにおい床しくして」「古今和歌集」の「卷第三」の「夏歌」の「よみ人しらず」(但し、本歌は「伊勢物語」の第六十段にも載る)で載る第一三九番歌。

 

  題しらず

 さつき待つ花橘(はなたちばな)の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 

を洒落たもの。

「情(なさけ)が凝って腹に宿り」精神的懊悩ではなく、妊娠してしまったことの比喩である。]

2017/05/28

柴田宵曲 續妖異博物館 「くさびら」

 

 くさびら

 

 菌(きのこ)といふものは陰濕の地に生ずるせゐか、時に若干の妖意を伴ふことがある。狂言の「くさびら」などもその一つで、庭に異樣な菌が現れたのを、山伏に賴んで祈禱させる。最初は簡單に退散したが、あとからくと同じやうな菌が現れて包圍するので、山伏も閉口頓首に及ぶといふ簡單な筋であるが、何しろ菌に扮するのが悉く人間である。もしあんな大きな菌に包圍されたら、如何なる山伏も珠數を切らざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:ウィキの「茸(狂言)」によれば、大蔵流では「菌」、和泉流では「茸」と表記する。『細かい部分は流派などで違いが見られるが、基本的な筋立ては変わらない』。『また、山伏が登場する際の台詞は能の』「葵上」の台詞と同じで、「葵上」の山伏はその法力によって調伏を成功させるが、こちらはかくなる結末で『一種のパロディーになっているという』とある。You Tube の茂山家の動画取り放題狂言会での撮影になるsagiokarasu氏の「菌(くうびら)」が、山伏が調伏に滑稽に失敗し、茸が面白く退場するさまをよく伝える。お時間のある方は、「オリキャラの子貫さん」氏のブログ「肯定ペンギンのぶろぐ」の「狂言「くさびら」メモ程度の現代語訳?」に全篇画像(You Tube・洗足学園音楽大学提供・約十六分)とブログ主による全現代語訳が載るのでじっくりと楽しめるのでお薦め!]

 

 相州高座郡田名村の百姓が株(まぐさ)刈りに行つて蛇を殺した。まだ死にきらぬのを繩に縊(くく)り、木の上に吊して置いたが、年を經てその事を忘却した頃、また株刈りに來て見ると、大きな菌が澤山出てゐる。採つて歸つて食膳に上せたところ、俄かに苦しみ出して遂に亡くなつた。一緒に食べた母親や弟は何ともなかつたので不審であつたが、前年株刈りに同行した弟の話で蛇の一條が知れた。「眞佐喜のかつら」にあるこの話などは、菌の陰濕の氣に蛇の恨みが加はつてゐる。尋常の毒菌の類ならば一樣に中(あた)る筈なのに、當人だけといふのが奇怪なる所以である。

[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「眞佐喜のかつら」は所持しないので原典は示せぬ。

「高座郡田名村」現在の相模原市田名(たな)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 支那の或家で井戸の水を汲ませたところ、釣瓶(つるべ)が重くなつて、どうしても上らない。數人がかりで漸く引き上げたら人であつた。大きな帽子を被り、井桁(いげた)に上つて呵々大笑するかと思へば、忽ちもとの井戸に飛び込んでしまつた。その後は遂に姿を見せなかつたが、彼の被つてゐた帽子だけは、釣瓶にかゝつて上つて來た。それを庭樹に掛けて置いたら、雨每に雫が落ちて、そこに黃色の菌が生えた。

[やぶちゃん注:次に書かれているように出典は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下の一条。

   *。

獨孤叔牙、常令家人汲水、重不可轉、數人助出之、乃人也。戴席帽、攀欄大笑、却墜井中。汲者攪得席帽。挂於庭樹、每雨所溜處、輒生黃菌。

   *

「獨孤叔牙(どくこしゆくが)」はその家の主人の名。この「獨孤」姓は匈奴出自であることを意味する。「席帽」「席」は蒲(がま)の一種であるから、それで編んだ笠か。]

 

 この話は割り切れないところに面白味がある。黃色の菌を食べた者が皆中毒したなどといふ後日譚が加はらぬため、井桁に上つて大笑した者も神仙じみて來て、少し誇張すれば神韻標縹渺たるものがあるが、同じ「諾皐記」所載の次の話になると、さう簡單には片付けられぬ。

 

 京の宜平坊に住む官人が、夜に入つて歸る途中で、驢馬を引いた油賣りに出逢つた。彼は大きな帽子を被つた小男であつたが、官人に對して道を避けようともしない。從者の一人が癇癪を起して撲り付けたら、頭がころりと落ちると同時に、路傍の大邸宅の門内に入つてしまつた。不思議に思つた官人があとについて行くと、彼の姿は大きな槐の木の下で見えなくなつた。それからこの事を邸の人々に告げ、槐の下を掘つて見たところ、根は已に枯れて、疊のやうな蝦蟇(がま)がうづくまつてゐた。蝦蟇の持つた二つの筆筒には、樹からしたゝる汁が溜つてゐる。白い大きな菌が傍に泡を吹いてゐたが、その笠は地に落ちてゐた。油賣りと見えたのは菌、驢馬は大蝦蟇、油桶は筆筒であつたらしい。この油賣りは一月餘りも里に油を賣りに來たので、價の安いところから皆よろこんで買つてゐたが、彼の正體が暴露されるに及び、油を食用に使つた人は悉く病氣になつた。

[やぶちゃん注:「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

京宣平坊、有官人夜歸入曲、有賣油者張帽驅驢、馱桶不避、導者搏之、頭隨而落、遂遽入一大宅門。官人異之、隨入、至大槐樹下遂滅。因告其家、即掘之。深數尺、其樹根枯、下有大蝦蟆如疊、挾二筆金沓、樹溜津滿其中也。及巨白菌如殿門浮漚釘、其蓋已落。蝦蟆即驢矣、筆金沓乃油桶也、菌即其人也。里有沽其油者、月餘、怪其油好而賤。及怪露、食者悉病嘔洩。

   *

「宣平坊」は長安の坊里の名。「筆金沓」筆を収める(携帯用?)銅で出来た筒状の入れ物。蝦蟇は二本のそれを両手脇にそれぞれ挟んでいたのであろう。]

 

 別に因縁纏綿しては居らぬが、如何に支那らしい話である。菌が人になつて、蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步くなどは、日本人の思ひもよらぬ奇想であらう。この話を讀んでから見直すと、前の井桁に上つて大笑した先生も、どうやら菌の化身らしく感ぜられて來る。殊にあとから釣瓶にかゝつて來た帽子が曲者で、それが菌の笠であつたとしたら、その雫から黃色の菌を生じても、何等不思議はないわけである。

[やぶちゃん注:「蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步く」「蝦蟇の、驢馬につけた、油を賣りに步く」。まあ、「驢馬につけた蝦蟇の油を賣りに步く」の方がすんなり読めると思います、宵曲先生。]

 

 徽州の城外三里ばかりのところに、汪朝議の家祖の墳墓があつた。紹興年間に惠洪といふ僧を招き、附近の小庵の住持たらしめたが、毎日腹一杯食べて安坐するのみで、讀經念佛三昧に日を送るといふ風もなく、佛事の方は簡略を極めてゐる。たゞ循々として自ら守り、これといふ過失もなしに經過した。庵住二十年、乾道二年に病氣で亡くなつたので、汪氏では遺骸を近くの山原に葬つた。そのほとりに大きな楮(かうぞ)の木があつて、鬱蒼と茂つてゐたのに、惠洪を葬つてから間もなく枯れてしまつた。そのあとに菌が生える。たまたま牛を牽いて通りかゝつた汪氏の僕がこれを見出し、採つて歸つて主人に見せた。料理して食べると非常な美味で、殆ど肉に勝るほどである。今日全部採り盡したかと思つても、明日はまた新しいのが生えてゐて、容易になくなりさうもない。この評判が四方に聞えた爲、錢を持つて買ひに來る者もあつたが、汪氏では拒絶して與へず、人の盜みに來るのを恐れて周圍に低い垣を作り、菌を保護するやうにした。これを見た鄰人が憤慨して、夜ひそかに垣を越えて入つたら、楮の枯木は突如として人語を發した。これはお前達の食べるものではない、強ひて取れば必ず災ひを受ける、わしは昔の庵主であるが、徒らに布施を受けるのみで、慙(は)づるところがなかつたので、身歿するの後、冥官の罰を受け、菌となつて生前の償ひをせねばならなくなつた、この菌が美味なのは、わしの精血の化するところだからである、倂しその罰も已に了つたので、もうこゝを立ち去るつもりだ、といふのである。隣人は驚いてこの話を汪氏に告げた。汪氏は直ちにその事を信じなかつたが、自分で行つて見ると、成程菌は一つもなくなつてゐる。楮の木は伐つて薪にした(寃債志)。

[やぶちゃん注:「徽州」現在安徽省の黄山市歙(きゅう)県附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「紹興年間」南宋の高宗の治世で用いられた元号。一一三一年から一一六二年。

「汪朝議」不詳。「朝議」は名ではなく、文官の名誉職である朝議大夫のこと。

「乾道二年」「乾道」南宋の孝宗の治世で用いられた元号で、「乾道二年」は一一六六年。先の「紹興」との間には「隆興」(二年間)が入る。「庵住二十年」と言っているから、逆算すると、三十年前は一一三六年で、その紹興六年或いはその前の年に「惠洪」(えこう)を招いたことになる。

「精血」純粋にして新鮮な血液。

「寃債志」(えんさいし)は晩唐(八三六年頃から九〇七年)のの撰になる伝奇集であるが、「紹興年間」はおかしい原典も次の最終段落の後に示すように宋代のものしか私には見当たらなかったし、それなら「紹興」は合う。]

 

 この菌は蛇の恨みから成つた類ではないから、毒にならぬのは當然である。けれども一たび僧の精血の化するところと聞いた上は、如何に肉に勝る美味であつたにせよ、汪氏も平氣で食ふことは出來なかつたらう。恰も自分の責任を果して立ち去るに臨み、はじめて鄰人の口を藉りて菌の由來を明かにしたものと思はれる。

[やぶちゃん注:以上の話は、宋の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の撰になる「夷堅志丙卷八」の「支景色卷八」に「汪氏菴僧」として出るのを見つけた。

   *

徽州城外三里、汪朝議家祖父墳庵在焉。紹興間、招僧恵洪住持。僧但飽食安坐、未嘗誦經課念、於供事香火亦極簡畧。僅能循循自守、不爲他過。主家皆安之。凡歷歳二十、乾道二年病終。汪氏塟之於近山。元有大楮樹、鬱茂扶疏。數月後、頓以枯死、經雨生菌。汪僕牧羊過之、見其肥白光粲、采而獻之主人。用常法煠治、味殊香甘、殆勝於肉。今夕摘盡、明旦復然、源源不窮、至於三秋。浸浸聞於外、或持錢來求、求輟買、悉拒弗與。又畏人盜取、乃設短牆闌護之。鄰人嫉憤、夜半踰牆入、將斧其根、楮忽作人言曰、「此非爾所得食、強取之必受殃災。我卽昔時菴主也。坐虛受供施、不知慚愧。身没之後、司罰爲菌蕈以償。所以肥美者、吾精血所化也。今謫數已足、從此去矣。」。鄰人駭而退、以告汪。汪猶不信、自往驗之、不復有菌、遂伐以爲薪。

   *

「根」(コンガツ)は枯れた木の根元の部分に芽生えた(ひこばえ)のこと。原話ではそこを斧で掘り起こして茸を探ろうとしている。

タルコフスキイと逢う夢

僕は修学旅行の引率で[やぶちゃん注:この設定が如何にもしょぼいが仕方がない。]ロシアに行く――

そうして、あの「鏡」の故郷の家を訪れる――

そこにアンドレイと妹のマリーナが待っている――

僕は感激のあまり、言葉も出ない――というより、ロシア語も出来ず、頭に浮かぶ片言に組み立てられた英語の文字列が全く僕自身の感動を伝えていないことに絶望的になって――言葉が出ない――

アンドレイはただ黙って私を見つめている――

そのあの例の鋭い眼は

「――何でもよい――思いを語れ――」

と命じている――

僕は絶望的に発すべき言葉が吃って出てこない――[やぶちゃん注:これはまさに「鏡」のプロローグのあの青年のようだ!]

そんな僕の心を察した僕のすぐ横に座っているマリーナが――突如――僕を抱きしめ、キスをする――

アンドレイはそれを見て初めて笑ってうなずく……

モスクワ空港――

私は小さな紙切れにマリアに宛てて

「あなたの兄アンドレイは1986年12月29日に亡くなります」

と懸命に辞書を引きながら、ロシア語で綴って、泣きながらポストに投函した……

2017/05/27

南方熊楠 履歴書(その39) 山本達雄へのアカデミズム批判と彼への皮肉

 

[やぶちゃん注:以下は遙か前の、前の(底本はそのための字下げ)山本達雄との会見の時にシークエンスが巻き戻されている。南方熊楠を忘れていた山本との対話(というか一方的な山本を暗に皮肉ったアカデミック批判の熊楠の直接話法)である。]

 

 小生いわく、秦の王猛はどてらを着て桓温を尋ねしに、桓温勝軍(かちいくさ)の威に乗じこれを見下し、関中の豪傑は誰ぞと問いしという。実は関中にも支那中にも王猛ほどの人物なかりしに、見下して挨拶が悪かったから、王佐の才を空しく懐(いだ)いて何の答えもせずに去って苻堅に就(つ)き秦を強大にせり。周の則天武后が宰相人を失すと歎ぜしも、かかる大臣あるに出づ。されば政府や世に聞こえた学者にろくなやつなしとて、東(とうしょう)という藜(あかざ)ごときものは、蒙古では非常に人馬の食料となるものなり、しかるに参謀本部から農商務省にこの物の調査どころか名を知ったものなし。支那では康熙帝親征のときみずから沙漠でこの物を食い試み、御製の詩さえあるなり。万事かくのごとしとていろいろの例を挙げ、学問するものは愚人に知られずとて気に病むようでは学問は大成せずとて、貧弱な村に一生おって小学の教師の代用などした天主僧メンデルは、心静かに遺伝の研究をしていわゆるメンデル法則を確定したるに、生前誰一人その名をさえ知らず、死後数年にしてたちまちダーウイン以後の有力な学者と認められた。人の知る知らぬを気兼ねしては学問は大成せず、と言い放つところへ鶴見商務局長入り来たる。この日英皇太子入京にて、諸大臣大礼服で迎いにゆくとて大騒ぎなり。

[やぶちゃん注:「王猛」(三二五年~三七五年)は五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝苻堅(三三七年~三八五年)に仕えた宰相で苻堅の覇業(華北統一)を補佐した賢臣。ウィキの「王猛」によれば、『北海郡劇県(今の山東省寿光市/濰坊市)の出身』で、『漢人の有力貴族の家に生まれた』ものの、当時の家は既に『貧しく、もっこ』『を売って生計を立て』たほどであった。しかし『細事にはこだわらず』、『博学で殊に兵書を好んだ』。三五四年に東晋の武将桓温(三一三年~三七四年:現在の安徽省出身。三四五年、当時は東晋第一の大鎮荊州の刺史となり、蜀の成を滅ぼし、前秦の軍を破り、さらに前燕を討った。桓温の中原出兵の目的は、その成功によって朝廷内の反対勢力を押え、受禅して自ら皇帝となるものであったが、前燕を討った際、枋頭(ほうとう:現在の河南省)で敗れた後、威信が衰え、野望を達成せぬままに亡くなった)『が前秦を北伐したときに訪ねて』、虱を潰しながら、『天下の大事を堂々と論じ合ったという』。『この際、桓温が「わしは天子の命令を奉じて逆賊と戦っているのに、真の豪傑の中にわしの所に来る者がないのはどうしたわけだと思うか」と尋ね、王猛は「将軍は数千里を遠しとせず、深く敵の領土に侵入して今は長安の間近に迫っておられる。しかるに、あなたは覇水を渡ろうとはされない。これでは人民には貴方がどう考えておられるのか、わからんではないか。だから誰も来ないのです」と述べ』、『桓温は「江東には君のような人物はおらぬよ」と述べて東晋への仕官を勧められたがこれを断った』(「晋書」の「苻堅載記 上」に拠る。下線はやぶちゃん。熊楠の謂いとはかなり違う。熊楠が何の記述に基づいて述べたかは私には定かではない。識者の御教授を乞う。『後に異民族の王・苻堅の枢機に参与したが、苻堅とは即位する前から知り合った仲でたちまちの内に身分を越えた仲になった』。『苻堅は「劉備が諸葛亮を得たのと同じように大切な存在だ」と言って王猛を重用した。王猛は儒教に基づく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実に力を注ぎ、氐族の力を抑えて民族間の融和を図った。一方、軍事面でも』三七〇年に『前燕に対して王猛自ら軍を率いて侵攻し』、六万の『前秦軍に対し』、前燕は四十万もの『大軍であったが、前燕軍を率い』た慕容評が暗愚であったこともあり、決戦の結果、前秦は五万の『戦死・捕虜を数え、さらに追撃して』十万を『得る大勝を挙げ』、三七六年には前涼と、それぞれを滅ぼして『中国北部を統一し、この時代ではまれにみる平和な時代を築き上げたが、王猛自身は前涼滅亡の前年』に享年五十一で亡くなった、とある。

「則天武后」既出既注。「宰相人を失すと歎ぜし」はそちらの注にある、則天武后の専横に対する反乱軍の檄文を、かの詩人駱賓王が書き、その名文(特に「一抔之土未乾、六尺之孤安在」(一抔(いつぽう)の土 未だ乾かず 六尺(りくせき)の孤 安(いづ)くにか在る」との一節。「先帝の陵墓の土が未だ乾ききらず、先帝の二歳半にしかならぬ遺児は一体何処へ行ってしまったのか」)を読んで思わず感嘆してしまった武則天が、「宰相何得失如此人。」(「宰相、何をもってか此くのごとき人を得失せんとするか。」。「どうして宰相はこのような才能のある者を得ることなく失っているのか!」)と言ったという逸話に基づく。

「東(とうしょう)」砂漠性一年草のアグリオフィルム属モンゴリカヤナギAgriophyllum squarrosumこちらの冨樫智氏の学術論文「内モンゴル、アラシャンにおける砂漠化防止の実践的研究ではアカザ科とし(中文サイトでも同じ)「沙米」と漢字表記がある。

「藜(あかざ)」ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrumウィキの「アカザ」によれば、『英語では、ニワトリのえさにするため Fat Henhen は雌鶏の意)などと呼ばれ』、『葉はゆでて食べることができ、同じアカザ科のホウレンソウ』(アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea)『によく似た味がする。シュウ酸』(蓚酸。ジカルボン酸で有毒)『を多く含むため生食には適しない。ただし、一般的に畑の雑草として駆除されるため好んで食べる人は少ない。種子も食用にできる(同属のキノア C. quinoa は種子を食用にする穀物である)。「藜の羹(あつもの)」は粗末な食事の形容に使われる』とある。

「農商務省」話し相手の山本は当時、農商務大臣であったことをお忘れなく。

「康熙帝親征」清と、十七世紀から十八世紀にかけて現在現在のウイグル自治区の北西部にあるジュンガル盆地を中心とする地域に遊牧民オイラトが築き上げた遊牧帝国ジュンガルとの間で行われた清・ジュンガル戦争(一六八七年~一七五九年)では、一六九六年に康熙帝自らが軍勢を率いて致命的打撃を与えているが、この時の逸話であろうか。

「御製の詩さえある」不詳。識者の御教授を乞う。

「メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)はオーストリア帝国ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「鶴見商務局長」農商務官僚で実業家の鶴見左吉雄(さきお 明治六(一八七三)年~昭和二一(一九四六)年)か。ウィキの「鶴見左吉雄によれば、大正六(一九一七)年に『水産局長に就任し』、『その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任した』とし、大正一三(一九二四)年退官とある。このエピソードの時制は大正一一(一九二二)年春である。

「この日英皇太子入京」これは後のウィンザー朝第二代国王エドワード世(Edward VIII 一八九四年~一九七二年)が皇太子だった時の来日で、ウィキの「エドワード8世(イギリス王)」によれば、『裕仁親王(後の昭和天皇)の訪欧の返礼として日本を訪問し』、四月十八日に『イギリス王族としては初めて靖国神社に参拝したほか』、五月五日には『大阪電気軌道(現近鉄奈良線)の奈良駅~上本町駅間の電車に乗車した。また、京都などを回って皇族や軍人などと面談したほか、鹿児島県では島津家の邸宅(現・仙巌園)を訪ね、鎧兜を着用して祝賀会に出席した。パーティでは随行員らとともに、着物姿と法被姿を披露した。法被は名入りのものを京都で自らあつらえた。襟に高島屋呉服店配達部とあるものもあり、人力車夫に扮した姿が残されている』とある(下線やぶちゃん)。「入京」「諸大臣大礼服で迎いにゆく」という叙述から、南方熊楠が山本達雄と面会したのは、この四月四日よりも前であると考えて良かろう。]

「想山著聞奇集 卷の四」 「大名の眞似をして卽罰の當りたる事」

 

 大名の眞似をして卽罰(そくばち)の當りたる事

 東海道新居宿本陣疋田八郎兵衞が家にて、或時、西國筋の四五萬石の諸侯、晝休濟(すみ)て立(たゝ)れしに、直(ぢき)其跡へ、本陣の男ども五六人、手每(てごと)にはたき箒(はうき)の類(るゐ)を持(もち)て奧へ這入(はいり)、上段の掃除をするとて、或男、戲(たはむれ)ていふ、我、大名に成(なる)べし、皆、目通りへ來れ、今迄、此所(このところ)に居給ふと見えて、まだ疊(たゝみ)が暖か也とて、上疊(あげだゝみ)の上の彼(かの)大名の着座有し跡へすはり、しばし大名の眞似をなすよと見えしが、忽に面躰(めんてい)變り、そのまゝ身躰(しんたい)もすくみたれど、側(そば)に居(ゐ)る者ども、初は、戲にて變なる樣子をすると思ひ居たるに、左にあらず、立所(たちどころ)に罸(ばち)の當り、まのあたり樣子の替りて、變なる事と成(なり)たるの也。是は恐入(おそれいり)たる眞似を成(なし)たる故、かやうの卽罸あたりたり。外にしよふは有べからずとて、かの侯を追駈(おつかけ)、壹里餘り先にて追付奉りて、段々の始末を申述(のべ)、御侘(わび)申上たるに、かの侯の、免遣(ゆるしてつかは)すと云へと宣ふまゝ、馳歸(はせかへ)りて、是を力に其通りを申聞(きけ)ると、狂變(きやうへん)は卽座に直(なを)り、常躰(つねてい)と成たりと。是は水野何某なるもの、以前、市谷御屋形(おやかた)の道中七里(しちり)のもの【七里の者とは宿々へ在住なさしめ置(おか)るゝ所の者なり】在勤中、現に其席に居合(ゐあはせ)て、見請置(みうけおき)たる事なりとて語りき。其時は、その諸侯の名も覺え居(ゐ)しに、早十年餘りの昔と成り、今は其名も髣髴として、慥(たしか)には申兼たりといへり。【天保元年の咄なり。】。殘(のこ)り多し。此何某は決(けつし)て虛言など云ものには非ず。尊卑の譯は能(よく)心得置べし。

[やぶちゃん注:この諸侯の名を話者が忘れてしまっていたのは実に「殘り多し」、残念である! 或いは、この大名の血には、ある種の呪術者の持つ呪力のような何かが流れているのかも知れない。或いはある種の憑き物の家系とも考えられる。本人も知らないうちに、感応して、相手に憑依したり、人事不省や命を奪うような危険な目に遇わせてしまう呪われた系譜の持ち主かも知れぬからである。シチュエーションでは「かの侯を追駈、壹里餘り先にて追付奉りて、段々の始末を申述(のべ)、御侘(わび)申上た」ところが、そうした現象に驚くこともなく、ただ一言、「免遣(ゆるしてつかは)すと云へ」と仰せられたというのは、実はそうした現象をこの人物は常に経験してきたからこその謂いではないか、と私は思うからなのである。

「新居宿」現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居。浜名湖西岸の遠州灘に面した突出部。(グーグル・マップ・データ)。

「市谷御屋形(おやかた)」ウィキの「屋形によれば、狭義のそれは、江戸幕府が尾張藩・紀州藩・水戸藩などの御三家並びに有力な親藩、並びに、室町時代の守護の格式にあった旧族大名(薩摩藩島津氏・秋田藩佐竹氏・米沢藩上杉氏)及び交代寄合の山名氏・最上氏などに免許した「屋形号」であるとする。ここは「市谷」とあり、ここには尾張藩徳川家上屋敷があったので尾張藩と見てよかろう。次の「七里の者」とも合致するからでもある。

「七里の者」大名飛脚のこと。大名が国元と江戸藩邸との通信連絡のために設けた私設の飛脚。尾張・紀伊の両家は東海道七里ごとに人馬継ぎ立ての小屋を設けたので、七里飛脚とも呼ばれた

「天保元年」一八三〇年。]

 

「想山著聞奇集 卷の四」 「日光山外山籠り堂不思議の事 幷、氷岩の事」

 

想山著聞奇集 卷の四

 

 

 日光山(につかうざん)外山(とやま)籠り堂不思議の事

  幷(ならびに)、氷岩(こほりいは)の事

 

Nikkouzantoyama

 

 野州日光山の内、御山(おんやま)に向ひて直(ぢき)に右の方(かた)は、稻荷川と云大河流れ出、其川の向(むかふ)に、外山と云有。全く山中の孤山にして、登り十八町有といへり。段々登る程、急なれども、十町め迄は、たゞ順に急成(なる)坂也。此所(このところ)に、僅二三間の足溜(あしだま)り有(あり)て、鳥居有。後ろを顧り見れば、【右山よりは正面なり。】大谷川(だいやがは)の末、絹川[やぶちゃん注:大谷川は外山の西方直線で十五キロメートルほどの地点で本流鬼怒川に注ぐ。]へ落入(おちいり)て、常州の方迄、川末(かはすへ)の直流廿餘里、一眺(ひとめ)に見渡して絶景也。扨、此所より上は、峨々たる絶崖にして、胸を射る心地して、甚(はなはだ)登り難し。巖石に、僅(わづか)づゝ足を踏立(ふみたつ)るほどの跡有りて、巖(いわほ)の角、蔦蔓(つたかづら)の根にとまりとまりて、漸(やうやく)、頂(いたゞき)に登り得たり。先達(せんだつ)のもの、旅亭(りよてい)より明樽(あきだる)をひとつ用意して行(ゆき)、彼(かの)稻荷川を渡る時に、水を汲取(くみとり)て持(もち)たり。是は何にするぞと尋問(たづねとふ)に、此山上には水なし。山を登り給ふ苦しさに、渇(かつ)し給へるを助くべき爲也と云。予、壯年の事にて、殊にか樣の所へ行と、人よりも勇氣增す性(しやう)ゆゑ、甚おかしく思ひ、僅成(わづかなる)此山に登ればとて、苦しさの餘り、渇するとは心得ぬ事を申もの哉。去(さり)ながら、久敷(ひさしく)、此土地に居て、別(べつし)て功者(こうしや)との事ゆゑ、先達もさせ、案内にも賴(たのみ)たる事なれば、定(さだめ)てやうこそ有䌫(あるらん)と思ひながら、登りたるに、七八分目に至りては、纔(わづか)、差居(さしおき)たる刀、目に懸(かゝ)り、跡の方(かた)へ曳(ひか)るゝ樣にて、殊の外、邪魔となりたり。去ながら、元氣に任せて勇み進んで登るに、八九分目に至り、勢(せい)を揉(もみ)たる苦しさにて、喉(のど)渇する事、甚敷(はなはだしく)、登り極(きはめ)て後は、中々渇して、聲も出ざる程也。此時に彼水を呉れたる故、一二椀のみて、漸(やうやう)喉を濕(うるほ)したる心地、誠に甘露の如く、たとふるに物なかりし。是にて其急成(なる)事を押(おし)てしるべし。且、我(わが)短智(たんち)を以て、人のする事を侮り輕(かろ)しむべからず。扨、絶頂は如何にも僅成やうなれども、少しは畾地(らいち)[やぶちゃん注:- 《「らいぢ」とも》余分の土地。空き地。]も有て、一間[やぶちゃん注:一・八メートル。]四面程の石疊の堂あり。内に一杯(はい)なる厨子有て、堅く戸ざしたり。【作物の多聞天安置にて、當山の鬼門に當れば守護の爲也と云。】此前に二間に九尺の籠り堂有。

[やぶちゃん注:「外山」現在の栃木県日光市萩垣面(はんがきめん)にある標高八百八十メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。その南西の流れが後に出る大谷川(だいやがわ)の支流稲荷川。ウィキの「外山(前日光)」によれば、『旧日光市街地に近い稲荷川(大谷川の支流)沿いに登山口があり、山頂まで登山道が通じている。この登山口から外山山頂までは徒歩で』三十『分から小一時間程度であり、小休止を入れても往復』二~三時間も『あれば登山が可能である』とある。挿絵及び埼玉大学教育学部の「今昔マップ on the web」の明治中期の地図と対比で、ここで述べている登攀ルートが概ね判る。

「十八町」凡そ二キロメートル弱。

「十町」一キロ九十メートル。

「二三間」三・六四~五・四五メートル。

「絹川」大谷川は外山の西方直線で十五キロメートルほどの地点で本流鬼怒川(きぬがわ)に注ぐ。

「一眺(ひとめ)」底本では「一眺眼」とあるが、原典とそのルビに従った。

「定(さだめ)てやうこそ有䌫(あるらん)」「やう」は訳・事情。「要」は「えう」であるから歴史的仮名遣から見るなら、あり得ない。

「七八分目」残り八町分のそれ(割合)を指す。後の「八九分目」も同じ。

「畾地(らいち)」余分の土地。空き地。

「一間」一・八メートル。

「一杯(はい)」ママ。厨子の助数詞としては不審。

「作物の多聞天安置にて、當山の鬼門に當れば守護の爲也と云」ウィキの「外山(前日光)」には、『日光山輪王寺、日光東照宮、日光二荒山神社の鬼門にあたる北東に位置することから、山頂部にはこれを守護するため毘沙門堂が建てられ毘沙門天が祀られている。毘沙門堂はかつて木製であったが、現在は石製のものに造り替えられている』とあるが、天部の仏神毘沙門天(持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数えられる武神)は四天王としては「多聞天」として表わされるからおかしくない。なお、原典では「多聞天」には「たもんでん」とルビが振られてある。]

 

Kohoriiha

 

