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2017/05/31

「想山著聞奇集 卷の四」 「耳の大ひ成人の事」

 

 耳の大(おほ)ひ成(なる)人の事

 

Oomimitabu

 

 天保九年【戊戌】の春。向島木母寺(もくぼじ)の少し手前の土手に、乞食(こつじき)躰(てい)の者、人の手の内を乞居(こひゐ)たり、此者、面躰は三十有餘と見ゆれども、體(からだ)の大(おほき)さは十三四歳の丁稚(でつち)程にて、右の方(かた)、耳垂珠(みゝたぶ)、甚だ大く、厚さ三寸計(ばかり)にて、巾六七寸も有。長さは一尺四五寸も有て、着座なし居(ゐ)て、耳たぶ、地を摺(する)程有たり。共其色、紫黑(むらさきくろ)にて、肌もぶつぶつとして、全く疝氣玉(せんきだま)にそのまゝ也ければ、疝(せん)も、耳に入るものと見えたり。珍敷(めづらしき)病(やまひ)もあるものなり。由(よつ)て、其ありさまを畫(ゑが)きもらひたり。か樣のかたは成(なる)ものは、まゝ有ものにて、強て奇とするには足(たら)ざれ共、一奇病ゆゑ、爰(こゝ)に記し置(おき)ぬ。

[やぶちゃん注:「天保九年」一八三八年。

「木母寺(もくぼじ)」現在の東京都墨田区堤通にある天台宗梅柳山墨田院木母寺。謡曲「隅田川」所縁の寺として知られる。

「一尺四五寸」四十三から四十六センチメートル弱。挿絵は白く抜けてしまって、しかも右耳の下が深く切り込んで衣服の模様が見えている(その点於いて、これは耳朶(みみたぶ)ではなく耳介の一部の肥大という方が適切なようにも思われる。ぶるんとして下がっているから想山は「耳たぶ」と思い込んでしまっただけかも知れぬ)。ともかく、これは想山の言うような畸形者の事実記録の資料画としては上手く描けているとは言えない。

「疝氣玉」通常、疝気とは漢方で下腹部から睾丸部にかけての鋭い差し込むような痛みを伴う男性の病気を指す。想山はそうした本来は男性の下腹部疾患が耳に入って生じて肥大したものとして彼のそれを「耳に入るものと見えたり」と言っているようだが、どうもこの「全く疝氣玉(せんきだま)にそのまゝ也」というのは、これ以前に想山が一般的な疝気の腫瘤としての現物を知っており、それを前提として語っているように感じられるところが不審である。疝気は多様な疾患が想定されるが、或いは結石類もその候補に上っているから、或いは膀胱結石や尿道結石の自然体外排出されたもの(或いはされたとするもの)を彼が見たことがあったのかも知れない(尿路結石類はカルシウム・マグネシウム・シュウ酸・リン酸・尿酸・シスチン酸などの物質が結晶化する結果、その主成分によって色(及び形)が違ってくる(尿路結石中でその八十%を占めるのはシュウ酸カルシウム結石とされ、不均一でギザギザした特徴的な表面を持つ)が、結石の色は黄褐色や黒褐色が多く見られる)。ともかくも、これは何らかの後天的な疾患というよりも、先天性の耳介にのみ生じた畸形か(ただ彼が顔は三十代であるのに身体が小さいのはそれ自体が、深刻な腰椎や脊椎の先天性奇形である可能性も示唆しているようにも思われる)、何らかの耳介下部に発生した長期に亙って徐々に肥大化していった良性腫瘤のようにも感じられる。色と肌合いの異常はこれだけの大きさで垂れ下がっている以上、血流不全が発生した結果としては納得出来る(しかし挿絵のそれは原典画像を見ても全く白く描かれているのは不審である)。]

 

「想山著聞奇集 卷の四」 「雁の首に金を懸て逃行たる事 幷、愚民の質直、褒美に預りたる事」

 

 雁(がん)の首に金(かね)を懸(かけ)て逃行(にげゆき)たる事

  幷、愚民の質直(じつちよく)、褒美に預りたる事

 

Karinosaihu

 

 文化八年【辛未】[やぶちゃん注:一八一一年。]の冬の事と覺えし由。勢州神戸(かんべ)宿[やぶちゃん注:東海道から伊勢神宮に向かう伊勢街道の宿場町。現在の三重県鈴鹿市神戸(かんべ)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の東の隣村に、【村名は能(よく)聞置(きゝおき)たれども忘れたりと。】久兵衞と云ふ老農有て、段々困窮に及び、纔(わづか)八兩程の年貢の金に差詰りて、名主より日々嚴敷(きびしく)催促を受(うく)れども、金子の才覺、少しも出來かね、如何(いかゞ)ともせん方なく、當惑して居(ゐ)たるを、十六歳に成(なる)娘の見かねて、いつまで待(まち)ても金子の出來るべき術(てだて)もなければ、何とぞ、われを勤(つとめ)奉公に身をうりて、年貢金を納め給へと追々進むるに、初は不便成(ふびんなる)事なりとて、兩親も納得なし兼たれども、年貢金の事なれば、名主の催促もきびしければ、是非なく、娘に勤をさせん事に成(なり)、同國一身田[やぶちゃん注:現在の三重県津市一身田町。ここ(グーグル・マップ・データ)。以下の高田専修寺との関連からもここしかない。神戸からも坤(ひつじさる)の方向にある。但し、その間は十三キロメートルはあり、以下の二里とは合わないのが不審である。]【二里程(ひつじさる)の方、高田專修寺の有所なり。】の旅籠屋四日市屋市郎兵衞といふものゝ方へ、娘を同道なして、三ヶ年金六兩二分に賣渡し、【飯盛女と唱(となへ)る賣色なり】金子を請取(うけとり)て財布へいれ、懷中なし、彼是(かれこれ)引合(ひきあひ)[やぶちゃん注:人身売買の契約取引のこと。]に手間も取(とり)たれば姥(ばゞ)も待居(まちゐ)るべしと、急ぎて歸りけるに、右一身田の直(すぐ)東のかた、中野村[やぶちゃん注:現在の一身田の南、海に近い側に津市一身田中野がある。ここの一帯であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の地内を通り越(こゆ)るとき、菜畑(なばた)に、そめ繩(なは)[やぶちゃん注:後の「そめ竹」とともに染めた鳥除け・鳥威しの類いであろうか。]の張(はり)ある内へ、雁の數羽下り居て、久兵衞の間近く來るを見て、立上(たちあが)り逃行(にげゆく)とて、如何成(いかなる)拍子にや、一羽の雁(がん)、その繩に足を引(ひき)からみて、逆さまと成(なり)、ばたばたとして居(ゐ)る故、見遁(みのが)しかねて、あたりを見𢌞せば、近邊(きんへん)に人もなきまゝ、畠(はたけ)へ入(いり)て、その竹を引ぬき、件(くだん)の雁を手捕(てどり)となし、〆殺(しめころさ)んとすれども、死(しに)かね、其内に、跡より人の來(きた)るまゝ、咎められじと思ひ、むりに雁を懷(ふところ)へおし入(いれ)、かの財布の紐をもつて、無性に首を縊(くく)りあげ、足早に道を急ぐに、折節、草鞋(わらぢ)の紐解(とけ)て、足に纏ひて步み兼(かね)る故、とく結びて急ぎ逃行(にげゆく)べしと、腰をかゞめて、草鞋の紐を結び居(ゐ)る内も、雁(がん)はばたばたとあがき居(ゐ)て、かの財布を首に懸(かけ)たるなりに、懷よりのたり[やぶちゃん注:のたくって。]出(いで)たり。急ぎ取押(とりおさ)ゆべしと思ふ間もなく、雁は懷を出(いづ)ると直(ぢき)に、羽をのして、ずつと立行懸(たちゆきかか)りたる故、思はず畑(はた)へ飛込(とびこみ)て、長きそめ竹を引拔(ひきぬき)て、漸(やつ)と一ッ打(うち)たれども、僅(わづか)に尾先をかすりて打たれば、其内に、雁は遙(はるか)の空へ飛上り、唯(ただ)一(ひと)のしに、艮(うしとら)[やぶちゃん注:東北。]のかたをさして飛行(とびゆき)たり。如何(いかゞ)とも、手に汗を握りても仕かたなけれども、白子(しろこ)[やぶちゃん注:現在の三重県鈴鹿市白子町(しろこちょう)附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と津との間、根上り[やぶちゃん注:不詳。孰れにせよ、一身田(現在の津よりも北)と先の白子町の閉区間の中間点辺り、伊勢鉄道線の「伊勢上野駅」附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云邊(へん)迄、思はず雁の跡をしたひて追行(おひゆき)たれども、雁は忽ち、右、根上りのわきのかたにある小山の松林をはるか向(むかふ)へ越行(こへゆき)て、其内には、形ちも見えぬ樣に成果(なりはて)たり。久兵衞は良(やゝ)暫く地に倒れ、大聲を出して男泣(をとこかき)に泣悲(なきかなし)めども、如何(いかゞ)とも仕方なく、唯、此儘に此所(このところ)にて死ぬべくも思へども、姥や娘は、此譯(わけ)は辨(わきま)ふべからず、されば、一先(ひとまづ)、宿へ歸り、此事を咄して、兎も角もなすべしと、心を取直(とりなを)し、漸(やうやう)と夜(よ)の五ッ[やぶちゃん注:午後八時前後。]前にわが村迄歸り來(きた)ると、姥は待兼(まちかね)て、村はづれまで迎(むかひ)にいで居(ゐ)て、首尾は如何(いかゞ)にて有しぞ、思ふ程の金と成(なり)たるやと尋らるゝにも、消入(きえいり)たき心地して、宿へ歸りて後、隱すべき樣もなく、段々の譯合(わけあひ)を語りてきかすると、姥もわつと泣出(なきいだ)し、年來(ねんらい)、鳥殺生(とりせつしやう)などなし給ふ故、自然と其樣なる事の出來(でき)しも天罰なるべしと悔めども、仕方もなく、又々、共に悲みて、茫然と打しほれて、泣より外の事もなく、哀れ至極の事ども也。爰(こゝ)に、同所より二里計(ばかり)も北の方(かた)、四日市宿の漁人(ぎよじん)何某、其翌朝に當りて、未明に起出(おきいで)、例のごとく、濱邊をさして漁(すなど)りに出かけ行けるに、此濱邊には鴈鴨(がんかも)多くむれ居(ゐ)、石を打て、よき所にあたれば、をりふしは手捕(てどり)となす事も有故、兼て道にて、袂(たもと)に石を三ッ四ッづゝ拾ひ入れて行(ゆく)事なるが、此朝も、土手の傍(かたはら)に、鴈(がん)五羽あさり居(ゐ)たるまゝ、例のごとく石を打(うつ)に、當らずして、鴈は驚きて立行(たちゆく)を、又、續けて一ッ打(うて)どもあたらず、然るに、右(みぎ)鴈の内、一羽立得(たちえ)ずして殘り居(ゐ)る故、如何成(いかなる)事かと不審に思ひながら、土手の後ろへ𢌞りて、急にかの鴈を追(おふ)に、速(すみやか)に立得ずして、傍の小溝(こみぞ)の中(なか)へ追込(おひこみ)、遂に手捕と爲(な)して〆殺(しめころ)してみれば、こは如何(いか)に、首に何か纏ひたるものあり。よくみれば財布也。中(うち)をみるに、金六兩二分有しまゝ、大(おほひ)に悦び、其日(そのひ)は漁(すなど)りを止(やめ)にして、急ぎ内へ持歸り、事の樣(やう)を具(つぶさ)に女房に咄して、此金は全く天より授(さづか)りたる金也迚(とて)、悦ぶ事限りなし。其時、女房の云(いふ)には、去(さり)ながら、其金は故(ゆゑ)こそ有らめ、何人(なにびと)か首に付置(つけおき)たるものなるべし、篤(とく)と見給へとて、財布を取て、金を改めて能々(よくよく)見るに、中(なか)に書付あり、四日市屋市郎兵衞の女を買取(かひとり)たる書付也。此書付ある上は、金主(かねぬし)は分るべきまゝ、急ぎ吟味して返し給へと勸むれども、天より我等に與(あたは)りたる金なれば、取置(とりおく)こそ宜(よろ)しけれとて、初(はじめ)は亭主も納得せざりしが、子を賣(うる)と云(いふ)事は、能々難儀の事也、決(けつし)て取置(とりおく)金に非らずと、段々女房の諫(いさむ)るにまかせ、左(さ)すれば、吟味して返すべしと聞探(きゝさぐ)り見るに、四日市屋市郎兵衞と云(いふ)は、一身田也(なり)と直(ぢき)に分りたるまゝ、金を失ひし方(かた)にては、嘸々(さぞさぞ)心づかひをなし居(ゐ)申(まうす)べきまゝ、今より直(ぢき)に尋行(たづねゆき)給へとて、女房はまめやかに辨當を拵へ、夫(をつと)を出(いだ)し遣したり。それより、かの漁夫は、市郎兵衞方へ尋行て、賣主も明らかにしれたる故、直(すぐ)に久兵衞方へ尋行て見るに、表をば戸ざして、内に老夫婦、歎きに沈み居(ゐ)たる樣子也。依(よつ)て鴈(がん)の首に金を付置(つけおか)れずやと尋(たづぬ)るに、か樣か樣の次第にて、其鴈を取逃(とりにが)せしと云(いふ)ゆゑ、其鴈は、我等が手捕と成(なり)たるに、首に財布をからみ居(ゐ)て、金子あり、四日市屋市郎兵衞の書付もある故、一身田まで尋行、又、此所まで、態々(わざわざ)尋來りたり、金子を受とり給へよと、財布を出(いだ)しければ、老人夫婦は、誠に思ひよらぬ事なれば、膽(きも)を潰すのみにて、しばし言葉もなし。扨ては左樣なる事に候や。御深切の段、言語(ごんご)に盡し兼(かね)、有難き事也。元、此金は、我等が金ながら、鴈の首に付置て鴈に取(とら)れ、其鴈を捕(とり)給へば、そなたの金なり。然れども、我等もよぎなき入用(いりよう)の金にて、既にきのふより死すべくも思ひ居(ゐ)たる程の儀(ぎ)、且(かつ)は遙々(はるばる)御深切にて持來り給りし事故、半分は戴き申べしとて、半分取て、跡は漁夫へ返しけれは[やぶちゃん注:「は」は底本・原典ともにママ。]、是も中々請(うけ)とらず。鴈といへども、元そなたの一度捕(とり)給ひたるのなれば、そなたのものなれども、我等が捕たる事なれば、もらひ置(おく)べし、金はそなたの金なれば、我等がもらふ筈(はず)なしとて辭退なし、互にとらじと色々爭ひて、遂に、骨折代として、かの漁夫は二朱の金を申請(まうしうけ)、歸り行て事濟(ことすみ)たりと。此事、遂に、領主へ聞え、漁夫は、深切に尋行て返し來りたる事を感じられて、靑差(あをざし)[やぶちゃん注:銭(ぜに)の穴に紺染め(古来はこの色を「青」と称した)の細い麻繩の「緡(さし)」を通して銭を結び連ねたもの。一般には一文銭を二百文を一緡とした。]五貫文[やぶちゃん注:標準では「一貫文」は一文銭一千枚。江戸後期だと、現在の一万円ほどか。]・米五俵を褒美として下し給(たまは)り、又、久兵衞は、留場(とめば)[やぶちゃん注:天領及び社寺仏閣の領域であったり、藩自体が規定するなどして、公的に殺生を禁じていた場所を指す。]にて竊(ひそか)に鴈を捕(とり)たる罪はかぞへられずして、娘を賣(うり)てまで年貢を出(いだ)さんとして、餘儀なき才覺の金なれども、義理を辨へて、段々辭讓(じじやう)なしたる事どもを感じられて、是も靑ざし五貫文下し賜りしと也。此一條は戲場(たはむれば)[やぶちゃん注:芝居小屋。]の作り狂言のやうなる事なれども、我(わが)知音(ちいん)、中村何某、其頃は實方(じつがた)、津の藩中に在(ある)時の事にて、近邊故、現に其事を見聞(けんもん)して、よく覺え居(ゐ)て、具(つぶさ)に咄せし珍事也。

[やぶちゃん注:……この娘の「あとのこと知りたや」……]

「想山著聞奇集 卷の四」 「信州にて、くだと云怪獸を刺殺たる事」

 

 信州にて、くだと云(いふ)怪獸を刺殺(さしころし)たる事

 

 信州伊奈郡松島宿の北村と原村の間に【中山道下諏訪より五里計(ばかり)南、高遠よりは二里計北西へふれたる所と也。】より僅(わづか)五六軒の家あり。此所(このところ)に小右衞門と云百姓の妹、廿六七に成(なる)女、享和年中の事と覺えし由、夜分寢てのち、聲をかぎりにヒイヽと云て泣出(なきいだ)してやみかね、難儀の旨にて縣(あがた)道玄に療養の事を賴みたり。其頃は、道玄至て若き節(をり)にて右近隣、松島と云所に遊歷なし居(ゐ)て、何心(なにごゝろ)なく彼(かの)家に行(ゆき)て見るに、如何にも大(おほひ)なる家なれども、零落の樣子にて、廿疊敷ばかりの座敷もあれど、疊も上げて、其所(そのところ)へは、久々、人も立(たち)さはらざる樣子に見え、荒果(あれはて)たる有樣にて、隨分、妖物(ようぶつ)の住家(すみか)ともなすべき古家(ふるいへ)なり。夜に入(いり)て、手水場(てうづば)は何(いづ)れぞと子供に尋(たづぬ)るに、彼(かの)疊の上げてある古座敷の椽側を傳ひて、向(むかふ)の方(かた)に有(あり)と教へしまゝ、燈火(ともしび)を持(もち)て彼椽を傳ひ、曲りくて古き便所の口の所へ行懸(ゆきかゝ)ると、額(ひたひ)の左(ひだ)りの所、ひやりとせし故、合鮎(がてん)行ず、※(のり)にても付たる樣につめたき故[やぶちゃん字注:「※」=(上)「殷」+(下)「皿」。「つめたき」という表現からは「糊(のり)」のようだが、後のシークエンスからは「血糊」の謂いである。]、手にて顏を拭(ぬぐ)ひ見るに、何事もなく、又、行(ゆか)ふと思ふと、ひやりとはせしかども、素(もと)より目にさへぎるものもなく、何事もなし。依(よつ)て小便をして、再びその所を通ると、又、ひやりとせしかども、元來、道玄は、か樣の事には驚(おどろか)ぬ豪傑故、外(ほか)に何事もなければ、其儘に座に復して、有(あり)し次第を云て、不思議成(なる)事也と尋るに、あの便所へは、祖父の代に參りたるまゝにて、親の代よりも一切參らざる所なれば、妖物にても居(ゐ)申べきかと云たり。其夜は、妹も泣(なか)ざるまゝ、又、明晩參るべしと約して歸りて後も、道玄は不審晴兼(はれかね)、暮(くるゝ)を遲しと、又、彼(かの)家へ行。程なく、夜前の如く燈火を付(つけ)て、左りの手に持、右の手には、兼て薄き紙を黑く塗(ぬり)て脇差の身に張付(はりつけ)、白刄(はくじん)を隱し置たるを、そつと拔持(ぬきもち)、柄(つか)を左りの腰骨の所に當(あて)、切先(きつさき)を上になし、左りの肩先の所に當て、左りの袖にて見えぬ樣に、何(なに)と無(なく)能(よく)隱して、かの所へ至ると前夜の如く、左りの額、ひやりとすると等敷(ひとしく)、力に任(まかせ)て骨も通れと突上(つきあぐ)ると、すさまじく手答(てごたへ)して、だらだらだらと※(のり)、額へ流れ懸りて、怪物はにげ失(うせ)たり。よつて勝手へ歸り、能々見るに、額より肩へ懸(かけ)て、夥しく血懸(かゝ)りたり。よく拭ひて後、再び明りを照して、かの邊(へん)を尋るに、血は流れあれども、何もなければ、夫(それ)なりに臥(ふし)たるに、彼(かの)妹は、其夜も泣もせず。依て翌朝は緩々(ゆるゆる)起出(おきいで)て朝飯(あさはん)をたべて居たるに、かの便所の方の隣家(りんか)にて、彼是、人聲(ごゑ)の喧(かまびす)しく聞ゆるを聞(きけ)ば、變なる獸(けもの)の深手にて死(しん)で居(ゐ)ると云故、行て見るに、右便所の直向(ぢきむかふ)の所、隣家の地面に、芋(いも)を圍(かこ)ふ室(むろ)の高く築上(つきあ)げたる上の方へ、便所より飛行(とびゆき)たるなりに、其大(おほき)さ、大猫(おほねこ)程有て、顏は全く猫のことく、體(からだ)は獺(かはうそ)に似て、毛色は惣躰(さうたい)、灰鼠(はいべづみ)にて、尾は甚だ太く大ひにして、栗鼠(りす)のごとくなる怪獸、左りの下腹(したはら)の所より、右の脇腹(わきばら)の所迄、斜(なゝめ)に突通(つきとほ)されて死に居(ゐ)たり。此異獸は、誰人(たれびと)も見知(みしり)たる者はなけれども、信州の方言に、管(くだ)と云(いふ)獸(けもの)なりと、人々究(きはめ)たりと也。此管と云ものは、甚(はなはだ)の妖獸なり。一切(いつせつ)、形は人に見せずして、くだ付(つき)の家とて、代々、其家の人に付纏(つきまと)ひ居(ゐる)事にて、此家筋の者は、兼て人も知居(しりゐ)て、婚姻などには、殊の外きらふ事と也。其くだと云は、餘國にて云(いふ)管狐(くだぎつね)の事にやと問へば、彼所(かのところ)にては、くだ狐とは云ず、くだと計(ばかり)云事のよし。然れども、尾の太き所は、全く狐の種類にや。三州・遠州などにて管狐と云(いふ)は至(いたつ)て少(ちいさ)く、管(くだ)の中(なか)へ入(い)る故に名付たる狐とはいへども、實(じつ)は其形ち、鼠程有(ある)狐にて、慥(たしか)に見たりと云者、三州荒井に有て、能々聞置たることもあれども、此類の種類も、いくらも有事と見えたるゆゑ、管に入のも有にや。しかし、其管狐と云ものとは全く別種のものと見えたり。何にもせよ、この妖獸は彼地(かのち)にても、誰(たれ)人も見ざるものにて珍敷(めづらしく)、評判高くなりて、高遠の城下よりも、人々見に來りて、彼婦人の泣(なく)事は、此ものゝなす業(わざ)と見えて、其後は止(やみ)たりと。此事は、右、縣(あがた)より直(ぢき)に聞たる咄にて、餘り珍敷事故、右同氏に其形ちを圖(づ)しもらひて、後證(かうしやう)となせり。道玄は、萬藝(ばんげい)とも、人に長じたる内に、武藝もすぐれたる人なり。