扨、右の石にて作りたる堂の後の方は、少し凹(なかくぼ)にて次の小高き所に、石の不動尊三躰計(ばかり)有のみにて、外には何も立(たつ)る程の場所もなく、芝生の兀山(はげやま)也。【日光山志[やぶちゃん注:八王子千人同心組頭で、「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」を完成させ、「新編相模国風土記稿」の編纂にも従事した植田孟縉(うえだもうしん)著・渡辺崋山・画になる日光地誌。天保八(一八三七)年刊。]には、堂の廻りに松樅數根、岩間に生ひ茂りと有ども、予が登りたる時は、山上(さんじやう)には木とては一本もなく、山の裏の方(かた)には、纔、人の背丈の雜木まばらに生居(はえゐ)たり。】麓とても、木材一本もなく、平(ひら)一面の芝生也。此(この)籠(こも)り堂の内を見れば、壹坪半(ひとつぼはん)の所は土間、其餘は疊三重敷(さんでふじき)也。此所に、十六七歳計なる百姓躰(てい)の男子(なんし)壹人、前に線香を三本程燈し置(おき)て、顏を擧(あげ)て一目見たるなりに、物をもいはず、何か物有りげに、まごまごとして蹲(うづくま)り居(ゐ)たり。彼(かの)連行(つれゆき)たる先達の男(をとこ)、此者に言葉を懸て、いつ來りしぞと問。此男、をとゝひ來りしと答ふ。夫(それ)では三日だな、苦しからふ、三日め四日目が難儀だ、慥に思ひてやりそこなふなよと云。アイアイ有難うこざりますといらふ。一昨日より一人かと問ふ。おとゝひは、外に二人居て、壹人歸り、又きのふ、一人歸りしといふ。あすは又、誰(たれ)ぞ來(きた)るらん。兎角しんぼうが大事だぞ、水をやらんとて一椀呑(のま)せて後(のち)、此殘りの水もやるべし、茶椀もやろう、有難く思ひて、少しつゝ戴けよと云。扨も此者こそ、この所へ斷食(だんじき)して籠りたるの也[やぶちゃん注:「なり」と読んでおく。]と心得て、夫より先達に委敷(くはしく)問(とふ)に、冬の内は雪多く、寒氣も甚敷まゝ、籠る人もなく候らへども、夏の内は二人も三人も重(かさな)る事は御座候得とも[やぶちゃん注:「と」はママ。]、一人も絶(たえ)る事は御座なく候。私なども若き時は、毎年(まいねん)の樣に、又しても又しても籠りましたと云。其樣(そのやう)に、何故に度々籠りたるや、心願有ての事か、又は慰みかととふ。中々、慰み所(どころ)の事にては御座なく、皆、心願有ての事也と答ふ。其心願は何事にや、格別、靈驗(れいげん)も有哉(あるや)と問ふに、きくともきくとも、きかぬと申事は御座なく候。其心願と云は、銘々色々の事にて、御咄(おはなし)の申樣(やう)もなけれども、先(まづ)、親の病氣を祈りたり。或は私(わたくし)子供の節(をり)、手習嫌(てならひぎら)ひ故、一向、目が見えませぬ。何卒、手紙など認(したゝめ)たり讀(よみ)たり仕る樣にと願ひ、又、職藝(しよくげい)をば人並にさせて下されとか、何とか、種々(しゆじゆ)の願ひにて御座候と云。予、思ふ樣、今、顯密兩宗(けんみつりやうしゆう)[やぶちゃん注:「顕教」と「密教」の両学派。「顕教」とは、衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が秘密にすることなく明らかに説き顕した教え及びその経典の修学を指し、「密教」とは、真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた、容易に明らかに出来ない奥義としての秘密の教え及びそれが記されているとする経典の修学を指す。真言宗開祖の空海が「密教」が勝れているとする優位性を主張する立場から分類した教相判釈の一つであって宗派ではない。]の僧侶等(とう)、行法によりて、一七日[やぶちゃん注:「ひとなぬか」と読んでおく。]も斷食して法を傳へ、或は物を祈るなどの刻(きざみ)[やぶちゃん注:その折り。]は、甚以て手重(ておも)なる[やぶちゃん注:困難で容易でないさま。]事なるに、此地にて、此所へ來りて斷食する事は、一向、容易なる有さまにて、しかもさしてもなき事に凝(こ)り堅(かたま)りて祈る故、ぜひ、其(の)應(おう)は有て、能(よく)きく筈(はづ)と、初(はじめ)て發明なしたり。江戸などにて斷食するには、腹力(ふくりよく)なく、二便(にべん)[やぶちゃん注:再度。]に行(ゆく)事さへ甚(はなはだ)難儀と聞(きゝ)たるに、此堂に籠りたる中(うち)、元氣者は毎朝、夜の明(あけ)ぬ内に稻荷川迄下(お)りて、夜の明る所にて、人しれず、川中にて水を浴(あび)て垢離(こり)を取(とり)、祈誓する事とぞ。その位成(くらいなる)氣性(きしやう)のをのこは、別(べつし)て能(よく)きゝ、既に右先達などは、いつにても水をあび、其替りに[やぶちゃん注:「そのお蔭で」の意でとっておく。]よくきゝたりと咄したり。實(まこと)に左も有べき道理とこそ思はる。然るに、爰(こゝ)に不思議なる事のありて、願(ぐわん)の成就成難(なりがた)き者は、必ず一七日の籠り出來兼(かね)、下山する事とぞ。先達の云、衆人、始は成し遂(とぐ)る氣分にても、僅(わづか)一日二日居て、斷食の悲敷成(かなしくなり)て止(やめ)る程の者は、論(ろん)に懸(かゝ)らぬ[やぶちゃん注:お話にもならない。]事なれば、申迄もなき事ながら、根性も慥(たしか)にて、しかも信心堅固にて籠りたる者にも、障碍(しやうげ)をなされて滿願成り兼、下山するものも澤山に御座候て、夫(それ)は夫は恐敷(おそろしき)事に御座候と云。成程、左も有べき事にこそ。是、佛家(ぶつか)に云(いふ)前世(ぜんぜ)の宿緣の惡敷(あしき)にて、所謂、後生(ごしやう)の惡しきのと知られたり。扨、其障碍と云は如何なる事ぞ、具(つぶさ)に語り聞せよと、又、懇(ねんごろ)に問返すに、夫は色々成(なる)事にて、衆人一樣ならざれども、先、大凡(おほよそ)は、夜(よ)に入(いり)て後(のち)寐ると、夢現(ゆめうつ)つともなく、大風(たいふう)吹來り、此籠り堂、今にも吹落さるゝ樣成心持するまゝ、溜り兼て、アヽと叫(さけび)て飛起見れば、何事もなく、傍(かたはら)には同宿の願人(ぐわんにん)有(あり)て、何事なく臥(ふせ)り居(を)れば、夢にて有しか、扨々恐敷事也と思ひて又寢ると、今度は大地震して、瓦落(ぐわら)瓦落[やぶちゃん注:オノマトペイア。面白い!]と山の崩るゝ有さま故、又、溜り兼、飛起て、傍の同宿をも起し、誠にか樣か樣なりと告(つぐ)るに、其時、同宿は何事もなく熟睡なし居(ゐ)て、夫(それ)は自分の心柄(こゝろがら)ならん、我は何事もなし、落付(おちつき)て臥り給へといふゆゑ、成程と心を取直して寐るに、又、初のごとく、此堂、空(くう)へ吹飛されし心持などして、終夜、得寢(えいね)ずして夜を明かして後、逃歸るもの多く、邂逅(たまさか)、一夜二夜は堪ゆれども、欝々と寐懸(ねかゝ)ると怪事出來(でき)るゆゑ、同宿の熟睡する傍に、每夜唯壹人、寢る事もならず起居て、身躰(しんたい)勞(つか)れ果(はて)て、遂に半(なかば)に及びて、止(やむ)事を得(え)ず、下山するもまゝ有(ある)事にて、甚敷に至りては、種々の怪神(くわいしん)來りて、籠り堂を蹴落さるゝ心持[やぶちゃん注:「する者」などの略か脱字。]などもあり。まだまだ人にも言れぬ恐敷目に逢(あひ)申者も御座候へども、同宿[やぶちゃん注:そうした恐怖に遭い、大騒ぎをする者と同宿した者でそうした異常体験を全くしない祈願者。]には聊も障り御座なく、是が神事(かみごと)にて候と語りたり。【か樣の者は必ず願望成就はせざるものとぞ。】此事、差(さし)たる怪と云にはあらねども、則(すなはち)、神明(しんめい)の赫々(かくかく)たるにて、權現(ごんげん)の所爲(しよゐ)とも申べき歟(か)。心して聞置べき事にこそと思ふ故、長々と書付置ぬ。日光山の近隣は申迄もなく、野州一國の者は、若き時には、ぜひ何事か心願有て、多くは籠る事ありとぞ。家内(かない)のもの家出すれば、先、籠り堂へ尋(たづね)ゆけとて來り見て、籠り居(を)れば、如何成事の有ても、一切捨置、連歸らぬこととぞ。左も有べき事也。扨又、此山の麓うらの方に當りてとやま平原に、僅(わづか)方(はう)一丈[やぶちゃん注:三メートル三センチ。]餘りの所、地中より上へ五六尺も巖面(がんめん)出居(いでゐ)、凸凹(なかどつなかくぼ)と成居(なりゐ)て、其凹成(なかくぼなる)皺間(しはあひ)に、夏日(かじつ)、氷生(しやうず)る事也と。冬は却(かへつ)て原一面に雪とは成ども、皺間の氷はなきとぞ。予が行たるは文政六年【癸未】四月央(なかば)[やぶちゃん注:一八二八年。例えば同年の旧暦四月十五日はグレゴリオ暦で五月二十八日である。]の事也しが、氷、澤山に有たり。土用[やぶちゃん注:この場合は立秋前後現在の八月七日頃の前十八日間。]中は、今一入(ひとしほ)增(まさ)るといふ。此氷岩は、日光七奇(ひちき)[やぶちゃん注:この名数も不詳。やはりネットでは全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。]の一にて、衆人のしる事也。此原に、かたくり甚だ多し。珍敷(めづらしき)藥品も種々有との事なれども、予は本草にも疎(うと)ければ、辨(わきま)ふる事あたはず、實(じつ)に靈地の佳境なり。日光の事は、貝原益軒の日光名勝記、或は籬嶋秋里(りたうしうり)の木曾名所圖繪等にも見えて、人の能(よく)知(しる)所也。又、近來(きんらい)、日光山志出來て、一山(さん)の事、委(くは)しけれども、此(この)籠り堂の事は見えず。是は予、現に見聞(けんぶん)したる事故、別て慥に記し置ぬ。

[やぶちゃん注:「かたくり」単子葉植物綱ユリ目ユリ科カタクリ属カタクリ(片栗)Erythronium japonicum。食用澱粉として古来から有名であるが(但し、過食すると下痢を起こす場合がある)、漢方では外用として擦り傷・できもの・湿疹に、風邪・下痢・腹痛の予後の滋養として水と砂糖を適量加え、よく捏ねた上で熱湯を入れ、「葛湯」のようにして飲用する。

「貝原益軒の日光名勝記」儒学者・本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が正徳四(一七一四)年に刊行した紀行。日光への旅行案内としての機能を持ち、これを読んだ多くの人々が日光へと押し寄せたという。

「籬嶋秋里(りたうしうり)の木曾名所圖繪」江戸時代の読本作者で俳人でもあった秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳:後に爆発的に板行されることになる名所図会シリーズの先駆者として知られる。京の人で本姓は「池田」であるが「秋里」を称した籬島は号)が文化一一(一八一四)年に板行した「木曾名所圖會」。「ウィキの「秋里籬島によれば、安永(元年は一七七二年)から文政期(末年は一八三〇年)に『活躍、名所図会の編著者として知られており、随筆、紀行文などの他、読本の著作もあり、極稀に自ら挿絵も描いている』。数多く書いた各地の名所図会の中でも、安永九(一七八〇)年刊の「都名所圖會」(竹原春朝斎・画)が代表作として著名(私でさえ持っている)。なお、木曾なのにと不審に思われる(私も思った)と思うが、国立国会図書館デジタルコレクション同書目次を見ると、西の大津を振り出しに木曽路を辿ったそれは、最後の巻六を、まるまる「日光」に当てていることが判った。]

 

2017/05/26

「想山著聞奇集 卷の參」 「雹の降たる事」 / 卷の參~了

 

 雹(ひよう)の降(ふり)たる事

 

[やぶちゃん注:遅蒔きながら、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」から、かの小泉八雲旧蔵本である本「想山著聞奇集」の原本全部のPDF版ダウン・ロードが出来ることを知った(因みに、それを見て驚いたのは、先の「大蛇の事」の三枚の挿画の内、二枚に鮮やかな色彩が施されていることであった。是非、ご覧あれ! 画像使用には許可を申請する必要があるので提示はしない)。それによって総ルビの原本で読みを確認出来ることが判ったので、向後は原本を確認しながら、本文も校訂しつつ(漢字表記は原典に従わせるようと思ったが、略字が混交しているため、原則底本を採用し、一部の底本の誤りは注記せずに原典に従った)、読みを振ることとし、前章までの底本にある読みの太字表記は意味を成さなくなるので、やめることとした。また、ここまでくると、読みは誰でも確認出来、しかも読むにはだんだん五月蠅くなってくるだけなので、ストイックに絞ることとしたい。]

 

Syouzanhyo1

 

 文政十三年【庚寅】閏三月廿九日、昇龍、所々にありて、雷雨のうへ、氷(ひよう)[やぶちゃん注:「氷」はママ。]ふりたり。此昇龍と云は、俗に辰卷と云、所謂、騰蛇(とうじや)[やぶちゃん注:蛇が天に昇って龍となること。]の類(るゐ)なり。【本草綱目に云、騰蛇化ㇾ龍神蛇能乘雲霧而飛游千里云々。】扨、此(この)大い成(なる)氷(ひよう)が降る事は、舊記に見えて珍しからざれども、今、江戸にて、まのあたり、大なる氷(ひよう)をふらす。しかも、僅の場所の違ひにて同じからず。或人の記錄、至て詳(つまびらか)也。依(よつ)て、爰に其要を抄し置ぬ。二十九日晝過計(ばかり)に、空は一面に墨すりたる樣にて、雲の色、風の音、俄にかはり、市谷邊も、雷(らい)も餘程強く鳴(なり)はためきたり。忽ち、雨水(うすゐ)に大豆(おほまめ)程づゝの氷(ひよう)を交へて、暫時(しばし)、降たり。此氷(ひよう)、王子・日暮里・染井・谷中・上野・淺草邊(へん)、別(べつし)て甚敷(はなはだしく)、又、行德(ぎやうとく)・舟橋の方も甚だ強く荒(あれ)たりと。其概略(あらまし)を左(さ)に記(しる)す。

[やぶちゃん注:「文政十三年【庚寅】閏三月廿九日」グレゴリオ暦一八三九年五月二十一日。

「氷(ひよう)」「氷」はママ。底本では右に『(雹)』と訂正注するが、私はこの儘の方がよい。そもそもが「雹」は「氷の塊」であり(多くは雷雨に伴って降り、通常のものは直径は約五ミリから五センチメートルほど)、この「雹」の字音は本来は「ハク・ハウ」であるから、この「ひよう(ひょう)」というのは和訓であり、これは実は「氷」の音を当てたものとも、また、「氷雨(ひょうう)」の転とも言われるからである。

「本草綱目に云、騰蛇化ㇾ龍神蛇能乘雲霧而飛游千里云々。」原本の訓点に從うなら、

「本草綱目」に云く、「騰蛇(とうしや)、龍(りよう)に化(け)し、神蛇(しんしや)は能く雲霧(うんむ)に乘り、千里に飛游(ひいう)す云々。」と。

であろうが、李時珍の「本草綱目」の「鱗之二」の「諸蛇」の中にやっと発見したものの、そこでは、

   *

螣蛇化龍(神蛇能乘雲霧而飛游千里)。螣蛇聽孕(出「變化論」。又「抱朴子」云、『螣蛇不交。

   *

となっており、この想山の訓点にはやや疑義を感じた。この中文ウィキソースの丸括弧(割注)が正しい(実は他のデータを見ても正しいと判断出来る)とするなら、これは、

   *

螣蛇(とうだ)は龍と化す【神蛇たり。能く雲霧に乘りて千里を飛游す。】。螣蛇は聽きて孕(はら)む(「變化論」に出づ。又、「抱朴子」に云はく、『螣蛇、交はらず。』と)。

   *

だろう。「螣蛇」は「騰蛇」とも書くとあるから、それはよいとして、これは飛翔する能力を有するが、羽は持たないとし、あくまで神蛇であって龍ではないようだ。龍になるためのステージの下・中級程度なのかも知れぬ。面白いのはこの神蛇は交尾をせず、雄の声に応じてその声で雌が孕むらしいことである。]

 

 御本丸邊(へん)は、雹に大豆ほどの氷(こほり)交りて降たりと。

[やぶちゃん注:後に出る「西丸」、現在の皇居から濠(蓮池濠)を挟んだ東北位置。この間は三百メートルほどしか離れていないのにこちらは大豆(「だいず」大ととってよかろう)ほどの雹が降ったのに、あちらはただ雨ばかりである。]

 

 本所石原は、大豆程なるが降たるに、同所一ツ目邊は、團子程のぶん、交りて降、傘を破りたりと。

[やぶちゃん注:「本所石原」現在の東京都墨田区石原。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 市谷・大久保・四谷・赤坂邊も、大豆ほどなるが降たるに、内藤新宿は、雨計(ばかり)にて氷(ひよう)はふらざりしと。

[やぶちゃん注:「内藤新宿」現在の新宿御苑。当時は信州高遠藩主内藤家下屋敷があり、甲州街道への出口として宿場町が形成されて賑わった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 西丸下(にしまるした)は雨計なるに、櫻田外(そと)は空豆程なるがふりたりと。

[やぶちゃん注:「櫻田」門「外」は西丸から、ほぼ南へ直線で八百メートルの位置。こちらはソラマメ大だから、本丸よりでかい。]

 

 芝神明(しばしんめい)邊も雨計なりと。

[やぶちゃん注:皇居から真南に三キロほど。増上寺門・東京タワーの東海側。]

 

 御濱御殿(おはまごてん)邊も氷はふらざりしと。

[やぶちゃん注:浜離宮。芝神明の東北東直近の江戸湾奥。]

 

 小日向(こびなた)邊は、空豆程なるが一圓に降り、中には、茶碗ほどの大さなるも數十交りて降て、家根瓦、損じたりと。

[やぶちゃん注:「小日向」文京区小日向は皇居の西北三キロほど。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 小石川氷川上(ひかはうへ)邊より白山邊は、拳(こぶし)程の雹多く降、柿の枝など、四五寸程の分(ぶん)を打折しもあり。尤、瓦は大(おほひ)に損じ、畑(はた)の苗類は悉く打潰せしと。

[やぶちゃん注:「小石川氷川上」は現在の文京区千石にある簸川神社の裏手(ここ(グーグル・マップ・データ))で、「白山」は現在の小石川植物園の東北の文京区白山の白山神社一帯である(ここ(グーグル・マップ・データ))。]

 

 上野・根岸・大塚邊は、團子或は玉子程なるが降り、板橋邊は、茶碗程もありて、畠は皆損じたりと。

[やぶちゃん注:「板橋」は小石川植物園から北西に三・五キロメートルほど離れる。ここで示される地域の中では最も内陸である。]

 

 大塚上町【波切不動の前の通り】此所へは、雹に白石(しろいし)を交(まぜ)てふらす。常の火打石のごとくなれば、試に、火打鎌(ひうちかま)にて打見るに、火打石に更に異(こと)なる事なしとぞ。勿論、初めの程は、みな人も、氷(ひよう)の大ひ成(なる)のと思ひ居(ゐ)たるが、爰彼所(こゝかしこ)に石有(あり)とて心付たれば、所々にて拾ひたるは、甚だ奇事(きじ)なり。

[やぶちゃん注:「大塚上町【波切不動の前の通り】」現在の文京区大塚の日蓮宗大法山本伝寺の門前。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火打鎌」時代劇でお上さんが夫の出掛けに火打石にかっつけて打つ、あの板に鉄片を嵌めこんだ火打ち金(ひうちがね)の関東での呼称。

 以下の引用は「歷史等にも往々有と覺えし。」までは底本では全体が二字下げ(原典は一字下げ)。]

 

年代記に、後堀川院寛喜二年、奥州石降如ㇾ雨。

[やぶちゃん注:「年代記」「鎌倉年代記」。鎌倉時代の年表風の歴史書。幕府滅亡の二年前の元弘元(一三三一)年頃の成立で、編者は鎌倉幕府吏員と推定される。

「後堀川院」(ごほりかはのゐん)は正しくは「後堀河」で、しかも当時は「院」ではなく、現役の天皇

「寛喜二年」一二三〇年。

「奥州石降如ㇾ雨」「奥州、石、降ること雨のごとし」。]

 

續日本紀(ぞくにほんぎ)に、光仁帝寶亀七年九月、是月每夜瓦石及塊自落内竪曹司及京中往々屋上、明而鋭ㇾ之、其物見在經二十餘日乃止。

[やぶちゃん注:「續日本紀」現行では「しょくにほんぎ」と読む。平安初期に編纂された勅撰史書で「日本書紀」に続く六国史の第二。菅野真道らが延暦一六(七九七)年に完成させた。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇延暦一〇(七九一)年まで九十五年間を扱う。全四十巻。

「寶亀七年」(亀は底本は「龜」だが、原典は「亀」)七七六年。

「是月每夜瓦石及塊自落内竪曹司及京中往々屋上、明而鋭ㇾ之、其物見在經二十餘日乃止。」原典の訓点に従って書き下すと、「是の月、每夜、瓦石(くはせき)及ひ塊(つちくれ)自(おのづか)ら内竪(ないじん)の曹司(さうし)及び京中の往々(わうわう)・屋上(おくしやう)に落ち、明けて之を視れは、其の物、見在(げんざい)なり。二十餘日を經て、乃(すなは)ち止(や)む。」。]

 

五雜俎に、萬曆(ばんれき)壬子十二月廿五日申時、四川順慶府安州無ㇾ風無ㇾ雲、雷忽震動墜石六塊、其一重八斤、一重十五斤、一重十七斤、小者重一斤或十兩と見えたり。是等、同日の談なり。また石の降たる事は、春秋をはじめ、歷史等にも往々有と覺えし。

[やぶちゃん注:「五雜俎」明末の謝肇淛(しゃちょうせつ 一五六七年~一六二四年)の書いた考証随筆集。全十六巻。本邦でも江戸時代に広く愛読され、一種の百科全書的なものとして利用された。「五雑組」とも書く。

「萬曆(ばんれき)壬子」万暦四十年でグレゴリオ暦一六一二年。

「申時、四川順慶府安州無ㇾ風無ㇾ雲、雷忽震動墜石六塊、其一重八斤、一重十五斤、一重十七斤、小者重一斤或十兩」原典の訓点に従って書き下すと、「申の時、四川順慶府安州、風、無く、雲くして、雷(らい)、忽ち、震動す。石を墜(おと)すこと六塊(くわい)、其の一は重さ八斤、一は重さ十五斤、一は重さ十七斤、小なる者は重さ一斤或ひは十餘兩。」。「四川順慶府安州」は四川省南充市順慶区内か(ここ(グーグル・マップ・データ))。明代の一斤は約五百九十七グラム、一両は約三十七グラムであるから、最大のものは十キログラムを越える。当たったら、即死である。

「春秋」中国の歴史書で五経の一つ。]

 

 巣鴨邊は、なかんづく強氷(がうひよう)にて、或人、王子へ行(ゆく)迚(とて)、氷をさけて植木屋何某方へ立寄たるに、其大(おほき)さ尺計も有が落て碎けたり。余り珍敷(めづらしく)覺えて、辨當箱の中(なか)へ入來(いれきた)り、一時半程過て歸宅の後(のち)、右箱を明て見れば、解殘(とけのこ)り、未(いまだ)、茶碗ほど有たりと。此邊は、家根を打拔(うちぬく)所多く、七八寸ほどなるが降たる所、所々(しよしよ)に有(あり)と。

 

 大塚御厩畠(おんまやばたけ)の墓守の飼置(かひおき)たる鷄(にはとり)、雄の方、雹に打れて死せし由。

[やぶちゃん注:「大塚御厩畠」現在の文京区大塚五丁目附近の旧地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 千駄木御鷹匠(おたかじやう)八木氏(やぎうじ)の庭に、餘程大成が降たり。手に取て見るに、中(なか)に黑きものあり。石にても有䌫(あるらん)とて、盆の上に置たり。解(とく)るに隨ひ、よく見れば、大黑の形を鑄付(いつけ)たる古錢(こせん)也。土石(どせき)の類(るゐ)は左も有べけれど、錢(ぜに)の出(いで)たるは奇なりとて、近隣よりは、皆(みな)見に行たるよし。

[やぶちゃん注:「千駄木」現在の文京区千駄木。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以下の想山の附言「いと珍敷事也。」までは、底本では全体が二字下げ。]

 

想山(しやうざん)云(いふ)。江戸の氷(ひよう)は、此(この)末に云置(いひおく)通り、中禪寺又は榛名の湖水より、騰蛇(とうじや)の卷上來(まきあげきた)る事と見えたり。既にこの氷中(ひやうちう)に有たる錢は、中禪寺の湖水中に久敷(ひさしく)沈み居(ゐ)たる錢と見えたり。毎年(まいねん)七月に至り、山禪定(やまぜんぢやう)とて、人々囘峰する時、此湖上(こしやう)をも舟にて巡(まは)り歩行(ありく)事にて、賽錢(さいせん)を水中へ投するものも多しといへば、夫(それ)を、彼(かの)騰蛇の卷上來りて、降(ふら)せしものと見えたり。左すれば、不審とするには及ばねども、いと珍敷(めづらしき)事也。

[やぶちゃん注:「山禪定」修験道に於いて、夏、日光の男体山登拝を中心とした回峰が行われるのを指していよう。]

 

 少しの事にて、板橋の先、戸田川(とだがは)邊は、雨ばらばらと降來りたる迄にて、雹はなしと也。

[やぶちゃん注:「戸田川」恐らくは荒川の左岸で北の埼玉県戸田市を縦断する支流を指すか、或いは荒川のこの附近での呼称とも思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 福山侯本郷丸山の屋敷内(うち)、伊澤良安庭へ降たる雹は、二百廿匁有たりと。同藩の婦人、衣類の上より二の腕を打れて、翌朝に至り、痛み甚敷(はなはだしく)、右良安、療治すと云。又、下男壹人、脚に當りて、足たゝずとも云り。

[やぶちゃん注:「福山侯」備後福山藩(藩主阿部氏)の中屋敷。現在の東大赤門の道を隔てた西側奥(「本郷丸山」は現在の本郷五丁目)にあった。

「二百廿匁」八百二十五グラム。]

 

 駒込富士前にては、三人迄、頭をうたれ怪我せし由。

[やぶちゃん注:現在の文京区本駒込にある駒込富士神社の前であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 三河島の農人(のうにん)も頭を打れ、大ひになやみたるもの有と。

[やぶちゃん注:現在の荒川区荒川の三河島地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 淺草新鳥越邊も、眞白に成程ふり、中には、拳の大さなるも有たりと。

[やぶちゃん注:「淺草新鳥越」この中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。]

 

 上野御本坊の御庭へ降たるは、壹貫拾匁餘有たる由。是は、同所小林氏の物語にて、慥成(たしかなる)事也と。

[やぶちゃん注:「上野御本坊」寛永寺。

「壹貫拾匁」約三キロ七百八十八グラム。]

 

 亀井戸邊も、團子(だんご)程の分(ぶん)ふりて、夫より段々東のかた、大きく成(かり)、行德(ぎやうとく)邊に至りては、大荒(おほあれ)にて人家損じ、つむじ風、卷來(まききた)りて、農人壹人卷揚(まきあげ)、遙過(はるかすぎ)て落(おつ)。夫より種々(しゆじゆ)手當致し遣(つかは)しけれども、息(いき)の有のみにて、言語(ごんご)も分らず、藥も通らずといえり。後、如何(いかゞ)致せしにや。是も慥成事也と。

[やぶちゃん注:「亀井戸」現在の江東区亀戸(かめいど)。ここ(グーグル・マップ・データ)。今までの報告例の中では最も東に位置する。]

 

 此日、不忍の池より龍卷(りゆうまき)出(いで)たりと、専(もつぱ)ら云ふらす。何にもせよ、水上(すゐしやう)一面に黑雲(くろくも)と成(なり)て恐ろしく、更に樣子は分らざりしよし。仲町(なかちやう)邊へは、鮒・魦(はや)・泥鰌(どじやう)の類(るゐ)多くふり、湯島の切通へは、大(おほき)さ尺餘の鯉を降らすと。これも慥成事なり。

[やぶちゃん注:「仲町」不忍の池の東南の直近の不忍通りを一本南に入った通り附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 此日、惣躰(そうたい)、小日向小石川邊より、染井・巣鴨・谷中邊も、暫(しばらく)はすべて黑雲と成、物すごかりしといへり。

 

淺草堂前邊の者の云には、三軒町(さんげんちやう)へ【田原町(たはらまち)のうらなり。】きのふ、雷雨の最中、町家のうらへ、異獸(いじう)落(おち)たり。雷獸のごとく、前足のみ三本有て、跡足(あとあし)はなし。腹(はら)破れて死居(しにゐ)たりと云。又、頭(かしら)は猫の如く、身は鼬(いたち)のごときものとも云。今一人、その邊のものゝ咄には、私(わたくし)は見申さず候得ども、兒童の見來(みきた)るを聞(きく)に、兎(うさぎ)の子の未だ毛も生(はえ)ざるやうのものにて、前足のみ三本有(ある)にはあらずと云て、區(まちまち)なれども、死傷の異獸、落居たるには相違なき事と聞ゆ。去(さり)ながら、此程は雑説多(おほき)故、おぼつかなし。然(しかれ)ども、惣躰、爰にしるすは、皆、夫々に慥成咄のみを撰取(えらみとり)て、記し置たり。扨(さて)、人は心得もあれども、禽獸には其わかちなければ、鳥はあはて、馬は驚き、犬は狂ひて、打(うた)るゝも多かり。既に駒込土物店(つちものだな)にて荷付馬(につけうま)一疋、はねくるひたる有て、鎭めかたなく困りたりと。左も有べきことにこそ。

[やぶちゃん注:「三軒町」旧浅草三間町、現在の東京都台東区寿及び雷門。

「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん)【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

「駒込土物店」現在の文京区本駒込一丁目にあった江戸の三大青果市場の一つ(後は神田・千住)。起源は元和年間(一六一五年~一六二四年)とされる。文京区公式サイトのこちらの解説によれば、『当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり』で、他にも『近くの富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、大根、にんじん、ごぼうなどの土のついたままの野菜(土物)が取り引きされた』とある。(天栄寺境内)ここ(グーグル・マップ・データ)。だから「荷付馬」が腑に落ちるというもんだ。]

 

 扨、氷(ひやう)の説(せつ)色々有(ある)中に、或人の記(き)に、先年、老人の説に、江戸へ降(ふる)氷(ひやう)は、多くは中禪寺の湖水の氷(ひやう)を、かのたつ卷の騰來(あげきた)りてふらすなりといヘり。また山崎美成(やまざきよしなり)の記に、雹は霰(あられ)の大ひなるものにて、その零(ふり)しこと史に見えたり。【書紀に、推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹零、大如桃子。壬辰雹零大如李子、自ㇾ春至ㇾ夏旱之【云々】、持統天皇五年六月朔、京師及郡國四十雨ㇾ氷、此後(このご)しばしば見えたり。】仍て奇とするにはたらねども、此大城(たいしやう)のもとに住み侍りては、かゝる事も、いともいとも珍敷(めづらしく)、後(のち)にきけば、其始(はじめ)は日光山のかたより雲起り、向ひかぜ勵敷(はげしく)、東南をさして雹をふらす事甚だしく、殊に駒込なる西教寺(さいきやうじ)の、駒山(くさん)が、墓所(はかしよ)へふりしを、手づから摸(も)したるは、重さ六匁計りにて、全く梅の花・牡丹の花のごとく、是を以他人(たにん)の云傳るもうべなひぬ。唐土(たうど)、元(げん)の世に零(ふり)し雹の其狀(そのかたち)は、龜のことく、兒(ちご)の如く、獅子のごとく、象のごとくありしとかや。

[やぶちゃん注:「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹零、大如桃子。壬辰雹零大如李子、自ㇾ春至ㇾ夏旱之【云々】、持統天皇五年六月朔、京師及郡國四十雨ㇾ氷」原典の訓点に従って読み下す。

   *

推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹(はく)、零(ふ)る。大(をほき)さ桃子(たうし)のごとし。壬辰、雹、零る。大さ李子(りし)のごとし。春より夏に至つて旱(ひで)りす【云々】。持統天皇五年六月朔、京師(けいし)及び郡國(ぐんこく)四十処に氷を雨(あめふ)らす。

   *

「推古天皇三十六年」は六二八年、「持統天皇五年」は六九一年。

「大城(たいしやう)」江戸城。

「西教寺(さいきやうじ)」原典ではるびは「さいきうじ」であるが、訂した。現在の文京区向丘(むこうがおか:旧駒込片町)にある浄土真宗涅槃山(ねはんざん)西教寺であろう。前身は常州那珂郡村松(現在の茨城県東海村)にあったものを寛永七(一六三〇)年に神田金助町に移し、また、明暦三(一六五七)年に現在地に移転している。東京大学農学部キャンパスの隣、旧中山道本郷追分の近く。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「駒山」不詳であるが、一つの推理として、後に本文に出、注も附した江戸後期の歌人隈川春蔭(くまかわはるかげ)のことではなかろうか? 彼の号は「駒山」だからである。識者の御教授を乞うものである

「手づから摸したる」これが本文でも後に語られ、また掲げられる挿絵のそれ。

「六匁」二十二・五グラム。

 以下の漢文引用は全体が二字下げ、原典は一字下げ。]

 

元史五行志に云、至元四年四月癸巳、淸州八里塘雨ㇾ雹大過於拳其形有如ㇾ龜者、有小兒、有獅象、有環玦、或楕如ㇾ卵、或圓如ㇾ彈、玲瓏有ㇾ竅白而堅、云々。

[やぶちゃん注:原典の訓点に従って書き下す。

   *

「元史五行志」に云、至元(しげん)四年四月癸巳、淸州(せいしう)八里塘(たう)、雹(はく)を雨(あめふ)らす。大(おほき)さ拳(こぶし)に過ぎたり。其の形、龜のごとき者有り、小兒のごとき者有り、獅(し)・象(ざう)のごとき者有り、環玦(くわんけつ)のごとき者有り、或ひは楕(だ)にして卵(らん)のごとく、或ひは圓(ゑん)にして彈(だん)のごとし。玲瓏(れいろう)として竅(あな)有り、白うして堅(かた)し。

   *

「元史五行志」は元代に書かれた正史の中の「志第三上 五行一」と「志第三下 五行二」のこと。「至元四年」一二六七年。「淸州八里塘」不詳。「玲瓏」玉(ぎょく)のように美しく輝くさま。冴えて鮮やかなさま。]

 

 按ずるに、漢籍(かんじやく)に載する所の説、多くはみな理(ことわ)りに拘泥して、其論ずる所はいかめしけれども、決して左にあらず。殊に、蜥蝪(せきやく)の水を含みて雹を仕出(しいだ)すといふに至(いたつ)ては、辨を待ず。走卒(そうそつ)・兒童といへども、はやく其妄誕(まうたん)なるをしらん。雨は、雲氣の冷際(れいさい)に薄(せま)りて凝(こつ)て降(ふる)ものなれども、雹は、全く、地中の氷(こほり)を水とゝもに、騰蛇(とうじや)の類(るゐ)、空中にまきて零(ふら)す所の物也。されば、雨のごとくにはあらで、そのふる所、隧(みち)ありて普ねからず。曾て聞(きゝ)けるは、上野國榛名山の麓に住(すめ)る農家にては、夏月、雹のふる事を、春來(しゆんらい)、早く知りて、田畑(でんはた)に其心がまへをする事とぞ。榛名山には、御手洗(みたらし)とて、大ひ成(なる)湖水あり。其湖水の冬氷りて、春に至り、中心より解(とく)るときは、雹なし。岸より解るときは、雹有とて、おそるゝよし。中心より解初(とけはじむ)れば、殘りなく解(とけ)、岸より解初(とけはじむ)るときは、中心の氷、其儘、水底(すゐてい)に沈み、夏月といへどもとけざるを、水と共に、かの騰蛇のまきてふらす也といへり。日光山の湖水も同じさまなるよし。こたび零(ふり)し雹は、中禪寺の湖水の氷(こほり)ならんといふ。これら、ゆめゆめ虛説にあらず。その麓の里人(りじん)、常に經驗する所なりと云。謝在抗云、雹似二是最之大者一、但雨ㇾ霰寒而雨ㇾ電不ㇾ寒、霰難ㇾ晴而霰易ㇾ晴如二驟雨一、然北方常遇ㇾ相ㇾ之、傳龍過則雹下四時皆有、余在二齊魯一、四五月間、屢見ㇾ之、不二必冬一也といへる、實に知言(ちげん)と云べし。

[やぶちゃん注:「蜥蝪(せきやく)」とかげ。

「辨を待ず」お話にならない。

「走卒」使い走りをする下僕。

「妄誕(まうたん)原典では左にもカタカナで「みだりなるいつはり」とルビする。意味は「言うことに根拠のないこと」或いはそうした話の意。「ばうたん(ぼうたん)」とも読む。

「冷際(れいさい)」鈴木牧之の名著「北越雪譜」の「初編卷之上」の冒頭に、『太陰、天と地との間に三ツの際(へだて)あり、天に近(ちかき)を熱際(ねつさい)といひ、中を冷際(れいさい)といひ、地に近(ちかき)を溫際(をんさい)といふ』とし、更に、『雲、冷際にいたりて雨とならんとする時、天寒(てんかん)甚しき時は雨(あめ)氷(こほり)の粒となりて降り下(くだ)る。天寒の強きと弱きとによりて粒珠(つぶ)の大小を爲(な)す、是を霰(あられ)とし、霙(みぞれ)とす。【雹は夏あり。その辯(べん)こゝにりやくす。】地の寒強き時は、地氣(ちき)、形をなさずして天に升(のぼ)る微温湯氣(ぬるきゆげ)のごとし。天の曇るは是れ也。地氣、上騰(のぼ)ること多ければ、天、灰色(ねずみいろ)をなして雪ならんとす。曇りたる雲、冷際に到り、先づ、雨となる。此時、冷際の寒気、雨を氷(こほ)らすべき力たらざるゆゑ、花粉を爲(な)して下(くだ)す、是れ、雪也』と述べている。雹の叙述を略されたのは痛いが、これで何となく意味は解るように思われるので引いておいた。

「御手洗(みたらし)とて、大ひ成(なる)湖水あり」榛名山の神を祀る榛名神社の御手洗沼である榛名湖のこと。

「謝在抗云、雹似二是最之大者一、但雨ㇾ霰寒而雨ㇾ電不ㇾ寒、霰難ㇾ晴而霰易ㇾ晴如二驟雨一、然北方常遇ㇾ之、相傳龍過則雹下四時皆有、余在二齊魯一、四五月間、屢見ㇾ之、不二必冬一也」底本は原典の判読を誤っている箇所があるので原典で訂した。原典の訓点に従って書き下す。

   *

謝在抗(しやざいがう)云、雹(はく)は是れ、霰(さん)の大ひなる者に似たり。但し、霰を雨(あめふ)らすは寒くして雹を雨らすは寒からず。霰は、晴れ難く、雹は晴れ易し。驟雨(にはかあめ)のごとし。然かるに北方(ほくはう)は常に之れに遇ふ。相い傳ふ、龍(りよう)、過ぐれば、則ち、雹、下(くだ)る。四時、皆、有り。余、齊(せい)・魯に在りて、四、五月の間(あひだ)、屢(しばしば)之れを見る。必しも冬ならず。

   *

「謝在抗」は明代の「五雑組」(先に既注)の著者謝肇淛の字(あざな)。

「齊」現在の山東省北部を中心とした地方名。

「魯」現在の山東省南部を中心とした地方名。

「知言」道理に適った言葉。]

 

 和訓栞(わくんしほり)曰。新撰字鏡(じかがみ)・和名鈔に、雹(ひよう)とよめり。逆散(ぎやくさん)の儀をもて、名づくる也といへり。霰をもよめり。※は吾邦の造字なり[やぶちゃん字注:「※」=(上)「雨」+(下)「丸」。]。萬葉集に、丸雪を義訓せり。今の俗、是れをヒヨウといふは、氷雨(ひようう)の音なるべし。陸氏(りくじ)が説に、雹は氷雨也と見えたり。駒山潮音雨雹紀事に云。文政十三年歳次庚寅閏三月念九午後、晴天忽然晦冥、迅雷兩三聲降ㇾ雹、半時餘、破ㇾ瓦穿ㇾ屋株草多敗、都下駒籠根津上野淺草之地、尤甚矣、其雹小者、如梅子栗實大者如ㇾ拳如ㇾ肬、每ㇾ塊有ㇾ文、如重瓣梅花、或似牡丹花、皆於中心一堅實、如水精白玉、外邊絁類花瓣、東叡山中所ㇾ降大者共二三十錢、或至五十錢、駒籠西教寺裏所ㇾ降大者六錢二分或六錢、橫量二寸三分、或三寸、皆有花文、乃是千歳之一奇事也。曾門稗雅曰、形全似玉珠、其粒皆三出、此唯合小者、形不ㇾ同今所ㇾ見大而有花文者上、乃錄見聞以傳後世云。

[やぶちゃん注:「和訓栞」一般には「わくんのしをり(わくんのしおり)」と助詞を補って読む。原型は江戸中期の国学者谷川士清(ことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)の編著になる辞書。全九十三巻。安永六 (一七七七) 年から実に明治二〇(一八七七)年までの百年に亙って刊行された。本邦近世に於ける最大の国語辞典。以下、漢文の前までが、総てその引用なので注意されたい。しかも、サイト「電子資料館」の「古事類苑データベース」のこちらを見ると、

   *

あられ 新撰字鏡、和名鈔に雹をよめり、迸散の義をもて名くる也といへり、霰をもよめり、※は和俗の造字也、万葉集には丸雪を義訓せり、今俗これをひやうといふは、氷雨の音なるべし、陸詞が説に雹氷雨也と見えたり

   *

とあり、一部の漢字の誤りが判明する。

「新撰字鏡」平安時代の昌泰年間(八九八年~九〇一年)に僧の昌住が編纂したとされる、現存する最古の漢和辞典。寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を基に増補した十二巻本が同時期に作られたが、その写本が現存して伝わる。十二巻本の収録漢字字数は約二万千字に及ぶ。

「和名鈔」「和名類聚抄」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。

「逆散」底本も原典もこうなっているが、前注で示した通り、これは「迸散」が正しい。これは「ホウサン」と読み、「迸(ほとばし)る・飛び散る」の意である。雲からガツンと飛び散るの儀(義)というである。

「霰をもよめり」は「霰(あられ)」を「ひよう(ひょう)」とも和訓するということ。現在は区別している。気象学上は「霰(あられ)」は直径五ミリメートル未満の氷の粒、五ミリメートル以上のものは「雹(ひょう)」と区別する。即ち、違いは大きさだけであるから、この昔の通用は正しい。

「萬葉集に、丸雪を義訓せり」「義訓」は「戯訓」のこと。「万葉集」の用字法の特殊なもので、漢字の形態・意義をかなり自由に利用して遊戯的・技巧的或いは洒落のめしたような感じで読みを当てたものを指す。これは、「万葉集」の「卷第七」の「旋頭歌」で柿本人麻呂の歌として載るものの第一二九三番歌で、

 

 丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊

 

 霰(あられ)降り

 遠(とほ)つ淡海(あふみ)の

 吾跡川(あとかは)楊(やなぎ)

 刈れども

 またも生(お)ふといふ

 吾跡川(あとかは)楊(やなぎ)

 

であるが、実は「丸雪」を「あられ」と読む戯訓はこれだけで他に例はないから、ここで取り立てて示すほど偉そうなものではない。

「陸氏(りくじ)が説」前注通り、ここは「陸詞」が正しい(まあ、意味上は「氏」で誤りとは言えないが)。而してこれは隋代の音韻学者陸法言(生没年不詳:名は「詞」又は「慈」)のことである。ウィキの「陸法言」によれば、彼は『漢字の発音の標準を定めるため、古来の韻書の記述を統合し』、六〇一年に、かの知られた、中国語の語学上のバイブルとも言うべき韻書「切韻」全五巻を編纂した人物である。

「駒山潮音雨雹紀事」不詳であるが、この「駒山」とは江戸後期の歌人隈川春蔭(くまかわはるかげ 寛政一三・享和元(一八〇一―)年?~天保八(一八三七)年)の号ではないか? 兄で歌人であった春雄と和歌の研鑽に山陽道の各地を旅したが、長崎で病いのため没したという(兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおり)公式サイト内のに拠った)。

 以下、漢文を原典の訓点に従って書き下しておく。

   *

文政十三年、庚寅(こういん)に歳次(さいじ)す。閏(うるう)の三月念九午後、晴天、忽然、晦冥、迅雷、兩三聲、雹(はく)降らすこと、半時餘(よ)、瓦(かはら)破(わ)り、屋(おく)を穿(うが)ち、株草(ちうさう)多く敗(やぶ)る。都下(とか)駒籠(こまごめ)・根津・上野・淺草の地、尤も甚だし。其の雹(はく)、小なる者、梅子(ばいし)・栗實(りつじつ)のごとく、大ひなる者、拳(こぶし)のごとし。肬(こぶ)のごとし。塊(くわい)每(ごと)に文(もん)有り、重瓣(やえ)の梅花(ばいくわ)のごとく、或ひは牡丹花(ぼたんくわ)に似たり。皆、中心に於いて、一堅實(けんじつ)有り、水精白玉(ししやうはくぎよく)のごとし。外邊(ぐわいへん)、絁(はなは)だ花瓣(はなびら)に類(るゐ)す。東叡山中、降る所、大ひなる者、共(とも)に二、三十錢(せん)、或ひは五十錢に至る。駒籠西教寺裏(さいけうじり)に降る所、大ひなる者、六錢二分、或ひは六錢、橫に量(はか)るに二寸三分、或ひは三寸、皆、花文(くわもん)有り、乃(すなは)ち、是(こ)れ、千歳(せんざい)の一奇事(きじ)なり。曾門(そうもん)稗雅(はいが)曰く、「形(かたち)、全(また)く玉珠(ぎよくじゆ)に似(に)たり。」。其(そ)の粒(つぶ)、皆(みな)、三出(しゆつ)、此(こ)れ、唯(たゞ)、小(せう)なる者なるべし。形(かたち)、今(いま)、見(み)る所(ところ)、大(おほ)ひにして、花文(くわもん)有(あ)る者(もの)に同(をな)じからず。乃(すなは)ち、見聞(けんもん)を錄(ろく)して以(も)つて後世(こうせい)に傳(つた)ふ。

   *

「念九」「ねんく」。二十九日のこと。「念」は「廿」と音通であることに依る。

「半時」現在の約一時間。

「株草」草木。

「重瓣(やえ)」八重。

「一堅實(けんじつ)有り」一つの堅い核がある。

「東叡山」寛永寺。

「二、三十錢、或ひは五十錢」この「錢」は重量単位。一銭は三・七五グラムであるから、七十五~百十二・五グラム或いは百八十七・五グラム。

「六錢二分、或ひは六錢」二十三・二五或いは二十一・九グラム。

「二寸三分」ほぼ七センチメートル。

「曾門(そうもん)稗雅(はいが)」不詳。識者の御教授を乞う。そのために、どこまでが引用かも判らぬ。取り敢えず、一文までとした。

 

「皆(みな)、三出(しゆつ)」意味不詳。三つの角を持つ結晶のように見えるという意味か? 判らぬ。]

 

Syouzanhyo2

 

[やぶちゃん注:挿絵の左右はこの前後の本文であって、キャプションではないので注意されたい。]

 

 又、勝田氏(かつだうじ)の大雨雹行(たいうはくかう)の詩、甚だ具(つぶ)さなり。聞(きく)まゝに左(さ)に記(しる)す。呉々も、近來(きんらい)、聞及ばざる降氷(ばうひよう)なりき。

 

[やぶちゃん注:以下、漢詩は前後に一行空けた。]

 

   大雨雹行   勝田 獻

 

庚寅閏月春盡日、節入淸和陽景驕、向ㇾ晩天氣忽變更、寒威刺々生迅飈一、雷公怒擊散硬雨、明珠圓轉迸且跳、須臾怪雲蔽四野、林谷振動泣、大丸小丸破屋瓦、千矢萬矢下九霄、鳥雀飛回無ㇾ處ㇾ避、女兒錯愕互叫囂、忽疑馮夷發憤怒、手握神槌瓊瑤、更怪女媧補ㇾ天處、誤觸列宿斗杓、別有花紋麗可一ㇾ愛、三出五出巧於描、君不ㇾ聞昔時雨ㇾ雹如人頭、耳目鼻口婉含ㇾ嬌、天工奇絶不ㇾ可ㇾ測、甚勝人間費刻彫、安知天公好伎戲、別發祕藏無聊、人道此物非吉兆、陰氣肅殺傷稼苗、誰知大平無事朝、縱有災異忽氷消、只今四海無一事、此物何足ㇾ爲氛妖、雖ㇾ然祥異天所ㇾ戒、只恐嘉穀不豐饒、默禱皇天后土含和氣、五風十雨玉燭調。

[やぶちゃん注:原典の訓点に従って書き下す。一部の清音送り仮名を濁音化、改行して読み易くした。これ、基本は七言ながら、途中でどうしても七言では訓読出来ない箇所があり、かなり苦しんだ。とんでもない誤りを犯しているかも知れぬので、学術的には原典を必ず参照されたい。但し、私は私なりに詩想を感受出来たとは思っている。注を附け出すとドツボに嵌りそうなので附ささぬこととするが、したり顔をするわけでもないことは断っておく。

   *

 

   大雨雹行(たいうはくかう)   勝田 獻(かつだ けん)

 

庚寅(かういん)閏月(じゆんげつ)春盡(しゆんじん)の日

節 淸和に入る 陽景 驕(ほこ)る

晩に向つて 天氣 忽ち變更

寒威(かんゐ) 刺(し)々 迅飈(じんへう)を生ず

雷公 怒擊 硬雨を散ず

明珠(めいじゆ) 圓轉 迸(ほとばし)りて且つ跳(をど)る

須臾(しゆゆ) 怪雲 四野を蔽ふ

林谷(りんこく) 振動 山魈(さんせく) 泣く

大丸(ぐわん)小丸 屋瓦(おくぐわ)を破(わ)る

千矢(せんし)萬矢 九霄(きうせい)を下(くだ)る

鳥雀 飛回 避くる處無し

女兒 錯愕(さくがく) 互ひに叫囂(けいがう)

忽ち疑ふ 馮夷(へうい) 憤怒を發す

手に神槌を握つて 瓊瑤(けいえう)を碎き

更に怪しむ 女媧 天を補ふ處

誤つて列宿に觸れて 斗杓(とひやう)を墜(お)とすかと

別に花紋麗はししふして愛すべき有り

三出五出 描(ゑが)くより巧みなり

君 聞かずや

昔時(せきじ) 雹(はく)雨(あめふ)らすこと 人頭(じんとう)のごとく

耳目鼻口 婉(えん)にして嬌(けう)を含む

天工奇絶 測るべからず

甚だ人間(げん) 刻彫(こくちう)を費すに勝(まさ)る

安(なん)ぞ知らん 天公 伎戲(ぎげ)を好み

別に祕藏を發して無聊(むれう)を慰(い)するを

人は道(い)ふ 此の物 吉兆に非ずと

陰氣 肅殺 稼苗かべう)を傷(そこな)ふ

誰(たれ)か知らん 大平無事の朝(てう)

縱ひ災異有るも忽ち氷消(ひようせう)す

只今 四海 一事 無く

此の物 何ぞ氛妖(ふんよう)と爲すに足らん

然りと雖も 祥異(しやうい)は天の戒しむる所

只だ恐る 嘉穀(かこく)豐饒ならざるを

默(ぼく)して禱(いの)る

皇天后土(くわうてんこうど) 和氣を含み

五風 十雨 玉燭 調(とゝの)ふ

 

   *]

 

 又、天保七年【丙申】五月三日。伯耆の國大山(たいせん)より、一朶(いちだ)の黑雲(くろくも)起り來りて、但馬の國大屋谷(おほやだに)と云一谷(いちこく)へ【山間(やまあひ)の狹き所なれども長さ五里計も有所也と。】雹ふりたり。大ひなるは重さ四十匁餘、小なるは四五匁程にして、人は怪我も少なけれども、野飼(のがひ)の牛は斃(をち)たりとの事也。是は其時、其地へ行合居(ゆきあひゐ)し何某より聞たり。然(しかれ)ども、人には怪我なくして、牛の斃たりとは如何(いかゞ)と問(とふ)に、此時の雹は二三尺降積(ふりつみ)たる故、多くの雛牛(ひなうし)などは斃たるも多かりしときく。又、伯耆の大山よりは、因幡一國を隔てゝ、その間(あ)ひ廿餘里も有(あれ)ども、其道通(みちどほ)りは、少しも雹はふらずして、此所(このところ)へ來りて、斯(かく)仰山(ぎやうさん)に降たるは、一奇事(いつきじ)也といへり。

[やぶちゃん注:「天保七年【丙申】五月三日」一八三六年六月十六日。

「大屋谷」現在の養父市大屋町附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。大山は西に百キロメートル弱。

「四十匁」百五十グラム。

「四五匁」十五グラムから十九グラム弱。

 

 以上、現在の気象学から見れば雹発生の元などには誤りもあるものの、雹被害の詳細な記録として実に興味深いものである。私は結構、面白く読んだ。]

 

 

 

 想山著聞寄集卷の三 終

ブログ950000アクセス突破記念 火野葦平 煙草の害について

 

[やぶちゃん注:本作は題名も内容も確信犯のチェーホフの独り芝居の一幕物喜劇「煙草の害について」Anton Pavlovich Chekhov“O vrede tabaka”1886のインスパイアである。本来は、このブログ・カテゴリ『火野葦平「河童曼荼羅」』では、底本に従うなら、「新月」「珊瑚礁」の間に入れるべきものであるが、チェーホフの元の話を電子化するまで待とうと思ったため、かく遅れた。先般、ブログ950000アクセス突破記念として「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化したので、ここに示すこととした。

 太字は底本では傍点「ヽ」。

 最初に現われる「當辨論大會出場」の「辨」はママである(以降は「辯」となっている)。

 「菊石(あばた)」は二字へのルビ。かつて主に天然痘に罹患して予後、その主に顔面に菊石のような痕が残ったことから、「あばた」のことをかく言った。こう書いて「じゃんこ」などとも読んだようである。

 また、作中、主人公は以前に「女の害について」「酒の害について」を弁論したとあるが、実は「河童曼荼羅」には「女の害について」「酒の害について」という題の作品が含まれている(未電子化。近い将来、順次、電子化予定)。ただ、その二つは弁論形式ではなく、本作と形式上で先行するダイレクトなプレ作品としては読めないのでお断りしておく。題名を見ただけで期待されてしまい果てに失望されても困るので(私は別に困らないのだが)それらの電子化より先に事前に述べておく。

 なお、本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが250000アクセスを越えた記念として、チェーホフのそれに次いで公開するものである。【2017年5月26日 藪野直史】]

 

 

 

   煙草の害について

 

 滿堂の紳士淑女諸君、

 わたくしが、このたび、鼻無沼(はななしぬま)代表といたしまして、當辨論大會出場の光榮に浴しました皿法師と申す者であります。自己紹介いたすまでもなく、每年、侃々諤々(かんかんがくがく)、流麗絢爛(けんらん)、奔流決河の雄辯をもつて、當壇上から、諸君におまみえしてきたものでありまして、諸君には、わたくしの印象は、さぞかし強烈に、消えがたいものとなつて殘つてゐることと信じます。ごらんのとほり、わたくしのこの頭の皿の巨大なことは、近郊近在に稀でありまして、故もなく頭百間といつて誹謗する者もあるにはありますが、實に、まさに、腦髓の巨大、かの世界的大詩人ゲーテの腦味噌のごとく、萬能の力と夢とを、この皿の下に藏して居る證據でありまして、わたくしが、まことに、河童世界において、選ばれたる者としての標識たることは、一點の疑ふ餘地もありません。

 鼻無沼、口無沼、臍無沼、耳無沼、眼無沼等、近郊河童界の合同辯論大會が、かく、空靑く澄み、水はつややかに、若葉きらめくこの季節に、大々的にもよほされますことは、まことに當代の盛大事、河童文化界の一大欣快事、かかる機會あればこそ、わたくしも諸君にまみえ、得意中の得意たる辯舌をもつて、諸君の稱讚をかち得ることのできますことは、喜びの第一であります。……どうも、諸君の眼は、冷いですな。どうして、そんな皮肉な眼で、わたくしを見なさる? 諸君の眼にはいやな光、輕侮のまなざしがある。……なるほど、わたくしは、本年までの大會におきまして、遺憾ながら、優勝したことはありません。それはないです。しかし、そんなことがなんですか。昨年は八等、一昨年は十一等、一昨々年は六等、一昨々々年は九等、一昨々々々年は二十二等、一昨々々々々年は四等、といふ具合に、わたくしは名譽ある榮冠をかち得たことは、たしかにただの一度もない。しかしながら、その理由は明瞭です。罪はわたくしの側にあつたのではありません。昨年までは、暗愚無能の審査員、眞の言葉をきく耳なく、眞の姿を見る眼なく、眞の偉大を理解する頭腦なく、そして、眞の眞實を語る口なき徒輩が、おこがましくも、審査にあたつて居りましたために、眞に價値あるものはかへりみられず、言語同斷の不公平の結果を將來したものであります。のみならず、審査の事前にあたりまして、眼や耳を掩ひ、唾したき醜陋(しゆうろう)のことが行はれて居りましたことは、はつきり申します。饗應、追從(つゐしよう)、懇願、そして贈賄(ぞうわい)が、こつそり審査員に對してなされましたことは、歷然たる事實でありまして、かくのごとくしては、いかで、神聖なるべき審査に、公平を期し得ませう。中正嚴烈の立場を堅持し、一に技(わざ)を辯口の練達に置き、いやしくも邪(よこしま)に組せぬわたくしが、その辯舌のならびなき優秀さにもかかはらず、審査員諸兄の鼻息をうかがはなかつたといふだけで、一等の榮冠を得ることのできなかつた理由は、ただに、以上の奇怪事にもとづいてゐるのであります。が、既往は問ひますまい。今囘は、その弊があらためられ、もつぱら技術の練能のみを審査基準として、公正の判定が下されますやうになりましたことは、喜びこれに過ぎるはありません。然るうへは、わたくしの眞價も、今囘はあやまりなく認められ、一等優勝の月桂冠をかち得ることを確信して疑はないところであります。理解ふかく達識ある聽衆たる紳士淑女諸君におかせられても、不屈の雄辯に、魅了されることは當然でありまして、擧(こぞ)つてわたくしに人氣投票して下さるものと、これまたふかく確信して居ります。

 さて、わたくしの演題は、ここにかかげてありますやうに、「煙草の害について」。昨年は、「女の害について」。一昨年は、「酒の害について」薀蓄(うんちく)をかたむけて、諸君に説きましたことは、なほ、御記憶に新なところであらうと存じます。しかるうへは、殘されたる煙草の害について語るは當然、三部作は世に流行するところであります。年來の河童の知己(ちき)たるあしへいさんも、土・花・麥といふ三部作を書いて居ります。酒と女と煙草、この三者の大害について、一大教訓を垂れますことは、わたくしの救世の宿願といつてもよろしく、すでに、酒と女とについて述べました以上は、今回、最後の煙草について、諸君にわたくしの卑見を開陳いたしますことは自然の順序、否、わたくしの義務、使命なのであります。ロシアのチエホフといふ作家が、嘗て、同問題について、一場の講演をしたことがありますが、わたくしのはさやうな陳腐退屈なものではありません。しばらく御靜聽を煩はしたく存じます。エヘン。

 わたくしは、最近、熱烈な戀愛をいたしました。いや、現在、なしつつある、つまり、その眞最中であります。……そのやうに、お笑ひ下きるな。わたくしとて、老いたりといへども、なほ、靑春の血は、五體の隅々にまでたぎつてゐる。わたくしは、この日ごろ、一女人のために、情熱のほむらをたぎらし、わたくしの一生の蓮命を、この戀に賭けて居るのであります。その女人こそは、鼻無、口無、臍無、耳無、眼無、五界にかけてたぐひも並びもなき麗人でありまして、東洋の詩人の言葉を借りますれば、沈魚落雁閉月羞花、實に、暗夜に現出した燦然(さんぜん)たる太陽、虹、その一顰(いつぴん)一笑によりまして、あたかも電燈の明滅するごとく、あたりの光も左右されるほどの、すばらしい婦人なのであります。……どうも、皆さん、よくお笑ひなさる。惚れた眼には、菊石(あばた)もゑくぼ、とおつしやるのですか。よろしい、それなら、それとして置きませう。どうぞ、野次(やじ)らずに聞いて下さい。いづれ、わたくしの言葉の眞實がわかるときが參ります。……ともかく、わたくしは戀をいたしました。いたして居ります。この戀愛の成就によつて、わたくしの生涯は精彩をはなち、幸福の基礎は定まる。わたくしは希望に燃え、胸高鳴らせて、わたくしの全力をこの戀愛に傾注いたしました。いたして居ります。わたくしの戀人たるその女人は、牡丹のやうな美しい皿に、水晶液のやうな水をたたへ、瑪瑙(めなう)の眼と、大理石の嘴と、綠玉の甲羅と、そして、螢石の手と、……もうわかつたとおつしやるのですか。どうも、さう、まぜかへされては、話ができませんな。戀人の自慢はもうたくさんだといふのですね。なに? 演題の煙草の害の話は、どうしたのかつて? どうも、せつかちですな。話には順序があります。起承轉結、布置結構、文章と同樣、演説にも、構成、スタイル、山あり、谷あり、ただ、のべつに、がさつに、工夫もなく、話したのでは、味も素氣もありません。拙劣といふものです。わたくしが、「煙草の害について」といふ演題をかかげながら、突如として、主題とは緣もゆかりもなきごとく見ゆるわたくしの戀愛について語りだしましたのも、まつたく、わたくしの練達習熟せる小説的技法にもとづいて居つたのであります。居るのであります。つまり、わたくしの戀愛そのものが、實に、煙草に、煙草の害に直結して居るわけでありまして、わたくしの戀愛を語ることなくしては、絶對に主題たる煙草の害について語ることはできない。春秋の筆法を借りるまでもなく、實に、わたくしをして煙草の害を説かしむるものは、説かざるを得ざらしめたものは、わたくしの戀愛、わたくしの愛人、その女人なのであります。おわかり下さいましたでせうか。お靜まりになつたところを見ると、御理解下さつたものと信じます。感謝いたします。では、話を進めませう。

 前述しましたとほり、わたくしは全身の血をたぎらせて、戀に沒頭いたしましたが、幸のことに、その女人も、わたくしの氣持を汲み、受け入れてくれました。くれたらしく、見えました。わたくしはドン・ファンではありません。ウエルテルです。女から女へ蜜蜂が花を漁り、花を變へ、今日は椿に、明日は百合にと、飛びまはるやうな浮氣心はわたくしには微塵もありません。わたくしはかの悲しきウエルテルのごとく、これと定めた戀人ただ一人に、すべてを捧げつくし、死をもいとはぬ誠實の徒なのであります。なるほど、わたくしは、醜男です、お笑ひ下さつてもよろしい。この頭の皿は、前述しましたやうに、大詩人ゲーテに匹敵する才能と夢とを藏してゐるとはいへ、たしかに、ちよつと不恰好です。頭百間といはれて笑はれても仕方がない。ことに、知識とか、才幹とか、人格とかいふやうなものはどうでもよく、ただ、のつペりとした顏形、通常色男と稱せられてゐるやうな男子に、關心を集中する婦人にとつては、わたくしのごときは、對象たる資格はありますまい。しかしながら、河童の眞實は、さやうな、單なる外形上の皮膚や骨格のなかにあるのではない。肉體ではない。精神です。肉體にだけ河童の價値を見るのは、精神の近視眼、色盲、實に、かのミーチャンハーチャン的輕薄の思想にほかなりません。したがつて、眞に精神美を理解し、人格に關心を有する女性は、わたくしのごとき、才幹豐かにして、哲學的な男性に、眞の價値を見いだすものです。わたくしの思ひをかけました女人が、この醜男たるわたくしの氣持を汲んでくれたといふのも、彼女がさういふ良識深き女性であつたからでありませう。わたくしの求愛にこたへてくれた、くれたかに見えた彼女へ、わたくしは深く感謝し、淚をもよほさんばかりの歡びをおぼえました。わたくしの人生は、この戀の成就によつて輝き、才能と力とはいよいよ發揮され、なにごとも今や不可能なることなしとさへ、わたくしは希望に燃えました。

 ああ、わたくしは、このことを語るのが、苦痛なのであります。かくも、歡びと希望とに燃えたわたくしの戀が、いかに無殘なる形で、今日(こんにち)、放置されてゐるか。胸が苦しくなります。頭が疼きます。失禮お許し下さい。悲しくなりました。ちよつと淚を拭かきせていただきます。……わたくしは、實に、今、嘗て經驗せぬ最大の勇氣をふるつて、告白して居るのであります。告白と懺悔(ざんげ)とには、非常な苦痛と勇氣を要します。かのジャン・ジャック・ルソオが懺悔錄を書いたとき、彼は萬人の前に血をはく思ひをもつて、すべての眞實を叶露したのだと申しましたが、あの悲壯な書物のなかにも、なほ、隱されてゐる眞實、否、明瞭に虛僞があるといふではありませんか。しかし、わたくしは、なにも隱しません。すべてをここに告白いたします。わたくしが全靈をゆすぶる苦痛をもつて語りますことを、皆さんも眞劍にお聞き下さいますよう。

 かの女人は、わたくしの求愛にこたへ、誘はれるままに、一日、鼻無沼の靑草萠える土堤に出ました。五月の太陽は、わたくしたちの戀愛を祝福するかのごとく、さんさんとあたたかい光をそそぎかけます。わたくしは美しい彼女の姿がまぶしく、さうです、實に、彼女は、沈魚落雁閉月羞花、虹、色硝子、プリズム、太陽の光線をはねかへして、わたくしの眼をくらませるのです。わたくしは滿足と幸福とで、有頂天でした。

  わたくしたちは、ならんで、草のうへに腰を下しました。今や、わたくしは諸君のまへに、かの、ラヴ・シーンといふものを展開しようとしてゐるのであります。しかしながら、それがのろけでも自慢でもないことは、諸君のよく賢察されることでありませう。これこそは、わたくしの破綻(はたん)の、悲しき除幕式であつたのであります。とはいへ、なほ、その破滅までの數分はわたくしたちにとつて、えもいへぬ甘美と陶醉の悦樂境でした。心臟の高鳴りを押へ、つとめて平靜を裝つてゐましたけれども、わたくしは若干の聲のふるへを如何ともすることができませんでした。彼女の方はいかがだつたでせうか。それはわたくしの知るところではない。いたづらに高貴な女人の心境を忖度(そんたく)することは、失禮にあたりますので、わたくしは遠慮いたしますけれども、彼女とて、その妙(たへ)なる胸の琴線になにか觸るるものを感じて居つたのではないでせうか。心の窓たる眼は一切の祕密を語る。わたくしはうぬぼれませぬけれども、それどころか、自己の醜さを知つてゐるわたくしは、女人の前でいかなる場合でも謙虛、といふより、臆病、おどおど、ひやひや、ほとんど萎縮してゐるのが常でありましたけれど、そのときは、わたくしは、明瞭に、彼女のわたくしに對する好意を、その二つの涼しい瑪瑙の眼のなかに感じとりました。感じとつたと信じました。さすれば、もはや相思、心通ひあふ戀人同志、この五月の土堤のあひびき、ラヴ・シーンは完璧で、この幸福と前途に、なんの暗い影もあるわけではなかつたのです。にもかかはらず、この事痛が無殘にも崩れたのは?

 あれです! ああ、あれです! 實に、煙草です! 煙草、聞くだに恐しい言葉!