 

Kuda

 

[やぶちゃん注:以下、図の上部のキャプション。]

 

大(おほき)さ、大ひ成猫程ありて、顏は全く猫にして、尾は甚だ大ひなり、先(まづ)、狐の尾にて、惣身、獺(かはうそ)のやうにて、見馴(みなれ)ざる故か、小獸ながら、甚だ(はなはだ)變怪成(なる)ものとなり

 

[やぶちゃん注:「くだ」本邦の古くからの憑き物の一種である妖獣管狐(くだぎつね)のこと。ウィキの「管狐」より引く。『長野県をはじめとする中部地方に伝わっており、東海地方、関東地方南部、東北地方などの一部にも伝承がある』。『関東では千葉県や神奈川県を除いて管狐の伝承は無いが、これは関東がオサキ』(オサキギツネとも称する狐の憑き物の一種。漢字表記は「尾先」「尾裂」「御先狐」など。主に関東地方(埼玉県・東京都奥多摩地方・群馬県・栃木県・茨城県・長野県等)の一部の山村に伝わる妖獣で、元は那須野で滅んだ九尾狐由来とするものが多い。狐同様に人にも憑くが、家や特定の家系に憑くと信ぜられ、そうした家を「オサキモチ」「オサキヅカヒ(使い)」などと呼ぶ。ここは主にウィキの「オサキ」に拠った)『の勢力圏だからといわれる』。『名前の通りに竹筒の中に入ってしまうほどの大きさ』、『またはマッチ箱くらいの大きさで』七十五『匹に増える動物などと、様々な伝承がある』。『別名、飯綱(いづな)、飯縄権現とも言い、新潟、中部地方、東北地方の霊能者や信州の飯綱使い(いづなつかい)などが持っていて、通力を具え、占術などに使用される。飯綱使いは、飯綱を操作して、予言など善なる宗教活動を行うのと同時に、依頼者の憎むべき人間に飯綱を飛ばして憑け、病気にさせるなどの悪なる活動をすると信じられている』。『狐憑きの一種として語られることもあり、地方によって管狐を有するとされる家は「くだもち」「クダ屋』」「クダ使い」「くだしょう」と『呼ばれて忌み嫌われた。管狐は個人ではなく家に憑くものとの伝承が多いが、オサキなどは家の主人が意図しなくても勝手に行動するのに対し、管狐の場合は主人の「使う」という意図のもとに管狐が行動することが特徴と考えられている』。『管狐は主人の意思に応じて他家から品物を調達するため、管狐を飼う家は次第に裕福になるといわれるが』、『初めのうちは家が裕福になるものの、管狐は』七十五『匹にも増えるので、やがては食いつぶされて家が衰えるともいわれている』とある。小泉八雲(当時はまだラフカディオ・ハーン)も『落合貞三郎訳 「知られぬ日本の面影」 第十五章 狐 (七)』の中でこの七十五匹云々を狐持ちの家の話として強い興味を持って記しているので是非、読まれたい(リンク先は私の電子化注)。なお、「管狐」の実在モデル(及び本章の挿絵のそれはどう見ても)は所謂、「鼬(いたち)」、哺乳綱ネコ目イヌ亜目イタチ科イタチ属ニホンイタチ Mustela itatsi 或いは同イタチ属イイズナ Mustela nivalis である

「信州伊奈郡松島宿の北村と原村の間」現在の愛知県足助から長野県飯田・伊那のある伊奈盆地(伊那谷)を通って長野県中部の塩尻に到達する三州街道中の松島宿は現在の諏訪湖の西南の長野県箕輪町(みのわまち)に相当する。ここ(グーグル・マップ・データ)。「北村」「原村」に相当するような地名は見出し得ない。この箕輪町ということでご勘弁を。

「享和」一八〇一年~一八〇四年。

「ヒイヽ」表記のように原典では「引」の字が右に有意に小さく記されている(こうした例は今まで述べていないが、想山が自分を「予」と書く場合にもそうである)。これは恐らくオノマトペイアの音を引くことの記号と私は読む。即ち、ここは「ヒイイイイイイーー!!」なのである。

「縣(あがた)道玄」不詳であるが、本巻で先行する「大(おほ)ひ成(なる)蛇の尾を截(きり)て祟られたる事 幷、強勇を以、右祟を鎭(しづめ)たる事」を伝えた医師として既に登場しており、想山の大事な情報屋であったことが知れる。]

 

「想山著聞奇集 卷の四」 「死に神の付たると云は噓とも云難き事」

 

 死に神の付(つき)たると云(いふ)は噓とも云難(いひがた)き事

 

Ebisubasimitiyukinodan

 

 予が壯年の頃、我方へ出入たる按摩に、可悦(かえつ)と云盲人(まうじん)有。此者、若年(じやくねん)の頃、江府(かうふ)の屋敷方(がた)に奉公なし、遠國在廰の衆にも隨從して、所々步行(ありきゆき)、武道の事も粗(ほゞ)心得居(ゐ)、氣性も餘程衆に秀(しゆう)たるをのこにて、何事も物の數共(とも)思はざる氣質(きしつ)にて、放蕩抔(など)も人に增(まさ)りてなしたるよし。内瘴(そこひ)の症にて、忽ち盲人となりしかば、斯(かく)廢人となりて後(のち)は、三都の住居(すまひ)は無益(むやく)成(なり)とて、速(すみやか)に按摩と成て、生國なれば尾張へ歸り、我(わが)名古屋に居(きよ)をしめたり、此者、大坂在官の人の供して、かの地へ至り居(ゐ)し節(をり)、風(ふ)と、嶋の内の何とか云、大成(おほひなる)女郎屋へ行て、纔(わづか)兩三度遊びしに、右女郎の云には、心中【江戸にては相對死(あひたいし[やぶちゃん注:「し」は原典のママ。])といふ】してともに死呉(しにくれ)よといふ。隨分、死申(しにまうす)べし。去(さり)ながら、何故(なにゆゑ)に死を究(もとむ)ると問(とひ)ければ、惚(ほれ)たる故と云。其心に僞(いつはり)なくば、隨分、其意に任すべしと答(こたへ)しに、さらば、明晩、死申べしとの事にて、其夜は快く遊びて後、歸るに臨みて、約束の通り、明晩は、ぜひ早(はや)う參り呉(くれ)よと、心に留(とめ)て申せし故、勿論のことよと云捨(いひすて)て歸りしが、變成(へんなる)ことを申す女かな、明晩參れば彌(いよいよ)しぬ事にやと、不審は思ひながら、其翌夜(よくや)は友達とともに出(いで)て、道にて酒抔給(たべ)、遲くかの樓へ行見(ゆきみ)るに、女は待わびて、何故、斯(かく)は遲く來りしぞと怨(うらむ)る故、道にて友達に出會(いであひ)て、遁れがたく、心ならずも酒など呑(のみ)て時も移りたり、皆々も同道にて、辛うして來りたると云。死なふと思ふに、義理所(ぎりところ)にてはなし、多分は心變りし給ふ事と、宵より怨みて計(ばか)り居たりと云しかば、鳥は立(たつ)とも跡を濁(にご)さずと云諺もあり、待べしとは思へども、友達の付合も是非なし、時刻こそ遲れたれども、來(きた)る上は、疑(うたがひ)も晴(はら)し申べしと答ければ、夫(それ)は嬉敷(うれしき)事とて、死(しぬ)る氣の樣子ゆゑ、如何して死ぬ積りぞと問へば、内(うち)は僞りて、夜芝居(よしばゐ)に行(ゆく)とて出(いで)て、今宮(まきみや)の森へ行て死ぬ積りの所、最早、今宵は時も移り、連(つれ)が有ては妨(さまたげ)にも成べく、如何せば宜しからんと云故、今宵死ぬには限るまじ、此世の暇乞(いとまごひ)に、今夜は存分に酒を呑て思入(おもひいれ)、騷(さはひ)で遊ぶと了簡(れうけん)を替(かへ)べしと云に、男と云者は氣性の能(よき)もの也、さらば、明晩は必ず早う壹人で來り呉(くれ)よといふゆゑ、承知也承知也とて、無上(むしやう)に酒も呑(のみ)、大勢快く踊り戲れて遊び歸りたれども、翌日に至り、よくよく考(かんがふ)るに、あの樣に死ぬ氣に成(なり)たるは、呉々(くれぐれ)も合點(がてん)の行(ゆか)ぬ事なり、我等如きの男に惚(ほる)ると云もおかしく、又、身の上よきか、或は金に惚(ほれ)たりと云にもあらず、或は久敷(ひさしき)馴染にて、段々の情(じやう)も深く成(なり)たると云にてもなく、其うへ、互に、生(いき)て居(ゐ)ては義理の惡敷(あしき)と云べき譯もなし。おかしき事とは思へども、其頃は血氣の事にもありしかば、何(なに)にも驚かず。總躰(さうたい)の事、物の數とも思はずして、此上の成行(なりゆき)は如何(いかが)するのか、往(ゆき)てみねば分らず。相對(あひたひ)にて心中して死(しぬ)のも面白からん。何にもせよ、今宵も又參るべしと、暮合(くれあひ)より出かけ、五ツ時[やぶちゃん注:午後八時前後。]前に彼樓へ行と、女は待居、能(よく)來て下されしぞ、兼て約束の通りに、夜芝居へ參る也迚(とて)、夫々、内の片(かた)も付(つけ)、つれ立て出懸(でかけ)たり。夫より恵比須橋(ゑびすばし)迄行(ゆく)と、橋詰に、片見世は、草履(ざうり)・草鞋(わらぢ)抔商ふ八百屋有。此所(このところ)にて、彼(かの)女の云けるは、下駄にては道行(みちゆき)ももどかしく、草履を求(もとめ)てはき申すべし、そなたにもはき給へとて、二足買(かひ)たり。夫より橋の上へ行て、今の草履をはく迚(とて)、此川は名にし負ふ道頓堀にて、大坂一の繁榮なれば、橋の下には、行違(ゆきちが)ふ船も群(むれ)をなしたるに、其樣成(そのやうなる)斟酌なしに、彼(かの)下駄を橋の上より蹴込(けこみ)しまゝ、此時に至りて、此女は彌(いよいよ)死ぬ積り也と初(はじめ)て悟りたりと。扨(さて)、夫より、男にも、裏附(うらつけ)を蹴込て草履に替(かへ)よと云故、此新敷(あたらしき)裏附を入水(じゆすい)させるも無益(むやく)なり、今の八百屋に預け來(きた)るべしといへば、今死ぬ物が其樣なるとんぢやくが有べきかと申せども、死ぬる迄も費(ついえ)は費也、八百屋に置(おけ)ば八百屋の物と成べし、預け行んとむりに立戾りて、八百屋に預け、夫より浪花新地(なにはしんち)を通り拔(ぬく)るころ、彼(かの)女の顏色を能(よく)見るに、大(おほひ)に替りて、最早、一途に死ぬ事と思定(おもひさだめ)たる有さまなれば、夫迄は、うかうかと女郎の申(まうす)に任せたれども、是切(これぎり)に死(しん)で仕舞(しまふ)は思ひもよらぬ事ながら、此間中(このあひだぢう)、快よく約束して、今更いやともいひ難し、不慮成(ふりよなる)事を納得して、長き命を此場限りに縮めたると云(いふ)も、智惠のなき最上(さいじやう)、如何(いかが)はせまじと思ひつゞけしが、最早、義理も是切(これぎり)也(なり)、足に任せて逃(にげ)んと思へども、女も兼て覺悟の事故、懷より背中へ手を差入、命懸にて、下帶をしつかりと握り詰居(つめゐ)るゆゑ、中々、力業(ちからわざ)にては、扱取(もぎとつ)て逃失(にげうせ)る事も成間敷(なるまじく)、兎(と)やせまじ、角(かく)やせまじと思ふ内に、今宮の森迄、來りたり。兼て女の用意して持來りたる紐にてともに首を縊(くゝ)らんといへども、彼(かの)下帶は中々放さず。依(よつ)て先(まづ)少し成共(なりとも)、時刻を延(のば)さんと、此社(やしろ)にて多葉粉一ぷく、たべんと云。女郎の申には、もふ多葉粉所(どころ)にてはなしと答(こたふ)る故、最早、此世の名殘(なごり)なり、此所(このところ)まで逃來りし上は、其樣(そのやう)に急ぐ事はなし、好成(すきなる)たばこ位(ぐらゐ)は呑(のま)せ呉(くれ)よといひければ、さらばわらはも一ぷく呑(のみ)申べし、男の心は違(ちが)ひたるもの也とて、彼(かの)社前にて、火打(ひうち)を出(いだ)して、一打(うち)二打、打(うつ)と、思ひも寄らぬ直(ぢき)に後(うしろ)の戸をがらりと明(あけ)て、社(やしろ)より夜番(よばん)の者出(いで)て、何者なれば火を打(うつ)と、大ひなる聲して叱りたりければ、互に仰天せしはりやいに[やぶちゃん注:「張り合ひ拔けに」のことか。ふっと力が抜けるてしまって。]、詰居たる手を放ちしゆゑ、直(ぢき)に深林(しんりん)へ逃込(にげこみ)たり。夫より女は定(さだめ)て探し尋ねたるならんに、彼(かの)可悦は、けしからぬ脇へ逃翦(にげきり)、道もなき所を無上(むしやう)にたどり駈戾(かけもど)り、元の惠比須橋の八百屋へ來りみれば、いまだ寢(ね)もせずに居(ゐ)たりしかば、裏附(うらつけ)を取(とり)はきて足早にかけ歸り、夫より一二日は外へも出(いで)ず、内に居(ゐ)たれども、何分、右の事も心に懸り、欝々として樂(たのし)み兼(かぬ)る故、三日目程に、今度は方角を引離(ひきはな)れて天滿(てんま)の方へ出(で)かけ、或茶屋に休居(やすみゐ)たるに、荷物を脊負(せおひ)たる商人(あきうど)來りて、彼(かの)荷を下して、ともに休みつゝ咄しけるは、夜前(やぜん)、今宮の森に相對死(あひたひし)有(あり)たり。女は島の内の女郎と申(まうす)事也と云ゆゑ、扨、我等と能(よく)似たる事も有(ある)ものかな、若(もし)も彼(かの)女にてはなきやと思ひ、何(なに)やの女郎にやと問(とふ)に、既に我(わが)行(ゆき)たる女郎屋故、心せきこみて、夫(それ)は何と云(いふ)女郎なるやと又問へば、彼商人、女郎の名迄は承らず、何故、其樣に申さるゝ事ぞと云故、尤也(もつともなり)と心付(こゝろづき)、以前、あの内(うち)へは往(ゆき)て、大躰(たいてい)、女郎も近付(ちかづき)故、くどふも尋(たづぬ)る也と申紛(まぎ)らし、夫より人にも搜らせ、自身にも能(よく)尋見(たづねみ)るに、知己(おのれ)[やぶちゃん注:「知」はママで二字にルビする。]が死(しな)ふとせし女にて相手の男は遠國より來り居(ゐ)て、是も纔(わづか)四五度通ひ、餘程年を取(とり)たる男なりと云。此女には、世に云(いふ)、死神(しにがみ)が取付(とりつき)たるものにて、かの旅の男にも取付たるにや。何にしても、うかうかと、ひやい[やぶちゃん注:恐らくは「非愛(ひあい)」で、「危(あや)ういこと・危(あぶ)ないめ」の意であろう。]成(なる)事に逢(あひ)しとて可悦より詳(つまびらか)に聞(きき)たるなり。予、思ふに、可悦には神(かみ)有(あり)て遁(のが)れさせ給ひしか。又は、斯迄(かくまで)、心の慥(たしか)なる男故、死に神の侵(おか)し兼(かね)たるか。心得置(こころえおく)べき事なり。

[やぶちゃん注:添えられた挿絵は現在の大阪市中央区の道頓堀川に架かる戎橋(えびすばし:本文では「恵比須橋(ゑびすばし)」)上のシーンである。ここ(グーグル・マップ・データ))――「死神不可悦今宮心中(しにがみのよろこばざるいまみやしんじう)」の「恵比須橋道行の段」――である。よく見て戴きたい。……画面右手こちらの欄干の側に男女が顔を見合わせている……これが主人公の若き日の可悦と死神に憑りつかれた哀れな女郎である……何故それが分かるかって?……よく御覧なさい……そこから視線をずっと下の川面の方に目を移してゆくと……やや左手……に……彼女が死を覚悟して蹴り込んだ……下駄が……描かれているじゃ……ありませんか…………このタナトスに囚われた女は何か無性に哀れである……彼女が心中を遂げた老けた相手というのは……これ……私のことかも知れぬ…………

「内瘴(そこひ)」漢字では「底翳」と書き、視力障害を来たす複数の眼疾患のことをさす古語。現在でも俗称として用いられている。現在の疾患名では「白そこひ」は「白内障」を、「青そこひ」は「緑内障」に当たり、「黒そこひ」は瞳孔の色調変性が起こらないのに視力障害が起きる疾患を総称していたが、現在では「網膜剥離」「硝子体出血」「黒内障」などを指す(ウィキの「そこひ」に拠った)。

「嶋の内」現在の大阪府大阪市中央区島之内(しまのうち)の南部地区。ウィキの「島之内」によれば、十九世紀後半には二十四町もの茶屋御免の『町があり、遊里が点在する色町を形成しており』、ここの北に接する大坂町人文化の中心となった商業地区である船場(せんば)の『「商いどころ」に対して「粋どころ」と呼ばれた』。『異名は「ミナミ」「江南」「南江」「南州」「南陽」「陽台」「崎陽(きよう)」と多数あった。つまり「ミナミ」とは元々、島之内のことを指す名称であった』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「死なふと思ふに、義理所(ぎりところ)にてはなし、多分は心變りし給ふ事と、宵より怨みて計(ばか)り居たり」彼女の台詞。「義理所にてはなし」は「あんさんにはわてと死なねばならぬ義理のある訳にては、これ、あらへんさかい」の謂いであろう。

「夜芝居(よしばゐ)に行(ゆく)とて出(いで)て」こういうことが許される(江戸の吉原ではこうしたことは普通は許されなかったはずである)、比較的自由のきく女郎屋であったことが判る。

「今宮(まきみや)の森」「えべっさん」の愛称で知られる、現在の大阪府大阪市浪速区恵美須西にある今宮戎神社の森か? ここなら島之内からなら、南に二キロメートル圏内である。