 幸福感に、痴呆のごとく醉ひ痴(し)れてゐましたわたくしは、瞬間、はつと凝結して、息をのんでしまひました。驚愕と、失望と、悲しみと、怒りと、さまざまの感情が、坩堝(るつぼ)に、いちどきに、千種類の金屬を投げこんだやうに、こんぐらかり、煮えかへり、騷ぎはじめました。わたくしは阿呆のごとくひらいた眼を女人の動作に釘づけにして、もう膝頭がふるへ、背の甲羅のつぎ目がぎしぎしと鳴り軋(きし)むのをおぼえました。

 煙草です。彼女が煙草を吸ひはじめたのです。蓮葉の小筥から、金口のシガレットをとりだした彼女は、いかにも馴れた手つきで、ライターの火を點じ、あの大理石の嘴にもつてゆくと、いかにもおいしさうに、くゆらしはじめました。彼女がその行動をもつとも通常のことと考へ、わたくしの思惑などをいささかも氣にかけてゐないことは、その安らかな自然の行動で明瞭でした。それは、さうでせう。煙草をのむことが、惡事でも、破廉恥でもなく、今やひとつのエチケットにさへなつてゐるものとすれば、彼女がそのことを、なんのわたくしの前に遠慮したり、恥ぢたりするわけがありませう。道德も、倫理も、法則すらも、強力な習慣の作用にもとづいてゐることは、歷史が證明してゐます。常人の法則は、その萬人の最大多數の認識によつて肯定される。さういふ法則には、一切、羞恥はともなはない。されば、彼女が悠々とわたくしの前で煙草をのみはじめたことは、自然の理で、なんら咎むべきところはないのでありました。

 然らば、その彼女のなにげない行爲に對して、わたくしが何故にそのやうに驚愕し、混亂したか? それは實に、わたくしの生理的本能、あのどうにもかうにもやりきれぬ、煙草嫌ひといふ氣質にもとづいてゐるのです。これは、もはや、道德でも、理論でもない。無論、法則でもない。仕樣のないわたくしの天性、生來の潔癖、宿命ですらあるのです。

 わたくしは他人の趣味、嗜好に對して、誹謗を加へたり、排擊はしない。それは、自由です。しかし、わたくしは萬人の最大多數が煙草をたしなみ、その醍醐味を説き、紫煙の幻術、エクスタシイ、そして、その偉大なる價値を説かうとも、わたくし自身は、頑として、その宣傳に乘らぬ、誑(たぶら)かされぬ。そして、あの、いやなニコチンの匂ひ、毒に染まぬと決心してゐました。わたくしは煙草のみを輕蔑しはしませんが、これを賞揚する氣のないのは勿論、煙草のみの客がきて、あの無遠慮無感覺に、煙草の灰を散らす、これまでのんでゐたコーヒーの皿にでも、食べてゐた茄子や胡瓜の椀にでも、灰を落す、あの無神經、その不快さに辟易することは、一再ではありません。男子はまだよい。婦人が煙草を吸ふ姿を見ると、誇張ではなく、慄然と身ぶるひがしてくる思ひなのです。好意をよせてゐた女人が、煙草をのむと知つて、たちまち嫌ひになる、その經驗はたぴたびなのでした。宿命となれば、致しかたありません。かくしてわたくしは恐しい煙草から遠ざかり、今日まで、一度も、手に取つたことすらなかつたのです。[やぶちゃん字注:「煙草の灰を散らす」底本では「煙草の灰を敢らす」であるが、読めないので、誤植と断じて、特異的にかく訂した。]

 なんといふ皮肉でせうか。さういふ天性の煙草嫌ひ、ほとんど煙草恐怖症といつてもよいわたくしが、全精神と全生活とを賭けて惚れました女人が、なんとしたことか、またしても、煙草のみ、煙草好きであらうとは! わたくしが、五月の土堤で心地よげに煙草をのみだした戀人の姿に、愕然とし、失望し、悲しみ、そして、絶望的な氣特になつて行つたことは、諸君の充分に明察されるところであらうと信じます。

 わたくしは苦しみ、迷ひました。わたくしのその女人に對する思慕の情は、これまで經驗したやうな淺薄のものではなく、いかなる困難、迫害があらうとも、かならず突破して、成就しなければならぬといふ鞏固(きようこ)な勇氣をわたくしの身内にふるひおこし、ほとんどわたくしを英雄的興奮に追ひあげてゐたほどのものであつたのです。親が反對するか、周圍が反對するか、或ひは彼女へ思ひをかける戀敵(ライバル)が、わたくしへ決鬪を申しこむか、火でも、矢でも、嵐でも、來らば來れと、決意してゐたのでした。ところが、それが、なんと! あらはれた敵といふのが、煙草であらうとは!

 ああ、戀か? 煙草か? わたくしの戀人が煙草のみであるといふことは、到底わたくしの耐へ得るところではない。然らば、彼女を思ひ切るか。ああ、それができるくらゐなら、なんでこれほど苦しみませう? わたくしは混亂し、悶え、天を仰いで、慟哭(どうこく)しました。彼女が煙草をやめてくれれば、これに越したことはないのでありますけれども、彼女の煙草を吸ふ樣子といふものは、彼女の煙草への愛好がいかに深いかといふことを、如實に語つてゐます。彼女はわたくしに、一本いかがといつて、小筥のケースをさしだしました。わたくしが、のまないと申しますと、ちよつと怪訝(けげん)な顏はしましたが、そんなにわたくしが、極端な煙草嫌ひ、煙草恐怖症といふことを、もとから知るわけはありませんから、默つてケースをしまふと、なほも、煙草をくゆらし、さもおいしげに、心地よげに、空にむかつて、紫色の輪を吹くのでした。それが五月の風にたなびいて、消えてゆく。見た目にはきれいなのですが、わたくしの方は、そのにほひのいやらしさに、悶絶せんばかりでしつかりと鼻をふさいでゐるのでした。わたくしが彼女を失ひたくなければ、この煙草への嫌惡を我慢するほかはない。この忍耐と克己がはたして可能か。わたくしの宿命を變へ得るか。いかなる暴力的な施療をもつてすれば、この變貌を遂げ得るか。わたくしに自信も意見もあらうわけはなく、戀か? 煙草か? 不可能を可能にし得ぬ弱少の資質に、ほとんど泣きたいばかりでありました。

 彼女とて、かういふわたくしをも愛し、この戀愛を遂げんとすれば、煙草をやめなければ、あの、黑白一致の完全な合體はできない。戀か? 煙草か? とりもなほさず、それは彼女自身の悲痛な課題でもあつたでありませう。

 紳士淑女諸君、

 かくのごとく、煙草の害たるや、恐るべきものであります。わたくしは觀念しました。今さら、わたくしが最大の鬼門であり、なにより、先天的習性による宿敵といつてよい煙草へ屈服することは、いかにしてもできない。何度でもいひます。わたくしは煙草は嫌ひです。どうしても好きになれません。煙のにほひを嗅ぐと、卒倒しさうになります。これまで一度も、手にしたことすらありませんが、もし、手にしたら、その瞬間に、わたくしは癲癇(てんかん)的發作をおこすかも知れません。煙草はわたくしの敵です。そして、煙草は、……おや! 皆さん、これは、なんとしたこと! 皆さんは、わたくしをなぶるつもりですか。人が惡いにもほどがある。誰もかれもが、煙草をのみはじめた。五六人かと思つたら、七人、十人、二十人、四十人、百人、……ああ、みんなだ。全部の方が、煙草を吸ひだした。煙がもうもうと場内を埋める。わたくしの方へくる。たまらない。いやなにほひだ。皆さんは、わたくしを燻(いぶ)し殺すつもりですか。ああ、やめて下さい! やめて下さい!

 おや、わたくしの眼のあやまりではないか? 全部が煙草を吸つてゐるのに、たつた一人、吸はない人がある。あの人だ! あなただ! あなたが、今夜の辯論大會にきてゐることをはじめから、僕は知つてゐたんです。僕は、あなたのことを念頭において、はじめから喋舌(しやべ)つてゐたんです。いや、あなた一人に向かつて、話、いや、僕の告白、願望を述べてゐたんだ。ああ、あなたは煙草を吸つてゐない。あんなに、好きだつた煙草を。戀か? 煙草か? あなたの考へはきまつたんですか?

 滿堂の紳士淑女諸君、

 諸君は意地わるく、わたくしを嘲弄しようとなさる。わたしを煙攻めにする。わたくしを癲癇で卒倒させようといふ魂膽にちがひない。たしかにわたくしは眼が舞ひさうだ。氣が狂ひさうだ。しかしながら、わたくしは諸君に負けたのではない。勝利者はわたくしです。わたくしが勝つたのだ。わたくしの戀人がわたくしをうけ入れたのだ。……皆さん、その中央の座席にゐる女人、さつきから、わたくしが縷(る)々として述べたすばらしき美人、それこそ、彼女です。ああ、煙草の海のなかで、たつた一人、煙草を吸はずにゐる。すてきだ! 僕は勝つた!……おや、あなたはどなた? 演説の最中に、演壇に土足であがるとは、なにごとです? なに、警察官? 警官が、小生になんの用があるのです? 用があるなら、あとで承ります。いまは、大切な辯論の最中だ。小生の一生の輝ける瞬間です。殺風景な警官の闖入(ちんにふ)で、妨げられたくはありません。小生の辯論に忌諱(きゐ)にふれる個所はない筈です。檢閲にひつかかるやうなことは、なにひとついつてゐないぢやありませんか。……なに? 全然、別の用だつて? なんです、それは? 逮捕状! 小生を逮捕するのですか? 冗談ぢやないですよ。僕はそんなことはなにもしてゐないよ。……えつ? 僕がヤミ煙草を製造した? ここで皆が吸つてゐる煙草は、全部、僕の祕密工場から出たものだつて? やめて下さい。冤罪(ゑんざい)を着せるにも、ほどがある。さつきからの僕の辯説を聞かなかつたんですか。僕は生來煙草嫌ひ、煙は勿論、煙草を手にとつただけでも卒倒する。そんな僕が、なんで、煙草なんか作るもんですか。とんでもない濡衣です。……あつ! それは!……うむ、……そんな證據があがつてゐるのか。……さうか。……そんなに引つぱらなくてもよろしい。もうかうなつたら、惡びれはしません。行きます。待つて下さい。一服してから行きます。……どうです、あなたがたも一服されたら? これ、最上等の葉卷ですよ。

 

[やぶちゃん後注:正直、惨めな恐妻家を痙攣的に露呈してゆく原話に比すと、格落ちは否めず、落ちもイマイチである。演じて見たい気はあまりしない。]

 

950000アクセス突破

ここのところ、ブログ・アクセスが特異的に増え(一日400や700を越える日もある)、今日に日付けが変わった前後に950000アクセスを越えてしまった。二十四日ほどで10000アクセスは特異点だ。
ページ別アクセス集計を見ると、個別では梶井基次郎の「檸檬」の授業ノートが一番で、「枕中記」が三番手であるから、高校生或いは予備校生又は大学生のアクセスが相変わらず多いのであろうと思うのだが、今回は一日、「山之口貘」の全詩を閲覧(保存)しに来られた方があったらしく、ランキング二番にカテゴリ「山之口貘」が挙がっていた。
後は「履歴書」絡みからか「南方熊楠」、そして「小泉八雲」のカテゴリ閲覧が非常に多い。
あるテクスト注が途中なのであるが、ペンディングして、これより記念テクスト作製にとりかかることとする。

2017/05/25

南方熊楠 履歴書(その38) 山本達雄の我を覚えざること

 

 咄(はなし)もここまでくれば末なり。よって珍妙なことを申し上げ候。大正十一年春東京にありしとき、四月十二日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地三万坪をもち一坪いくらと売りし人)二氏に伴われ、山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)を訪(おとな)いし。明治三十年ごろ、この人正金銀行の今西豊氏と英国に来たり(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生今西氏とサンフランシスコにて知人たりしゆえ、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並び坐して食事を供せられしことあり。その時山本氏問いに、西洋の婦女は日本のと味が同じかとは、よく好きな人と覚えたり。さて山本氏は小生を知らぬ由をいう。この人小生の研究所の発起人なるに知らずというを小生は面白く思わず、渡英されしときのことどもをいろいろ咄せしに、ようやく臆い出したらしかりしが、なお貴公がそんなに勉学しおるものなら農相たる予が多少聞き知るはずなるに、一向聞き知りしことなきは不思議なという。

[やぶちゃん注:「大正十一年春東京にありしとき」既に述べた通り、南方植物研究所資金募集のための大正三月から八月に上京、奔走した折りのことを指す。これも注したが、実際には七月十七日から八月七日までは日光に採集旅行に出かけている。

「中村啓次郎」既出既注

「堂野前種松」(明治二(一八六九)年〜昭和三〇(一九五五)年)骨董集主家として知られたこと、それらについての幾つかの著述があることぐらいしか判らなかった。識者の御教授を乞う。

「山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)」山本達雄(安政三(一八五六)年~昭和二二(一九四七)年)は銀行家で政治家。男爵ウィキの「山本達雄によれば、『日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した』。『豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれ』、十七歳で『大阪に出』、三年間、『小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため』、『慶應義塾で学んだ期間は短かった』。そこで、『当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した』。『卒業後、岡山の県立商法講習所の教頭になったが、政治の批判会などを開催し』て『問題を起こし、大阪商業講習所の教頭に転任せざるをえなくなり、そこで教頭として』一年勤めたものの、『ここでも問題を起こし、三菱商業学校を卒業した関係から』、明治一六(一八八三)年に『郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った』。そこで実業家川田小一郎に『才能を認められて幹部候補生となって各地の支店の副支配人を歴任』、明治二三(一八九〇)年に『当時総裁であった川田の要請によって』『日本銀行に入行』五年後の明治二十八年には、『川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた』。更に翌明治二九(一八九六)年四月には『金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された』。ところが、明治三一(一八九八)年十月に『日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如』、『日本に呼び戻され』、第五代日本銀行『総裁に任じられ』る(下線やぶちゃん)。実に入行から僅か八年、山本は満四十三歳であった。南方熊楠のロンドン滞在は一八九二年から一九〇〇年である。『日本銀行総裁退任後の』明治三六(一九〇三)年に『貴族院で勅撰議員となり』、明治四二(一九〇九)年には日本勧業銀行総裁に就任している。その二年後の明治四十四年、その年に成立した第二次西園寺内閣に於いて、『西園寺公望総理に乞われて、財界からの初の大蔵大臣として入閣したことであった。健全財政主義を奉じて日露戦争後の財政立て直しを持論としていた山本は当時の軍部による軍拡に批判的であり、二個師団増設問題を巡って陸軍と衝突して内閣総辞職の原因を作った。だが、以後の山本は西園寺の立憲政友会との関係を強め、大正政変後の』第一次山本(海軍大将山本権兵衛)内閣では『政友会の推挙で農商務大臣に就任して、山本の』二『代後の日本銀行総裁であった高橋是清大蔵大臣とともに財政再建にあたるが』、シーメンス事件(ドイツの当時、軍需関連企業であった「シーメンス」社による日本海軍高官への贈賄事件。大正三(一九一四)年一月に発覚して同年三月に山本内閣は総辞職に追い込まれた)によって『志半ばで挫折する。この農商務大臣在任中に正式に政友会に入党した。政友会による本格的な政党内閣である原内閣においても再度』、農商務大臣を務めている。大正十一年当時は原の暗殺によって、後継となった高橋是清内閣(大正一〇(一九二一)年十一月十三日から大正一一(一九二二)年六月十二日)まで農商務大臣を続けていたから、まさに彼の「農相」最後の折りであったものと思われる。この熊楠との再会当時、山本は満六十六である(熊楠より十一年上)。熊楠は『このボケ・エロ爺いが!』と思ったことであろう。なお、その後、斎藤内閣で内務大臣を勤めている。

「明治三十年」一八九七年。上記の通り、二人の事蹟とも一致する。

「正金銀行の今西豊」不詳であるが、横浜正金銀行の取締役であった山本が、金本位制実施のための準備のため、日銀総裁からロンドンに派遣されていることから、彼と同道というのは腑に落ちる。

「当時山本氏は日本銀行総裁」「日本銀行理事」の誤り。前注参照。

 以下、二段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 かかることは、欧米の挨拶にはよほど人を怒らすを好む人にあらざればいわぬことに候。小生の旧知にて小生キュバ島へ行きし不在中に、小生が預けおいた書籍を質に入れた小手川豊次郎というせむしありし。日本へ帰りてちょっと法螺(ほら)を吹きしが死におわれり。この者都築馨六男と電車に同乗中、君の郷里はどこかと問われて、おれの生れ場所を知らぬ者があるかといいしに、都築男聒(かつ)となりて汝ごとき奴の郷里を知るはずなしといいしを、板垣伯仲裁せしことあり、と新紙で見たことあり。小手川の言は無論として、都築男も品位に不相応な言を吐かれたものと思う。

[やぶちゃん注:「小生キュバ島へ行きし不在中」一八九一年(明治二十四)年九月から翌年の一月まで。

「小手川豊次郎」事蹟不詳ながら、多くの著作があり、内容から見て経済学者らしい。

「せむし」吉井庵千暦著「名士の笑譚」(明三三(一九〇〇)年刊)「小手川豐次郎後藤に殴打る」という話が載り(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読める)、これは同一人物を思われ、そこでは彼に「ドクトル」が冠せられており、「短軀」「丈纔かに三尺背骨高く聳え胸また出づ」とあるので、小手川は佝僂(くる)病或いは脊椎や腰椎の先天性奇形であったのかも知れぬ。

「都築馨六」筑馨六(つづきけいろく 万延二(一八六一)年~大正一二(一九二三)年)は外交官・政治家。男爵。ウィキの「筑馨六」によれば、貴族院議員・枢密顧問官・法学博士で男爵。「都築」と表記される場合もあるとある。『高崎藩名主・藤井安治の二男として生まれ、西条藩士・都筑侗忠の養子となる。築地大学校、東京開成学校を経て』、明治一四(一八八一)年七月に東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業、翌年『ドイツに留学し』、『ベルリン大学で政治学を学んだ』。明治一九(一八八六)年に帰国して『外務省に入り、公使館書記官兼外務省参事官に就任。外務大臣秘書官』となったが、明治二一(一八八八)年には今度は『フランスに留学』二年後に帰国すると、『内閣総理大臣秘書官とな』り、『以後、法制局参事官、兼内閣総理大臣秘書官、内務省土木局長、兼内閣総理大臣秘書官、図書頭、文部次官、外務省参事官、外務次官などを歴任』、その後、貴族院勅選議員・枢密院書記官長に就任、明治四〇(一九〇七)年四月には『特命全権大使に任じられ』てオランダの『ハーグで開催された』第二回『万国平和会議に委員として派遣され、ハーグ密使事件』(大韓帝国が会議に密使を送って自国の外交権回復を訴えようとしたが国際社会の列強から会議への参加を拒絶されて目的を達成することができなかった事件)『の対応に当っている』。

「板垣伯」板垣退助(天保八(一八三七)年~大正八(一九一九)年)。]

 

関ケ原の戦争に西軍あまり多勢なので東軍意気揚がらず、その時坂崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老たりしが、主を怨(うら)むことありて家康に付きし者、この軍ののち石見国浜田一万石に封ぜられしが、大阪の城落つるとき、秀頼の妻をとり出したらその者の妻にやると聞き、取り出せしに秀頼の後家本多忠刻にほれその妻となる。出羽守怒ってこれを奪わんとし、兵を構えんとするを家臣に弑(しい)せらる。故福地源一郎氏はこのこと虚談といいしが、小生コックスの『平戸日記』を見るに、コックス当時江戸にあり、このことを記したれば実事なり)進み出で、西軍などおそるるに足らず、某(それがし)一人あれば勝軍(かちいくさ)受合いなりと言いしを家康賞美する。出羽守出でてのち小姓ども大いにその大言を笑いしに、家康、かようの際に一人なりとも味方のために気を吐く者あらば味方の勇気が増すものなり、その者の言葉を笑うべきにあらず、と叱りしという。咄の始終も履歴も聞かぬうちに、われは汝にあいし覚えなしなどいわれたら、その者の心はたちまちその人を離るるものなり。スペインのアルフォンソ何世たりしか、華族にあえば知らぬ顔して過ぎ、知らぬ百姓に逢うても必ず色代(しきだい)せしより、百姓ども王に加担して強梁せる華族をことごとくおさえ、王位を安きに置きたり、と承りしことあり。

[やぶちゃん注:「坂崎出羽守」坂崎直盛=宇喜多詮家(うきたあきいえ 永禄六(一五六三)年?~元和二(一六一六)年)。ウィキの「坂崎直盛」によれば、『備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣・宇喜多忠家の長男』で、『従弟の宇喜多秀家に仕えた』『が、折り合いが悪かった。そのため』、慶長五(一六〇〇)年一月に『宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君・秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後その功績により石見浜田』二『万石を与えられ、後に同国津和野に』三万石『を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降』、『坂崎直盛と名乗るようになった』。元和元(一六一五)年の『大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した。この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、これが千姫事件と呼ばれる』。『この千姫事件については、直盛が千姫を再嫁させることを条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説』、『家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説』など『がある。また直盛が千姫を救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく、千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、とする説』なども『あり、この他、直盛が千姫を救出したにも関わらず火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたという説もある』という(但し、以上の千姫事件の仮説については、リンク先では要出典要請がかけられてある)。『また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに』、突如、『姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された』 とする説もあるという。『いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが。この計画は幕府に露見していた。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説』、『立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠』(二蓋笠(にがいがさ))『は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている』。『一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックス』(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)は、ステュアート朝イングランド(イギリス)の貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks)「イギリス商館長日記」 一六一五年から一六二二年まで)はイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級史料)『の日記によれば』、元和二年九月十一日(グレゴリオ暦一六一六年十月十日)の『夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり』。『とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)』。『関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主・小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後』、その十三回忌に、『義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)』とある。

「従弟兼家老」「従弟(いとこ)、兼(けん)、家老」。

「福地源一郎」作家・劇作家で衆議院議員にもなった福地桜痴(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)の本名。

「スペインのアルフォンソ何世たりしか」不詳。民衆に絶大な人気があったという点では何となく思い当たる人物もないではないが、世界史は私の守備範囲でないので、不詳としておく。識者の御教授を乞う。

「色代(しきだい)」会釈。

「強梁」勢力強くのさばること。

 ここまでが底本では二字下げ。]

毛利梅園「梅園魚品圖正」  章魚


Madako

海魚類

 「本草」曰

章魚【タコ】 章擧(キヨ)【韓文】

「臨海志」

𠑃(キツ)【タコ】

 

 

癸巳(みづのとみ)十月十二日

眞寫

 

 

「和名鈔」

 海蛸子(かいしやうし)【和名太古(たこ)】

 今按(あんずる)に、蛸、正に鮹に作る。

 俗にの字を用ふ。出づる所、詳らかならず。

 「本草」に云はく、『海蛸子は

 貌(すがた)、人の裸(はたか)なるに似て圓

 頭なる者なり。長さ、丈余なる

 者、之を海肌子と謂ふ』。

 

 

章魚(たこ)に大章魚(をほだこ)

---魚(くもだこ) 意志距(あしながたこ)

井々八梢魚(いゝだこ)等あり。

但馬の大梢魚甚(はなはだ)大也。

人馬及(および)獸(けもの)を食ふと云(いふ)。

丹波・熱海(つまつ)の章魚

又大也。蟒(うはばみ)を取りし

説あり。畧(ほぼ)之(これ)、盲説

矣ならん。

 

[やぶちゃん注:最初に注した通り、「梅園魚譜」は本来は「梅園魚品圖正」二帖と併せて三帖一組で描かれたものであったのが、後に分割されてしまったものである。従って、ここに「梅園魚品圖正」のものを載せることは私の確信犯である。掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の保護期間満了画像の当該頁(周囲をトリミングした)と、私が視認して活字に起こしたキャプション(右上から右下、左上から中央下)。割注は【 】で示し、書名は「 」で囲った。本種は

軟体動物門 Mollusca 頭足綱 Cephalopoda 八腕形上目 Octopodiformes 八腕(タコ)目 Octopoda マダコ亜目 Incirrina マダコ科 Octopodidae マダコ亜科 Octopodinae マダコ属 Octopus マダコ亜属 Octopus マダコ Octopus vulgaris

と同定してよかろう。吸盤の描き方が上手いが、各吸盤内の襞のそれは今一つである。

「本草」通常は李時珍「本草綱目」を指すが、同書にこのような記載を見出せない。これは内容を比較したところ、後に出る引用が本邦の「本草和名」(ほんぞうわみょう)と一致した。ウィキの「本草和名」によれば、本書は醍醐天皇に侍医・権医博士深根輔仁の撰になる日本現存最古の本草書(薬物辞典)で、延喜年間(九〇一年~九二三年)に編纂された。唐の「新修本草」を範に取り、その他、『漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準より比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名をことごとく記載しておりかつ来歴も明らかで、本拠地である中国にも無いいわゆる逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で、また中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である。また、丹波康頼の『医心方』にも引用されるなど後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。『その後、長く不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二巻全十八編から成る『古写本を発見して再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が』寛政八(一七九六)年に校訂を行って刊行された版本があり、本草学者がよく引いている。

𠑃」は漢語で「タコ」の義。

「癸巳十月十二日」本書は天保六年完成であるから、天保四年癸巳でグレゴリオ暦一八三三年十一月二十三日に当たる。

」は「魪」と同義で「鰈」(かれい:脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 魚上綱 Pisciformes 硬骨魚綱 Osteichthyes カレイ目 Pleuronectiformes カレイ科 Pleuronectidae)を指すので誤用。

「長さ、丈余なる者、之を海肌子と謂ふ」細かいことを言うと、「大和和名」では「海蛸子」ではなく、「海蛸」で割注で「所交支貌似人躶而圓頭」と解説し、その下に「海肌子」を掲げて割注で「長丈餘名海肌子 長尺餘名海蛸子」と載せるので、この梅園は下方のそれを引き上げて名称としていることが判る。以下、「髑妾子【江東名之】小鮹魚【頭脚并長一尺許者出崔禹】和名多古」と続いている(因みに「崔禹」というのは唐代に書かれたと目されている「崔禹錫食経」という現在は失われた本草書の名である)。

「大章魚(をほだこ)」本邦どころか、世界最大種のタコである、マダコ科ミズダコ属 Enteroctopus ミズダコEnteroctopus doflein としてよかろう。別名をマジで「おおだこ」と称する。

「小---魚(くもだこ)」四字で「クモダコ」とルビしている(そのために熟語記号を附しているものと思われる)。マダコ属クモダコ Octopus longispadiceus を挙げておくが、或いは後掲するイイダコの異名である可能性も高い。

「意志距(あしながたこ)」マダコ属テナガダコ Octopus minor であろう。福岡県柳川市では同種をアシナガダコと現在も呼称している。

「井々八梢魚(いゝだこ)」これは浅海に棲息する小型の蛸、沿岸域では古代から食用としてされてきた馴染みの、マダコ属イイダコ Octopus ocellatus のことと考えてよかろう。

「但馬」現在の兵庫県北部で、現在の豊岡市と美方郡(みかたぐん)新温泉町(ちょう)の日本海沿岸域となる。

「人馬及獸を食ふと云」意外なことに、非常に信じられた伝承である。私の「谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ」「想山著聞奇集 卷の參 七足の蛸、死人を掘取事」をご覧あれ。しかしなんと言っても、最高傑作は蛸馬の死闘と驚天動地の大爆笑の顛末を迎える「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」にとどめを刺す。

「丹波・熱海(つまつ)」不詳。「つまつ」(「あつまつ」か?)の読みも不審。識者の御教授を乞うものであるが、そもそも「丹波」は陸内国(現在の京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部相当)で海と接していないし、「丹波熱海」という地名も確認出来ない。すこぶる不審。「蟒」を取り喰らうんだからそこまで来るんだと言われりゃ、黙るしかないが。ともかくもこれは、全国的に見られる蛇が蛸に化生するという伝承の逆転伝承ではなかろうか? 私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」を参照されたい。

「盲説」「妄説」の誤字。差別的で厭な感じだ。]

 

Ars longa vita brevis.

21日からのここまでの16タイトルが今私の目の前のデスク・トップに出してある作業中電子テクスト注群。他に「博物学」フォルダになかなか進まぬ江戸時代の本草関連書8タイトルがある。全く以って――Ars longa vita brevis.――ですね、「先生」……


 

Kokoro1



2017/05/24

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅳ) 常樂寺

 

○常樂寺 粟船山と號す、臨濟宗【鎌倉建長寺末】北條泰時が開基の道場にして〔村民所藏、永正十二年、建長寺西來菴修造勸進狀に、常樂檀那武藏守權大夫泰時云々、〕【東鑑】に粟船御堂とある是なり〔【東鑑】の文下に引用す。又同書に、嘉禎三年十二月十三日、右京兆泰時爲室家母尼追福於彼山内墳墓之傍、被建一梵宇、今日有供養儀云々と見えたるもの、其舊跡今別に存せされば、恐らくは當寺なるべく覺ゆ、但し當寺創建の年代を傳へず、又泰時が母尼、室家等の墳墓の事も、こゝに傳へもしなければ推考もて決し難し、〕仁治三年六月十五日泰時卒してこゝに葬す〔後に墳墓山あり。〕寛元々年六月信濃法印道禪を導師とし、奉時が小祥の佛事を修す〔【東鑑】曰、六月十五日、故武州禪室周闋御佛事、於山内粟船御堂、被修之、北條左親衛幷武衞參給、遠江入道前右馬權頭、武藏守、以下人々群集、曼茶羅供之儀也、大阿闍梨信濃法印道禪讃衆十二口、此供幽儀御在生之時、殊抽信心云々、〕同四年宋の蘭溪本朝に歸化し鎌倉に下向して龜谷山壽福寺に寓せしを、北條時賴建てこゝに居しめ、軍務の暇屢訪ひ來たりて禪道を學べり、〔【元亨釋書】道隆傳曰、以淳祐六年、乘商船、着宰府、本朝寛元四年丙午也、乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽、時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺、軍務之暇、命駕問道、〕隆こゝに任する事七年〔按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど、今此等の事寺家に傳へなし、又隆を開山と稱する事は、其始當寺は全き一宇の寺院たらず、泰時が持佛堂の如くなり、故に定まりたる、常住の僧はなかりしなり、されば【東鑑】にも、粟船御堂と記して、寺號を云はず、釋書に、時賴、隆を延て、常樂寺に居らしむと書せしは、全く追記の文にて、當時寺號を唱へし證とはし難し、泰時が歿後、時賴香花誦經等廢絶なからしめんが爲、隆を延てこゝに居らしめしと覺ゆれば、隆をもて住僧の始めと云ふべし、さては後傳へて、開山祖と思ひまがへるも理なきにあらず、志に云所は、全く梵僊が榜文に據て、ふと思ひ違へし訛なり、彼は福山の開山と云へるなり、榜文下に註記せり、合考して了解すべし、又按ずるに、當寺撞鐘、寶治二年の銘文に、初て寺號を見るに據れば隆が住するに及て一宇の寺院となし、寺號を唱ふる事も、こゝに草創せしなるべし、〕建長四年時賴建長寺を創する後、隆、福山に入て開山祖となる、五年六月故泰時が十三周の忌辰に値り、當寺にて追福の供養あり、又信濃僧正道禪を請て導師とす〔事は【東鑑】に見えたり、泰時墳墓の條に引用す、〕後建長寺の末となり、其寺領のうちを配當あり、されど當寺は彼開祖隆が出身の地なる故建長寺根本と稱せり、此頃の事が隆定規一篇を送り、凡て福山の法則に據るべき旨を寺僧に示す〔全文は寺寶の條に註記す、〕近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり。

[やぶちゃん注:「永正十二年」ユリウス暦一五一五年。足利幕府第十代将軍足利義稙(よしたね)の治世(明応の政変による逃亡からの帰還後)。

「嘉禎三年」一二三七年。今までもそうだが、細かいことを言い出すときりがないので、特に指摘しないが、「吾妻鏡」の引用は完全なものではなく、省略(時には誤植かと思われるもの)があるので注意が必要である(「吾妻鏡」については読み難い部分は極力、私のオリジナルな注を附してあるが、それでも読めないという方には、「吾妻鏡」のサイトはかなり多いけれども、私は現代語訳がかなり進行しており、注も堅実なサイト「歴散加藤塾」のこちらを強くお勧めする)。ここを書き下すと、「右京兆室家(しつか)の母尼(ははに)の追福の爲、彼(か)の山内の墳墓の傍らに於いて、一梵宇を建てらる。今日供養の儀有り。」で「室家の母」は親族である実母の意。生没年などの詳細は不詳であるが、泰時の母は御所に仕える女房で、名を「阿波局(あわのつぼね)」と伝える。但し、これはかの北条時政の娘で源実朝乳母・阿野全成の妻である「阿波局」とは同名異人であるので注意されたい。

「梵僊」鎌倉末に元から渡来し、南北朝期の日本で亡くなった臨済僧竺仙梵僊(じくせんぼんせん 一二九二年~貞和四/正平三(一三四八)年)。古林清茂(くりんせいむ)の法嗣。一三二九年(元徳元年:南宋の淳祐六年)六月、九州豊後の守護大名大友貞宗の要請を受けて明極楚俊(みんきそしゅん)に従って日本へ来た。一三三〇年(元徳二年)、鎌倉に下り、足利尊氏・直義兄弟の帰依を受けた。後、浄妙寺・浄智寺を経、京の南禅寺・建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺に於いて多くの弟子を養成した。公武からともに帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた人物であった。淨智寺に戻って、寺内に彼が建てた塔頭楞伽(りょうが)院にて示寂。彼が従った楚俊も建武三(一三三六)年、建仁寺の方丈で示寂している。

「仁治三年」一二四三年。

「寛元々年」一二四三年。「周闋御佛事」は「周闋(しゆうけつ)の御佛事」で一周忌のこと。引用の終りの部分は「此の供(ぐ)は、幽儀御在生の時、殊(こと)に信心を抽(ぬき)んずと云々。」と読み、「この供養は故人が存命中、殊に熱心に信心しておられた故に執り行われたものであるとのことである。」の意。

「蘭溪」蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年)は南宋から渡来した禅僧。建長寺にて示寂した。無明慧性(むみょうえしょう)の法嗣。寛元四(一二四六)年三十三歳の時、渡宋した泉涌(せんにゅう)寺の月翁智鏡(がっとうちきょう)の縁によって弟子とともに来日、筑前円覚寺や京の泉涌寺来迎院を経、鎌倉の寿福寺などに寓居、宋風の本格的臨済宗を広めた。この辺りのシークエンスも含めて「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注、及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「台家」「だいけ」。天台宗。

「宰府」大宰府。

「乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽」書き下すと、「乃(すなは)ち、都城に入りて泉涌寺の來迎院に寓(ぐう)し、又、相陽(=鎌倉)に錫杖(しやくじやう:赴くこと)す」。

「時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺」「時に了心、龜谷山(きこくさん:寿福寺の山号)に踞(きよ)す(住持として勤めていた)。隆、錫を席下に掛く」。「了心」は仁治(にんじ)年間(一二四〇年~一二四四年)前後の臨済僧大歇了心(だいかつりょうしん)のこと。退耕行勇の法嗣で渡宋の後に帰国、寿福寺や建仁寺の住持を勤めた。禅僧の衣服・礼典等を整備したとされる。

「來化」「らいげ」。仏法を広めるために大陸から来ること。概ね生きて国に戻れぬ覚悟であったから(帰った僧も兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:蘭渓道隆らの招きにより文応元(一二六〇)年に来日、時頼の招聘を受けて建長寺第二世となったが、弘長三(一二六三)年に強力な帰依者であった北条時頼が亡くなると支持者を失い、文永二(一二六五)年に帰国。元のスパイと疑われたことや、彼が日本語を殆んど学ぼうとせず、多くの御家人と意志疎通がなかったことにもよると思われる)のようにいるが)、事実上の「帰化」とも同義的と言えば言える。

「延居常樂寺」「延(ひ)きて常樂寺に居(を)らしめ」。「延きて」は「進んで・積極的に・招聘して」の意。

「命駕問道」「駕を命じて道を問ふ」。「駕」は貴人の乗り物。自ら寿福寺に車を向かわせて親しく問答したことを指す。

「按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど」「新編鎌倉志卷之三」にの常楽寺の項に(リンク先は私の電子テクスト注)、「按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時賴、隆蘭溪(りうらんけい)が來化を聞、延(ひ)いて常樂寺に居(を)らしむと有。此の寺(てら)元(もと)は天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禪宗になりたりと云傳ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり」とある。この以下の本「相模國風土記稿」の考証割注は非常に優れたものであって、近代の鎌倉史研究に於ける常楽寺成立史を先取りするものと私は思う。現在、常楽寺は嘉禎三(一二三七)年の創建で開基を北条泰時、開山を栄西の高弟退耕行勇とする。これは、道隆が建長寺に移って以降、現在に至るまで、臨済宗建長寺派に老いては建長寺開山の道隆が最初に落ち着いた名跡であることから「常樂は建長の根本なり」と重視され続けてきていることによる誤認である。

「榜文」「はうぶん(ほうぶん)」「ひやうぶん(ひょうぶん)」或いは「ばうぶん(ぼうぶん)」と読み、告示文・触れ書きのこと。ここは以下に示される「定規」(ていき:文章化された規則・具体的規律)を指す。

「志に云所は」「(新編鎌倉)志に云ふところは」。

「訛」音で「クワ(カ)」と読んでおく。本来の話や考えなどの内容が、何時の間にか変わって、それが誤って慣用化されて流布されてしまうことを指す。

「福山」彼が常楽寺から移って開山となった巨「福山」(こふくさん)建長寺のこと。

「寶治二年」一二四八年。前年、宝治合戦で三浦氏が滅び、北条得宗による占有支配が確立した。

「及て」「およびて」。

「建長四年時賴建長寺を創する」一二五二年。「吾妻鏡」では建長三(一二五一)年から造営が開始さられ、建長五(一二五三)年に落慶供養が行われたとある。現在、公式には建長五年を創建としている。これは本格的な最終工期に入ったものと読めばおかしくはない。だからこそ「後、隆、福山に入」りて「開山祖となる」と続くと読めるからである。

「忌辰」「きしん」忌日に同じい。

「値り」「あたり」。

「近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり」江戸後期の寂れようが伝わってくる。]

【寺寶】

△定規二篇〔共に梓に鏤ばむ、〕一は道隆の書たり〔曰、光陰有限六七十歳、便在目前、苟過一生、灼然難得復本、既挂佛衣之後、入此門來、莫分彼此之居、各々當行斯道、儻以粟船上殿、爲名、晝夜恣情於戲、非但與俗無特、亦乃於汝何益、今後本寺主者、既爲衆僧之首、當依建長矩式而行、畫則誦經之外、可還僧房中客前坐禪初後夜之時、以香爲定式、領衆坐禪、二更三點可擊鼓房主歸衆方休息、四更一點、依復坐禪、至閑靜時方人寮、夜中不可高聲談論、粥飯二時、並須齊赴、不可先後、今立此爲定規、不可故犯、若有恣意不從之者、申其名來、可與重罰住山道隆華押〕

[やぶちゃん注:以上に限らず、以下での引用も、一部に脱落或いは誤判読又は誤植がかなり見られるが、それを訂正注すると厖大でしかも非常に読み難くなるので、誤りは誤りのママに電子化した必ず私の「新編鎌倉志卷之三」に載るそれらと対比されたい(ここ以下に引用されているものは概ね同書にも書かれてある)リンク先では私の訓読文と注も加えてあるので是非、参照されたい。

「梓に鏤ばむ」「あずさにちりばむ」。版木に刻む。「出版・上梓する」の意。昔、中国では梓(シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata。但し、別な樹種を指すとする異説も多い)の木を版木に用いたところに由来する。]

一は梵僊の筆なり〔曰、常樂寺乃建長之根本也、開山板榜、切々訓誨、明如日月誠不可忽、今以晩來之者、似不知之、於輪番僧衆、多遊它所、今評定宜時々撿點、或住持自去、或臨時委人、若乃點而不到之者、卽時出院、各宜知悉、評定衆、前堂・柏西堂・都管・信都寺・興維那・習藏主・方首座・安首座・桂首座・用都聞・衣鉢胃淸、貞和丁亥三月二日 住山梵僊、華押、按ずるに、梵僊字笠仙、自號來々禪子、元の明州の人、元德二年二月、鎌倉に來り建長に寓す、后淨智・南禪・眞如の三寺に歷住、貞和三年建長に住して、二十九世の僧となる、后又淨智に再住し、同四月十六日寂す、〕

[やぶちゃん注:「貞和丁亥」「ぢやうわひのとゐ(じょうわひのとい)」は貞和三/正平二(一三四七)年。

「元德二年」一三三〇年。

「后」盛んに出るが、「のち」。「後に」の意。]

△硯一面〔佛光禪師牛澤の物なり、其圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「佛光禪師」無学祖元(嘉禄二(一二二六)年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。建長寺にて示寂。建長寺及び円覚寺に兼住、本邦の臨済宗に大きな影響を与えた。

「牛澤」意味不詳。識者の御教授を乞う。

 

Jyourakusuzuri

 

[やぶちゃん注:右のキャプション(活字化)「直經九寸三分」は約二十八センチメートル。以下、画像は視認底本としている国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして加工したものである。]

 

△佛殿 祈禱の額を掲ぐ、本尊三尊彌陀を安ず、傍に泰時の牌〔牌面に、過去觀阿靈の五字見ゆ、餘は磨滅して讀むべからず〕及其室〔牌面に、歿故淨覺靈位の字見ゆ、鬼簿に、淨覺禪定尼と記し、卒年を載せず、〕其女の牌〔歿故戒妙大姉靈位とあり、〕を置、殿前に銀杏の老樹あり〔圍一丈七八尺〕

[やぶちゃん注:「過去觀阿靈」北条泰時の法名は「觀阿」で、「新編鎌倉志卷之三」に「位牌に、過去觀阿禪門とあり」と記す。

「其室」不詳。泰時の継室であった安保実員(あぼ/あぶさねかず 生没年未詳)の娘か?

「其女」不詳。

「圍」「めぐり」。

「一丈七八尺」五・一五~五・四五メートル。蘭渓道隆お手植えの公孫樹とされる木が現存はする。]

△客殿 釋迦〔座像長一尺八寸、日蓮植髮の像と云ふ、〕地藏〔中古建長寺門前の堂より移せりと云〕を置、圓鑑の額を扁す〔佛光禪師の筆、左に縮寫す、〕

[やぶちゃん注:「釋迦」木造釈迦如来坐像。南北朝時代の作。

「一尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「日蓮植髮の像」私はそのような伝承は知らない。]

 

Ennkan

 

[やぶちゃん注:右側に扁額の縦の長さ「八寸八分一厘」(二十六・九六センチメートル)、上部に「一尺六寸五分八厘」(六十六・〇五センチメートル)と手書きである。]

 

△鐘樓 寶治二年三月の鑄鐘を懸く、序文に據ば北條時賴祖父泰時追善の爲に、左馬允藤原行家に命じ、撰せしむる所なり〔其序銘曰、鎌縣北偏、幕府後面、有一仁祠、蓋家君禪閤、墳墓之道場也、境隔囂喧、足催坐禪之空觀、寺號常樂、自擬安養之淨刹、弟子、追慕難休、夙夜于苔壠之月、遺恩欲報、欣求於華界之雲、便鑄鳧吼之鐘、聊添鴈堂之飾、於是狂風韻遠、可以驚長夜之夢、輕霜響和、可以傳三會之曉、當時若不記錄者、後代誰得相識哉、仍課刀筆、以刻銘文、寶治二年戊申三月廿一日、左馬允藤原行家法師、法名生蓮作辭曰、偉哉斯器造化自然、陰陽炭調、山谷銅甄、鳧氏功舊、蒲牢名傳、入秋今報、應律今懸、響和靑女、聲驚金仙、動三千界、振九五天、於是先主、早告歸泉、爾來弟子、屢溺淚淵、深恩如海、淺報似涓、夙夜之志、旦夕未悛、桑門閑鎖、房墳墓邊、花鐘新鑄、安道場前、揚九乳韻、祈七覺緣、開曉獲益、長夜罷眠、下自八大、上至四禪、以此善種、萌彼福田、〕

[やぶちゃん注:以上も「新編鎌倉志卷之三」に載るそれと対比されたいリンク先では私の訓読文と注も加えてある

「鳧吼之鐘」例外的に注するが、「鳧乳」(ふにゅう)の誤り。「鳧乳之鐘」は梵鐘のこと。中国古代の音楽をつかさどる鳧氏(ふし)が最初に作ったとされることからで、「乳」は「九乳」で梵鐘に特徴的な上部にある九つの出っ張り部分を言う

「寶治二年」一二四八年。既注。

「據ば」「よれば」。]

△文殊堂 本尊の左右に不動・昆沙門を安ず〔【鎌倉志】に據れば、始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ。〕永祿十年五月住持九成の時甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕長俊・同正直等信施して文殊の像を修飾し、其事を木牌に記して胎中に收む〔曰、文殊御影色、御檀那被成候間奉拜事、永祿十丁卯年五月十八日、平正直、平長俊、各華押、相模國東郡粟船山常樂寺、住持比丘九成叟、沙門僧菊拜書と記す、按ずるに、長俊は舊家小三郎の祖なり、〕、秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり、左に縮寫す、

[やぶちゃん注:この「文殊堂」について、「鎌倉市史 社寺編」では、諸本は『明治初年英勝寺から移建したものであると』するが、『古老は山上からひいて来たといっている』とあり、本書でかく記す以上、明治の移築というのはおかしい。

「始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ」脱落があって意味が通じない。「新編鎌倉志卷之三」の当該条を読んで戴くと判るが、「文殊は、首ばかり、蘭溪宋より持來り、體は本朝にて蘭溪作り續(つ)ぎたるとなり」なのである。

「永祿十年」一五六七年。室町幕府第十四代将軍足利義栄(よしひで)の治世というか、既に戦国時代。

「住持九成」「僧菊」住持の名。

「甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕」「鎌倉市史 社寺編」の「常楽寺」によれば、『口碑によれば上杉氏の臣、後に北条氏に属し』たとする、『この地方の豪族で、江戸時代には名主であった』とある。地元の「のり」氏のサイト内の「大船町内会管内の史跡めぐり」の「甘糟屋敷」を参照されたい。先の「大船村」の「熊野社」に出、後の「○舊家小三郎」にも記される。

「信施」「しんせ」。布施に同じい。

「秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり」「鎌倉市史 社寺編」は蘭渓筆は『疑わしい』とする。]

 

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△辨天社 客殿の後背に池あり〔色天無熱池と呼ぶ〕、其中島に勸請す、是江島辨天社に安ずる十五童子の一、乙護童子を祀れりと傳ふ〔其本體は建長寺に安じ、爰には其模像を置くと云、〕蘭溪江島に參寵の時、感得せしものなりとぞ〔建長寺西來庵永正十二年の勸進狀に、大覺禪師下向關東、江島一百日參籠、辨財天所感天童一人付與禪師也、居粟船常樂寺云々、故に江島には童子一體を缺と云傳ふ、〕相殿に志水荒神〔木曾冠者義高の靈を祀ると云、〕姫宮明神〔泰時の女を祀れりと云〕稻荷・天神等を祀れり、

[やぶちゃん注:「乙護童子」「おとごどうじ」。仏法を守るために姿を現す、童子の姿をした鬼神。乙護法(おとごほう)とも呼ぶ。

「永正十二年」一五一五年。]

△天神社

△北條武藏守泰時墓 客殿の背後山上にあり、【東鑑】建長六年六月北條時賴祖父泰時十三回の忌辰に値り、眞言供養を修せし條に、靑船御塔と見えしは是なり〔六月十五日、迎前武州禪室十三年忌景被供養彼墳墓靑船御塔、導師信濃僧正道禪、眞言供養也、請僧之中、中納言律師定圓、備中已講經幸、藏人阿闍梨長信等在之、爲此御追善御八講、自京都態所被招請也、相州御聽聞、〕按ずるに泰時は義時の長子なり、小字は金剛江間太郎或は相模太郎と稱す、建曆元年九月八日修理亮に任じ、建保四年三月廿八日式部少丞に迂り讃岐守を兼、固辭して州任に就かず、承久元年正月廿二日駿河守に任ず、十一月十三日武藏守に轉じ、三年洛に上り六波羅探題北方に居る、元仁元年六月鎌倉に歸り、廿八日、父に代りて執権の職を奉る。嘉禎二年十二月十八日、左京権大夫を兼、曆仁元年四月六日武藏守を辭し、九月廿五日、左京兆を辭す、仁治三年五月十五日薙髮して觀阿と號す、六月十五日卒。年六十、常樂寺と號す〔碑圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「建長六年」一二五四年。以下、「吾妻鏡」の書き下し文を示す(省略があるが、ここで示されたものを読み下す)。

   *

六月十五日。前武州禪室の十三年忌景(きけい)[やぶちゃん注:回忌。]を迎へ、彼の墳墓靑船(あをふね)の御塔(ごたう)を供養せらる。導師は信濃僧正道禪。眞言供養なり。請僧(しゆあそう)の中(うち)に、中納言律師定圓(ぢやうゑん)[やぶちゃん注:当時、歌人として知られた葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年)の子。]・備中已講(いこう)經幸(きやうこう)・藏人(くらうど)阿闍梨長信(ちやうしん)等、之れ、在り。此の御追福(ごついぶく)御八講(ごはちこう)の爲、京都より態(わざ)と招請せらるる所なり。相州[やぶちゃん注:北条時頼。]、御聽聞。

   *

「小字」「こあざな」。幼名。

「建曆元年」一二一一年。

「建保四年」一二一六年。

「州任」国守号のことか。

「承久元年」一二一九年。

「三年洛に上り六波羅探題北方と居る」)承久の乱の直後の承久三(一二二一)年六月十六日に泰時は六波羅探題北方に就任している。

「元仁元年」一二二四年。「六月」は改元前なので貞応三年が正確。

「嘉禎二年」一二三六年。

「曆仁元年」一二三八年。正確には嘉禎四年が正しい(暦仁元年改元は嘉禎四年十一月二十三日)。

「仁治三年」一二四二年。]

 

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[やぶちゃん注:図の右上に「高四尺五寸」(約一メートル三十五センチメートル)のキャプション(活字化)がある。]

 

△姫宮塚 佛殿後の山上にあり、老松二株あり〔圍一丈五尺〕、泰時が女の墳なりと云〔元は祠堂ありしが、頽廢して、神體は今辨天社に合祀す、西來庵永正勸進狀に大覺禪師居常樂寺、平泰時息女歸依佛法、號戒妙大姉、抽戒枝結常樂果と見ゆ、北條系譜を閲するに泰時三女を生む、長は足利義氏の室字、次は三浦若狹前司泰村、次は武藏守朝直に嫁す、此三女の内なるや、慥かなる所見なし〕

[やぶちゃん注:「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。]

△木曾冠者義高塚 姫宮塚の山腹にあり、小塚の上に碑を建【高三尺許】古塚は小名木曾免の田間にあり〔當寺の坤方、二町餘を隔、〕延寶八年二月廿一日村民〔石井氏、〕塚を穿ち靑磁の瓶を得たり、瓶中に枯骨泥に交りてあり、由て爰に塚を築き收藏せしと云〔舊地にも、今尚古塚あり、〕按ずるに義高は〔系圖義基に作る、今【東鑑】に從ふ、〕木木曾義仲の長子なり、壽永元年鎌倉に質たり、賴朝女を以て是に妻す、元曆元年義仲江州にて討れし時、賴朝後患を慮り誅戮せんことを謀る、義高伺ひ知て密に遁れ四月廿六日武州入間河原にて追手の兵、堀藤次親家が郎等藤内光澄に討る〔【東鑑】曰、元曆元年四月廿一日、自去夜殿中聊物忩、是志水冠者、雖爲武衛御聟、亡父已蒙勅勘被戮之間、爲其子其意趣尤依難度、可被誅之由、内々思食立、被仰含此趣於昵近壯士等、女房等伺聞此事、密々告申姫公御方、仍志水冠者𢌞計略、今曉遁去給、此間假女房之姿、姫君御方女房圍之出、而海野小太郎幸氏者、與志水同年也、日夜在座右片時無立志、仍今相替之、入彼帳臥、宿夜之下出髻云々。日闌後。出于志水之常居所、不改日來形勢、獨打雙六、志水好雙六之勝負、朝暮翫之、幸氏必爲其合手、然間至于殿中男女、只成于今、令坐給思之處、及曉綺露顯、武衛太忿怒給、則被召禁幸氏、又分遣堀藤次親家以下軍兵於方々道路被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給、廿六日甲午。堀藤次親家郎從、藤内光澄歸參、於入間河原、誅志水冠者之由申之、此事雖爲密議、姫公已令漏聞之給、愁歎之餘、令斷漿水給、可謂理運、御臺所又依察彼御心中、御哀傷殊太、然間殿中男女多以含歎色云々、〕光澄首を携へ歸り實檢の後當村に葬りしなるべし、

[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」も完全に引いて訓読も附した、私の北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎をご覧あれ。私はこの二人が哀れでたまらぬ。

「木曾冠者義高」(承安三(一一七三)年?~元暦元年四月二十六日(一一八四年六月六日)。木曾義仲嫡男。

「古塚は小名木曾免の田間にあり」後掲される。

「坤方」「ひつじさるがた」。南西。

「二町」二百十八メートル。

「延寶八年二月」グレゴリオ暦一六八〇年。徳川家綱の治世であるが、この年の五月に彼は死去し、綱吉が江戸幕府第五代将軍となっている。

「石井氏」大船・玉繩地区の地の者に多い姓である。

「壽永元年」一一八二年。

「質」「じち」。人質。

「賴朝女」悲劇の長女大姫(おおひめ 治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)。寿永二(一一八三)年の春、頼朝と対立していた義仲は当時十歳(推定)の源義高を人質として鎌倉に送り、当時六歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結んだ(義高と大姫は又従兄妹に当たる)。

「元曆元年」一一八四年。

「入間河原」「いるまがはら」。現在の狭山市入間川付近。

「堀藤次親家」「ほりのとうじちかいへ」。

「藤内光澄」「とうないみつずみ」。]

△大應國師墓 地後山麓にあり、五輪塔を立、師は延慶二年建長寺にて寂す、當寺は茶毘の舊跡なるが故に塔を建となり〔【高僧傳】を按ずるに國師名は紹明南浦と號す、駿州の人、正元年間入唐し、文永四年東歸す、七年、筑州興德寺に住持し、繼て大宰府の常樂寺洛の萬壽寺に轉住し、東山嘉元禪院の開祖となり、德治二年、建長寺に住し、十三世の職を董し、延慶二年十二月廿九日寂す、舍利を獲る無數、勅して圓通大應國師と諡す、弟子建長、崇福にあるもの、各舍利を奉じて塔を建建長の塔中、天源庵と云、今に支院たり、崇福の塔を瑞雲と云、〕

[やぶちゃん注:「大應國師」臨済僧で建長寺住持であった南浦紹明(なんぽしょうみょう/なんぽじょうみん 嘉禎元(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。出自は不詳乍ら、駿河国安倍郡の出身。勅諡号が「円通大應國師」。ウィキの「南浦紹明によれば、『幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び』、建長元(一二四九)年、『建長寺の蘭渓道隆に参禅した』。正元元(一二五九)年に『宋に渡って、虚堂智愚の法を継いだ』。文永四(一二六七)年、日本に帰国して建長寺に戻り(この時点では南溪道隆は未だ存命であった)、その後は文永七年に筑前国の興徳寺、文永九年には博多の崇福寺の住持を勤めた。嘉元二(一三〇四)年に『後宇多上皇の招きにより上洛し』、現在の京都市東山区にある東福寺塔頭の『万寿寺に入』った。徳治二(一三〇七)年になって鎌倉に戻って『建長寺の住持となったが』、その二年後、七十五歳で示寂した。没した翌年、『後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本における禅僧に対する国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)』(しゅうほうみょうちょう 弘安五(一二八二)年~延元二/建武四(一三三八)年)は、鎌倉時代末期の臨済宗の『を経て関山慧玄』(かんざんえげん 建治三(一二七七)年~正平一五/延文五(一三六一)年)と『へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は』皆、『この法系に属する』とある。]

△門 粟船山の額を掲ぐ、黃檗僧木庵の筆なり、

[やぶちゃん注:「黃檗僧木庵」江戸前期に明から渡来した黄檗(おうばく)宗(曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ。本山は現在の京都府宇治市にある黄檗山万福寺。承応三(一六五四)年に明から渡来した僧隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年によって齎された。宗風は臨済宗とほぼ同じであるが、明代の仏教的風習が加味されている。明治七(一八七四)年に一旦、臨済宗と合併したが、二年後に独立、今も一宗派となっている)の僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年)。寛文元(一六六一)年に山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、寛文四年、かの隠元の法席を継いだ。翌年には江戸に下り、第四代将軍徳川家綱に謁見して優遇され、江戸の紫雲山瑞聖寺を初めとして十余ヶ寺を開創、門下も五十余人に及び、寛文九年には将軍から紫衣を賜っている。延宝八(一六八〇)年二月、黄檗山の第三代法席を、やはり明から渡来した僧慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年~天和元(一六八一)年)に譲って山内の紫雲院に隠退、そこで亡くなった(以上はウィキの「木庵性瑫に拠った)。]

 

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附やぶちゃん注(24) 禮拜と淨めの式(Ⅱ)

 

 朝の禮拜の務は、その内に書牌(お札)の前に供物を置く事も入つて居るのであるが、それは一家の祭祀の唯一の務ではない。神道の家に於ては、祖先と高い神々とが、別々に禮拜されるのであるが、祖先の神壇はロオマの Lararium(家族の神)と似て居るらしい、一方その大麻、御幣(特に家族の崇敬する高い神々の象徴てある)のある神棚はラテンの慣習に依つて Penates(家の爐邊の神)の禮拜に與へられた場所と比べられ得る。この兩種の神道の祭祀には、その特殊の祭日がありへ祖先祭祀の場合には、祭日は宗教上の集合の時であり――一族の親戚が、家の祭拜を爲すために集まる時である……。神道家はまた氏神の祭りをあげ、國家の祭記に關する九種の國家の大祭を祝するに、少くともその助力をしなければならない、國家の大祭は十一種あるが、その内この九種は皇室の祖先を禮拜する機會なのてある。

[やぶちゃん注:「Lararium(家族の神)」「ララリウム」は古代ローマで信じられた守護神的な神々ラレース(LasesLares:単数形:Lar(ラール))を祭祀した壇。古代ローマ人の各家の中や街角に、壁を掘ったごくつつましい空間に素朴な絵で彩りを施して作られた小さな祭壇。家庭・道路・海路・境界・豊饒・無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで二体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的であった(ウィキの「レースに拠った。家庭内祭祀の細かな解説もリンク先にある)。

「大麻」「たいま」。幣(ぬさ)を敬っていう語。「おほぬさ(おおぬさ)」と訓じてもよい。

Penates(家の爐邊の神)」「ペナーテース」はローマ神話に登場する神で、元々は「納戸の守護神」であったが、後に「世帯全体を守る家庭神」となった。先のラレースや、ゲニウス(geniusi:擬人化された精霊で、守護霊或いは善霊と捉えられた)レムレース(lemures:騒々しく有害な死者の霊或いは影を意味し、騒がしたり怖がらせたりするという意味で悪霊 larva:ラルヴァ)に近いとされる)と関係が深い。ローマの各氏族の権勢とも関連付けられており、「祖先の霊」とされることもある。古代ローマの各家庭の入口には女神ウェスタ(Vesta:女神でもとは「竃の神」であったものが転じて家庭の守護神となった)の小さな祠があったが、この祠の中にはこのペナーテースの小さな像が安置されていた(以上はウィキの「ペナーテースと、そのリンク先の記載に拠った)。

「國家の祭記に關する九種の國家の大祭を祝するに、少くともその助力をしなければならない、國家の大祭は十一種あるが、その内この九種は皇室の祖先を禮拜する機會なのてある」よく分らないが、ウィキの「「皇室祭祀」の天皇自ら親祭する大祭日(だいさいじつ)の古式(それでも明治以降)のものを数えてみると、①元始祭(天皇が宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)に於いて皇位の元始を祝ぐ儀式)・②紀元節祭(「日本書紀」で初代天皇とする神武天皇の即位日)・③神武天皇祭・④神嘗祭・⑤新嘗祭・⑥春季皇霊祭/春季神殿祭・⑦秋季皇霊祭/秋季神殿祭(「皇霊祭」は歴代天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式)・⑧先帝祭(先帝の崩御日)・⑨先帝以前三代の式年祭・⑩先后の式年祭・⑪皇妣(こうひ:崩御した皇太后)である皇后の式年祭で、十一が数えられ、この内、①から③及び⑥から⑪の九種の祭祀は、まさにその内容から「皇室の祖先を禮拜する」祭祀であると言える。もし、間違っていれば、御指摘あれ。]

 

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅵ) 昭和五(一九三〇)年一月

 

 昭和五(一九三〇)年

 

 

 一月二日 木曜 

 

◇屍体の血はこんな色だと笑ひつゝ

  紅茶を匙でかきまはしてみせる

 

[やぶちゃん注:これは翌昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の一首、

 

屍體の血は

コンナ色だと笑ひつゝ

紅茶を

匙でかきまはしてみせる

 

の表記違いの相同歌である。]

 

 

 

 一月三日 金曜 

 

◇木枯らしや提灯一つわれ一人

 

 

 

 一月四日 土曜 

 

◇死刑囚が眼かくしされて微笑した。

  其の時黑い後光がさした。

 

[やぶちゃん注:同じく昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の一首、

 

死刑囚が

眼かくしをされて

微笑したその時

黑い後光がさした

 

の表記違いの相同歌。]

 

 

 

 一月四日 土曜 

 

雪よふれ、ストーブの内みつめつゝ

 昔の罪を思ふひとゝき

 

[やぶちゃん注:「獵奇歌」に類似したコンセプトのヤラセっぽいものは複数散見されるが、どうもこの一首は、私には不思議に素直に腑に落ちる。それらの〈ストーブ獵奇歌〉のプロトタイプとは言える。]

 

 

 

 一月七日 火曜 

 

◇闇の中に闇があり又暗がある。

  その核心に血しほしたゝる。

 

◇骸骨があれ野を獨りたどり行く

  ゆく手の雲に血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:「血しほしたゝる」は一時期の「獵奇歌」の常套的下句の一部であるが、このような内容のものは見当たらない。一首目は特に大真面目な観念的短歌ともとれなくもない。]

 

 

 

 一月八日 水曜 

 

◇投げ込んだ出刃と一所のあの寒さが

  殘つてゐるやうトブ溜めの底

 

[やぶちゃん注:やはり昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の一首、

 

投げこんだ出刃と一所に

あの寒さが殘つてゐよう

ドブ溜の底

 

の初期稿。]

 

 

 

 

 一月十日 金曜 

 

◇ストーブがトロトロとなる

  ズツト前の罪の思ひ出がトロトロと鳴る

 

[やぶちゃん注:二箇所の「トロトロ」の後半は底本では踊り字「〱」。六日の原形から派生した〈ストーブ獵奇歌〉の一首。やはり昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の、

 

ストーブがトロトロと鳴る

忘れてゐた罪の思ひ出が

トロトロと鳴る

 

の初期稿であろう。]

 

 

 

 一月十一日 土曜 

 

◇黑く大きくなる吾が手を見れば

  美しく眞白き首摑みしめ度し

 

 

 

 一月十三日 月曜 

 

◇赤い日に爍烟を吐かせ

  靑い月に血をしたゝらせ狂畫家笑ふ

 

[やぶちゃん注:「爍烟」音なら「シヤクエン(シャクエン)」で、意味は光り耀く煙り或いは高温で眩しく発火している烟りのことか。孰れにせよ、音数律の破格が多過ぎ、韻律が頗る悪い。]

 

 

 

 一月十五日 水曜 

 

◇自殺しやうかどうしやうかと思ひつゝ

  タツタ一人で玉を突いてゐる

 

[やぶちゃん注:この三ヶ月後の昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』の「獵奇歌」の、

 

自殺しようか

どうしようかと思ひつゝ

タツタ一人で玉を撞いてゐる

 

の表記違いの相同歌。]

 

 

 一月十六日 木曜 

 

◇洋皿のカナリヤの繪が眞二つに

  割れし口より血しほしたゝる

◇人間が皆良心を無くしつゝ

  夜の明けるまで玉を撞いてある

 

[やぶちゃん注:一首目は昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る一首、

 

洋皿のカナリアの繪が

眞二つに

割れたとこから

血しほしたゝる

 

の初稿。後者は前日のそれと同工異曲で同様のステロタイプが散見される〈陳腐獵奇歌〉の一つ。]

 

 

 

 一月十八日 土曜 

 

◇すれちがふ白い女がふりかへり

  笑ふ唇より血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:やはり昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る一首、

 

すれ違つた白い女が

ふり返つて笑ふ口から

血しほしたゝる

 

の初期稿らしい。]

 

 

 

 一月二十一日 火曜 

 

◇眞夜中の三時の文字を長針が

  通り過ぎつゝ血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:やはり昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る一首、

 

眞夜中の

三時の文字を

長針が通り過ぎつゝ

血しほしたゝる

の表記違いの相同歌。]

 

 

 

 一月二十三日 木曜 

 

◇子供等が相手の瞳に吾が顏を

  うつして遊ぶそのおびえ心

 

◇老人が寫眞にうつれば死ぬといふ

  寫眞機のやうに瞳をすゑて

 

[やぶちゃん注:この二首、なかなかいい。特に後者はその情景の浮かぶ、リアルな一首ではないか。この一首、久作はかなり思いがあったものか、六日後の一月二十九日(水曜)の日記にも全く相同のものを書き込んでいる(この日は日記本文に「獵奇歌」の歌稿を書き直していることが記されてある。但し、この二首は孰れも「獵奇歌」にはとられていない)。こういうことは彼の今までの日記には見られない特異点である。単なる書き込んだことを忘れていたということは私には考えにくいのである。]

 

 

 

 一月三十日 木曜 

 

◇夕暮れは人の瞳の並ぶごとし

  病院の窓の向ふの軒先

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』の「獵奇歌」の一首、

 

夕ぐれは

人の瞳の並ぶごとし

病院の窓の

向うの軒先

 

の表記違いの相同歌。]

 

 

 

 一月三十一日 金曜 

 

◇眞夜中の枕元の壁撫でまはし

  夢だとわかり又ソツと寢る

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』の「獵奇歌」の、

 

眞夜中に

枕元の壁を撫でまはし

夢だとわかり

又ソツと寢る

 

相似歌。]

 

◇雪の底から抱え出された佛樣が

  風にあたると眼をすこしあけた

 

[やぶちゃん注:同前、

 

雪の底から抱へ出された

佛樣が

風にあたると

眼をすこし開けた

 

表記違いの相同歌。]

 

◇煙突がドンドン煙を吐き出した

  あんまり空が淸淨なので

 

[やぶちゃん注:「ドンドン」の後半は底本では踊り字「〱」。同前の「獵奇歌」中の一首、

 

煙突が

ドンドン煙を吐き出した

あんまり空が淸淨なので……

 

の相似歌(リーダ追加と分かち書きに変更)。]

 

◇二日醉の頭の痛さに圖書館の

  美人の裸像を觸つてかへる

 

◇病人はイヨイヨ駄目と聞いたので

  枕元の花の水をかへてやる

 

[やぶちゃん注:「イヨイヨ」の後半は底本では踊り字「〱」。同前、

 

病人は

イヨイヨ駄目と聞いたので

枕元の花の

水をかへてやる

 

の表記違いの相同歌。]

 