「裏附(うらつけ)」裏附草履。二枚重ねの底に革を挟んで補強したもの。女が嫌ったのは、恐らくは普通の草履よりも音がするからであろうか。

「浪花新地(なにはしんち)」概ね現在の中央区難波に当たる難波新地(なんばしんち)。ここ附近(グーグル・マップ・データ)。先に渡った戎橋の南直近。

「扱取(もぎとつ)て」底本は「拔取」であるが、編者によって右に『(捥)』と訂正注がある。確かにそうすれば「もぎとり」と難なく読めるが、しかし、原典を見ると「拔」ではなく、私には「扱」に見える。これは「こく」「しごく」「細長い本体に付いている物を手や物の間に挟んで引っぱって擦り落とす」の謂いであり、想山はそうしたニュアンスを含んで確信犯でこの字を当てたとも思われるのでママとした。

「天滿(てんま)」現在の大阪市北区天満。ここ(グーグル・マップ・データ)。大阪城の北西で、確かに今までのロケーション位置からは東北に当たって方向違いである。

「夜前」前の日の夜。主人公は逃げ帰って、その夜から三日目に天満に出かけ、この話を聴いている点に注意。] 

「想山著聞奇集 卷の四」 「美濃の國にて熊を捕事」

 

 美濃の國にて熊を捕(とる)事


Kumatori

 美濃の國郡上郡(ぐじやうごほり)の、きび嶋(しま)村と云は、僅(わづか)家數(かづ)三十軒計(ばかり)の村なれども、村(むら)内の山は、二三里に渡りて至て廣く、此山、南受(みなみうけ)にして暖(あたゝか)なる地なれば、冬は飛驒・加賀・越前・越中當りの熊、多く此山へ集り來りて、穴に住(すむ)もあり、古木(ふるき)に住も有、依(よつ)て、此邊(このへん)の狩人(かりうど)共の行て其熊を捕事也。【此邊の山は神代(じんだい)より斧いらずと云所ゆゑ、大木(たいぼく)のみ有ところなり。】先(まづ)、木に住(すむ)熊は、五圍(いつかこ)みより、七(なゝ)圍み八(や)圍み位(くらゐ)有(ある)古木(ふるき)の、中(なか)は朽(くち)てうつろに成(なり)たる木いくらも有て、其木の中に、熊五疋も六疋も、多きは七八疋位も有事もありと。狩人は四五人より十人位迄組合(くみあひ)て、獵犬を連て、正月より二月頃の、未(いまだ)、雪の消ざる内に山へ入て尋(たづぬ)ると、熊の居(ゐ)る木は犬しり居(ゐ)て、其木の根を𢌞りて、頻(しきり)に吠(ほゆ)る也。熊は犬の吠る聲を聞(きけ)ば、木のうろ深く潛(くゞ)り隱れて決(けつし)てうろ穴より出(いづ)る事なし。よつて、その邊(へん)の木を伐りて、穴の上より入(い)ると、熊は其木を己(おのれ)の穴へ段々引込(ひきこみ)て、己らは穴の底へ潛(ひそま)り込(こむ)ものゆゑ、彌(いよいよ)木を穴へ差入(さしいれ)て、如何しても出(いで)られぬ樣になして後(のち)、けふは暮に及べるまゝ、今宵は此所(このところ)に宿(やど)して、あすの事になすべしなどゝて、火を燒て夜(よ)を明(あか)し、夫(それ)より木の根のよきかげんの所に、五六寸位より七八寸位の穴を斧にて伐明(きりあく)ると、熊出(いで)んとして其口ヘ來(きた)るを待(かち)て、熊突(くまつき)といふ笹葉(さゝば)に似たる槍にて、手早く突(つく)と等しく、其槍を𢌞して直(ぢき)に拔取(ぬきとる)事と也。其槍の穗は

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か樣の形にして、(み)の長さ七八寸有て、幅は三寸繰りもあり。至て薄き能(よく)切(きれ)る關打(せきうち)の槍也。全く出刄(でば)を背合(せあはせ)にしたる如きものにして、熊笹の葉のごときもの也。【依て笹槍と云。】小耳(こみゝ)と云(いひ)て、熊の耳の下と、又、月の輪とは、急所なれば、一突にて留(とま)るゆゑ、先(まづ)、其二か所をねらひて突(つく)事なれども、其所計りは突兼(かぬ)るゆゑ、見當り次第、突事なり。斃(をち)たる熊は中へ引込(ひきこみ)て、生(いき)て居(ゐ)る熊、入替(いりかは)りて、いつ迄も出來(いできた)る故、一向、世話なしに、七疋も八疋も殺す事にて、殺し盡して後(のち)は、木を伐倒(きりたほ)して取出(とりいだ)すゆゑ、危き働(はたらき)をせずして捕(とる)事と也。惣躰(さうたい)、木に居(ゐ)るは木熊(きぐま)とて小さく、穴に居るは穴熊とて、大なる樣に聞(きゝ)およびたれども、此邊にては、木に住(すむ)も穴に住も同じ事にて、木にも小牛(こうし)程なるもいくらも住居(住みゐ)て、木のうつろの中に、二所(ふたところ)三(み)所位(ぐらい)も住居る所、色々に作り有ものとぞ。又、穴に居るのは、巖(いはを)の下などの自然と窪(くぼ)める所に、穴を掘て居るものにて、是は、穴に丈夫なる杭を打ては掘崩(ほりくずし)、又、杭を打直しては掘崩して、遂に掘發(ほりあば)きて、前の如く突殺す事と也。山海名産圍繪、又、越後雪譜・東遊記等に記し有(ある)趣(おもむき)とは、大(おほひ)に捕(とり)かた、違ひたり。國々により、種々手段替り有事と知れたり。又、夏の内、木に居(ゐ)る熊を打(うつ)と、必(かんらず)、烟りの揚りたる所を目懸(めがけ)て飛來(とびきた)る故、傍(かたはら)へ退(の)きて二の玉を打(うち)、又、三の玉を打故、大躰(たいてい)は夫にて留(とま)る事となり。廣場などにて打て飛來る時は、蓑(みの)にても打付(うちつく)ると、腹立(はらたち)て、夫を懷き抱へて、いつまでもむしり居るゆゑ、二の玉、又三の玉迄、打事といへり。しかし、是等は一命を的(まと)とせし働きにて、生死(しやうし)一瞬の内を出(いで)ずして、生涯を送るといふも、實に危き渡世なり。

[やぶちゃん注:「美濃の國郡上郡(ぐじやうごほり)の、きび嶋(しま)村」不詳。但し、現在の岐阜県郡上市白鳥町(しらとりまち)歩岐島(ほきじま:旧郡上郡歩岐島村)は村名が近似し(他に「きびしまむら」に近い旧村名は見当たらなかった)、位置的にも納得出来る。ここ(グーグル・マップ・データ)。もし、違っていれば、御教授を乞うものである。

「五圍(いつかこ)みより、七(なゝ)圍み八(や)圍み」本邦の身体尺である両腕幅「比呂(ひろ)」は一比呂が一五一・五センチメートルであるから、七メートル五十八センチから十二メートル十二センチとなる。ちょっと異様な巨木の感があるが、ここに記されている通り、神代の時代から伐られることがなく、しかもその洞(うろ)にツキノワグマ(哺乳綱食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科クマ属ツキノワグマ Ursus thibetanus)が五~八匹も棲むとなれば、これくらいないと逆におかしい。但し、ツキノワグマはこんな厖大な群れを作らぬから、これらの複数のそれは母熊と小熊であろうが、にしても、同種は産む子の数は二匹が普通でこの数自体が不審ではある。それでも後で「月の輪」と言っているからツキノワグマなのであろう(但し、この後の「又、穴に居るのは、巖(いはを)の下などの自然と窪(くぼ)める所に、穴を掘て居るものにて」というのはどうもアナグマ(クマ下目イタチ小目イタチ上科イタチ科アナグマ属ニホンアナグマ Meles anakuma としか読めぬ。但し、ニホンアナグマもこのような八匹にも及ぶ群棲はしないと思われる)。ともかくもこの古木の周径もそこにいる「熊」の匹数も、孰れもかなりの誇張があると考えねばならない。

(み)」読みは原典のもの。「み」は所謂、槍の穂先の金属の刀身部分の謂いと思われる。この「」という漢字自体は「金属や石などの堅いものが打ち当たる音の形容」或いは「鐘などを撞く」の意であるから、想山はこの漢字をただその意味に当てただけのように推測される。

「關打(せきうち)」美濃国関、現在の岐阜県関市一帯は鎌倉時代より刀鍛冶が盛んで、戦国時代には武将の間で愛用され、「関の孫六」で知られる名工二代目兼元でも知られる。ここで打ち鍛え作られた槍の刃先であることを指す。

「山海名産圍繪」「日本山海名産圖會」。主に海産生物の漁法並びに食品や酒の製造法を著した物産書。蒹葭堂けんかどうの号で知られた大坂の町人学者木村孔恭こうきょうが著者とされる(序は彼であるが、本文も彼が書いたかどうかは実は不詳)。寛政一一(一七九九)年板行。

「越後雪譜」後の段に出る通り、鈴木牧之の「北越雪譜」(既注)の誤り。天保八(一八三七)年、江戸にて板行。

「東遊記」既注。橘南谿が寛政七(一七九五)年八月に板行した北陸・東北の紀行。因みに本「想山著聞奇集」は嘉永三(一八五〇)年の板行。

「是等は一命を的(まと)とせし働きにて、生死(しやうし)一瞬の内を出(いで)ずして、生涯を送るといふも、實に危き渡世なり」老婆心乍ら、熊撃ちの狩人のことを言っている。

 以下、底本では全体が二字下げ、原典では一字下げ。]

 

北越雪譜に、山家(さんか)の人の話に、熊を殺(ころす)事、二三疋、或は年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、必、荒(ある)る事有。山家の人、是を熊荒(くまあれ)と云。此故に、山村の農夫は、需(もとめ)て熊を捕事なしといへり。熊に靈(れい)有事、古書にも見えたり云々。然共(しかれども)、此美濃の郡上邊にては、斯(かく)の如く熊を捕事は、珍敷(めづらしき)事にあらざれども、さして荒る事を覺ずと云。尤(もつとも)、雪中の熊の膽(きも)は、惡しき分にても五六兩にはなり、好(よき)品なる分は、十五兩にも廿兩にもなり、時によりては、一疋の膽が三十兩位(ぐらゐ)と成(なる)分(ぶん)をも獲る事有て、纔(わづか)の窮民共の五七人組合(くみあひ)、一時に三十金・五十金をも獲る事有(あれ)ば、是が爲に身代をもよくし、生涯、父母(ふぼ)妻子をも安穩に養ふべき基(もとひ)ともなるはづなるに、矢張(やはり)、困窮して、漸(やうやく)飢渇に及ばざる迄の事なるは、熊を殺せし罰なるべしと、銘々云(いひ)ながらも、大金を得る事故、止兼(やみかね)て、深山幽谷をも厭はず、足には堅凍積雪(けんとうせきせつ)を踏分(ふみわけ)、頭(かしら)には星霜雨露を戴きて、實(げ)に命(いのち)を的(まと)となして危(あやうき)をなし、剩(あまつさへ)ものゝ命をとりて己(おのれ)の口腹(こうふく)を養ふと云(いふ)も、過去の宿緣とも申べき乎。

[やぶちゃん注:「熊の膽(きも)」ウィキの「(ゆうたん)より引いておく。『熊の胆(くまのい)ともいう。古来より中国で用いられ、日本では飛鳥時代から利用されているとされ、材料は、クマの胆嚢(たんのう)であり、乾燥させて造られる。健胃効果や利胆作用など消化器系全般の薬として用いられる。苦みが強い。漢方薬の原料にもなる。「熊胆丸」(ゆうたんがん)、「熊胆圓」(ゆうたんえん:熊胆円、熊膽圓)がしられる』。『古くからアイヌ民族の間でも珍重され、胆嚢を挟んで干す専用の道具(ニンケティェプ)がある。東北のマタギにも同様の道具がある』。『熊胆の効能や用法は中国から日本に伝えられ、飛鳥時代から利用され始めたとされる熊の胆は、奈良時代には越中で「調」(税の一種)として収められてもいた。江戸時代になると処方薬として一般に広がり、東北の諸藩では熊胆の公定価格を定めたり、秋田藩では薬として販売することに力を入れていたという。熊胆は他の動物胆に比べ』て湿潤せず、『製薬(加工)しやすかったという』。『熊胆配合薬は、鎌倉時代から明治期までに、「奇応丸」、「反魂丹」、「救命丸」、「六神丸」などと色々と作られていた』。『また、富山では江戸時代から「富山の薬売り」が熊胆とその含有薬を売り歩いた』。『北海道先住民のアイヌにとってもヒグマから取れる熊胆や熊脂(ゆうし)などは欠かせない薬であった。倭人の支配下に置かれてからは、ヒグマが捕獲されると松前藩の役人が毛皮と熊胆に封印し、毛皮は武将の陣羽織となり、熊胆は内地に運ばれた。アイヌに残るのは肉だけであった。熊胆は、仲買人の手を経て薬種商に流れ、松前藩を大いに潤した。明治期になっても、アイヌが捕獲したヒグマの熊胆は貴重な製薬原料とされた』。『青森津軽地方でも、西目屋村の目屋マタギは「ユウタン」、鰺ヶ沢町赤石川流域の赤石マタギは「カケカラ」と呼んだ』。『熊胆に限らず、クマは体の部位の至る所が薬用とされ、頭骨や血液、腸内の糞までもが利用されていた』。『主成分は胆汁酸代謝物のタウロウルソデオキシコール酸』で、他にも『各種胆汁酸代謝物やコレステロールなどが含まれて』おり、現在も『漢方薬として熊胆』は『珍重されている』。]

2017/05/30

「想山著聞奇集 卷の四」 「大ひ成蛇の尾を截て祟られたる事 幷、强勇を以、右祟を鎭たる事」

 

 大(おほ)ひ成(なる)蛇の尾を截(きり)て祟られたる事

  幷、强勇を以、右祟を鎭(しづめ)たる事

Soemonnooohebi

 信州小縣郡(ちひさがたごほり)東上田村【上田の城下のつゞきなり、】に、曾(そ)右衞門と云百姓あり。農事の間には、蠶(かひこ)の繭を買集(かひあつめ)て、上州上田高崎邊(へん)へ送り、絹布(きんふ)の類と交易して渡世とするものとぞ。此宅(このいへ)の裏は山續きにて、其山の麓に池有(あり)て、昔より其池の邊(へん)に、大なる蛇一疋住居(すまゐ)たる故、代々夫(それ)を辨財天と崇め、池の中嶋(なかじま)にちいさき祠(ほこら)を建(たて)て、月々米壹升づゝをめしに焚(たき)、かの祠に供(くふ)ずるに、件(くだん)の大蛇出(いで)て、夫を食(くふ)事にて、かくする事、また久敷(ひさしき)事也。然(しか)るに寬政十年【戊午】[やぶちゃん注:一七九八年。]頃の事なりしが、曾右衞門は商ひにて、右、上州高崎の元町(もとまち)へ行(ゆき)て逗留なし居(ゐ)たる留守に、倅豐吉、花檀[やぶちゃん注:「檀」はママ。]の植替(うゑかへ)をするとて、誤(あやまり)て彼(かの)蛇の尾の所、貮尺餘り截落したり。【其尾先(をさき)、大摺木(おほすりこぎ)ほど有しといふ。】然るに、其夕暮より、豐吉、傷寒(しやうかん)のごとき大熱(だいねつ)して、大成(おほひなる)丸太の如き蛇、身躰(しんたい)を卷(まき)からみ〆(しめ)らるゝとて、玉のごとき汗を流し、苦しがりたり。尤(もつとも)、其蛇、餘人(よじん)の目には見えねども、豐吉の目には見えて、堪兼(たえかね)る故、祈禱すれども驗(しるし)もなく、醫師も集り、藥など用ひ試れども、少しの功もなく、豐吉は四五日の内に段々やせ衰へ苦しみければ、此姿にては、何はともあれ、其内に躰(たい)勞(つか)れ、死に至るより外なしと醫師も申聞(まうしきけ)、何(なに)にもせよ、父曾右衞門に告(つげ)しらせ、兎も角もなすべしとて、達者成(たつしやなる)、急飛脚(きうびきやく)を立(たて)て、かの元町へしらせ遣したり。扨(さて)、曾右衞門、その病氣の樣子を具(つぶさ)に聞て申樣、夫ならば、くるしみても死には至るまじ、我等すべき樣(やう)有、殘りの荷は、明日の市(いち)に賣拂(うりはらひ)、替りの反物(たんもの)は、懇意の方(かた)より買(かひ)て𢌞(まは)し貰べきまゝ、わが歸る迄、驚かずに待居(まちゐ)よとて、飛脚を先へ返し、夫より大躰(たいてい)に用事を片付て、早々歸宅なして申樣、祖父以來、我方(わがかた)の鎭守として、汝等ごとき蟲類を辨天などゝ祭り置て、月々、飯まで喰(くは)せ置(おき)たるに、己(おの)が淺々敷(あさあさしき)所に出居(いでゐ)て、誤(あやまり)てきられたる事をはぢもせで、祟ると云は惡(にく)き事なり。先(まづ)、祠(やしろ)より打崩(うちくづ)して、助け置べきものかはとて、夫より、其邊の潛み居(ゐ)そふ成(なる)所を、そこ爰(こゝ))となく掘穿(ほりうが)ち、遂に件(くだん)の蛇を掘出(ほりいだ)し、何のぞうさもなく打殺し、直(ぢき)に皮を剝(はぎ)、先、二くだ計(ばかり)切(きり)て、酒の肴(さかな)となしてうちくらひ、人にすゝめ、殘りは段々食盡(くひつく)すべしとて、鹽(しほ)に漬置(つけおき)て日々(にちにち)食(くひ)たるに、夫より病人は次第に快く、纔(わづか)二日計も過(すぐ)ると、速(すみかや)に全快なしたり。曾右衞門は、かの切捨(きりすて)たる尾先(をさき)を尋出(たづねいだ)して、此(この)皮をもはぎ、胴の方(かた)の皮と繼合(つぎあは)せ、はなしの種の證據に、子孫へ殘し置(おく)がよろしきとて、能(よく)干堅(ほしかた)め、長押(なげし)に懸置(かけおき)たりと。扨、彼(かの)醢(ししびしほ)は、廿日程も懸りて、悉く食盡(くひつく)せし由。此蛇の大(おほき)さ、火入(ひいれ)の𢌞(まは)り程有て、色は赤黑なるへびにて有しと云。夫より雲野宿(くものじゆく)【直(ぢき)東(ひがし)の並びの宿なり。】光禪寺の寺中(じちう)の僧、此咄を聞、蛇を殺したるは道理至極の事なれども、先祖より久々(ひさびさ)祭り置たる辨財天の祠を毀(こぼ)ち捨(すつ)るは宜(よろ)しからず。夫(それ)か迚(とて)、足下(そつか)の宅(いへ)には、最早、元の如くは祭り給ふまじ。我は出家の事、わが地内(ぢない)に祭り置は子細なし、かの打毀(うちこぼ)ちたる祠を修(しゆ)すべしとて、可成(かなり)に元の如くになして、右、光禪寺に祭り置たりといへり。曾右衞門の勇氣は、感ずるにも餘り有(ある)事なり。是は縣(あがた)道玄、曾右衞門父子と各別の知己にて、彼(かの)皮も常々見受居(みうけゐ)、至(いたつ)て能(よく)しり居(ゐ)ての話なり。

[やぶちゃん注:「信州小縣郡東上田村」信濃国小県郡(ちいさがたぐん)東上田村。当時は旗本領と上田藩領が混在していた。現在は長野県東御市(とうみし)和(かのう)。(グーグル・マップ・データ)。

「高崎の元町」現在の群馬県高崎市本町であろう。(グーグル・マップ・データ)。東上田からは直線でも五十キロメートルはある。

「淺々敷(あさあさしき)所に出居(いでゐ)て」浅はかにして軽率にもそのようなところにしゃしゃり出でて。

「二くだ」「管」であろう。大蛇の胴体を幾つかに寸胴切りにした、その二本。

「雲野宿(くものじゆく)」とルビするが、これは北国街道の宿場として栄えた海野(うんの)宿、現在の長野県東御市本海野(うんの)であろう。先の和(かのう)の千曲川沿いの東南に隣接する地区である。(グーグル・マップ・データ)。