◇水藥を花瓶に棄てゝあざみ笑ふ

  肺病の口から血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』の一首、

 

水藥を

花瓶に棄てゝアザミ笑ふ

肺病の口から

血しほしたゝる

 

の表記違いの相同歌。決定稿の「アザミ」は花のアザミを連想させてしまうので読みの躓きを起こすが、或いはあの花をそこに恣意的にモンタージュさせる久作の確信犯かも知れぬ。]

 

◇毒藥は香なし色なく味もなし

  たとへば君の笑まぬ唇

 

◇馬鹿野郎馬鹿野郎又馬鹿野郎と

  海にどなつて死なずにかへる

 

[やぶちゃん注:「馬鹿野郎馬鹿野郎」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

◇探偵が室を見まはしてニツト笑ふ

  その時たれかスヰツチを切る

 

◇精蟲の中に人間が居るといふ

  その人間が笑つてゐるといふ

 

2017/05/23

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(2) 「變てこな人たち」(Ⅱ)

 

二章

 

 私が〔鎖の〕その島へ下りると、すぐ大勢の人人にとりかこま〔か〕れました。見ると、一番前に立つてゐるのが〔、〕どうも上流の人人のやうでした。彼等は私を眺めて、ひどく驚いてゐる樣子でしたが、私の方も、すつかり驚いてしまつたのです。なにしろ、その恰好も、服裝も、容貌(かほ)も、こんな奇妙な人間〔を私は私は〕まだ見たことがなかつたからです。

[やぶちゃん注:章見出しは現行版には存在せず、前の段落との間も空けられていない。

 彼等の頭はみんな、左か右か、どちらかへ傾いてゐます。眼は片方は内側へ〔向き〕、もう一方は眞上を向いてゐるのです。上衣の模樣は太陽、月、星などの模樣に、提琴、橫笛、竪琴、喇叭、六弦琴、そのほか、いろんな珍しい樂器の模樣を交ぜてゐます。ところ私はあ〕ちこちに〔それから、〕召使の服裝をした男〔たちは、〕短い棒の先に〔、〕膀胱をふくらませたものをつけて〔、〕持ちあるいてゐます。そんな男たちも〔、〕だいぶゐました。〔これはあとで知つたのですが〕この膀胱の中には〔、〕乾ゐた豆と礫〔、〕が少しばかり入つてゐます。

[やぶちゃん注:現行版では楽器の箇所にそれぞれに、『提琴(フィドル)。橫笛(フリュート)、竪琴(ハープ)、喇叭(トランペット)、六弦琴(ギター)』(拗音は推定)と振られてある

「提琴」(ていきん)はヴァイオリンのこと。「ヴァイオリン」はイタリア語派生で、現行版のルビ「フィドル」(fiddle)でこちらは英語。

「膀胱をふくらませたもの」多くの他の訳者でも和訳はそのまま「膀胱」であるが(確かに原典も“a blown bladder”としかないのだが)、豚の膀胱である。

「礫」現行版は「小石」。ここもこれで「こいし」と読んでおく。]

 ところで、彼等は〔、〕この膀胱で、傍に立つてゐる男の口や耳をたたきます。(私は〔まだ〕その時はこれはなんのことかさつぱりわからなかつたのですが、)〔これは〕この國の人間は〔、〕いつも何か深い考へごとに熱中してゐるので、〔何か〕外からつついてやらねば、物も言へないし、他人の話を聞くこともできない〔から〕です。そこで〔、〕お金持は、たたき役を一人、召使として傭つておき、外へ出るときには必ずつれて行きます。〔ですから〕召使の仕事といふのは〔、〕この膀胱で主人やお客の耳や口を靜かに〔、〕かはるがはる〔、〕たたくことなのです。〔また、〕このたたき役は主人につきが外出につきそつて步き、時時、その眼を輕くたたいてやります。といふのは〔、〕主人は考へごとに夢中になつてゐますから、どうかすると〔うつかりして〕崖から落つこちたり、溝に轉げ〔はま〕つたりしさう〔するか〕もしれないからです。

[やぶちゃん注:太字は現行では傍点「ヽ」。現行版では総てが「叩き」「叩く」などと漢字になっていて、傍点は存在しない。]

 ところで、私はこの國の人々に案内されて、階段を上り、島の上の宮〔殿〕へ〔連れて〕行かれました。〔たのですが、〕その時、私は〔、〕みんなが何をしてゐるのか、さつぱりわかりませんでした。階段を上つて行く途中でも〔、〕彼等はぽかんと〔考へごとに熱中し、〕〔ぼんやり〕してしまふのです。その度に〔、〕たたき役が〔、〕彼等をつついて〔、〕氣をはつきりさせ〔てやり〕ました。

 私たちは宮殿に入つて、謁見〔國王〕の間に通されました。見ると國王陛下の左右には〔、〕高位の人たちがずらりと並んでゐます。王の前にはテーブルが一つあつて、その上には〔、〕地球儀や〔、〕その他〔、〕種々さ樣々の数學の器械が一杯並べてあります。なにしろ〔、〕今〔、〕〔私たち〕大勢の人がどかどか〔と〕入つ〔〕たので〔、〕騷がしかつたはずですが、陛下は〔、〕一向〔、〕私たち〔が來たこと〕に氣がつかれません。陛下は〔今、〕ある問題を一心に考へてをられる最中なのでした〔す〕。私たちは〔、〕陛下がその問題をお解きになるまで〔、〕〔一時間ぐらゐ〕待つてゐなければなりません。〔ました。〕陛下の兩側には、たたき棒を持つた侍童が〔、〕一人づつついてゐます。陛下の考へごとが終ると、一人は〔、〕口もとを〔、〕一人は〔、〕右の耳を、それぞれ〔、〕輕く叩きました。

[やぶちゃん注:現行版では「陛下の兩側には、たたき棒を持つた侍童が、一人ずつついています。陛下の考えごとが終ると、一人は口許を、一人は右の耳を、それぞれ軽く叩きました。」と整序された部分が、改行されて独立段落を形成している。]

 すると〔、〕陛下は〔、〕まるで急に目〔が〕覺めた人のやうに、ハツとなつて、私たちの方を振向かれました。それで〔、〕やつと〔、〕私の來たことを氣づかれたやうです。王が何か一言二言いはれたかと思ふと、たたき棒を持つた若者が〔、〕私の傍へやつて來て、靜かに私の耳をたたきはじめました。私は手眞似で、そんなものはいらないといふことを傳へてやりました。

 陛下は頻りに何か私に質問されてゐるらしいのでした。で、私の方もいろいんな國〔の言葉〕で答へてみました。けれども向の言ふこともわからなければ、こちらの言ふことも〔まるで〕通じません。

 それから〔、〕私は陛下の命令で〔、〕宮殿の一室に案内され、召使が二人私につきそひました。やがて〔、〕食事が運ばれてきました。〔すると〕〔そして〔、〕〕四人の貴族たちが〔、〕私と一緒に食事〔テー〕ブルに着きました。食事は三皿二度に運ばれました。正三角形に切つた羊の肉を、菱型食事中、私はいろんな品物を指して〔、〕何といふ名〔前〕なのか聞いてみました。すると貴族たちは、たたき役の助けをかりて、喜んで答へてくれました。私は間もなく、パンでも飮物でも、欲しいものは何でも云へるやうになりました。

 食事がすむと〔、〕貴族たちは歸りました。そして今度は、陛下の命令で來たといふ男が、たたき役をつれて入つて來ました。〔彼は〕ペン、インキ、紙、それに〔、〕三四册の書物を持つて來て、言葉を教へに來たのだと手眞似で云ひます。私たちは〔、〕四時間一緒に勉強しました。私はたくさんの言葉を縱に書き、それを並べて〔に〕譯を書いて行きました。短い文章も少し覺えました。

 それには先づ先生が召使の一人に、「何々を持つて來い」、「あつちを向け」、「お辭儀」、「坐れ」、「立て」といふふうに命令をします。すると私はその文章を書きつけるのでした。それから今度は書物〔本〕を開いて、日や月や星や、その他〔、〕いろんな平面図、立體図の名を教へてくれました。〔先生〕はまた〔、〕樂器の名前と説明を音樂の言葉を〔、〕いろいろ教へてくれました。こんな風にして二三日すると、私は大たい彼等の言〔葉〕がどんなもの〔である〕かわかつてきました〔たので〕す。〔こ〕この島〕は飛行島「ラピュタ」といつて、〔います。〕〔私はそれを〕飛ぶ島、浮島などと譯しておきました。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姬(3) 產女(うぶめ)

 

 

 近年の國玉の橋姬が乳吞兒を抱いて來て、之を通行人に抱かせようとした話にも亦傳統がある。此類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んで居た。ウブメは普通には產女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓たどを夜分に外に出して置くと、ウブメが血を掛けて其子供が夜啼をするなどゝ云ふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものと云ふが、別に又兒を抱いた婦人の形に姿などにも描き、つい賴まれて抱いてやゝ重いと思つたら石地藏であつたと云ふやうな話もある。是も今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に產女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて產女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話を載せ、「此ノ產女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子產ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いて居る。元より妖恠の事であれば隨分怖く、先づ之に遭へば喰はれぬ迄もおびえて死ぬ程に畏れられて居たにも拘らず、面白いことには產女にも往々にして好意があつた。例へば和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の產女塔の由來は、昔此寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より產女の幽魂現れ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女の爲に囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。此寶塔は卽ち其金を費して建つたものである。夷堂橋の北の此寺の門前に、產女の出た池と橋柱との跡が後までも有つたと云ふ。加藤咄堂氏の日本宗敎風俗志には又こんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産(うぶ)の玉と稱する物は、是も此寺の昔の仕持で日行と云ふ上人、或時途上で頗る憔悴した婦人の赤兒を抱いて居る者が立つて居て、此子を抱いてくれと云ふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは水のやうであつた。上人は名僧なる故に少しも騷がす御經を讀んで居ると、暫くして女の言ふには御蔭を以て苦艱を免れました。是は御禮と申して呉れたのが此寶物の玉であつた。今でも安產に驗ありと云ふのは、多分產婦が借用して戴けば產が輕いといふことであらう。此例などを考へて見ると、謝禮とは言ふけれども實は之を吳れる爲に出て來たやうたもので、佛法の功德と云ふ點を後僧徒が附添へたものと見れば、其他は著しく赤沼黑沼の姬神の話などに似て居り、少なくも產女が平民を氣絕させる事のみを能として居なかつたことがわかる。さうして橋の神に安產と嬰兒の成長を祈る說話は隨分諸國にあるから、國玉の橋姬が後に子持ちと成つて現れたのも、自分には意外とは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「ウブメ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種で「姑獲鳥(うぶめ)」などとも表記された妖怪「産女(うぶめ)」。やや内容がダブる箇所があるが、ウィキの「産女」を引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に產女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話」これは産女伝承の現存する最古ののもので、「今昔物語集」「卷第二十七」の「賴光郞等平季武値產女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郞等(らうそど)平季武(たひらのすゑたけ)產女(うぶめ)に値(あ)ふ語(こと)第四十三)である。以下に示す。小学館の日本文学全集版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、しかも読み易く追加(送り仮名など)を加えたオリジナルのものである。□は欠字。■は脱文が想定される箇所。

   *

 今は昔、源の賴光の朝臣(あそむ)の美濃の守にて有りける時に、□□の郡(こほり)に入りて有りけるに、夜(よ)る侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。警固の武士の詰所。]に數(あまた)の兵(つはもの)共集まり居て、萬(よろづ)の物語りなどしけるに、

「其の國に渡(わたり)[やぶちゃん注:比定地は確定的ではないが、参考にした小学館版の注では『飛騨川と木曽川の合流地付近』の「今渡(いまわたり)の渡し場」ではないかと推定している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云ふ所に、產女有りけり。夜に成りて、其の渡り爲(す)る人有れば、産女、兒を哭(な)かせて、『此れ、抱(いだ)け、抱け。』と云ふなる。」

など云ふ事を云ひ出でたりけるに、一人有りて、

「只今、其の渡に行きて、渡りなむや。」

と云ひければ、平の季武と云ふ者(も)の有りて云く、

「己(おのれ)はしも、只今(なり)也とも、行きて渡りなむかし。」

と云ひければ、異者共(ことどももの)有りて、

「千人の軍(いくさ)に一人懸け合ひて、射給ふ事は有りとも、只今、其の渡をば、否(え)や渡り給はざらむ。」

と云ければ、季武、

「糸(いと)安く行きて渡りなむ。」

と云ひければ、此く云ふ者共、

「極(いみ)じき事侍りとも、否(え)不渡給(わたりたま)はじ。」

と云ひ立ちにけり。

 季武も、然許(さばか)り云ひ立ちにければ、固く諍(あらそ)ひける程に、此の諍ふ者共は十人許り有りければ、

「只にては否不諍(えあらそ)はじ。」

と云ひて、鎧・甲・弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う筒、或いは、箱状の武具。箙(えびら)。]、吉(よ)き馬(むま)に鞍置きて、打ち出での大刀(たち)[やぶちゃん注:近年、新たに鍛えたばかりの新しい太刀。]などを、各々取り出ださむと、懸けてけり。亦、季武も、

「若し否不渡(えわたら)ずは、然許(さばか)りの物を取り出ださむ。」

と、契りて後(のち)、季武、

「然は一定(いちぢやう)か。」[やぶちゃん注:「先の約束に間違いないな?」。]

と云ひければ、此く云ふ者共、

「然(さ)ら也。遲し。」

と勵ましければ、季武、鎧・甲を着、弓・胡錄を負ひて、從者も■■■。■■■、

「■■■何でか知るべき。」[やぶちゃん注:従者は現場には従っていないから、「連れざりけり」辺りか? なおも、この台詞は「確かにそこに行って、確かにそこを渡って、そうして戻ってきたということをどのように我々が知り得よう。何をその証拠するのか?」と賭けをした同僚らのある者が不満と疑義を述べているのであるから、「ある者」が主語で、「渡れるを何でか知るべき」辺りか?]

と。季武が云く、

「此の負ひたる胡錄の上差(うはざし)の箭(や)[やぶちゃん注:胡錄の上に突き出すように目立って装飾的に差した実戦用の単純な征矢(そや)でない鏃部分が特殊な矢。鏑(かぶら)矢や雁股(かりまた)の矢。]を一筋、河より彼方に渡りて、土に立てて返へらむ。朝、行きて見るべし。」

と云ひて行きぬ。

 其の後、此の諍ふ者共の中に、若く勇みたる、三人許り、

「季武が渡らむ一定を見む。」

と思ひて、竊(ひそ)かに走り出でて、

「季武が馬の尻に不送(おく)れじ。」

と走り行きけるに、既に季武、其の渡に行き着きぬ。

 九月の下(しも)つ暗(やみ)の比(ころほひ)なれば、つつ暗(くら)[やぶちゃん注:真っ暗闇。]なるに、季武、河を、ざぶりざぶり、と渡るなり。既に彼方に渡り着きぬ。此れ等[やぶちゃん注:こっそりつけて来た三人。]は、河より彼方の薄(すすき)の中に隱れ居て聞けば、季武、彼方に渡り着きて、行縢(むかばき)[やぶちゃん注:「向か脛(はぎ)に穿(は)く」の意で、旅や狩猟などの際に足を被った布また革。平安末期頃から武士は狩猟・騎乗などの際には腰から足先までの、有意な長さを持った鹿皮のそれを着用したが、ここはそれ。]走り打ちて、箭(や)拔きて[やぶちゃん注:地面に。]差すにや有(あ)らむ。

 暫し許り有りて、亦、取りて返して、渡り來(く)るなり。其の度(たび)聞けば、河の中程にて、女(をむな)の音(こゑ)にて、季武に現(あら)はに、

「此れ、抱(いだ)け、抱け。」

と云ふなり。亦、兒ちご)の音(こゑ)にて、

「いがいが。」[やぶちゃん注:赤ん坊の泣き声のオノマトペイア。]

と哭(な)くなり。其の間、生臭き香(か)、河より此方(こなた)まで薰(くん)じたり。

 三人有るだにも、頭(かしら)の毛太りて怖しき事、限り無し。何(いか)に況んや、渡らむ人を思ふに、我が身乍らも、半(なか)ばは死ぬる心地す。

 然(さ)て、季武が云ふなる樣、

「いで抱かむ。己(おのれ)。」[やぶちゃん注:「己」は相手を見下した卑称の二人称。]

と。然れば、女、

「此(こ)れば、くは。」「くは」は当時の口語で「そら!」「さあ!」という相手に注意を促させる感動詞。

とて、取らすなり。季武、袖の上に子を受けて取りければ、亦、女、追々(おふお)ふ、

「いで、其の子、返し得しめよ。」

と云ふなり。季武、

「今は返すまじ。己。」

と云ひて、河より此方の陸(くむが)に打ち上(あが)りぬ。

 然て、館(たち)に返りぬれば、此れ等も尻に走り返りぬ。

 季武、馬より下(お)りて、内に入りて、此の諍ひつる者共に向ひて、

「其達(そこたち)、極じく云ひけれども、此(か)くぞ□□の渡(わたり)に行きて、河を渡りて行きて、子をさへ取りて來たる。」

と云ひて、右の袖を披(ひら)きたれば、木(こ)の葉なむ、少し有りける。

 其の後(のち)、此の竊かに行たりつる三人の者共、渡の有樣を語りけるに、不行(ゆか)ぬ者共、半(なかば)は死ぬる心地なむ、しける。然て、約束のままに懸けたりける物共、皆、取り出だしたりけれども、季武、取らずして、

「然云(さい)ふ許り也。然許りの事、不爲(せ)ぬ者やは有る。」

と云ひてなむ、懸け物は皆、返し取らせける。

 然れば、此れを聞く人、皆、季武をぞ讚めける。

 此の產女と云ふは、

「狐の、『人、謀らむ。』とて爲(す)る。」

と、云ふ人も有り、亦、

「女(をむな)の、子、產むとて死(しに)たるが、靈(りやう)に成りたる。」

と、云ふ人も有り、となむ語り傳へたるとや。

   *

「和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る鎌倉小町の大巧寺の產女塔の由來」寺島良安の百科事典「和漢三才圖會」は私も所持するが、「卷第六十七」の「相摸」国の地誌に載るそれはごく短く、次に掲げる「新編錬倉志」のそれと比しても、電子化する価値を認めないので省略する。「新編錬倉志卷七」の「大巧寺(ダイギヤウジ)」の条にある「產女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ)」を引いておく(リンク先は私の完全電子化注)。なお、本文に出る「夷堂橋」などもリンク先を参照されたい。お望みとあらば、案内し、語りもしよう。

   *

產女の寶塔 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を產女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、每夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、產女の幽魂出て、日棟に逢ひ、𢌞向に預つて苦患(くげん)を免れ度き由を云ふ。日棟これが爲に𢌞向す。產女、金(しんきん)一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に產女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尙存す。夷堂橋の少し北なり。

   *

金」は「施しのための金」を指す。ここでは、自身の廻向のための布施。この一連の説話については、「お大功寺」(現在安産祈願る。祖母結核名古屋後、間借いわ因縁であ公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。

「苦艱」「くげん・くかん」。つらい目に遇って苦しみ悩むこと。艱難(かんなん)。苦患。

「加藤咄堂氏の日本宗敎風俗志」仏教学者(但し、僧籍は持たなかった)で作家の加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)が明治三五(一九〇二)年に森江書店から刊行した書で、以上の記載は「第二篇 地方志」の「第二章 東海道志」の「第六節 安房、上總」の(国立国会図書館デジタルコレクション画像。左端の最後から四行目以降から次頁にかけて)に書かれている。

「上總山武郡大和村法光寺」千葉県東金(とうがねし)市田中にある日蓮宗宝珠山法光寺。現在も寺宝の水晶玉が「ふぶすな(産)の玉」と称されて安産のお守りとして崇められていることがネット情報から確認出来た。(グーグル・マップ・データ)。

「能として居なかつた」「能」は「よし」と訓ずる。]

芥川龍之介 手帳7 (1) 雍和宮

 

芥川龍之介 手帳7

 

[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《7-1》のような表示はない。

 本「手帳7」の原資料は新全集の「後記」によれば、発行年・発行元不詳で、上下十二・四センチメートル、左右六・五センチメートルの左開き手帳と推測される手帳とある。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳7」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。さらに、『この手帳に記されたメモと関わる作品は「手帳6」と重なるものが多い』とのみある。因みに、「手帳六」の構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)である。]

 

   七

 

○赤壁 黃瓦 綠瓦壁(半分) 大理石階 ○黃 赤 紫のラマ 黃色の帽(bishop) ○惜字塔(靑銅)

[やぶちゃん注:「ラマ」既出既注のチベット仏教のラマ僧。

「黃色の帽bishop)」「bishopは本来はカトリックの「司教」や英国国教会の「主教」であるが、ここで芥川龍之介はラマ僧の最高位の者を指して言っているようである。とすると、この人物はラマ教の新教派である黄帽派のそれである可能性が強い。同派は十四世紀の高僧ツォンカパがラマ教の教風改革を図り、厳格な戒律実践を主張し、「ゲルー(徳行)派」を興したが、彼は法会に際し、僧帽を裏返しに被って黄色を表に出したことからこの派を「黄帽派」と呼ぶからである。次の条の頭で龍之介は「和合佛第六所東配殿」と記しており、ここ以下の描写は北京市東城区にある北京最大のチベット仏教寺院雍和宮(ようわきゅう)である。同宮殿は清の康熙三三(一六九四)年に皇子時代の雍正帝の居館として建築されたが、一七二二年に雍正帝が即位した後、皇帝の旧居を他人の住居とすることが憚られたことなどから寄進されて寺院となったものである。私の芥川龍之介北京日記抄 一 雍和宮の本文及び私の注も参照されたい。]

 

○和合佛第六所東配殿 繡幔 3靑面赤髮 綠皮 髑髏飾 火焰背 男數手 女兩手 人頭飾(白赤) 手に幡 孔雀羽 獨鈷戟 4女に牛臥せるあり 上に男 牛皮を着たる小男 男に對す 2象首の女をふむもの 1馬に人皮をかけ上にまたがる 人頭逆に垂れ舌を吐しこの神 口に小人を啣 ○大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍) ○銅鑼 太鼓 赤 金

[やぶちゃん注:「和合佛」芥川龍之介は北京日記抄 一 雍和宮の本文では「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」と、歓喜天として出し、非常に関心を持って描出しており、この条のメモ全体が非常に有効な素材とされていることが判る。リンク先の私の「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」注以下も参照されたい。

「繡幔」「しうまん(しゅうまん)」は刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。

「幡」「はた」。

「獨鈷戟」「どくこげき(どっこげき)」。先端に独鈷杵(とっこしょ)を装着した槍で本来はインドの実戦用の武器であるが、仏教では各種の菩薩が邪気を払う法具として持ち、精進努力を怠らず、菩提心を貫くことを象徴するという。

「逆に」「さかさに」。

「啣」「くはふ」。咥(くわ)えている。

「大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍)」北京日記抄 一 雍和宮の本文では、「歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ」とある。]

 

○法輪殿 兩側ラマ席 黃綠の蒲團 中央に供米(boy 鯉 波)光背ニ鏡をはめた小像(金面) 正面に繡佛 前に白い法螺貝二つ 壁畫の下に山の如き經文あり 繡佛の後に五百羅漢あり 北淸事變の後本願寺大藏經を寄贈す

[やぶちゃん注:「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。雍和宮の建築群中、最も大きい。

「繡佛」「しうぶつ(しゅうぶつ)」。布地に刺繡で縫い現わした仏像。縫い仏(ぼとけ)。

「北淸事變」清朝末期の一八九九年から一九〇〇年に起こった義和団の乱の別称。日清戦争後、山東省の農民の間に起こった白蓮教の一派の武闘派秘密結社義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動してこれを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。]

 

○照佛殿(地獄極樂圖アリ)○第十四所西配殿 十處綏成殿 九處萬福殿(三階) 第八照佛殿 第七處法輪殿 第六所東配殿 五永祐殿 雍和宮 ラマ説碑 寧阿殿(ラマラツパをふく) 天王殿(布袋(金) 現妙明心 乾隆 御碑 石獅 槐)

[やぶちゃん注:「照佛殿」観光された方の記載には現在の雍和宮には「照佛樓」なるものがあるらしいので、それか?

「西配殿」後の「東配殿」とともに(個人サイト)で画像が見られる。

「綏成殿」「すゐせいでん」。建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。

「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。

「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。

「ラマ説碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。一七四四年(乾隆八年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。

「寧阿殿(ラマラツパをふく)」これは中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた四つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りと思われる。北京日記抄 一 雍和宮の本文でも、「それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり」と喇叭を吹くラマ僧を描写している。

「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一つ。通常のラマ教寺院と同じく、ここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす三世仏及び十八羅漢像が安置されている。

「現妙明心」不詳。経典類の総称か?]

 

○萬福 大栴檀木(ウンナン來) 七丈 片手に(右)嗒噠をかく 兩側に珊瑚樹(木製)あり 嗒噠をかく ○背後南海佛陀 龍 龍面人 鬼 鷗 鯉 海老 波 岩 陶佛大一小二

[やぶちゃん注:「大栴檀木」「だいせんぼく」であるが、私はビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album のことではないかと思う。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach があるが、中国ではビャクダン Santalum album のことを「栴檀」と称するからである。

「ウンナン」雲南省(地方)。

「七丈」約二十一・二一センチメートル。

「嗒噠」音なら「タウタツ(トウタツ)」であるが、ここでの意味が分からぬ。識者の御教授を乞う。

「南海佛陀」東南アジア経由で伝来したと思われる特徴を持った仏陀像のことか。]

 

○綏成殿 壁に千佛 三佛 賣不賣 首を切らると云ふ 萬福殿手前の樓上 馬面多頭の怪物(黃面 白面 靑面 赤面) 右足鳥 人をふみ左足、獸人をふむ 人頭飾 手に手 足 首 弓 鉞 坊主幕をとるにいくらかくれと云ふ 和合佛でないと云ふ あけてから 指爪があると云ふ ○關帝殿 (途中 石敷 コブシの大葉 赤壁)木像に衣をつくmogol 式 赤舌あり(左)

[やぶちゃん注:北京日記抄 一 雍和宮の本文では、「それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんぷくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黃面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)」と出る。「萬福殿」(正しくは萬福閣)は法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にあるから誤りではない。

「木像に衣をつくmogol 式」仏像に実際の衣服を着せた着装像のことであるが、“mogol”は、インド古式の(モグール)ムガール式なのか、モンゴル式なのかは不明。もしかすると、ポルトガル語の“mogol”の意味で芥川は用いており、その衣服の素材を言っている可能性もあるかもしれない 所謂、金モールである ムガール帝国で好んで用いられた絹製紋織物の一種で、縦糸に絹糸を用い、横糸に金糸を使ったものが金モール、銀糸を使ったものが銀モールである。]

 

○ラマ畫師、西藏より來る (元明)七軒 30 or 40人 永豐號最もよし(恒豐號へ至る)一年に一萬二三千元賣れる 蒙古西藏に至る(佛□五萬)

[やぶちゃん注:「永豐號」「恒豐號」不詳。ラマ絵師の中で継承された名人雅号か? なお、ここまでが「雍和宮」。最後に中国雍和宮公式サイト伽藍配置をリンクさせておく。]

明恵上人夢記 54

 

54

一、建保七年正月、夢に云はく、京の邊近き處に住房有り。上師とともに此處に在り。師、忽ちに出でて外へ行き給ふ。予、御送りに庭へ下る。一丁許り行きて、上師止めしめ給ふ。予思はく、京にては知らず、迎ふるに良(まこと)に還らむと欲す。顧れば大きなる門有り。師に問ひて云はく、「住房は彼の門の處か。」答へて曰はく、「少しき肱折れて至る也。」卽ち其處より還る。心に思はく、上師、此處を出で、暫く勝れたる處に至りて、彼の處より本の住處へ還り給ふべき也と云々。

[やぶちゃん注:「建保七年正月」一二一九年。まさに、この建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に第三代将軍源実朝が公暁に暗殺されているが、暗殺日と内容(それらしい衝撃を語っていない点)から見て、この夢はそれよりも前の可能性が強い。

「上師」以前にも述べたが、彼が書く言った場合、かの文覚上人或いは母方の叔父で出家最初よりの師で伝法灌頂を受けている上覚房行慈で、それぞれの生没年は、

文覚 保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年七月二十一日

上覚 久安三(一一四七)年~嘉禄二(一二二六)年十月

であるから、文覚なら既に亡くなっており、上覚ならまだ存命である。この場合、軽々には孰れとも断ずることは出来ぬものの、最後の夢中での明恵の妙に現実的な主張からは、生きている上覚である可能性が高いように思われる。

「一丁」百九メートル。

「京にては知らず、迎ふるに良(まこと)に還らむ」難解である。これはまず後半は――師とともに新たに住まうべき、「在るべきまことの場所」「常住の地」後に出る「本」(もと)はその含みと読み、「京の邊近き處」の「本の」「住房」とは読まないということであるにこそ還りたい、還ろう――という謂いであろう。されば、前半は――京に近きところにてはそのような「在るべきまことの場所」はついぞ「知らない」、そのような場所は京(及びその周辺)にはない――という意味ではないか? たった「一丁」であってもそれは夢空間では一町が千里であってよいのである。

「肱折れて」「ひぢおれて」。角を曲がって。これは時空間の歪んだ表現であって、だからこそ前の私の一町千里的解釈と一致するものと考える。]

□やぶちゃん現代語訳

54

 建保七年正月、こんな夢を見た。

 京の辺り、大内裏に近き所に住房がある。私は上師とともに此処に住まっている。

 師が、突然、その房を出て外へ行かれる。

 私は師をお送りするために庭へと降りた。

 二人して一町ばかり行くと、上師はそこで私をお停めになられた。

 私がその時、心に思ったことは、

『――京にはそのようなところはない――師をお迎えし、我らもともにその「まことの在るべき常住の地」に還ろう――』

という強い願いであった。

 後ろを顧みると、そこには大仰な如何にもな門があった。

 私は師に問うて尋ねた。

「住房はかの門のところでしょうか?」

 師は答へて仰せられた。

「――いや――少しき角を曲がって行きつく場所である。」

 そこで、しかし、師は私を従えて、その路上より、元の住房へと帰ってしまわれた。

 私は心に思った。

『上師は、この喧しく生臭い住房を出でて、一時、勝(すぐ)れたる「まことに在るべき」場所へとたどり着かれ、かの住房から、本(もと)「あるべきまことの」棲家へとお還りなさるべきである。』

と…………

 

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(1) 序 / 一 增加の割合

 

    第六章 動植物の增加

 

 野生の動植物にも遺傳性と變異性とのあることは前章に述べた通りであるから、一種の淘汰が之に加はりさへすれば、恰も飼養動植物が人爲淘汰によつて種々の著しい變種を生じたのと同樣に、代々必ず少しづゝ變化し、終には積つて先祖とは甚しく異なつたものとなる筈であるが、實際は如何と考へて見るに、野生の動植物間には確に人爲淘汰よりも嚴しい一種の淘汰が日夜絶えず自然に行はれて居る。その有樣を簡單に述べれば次の通りである。

 先づ動植物の繁殖の割合は何種を取つてもなかなか盛であるが、地球上に動植物の生存し得る數には、食物その他の關係から一定の際限があつて、到底生れた子が悉く生長し終るまで生存することは出來ず、一小部分だけは親の跡を繼いで行くが、その他は總べて途中に死に絶えて、全く子孫を殘さぬ。卽ち生存の競爭に打勝つたものは後へ子孫を遺すが、敗けたものは皆死に失せる。而して如何なる者が生存競爭に打勝つかといへば、無論生活に適した者が生存するに定まつて居るから、代々多數のものの中から、最も生活に適したもののみが生存して繁殖する譯になるが、之がダーウィンが初めて心附き、生物進化の主なる原因として世に公にした自然然淘汰である。

 

     一 增加の割合

 

 自然淘汰の働きを明に理會するためには、先づ動植物は如何なる割合に繁殖するもので、若し生れる子が悉く生長するものとしたならば、如何なる速力で增加するものであるかを知ることが必要である。

 嘗てリンネーは植物の增加力の盛なことを示すために、次の如き場合を假想した。こゝに一本の草があり、二個の種子を生じて一年の末に枯れてしまふ。翌年にはその二個の種子から二本の草が出來、各二個づゝの種子を生じてその年の末に枯れてしまふ。斯く代々一本の草が各々二個づゝの種子を生じて進んで行つたならば、如何に增加すべきかといふに、十年の後には千本以上となり、二十年の後には百萬本以上となり、三十年の後には十億本以上となる。之は東京邊でよく人のいふ愛宕山の九十六段ある石段の一番下の段に一粒、次の段に二粒、また次の段に四粒といふやうに、倍增して米粒を置いて行くときは一番上の段まで置くには幾粒を要するかといふ問と同じ理窟で、一段每の增加はたゞ一と二との剖合であるが、所謂幾何級數卽ち鼠算で殖えて行くから、忽ち驚く程に增加し、十囘每にアラビア數宇の位取りが三段づゝも進む勘定となるから、百囘目には數字を三十以上も竝べて書かなければならぬ程の、到底我々の考へられぬやうな大數となる。象は總ベての動物中で最も繁殖の遲いものであるが、凡そ三十歳位で生長を終へ、九十歳になるまでの間に平均六疋の子を生み、百歳まで生きると見積つて勘定しても、若し生れた子が悉く成長するものとしたならば、七百四五十年の間には一對の象の子孫が千九百萬疋程になる。

 以上は兩方ともに繁殖力の最も少い場合を想像したものであるが、動物中に象ほど少く子を生むものは外に例が少い。また每年僅に二個の種子より生ぜぬやうな植物は實際決して一種類もない。どの動植物でも之よりは遙に多數の子を生ずるものであるが、動物の中で最も多くの子を生むもので、人のよく知つて居る例は、魚類・昆蟲類等である。新年の祝儀に使ふ數(かず)の子(こ)は鯡(にしん)の子であるが、卵粒の頗る多い所から子孫の多く生れるやうに、一家の益々繁昌するやうにとの意を寓して斯く一般に用ゐるのであらう。一體、魚類は卵を生むことの多いものであるが、鱈(たら)などは一度に殆ど千萬に近い程の卵を生む。我が國の人口の七分の一に匹敵する程の卵を一度に生むとは實に驚くべきである。また蠶の種紙には一面に附いて居る細い卵粒は僅の雌蛾の生み付けたものである。多くの昆蟲は略々之と同樣に多くの卵を生む。かやうな例か一々擧げたらば到底限はない。次に植物は如何と見るに、之は尚一層明で、一年生の小い草でも一粒の種子から出來た草に何百粒かの種子が生ずる。大きな樹木になれば、每年何個づゝの種子を生ずるかなかなか數へ盡せぬ。更に菌類などを調べると、その種子の數は實際無限といふべき程で、一個一個の種子は、五六百倍の顯微鏡で見なければ解らぬ位な、極めて微細なものであるが、その數は到底我等は想像も出來ぬ。傘の開いた生の松蕈を黑塗の盆の上に伏せて置くと、暫くの間に傘の下だけが一面に白く曇るが、之は全く無數の目に見えぬ程の種子が落ちて積つたためである。

[やぶちゃん注:「鱈(たら)などは一度に殆ど千萬に近い程の卵を生む。我が國の人口の七分の一に匹敵する」本書は大正一四(一九二五)年九月刊行の版で、その前年で、

大正一三(一九二四)年 58875.6千人(約五千八百八十七万五千人)

刊行の同年でも、

大正一四(一九二五)年 59736.7千人(約五千九百七十三万七千人)

であるから、丘先生は一千万人ほど多く鯖を読んでいる。参照した総務省統計局公式データ(エクセル・データ)よれば、日本の人口が七千万人に達するのは、刊行から十一年後の

昭和一一(一九三六)年 70113.6千人(約七千   十一万三千人)

である。

「松蕈」「まつたけ」。松茸(菌界担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属 Tricholomaキシメジ亜属 Tricholomaマツタケ節 Genuinaマツタケ Tricholoma matsutake)。]

 

 斯くの如く動植物の一代の間に生む子の數には種々の相違があり、象の如く僅に六疋位より生まぬもの、菌類の如く無限の種子を生ずるものなどがあつて、子の多い少いには甚だしい不同があるが、若し生れた子が悉く生長し繁殖したならば、必ず幾何級數の割合に增加すべきことは理窟上明白なこと故、孰れの場合に於ても、代々生れた子が悉く生存することは決して望むべからざることである。非常に多數の子を生ずる動植物が代々生れただけ悉く生長したならば、忽ち地球の表面に一杯になるであらうとは、誰も直に考へるであらうが、少數の子を生む動植物とても幾何級數で進む以上は、理窟は全く同樣で、前に擧げた愛宕山の石段に米粒を置く譬の如く忽ちにして地球の表面には載せ切れぬ程になつてしまふ。たゞこの有樣に達するのが、多くの子を生む動植物に比べると、幾年か後れるといふだけに過ぎぬ。遠海の無人島に海鳥や膃肭獸類が無數に群集してゐるのも、決して親が每囘多數の子を産むためではなく、僅に一箇の卵または一疋の子を産んだものが多く生き殘つて繁殖する結果である。

[やぶちゃん注:「膃肭獸」「おつとせい」と読んでいる。通常、現在では「オットセイ」(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae)の漢字表記は「膃肭臍」である。]

 

Robben

 

[「ろっぺんがも」の群棲]

[やぶちゃん注:底本キャプション(右から左書き)の鍵括弧は一見、丸括弧のように見えるほどに有意に歪んでいるが、鍵括弧と断じた。以下、これは注さない。

「ろっぺんがも」英和辞典で調べると、“guillemot”(ギルマート)でウミガラス(学名は後掲)・ウミバト(チドリ目ウミスズメ科ウミバト属ウミバト Cepphus columba)の類の海鳥の総称として出るが、図に出る形態とその断崖上での群棲様態から見てこれは、チドリ目ウミスズメ科ウミガラス属ウミガラス(海烏)Uria aalgeである。ウィキの「ウミガラス引用はそこ。但し、それ以外の一部ではその他のネット記載も複数、参考にした)等によれば、体長四十~四十五センチメートルで体重は一キロ程になり、『背中が暗褐色で、腹は白い。冬羽では頬のあたりまで白い部分が増える。くちばしは長く、脚は尾の近くにあって、翼も尾も短く、陸上で直立歩行をする姿はペンギンを想像させる』(「北のペンギン」という異称もある)。『北太平洋と北大西洋、北極海に広く分布する。日本周辺では樺太の海豹島』・海馬島・ハバロフスク周辺・歯舞群島に『分布し、冬期には本州の北部まで南下する』。『水中では翼で羽ばたいて泳ぎ、水深』五十メートル(最深観察記録百八十メートル)を三分間ほど『潜水できる』。但し、『脚が体の後方にあるため、陸上を歩くのが苦手である。巧みに潜水してイカ』・シシャモ・イカナゴ・カジカ・ギンポ『などを捕食する。雛に給餌する場合、半分のどに入れた状態で繁殖地へ戻る』。『飛ぶ時は短い翼を高速で羽ばたき、海面近くを飛ぶ』。『繁殖期には無人島や陸生の捕食者が近づけないような崖や崖の上に集団でコロニー(集団繁殖地)を作る』。密度は最大で一平方メートル当り二十羽で、『多くの個体の繁殖開始年齢は』五歳。少なくとも二十年は『繁殖が可能である』。『巣を作らず岩や土の上に直接』、一個のみ『産卵する。卵が失われた場合』は、一『度だけ産み直すことがある』。『卵は他の鳥に比べると一端が尖っており、「セイヨウナシ型」と呼ばれる。この形状は転がっても』、『その場で円を描くようにしか転がらないため、断崖から落ちにくい。平均抱卵日数は』三十三日で、ヒナは生後、平均二十一日間は『繁殖地にとどまり』、『親鳥の半分くらいの大きさでまだ飛べないうちに繁殖地から飛び降り』て『巣立ち』するが、それ以後二ヶ月の間は未だ『海上で親鳥の世話を受ける』。『かつては北海道羽幌町天売島、松前町渡島小島』・ユルリ島・モユルリ島『で繁殖し、その鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれていた。しかし、漁網による混獲、観光による影響、捕食者の増加、エサ資源の減少などにより数が減少したと考えられ』、二〇一〇年には天売島で十九羽が飛来し、『数つがいが繁殖するのみで』、『国内の繁殖地が失われる危機にある。天売島では繁殖地の断崖にデコイや音声装置を設置し、繁殖個体群の回復の試みがおこなわれている』もののあまりかんばしい成果は上がっていない模様である。『繁殖失敗の原因の一つはハシブトウミガラス』(チドリ目ウミスズメ科ウミガラス属ハシブトウミガラス Uria lomvia:本種とよく似ているが、嘴の根元に白い線が入ること、夏羽の喉元に白い羽毛が字型に切れ込むこと、冬羽でも顔が殆んど黒いことなどで区別出来る)や『オオセグロカモメ』(チドリ目カモメ亜目カモメ科カモメ属オオセグロカモメ Larus schistisagus)『による卵や雛の捕食である。オオセグロカモメは大型のカモメで近年数を増加しており』、『漁業や人間の廃棄物を餌として利用してきたことがその原因の可能性がある。天売島では捕食者であるオオセグロカモメがウミガラスの個体数よりも多く、他の繁殖地よりもウミガラスへの捕食圧が高いことを示唆している。実際に、天売島のウミガラスは過去に繁殖していた赤岩・屏風岩・カブト岩などの開けた場所では繁殖しなくなり、捕食者の攻撃から卵や雛を守り易い狭い岩のくぼみなどで音声やデコイによって誘引されながらかろうじて繁殖をしている状況である』。なお、丘先生の呼称にある「ロッペン」はサハリンの繁殖地海豹島の原島名「ロッペン島」に由来する。同島は一六四三年(寛永二十年相当)にオランダの航海家マルチン・ゲルリッツエン・フリースが発見し、“Robbe Eylant”Robbeneiland)と名付けたことに由来する。ウィキの「によれば、『オランダ語で単にRobbenといえばアザラシのことであるが、アシカをOorrobben(耳のあるアザラシの意)と呼ぶなど鰭脚類の動物一般を指す言葉でもあるこれはヨーロッパの言語では珍しいことではなく、英語ではオットセイをfur seal(毛皮用のアザラシの意)と呼び、あるいはリンネはオットセイの学名をPhoca ursina(熊のようなアザラシの意)としたなどの例が挙げられる。したがってこの島をRobbenと名付けたのはオットセイに由来すると考えられ、それを海豹(アザラシ)と翻訳したのはある種の誤訳といえる』とし、ロシア語の名称の“Остров Тюлений”(チュレーニー島)も同じ「アザラシの島」の意であり、現行の日本語の島名もオランダ語の直訳であるとする。]

 

Ottoseigusei

 

[「をつとせい」の群棲]

 

 動植物は單に理窟上ここに述べた如く速に增加すべき力を有するといふのみならず、實際に於て殆ど斯かる割合に繁殖した例が幾らもある。動植物の增加力の非常に盛なことは自然淘汰を論ずるに當つて一刻も忘るべからざる肝要の點である故、二三の著しい實例を次に擧げて見よう。

 

2017/05/22

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 天漿子 (ナミハナアブの幼虫に同定)

Namihanaabu

くそむし 糞蟲 屎蟲

天漿子

     【俗云久曾無之】

 

和劑局方以糞蟲爲天漿子本綱以雀甕中子爲天

 漿子入門云治驚風可用雀甕子治疳方須用此天漿

 子六月取入布袋置長流水中三日夜晒乾爲末此蟲

 夏月生糞尿中初生如蛹白色老則灰色有節長尾無

 足滾行而形似萊菔子莢羽化爲大蠅【形似俗云布牟布牟虫云】

[やぶちゃん注:「」=(上)「L」字形の内部に「人」+(下)「虫」。東洋文庫は「虻」の字を当てており、事実、原典でも読みとして「アブ」と振っているので、訓読では「虻」を用いることとする。]

避屎蟲咒歌 書之貼厠口則不日屎蟲消散但可倒貼

[やぶちゃん注:以下の字配はブラウザの不具合を考慮して上げた。]

今年より卯月八日は吉日よ尾長くそ虫せいばいそ
                     す

 

 

 

くそむし 糞蟲〔(くそむし)〕 屎蟲〔(くそむし)〕

天漿子

     【俗に云ふ、「久曾無之〔(くそむし)〕」。】

 

按ずるに、「和劑局方」には糞蟲を以つて天漿子〔(てんしやうし)〕と爲〔(な)〕す。「本綱」には、雀甕(〔すずめ〕のたご)の中の子を以つて天漿子と爲す。「入門」に云く、驚風を治するには、雀甕子を用ふべし、疳を治するには方〔(まさ)〕に須らく此の天漿子を用ふべし。六月、取りて布の袋に入れ、長〔き〕流水の中に置くこと三日、夜、晒〔し〕乾〔して〕末と爲す。此の蟲、夏月、糞尿の中に生じ、初生、蛹〔(さなぎ)〕のごとく白色、老する時は則ち、灰色。節、有りて長尾。足、無し。滾〔(ころ)〕び行〔(ゆ)き〕て、形、萊菔(だいこん)の子(み)の莢(さや)に似る。羽化して大蠅と爲る【形、虻(あぶ)に似、俗に「布牟布牟虫〔(ふんふんむし)〕」と云ふ。】

屎蟲を避くる咒歌〔(じゆか)〕 之れを書きて、厠〔(かはや)〕の口に貼(は)れば、則ち、日あらずして、屎蟲、消散す。但し、倒(さかさま)に貼(は)るべし。

[やぶちゃん注:ブログでの不具合を考え、和歌の位置を上げた。]

今年より卯月〔(うづき)〕八日は吉日〔(きちじつ)〕よ尾長くそ虫せいばいぞする

 

[やぶちゃん注:一読、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscomorpha に属するハエ(蠅)類の幼虫かと思うが、実は既項目として広義の「蛆」(「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蛆」)があった。ウィキの「ハエ」の「幼虫」によれば、一齢で孵化し、三齢で終齢となる。『いわゆる蛆(ウジ)であり、無脚でかつ頭蓋(とうがい)など頭部器官はほとんど退化している。その代わりに複雑強固な咽頭骨格が発達している。咽頭骨格の先端には口鉤(こうこう)というかぎ状部が発達し、底部にはろ過器官(pharyngeal filter)が見られる』。『ハエの幼虫の多くは腐敗、あるいは発酵した動植物質に生息し、液状化したものを吸引し、そこに浮遊する細菌、酵母といった微生物や有機物砕片といった粒状物をpharyngeal filterによってろ過して摂食する』とある。しかし、どうも何か、おかしい。何より図を見られたい。

この蛆、鼠のような長い尾を持っているではないか!?

これは実は、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini に属するナミハアナブ類の幼虫で、通称「尾長蛆」と呼ばれるもの

なのである(但し、タクソン名で判る通り、彼らは「アブ」ではなく、確かに「ハエ」なのである)。ウィキの「ハナアブ」によれば、彼らの幼虫(蛆)は水中生活をし、『円筒形の本体から尾部が長く伸張して先端に後部気門が開き、これを伸縮させてシュノーケルのように用いて呼吸する生態からオナガウジ(尾長蛆)の名で知られている。この仲間は生活廃水の流れ込む溝のような有機物の多いよどんだ水中で生活するものがよく知られているが、ほかにも木の洞(樹洞)に溜まった水の中でゆっくりと成長する種もある』。また、ナミハナアブ族ナミハナアブ属ナミハナアブ Eristalis tenax や同属のシマハナアブ Eristalis cerealis など、『オナガウジ型のナミハナアブ族の幼虫の一部は生活廃水の流れ込む溝や家畜の排泄物の流れ込む水溜りといったごく汚い水に住み、その姿が目立っていて気味悪がられることが多い。この類の成虫はミツバチにきわめてよく似ており、アリストテレスがミツバチがどぶの汚水から生まれるとしているのは、これと見誤ったからではないかと言われる。』本種はかなりひどい汚水環境を好み、実際に旧式のトイレやその周辺で見つけたいというネット記事も多いのでこれで決まりである。

「和劑局方」本来は、北宋の大観年間(一一〇七年~一一一〇年)に国家機関の肝煎で発行された医薬品処方集で、初版は全五巻で二百九十七の処方を収め、当時の国定薬局方でもあったものを指すが、ここのそれは、その後にそれの増補が繰り返され、紹興年間(一一三一年~一一六二年)の一一五一年に書名を改題して「太平恵民和剤局方」(全十巻・七百八十八処方収録)として発行されものを指す。

「雀甕(〔すずめ〕のたご)の中の子」この場合は蠅の幼虫でなく、鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ボクトウガ上科イラガ科イラガ亜科イラガ属 Monema に属するイラガ類或いはその近縁種の作る繭の中の幼虫ということになる。先行する「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雀甕」の本文及び私の注を参照されたい。

「入門」「醫學入門」。明の李梃(りてい)に寄って書かれた総合的医学書。一五七五年刊。

「驚風」(きょうふう)は小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。

「疳」は「癇の虫」と同じで「ひきつけ」などの多分に神経性由来の小児病を指す。

「末」粉末。

「老する時」老成すると。終齢の三齡を迎えると。

「滾〔(ころ)〕び行〔(ゆ)き〕て」東洋文庫版が「滾行」に『ころがりゆき』とルビを当てているのを参考に附した当て読みである。

「萊菔(だいこん)の子(み)の莢(さや)」大根の種の莢。

「布牟布牟虫〔(ふんふんむし)〕」不詳。現在は生き残っていない呼称らしい。

「咒歌〔(じゆか)〕」まじないの和歌。

「倒(さかさま)に貼(は)るべし」しばしばこの手の呪(まじな)いで見られる手法で、魔に素直に読まれないようにすることを目的とするものであろう。

「今年より卯月〔(うづき)〕八日は吉日〔(きちじつ)〕よ尾長くそ虫せいばいぞする」「うづき」の「う」と「きちじつ」の「じ」で「うじ」が読み込まれているのではないかと思ってかく読みを振った。言上げする以上、成敗する対象が既にしてその中に「尾長くそ虫」以外に隠れて名指されていなくては呪いにならぬと私は思うたからである。]

 

北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

      ○惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

蒙古大元の世祖忽必烈(こつびれつ)は、今度大軍を鏖(みなごろし)にせられ、憤(いきどほり)、尤も深く、如何にもして日本を討隨(うちしたがへ)へ、この怒(いかり)を休(きう)せんと、寢食を忘れて祕計を𢌞(めぐら)すといへども、智謀雄武の日本國を容易(たやす)く討(うつ)て、急迫(きふはく)には滅難(ほろぼしがた)からん。只その弊(つひえ)を伺ひ、時節を計るに加(しく)なしとて、日本の樣(やう)を聞居(きゝゐ)たり。この比(ころ)、龜山の新院、鎌倉の北條、京、鎌倉の間、佛心宗を崇敬(そうきやう)し、禪法を歸仰(きかう)し給ふ事、都(すべ)て諸宗に超過せり。抑、本朝に禪法の弘通(ぐつう)する事、遠くは聖德太子、直(ぢき)に達磨(だるま)の心印(しんにん)を傳へ給ふといへども、その名のみ論書に見えて世に知る人もなし。淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし。橘(たちばなの)皇太后と申し奉り、深く佛法に歸依し、道德の僧を講じて法門を聞召(きこしめ)す。眞言密法を空海和尚に聞き給ふ。その便(たより)に問ひ給はく、「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」と。空海、答へて宣く、「大唐國に佛心宗とて候ふなる、是、則ち、南天(なんてん)菩提達磨の傳來せし所、盛(さかり)に彼(かの)地に行はれ候。然れども、空海、是を究(きはむ)るに暇(いとま)なくて、歸朝致し候」と申し給へば、橘皇太后、「さては又、如來の大法、未だ唐國に留りて傳らず。是、大に悕(こひねが)ふ所なりしとて惠蕚(ゑがく)法師に勅して、文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる。唐の宣宗皇帝大中の年なり。惠蕚、卽ち、登萊(とくねき)の界(さかひ)より鴈門(がんもん)、五臺(だい)を經て、杭州の靈池寺(れいちじ)にいたり、齊安(せいあん)禪師に謁して、宗門の直旨(ぢきし)を極め、禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる。京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふといへども、根機(こんき)、未だ熟せざりけるにや、世に知る人も希なりけり。寶治の比(ころ)、蜀の僧、隆蘭溪、本朝に遊化(いうげ)せらる。最明寺時賴、厚く禮敬(れいきやう)を致し、巨福山建長寺を立てて、開山とす。相摸守時賴は、祖元を開山として瑞鹿山圓覺寺を創めて、宗門を弘通せしむ。京都には建仁寺の榮西禪師より起りて、主上、上皇、この法に御歸依あり。攝家、淸華(せいくわ)の輩(ともがら)、皆、宗門の弟子となり、四海、是に依て、禪法の繁昌(はんじやう)する事、頗る鎌倉に超過せり。殊更、この比は、日本の諸國、佛心宗を尊びて、公家武家共に頭を傾(かたぶ)くる由、元朝に傳聞(つたへきゝ)て、王積翁(わうせきをう)と云ふ者を使者として、如智(によち)と云へる禪僧を此日本にぞ渡しける。王積翁は海路の間、同船の者に刺殺(さしころ)されしかば、日本の風俗を伺ひ見るべきやうもなく、如智も、その名を知る人なし。海中にや入りぬらん、元國にや皈りけん。その終(をはり)は聞及ばず。愈(いよいよ)、本朝、この宗、普(あまね)く弘(ひろま)りて盛なれども、異國襲來の備(そなへ)をば堅く守り、強く誡めて、西海の湊々(みなとみなと)は、更に用心怠る時なし。

[やぶちゃん注:「佛心宗」禅宗の異称。文字などに依らず、直ちに仏心を悟ることを教える宗門の意。

「達磨」中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧菩提達磨大師(サンスクリット語音写:ボーディダルマ 生没年未詳。五世紀末から六世紀末の人とされる)。南インドで王子として生まれたが、般若多羅から教えを受け、中国に渡って禅宗を伝えた。

「心印」禅宗用語としては、以心伝心によって伝えられる悟り、決定(けつじょう)していて不変である悟りの本体のことを指す。

「淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし」「淳和天皇」(第五十三代)は「嵯峨天皇」(第五十二代)の誤り。嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)は橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣橘清友の娘。諡号は檀林皇后。ウィキの「橘嘉智子によれば、『世に類なき麗人であったといわれる。桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后したと考えられ』ている。『仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺』(承和年間(八三四年~八四八年)に洛西嵯峨野に創建された。後に出る通り、開山は唐僧の義空で、京都で最初に禅を講じた寺として知られる。盛時は壮大な寺院として塔頭十二坊を数えたと伝えられるが、皇后の没後、急速に衰え、平安中期には廃絶した。その跡地に建てられたのが夢窓疎石を開山とした天龍寺である)『を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。嵯峨天皇譲位後は』ともに『冷然院・嵯峨院に住んだ』が、『嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるため』、承和の変(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らが謀反を企てたとして流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥道康親王が皇太子となった)にも『深く関わったといわれる。そのため、廃太子・恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている』。『仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず』、『路傍に放置せよと遺言し、帷子辻』(かたびらがつじ:現在の京都市北西部にあったとされる場所)『において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれ』。或いは、『その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある』とある。

「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」の「是」は空海の教えた真言宗を指す。

「南天(なんてん)」南インド。

「惠蕚(ゑがく)法師」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。ウィキの「惠蕚によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は先行する「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこでも私は注しているので、参照されたい。

「文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる」「齊衡」は八五四年から八五七年。これではしかし嘉智子の没後(嘉祥三(八五〇)年没)となり、如何にもおかしい。前注の通り、彼が弟子とともに入唐して五台山に至ったのは唐の会昌元(八四一)年)とするのがピンとくるから、この叙述は変である直後に「宣宗皇帝大中の年なり」とあるが、大中は八四七年から八五九年で、二つを合わせると、入唐はユリウス暦八四七年から八五七年の間ということになり、これだと、嘉智子の晩年と三年だけかぶるからまだしもではある

「登萊(とくねき)」読みはママ。山島半島の北側にある登(とう)州と萊(らい)州のこと。

「鴈門」山西省北部にある句注山(雁山)のこと。中国史に於ける北辺守備の要地。

「五臺」山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった。

「靈池寺」杭州塩官県の霊池院。現存しない模様。

「齊安禪師」塩官齊安 (?~八四二年)。「碧巖錄」の「第九十一則 鹽官 (えんかん)の犀牛 (さいぎう) の扇子」などで知られる禅僧。

「禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる」恵萼の帰朝は、先の注に記した、唐宣宗の大中一二年、本邦の天安二年、ユリウス暦八五八年のことであった。因みに、この年の八月、文徳天皇は薨去し、清和天皇が践祚している。

「京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふ」時代が齟齬している。おかしい

「根機」時機。禪語で言うなら、禅宗が広まるための禪機である。

「寶治」一二四七年~一二四八年。

「隆蘭溪」蘭溪道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年:建長寺にて示寂)。この辺りは先行する「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「遊化」教化のために来日したこと。

「祖元」蘭溪道隆の後継として来日した無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年:建長寺にて示寂)。この辺りも私の「新編鎌倉志卷之三」の「圓覺寺」の項を参照されたい。

「榮西禪師」備中国賀陽郡(現在の岡山県加賀郡吉備中央町)の神官の子であった臨済僧明菴栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)。正治二(一二〇〇)年に北条政子が建立した寿福寺の住職に招聘され、建仁二(一二一二)年には鎌倉幕府第二代将軍源頼家の外護により、京都に建仁寺を建立(同寺は禅・天台・真言の三宗兼学)、以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努め、建仁寺で示寂した。

「攝家」摂関家。

「淸華」現行では「せいが」と濁る。清華家。公家の家格のの一つで最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「王積翁」(一二二九年~一二八四年)が殺されたのは、先例に徴して日本に行けば問答無用で斬首されると恐れた水夫らの反乱によるものと考えられているようである。

「如智」不詳。補陀禅寺の長老という記載をネット上では見かけた。

「皈り」「かへり」(歸り)。]

 

「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」

 

 イハナ坊主に化たる事

  幷、鰻同斷の事

Ihanabouzu

 濃州地の内、信州堺、御嶽山(おんたけさん)[やぶちゃん注:岐阜県下呂市及び高山市と長野県木曽郡王滝村に跨る。標高三〇六七メートル。]の麓の方へ寄(より)たる所は、我國[やぶちゃん注:尾張国。]の御領にて川上付知(つけち)加子母(かしも)と[やぶちゃん注:旧岐阜県恵那郡加子母村。「東濃檜」の主産地として知られる。現在は中津川市加子母。御嶽山の南西麓。ここ(グーグル・マップ・データ)。]云(いふ)村有。是を三ケ村(さんかそん)[やぶちゃん注:現在の中津川市の北部に位置する旧加子母村・付知村・川上村は、裏木曽三ヶ村と呼ばれ、尾張藩(旧天領)御料林域として豊かな森林資源に恵まれていた。]と云。【恵那郡也。】是、濃州の東北、深山の村の極(きはみ)なり。【五穀不毛の地にて山稼(やまかせぎ)のみの所なり。】此邊にては、毒もみと云事をなして、魚を獵するなり。【辛皮(からかは)[やぶちゃん注:山椒(双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum)の実の皮のことであろう(現在は山椒の木の薄皮を佃煮にしたものを食品としており、それをかく呼称している)。山椒の種子の皮に含まれるサンショオール(α-Sanshool・脂肪酸類縁体)には麻痺成分が含まれ、「毒揉(どくも)み」にはよく使われた。現在、この漁法は水産資源保護法によって禁止されている。]に石灰とあく灰(ばい)とを入(いれ)、せんじめ團丸(だんぐわん)となして淵瀨へ沈(しづむ)るなり、追付(おつつけ)、淵瀨一面に魚虫毒死するなり、方數十丈[やぶちゃん注:十八メートル四方前後。]の淵にても、僅(わづか)團丸二つ三つにて魚類悉く死するとなり、又其中へ小便を一度すると、毒に當りたる魚類忽ち蘇生してにげ失るゆゑ、毒もみには小便を禁ずる事也、能(よく)毒の妙は種々の事あるものなり。】或時、若き者ども、山稼に入て、其所の淵は至(いたつ)て魚多き故、けふは、晝休(ひるやすみ)に毒揉をなして、魚を捕(とり)て、今宵の肴(さかな)とせばや迚(とて)、朝より其催(もよほし)を企て[やぶちゃん注:毒団子を製するのには相応の時間がかかることが判る。]、やがて晝にも成(なり)たる頃、皆々一所に寄集(よりあつま)りて、晝飯を給(たべ)居(ゐ)たる所へ、何國(いづくに)より來りけん、坊主一人來りていふ樣(やう)、そち達は魚をとるに毒揉をなすが、是は無躰成(むたいなる)事なり外の事にて魚を捕え[やぶちゃん注:ママ。]兎も角もあれ、毒揉は決してなす間敷(まじき)と云。成程、毒流しはよからぬ事に候半(さふらはん)、以來、止申(やめまうす)べきと答へければ、毒揉は、魚と成(なり)ては遁(のが)れ方(かた)なく、誠に根だやしと成(なる)なり。以後は必(かならず)なし申(まうす)まじくと異見したり。皆々薄氣味もわるく成て、もふ愼み申べしと云ながら食事せしに、件(くだん)の坊主、直(ぢき)には立去(たちさ)らず、側に彳(たたず)み居(をり)たり。折節、人々團子(だんご)を喰居(くひをり)て餘りもあれば、是をたべられぬかと云(いひ)て坊主へ與(あたふ)るに、むまそふに[やぶちゃん注:「うまそふに」(美味そうに)。]給(たべ)たり。飯も餘りの澤山にあれば、是も給られぬかと、又與ふるに、悅んでたべたり。其内に、重ねては汁の殘りもあり、かけて進申(しんぜまう)すべしとて、汁懸(しるかけ)にして遣はせしに、此飯、甚だ給にくき樣子なれど、殘らずたべ終りて、去行(さりゆき)たり。跡にて、人々顏を見合(みあひ)て云樣(いふやう)、あれはいか成(なる)僧にや、此山奧は、出家の來(きた)るべき所に非ず、甚(はなはだ)不審なり。日頃、我等が惡所業をなせしを、山の神の來りて止(と)め給ふものか、又は弘法大師抔の來り給ふて、誡め給ふのにやあらん、以來は、もふ[やぶちゃん注:「もう」。]毒揉は止(やめ)にするがよきぞと云もあれど、又、強氣成(つよきなる)者は聞入(ききいれ)ずして云樣、此深山へ日々入込居(いりこみを)るものが、山の神や天狗がこはくば、山稼は止(やむ)るがよし、心臆(こころおく)したるものは兎(と)もあれ、いざや、我々計り毒揉なすべしとて、究竟(くつきやう)なる[やぶちゃん注:力を持て余した。]元氣者共、二三人して、遂に其日も毒揉をなしにけり。將(ま)して得物も多き中に、イハナ[やぶちゃん注:硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis 或いは日本固有亜種ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius 又は日本固有亜種ヤマトイワナ Salvelinus leucomaenis japonicus。]の、その丈け六尺程の大魚を得たり。皆々悅びて、さきの坊主の異見に隨はゞ、此魚は得られまじなど、口々に云罵(いひののし)りて、やがて村へ持歸り、若き者共、大勢寄集(よりあつま)りて、彼(かの)大魚を料理(つくり)、腹を割(わり)たるに、こは如何に、晝、坊主に與へたる團子を初め、飯なども其儘あり。此時に至りて、かの强氣(がうき)なる者迄も氣分臆(おく)れて、この魚は、得食(えしよく)せざりしと也。昔より、イハナは坊主に化(ばけ)るとの事、右三ケ村邊(あたり)にても、土俗云傳(いひつたふ)る事なりしに、現に坊主に化來(ばけきた)りたると也。是は、予が知己、中川何某、先年、彼むらへ久敷(ひさしく)勤役(ごんえき)なし居(ゐ)て、慥(たしか)に聞來(きききた)る咄なり。信州御嶽山の前後には、四尺五尺に及びたる大イハナも、折節は居ることなりと云。此邊、何れにても、土俗、おしなへて坊主に成(なる)と云來(いひきた)る事也。予、文政三年【庚辰(かのえたつ)】[やぶちゃん注:一八二〇年。]の夏、木曾路旅行の時、イハナの坊主に成たる事や有(ある)と、所々尋下(たづねくだ)りけるに、奈良井(ならゐ)[やぶちゃん注:中山道の宿場奈良井宿。現在の長野県塩尻市奈良井。ここ(グーグル・マップ・データ)。西側に接して次の藪原地区も確認されたい。]・藪原[やぶちゃん注:現在の長野県西部の木曾谷の北部にある木祖(きそ)村の中心集落で、古くは「やごはら」とも呼ばれた。鳥居峠の南麓にあって同北麓の奈良井とともに中山道の峠越えの宿場町であり、同時に北西方の境峠を越えて飛驒高山へ出る飛驒街道の分岐点でもあって交通の要所として栄えた。木曾谷の伝統産業である「お六櫛」の生産の中心で、現在も製材・木工業が発達している。]邊(あたり)に至りて、人足の内に、イハナの坊主に成たりと云咄しを知り居(をり)たる者、兩人有。是は、水上、御嶽山より出て、東のかたへ流れ出(いづ)る何とか云(いふ)川の瀨にて、毒流(どくながし)[やぶちゃん注:「毒揉み」に同じ。]にて、珍敷(めづらしき)イハナを二尾まで取(とり)て、一尾は五尺餘あり、一尾は少しちいさく五尺程有との事。腹中に團子あり。その團子はその日、山中にて、坊主に與へたる覺(おぼえ)のある團子なれば、皆々甚だ恐れ候との咄は、慥に承り候得ども、我々は少し所違ひ故、その魚は得見申さず候といふ。前の三ケ村の咄と全く同じ樣成(やうなる)事にて、いづれも、御嶽山の麓續きながら、西と東の違ひ故、その場所は三四十里程隔たれば、全く別の事也。狐は女と成(なり)、狸は入道と成、猫俣(ねこまた)は老婆と成(なる)の類(たぐひ)にて、イハナは坊主と化る者と見えたり。【濃州武儀(むぎ)郡の板取川(いたどりがは)[やぶちゃん注:現在の岐阜県と福井県の県境付近を水源として岐阜県関市・美濃市を流れ、長良川に合流する木曽川水系の河川。ここ(グーグル・マップ・データ)。]には大なるイハナ澤山にて、常々坊主に化て出(いづ)ると也、猶、其事は其地の者に篤(とく)ときゝ探りて、重ねて委(くはし)く記す積りなり。[やぶちゃん注:残念ながら、その後巻は現存しない。]