「光禪寺」不詳。しかし、長野県東御市和の海野に近い位置に曹洞宗の興善寺という寺がある。であろう(グーグル・マップ・データ)。

「可成(かなり)に」それお相応に。しっかりと。]

南方熊楠 履歴書(その45)~「履歴書」エンディング 「履歴書」/了

 

 八年ばかり前に、東京商業会議所の書記寺田という人よりの問合せに、インドよりチュールムグーラが日本ではけ行く量と価格を問い来たが、何のことやら知ったものなし。貴下は御存知だろうという人あるゆえ、伺い上やるとのことありし。これは大風子とて(大風とは癩病のこと)、むかしより諸邦で療病薬として尊ぶものに候。専門もよいが、専門家が他のことを一向顧みぬ風もっぱらなるまり、チョールムーダラといえば何のことと問うに知った人ちょっとなし。ポルトガル語の専門家へ聞きにゆくと、それはポルトガル語にあらずというて答えがすむ。マレー語の専門家、支那語の専門家等に尋ぬるも、それはマレー語にあらず、支那語でないというて答えがすむ。知らぬという代りにそれは予の専門にあらずといえば、その学者の答えがすむなり。もしこれが、詳しからずとも一(ひと)通りの諸国の語を知った学者があり、それに問い合わせたなら、それはインド語だとの答えはすぐ出るところなれど、そんな人が日本に少ないらしい。さてインド語と分かったところで字書を引いて大風子と訳すると分かりて、その大風子はどんなもの、何の役に立つということに至っては、また漢医学家あたりへ聞き合わさざるべからず。いよいよその何物たるやを詳知(しょうち)せんと思わば植物学者に聞き合わすを要す。しかるに、植物学者は今日支那の本草などは心得ずともすむから、大風子と問うばかりでは答えができず、学名をラテンで何というか調べてのち問いにこいなどいう。それゆえ本邦で、一つなにか調べんと思うと、十人も二十人も学者にかけざるべかちず。槍が専門なればとて、向うの堤を通る敵を見のがしては味方の損なり。そのとき下手ながらも鉄砲を心得おり、打って見れば中ることもあるべし。小生何一つくわしきことなけれど、いろいろかじりかきたるゆえ、間に合うことは専門家より多き場合なきにあらず。一生官途にもつかず、会社役所へも出勤せず、昼夜学問ばかりしたゆえ、専門家よりも専門のことを多く知ったこともなきにあらず。

[やぶちゃん注:「東京商業会議所の書記寺田」不詳。

「チュールムグーラ」現在は英語として“Chaulmoogra”で載る。英語のネィティヴの発音を音写するなら「チャールムグラ」である。

「はけ行く量」商品として消費され購入される量。

「大風子」東インド原産の高木であるキントラノオ目アカリア科(最新説の分類)イイギリ属ダイフウシノキ Hydnocarpus wightiana で、その種子から作った油脂「大風子油」は飽和環状脂肪酸であるヒドノカルピン酸(hydnocarpic acid)・チャウルムーグリン酸(chaulmoogric acid)・ゴーリック酸(gorlic acid)と、少量のパルミチン酸などを含む混合物のグリセリンエステルで、古くはハンセン病治療に使われた。日本に於いては江戸時代以降、「本草綱目」などにハンセン病への対症効用が『書かれていたので、使用されていた。エルヴィン・フォン・ベルツ、土肥慶蔵、遠山郁三、中條資俊などはある程度の効果を認めていた』という。明治四五・大正元(一九一二)年、『光田健輔は結節らいを放置すれば』七十五%『は増悪するが、大風子油』を100cc以上、『注射すれば』、投与者の八十八%は『結節を生じないと文献に』記しているが、昭和七(一九三二)年のストラスブールで行われた「第三回国際らい学会」で光田は当該治療は後の『再発率が高いこと』も発表しているという。『上川豊は「大風子油の癩に対する治療的有効作用に就て」』で昭和五(一九三〇)年に『京都大学で学位を与えられ』ており、『彼は大風子油注射は網状織内被細胞系あるいはリンパ系統を刺激して局所的ないし全身的抗体産生機能を旺盛ならしめるとしている。結論としてらいの初期は臨床的治療状態を軽減するも、末期重症例では快癒状態に導くのは不可能とある』。『堺の岡村平兵衛は家が油製造業者であったが』、明治二五(一八九二)年『以来、良質の大風子油を製造し、日本国内では、岡村の大風子油として有名であった』。『東京にある、国立ハンセン病資料館には、以前使用されていた、大風子油を熱で融解する巨大な釜が展示されている』ともある(以上は引用を含め、概ねウィキの「大風子油」に拠った)。

「癩病」ハンセン病の旧称。抗酸菌(マイコバクテリウム属Mycobacteriumに属する細菌の総称。他に結核菌・非結核性抗酸菌が属す)の一種である「らい菌」(Mycobacterium leprae)の末梢神経細胞内寄生によって惹起される感染症。感染力は低いが、その外見上の組織病変が激しいことから、洋の東西を問わず、「業病」「天刑病」という誤った認識・偏見の中で、今現在まで不当な患者差別が行われてきている(一九九六年に悪法「らい予防法」が廃止されてもそれは終わっていない)。歴史的に差別感を強く纏った「癩病」という呼称の使用は解消されるべきと私は考えるが、何故か、菌名の方は「らい菌」のままである。おかしなことだ。「ハンセン菌」でよい(但し、私がいろいろな場面で再三申し上げてきたように言葉狩りをしても意識の変革なしに差別はなくならない)。]

 

 小生『大阪毎日』より寄稿をたのまれ、今朝より妻子糊口のため、センチ虫の話と庭木の話をかきにかかり申し候。それゆえ履歴書は、これほどのところにて止めに致し候。もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく、小生決して私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間、御安心して寄付さるるよう願い上げ候。また趣旨書御入用ならば送り申し上ぐべし。御出立も迫りおれば、とても望むべきこととは存ぜねども一口でもあらばと存じ願い上げ置き候。

[やぶちゃん注:「センチ虫」雪隠虫(せっちんむし)の訛り。昔の溜便所にわく蠅の幼虫の蛆のこと。この「せんちむし」の呼称は「日本国語大辞典」では方言としており、そこに示された採集地からは西日本広域の方言である。この「センチ虫の話と庭木の話」というのが現在の彼のどの著作を指すのかは不詳。

「御出立も迫りおれば」矢吹はこの時、国外長期出張の直前でもあったものか?

 以下、最後まで、底本では全体が二字下げ。]

 

日本の学者に、小生があきるるほど、小生よりもまだ世上のことにうとき人多し。名を申すはいかがなれど原摂祐(かねすけ)というは岐阜の人で、独学で英、仏、独、伊、拉の諸語に通じ、前年まで辱知白井光太郎教授の助手として駒場農科大学にありしが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県の農会の技手たり。この人二千五百円あらば、年来研究の日本核菌譜を出板し、内外に頒ち得るなり。しかるに世上のことにうときより今に金主なし。小生何とかして自分の研究所確立の上その資金を出したく思えど、今のところ力及ばず、小生在京中右に申せし処女の薬に感心されたる鶴見局長(今は農務次官?)の世話をたのみ、啓明会より出金しもらわんと小生いろいろ世話したるも、原氏本人が大分変わった人で、たとえば資金輔助申請書にそえて身体診断証を出せといわるると、今日健康でも明日どんな死にあうかもしれず、無用のことなり、などいい張るゆえ、出(で)るべき金も出しくれず。この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時、その宿所を問いしに、浅草辺なれど下谷かもしれず、酒屋のある処なりなど、漠たることをいう。こんな人に実は世界に聞こえおる大学者多く候。小生は何とぞかかる人の事業を輔成して国のために名を揚げさせたきも、今に思うのみで力及ばざるは遺憾に候。この人はよほど小生をたよりにしおると見え、前年みずから当地へ小生を来訪されたることあり。   匆々謹言

[やぶちゃん注:これを以って本書簡(通称・南方熊楠「履歴書」)は終わっている。

「原摂祐」植物学・菌類学者・昆虫学であった者原摂祐(はら かねすけ 明治一八(一八八五)年~昭和三七(一九六二)年)。ウィキの「原摂祐によれば、『岐阜県恵那郡川上村(現在の中津川市川上)の生まれ』で、『岐阜農学校、名和昆虫研究所を経て』、『東京大学助手に就任』、大正一〇(一九二一)年までは『同大学で昆虫学の講義を担当し』ている。その後、昭和五(一九三〇)年に『岐阜県の農薬会社に就職した』。昭和二(一九二七)年に『白井光太郎』らが大正六(一九一七)年に『出版した日本最初の菌類目録「日本産菌類目録」を改訂、さらに昭和二九(一九五四)年にはそれを再度、『改訂した目録を自費出版し』て、実に約七千三百種の菌類目録を発行している。これはつい二〇一〇年に勝本謙によって「日本産菌類集覧」が『発行されるまで、最も多くの日本産菌類を網羅した目録であった』とある。「南方熊楠コレクション」の注には、彼が南方熊楠を訪問したのは大正一〇(一九二一)年五月十五日のことであったと記されてある。熊楠がここで敢えて名を出してまで追記している気持ちがひしひしと伝わってくる人物ではないか。

「拉語」「拉丁語」(「羅甸語」とも書く)。ラテン語。

「鶴見局長(今は農務次官?)」既出既注の鶴見左吉雄は最後に農商務次官に就任しているが、大正一三(一九二四)年に退官しており、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のものであるから、彼はもう農商務次官ではない(後に彼は本格的に実業界に移っている)。

「啓明会」大正八(一九一九)年八月四日に前年まで埼玉師範学校教員であった下中弥三郎(しもなかやさぶろう)を中心に県下の青年教師によって組織された教育運動団体のことか? 啓明会は教員の地位・待遇の向上を目指す職能的な教員組合としての性格と、教育的社会改造運動の性格とを掲げて出発し、翌年五月の第一回メーデーでは教員組合として参加、一般労働組合との組織的連帯を図り、同年九月には全国的な運動への発展を目指して「日本教員組合啓明会」と改称、「教育改造の四綱領」を発表している。日本最初の教員組合運動の出発点とされる組織である。しかし、そこに農商務官僚の鶴見左吉雄が口利きするというのはどうも解せない気もする。識者の御教授を乞う。

「輔助」「ほじよ」。「補助」に同じい。後の「輔成」も「ほせい」で「助成」に同じい。

「この人東京に出で来たり小生を旅館に訪れし時」この謂いから、この原の訪問は南方熊楠が寄付金集めのために東京へ出た大正一一(一九二二)年の三月から七月の間のことか? その時期ならば、原は大学の講師職を失っている頃であり(或いは郷里に戻っていた可能性も高い)、状況としておかしくない。]

南方熊楠 履歴書(その44) 遠近法に従わない絵の教訓

 

Smunakatasannjysointohune

 

 小生前般来申しのこせしが、三神と船はこんなふうに、船が視る者に近いでも三神が見る者に近いでもなく、視る目より同じ近さにある体(てい)に画くが故実と存じ候。しかるときは、会社を主とせるにも連合会を主とせるにもなく、はなはだ対等でよろしかりしことと存じ候。しかし、今はおくれて事及ばざるならん。

[やぶちゃん注:「小生前般来申しのこせしが」本書簡の冒頭でも宗像三女神の話はしているが、それではなく(船の話はそこにはない)、「南方熊楠コレクション」の注によれば、大正一三(一九二四)年『十一月二十九日付矢吹宛書簡、通称「棉神考」の補足をさす』とある。私は全集を所持せず、この遠近法に従わない画法と、矢吹が勤める日本郵船と大日本紡績連合会の関係についての判り易い注をすることは出来ない。悪しからず。冒頭及び私の注は僅かながら参考にはなるものとは思う。それにしても、二つの集団の対等性を諷喩するに、非常に面白く、厭味でない謂いと挿画であると私は思う。]

 

 小生は他の人々のごとく、何年何月従何位に叙(じょ)し、何年何月いずれの国へ差遣(さけん)されたというような履歴碑文のようなものはなし。欧米で出した論文小引は無数あり。それは人類学、考古学、ことには民俗学、宗教学等の年刊、索引に出でおるはずなり。帰朝後も『太陽』、『日本及日本人』へは十三、四年もつづけて寄稿し、また『植物学雑誌』、『人類学雑誌』、『郷土研究』等へはおびただしく投書したものあり。今具するに及ばず。もっとも専門的なは日本菌譜で、これは極彩色の図に細字英文で記載をそえ、たしかばできた分三千五百図有之(これあり)、実に日本の国宝なり。これを一々名をつけて出すに参考書がおびただしく必要で、それを調(ととの)うるに基本金がかかることに御座候。

[やぶちゃん注:「太陽」博文館が明治二八(一八九五)年一月に創刊した日本初の総合雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『一月号「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話を寄稿、その後大正三』(一九一四)『年より毎年の干支に関する史話と伝説、民俗を寄稿した』(「十二支考」のこと。但し、「鼠に関する民俗と信念」(子)については出版者の都合(不詳)で掲載されず、部分的に『民俗学』及び『集古』(明治二九(一八九六)年十一月に考古と歴史を愛する趣味人の集りである「集古会」の会報『集古會誌』として創刊、後に『集古』と改称して昭和一九(一九四四)年七月まで続いた雑誌。蔵書印譜・花印譜・商牌集の連載物、稀覯書の紹介、伝記資料の翻刻、会員書誌の随筆などを掲載した)に発表された(現在、我々が読めるものは『太陽』のために書かれた一括版に、分割されたものが挿入されたものである)。なお、全十一篇で「牛」(丑)は存在しない。しばしば幻の最後の「十二支考」として都市伝説的に語られることあるが、「牛」についての論考は準備は進められながらも遂に陽の目を見ることはなかったのが事実である)。『太陽』は大正デモクラシーの世相に乗り遅れ、昭和三(一九二八)年二月まで計五百三十一冊を発行して廃刊した。

「日本及日本人」(にほんおよびにほんじん)は明治四〇(一九〇七)年一月から昭和二〇(一九四五)年二月まで国粋主義者が創始した政教社から出版された、言論の主とした国粋主義色の強い雑誌。前半は思想家三宅雪嶺が主宰した「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四五(一九一二)年『三月号「本邦詠梅詩人の嚆矢」ほかを投稿、没年まで寄稿を続けた』とある。「政教社」も参照されたい。

「植物学雑誌」日本植物学会名義で牧野富太郎が明治二〇(一八八七)年二月に友人らと創刊した植物学の学術雑誌。「南方熊楠コレクション」の注によれば、明治四一(一九〇八)年『九月「本邦産粘菌類目録」を掲載』が最初の投稿らしく、創刊号から購読していたが、明治二二(一八八九)年『五月から会員となったことがうかがわれる』とある。当時の熊楠はアメリカのアナバー在であった。なお、牧野は熊楠が日本学術雑誌にろくな論文を出していないことを言いつのって、彼を学者として認めていなかった節がある。苦学独歩の牧野にして非常に残念な事実である。

「人類学雑誌」「南方熊楠コレクション」の注では、日本人類学会が明治四四(一九一一)年四月に創刊したとするが、自然人類学者坪井正五郎(彼は南方熊楠と柳田国男を結びつける仲立ちとなった人物でもある)を中心に運営されていた「東京人類学会」の機関誌『人類学雑誌』が前身であり、それは明治一九(一八八六)年の創刊である。熊楠は『明治四十四年六月号「仏教に見えたる古話二則」ほかを寄稿。以後しばしば寄稿している』とある。

「郷土研究」柳田國男らが郷土研究社から大正二(一九一三)年三月に創刊した民俗学雑誌で、創刊当時から熊楠は精力的に投稿した。「南方熊楠コレクション」の注によれば、同年『四月号「善光寺参りの出処」ほかを寄稿、以後大正六年、同誌の休刊まで小品を夥しく投じた』とある。

「日本菌譜」キノコの自筆彩色図譜。遂に刊行することは出来なかった。長女南方文枝氏によって後にその一部が「南方熊楠菌誌」全二巻(昭和六二(一九八七)年~昭和六四・平成元(一九八九)年)として公刊され、別に実寸大複製になる「南方熊楠 菌類彩色図譜百選」(エンタープライズ社一九八九年刊)も刊行されている。この辺りの経緯は紀田順一郎氏の「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」の「柿の木から発見した新種」及び「日々これ観察」の章を参照されたい。]

 

 また仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬと申され候。わが国によく適用さるる語で、日本の学者は実用の学識を順序し整列しおきて、ことが起こるとすぐ引き出して実用に立てるという備えはなほだ少なし。友人にして趣意書を書きくれたる田中長三部氏の語に、今日の日本の科学は本草学、物産学などいいし徳川時代のものよりはるかに劣れりとのことなり。これはもっともなことで、何か問うと調べておく調べておくと申すのみ、実用さるべき答えをしかぬる人のみなり。小生はこの点においてはずいぶん用意致しあり、ずいぶん世用に立つべきつもりに御座候。箇人としても物を多くよく覚えていても、埒(らち)もなきことのみ知ったばかりでは錯雑な字典のようで、何の役に立たず。それよりはしまりのよき帳面のごとく、一切の智識を整列しおきて惚れ薬なり、処女を悦ばす剤料なり、問わるるとすぐ間に合わすようの備えが必要に御座候。

[やぶちゃん注:「仏国のヴォルニーの語に、智識が何の世の用をもなさぬこととなると、誰人も智識を求めぬ」「ヴォルニー」なり人物自体が私には不詳。識者の御教授を乞う。

「しまりのよき帳面のごとく」これは前の女性器のそれを洒落てあることは間違いない。]

 

南方熊楠 履歴書(その43) 催淫紫稍花追記

 

 件(くだん)の紫稍花は朝鮮産の下品のもの下谷区に売店あり、と白井博士より聞けり。しかし災後は如何(いかが)か知らず。小生は山本、岡崎等の頼み黙(もだ)しがたく、東京滞在中日光山へゆきし時、六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)小生のために大谷川に午後一時より五時まで膝まである寒流(摂氏九度)に立ち歩みて、ようやく小瓶に二つばかりとり集めくれたるが今にあり。防腐のためフォルマリンに入れたるゆえ万一中毒など起こしては大変ゆえ、そのうちゆっくりとフォルマリンを洗い去り尽して、大年増、中年増、新造、処女、また老婆用と五段に分けて一小包ずつ寄付金を書くれた大株連へ分配せんと思う。山本前農相の好みの処女用のはもっとも難事で、これは琥珀(こはく)の乳鉢と乳棒で半日もすらねばならぬと思う。

[やぶちゃん注:前出既注した「紫稍花」=海綿動物門尋常海綿綱角質海綿亜綱単骨海綿(ザラカイメン)目淡水海綿科ヨワカイメン Eunapius fragilis は、先に掲げた琵琶湖での調査(本種の琵琶湖での調査は複数のものがネット上で閲覧出来る)等、ネット上の種々の海綿類や生物分布調査の学術論文を見る限り、本邦で全国的な分布を示しているように見受けられ(世界的にも広汎に分布する)、環境省のレッドデータリストにも掲げられてはいない(二〇一七年五月現在)。しかし、水質汚染の悪化や外来種の侵入によって必ずしも安泰な種であるとは言えないように感ぜられはする。

「白井博士」植物学者・菌類学者白井光太郎(みつたろう 文久三(一八六三)年~昭和七(一九三二)年)。ウィキの「白井光太郎によれば、日本に於いて植物病理学(植物の病害(病原体による感染症のみでなく、物理・化学的条件に拠る病気を含む)を診断・予防・治療することを研究対象とする植物学領域。因みに、農業国であった日本の研究レベルは現在の、世界でもトップクラスである)の研究を推進した最初期の学者で、また、旧本草学の『発展に重要な役割を果たした他、考古学にも造詣が深く、史蹟名勝天然紀念物の保存にも深く関わっ』た。明治一九(一八八六)年に『東京帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)植物学科を卒業』後、『すぐに東京農林学校の助教授となり、翌年教授に就任』、四年後には『帝国大学農科大学(現在の東京大学農学部)に異動して助教授となり、植物学講座を担当した』。明治三二(一八九九)年から明治三十四年まで、『ドイツに留学して植物病理学の研究に取り組んだ。この際白井は、日本でほとんど研究が進んでいなかった植物寄生菌の写生図や標本を多数持参し、ヨーロッパで記載されている種と比較を行って、種の確定や新種記載といった研究の進展に大きく貢献した』。帰国して五年後の明治三九(一九〇六)年には『東京帝国大学農科大学に世界初となる植物病理学講座を新設し、これを担当』、翌年、『同大学の教授となった』。明四三(一九一〇)年、理学博士授与。大正九(一九二〇)年に日本植物病理学会を設立、同会初代会長に就任し』、昭和四(一九二九)年に東京帝国大学を定年退官した(従って熊楠の本書簡執筆当時(大正一四(一九二五)年)は同大教授職現役である)。『白井は植物に感染する病原菌の分類、記載を行い』、国内外の研究者『との共同研究も含め』、五〇『種類以上の新種または新変種を記載している、とある。熊楠より四歳年上。