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

 イハナは甲州・信州などの山川に生(うま)る魚也。ヤマメ[やぶちゃん注:山女はサケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou。]といふ魚の類(たぐひ)にて、鮎に似たる魚也[やぶちゃん注:イワナは現在の魚類の分類学ではヤマメの同類ではないし、またアユ(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis とも全く似ていない。]。ヤマメは斑文有(あり)、イハナは斑文なしといふ[やぶちゃん注:この説明もおかしい。ヤマメは確かに体の側面に上下に長い木の葉或いは小判状を呈した斑紋模様(パー・マーク)があるが、イワナ種群にも概ね白い斑紋が顕著に存在するからである。]。本草綱目啓蒙の嘉魚(かぎよ)[やぶちゃん注:岩魚の別名。]の條に、イハナ【津輕】一名山寐魚【通雅】溪ノ深淵中ニ産シ、巖穴ニ居ル故ニ、イハナト名ク、形チ鱒魚ニ似テ小ク、白色ニシテ、ヤマベ[やぶちゃん注:ここは「ヤマメ」の東北地方での地方呼称。面倒なことに関東地方では「ヤマメ」は全くの別種「追河(おいかわ)」(コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属種オイカワ Opsariichthys platypus)を指すので注意が必要。]ノ如クナル班紋[やぶちゃん注:「班」はママ。以下同じ。注さない。]ナシト云々。又、ヤマべハ津輕ノ方言ニシテ、京師ニテハアマゴ[やぶちゃん注:この記載は現行ではアマゴ(漢字表記は「甘子」など)はサケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の陸封型を指すので誤りである。]ト云(いひ)、一名ミヅグモアメゴ【伊州】イモコ【若州】ヒラッコ【和州白矢村[やぶちゃん注:現在の奈良県吉野郡川上村白屋(しらや)のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。]】ヤマガハ【丹後】マコ【同上】ヱノハ【大和本草、雲州ノエノハハ別ナリ。[やぶちゃん注:出雲の「エノハ」は海産のスズキ目スズキ亜目ヒイラギ科ヒイラギ属ヒイラギ Nuchequula nuchalis を指す。]】形チ香魚(アユ)ノ如ク、長サ七八寸、身ニ黑班及細朱點アリ[やぶちゃん注:おかしい。朱(紅)色の点紋が有意に目立つのはイワナではなくヤマメである。小野蘭山は後で別種とか言っているが、以下の叙述を見ても少なくともこの部分ではイワナとヤマメをごっちゃにして記載しているとしか思われない。実際の魚体を観察せずに語っている可能性が極めて高く、信用が措けない。、鱗細ナリ、奧州・和州、及他州ニ產スル者ハ、黑班ノミニシテ朱點ナシ。是、廣東新語[やぶちゃん注:清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる広東地誌及び人物風俗記録。]ノ似嘉魚(ニカギヨ)ナリと云々、ヤマべとイハナとは、ボラ[やぶちゃん注:ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。]とアカメ[やぶちゃん注:スズキ目スズキ亜目アカメ科アカメ属アカメ Lates japonicus。海産の大型種であるが汽水域にもよく入り込む肉食魚。和名は「赤目」で、眼が暗い場所で光を反射すると角度によっては赤く光ることに由来する。しかし、ボラとアカメは全く似てなんかいない。この謂いもおかしい。蘭山は「アカメ」を他の魚と誤認している可能性が高いように思われる。]のことく、同じ樣成(やうなる)ものにして、全く別種なり。ヤマメは瀧の上に居(をり)、イハナは瀧の下に住もの也。濃州の武儀郡の板取川にては、三尺以上のヤマメの事を鼻(はな)マガリと云。岩川にて大きくなれば、鼻曲るゆゑとぞ。又、同じ地續き、同國郡上郡の郡上川にてはアマゴと云て、味甚だ宜しと。三尺以上の大なる分をアマヽス[やぶちゃん注:異様に大きいことから見て、これはサケ目サケ科イワナ属イワナ亜種アメマス Salvelinus leucomaenis leucomaenis と思われる。アマゴ(サツキマス)は大きくなっても五十センチメートル程度でこんなに大きくはならない。]といふ。風味、鱒の通りなれども、少し劣れりと。諸國とも、方言は種々なる故、分り兼るなり。

 又、老媼茶話に曰(いはく)。慶長十六年【辛亥】[やぶちゃん注:一六一一年。]七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流しをし給へり。柿澁、蓼(たで)、山椒の皮、家々の民家にあてゝ[やぶちゃん注:分担させて。](つき)はたく。此折節、フシと云(いふ)山里[やぶちゃん注:不詳。原典(後注のリンク先)を参照のこと。]へ、旅行の僧、夕暮に來り、宿をかり、主(あるじ)を呼(よび)て、此度の毒流しのことを語り出し、有情非情に及(およぶ)まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日、此川へ毒流しをなし給ふと也。是、何の益ぞや。果して業報(ごふほう)を得玉(えたま)ふべし。何卒、貴殿、其筋へ申上、とゞめ玉へかし。莫大の善根なるべし。魚鼈(ぎよべつ)の死骨を見給ふとて、大守の御慰みにも成(なる)まじ。いらざる事をなし給ふ事ぞかしと、深く歎きける。主も旅僧の志をあはれみ、申樣(まうすやう)、御僧の善根、至極、理(ことわり)にて候得ども、最早、毒流も明日の事に候上、我々しきの[やぶちゃん注:我々のようなる。]賤(いやし)きもの、上樣へ申上候とて、御取上(おとりあげ)も是(これ)有(ある)まじ。此事、先達(せんだつ)て、御家老の人々、御諫め有(あり)しかども、御承引御座なく候と承り候ひしと云。扨(さて)、我身も隨分の貧者にて、參らする物もなし、佗しくとも聞(きこ)し召(めし)候へとて、柏の葉に粟(あは)の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明(よあけ)て、僧深く愁(うれひ)たる風情(ふぜい)にて、いづくともなく出去(いでさ)れり。扨又、曉には、家々より件(くだん)の毒類持運(もちはこ)び、川上より流しける。異類の魚鼈、死(しに)もやらず。ぶらぶらとして、さしもすさまじき毒蛇ども浮出(うかみいで)ける。其内に、壹丈四五尺計(ばかり)[やぶちゃん注:四・二四~四・五四メートル。]の鰻、浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは[やぶちゃん注:「は」はママ。]、村人、腹をさき見るに、粟の飯、多く有。彼(かの)あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにぞ、聞(きく)人、扨は其坊主は鰻の變化(へんげ)來りけるよと、皆々憐れに思ひける。同年八月廿一日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流(ながれ)をふさぎ、洪水に會津四群[やぶちゃん注:「群」はママ。]を浸(ひた)さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め是を掘開(ほりひら)く。此時、山崎の湖水、出來(いでき)たり。柳津(やないづ)の舞臺[やぶちゃん注:福島県河沼郡柳津町にある臨済宗靈岩山圓藏寺(えんぞうじ)の本堂正面の只見川を望む舞台のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。]も、此地震に崩れ、川へ落ち、塔寺の觀音堂、新宮の拜殿も倒れたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿逝(せい)し給へり。人骨、河伯龍神の祟りなりと恐れあへりと云々。【此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後[やぶちゃん注:後裔。]、寬保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)[やぶちゃん注:完全に揃っている本を完本と称するのに対し、半分以上が欠けていて、残っている部分が少ない場合を「零本」という。零は「はした・少し」の意で「端本(はほん)」に同じい。]と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。】全く同日の談也。依(より)て、倂せ記し置きぬ。鰻も數百歲を經ては、靈に通ずるもの歟。【七の卷に記し置(おき)たる大鰻と見合(みあは)べし。[やぶちゃん注:七巻は現存しない。]】扨又、毒流しの事は、古くより有(ある)事と見えたり。三代實錄に、元慶六年[やぶちゃん注:八八二年。]六月三日、僧正遍昭、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有。又、東鑑に、文治四年[やぶちゃん注:一一八八年。]六月十九日、二季彼岸放生會の間、東國斷殺生、其上如燒狩毒流之僧向後可停止之由、被定訖云々。左(さ)すれば、上古は、毒流しは國禁なる事と知れたり。毒流しは、山椒の皮と薯蕷(やまのいも)と石灰とを和して沈(いづむ)る所も有。又は、辛皮(からかは)【山椒の皮也。】胡桃(くるみ)の皮、唐辛(たうがら)しを石灰にて煮詰(につめ)、或は多葉粉(たばこ)の莖、又は澁(しぶ)かきなど、國々にて色々の仕方有(ある)事と見えたり。大同小異なり。

[やぶちゃん注:「老媼茶話」「ろうおうさわ」(現代仮名遣)は会津藩士と思われる三坂春編(みさかはるよし 宝永元・元禄十七(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ怪談集。最も知られるのは「入定の執念」で、これは原文と私の注及び現代語訳をリンク先で読める。未見の方は是非。私がハマりにハマった大変面白い怪談である。ここに出る「老媼茶話」の「卷之弐」に載る「只見川毒流」(ただみがはどくながし)は、本件に類似した話柄(但し、舞台は江戸)である私の電子化訳注「耳囊 之八 鱣魚[やぶちゃん注:鰻。の怪の事の注で既に電子化注してあるので、参照されたい(なお、比べて戴くと判るが、想山は一部をカットしている)

「蒲生飛驒守秀行卿」蒲生秀行(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年五月十四日)は従四位下・飛騨守・侍従。蒲生氏郷の嫡男。天正一八(一五九〇)年に伊達政宗(会津は伊達政宗旧領)を抑えるため、秀吉の命で伊勢より陸奥国会津に移封されたが、後の慶長三(一五九八)年にやはり秀吉の命で会津から宇都宮へ移封されている。後の関ヶ原の戦いでの軍功によって没収された上杉領のうちから陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した。しかし、会津地震や家中騒動の再燃などが重なり、その心労などのために死去した。享年三十で若死である。

「同年八月廿一日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流(ながれ)をふさぎ、洪水に會津四群を浸さんとす」会津地震。慶長十六年八月二十一日(グレゴリオ暦一六一一年九月二十七日)午前九時頃に会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生した直下型地震で、地震の規模はマグニチュード六・九程度と推定されているが、震源が浅かったため、局地的には震度六強から七に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び、倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、本文で後に記されるように、多くの寺社仏閣も大きな被害を受けた。また、各地で地滑りや山崩れが発生、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積十~十六平方キロメートルにもなる山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水した。その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河筋のバイパスを設置する復旧工事によって三日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり、山崎湖が完全に消滅するには実に三十四年(一説では五十五年)の歳月を要し、そのため、移転を余儀なくされた集落も数多かった。さらに旧越後街道の一部がこの山崎湖に水没し、勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は会津坂下町から鐘撞堂峠を経由するものに変更を余儀なくされたされた(以上はウィキの「会津地震」に拠った)。この秀行自らが指揮を執った大々的な毒流しは同年七月であるから、地震発生は僅か一ヶ月後のことで、事実とすれば、これを「祟り」とした人心はすこぶる理解出来る

「町野左近」氏郷以来の忠臣の家系。

「岡野半兵衞」不詳ながら、同前であろう。

「柳津の舞臺」福島県河沼郡柳津町にある臨済宗靈岩山圓藏寺(えんぞうじ)の本堂正面の只見川を望む舞台のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺及び彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が悉く倒壊、秀行もほどなく死したという紛れもない事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な祟り系の怪談に仕上げられていることが判る

「三代實錄」正しくは「日本三代實錄」。平安時代に編纂された歴史書で「六国史」の第六に辺り、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代に相当する、天安二(八五八)年八月から仁和三(八八七)年八月までの三十年間を扱ったもの。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行・三統理平(みむねのまさむら)。編年体で漢文。全五十巻。

「僧正遍昭、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有」で原文が読めるが、七箇条の最後に(一部の表記を恣意的に変更した)、

   *

其七。應禁流毒、捕魚事。如聞。諸國百姓、毎至夏節、剝取諸毒木皮、搗碎散於河上。在其下流者、魚蟲大小、擧種共死。尋其元謀、所要在魚、至于蟲介、無用於人。而徒非其要、共委泥沙。人之不仁、淫殺至此。夫先皇永遺放生之仁、後主盍除流毒之害。伏望。自今以後、特禁一時之殺、將救群蟲之徒死。

   *

とあるのを指す。

「東鑑に、文治四年[やぶちゃん注:一一八八年。]六月十九日、二季彼岸放生會の間、於東國斷殺生、其上如燒狩毒流之僧向後可停止之由、被定訖云々」「吾妻鏡」の「卷第八」の文治四年六月の最後の条に(私が書き下した)、

   *

十九日、二季の彼岸放生會(はうじやうゑ)の間、東國に於いて殺生(せつしやう)を禁斷せらるべし。其の上、燒狩(やきがり)・毒流しの類ひのごときは、向後(きやうご)、停止(ちやうじ)すべきの由、定められ訖(をは)んぬ。諸國に宣下(せんげ)せらるべきの旨、奏聞を經らるべしと云々。

   *

とある。

「薯蕷(やまのいも)」一応、かく読みを振ったが、毒流しの材料としては私はこれはナス目ナス科ハシリドコロ属ハシリドコロ Scopolia japonica のことを指しているのではないかと実は疑っている。本種は「走野老」と書き、これはトコロ(野老)は全くの別種であるユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の山芋(=薯蕷(音は「ショヨ」))の一群を総称するものとして用いられる語で、混同されやすいからである。しかもハシリドコロは強い毒性があり、「走野老」という和名は「食べると錯乱して走り回ること」及びその根茎が「トコロ(野老)」に似ていることに拠るからである。その毒成分はアルカロイド類のトロパンアルカロイドを主とし、全草が有毒で、特に根茎と根の毒性が強い。人間の中毒症状としては嘔吐・下痢・血便・瞳孔散大・眩暈・幻覚・異常興奮などで、最悪の場合には死にさえ至る。これは同じ西洋の毒殺にしばしば使われたことで知られるベラドンナ(ナス科オオカミナスビ属オオカミナスビ Atropa bella-donna)などと同様の症状を呈する(以上は主にウィキの「ハシリドコロに拠った)。「毒揉み」に用いるのなら、これでしょう!

「胡桃(くるみ)の皮」クルミ(マンサク亜綱クルミ目クルミ科クルミ属 Juglans)の樹皮や果実の外皮には多量のタンニンが含まれ、古くから毒流しの素材として用いられてきた。]

2017/05/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」

 

 樹怪

 

 上總(かづさ)國大久保といふところには樹の化物が出る。山の裾野で片側は田に續いた道のほとりに、大木が澤山生えて居るが、夜おそくこゝを通りかゝると、大きな木がいくつともなく道に橫たはつて、容易に通りがたいことがある。さういふ時には心得てあとへ下り、暫くしてから行きさへすれば、前の木は皆消え失せ、常の道になつて何の障害もない。木の倒れてゐる時に無理に通らうとすると、必ずよくない事があると「譚海」に見えてゐる。昔のやうに照明の乏しい時代には、夜道を步いて行く場合に、急に目の前に川が出來たり、垣根が道を遮つたりすることがある。平生ある筈のないところにそんなものが出來たら、暫時瞑目して心をしづめ、それから步き出した方がいゝと老輩から聞かされた。大久保の樹怪も多分その類であらう。

[やぶちゃん注:以上は「譚海 卷之八」に出る「上總國大久保に樹の化物出る事」。□は欠字。

   *

上總國大久保と云所には、樹の化物出るなり。山のすそのにて、かたそばは田につゞきたる道のほとりに大木あまた生て有、此道を深夜に人過る時、大なる木いくらともなく道に橫たはりふして、一向通りがたき事每年有。是に行あふ人は、いつも心得て跡へしりぞき、しばらく有てゆく時は、先の木ども皆々うせて、常の道の如く成て往還にさはる事なし。木のたふれふしたる時、無理にこえ過んとすれば、必あしき事有といひつたへたり。又同国□□といふ所にもあやしき事ありて、夜行には時々人のなげらるる事あり、狐狸の所爲にや、こゝろえぬ事なり。

   *]

 

 樹自身に靈があるのか、他の妖が樹を動かすのかわからぬが、老樹の怪をなす話は屢々ある。上元中、臨淮の諸將が夜集まつて宴を張り、猪肉羊肉を炙り、香ばしい匂ひを四邊に漲らせて居ると、突然大きな手が窓から差込まれた。肉を一片貰ひたいといふのである。誰も與へずにゐたところ、頻りに同じ要求を繰り返すので、ひそかに繩を以て輪を作り、手を差込む穴のところにあてがつて置いて、それぢや肉をやらうと云つた。再び差込まれた手はこの繩に括られ、どうしても脱けることが出來ぬ。夜が明けてからよく見たら、大きな楊の枝であつた。乃ちこれを切り、その樹を求めて近い河畔に發見し、根本から伐り倒してしまつたが、その際多少の血を見たさうである(廣異記)。

[やぶちゃん注:「臨淮」(りんわい)は現在の江蘇省宿遷市泗洪(しこう)県の南東部に相当する。唐朝(七〇四年)に県として設置された。の辺り(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「廣異記」の「卷七」の「臨淮將」。

   *

上元中、臨淮諸將等乘夜宴集、燔炙豬羊、芬馥備至。有一巨手從窗中入、言乞一臠、眾皆不與。頻乞數四、終亦不與。乃潛結繩作彄、施於孔所、紿云、「與肉。」。手復入。因而繫其臂、牽挽甚至、而不能。欲明、乃仆然而斷、視之、是一楊枝。持以求樹、近至河上、以碎斷、往往有血。

   *]

 

 郭代公の常山の居で、夜中に忽然として見知らぬ人が現れた。盤のやうに平たい顏で、燈下に出たせゐか、大きな目をぱちぱちさせてゐる。公は少しも恐れず、おもむろに筆を染めて「久戍人偏老。長征馬不肥」の十字をその廣い頰に題し、自らこれを吟じてゐると、怪しい男の姿は自然に消えてしまつた。四五日たつて公が山中を步いてゐた時、巨木の上に大きな白い耳のやうなものがあつて、そこに例の題句が記されてゐるのを發見した。先夜の妖はこの木だつたのである。盤のやうに廣い顏の謎もこれで解けた(諾皐記)。

[やぶちゃん注:「郭代公」東洋文庫版「酉陽雑俎」の今村与志雄氏の割注によれば、郭元振とある。これは郭震(六五六年~七一三年)で盛唐の詩人で政治家。

「常山」これは柴田の「嘗」(かつて:以前に)の判読の誤り

「久戍人偏老。長征馬不肥」訓読すれば、

 久しく戍人たり 偏へに老ゆ

 長征の馬 肥えず

で今村氏は『ながき守りに人老いて』『厭世の馬やせにけり』と訳しておられる。

「大きな白い耳のやうなもの」今村氏の「白耳」の注には『きのこの一種。あるいは木耳(きくらげ)の一種か』とある。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十四」の「諾皐記」にある以下。

   *

郭代公嘗山居、中夜有人面如盤、寅目出於燈下。公了無懼色、徐染翰題其頰曰、「久戍人偏老、長征馬不肥。」公之警句也。題畢吟之、其物遂滅。數日、公隨樵閒步、見巨木上有白耳、大如數斗、所題句在焉。]

 

 深夜に異樣なものが窓から手を差出す話は他にもある。少保の馬亮公が若い時分、燈下に書を讀んでゐると、突然扇のやうな大きな手が窓から出た。公が問題にせぬので、手はいつか見えなくなつたが、次の晩も同じやうな手が出た。今度は朱筆を執つてその手に自分の書き判をしるしたところ、手の持ち主は引込めることが出來ぬらしく、大きな聲で脅かすやうに洗つてくれと叫び出した。公が寢てしまつてからも、叫ぶ聲は續いてゐたが、明方近くなつてはさすがに聲が弱り、歎願の調子に變つて來た。何だか可哀さうになつて、水で洗つてやつたら、手は次第に縮んで遂に見えなくなつた。

 

「異聞總錄」にあるこの手なども、前の例を以て推せば、やはり樹怪の惡戲らしく思はれる。倂し馬亮公は肝腎の花押(かきはん)を洗ひ去つたのだから、後にこの木にめぐり合つても、それと斷定することは困難だつたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:以上は「異聞總錄」(宋代の作者未詳の志怪小説集)の「卷之三」の以下。

   *

馬少保公亮少時、臨窗燭下書、忽有大手如扇、自窗欞穿入。次夜又至、公以筆濡雄黃水、大書花押、窗外大呼、「速爲我滌去、不然、禍及於汝。」。公不聽而寢。有頃、怒甚、求爲滌去愈急、公不之顧。將曉、哀鳴、而手不能縮、且曰、「公將大貴、姑以試公、何忍致我極地耶。公獨不見溫嶠然犀事乎。」。公大悟、以水滌去花押、手方縮去、視之一無所見。

   *]

 

 臨瀨の西北に寺があつて、智通といふ僧が常に法華經を讀誦してゐた。寒林靜寂の地で人の來るやうな事はないのに、智通が住んで何年かたつた或晩、その院をめぐつて智通の名を呼ぶ者がある。曉に至ればおのづから聞えなくなるが、夜になるとまた呼ぶ。さういふことが三晩も續いたので、智通もたうとう我慢しきれなくなり、わしを呼ぶのは何用だ、用があるなら入つて來て言へ、と云つた。やがて入つて來たのは、六尺餘りの靑い顏をした男で、黑い着物を着てゐる。目も口も異常に大きいが、智通に向つて神妙に手を合せてゐる。その顏をぢつと見て、お前は寒いのか、それならこゝへ來て火にあたれ、と云つたら、しづかに燵のほとりに座を占めた。智通はまた誦經三昧に入る。五更に至つて顧みると、靑い男は爐の火に醉つたらしく、目を閉ぢ口をあいて、鼾をかきながら睡つてゐた。これを見た途端に智通は惡戲氣分になり、香匙(きやうじ)で爐の灰を掬つて、あいてゐる口の中に入れた。男は大いに驚いて、何か叫びながら駈け出した。閾のところで躓くやうな音がしたが、その姿は寺の裏山に消えた。夜が明けてから閾のところを見れば、一片の木の皮が落ちてゐる。智通はこれを袖に入れて裏山へ行つて見た。何里か行つたところに靑桐の大木があつて、その根に近い邊に新たに缺けたやうな跡が目に付いたから、例の皮をあてがつたらぴたりと合つた。幹の半ばぐらゐのところに深い疵のあるのが昨夜の男の口で、香匙で掬ひ入れた次が一杯になつて居り、火はなほ餘煙を保つてゐた。智通はこの木を伐り燒き棄てたので、それきり怪は絶えた(支諾皐)。

[やぶちゃん注:「臨瀨」原典の一本は「臨湍」とし、現在の河南省南陽市鄧州(とうしゅう)市。(グーグル・マップ・データ)。

「智通」未詳。

「五更」午前四時頃。

「香匙」香(こう)を掬う匙(さじ)。

「何里」原典の「酉陽雜俎」は唐代の作品であるから、当時の一里は五百五十九・八メートルであるから、三キロメートル前後。

 以上は「酉陽雜俎」の「續集卷一 支諾皋上」の第二話である。

   *

臨瀨西北有寺、寺僧智通、常持「法華經」入禪。每晏坐、必求寒林靜境、殆非人所至。經數年、忽夜有人環其院呼智通、至曉聲方息。歷三夜、聲侵戸、智通不耐、應曰、「汝呼我何事。可人來言也。」。有物長六尺餘、皂衣靑面、張目巨吻、見僧初亦合手。智通熟視良久、謂曰、「爾寒乎。就是向火。」。物亦就坐、智通但念經。至五更、物爲火所醉、因閉目開口、據爐而鼾。智通睹之、乃以香匙舉灰火置其口中。物大呼起走、至閫若蹶聲。其寺背山、智通及明視蹶處、得木皮一片。登山尋之、數裏、見大靑桐、樹稍已童矣、其下凹根若新缺然。僧以木皮附之、合無蹤隙。其半有薪者創成一蹬、深六寸餘、蓋魅之口、灰火滿其中、火猶熒熒。智通以焚之、其怪自絶。

   *]

 

 この話は石濤に附合されたりしてゐるが、何にしても石濤の時代は明末清初であるし、唐代の書に出てゐる以上、智通に讓るべきであらう。「廣異記」より「支諾皐」に至る一連の話は、山魈木魅(さんせうぼくみ)に類する怪である。山中蕭散の地に置かなければその妙を發揮しにくいけれど、彼等が人間に近付かうとした迹に、共通性のあるのが吾々には面白い。

[やぶちゃん注:「石濤」(せきとう 一六四二年~一七〇七年)は清初に活躍した遺民画人。俗称は朱若極、石濤は字で、後に道号とした。明王室の末裔に当たる靖江王府(今の広西チワン族自治区桂林市)に靖江王家末裔として生まれた。高僧で名画僧として知られる。黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により、清朝第一の傑出した画家に挙げられる人物(以上はウィキの「石濤に拠った)。

「山魈木魅(さんせうぼくみ)」山中の妖怪・精霊である魑魅魍魎の一群の別称。「山魈」(現代仮名遣「さんしょう」)は狭義には一本足で、足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっており、手足の指は三本ずつとする。男は「山公」、女は「山姑」と称し、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉を要求する。嶺南山中の大木の枝の上に住み、木で作った囲いに食料を貯え、虎を操り、要求物を呉れた人間は虎が襲わないようにしたりするという。「木魅」は所謂、「木霊(こだま)」の妖怪化である。

「蕭散」静かでもの淋しいこと。]

 

 かういふ樹怪の存在は山中に限つたわけでもない。元和中、崇賢里の北街の大門外に大きな槐の樹があり、黃昏にこれを望めば、恰も外を窺ふ婦人のやうに見えた。孤犬老烏の類が屢々樹中に飛び入るのを怪しみ、伐り倒して見たところが、中から嬰兒の死體が發見されたと「諾皐記」にある。これなどは市中の大樹であるだけに、山魅木魅よりも却つて氣持が惡い。何でその槐が婦人のやうに見えたかわからぬが、似たやうな事はあるものらしく、江戸時代にも京都の御靈社内の椋の木が十八九の娘の形に見えるといふので、「文化祕筆」などにはその畫を入れ、側へ寄れば常の木の姿である、夜分に東へ三町ほど行つて見れば、顏の樣子、髷や髱の工合、帶の風までうるはしく、凄いほどに見える、大坂から夕涼みがてら見物に來る人が多いとあつて、その連中の詠んだ狂歌まで載せてゐる。一方は黃昏、一方は夜分で、こんもり茂つた木の形が女のやうに見えるのであらう。「諾皐記」の方はまだ若干の妖味があるが、「文化祕筆」の方は物數寄な納涼者を驅り出した外、格別の話もなかつたやうである。

[やぶちゃん注:これも次の段も、所謂、心霊写真の多くを占める単なるシミュラクラ(Simulacra)現象に過ぎぬ。

「元和」八〇六年~八二〇年。

「崇賢里」長安城内の坊里の一つ。

「京都の御靈社」現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪(たてまち)町にある上御霊(かみごりょう)神社か。下御霊神社ならば京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町。

「髱」は「たぼ」或いは「つと」と読む。襟足に沿って背中の方に張り出した後ろ髪の部分。たぼがみ。たぶ。関西では「つと」と称するのでここはその方が正しいであろう。

 前述のそれは「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皐記下」の以下。

   *

有陳朴、元和中、住崇賢里北街。大門外有大槐樹、朴常黃昏徙倚窺外、見若婦人及狐大老烏之類、飛入樹中、遂伐視之。樹三槎、一槎空中、一槎有獨頭慄一百二十、一槎中襁一死兒、長尺餘。

   *

「文化祕筆」は以前に述べた通り、所持しないので提示出来ない。]

 

 晉の劉曜の時、西明大の内の大樹が吹き折れて、一晩たつたら人の形に變じた。髮の長さが一尺、鬚眉の長さが三寸もあつて、それが皆黃白色である。兩手を歛(をさ)めたやうな形で、兩脚は裙のある著物を著た形であつた。たゞ目鼻だけがない。毎夜異樣な聲を發してゐたが、十日ばかりで枝を生じ、遂に大樹になつて繁茂したと「集異志」に見えてゐる。これは人の形に變じただけで、これといふ妖はなさなかつたらしい。「諾皐記」の槐も「文化祕筆」の椋も茂つたところが人に見えたのに、「集異志」の例は風に吹き折れた後の形であるのが變つてゐる。風に音を立てるのは樹木の常だから、毎夜聲ありといふだけでは、妖といふほどのことはないかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「劉曜」(りゅうよう 二七五年頃~三二九年)五胡十六国時代の前趙(漢)の第五代皇帝。司馬炎によって建てられた王朝「西晉」(二六五年~三一六年)を漢の皇族として長安を攻略、西晋を滅ぼした。従ってこの「晉の劉曜の時」という言い方は誤りである。

「西明大」洛陽城南の西明門付近か。

「裙」「もすそ」。裳裾。

 以上の出典とする「集異志」は「集異記」か? しかし同書には見当たらない。「三國志」のサイトのにある以下が一致する内容である。「晉書」や清の劉於義の「陝西通志」に載る。

   *

西明門大樹風吹折、經一宿、樹撥變爲人形、發長一尺、鬚眉長三寸、皆黃白色、有斂手之狀、亦有兩著裙之形、惟無目鼻、每夜有聲、十日而生柯條、遂成大樹、枝葉甚茂。

   *

 

 大原佛寺に居る董觀といふ僧が、從弟の王生と共に南に遊び、山館に一宿した時、王生は已に眠り、董觀はまだ寢ずに居ると、燈下に何者か現れて燭を掩つた。その樣子は人の手のやうであるが指がない。注意して見れば燭影の外に何か居るやうなので、急に王を呼び起した。王が起きるとその手は見えなくなつたが、寢てはいかん、怪しい者がまた來るかも知れぬ、と云はれ、杖を持つて待ち構へた。暫くたつて何も現れぬので、王は怪しいものなんぞゐやしない、下らぬことを云つておどかしてはいけませんよ、と云つてまた寢てしまつた。漸くうとうとする時分に現れたのは、身の丈(たけ)五尺餘りの怪しい者、燭を掩ふやうにして立つたが、手もなければ目鼻もない。董は益々恐怖して王を呼び起したけれど、一度も怪しい影を見ない王は、腹を立てて起きようともせぬ。董は已むを得ず杖を揮つて一撃を食はせた。倂し先方の身體はまるで草のやうで、杖はずぶずぶ中に入つてしまふから、力の入れやうがない。とにかくこの一擊により、怪しい姿は見えなくなつたやうなものの、董はまた來ることを恐れ、明方まで一睡も出來なかつた。翌日になつて山館の役人を訪ひ、委細を話したところ、これから西數里のところに古い杉があつて、それが常に怪をなすといふことである、疑はしければ行つて御覽になつたら如何です、と云ふ。董と王は役人に案内して貰つて、そこまで出かけて見た。成程古い杉の木があつて、董の杖はその枝葉の間を貫いてゐる。役人は二人を顧みて、こいつが怪しいといふことは前から聞いてゐたのですが、これで譃でないことがよくわかりました、と云つた。三人はその場を去らず直ちに斧を執り、怪しい杉の木を伐り倒してしまつた。「宣室志」にあるこの話が今までと違ふのは、手を以て燭を蔽ふ點に在る。もし二人とも知らずにゐたら、更に第二段の惡戲に移ることは疑ひを容れぬ。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「草木十一」に「董觀」として「宣室志」からとして載る以下。

   *

有董觀者嘗爲僧、居於太原佛寺。太和七年夏、與其表弟王生南遊荊楚、後將入長安。道至商於。一夕。舍山舘中。王生既寐、觀獨未寢。忽見一物出燭下、既而掩其燭。狀類人手而無指。細視、燭影外若有物、觀急呼王生。生起、其手遂去。觀謂王曰、「慎無寢、魅當再來。」因持挺而坐伺之。良久、王生曰、「魅安在。兄妄矣。既就寢。頃之。有一物長五尺餘。蔽燭而立、無手及面目。觀益恐、又呼王生。生怒不起。觀因以挺椹其首、其軀若草所穿。挺亦隨入其中、而力取不可得。俄乃退去。觀慮又來、迨曉不敢寢。明日。訪舘吏。吏曰、「此西數里有古杉、常爲魅、疑即所見也。」。卽與觀及王生徑尋、果見古杉、有挺貫其柯葉間。吏曰、「人言此爲妖且久、未嘗見其眞。今則信矣。」。急取斧、盡伐去之。

   *]

 

 以上の樹怪は種々の形を執つて居るが、いづれにしても人を驚かす程度で、人を害するやうなことはない。馬亮公にしろ、智通にしろ、反對に怪を苦しめてゐるくらゐである。然るに「子不語」に至つて、はじめて人を害する怪が出て來た。西蜀に出征した兵士が或木の下を通りかゝると、三人まで倒れて死んだ。その木は枯枝ばかりで、花も葉もなかつたが、下枝が鳥の爪のやうな形をしてゐて、下を通る者があると摑むのである。これを見屆けてから劍を拔いて切つたら、枝から血が流れて、その後は無事であつた。かうなると動物だか、植物だか、俄かに判斷が付かぬやうである。

[やぶちゃん注:以上は「子不語」の「第十九卷」に載る以下。

   *

費此度從征西蜀、到三峽澗、有樹孑立、存枯枝而無花葉、兵過其下輒死、死者三人。費怒、自往視之、其樹枝如鳥爪、見有人過、便來攫拿。費以利劍斲之、株落血流。此後行人無恙。