「災後」本書簡執筆の一年四ヶ月前の大正一二(一九二三)年九月一日に発生した関東大震災。

「山本」前出の処女好みの変態政治家山本達雄。後に「山本前農相」とあるが、彼は高橋内閣の解散に伴い、大正一一(一九二二)年六月で農商務大臣を辞任している。本書簡執筆時は大正一四(一九二五)年二月である。

「岡崎」前出の玄人年増漁色政治家岡崎邦輔。

「東京滞在中日光山へゆきし時」既に注したが、熊楠が南方植物研究所設立のための資金集めのために上京した大正一一(一九二二)年三月から八月の最後の七月十七日から八月七日までは上松蓊を伴って日光に採集に行っている。

「六鵜保氏(当時三井物産の石炭購入部次席)」詳細事蹟不詳。彼宛ての熊楠の書簡が残っており、ここでの共同採集の様子から見ても、かなり親しくしていたものと思われる。「ろくうたもつ」と読むか。

「大谷川」「だいやがわ」と読む。栃木県日光市を流れる利根川水系の鬼怒川支流。中禅寺湖を水源として東流し、日光市町谷(まちや)で鬼怒川に合流する。日光二荒山(ふたらさん)神社及び東照宮の手前の朱塗りの木橋神橋(しんきょう)の架かるのもこの川。]

 

 植物学よりもこんな話をすると大臣までも大悦びで、これは分かりやすい、なるほど説教の名人だと感心して、多額を寄付され候。貴殿はお嫌いかしらぬが、世間なみに説教申し上ぐることかくのごとし。かかるよしなし言(ごと)を永々書きつけ御笑いに入るるも斯学献立(こんりゅう)のためと御愍笑を乞うなり。

[やぶちゃん注:「大臣」この場合は山本達雄だけを指している岡崎邦輔は加藤高明内閣の農林大臣として入閣しているが、本書簡は大正一四(一九二五)年二月のもので、彼の農林大臣就任はその二ヶ月後の同年四月十七日だからである。

「斯学献立(こんりゅう)」「斯学」(しがく)は、こうした催淫剤研究を含めた性愛学で、そうした学問を大真面目にうち建てようという吾輩の心意気の謂いであろう。「献立(こんりゅう)」は建立(こんりゅう)の誤り、或いは献立(こんだて)でそうした性愛学事始めの「順序・構成」の謂いであろう。なお、この熟語では植物学研究所創設の意味でとるには無理があると私は思うのだが、ただ、後に「愍笑を乞うなり」、憐れんで笑(わろ)うて下され、と言い添えているところでは、世間ではえげつない下ネタと思われるであろう話(注意されたいが、熊楠自身は微塵もそんな卑下は感じていない)で漁色政治家を懐柔して寄付金を集めてでも、南方植物研究所を創設したという私のなりふり構わぬ仕儀を憐れんでお笑い下されよ、という意味にもとれぬことはない。]

 

2017/05/29

絶不調

先週半ば、何年振りかで風邪をひき、今までも普通に飲んで問題のなかった市販の風邪薬「ベンザ・ブロック」を服用したところ、風邪は軽快したのだが、翌日から生まれて初めて便秘になり、丸二日間、「便座」で地獄の苦しみを味わった(出ない苦しみは激しい下痢よりも物理的に苦しく、心理的なダメージも大きいことを初めて体感した。昔、同僚女性が一週間ないなんてのも普通よとか言っていたが、私はたった二日でも脳の血管がハチ切れるんではないかとさえ思ったほどである。さる法医学書で硬化した便が閉塞して心不全で孤独死した二十代のOLの検死資料を読んだことがあるが、彼女はさぞ苦しかったんだろうなあと思ったりした)。薬の注意書きの中に副作用の中に便秘の特別な注意書きがあり、その場合は直ちに使用をやめて医師の診察を受けるようにとあったので、やめたところ、三日目の朝には正常に戻ったが、同時に風邪がまたぞろぶり返してきて、元の木阿弥、今もしゃっくりと咳と鼻水が止まらぬ。薬の副作用というのも実は僕の場合は全くの特異点なのである。
さらに昨夜、久々に眠気も覚えず楽しく文楽を見て帰ったところが、右腕脇の下の背部側に、若い時からよく出来る巨大な粉粒腫(アッテローム)が発生しているのに気づく。今朝、二倍近く梅干し大に腫れあがっていてこれは化膿していると判断、今日、医者に行って抗生物質を処方してもらったが、今も腕を動かすことも憚られるほど、ズキズキと痛む。
序でに医師に先の顛末を話して風邪薬の処方を希望すると、その副作用状況では水を多く採って自然治癒を待つしかないという。鼻から牛乳、呆然痔疾、基、自失。
そうでなくてもいろいろな瑣事によって心因性の抑鬱状態にある僕に、これは何とも「アッテ」欲しくない駄目押しの外因性の伏兵の襲撃であった。
――と、綴ってみると、それなりにまあ、気持ちは落ち着いた――

南方熊楠 履歴書(その42) 南方熊楠「処女」講談

 

 それには山本農相など処女をすくようだが、処女というもの柳里恭も言いしごとく万事気づまりで何の面白くもなきものなり。しかるに特にこれを好むは、その締(しま)りがよきゆえなり。さて、もったいないが仏説を少々聴聞(ちょうもん)させよう。釈迦(しゃか)、菩提樹(ぼだいじゅ)下に修行して、まさに成道(じょうどう)せんとするとき、魔王波旬の宮殿震動し、また三十二の不祥(ふしょう)の夢を見る。よって心大いに楽しまず、かくては魔道ついに仏のために壊(やぶ)らるべしと懊悩す。魔王の三女、姉は可愛、既産婦の体を現じ、中は可喜、初嫁婦の体、妹は喜見と名づけ山本農相好物の処女たり。この三女菩薩の処に現じ、ドジョウスクイを初め雑多の踊りをやらかし、ついに丸裸となりて戯(たわむ)れかかる。最初に処女の喜見が何としたって仏心(ぶっしん)動かず。次に中の可善が昨夜初めて男に逢うた新婦の体で戯れかかると、釈尊もかつて妻との新枕を思い出し、少しく心動きかかる。次に新たに産をした体で年増女の可愛が戯れかかると、釈尊の心大いに動き、すでに仏成道をやめて抱きつこうかと思うたが、諸神の擁護で思いかえして無事なるを得た、とある。されば処女は顔相がよいのみで彼処(かしこ)には何たる妙味がなく、新婦には大分面白みがあるが、要するに三十四、五のは後光がさすと諺(ことわざ)の通りで、やっと子を産んだのがもっとも勝(まさ)れり。それは「誰(た)が広うしたと女房小言(こごと)いひ」とあるごとく、女は年をとるほど、また場数を経るほど彼処(かしこ)が広くなる。西洋人などはことに広くなり、吾輩のなんかを持って行くと、九段招魂社の大鳥井(とりい)のあいだでステッキ一本持ってふるまわすような、何の手ごたえもなきようなが多い。故に洋人は一たび子を生むと、はや前からするも興味を覚えず、必ず後から取ること多し。これをラテン語で Venus aversa と申すなり。(支那では隔山取火という。)されど子を生めば生むほど雑具が多くなり、あたかも烏賊(いか)が鰯をからみとり、章魚(たこ)が挺(てこ)に吸いつき、また丁字型凸起で亀頭をぞっとするように撫でまわす等の妙味あり。膣壁の敏感ますます鋭くなれるゆえ、女の心地よさもまた一層で、あれさそんなにされるともうもう気が遠くなります、下略、と夢中になってうなり出すゆえ、盗賊の禦(ふせ)ぎにもなる理屈なり。

[やぶちゃん注:「柳里恭」「りゅうりきょう」は江戸中期の武士で文人画家・漢詩人の柳沢淇園(やなぎさわきえん 元禄一六(一七〇三)年~宝暦八(一七五八)年。服部南郭・祇園南海・彭城百川(さかきひゃくせん)らとともに日本文人画の先駆とされる。名は里恭(さととも)であったが、後に中国風に「柳里恭」と名乗ることを好んだ(知られる「淇園」号は四十歳頃から使用したと推測されている)。因みに彼はかの側用人で甲府藩主柳沢吉保の筆頭家老であった忠臣曽根保挌(「やすさだ」或いは「やすただ」と読むか。吉保の元服の際の理髪役を務めている)の次男として江戸神田橋の柳沢藩邸に生まれているが、父保挌は早い時期に柳沢姓を許されて、五千石の知行と吉保の一字をも与えられるほどに寵愛されていたという(ウィキの「柳沢淇園」に拠る。以下も同じ)。ここで南方熊楠の言っている処女についてのそれは、確認したわけではないが、或いは、彼が若き日(享保九(一七二四)年・二十四歳)に書いた随筆「ひとりね」ではあるまいか? 書かれた年に『享保の改革に伴う幕府直轄領の再編に』よって『柳沢氏は大和国郡山への転封を命じられており』(これ以後柳沢家は彼自身の不行跡も手伝って家督相続を差し止められ、改名もさせらてしまう。但し、後に赦されて二千五百石を給された。現存する彼の絵はこれ以降のものが多い)、『その直後から数年の間に記されたと見られている。文章は鎌倉時代の随筆『徒然草』や井原西鶴、江島其磧の用語を取り入れ、和文に漢文体を混ぜていると評されている』。『内容は江戸・甲府における見聞で、特に遊女との「遊び」の道について記されていることで知られる。ほか、甲斐の地誌や甲州弁の語彙を記していることでも知られる。原本は現存せず数十種の写本が知られ、明治期にも出版されている』(下線やぶちゃん)とあり(私は未読)、如何にも熊楠好みの随筆と思われるからでもある。

「魔王波旬」(はじゅん)は「天魔」とも称し「第六天魔王波旬」とも呼ぶ。波旬は悪魔と同義。仏道修行を妨げる魔のこと。以上の説は「大蔵経」の「魔怖菩薩品中」にあるようだ(こちら。但し、白文)。これを南方熊楠は「十二支考 猪に関する民俗と伝説」でも、聖アントニウス(二五一年頃~三五六年)が悪魔から誘惑を受けることを描出する段で、『悉達(しった)太子出家して苦行六年に近く畢鉢羅(ひっぱら)樹下(じゅげ)に坐して正覚(しょうがく)を期した時、波旬(はじゅん)の三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我を観みざる、ヤイノヤイノと口説き立てても聴かざれば、悪魔手を替え八十億の鬼衆を率い現じて、汝急に去らずんば我汝を海中に擲(なげう)たんと脅かした』と語っている。

「三十二の不祥」内容不詳。

「初嫁婦」「しょかふ」と読んでおく。新妻となったばかりの女性。

「かつて妻との新枕を思い出し」ゴータマ・シッダールタ(釈迦 紀元前四六三年頃~前三八三年頃)シャカ族の国王シュッドーダナ(浄飯王)を父とし、マーヤー(摩耶夫人)を母として太子として生まれ、父から絶大の期待を持たれた。十六歳の時、母方の従妹耶ヤショーダラー(輸陀羅)と結婚し、一人の男子羅睺羅(ラーフラ)をももうけている。妻ヤショーダラーは釈迦の出家後、その弟子となり、比丘尼(尼僧)中の第一人者となったとされ、子ラーフラも同じく帰依し、釈迦十大弟子の一人となり、「密行第一」と称され、十六羅漢の一人に加えられている。

「三十四、五のは後光がさす」私はこのような諺は知らぬ。

「誰が広うしたと女房小言いひ」バレ句の江戸川柳っぽいが、出典は知らぬ。

「九段招魂社」現在の東京都千代田区九段北にある靖国神社の旧称は「東京招魂社」ではあるが、明治一二(一八七九)年に明治天皇によって現在の名称に既に改称されていたここでの当時でも今でも不敬と言われても仕方がない叙述から見ると、南方熊楠は靖国神社という呼称或いはその存在自体を実はよしとしていなかった可能性もあるように思われる

「後から取る」後背位による性交。

Venus aversa」音写すると「ウェヌス・アーウェルサ」。「後ろ向きのヴィーナス」の意。現在も英語の「後背位」の意味として生きている。

「隔山取火」「山を隔てて火を取る」。中文サイトでも後背位の意と出る。

「挺(てこ)」この場合は、タコだから和船の艪(ろ)のこと。

「丁字型凸起」不詳。子宮頸部のことか。]

 

 マックス・ノールドーの説に装飾は男女交会より起こるとあったようだが、南方大仙(みなかたたいせん)などはそこどころでなく、人倫の根底は夫婦の恩愛で、その夫婦の恩愛は、かの一儀の最中に、男は女のきをやるを見、女は男のきをやるを見る(仏経には究竟(くきょう)という)、たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思うがごとく、平生はどんな面相でもあれ、その究竟の際の顔をみるは夫妻の間に限る。それを感ずるの深き、忘れんとして忘られぬから、さてこそ美女も悪男に貞節を持し、好男も醜妻に飽かずに倫理が立って行くのだ。むかし深山を旅行するもの、荷持ちの山がつのおやじにこんな山中に住んで何が面白いかと問いしに、こんな不躾(ぶしつけ)の身にも毎夜妻の悦ぶ顔を見るを楽しみにこんなかせぎをすると言いしも同理なり。されば年増女のよがる顔を見るほど極楽はなしと知らる。しかるに、右にいうごとくトンネルの広きには閉口だ。ここにおいて柘榴(ざくろ)の根の皮の煎じ汁で洗うたり、いろいろしてその緊縮の強からんことを望むが、それもその時だけで永くは続かず。

[やぶちゃん注:「マックス・ノールドー」性科学者か性愛歴史家か? 事跡はおろか、綴りも不詳。識者の御教授を乞う

「究竟」仏語では「物事の最後に行きつくところ・無上・終極」の謂いである。さすれば、前の「き」は「喜」ではなく、「帰」か「期」であろう。まあ、こんなことを大真面目に注する私がおかしいのかもしれないが(私は性愛についての議論を不真面目なものとし、殊更に隠蔽する輩こそ猥雑な人間であると考える人種である)、ここで南方熊楠はこうした性愛行為の特異点を、単なる生理学的なオルガスムス(ドイツ語:Orgasmus)という反応の絶頂という現象面以上に(後の「その究竟の際の顔」とは見かけ上のそれではあるが)、哲学的なニュアンスでも捉えているものと考える。

「たとえば天人に種々百千の階級あるが、いかな下等の天人もそれ相応の下等の天女を見てこれほどよい女はないと思う」これは言っていることが実はかなり複雑であると私は考える。即ち、我々のような性欲にまみれまみれた俗界の存在からは想像も出来ない、「天部」に存在する♂であるところの各種上下の階級のある「天人」の中でも、その等級のずっと下がった下級「天人」の♂であっても、その孰れもが、それ相応の同等階級である♀の「天女」のある者を見ては「これほどよい女はないと思う」のが当然であるのと同様に、という謂いである。]

 

 ここに岡崎老の好みあるく大年増の彼処を処女同前に緊縮せしむる秘法がある。それは元の朝に真臘国へ使いした周達観の『真臘風土記』に出でおり。そのころ前後の品の諺に、朝鮮より礼なるはなく、琉球より醇なるはなく、倭奴より狡なるはなく、真臘より富めるはなし、と言うた。真臘とは、今の後インドにあって仏国に属しおるカンボジア国だ。むかしは一廉(ひとかど)の開化あって、今もアンコル・ワットにその遺跡を見る、非常に富有な国だった。しかるに支那よりおびただしく貿易にゆくが、ややもすれば留(とど)まって帰国せぬから支那の損となる。周達観、勅を奉じてその理由を研究に出かけると、これはいかに、真臘国の女は畜生ごとく黒い麁鄙(そひ)な生れで、なかなか御目留(おめどま)りするような女はない。しかるにそれを支那人が愛して、むかし庄内酒田港へ寄船した船頭はもうけただけ土地の娘の針箱に入れ上げたごとく、貿易の利潤をことごとくその国の女に入れてしまう。故に何度往っても「お松おめこは釘貫(ぬ)きおめこ、胯(また)で挟(はさ)んで金をとる」と来て、ことごとくはさみとられおわり、財産を作って支那に還るは少ない。かかる黒女のどこがよいかとしらべると、大いにわけありで、このカンボジア国の女はいくつになってもいくら子を産んでも彼処は処女と異ならず、しめつける力はるかに瓶詰め屋のコルクしめに優れり。どうして左様かというと、この国の風として産をするとすぐ、熱くて手を焼くような飯をにぎり、彼処につめこむ。一口(ひとくち)ものに手を焼くというが、これはぼぼを焼くなり。さて少しでも冷えれば、また熱いやつを入れかえる。かくすること一昼夜すると、一件が処女同然にしまりよくなる。「なんと恐れ入ったか、汝邦輔、この授文を首拝して牢(かた)く秘中の秘とし、年増女を見るごとにまず飯を熱くたかせ、呼び寄せてつめかえやるべし、忘るるなかれ」と書いて即達郵便でおくりやりしに、大悦狂せんばかりで、いつか衆議院の控室でこのことを洩らし大騒ぎとなりし由。

[やぶちゃん注:「真臘国」(しんろうこく)初期のクメール人の王国(クメール語)チャンラの漢訳名。現在のカンボジア。

「周達観」(一二六四年頃か一二七〇年か?~一三四六年)は浙江省温州出身の漢族で、元(モンゴル帝国)の第六代皇帝テムル(成宗 一二六五年~一三〇七年)の代の外交官で、航海の経験や知識が深かったという。彼は成宗の命によって真臘招撫の随奉使の従行員に選ばれ、一二九六年に真臘へ赴き、翌年に帰国している。

「真臘風土記」周達観による真臘のアンコール朝後期の見聞録。全一巻。当時の真臘の風土・社会・文化・物産などを記した書。本書は帰国直後に書いた周の私的な著作であるが、凡そ一年半に及んだ滞在時の詳細な調査報告書であり、民俗史料としての価値が高い(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「針箱」江戸時代の女性はへそくりを針箱に入れることが多かった。因みに、信州地方の方言(隠語)では売春婦をかく呼んだ。

「おめこ」「ぼぼ」言わずもがな、女性生殖器の隠語。

「一口(ひとくち)ものに手を焼く」一般には「一口物に頬を焼く」で、わずかな熱い食物をうかうかと食って口中をすっかり火傷することから、ちょっとしたことに手を出してしまって思いがけない大失敗をすることの譬えである。

「衆議院の控室」岡崎邦輔は衆議院議員であった(後の昭和三(一九二八)年には当時の上院であった貴族院の議員に勅選されている)。]

 

南方熊楠 履歴書(その41) 催淫剤としての紫稍花

 

 よって説き出す一条は紫稍花(ししょうか)で、これは淡水に生ずる海綿の細き骨なり。海から海綿をとり出し、ただちに水につけて面を掃うと、切られ与三郎ごとく三十余力処もかすり疵(きず)がつく。それは海綿には、こんなふうの

Sisyoukakopen

細きガラス質の刺あり、それを骨として虫が活きおるなり。その虫死してもこの刺は残る。故に海綿を手に入れたら苛性カリで久しく煮てこの刺を溶かし去り、さて柔らかくなりたるを理髪店などに売り用いるなり。痛いというのと痒いというのとは実は程度のちがいで、海綿の海に生ずるものは件(くだん)の刺大なる故つくと痛む。しかるに、淡水に生ずる海綿は至って小さなもの故、その刺(はり)したがって微細で、それでつかれても痛みを感ぜず、鍋の尻につける鍋墨に火がついたごとく、ここに感じここに消えすること止まず。すなわちハシカなどにかかりしごとく温かくて諸処微細に痒くなり、その痒さが動きあるきて一定せず、いわゆる漆にかぶれたように感ずるなり。それを撫でるとまことに気持がよい。むかし男色を売る少年を仕込むにその肛門に山椒の粉を入れしも、かくのごとく痒くてならぬところを、金剛(こんごう)(男娼における妓丁のごときもの)が一物をつきこみなでまわして快く感ぜしめ、さてこのことを面白く感ぜしむべく仕上げたるなり。ちょうどそのごとく、この淡水生海綿の微細なる刺をきわめて細かく粉砕し(もっとも素女にはきわめて細かく、新造にはやや粗く、大年増には一層粗く、と精粗の別を要す)貯えおき、さて一儀に莅(のぞ)み、一件に傅(つ)けて行なうときは、恐ろしさも忘るるばかり痒くなる。(これをホメクという。ホメクとは熱を発して微細に痒くなり、その薄さが種々に移りあるくをいうなり。)時分はよしと一上一下三浅九深の法を活用すると、女は万事無中になり、妾悔(く)ゆらくは生まれて今までこんなよいことを知らざりしことをと一生懸命に抱きつき、破(わ)れるばかりにすりつけもち上ぐるものなり、と説教すると、山本農相はもちろん鶴見局長も鼠色の涎(よだれ)を流し、ハハハハハ、フウフウフウ、それはありがたい、などと感嘆やまず。初めの威勢どこへやら小生を御祖師さんの再来ごとく三拝九拝して、寄付帳はそこへおいて被下(いらっしゃ)い、いずれ差し上げましょう、洵(もこと)にありがとうございました、と出口まで見送られた。

[やぶちゃん注:「紫稍花」私は既に私の栗本丹洲「栗氏千蟲譜 巻十(全)」の電子化注で、そこに絵入りで出現する「紫稍花」を淡水産の海綿である、

海綿動物門 Porifera 尋常海綿綱 Demospongiae 角質海綿亜綱 Ceractinomorpha 単骨海綿(ザラカイメン)目 Haplosclerida 淡水海綿(タンスイカイメン)科 Spongillidaeヨワカイメン Eunapius fragilis

に同定している学術データである渡辺洋子益田芳樹共著琵琶湖棲息本種つい解説(PDF)によれば、本種の海綿体は、『不規則な平板状から塊状で護岸壁、古タイヤ、水生植物の茎などに着生する。体表には多数の凹凸がある。藻類の共生によって緑色になることがあるが、ふつう汚れた黄褐色である。複数の芽球が集まって共通の芽球殻に包まれ芽球の塊を形成し、この芽球の塊が体の底部に敷石状に並ぶ。冬期は芽球を残して体は崩壊する』。ここで南方熊楠が挙げている本種の『骨格骨片は両針体(両方の先が尖る)で平滑。長さ約 170230µm、直径 611µm。芽球骨片は先端が丸いか、または尖った有棘の棒状体で、長さ 75145µm、直径 515µm。遊離小骨片はない』(µmmicrometer(マイクロメートル)一〇〇万分の一メートル=千分の一ミリメートル。旧ミクロンのこと)とある(リンク先PDFで骨片の画像も見られる)。私は他にも寺島良安和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類の「紫稍花」の部分でも、実在する方の「卷八十五 寓木類 紫稍花」の電子化注も行っているここで南方熊楠は本種のそれを催淫剤の一種として力説しており、それはそれで現象的に納得のゆくものであり、「和漢三才圖會」や江戸時代の古処方を見ても、インポテンツなどの処方として挙げられているから、一種の催淫剤と捉えて問題ない

「切られ与三郎」「いやさ、これ、お富、久しぶりだなぁ」の名台詞で知られる歌舞伎の外題「與話情浮名橫櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」(三代目瀬川如皐作・九幕十八場・嘉永六(一八五三)年初演)の主人公「與三郎」の、当時の世間の通称。作品の始めの方でめった切るにされて、傷だらけの面構えとなる。

「苛性カリ」水酸化カリウムKOHpotassium hydroxide)の別称(caustic potash:「腐食性(苛性)のカリウム」の意)。水溶液はつまり強アルカリ性を示し、蛋白質に対して強い腐食性を持つ劇薬。

「金剛(こんごう)(男娼における妓丁のごときもの)」「こんごう」はルビ。所謂、陰間(かげま:江戸時代に茶屋などで客を相手に男色を売った男娼)の見習いの少年に付き添い、一人前になるまでの教育係や、なってからの従者(というか、マネージャ)に相当する男のことで、陰間には必ずこの金剛が付き添い、陰間が客に呼ばれて客の家に行くときなでも、必ずこの金剛が供をした。されば、陰間と金剛の間には特に親密な感情が生まれたとされる。これはピクシブ事典の「陰間」に拠ったが、リンク先には詳細な内容が書かれており、必見。但し、かなり具体的なので自己責任でクリックされたい。「妓丁」は遊女見習いの処女を破瓜する男衆のことか。

「莅(のぞ)み」その行為に及ぶに当たって。

「一件」この場合は、効果を考えれば、女性生殖器の方を指すのであろう。

「傅(つ)けて」すりつけて。

「ホメク」「熱(ほめ)く」の「めく」は接尾語で、原義は「ほてる・熱くなる・上気する・赤くなる」であるが、江戸中期頃から「欲情を催す・情事をする」の意で用いられるようになる。但し、熊楠はここでは限定的に、性的絶頂、所謂、オルガスムス(ドイツ語:Orgasmus)へと向かう生理的経過に対して使っている。

「一上一下三浅九深の法」九浅一深法(くせんいっしんほう)というのは古代中国の性戯法として存在することが中文サイトによって明らかである。ここで熊楠が言っているのもそうした挿入リズムと力を入れる方向及び挿入の深さを指しているようである。

「妾」「わらわ」。

「御祖師」「おそしさま」は各宗派の始祖の尊称であるが、特に日蓮宗で日蓮を指すことが多い。因みに、南方熊楠の宗旨は真言宗である。]

 

 それから十五日に山本氏より寄付金もらい、二十五日朝、岡崎邦輔氏を訪い寄付金千円申し受けた。そのとき右の惚れ薬の話せしに、僕にもくれぬかとのこと、君のは処女でないからむつかしいが何とか一勘弁して申し上げましょう、何分よろしく、今夜大阪へ下るからかの地でも世話すべしとのことで別れ、旅館へ帰るとすぐさま書面で処女でない女にきく方法を認め、即達郵便で差し出した。

[やぶちゃん注:「岡崎邦輔」既出既注(或いは)。

「君のは処女でないからむつかしいが」「処女でない女にきく方法を認め」これはまず、かの農相山本達雄が処女を姦淫することを性癖とする変態男であることをまず殊更に言い立て、また「政界の寝業師」の異名をとった岡崎は政界だけではなく、女の方でもそれで、しかも彼は海千山千の熟女(二段後には「ここに岡崎老の好みあるく大年増」と出る)を好んで相手にした漁色家であることを暴露していることになる。まさか、山本も岡崎も南方熊楠がこれほど有名になり、その結果として、自分の猥褻な過去が、かくも二十一紀になって人々に知れ渡ることになろうとは、予想だにしていなかったことであろう。実に面白い!

南方熊楠 履歴書(その40) ハドリアヌスタケ

 

Hadorianusutake

 

 小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計(はか)り、惚れ薬になる菌(きのこ)一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海(うつみ)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に癇癪(かんしゃく)筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛芳(ごぼう)のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられた夫ある女が来たりしを、花橘(かきつ)の昔のにおい床しくしてまた引き留め宿らせしが、情(なさけ)が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻(ただ)きかす訳には行かぬというと、それは出すからとくる。

[やぶちゃん注:この奇態なキノコ(同一個体)について、南方熊楠は後の昭和六(一九三一)年十月十八日附今井三子(いまいさんし 明治三三(1900)年~昭和五一(一九七六)年:北海道帝国大学農業生物学科助手(当時)であった菌類学者)宛書簡でも挿絵入りで解説しているので是非、私の古い電子テクストPhalloideae の一品)を参照されたい。思うにこれは、

菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 菌蕈亜門 Hymenomycotina 真正担子菌綱 Agaricomycetes スッポンタケ目 Phallales スッポンタケ科 Phallaceae スッポンタケ属 Phallus アカダマスッポンタケ Phallus hadriani

或いは

同スッポンダケ属スッポンダケ Phallus impudicus

或いは

その近縁種

ではないかと推測される。私も南紀白浜の南方熊楠記念館で二〇〇六年九月に当該個体の液浸標本の実物を拝観し、感無量であった。ウィキの「スッポンダケでは本個体をスッポンダケ Phallus impudicus に同定しており(そのように読めるように書かれてある。但し、乾燥した腐敗個体でしかも西インド諸島のものとなると、私はこの断定同定にやや疑問を持つ)、『スッポンタケ(鼈茸)とは、スッポンタケ科スッポンタケ属の食用キノコ』で『英語名はstinkhorn』(「悪臭を放つ角」の意)。『悪臭がするが』、食用は可能である。『初夏から秋にかけて林地などで発生。形は陰茎に似ている。学名もこれにちなむ』(属名 Phallus (ファルス)は「男根」の意。ギリシャ語の「脹らむもの」の意に由来)。『和名は傘の形がスッポンの頭部に似ること』に由来する。『キノコ本体はごく柔らかい。幼菌は卵のような形状で、内部には半透明のゼリー状の物質につつまれた柄と暗緑色の傘がある。この時点では悪臭はしない。しかし、成熟すると柄と傘が展開し、傘の表面に悪臭のする粘液質のものが一面に現れ、悪臭がするようになる。これはグレバで形成された胞子を含むもので、その悪臭は、ハエなどを誘引し、胞子を運ばせるためである。キノコ本体は一日でとろけるように消滅する』。『色については幼菌も含め』、『白だが、傘はグレバ』(gleba:基本体。所謂、通常、我々が「傘(かさ)」と呼称している部分で、子実体の内部に胞子を形成するキノコの胞子形成部分を、菌類学では、かく呼称する)『の色で暗緑色に見える』。『』なお、高級食材として有名な』同じくスッポンタケ科キヌガサタケ属 Phallus キヌガサタケ Phallus indusiaus『はこれにレース状の飾りが付いただけ、と言っていいものである』。『グレバを取り除いた柄の部分や、幼菌は食用である。油で揚げると魚のような味になる。ドイツのいくつかの地域やフランスで食用とされ、中華料理にも利用される』。『その形が勃起した陰茎に非常に似ていることで古くから注目された。学名Phallus impudicusは、phallus(男根)、im-(否定接頭辞)+pudicus「恥じらう」で「恥知らずな男根」という意味である。根もとにはふくらんだツボがあり、これは陰嚢に似ているとも言える。イギリスのビクトリア時代など性に関する規範が厳格だった時期には、このキノコの図は、それを見る人にショックをあたえないように、上下さかさまに描かれることがよくあった。南方熊楠が描いたスッポンタケの絵が残されているが、実際にはない血管状のすじや毛が描きくわえられており、わざと男性器に似せて描いたように見える』(下線やぶちゃん)とあって、熊楠の、少なくとも、本「履歴書」中の本図は手が加えられていると断言してある。確かに、海外サイトの“California Fungi—Phallus hadrianiにリンクされている多数の生態写真を見ると、少なくとも生体には「癇癪(かんしゃく)筋」(陰茎の血管)のようなものは見られない)。

「紀州の内海(うつみ)」(グーグル・マップ・データ)。

「六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人ある」原資料未詳。識者の御教授を乞う。

「それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す」こんな媚薬効果は甚だ怪しい。漁色家の山本の気を引いて寄付金を出させるための嘘であろう。これに山本が膝をすり寄せたのは、熊楠のしめしたやや怪しげな図によって、即ち、まさにフレーザーの言う類感呪術的熊楠術数に完全にハマった結果、である

「政教社」明治中期から大正期の主に国粋主義者が創始した思想・文化団体。明治二一(一八八八)年志賀重昂(しげたか:南進論を唱え、西欧帝国主義による植民地収奪を批判した地理学者)・三宅雪嶺(哲学者)・井上円了ら十三名によって創設され、機関誌『日本人』(後継誌『亞細亞』『日本及(および)日本人』)を発刊、欧米文化の無批判的な模倣に反対し、大同団結運動に参加して立憲主義的政治論を主張した。政府の欧化路線・条約改正に関しては、その欧米屈従の態度に反対して対外独立の国粋主義の立場をとり、日清戦争の開戦世論の喚起に努めた。陸羯南(くがかつなん)主宰の新聞『日本』のグループとは同傾向の思想を持っていて同志的関係にあり、明治四〇(一九〇七)年にこのグループを吸収し、機関誌を『日本及日本人』と改題した。大正一二(一九二三)年、関東大震災直後に三宅が離脱、その後は次第に右傾化、戦争協力体制の翼賛雑誌に堕した(主に小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の箇所はウィキの「政教社でしめた)。

「払い下げられた夫ある女」前の、山本が「処女を撰」んでおいた「下女」で添い寝させ、その結果として「孕」んでしまい、「出入りの町人に景物」(添え金(がね))をつけて「払い下げ」た中の一人。

「花橘(かきつ)の昔のにおい床しくして」「古今和歌集」の「卷第三」の「夏歌」の「よみ人しらず」(但し、本歌は「伊勢物語」の第六十段にも載る)で載る第一三九番歌。

 

  題しらず

 さつき待つ花橘(はなたちばな)の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

 

を洒落たもの。

「情(なさけ)が凝って腹に宿り」精神的懊悩ではなく、妊娠してしまったことの比喩である。]

2017/05/28

柴田宵曲 續妖異博物館 「くさびら」

 

 くさびら

 

 菌(きのこ)といふものは陰濕の地に生ずるせゐか、時に若干の妖意を伴ふことがある。狂言の「くさびら」などもその一つで、庭に異樣な菌が現れたのを、山伏に賴んで祈禱させる。最初は簡單に退散したが、あとからくと同じやうな菌が現れて包圍するので、山伏も閉口頓首に及ぶといふ簡單な筋であるが、何しろ菌に扮するのが悉く人間である。もしあんな大きな菌に包圍されたら、如何なる山伏も珠數を切らざるを得ぬであらう。

[やぶちゃん注:ウィキの「茸(狂言)」によれば、大蔵流では「菌」、和泉流では「茸」と表記する。『細かい部分は流派などで違いが見られるが、基本的な筋立ては変わらない』。『また、山伏が登場する際の台詞は能の』「葵上」の台詞と同じで、「葵上」の山伏はその法力によって調伏を成功させるが、こちらはかくなる結末で『一種のパロディーになっているという』とある。You Tube の茂山家の動画取り放題狂言会での撮影になるsagiokarasu氏の「菌(くうびら)」が、山伏が調伏に滑稽に失敗し、茸が面白く退場するさまをよく伝える。お時間のある方は、「オリキャラの子貫さん」氏のブログ「肯定ペンギンのぶろぐ」の「狂言「くさびら」メモ程度の現代語訳?」に全篇画像(You Tube・洗足学園音楽大学提供・約十六分)とブログ主による全現代語訳が載るのでじっくりと楽しめるのでお薦め!]

 

 相州高座郡田名村の百姓が株(まぐさ)刈りに行つて蛇を殺した。まだ死にきらぬのを繩に縊(くく)り、木の上に吊して置いたが、年を經てその事を忘却した頃、また株刈りに來て見ると、大きな菌が澤山出てゐる。採つて歸つて食膳に上せたところ、俄かに苦しみ出して遂に亡くなつた。一緒に食べた母親や弟は何ともなかつたので不審であつたが、前年株刈りに同行した弟の話で蛇の一條が知れた。「眞佐喜のかつら」にあるこの話などは、菌の陰濕の氣に蛇の恨みが加はつてゐる。尋常の毒菌の類ならば一樣に中(あた)る筈なのに、當人だけといふのが奇怪なる所以である。

[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「眞佐喜のかつら」は所持しないので原典は示せぬ。

「高座郡田名村」現在の相模原市田名(たな)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 支那の或家で井戸の水を汲ませたところ、釣瓶(つるべ)が重くなつて、どうしても上らない。數人がかりで漸く引き上げたら人であつた。大きな帽子を被り、井桁(いげた)に上つて呵々大笑するかと思へば、忽ちもとの井戸に飛び込んでしまつた。その後は遂に姿を見せなかつたが、彼の被つてゐた帽子だけは、釣瓶にかゝつて上つて來た。それを庭樹に掛けて置いたら、雨每に雫が落ちて、そこに黃色の菌が生えた。

[やぶちゃん注:次に書かれているように出典は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下の一条。

   *。

獨孤叔牙、常令家人汲水、重不可轉、數人助出之、乃人也。戴席帽、攀欄大笑、却墜井中。汲者攪得席帽。挂於庭樹、每雨所溜處、輒生黃菌。

   *

「獨孤叔牙(どくこしゆくが)」はその家の主人の名。この「獨孤」姓は匈奴出自であることを意味する。「席帽」「席」は蒲(がま)の一種であるから、それで編んだ笠か。]

 

 この話は割り切れないところに面白味がある。黃色の菌を食べた者が皆中毒したなどといふ後日譚が加はらぬため、井桁に上つて大笑した者も神仙じみて來て、少し誇張すれば神韻標縹渺たるものがあるが、同じ「諾皐記」所載の次の話になると、さう簡單には片付けられぬ。

 

 京の宜平坊に住む官人が、夜に入つて歸る途中で、驢馬を引いた油賣りに出逢つた。彼は大きな帽子を被つた小男であつたが、官人に對して道を避けようともしない。從者の一人が癇癪を起して撲り付けたら、頭がころりと落ちると同時に、路傍の大邸宅の門内に入つてしまつた。不思議に思つた官人があとについて行くと、彼の姿は大きな槐の木の下で見えなくなつた。それからこの事を邸の人々に告げ、槐の下を掘つて見たところ、根は已に枯れて、疊のやうな蝦蟇(がま)がうづくまつてゐた。蝦蟇の持つた二つの筆筒には、樹からしたゝる汁が溜つてゐる。白い大きな菌が傍に泡を吹いてゐたが、その笠は地に落ちてゐた。油賣りと見えたのは菌、驢馬は大蝦蟇、油桶は筆筒であつたらしい。この油賣りは一月餘りも里に油を賣りに來たので、價の安いところから皆よろこんで買つてゐたが、彼の正體が暴露されるに及び、油を食用に使つた人は悉く病氣になつた。

[やぶちゃん注:「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。

   *

京宣平坊、有官人夜歸入曲、有賣油者張帽驅驢、馱桶不避、導者搏之、頭隨而落、遂遽入一大宅門。官人異之、隨入、至大槐樹下遂滅。因告其家、即掘之。深數尺、其樹根枯、下有大蝦蟆如疊、挾二筆金沓、樹溜津滿其中也。及巨白菌如殿門浮漚釘、其蓋已落。蝦蟆即驢矣、筆金沓乃油桶也、菌即其人也。里有沽其油者、月餘、怪其油好而賤。及怪露、食者悉病嘔洩。

   *

「宣平坊」は長安の坊里の名。「筆金沓」筆を収める(携帯用?)銅で出来た筒状の入れ物。蝦蟇は二本のそれを両手脇にそれぞれ挟んでいたのであろう。]

 

 別に因縁纏綿しては居らぬが、如何に支那らしい話である。菌が人になつて、蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步くなどは、日本人の思ひもよらぬ奇想であらう。この話を讀んでから見直すと、前の井桁に上つて大笑した先生も、どうやら菌の化身らしく感ぜられて來る。殊にあとから釣瓶にかゝつて來た帽子が曲者で、それが菌の笠であつたとしたら、その雫から黃色の菌を生じても、何等不思議はないわけである。

[やぶちゃん注:「蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步く」「蝦蟇の、驢馬につけた、油を賣りに步く」。まあ、「驢馬につけた蝦蟇の油を賣りに步く」の方がすんなり読めると思います、宵曲先生。]

 

 徽州の城外三里ばかりのところに、汪朝議の家祖の墳墓があつた。紹興年間に惠洪といふ僧を招き、附近の小庵の住持たらしめたが、毎日腹一杯食べて安坐するのみで、讀經念佛三昧に日を送るといふ風もなく、佛事の方は簡略を極めてゐる。たゞ循々として自ら守り、これといふ過失もなしに經過した。庵住二十年、乾道二年に病氣で亡くなつたので、汪氏では遺骸を近くの山原に葬つた。そのほとりに大きな楮(かうぞ)の木があつて、鬱蒼と茂つてゐたのに、惠洪を葬つてから間もなく枯れてしまつた。そのあとに菌が生える。たまたま牛を牽いて通りかゝつた汪氏の僕がこれを見出し、採つて歸つて主人に見せた。料理して食べると非常な美味で、殆ど肉に勝るほどである。今日全部採り盡したかと思つても、明日はまた新しいのが生えてゐて、容易になくなりさうもない。この評判が四方に聞えた爲、錢を持つて買ひに來る者もあつたが、汪氏では拒絶して與へず、人の盜みに來るのを恐れて周圍に低い垣を作り、菌を保護するやうにした。これを見た鄰人が憤慨して、夜ひそかに垣を越えて入つたら、楮の枯木は突如として人語を發した。これはお前達の食べるものではない、強ひて取れば必ず災ひを受ける、わしは昔の庵主であるが、徒らに布施を受けるのみで、慙(は)づるところがなかつたので、身歿するの後、冥官の罰を受け、菌となつて生前の償ひをせねばならなくなつた、この菌が美味なのは、わしの精血の化するところだからである、倂しその罰も已に了つたので、もうこゝを立ち去るつもりだ、といふのである。隣人は驚いてこの話を汪氏に告げた。汪氏は直ちにその事を信じなかつたが、自分で行つて見ると、成程菌は一つもなくなつてゐる。楮の木は伐つて薪にした(寃債志)。

[やぶちゃん注:「徽州」現在安徽省の黄山市歙(きゅう)県附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「紹興年間」南宋の高宗の治世で用いられた元号。一一三一年から一一六二年。

「汪朝議」不詳。「朝議」は名ではなく、文官の名誉職である朝議大夫のこと。

「乾道二年」「乾道」南宋の孝宗の治世で用いられた元号で、「乾道二年」は一一六六年。先の「紹興」との間には「隆興」(二年間)が入る。「庵住二十年」と言っているから、逆算すると、三十年前は一一三六年で、その紹興六年或いはその前の年に「惠洪」(えこう)を招いたことになる。

「精血」純粋にして新鮮な血液。

「寃債志」(えんさいし)は晩唐(八三六年頃から九〇七年)のの撰になる伝奇集であるが、「紹興年間」はおかしい原典も次の最終段落の後に示すように宋代のものしか私には見当たらなかったし、それなら「紹興」は合う。]

 

 この菌は蛇の恨みから成つた類ではないから、毒にならぬのは當然である。けれども一たび僧の精血の化するところと聞いた上は、如何に肉に勝る美味であつたにせよ、汪氏も平氣で食ふことは出來なかつたらう。恰も自分の責任を果して立ち去るに臨み、はじめて鄰人の口を藉りて菌の由來を明かにしたものと思はれる。

[やぶちゃん注:以上の話は、宋の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の撰になる「夷堅志丙卷八」の「支景色卷八」に「汪氏菴僧」として出るのを見つけた。

   *

徽州城外三里、汪朝議家祖父墳庵在焉。紹興間、招僧恵洪住持。僧但飽食安坐、未嘗誦經課念、於供事香火亦極簡畧。僅能循循自守、不爲他過。主家皆安之。凡歷歳二十、乾道二年病終。汪氏塟之於近山。元有大楮樹、鬱茂扶疏。數月後、頓以枯死、經雨生菌。汪僕牧羊過之、見其肥白光粲、采而獻之主人。用常法煠治、味殊香甘、殆勝於肉。今夕摘盡、明旦復然、源源不窮、至於三秋。浸浸聞於外、或持錢來求、求輟買、悉拒弗與。又畏人盜取、乃設短牆闌護之。鄰人嫉憤、夜半踰牆入、將斧其根、楮忽作人言曰、「此非爾所得食、強取之必受殃災。我卽昔時菴主也。坐虛受供施、不知慚愧。身没之後、司罰爲菌蕈以償。所以肥美者、吾精血所化也。今謫數已足、從此去矣。」。鄰人駭而退、以告汪。汪猶不信、自往驗之、不復有菌、遂伐以爲薪。

   *

「根」(コンガツ)は枯れた木の根元の部分に芽生えた(ひこばえ)のこと。原話ではそこを斧で掘り起こして茸を探ろうとしている。

タルコフスキイと逢う夢

僕は修学旅行の引率で[やぶちゃん注:この設定が如何にもしょぼいが仕方がない。]ロシアに行く――

そうして、あの「鏡」の故郷の家を訪れる――

そこにアンドレイと妹のマリーナが待っている――

僕は感激のあまり、言葉も出ない――というより、ロシア語も出来ず、頭に浮かぶ片言に組み立てられた英語の文字列が全く僕自身の感動を伝えていないことに絶望的になって――言葉が出ない――

アンドレイはただ黙って私を見つめている――

そのあの例の鋭い眼は

「――何でもよい――思いを語れ――」

と命じている――

僕は絶望的に発すべき言葉が吃って出てこない――[やぶちゃん注:これはまさに「鏡」のプロローグのあの青年のようだ!]

そんな僕の心を察した僕のすぐ横に座っているマリーナが――突如――僕を抱きしめ、キスをする――

アンドレイはそれを見て初めて笑ってうなずく……

モスクワ空港――

私は小さな紙切れにマリアに宛てて

「あなたの兄アンドレイは1986年12月29日に亡くなります」

と懸命に辞書を引きながら、ロシア語で綴って、泣きながらポストに投函した……

2017/05/27

南方熊楠 履歴書(その39) 山本達雄へのアカデミズム批判と彼への皮肉

 

[やぶちゃん注:以下は遙か前の、前の(底本はそのための字下げ)山本達雄との会見の時にシークエンスが巻き戻されている。南方熊楠を忘れていた山本との対話(というか一方的な山本を暗に皮肉ったアカデミック批判の熊楠の直接話法)である。]

 

 小生いわく、秦の王猛はどてらを着て桓温を尋ねしに、桓温勝軍(かちいくさ)の威に乗じこれを見下し、関中の豪傑は誰ぞと問いしという。実は関中にも支那中にも王猛ほどの人物なかりしに、見下して挨拶が悪かったから、王佐の才を空しく懐(いだ)いて何の答えもせずに去って苻堅に就(つ)き秦を強大にせり。周の則天武后が宰相人を失すと歎ぜしも、かかる大臣あるに出づ。されば政府や世に聞こえた学者にろくなやつなしとて、東(とうしょう)という藜(あかざ)ごときものは、蒙古では非常に人馬の食料となるものなり、しかるに参謀本部から農商務省にこの物の調査どころか名を知ったものなし。支那では康熙帝親征のときみずから沙漠でこの物を食い試み、御製の詩さえあるなり。万事かくのごとしとていろいろの例を挙げ、学問するものは愚人に知られずとて気に病むようでは学問は大成せずとて、貧弱な村に一生おって小学の教師の代用などした天主僧メンデルは、心静かに遺伝の研究をしていわゆるメンデル法則を確定したるに、生前誰一人その名をさえ知らず、死後数年にしてたちまちダーウイン以後の有力な学者と認められた。人の知る知らぬを気兼ねしては学問は大成せず、と言い放つところへ鶴見商務局長入り来たる。この日英皇太子入京にて、諸大臣大礼服で迎いにゆくとて大騒ぎなり。

[やぶちゃん注:「王猛」(三二五年~三七五年)は五胡十六国時代の前秦の第三代皇帝苻堅(三三七年~三八五年)に仕えた宰相で苻堅の覇業(華北統一)を補佐した賢臣。ウィキの「王猛」によれば、『北海郡劇県(今の山東省寿光市/濰坊市)の出身』で、『漢人の有力貴族の家に生まれた』ものの、当時の家は既に『貧しく、もっこ』『を売って生計を立て』たほどであった。しかし『細事にはこだわらず』、『博学で殊に兵書を好んだ』。三五四年に東晋の武将桓温(三一三年~三七四年:現在の安徽省出身。三四五年、当時は東晋第一の大鎮荊州の刺史となり、蜀の成を滅ぼし、前秦の軍を破り、さらに前燕を討った。桓温の中原出兵の目的は、その成功によって朝廷内の反対勢力を押え、受禅して自ら皇帝となるものであったが、前燕を討った際、枋頭(ほうとう:現在の河南省)で敗れた後、威信が衰え、野望を達成せぬままに亡くなった)『が前秦を北伐したときに訪ねて』、虱を潰しながら、『天下の大事を堂々と論じ合ったという』。『この際、桓温が「わしは天子の命令を奉じて逆賊と戦っているのに、真の豪傑の中にわしの所に来る者がないのはどうしたわけだと思うか」と尋ね、王猛は「将軍は数千里を遠しとせず、深く敵の領土に侵入して今は長安の間近に迫っておられる。しかるに、あなたは覇水を渡ろうとはされない。これでは人民には貴方がどう考えておられるのか、わからんではないか。だから誰も来ないのです」と述べ』、『桓温は「江東には君のような人物はおらぬよ」と述べて東晋への仕官を勧められたがこれを断った』(「晋書」の「苻堅載記 上」に拠る。下線はやぶちゃん。熊楠の謂いとはかなり違う。熊楠が何の記述に基づいて述べたかは私には定かではない。識者の御教授を乞う。『後に異民族の王・苻堅の枢機に参与したが、苻堅とは即位する前から知り合った仲でたちまちの内に身分を越えた仲になった』。『苻堅は「劉備が諸葛亮を得たのと同じように大切な存在だ」と言って王猛を重用した。王猛は儒教に基づく教育の普及、戸籍制度の確立、街道整備や農業奨励など、内政の充実に力を注ぎ、氐族の力を抑えて民族間の融和を図った。一方、軍事面でも』三七〇年に『前燕に対して王猛自ら軍を率いて侵攻し』、六万の『前秦軍に対し』、前燕は四十万もの『大軍であったが、前燕軍を率い』た慕容評が暗愚であったこともあり、決戦の結果、前秦は五万の『戦死・捕虜を数え、さらに追撃して』十万を『得る大勝を挙げ』、三七六年には前涼と、それぞれを滅ぼして『中国北部を統一し、この時代ではまれにみる平和な時代を築き上げたが、王猛自身は前涼滅亡の前年』に享年五十一で亡くなった、とある。

「則天武后」既出既注。「宰相人を失すと歎ぜし」はそちらの注にある、則天武后の専横に対する反乱軍の檄文を、かの詩人駱賓王が書き、その名文(特に「一抔之土未乾、六尺之孤安在」(一抔(いつぽう)の土 未だ乾かず 六尺(りくせき)の孤 安(いづ)くにか在る」との一節。「先帝の陵墓の土が未だ乾ききらず、先帝の二歳半にしかならぬ遺児は一体何処へ行ってしまったのか」)を読んで思わず感嘆してしまった武則天が、「宰相何得失如此人。」(「宰相、何をもってか此くのごとき人を得失せんとするか。」。「どうして宰相はこのような才能のある者を得ることなく失っているのか!」)と言ったという逸話に基づく。

「東(とうしょう)」砂漠性一年草のアグリオフィルム属モンゴリカヤナギAgriophyllum squarrosumこちらの冨樫智氏の学術論文「内モンゴル、アラシャンにおける砂漠化防止の実践的研究ではアカザ科とし(中文サイトでも同じ)「沙米」と漢字表記がある。

「藜(あかざ)」ナデシコ目ヒユ科アカザ亜科アカザ属シロザ変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrumウィキの「アカザ」によれば、『英語では、ニワトリのえさにするため Fat Henhen は雌鶏の意)などと呼ばれ』、『葉はゆでて食べることができ、同じアカザ科のホウレンソウ』(アカザ亜科ホウレンソウ属ホウレンソウ Spinacia oleracea)『によく似た味がする。シュウ酸』(蓚酸。ジカルボン酸で有毒)『を多く含むため生食には適しない。ただし、一般的に畑の雑草として駆除されるため好んで食べる人は少ない。種子も食用にできる(同属のキノア C. quinoa は種子を食用にする穀物である)。「藜の羹(あつもの)」は粗末な食事の形容に使われる』とある。

「農商務省」話し相手の山本は当時、農商務大臣であったことをお忘れなく。

「康熙帝親征」清と、十七世紀から十八世紀にかけて現在現在のウイグル自治区の北西部にあるジュンガル盆地を中心とする地域に遊牧民オイラトが築き上げた遊牧帝国ジュンガルとの間で行われた清・ジュンガル戦争(一六八七年~一七五九年)では、一六九六年に康熙帝自らが軍勢を率いて致命的打撃を与えているが、この時の逸話であろうか。

「御製の詩さえある」不詳。識者の御教授を乞う。

「メンデル」遺伝の基本法則「メンデルの法則」で知られる植物学者で遺伝学の祖とされるグレゴール・ヨハン・メンデル(Gregor Johann Mendel 一八二二年~一八八四年)はオーストリア帝国ブリュン(現在のチェコ・ブルノ)の司祭。ウィキの「グレゴール・ヨハン・メンデル」によれば、『メンデルの所属した修道院は哲学者、数学者、鉱物学者、植物学者などを擁し、学術研究や教育が行われていた』。一八四七年に『司祭に叙階され、科学を独学する。短期間ツナイムのギムナジウムで数学とギリシア語を教える』。一八五〇年には『教師(教授)の資格試験を受けるが、生物学と地質学で最悪の点数であったため不合格となった』。一八五一年から二年間、『ウィーン大学に留学し、ドップラー効果で有名なクリスチャン・ドップラーから物理学と数学、フランツ・ウンガーから植物の解剖学や生理学、他に動物学などを学んだ』。『ブリュンに帰ってからは』一八六八年まで『高等実技学校で自然科学を教えた。上級教師の資格試験を受けるが失敗している。この間に、メンデルは地域の科学活動に参加した。また、園芸や植物学の本を読み勉強した』。この頃には一八六〇~一八七〇年に『かけて出版されたチャールズ・ダーウィンの著作を読んでいたが、メンデルの観察や考察には影響を与えていない』。『メンデルが自然科学に興味・関心を持ち始めたのは』、一八四七年に『司祭として修道院の生活を始めた時である』。一八六二年には『ブリュンの自然科学協会の設立にかかわった。有名なエンドウマメの交配実験は』一八五三年から一八六八年までの『間に行われた。エンドウマメは品種改良の歴史があり様々な形質や品種があり、人為交配(人工授粉)が行いやすいことにメンデルは注目した』。『次に交配実験に先立って、種商店から入手した』三十四品種の『エンドウマメを二年間かけて試験栽培し、形質が安定している(現代的用語で純系に相当する)ものを最終的に』二十二品種を選び出している。『これが遺伝法則の発見に不可欠だった。メンデル以前にも交配実験を行ったものはいたが、純系を用いなかったため法則性を見いだすことができなかった』。『その後交配を行い、種子の形状や背の高さなどいくつかの表現型に注目し、数学的な解釈から、メンデルの法則と呼ばれる一連の法則を発見した(優性の法則、分離の法則、独立の法則)。これらは、遺伝子が独立の場合のみ成り立つものであるが、メンデルは染色体が対であること(複相)と共に、独立・連鎖についても解っていたと思われる。なぜなら、メンデルが発表したエンドウマメの七つの表現型は、全て独立遺伝で2n=14であるからである』。『この結果は口頭での発表は』一八六五年に『ブリュン自然協会で、論文発表は』一八六六年に『ブリュン自然科学会誌』で行われ、タイトルはVersuche über Pflanzen-Hybriden(植物雑種に関する実験)であった。『さらにメンデルは当時の細胞学の権威カール・ネーゲリに論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲリが研究していたミヤマコウゾリナによる実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった』。一八六八年に『修道院長に就任し』、『多忙な職務をこなしたが』、一八七〇年ごろには『交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった』。『メンデルは、研究成果が認められないまま』、一八八四年に『死去した。メンデルが発見した法則は』、その十六年後の一九〇〇年に、三人の『学者、ユーゴー・ド・フリース、カール・エーリヒ・コレンス、エーリヒ・フォン・チェルマクらにより再発見されるまで埋もれていた。彼らの発見した法則は、「遺伝の法則」としてすでにメンデルが半世紀前に研究し』、『発表していたことが明らかになり、彼の研究成果は死後に承認される形となった』のであった。

「鶴見商務局長」農商務官僚で実業家の鶴見左吉雄(さきお 明治六(一八七三)年~昭和二一(一九四六)年)か。ウィキの「鶴見左吉雄によれば、大正六(一九一七)年に『水産局長に就任し』、『その後、山林局長、商務局長を経て、農商務次官に就任した』とし、大正一三(一九二四)年退官とある。このエピソードの時制は大正一一(一九二二)年春である。

「この日英皇太子入京」これは後のウィンザー朝第二代国王エドワード世(Edward VIII 一八九四年~一九七二年)が皇太子だった時の来日で、ウィキの「エドワード8世(イギリス王)」によれば、『裕仁親王(後の昭和天皇)の訪欧の返礼として日本を訪問し』、四月十八日に『イギリス王族としては初めて靖国神社に参拝したほか』、五月五日には『大阪電気軌道(現近鉄奈良線)の奈良駅~上本町駅間の電車に乗車した。また、京都などを回って皇族や軍人などと面談したほか、鹿児島県では島津家の邸宅(現・仙巌園)を訪ね、鎧兜を着用して祝賀会に出席した。パーティでは随行員らとともに、着物姿と法被姿を披露した。法被は名入りのものを京都で自らあつらえた。襟に高島屋呉服店配達部とあるものもあり、人力車夫に扮した姿が残されている』とある(下線やぶちゃん)。「入京」「諸大臣大礼服で迎いにゆく」という叙述から、南方熊楠が山本達雄と面会したのは、この四月四日よりも前であると考えて良かろう。]

「想山著聞奇集 卷の四」 「大名の眞似をして卽罰の當りたる事」

 

 大名の眞似をして卽罰(そくばち)の當りたる事

 東海道新居宿本陣疋田八郎兵衞が家にて、或時、西國筋の四五萬石の諸侯、晝休濟(すみ)て立(たゝ)れしに、直(ぢき)其跡へ、本陣の男ども五六人、手每(てごと)にはたき箒(はうき)の類(るゐ)を持(もち)て奧へ這入(はいり)、上段の掃除をするとて、或男、戲(たはむれ)ていふ、我、大名に成(なる)べし、皆、目通りへ來れ、今迄、此所(このところ)に居給ふと見えて、まだ疊(たゝみ)が暖か也とて、上疊(あげだゝみ)の上の彼(かの)大名の着座有し跡へすはり、しばし大名の眞似をなすよと見えしが、忽に面躰(めんてい)變り、そのまゝ身躰(しんたい)もすくみたれど、側(そば)に居(ゐ)る者ども、初は、戲にて變なる樣子をすると思ひ居たるに、左にあらず、立所(たちどころ)に罸(ばち)の當り、まのあたり樣子の替りて、變なる事と成(なり)たるの也。是は恐入(おそれいり)たる眞似を成(なし)たる故、かやうの卽罸あたりたり。外にしよふは有べからずとて、かの侯を追駈(おつかけ)、壹里餘り先にて追付奉りて、段々の始末を申述(のべ)、御侘(わび)申上たるに、かの侯の、免遣(ゆるしてつかは)すと云へと宣ふまゝ、馳歸(はせかへ)りて、是を力に其通りを申聞(きけ)ると、狂變(きやうへん)は卽座に直(なを)り、常躰(つねてい)と成たりと。是は水野何某なるもの、以前、市谷御屋形(おやかた)の道中七里(しちり)のもの【七里の者とは宿々へ在住なさしめ置(おか)るゝ所の者なり】在勤中、現に其席に居合(ゐあはせ)て、見請置(みうけおき)たる事なりとて語りき。其時は、その諸侯の名も覺え居(ゐ)しに、早十年餘りの昔と成り、今は其名も髣髴として、慥(たしか)には申兼たりといへり。【天保元年の咄なり。】。殘(のこ)り多し。此何某は決(けつし)て虛言など云ものには非ず。尊卑の譯は能(よく)心得置べし。

[やぶちゃん注:この諸侯の名を話者が忘れてしまっていたのは実に「殘り多し」、残念である! 或いは、この大名の血には、ある種の呪術者の持つ呪力のような何かが流れているのかも知れない。或いはある種の憑き物の家系とも考えられる。本人も知らないうちに、感応して、相手に憑依したり、人事不省や命を奪うような危険な目に遇わせてしまう呪われた系譜の持ち主かも知れぬからである。シチュエーションでは「かの侯を追駈、壹里餘り先にて追付奉りて、段々の始末を申述(のべ)、御侘(わび)申上た」ところが、そうした現象に驚くこともなく、ただ一言、「免遣(ゆるしてつかは)すと云へ」と仰せられたというのは、実はそうした現象をこの人物は常に経験してきたからこその謂いではないか、と私は思うからなのである。

「新居宿」現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居。浜名湖西岸の遠州灘に面した突出部。(グーグル・マップ・データ)。

「市谷御屋形(おやかた)」ウィキの「屋形によれば、狭義のそれは、江戸幕府が尾張藩・紀州藩・水戸藩などの御三家並びに有力な親藩、並びに、室町時代の守護の格式にあった旧族大名(薩摩藩島津氏・秋田藩佐竹氏・米沢藩上杉氏)及び交代寄合の山名氏・最上氏などに免許した「屋形号」であるとする。ここは「市谷」とあり、ここには尾張藩徳川家上屋敷があったので尾張藩と見てよかろう。次の「七里の者」とも合致するからでもある。

「七里の者」大名飛脚のこと。大名が国元と江戸藩邸との通信連絡のために設けた私設の飛脚。尾張・紀伊の両家は東海道七里ごとに人馬継ぎ立ての小屋を設けたので、七里飛脚とも呼ばれた

「天保元年」一八三〇年。]

 

「想山著聞奇集 卷の四」 「日光山外山籠り堂不思議の事 幷、氷岩の事」

 

想山著聞奇集 卷の四

 

 

 日光山(につかうざん)外山(とやま)籠り堂不思議の事

  幷(ならびに)、氷岩(こほりいは)の事

 

Nikkouzantoyama

 

 野州日光山の内、御山(おんやま)に向ひて直(ぢき)に右の方(かた)は、稻荷川と云大河流れ出、其川の向(むかふ)に、外山と云有。全く山中の孤山にして、登り十八町有といへり。段々登る程、急なれども、十町め迄は、たゞ順に急成(なる)坂也。此所(このところ)に、僅二三間の足溜(あしだま)り有(あり)て、鳥居有。後ろを顧り見れば、【右山よりは正面なり。】大谷川(だいやがは)の末、絹川[やぶちゃん注:大谷川は外山の西方直線で十五キロメートルほどの地点で本流鬼怒川に注ぐ。]へ落入(おちいり)て、常州の方迄、川末(かはすへ)の直流廿餘里、一眺(ひとめ)に見渡して絶景也。扨、此所より上は、峨々たる絶崖にして、胸を射る心地して、甚(はなはだ)登り難し。巖石に、僅(わづか)づゝ足を踏立(ふみたつ)るほどの跡有りて、巖(いわほ)の角、蔦蔓(つたかづら)の根にとまりとまりて、漸(やうやく)、頂(いたゞき)に登り得たり。先達(せんだつ)のもの、旅亭(りよてい)より明樽(あきだる)をひとつ用意して行(ゆき)、彼(かの)稻荷川を渡る時に、水を汲取(くみとり)て持(もち)たり。是は何にするぞと尋問(たづねとふ)に、此山上には水なし。山を登り給ふ苦しさに、渇(かつ)し給へるを助くべき爲也と云。予、壯年の事にて、殊にか樣の所へ行と、人よりも勇氣增す性(しやう)ゆゑ、甚おかしく思ひ、僅成(わづかなる)此山に登ればとて、苦しさの餘り、渇するとは心得ぬ事を申もの哉。去(さり)ながら、久敷(ひさしく)、此土地に居て、別(べつし)て功者(こうしや)との事ゆゑ、先達もさせ、案内にも賴(たのみ)たる事なれば、定(さだめ)てやうこそ有䌫(あるらん)と思ひながら、登りたるに、七八分目に至りては、纔(わづか)、差居(さしおき)たる刀、目に懸(かゝ)り、跡の方(かた)へ曳(ひか)るゝ樣にて、殊の外、邪魔となりたり。去ながら、元氣に任せて勇み進んで登るに、八九分目に至り、勢(せい)を揉(もみ)たる苦しさにて、喉(のど)渇する事、甚敷(はなはだしく)、登り極(きはめ)て後は、中々渇して、聲も出ざる程也。此時に彼水を呉れたる故、一二椀のみて、漸(やうやう)喉を濕(うるほ)したる心地、誠に甘露の如く、たとふるに物なかりし。是にて其急成(なる)事を押(おし)てしるべし。且、我(わが)短智(たんち)を以て、人のする事を侮り輕(かろ)しむべからず。扨、絶頂は如何にも僅成やうなれども、少しは畾地(らいち)[やぶちゃん注:- 《「らいぢ」とも》余分の土地。空き地。]も有て、一間[やぶちゃん注:一・八メートル。]四面程の石疊の堂あり。内に一杯(はい)なる厨子有て、堅く戸ざしたり。【作物の多聞天安置にて、當山の鬼門に當れば守護の爲也と云。】此前に二間に九尺の籠り堂有。

[やぶちゃん注:「外山」現在の栃木県日光市萩垣面(はんがきめん)にある標高八百八十メートルの山。ここ(グーグル・マップ・データ)。その南西の流れが後に出る大谷川(だいやがわ)の支流稲荷川。ウィキの「外山(前日光)」によれば、『旧日光市街地に近い稲荷川(大谷川の支流)沿いに登山口があり、山頂まで登山道が通じている。この登山口から外山山頂までは徒歩で』三十『分から小一時間程度であり、小休止を入れても往復』二~三時間も『あれば登山が可能である』とある。挿絵及び埼玉大学教育学部の「今昔マップ on the web」の明治中期の地図と対比で、ここで述べている登攀ルートが概ね判る。

「十八町」凡そ二キロメートル弱。

「十町」一キロ九十メートル。

「二三間」三・六四~五・四五メートル。

「絹川」大谷川は外山の西方直線で十五キロメートルほどの地点で本流鬼怒川(きぬがわ)に注ぐ。

「一眺(ひとめ)」底本では「一眺眼」とあるが、原典とそのルビに従った。

「定(さだめ)てやうこそ有䌫(あるらん)」「やう」は訳・事情。「要」は「えう」であるから歴史的仮名遣から見るなら、あり得ない。

「七八分目」残り八町分のそれ(割合)を指す。後の「八九分目」も同じ。

「畾地(らいち)」余分の土地。空き地。

「一間」一・八メートル。

「一杯(はい)」ママ。厨子の助数詞としては不審。

「作物の多聞天安置にて、當山の鬼門に當れば守護の爲也と云」ウィキの「外山(前日光)」には、『日光山輪王寺、日光東照宮、日光二荒山神社の鬼門にあたる北東に位置することから、山頂部にはこれを守護するため毘沙門堂が建てられ毘沙門天が祀られている。毘沙門堂はかつて木製であったが、現在は石製のものに造り替えられている』とあるが、天部の仏神毘沙門天(持国天・増長天・広目天とともに四天王の一尊に数えられる武神)は四天王としては「多聞天」として表わされるからおかしくない。なお、原典では「多聞天」には「たもんでん」とルビが振られてある。]

 

Kohoriiha

 

扨、右の石にて作りたる堂の後の方は、少し凹(なかくぼ)にて次の小高き所に、石の不動尊三躰計(ばかり)有のみにて、外には何も立(たつ)る程の場所もなく、芝生の兀山(はげやま)也。【日光山志[やぶちゃん注:八王子千人同心組頭で、「武蔵名勝図会」「新編武蔵風土記稿」を完成させ、「新編相模国風土記稿」の編纂にも従事した植田孟縉(うえだもうしん)著・渡辺崋山・画になる日光地誌。天保八(一八三七)年刊。]には、堂の廻りに松樅數根、岩間に生ひ茂りと有ども、予が登りたる時は、山上(さんじやう)には木とては一本もなく、山の裏の方(かた)には、纔、人の背丈の雜木まばらに生居(はえゐ)たり。】麓とても、木材一本もなく、平(ひら)一面の芝生也。此(この)籠(こも)り堂の内を見れば、壹坪半(ひとつぼはん)の所は土間、其餘は疊三重敷(さんでふじき)也。此所に、十六七歳計なる百姓躰(てい)の男子(なんし)壹人、前に線香を三本程燈し置(おき)て、顏を擧(あげ)て一目見たるなりに、物をもいはず、何か物有りげに、まごまごとして蹲(うづくま)り居(ゐ)たり。彼(かの)連行(つれゆき)たる先達の男(をとこ)、此者に言葉を懸て、いつ來りしぞと問。此男、をとゝひ來りしと答ふ。夫(それ)では三日だな、苦しからふ、三日め四日目が難儀だ、慥に思ひてやりそこなふなよと云。アイアイ有難うこざりますといらふ。一昨日より一人かと問ふ。おとゝひは、外に二人居て、壹人歸り、又きのふ、一人歸りしといふ。あすは又、誰(たれ)ぞ來(きた)るらん。兎角しんぼうが大事だぞ、水をやらんとて一椀呑(のま)せて後(のち)、此殘りの水もやるべし、茶椀もやろう、有難く思ひて、少しつゝ戴けよと云。扨も此者こそ、この所へ斷食(だんじき)して籠りたるの也[やぶちゃん注:「なり」と読んでおく。]と心得て、夫より先達に委敷(くはしく)問(とふ)に、冬の内は雪多く、寒氣も甚敷まゝ、籠る人もなく候らへども、夏の内は二人も三人も重(かさな)る事は御座候得とも[やぶちゃん注:「と」はママ。]、一人も絶(たえ)る事は御座なく候。私なども若き時は、毎年(まいねん)の樣に、又しても又しても籠りましたと云。其樣(そのやう)に、何故に度々籠りたるや、心願有ての事か、又は慰みかととふ。中々、慰み所(どころ)の事にては御座なく、皆、心願有ての事也と答ふ。其心願は何事にや、格別、靈驗(れいげん)も有哉(あるや)と問ふに、きくともきくとも、きかぬと申事は御座なく候。其心願と云は、銘々色々の事にて、御咄(おはなし)の申樣(やう)もなけれども、先(まづ)、親の病氣を祈りたり。或は私(わたくし)子供の節(をり)、手習嫌(てならひぎら)ひ故、一向、目が見えませぬ。何卒、手紙など認(したゝめ)たり讀(よみ)たり仕る樣にと願ひ、又、職藝(しよくげい)をば人並にさせて下されとか、何とか、種々(しゆじゆ)の願ひにて御座候と云。予、思ふ樣、今、顯密兩宗(けんみつりやうしゆう)[やぶちゃん注:「顕教」と「密教」の両学派。「顕教」とは、衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が秘密にすることなく明らかに説き顕した教え及びその経典の修学を指し、「密教」とは、真理そのものの姿で容易に現れない大日如来が説いた、容易に明らかに出来ない奥義としての秘密の教え及びそれが記されているとする経典の修学を指す。真言宗開祖の空海が「密教」が勝れているとする優位性を主張する立場から分類した教相判釈の一つであって宗派ではない。]の僧侶等(とう)、行法によりて、一七日[やぶちゃん注:「ひとなぬか」と読んでおく。]も斷食して法を傳へ、或は物を祈るなどの刻(きざみ)[やぶちゃん注:その折り。]は、甚以て手重(ておも)なる[やぶちゃん注:困難で容易でないさま。]事なるに、此地にて、此所へ來りて斷食する事は、一向、容易なる有さまにて、しかもさしてもなき事に凝(こ)り堅(かたま)りて祈る故、ぜひ、其(の)應(おう)は有て、能(よく)きく筈(はづ)と、初(はじめ)て發明なしたり。江戸などにて斷食するには、腹力(ふくりよく)なく、二便(にべん)[やぶちゃん注:再度。]に行(ゆく)事さへ甚(はなはだ)難儀と聞(きゝ)たるに、此堂に籠りたる中(うち)、元氣者は毎朝、夜の明(あけ)ぬ内に稻荷川迄下(お)りて、夜の明る所にて、人しれず、川中にて水を浴(あび)て垢離(こり)を取(とり)、祈誓する事とぞ。その位成(くらいなる)氣性(きしやう)のをのこは、別(べつし)て能(よく)きゝ、既に右先達などは、いつにても水をあび、其替りに[やぶちゃん注:「そのお蔭で」の意でとっておく。]よくきゝたりと咄したり。實(まこと)に左も有べき道理とこそ思はる。然るに、爰(こゝ)に不思議なる事のありて、願(ぐわん)の成就成難(なりがた)き者は、必ず一七日の籠り出來兼(かね)、下山する事とぞ。先達の云、衆人、始は成し遂(とぐ)る氣分にても、僅(わづか)一日二日居て、斷食の悲敷成(かなしくなり)て止(やめ)る程の者は、論(ろん)に懸(かゝ)らぬ[やぶちゃん注:お話にもならない。]事なれば、申迄もなき事ながら、根性も慥(たしか)にて、しかも信心堅固にて籠りたる者にも、障碍(しやうげ)をなされて滿願成り兼、下山するものも澤山に御座候て、夫(それ)は夫は恐敷(おそろしき)事に御座候と云。成程、左も有べき事にこそ。是、佛家(ぶつか)に云(いふ)前世(ぜんぜ)の宿緣の惡敷(あしき)にて、所謂、後生(ごしやう)の惡しきのと知られたり。扨、其障碍と云は如何なる事ぞ、具(つぶさ)に語り聞せよと、又、懇(ねんごろ)に問返すに、夫は色々成(なる)事にて、衆人一樣ならざれども、先、大凡(おほよそ)は、夜(よ)に入(いり)て後(のち)寐ると、夢現(ゆめうつ)つともなく、大風(たいふう)吹來り、此籠り堂、今にも吹落さるゝ樣成心持するまゝ、溜り兼て、アヽと叫(さけび)て飛起見れば、何事もなく、傍(かたはら)には同宿の願人(ぐわんにん)有(あり)て、何事なく臥(ふせ)り居(を)れば、夢にて有しか、扨々恐敷事也と思ひて又寢ると、今度は大地震して、瓦落(ぐわら)瓦落[やぶちゃん注:オノマトペイア。面白い!]と山の崩るゝ有さま故、又、溜り兼、飛起て、傍の同宿をも起し、誠にか樣か樣なりと告(つぐ)るに、其時、同宿は何事もなく熟睡なし居(ゐ)て、夫(それ)は自分の心柄(こゝろがら)ならん、我は何事もなし、落付(おちつき)て臥り給へといふゆゑ、成程と心を取直して寐るに、又、初のごとく、此堂、空(くう)へ吹飛されし心持などして、終夜、得寢(えいね)ずして夜を明かして後、逃歸るもの多く、邂逅(たまさか)、一夜二夜は堪ゆれども、欝々と寐懸(ねかゝ)ると怪事出來(でき)るゆゑ、同宿の熟睡する傍に、每夜唯壹人、寢る事もならず起居て、身躰(しんたい)勞(つか)れ果(はて)て、遂に半(なかば)に及びて、止(やむ)事を得(え)ず、下山するもまゝ有(ある)事にて、甚敷に至りては、種々の怪神(くわいしん)來りて、籠り堂を蹴落さるゝ心持[やぶちゃん注:「する者」などの略か脱字。]などもあり。まだまだ人にも言れぬ恐敷目に逢(あひ)申者も御座候へども、同宿[やぶちゃん注:そうした恐怖に遭い、大騒ぎをする者と同宿した者でそうした異常体験を全くしない祈願者。]には聊も障り御座なく、是が神事(かみごと)にて候と語りたり。【か樣の者は必ず願望成就はせざるものとぞ。】此事、差(さし)たる怪と云にはあらねども、則(すなはち)、神明(しんめい)の赫々(かくかく)たるにて、權現(ごんげん)の所爲(しよゐ)とも申べき歟(か)。心して聞置べき事にこそと思ふ故、長々と書付置ぬ。日光山の近隣は申迄もなく、野州一國の者は、若き時には、ぜひ何事か心願有て、多くは籠る事ありとぞ。家内(かない)のもの家出すれば、先、籠り堂へ尋(たづね)ゆけとて來り見て、籠り居(を)れば、如何成事の有ても、一切捨置、連歸らぬこととぞ。左も有べき事也。扨又、此山の麓うらの方に當りてとやま平原に、僅(わづか)方(はう)一丈[やぶちゃん注:三メートル三センチ。]餘りの所、地中より上へ五六尺も巖面(がんめん)出居(いでゐ)、凸凹(なかどつなかくぼ)と成居(なりゐ)て、其凹成(なかくぼなる)皺間(しはあひ)に、夏日(かじつ)、氷生(しやうず)る事也と。冬は却(かへつ)て原一面に雪とは成ども、皺間の氷はなきとぞ。予が行たるは文政六年【癸未】四月央(なかば)[やぶちゃん注:一八二八年。例えば同年の旧暦四月十五日はグレゴリオ暦で五月二十八日である。]の事也しが、氷、澤山に有たり。土用[やぶちゃん注:この場合は立秋前後現在の八月七日頃の前十八日間。]中は、今一入(ひとしほ)增(まさ)るといふ。此氷岩は、日光七奇(ひちき)[やぶちゃん注:この名数も不詳。やはりネットでは全く掛かってこない。識者の御教授を乞う。]の一にて、衆人のしる事也。此原に、かたくり甚だ多し。珍敷(めづらしき)藥品も種々有との事なれども、予は本草にも疎(うと)ければ、辨(わきま)ふる事あたはず、實(じつ)に靈地の佳境なり。日光の事は、貝原益軒の日光名勝記、或は籬嶋秋里(りたうしうり)の木曾名所圖繪等にも見えて、人の能(よく)知(しる)所也。又、近來(きんらい)、日光山志出來て、一山(さん)の事、委(くは)しけれども、此(この)籠り堂の事は見えず。是は予、現に見聞(けんぶん)したる事故、別て慥に記し置ぬ。

[やぶちゃん注:「かたくり」単子葉植物綱ユリ目ユリ科カタクリ属カタクリ(片栗)Erythronium japonicum。食用澱粉として古来から有名であるが(但し、過食すると下痢を起こす場合がある)、漢方では外用として擦り傷・できもの・湿疹に、風邪・下痢・腹痛の予後の滋養として水と砂糖を適量加え、よく捏ねた上で熱湯を入れ、「葛湯」のようにして飲用する。

「貝原益軒の日光名勝記」儒学者・本草学者貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)が正徳四(一七一四)年に刊行した紀行。日光への旅行案内としての機能を持ち、これを読んだ多くの人々が日光へと押し寄せたという。

「籬嶋秋里(りたうしうり)の木曾名所圖繪」江戸時代の読本作者で俳人でもあった秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳:後に爆発的に板行されることになる名所図会シリーズの先駆者として知られる。京の人で本姓は「池田」であるが「秋里」を称した籬島は号)が文化一一(一八一四)年に板行した「木曾名所圖會」。「ウィキの「秋里籬島によれば、安永(元年は一七七二年)から文政期(末年は一八三〇年)に『活躍、名所図会の編著者として知られており、随筆、紀行文などの他、読本の著作もあり、極稀に自ら挿絵も描いている』。数多く書いた各地の名所図会の中でも、安永九(一七八〇)年刊の「都名所圖會」(竹原春朝斎・画)が代表作として著名(私でさえ持っている)。なお、木曾なのにと不審に思われる(私も思った)と思うが、国立国会図書館デジタルコレクション同書目次を見ると、西の大津を振り出しに木曽路を辿ったそれは、最後の巻六を、まるまる「日光」に当てていることが判った。]

 

2017/05/26

「想山著聞奇集 卷の參」 「雹の降たる事」 / 卷の參~了

 

 雹(ひよう)の降(ふり)たる事

 

[やぶちゃん注:遅蒔きながら、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内の「ヘルン文庫」から、かの小泉八雲旧蔵本である本「想山著聞奇集」の原本全部のPDF版ダウン・ロードが出来ることを知った(因みに、それを見て驚いたのは、先の「大蛇の事」の三枚の挿画の内、二枚に鮮やかな色彩が施されていることであった。是非、ご覧あれ! 画像使用には許可を申請する必要があるので提示はしない)。それによって総ルビの原本で読みを確認出来ることが判ったので、向後は原本を確認しながら、本文も校訂しつつ(漢字表記は原典に従わせるようと思ったが、略字が混交しているため、原則底本を採用し、一部の底本の誤りは注記せずに原典に従った)、読みを振ることとし、前章までの底本にある読みの太字表記は意味を成さなくなるので、やめることとした。また、ここまでくると、読みは誰でも確認出来、しかも読むにはだんだん五月蠅くなってくるだけなので、ストイックに絞ることとしたい。]

 

Syouzanhyo1

 

 文政十三年【庚寅】閏三月廿九日、昇龍、所々にありて、雷雨のうへ、氷(ひよう)[やぶちゃん注:「氷」はママ。]ふりたり。此昇龍と云は、俗に辰卷と云、所謂、騰蛇(とうじや)[やぶちゃん注:蛇が天に昇って龍となること。]の類(るゐ)なり。【本草綱目に云、騰蛇化ㇾ龍神蛇能乘雲霧而飛游千里云々。】扨、此(この)大い成(なる)氷(ひよう)が降る事は、舊記に見えて珍しからざれども、今、江戸にて、まのあたり、大なる氷(ひよう)をふらす。しかも、僅の場所の違ひにて同じからず。或人の記錄、至て詳(つまびらか)也。依(よつ)て、爰に其要を抄し置ぬ。二十九日晝過計(ばかり)に、空は一面に墨すりたる樣にて、雲の色、風の音、俄にかはり、市谷邊も、雷(らい)も餘程強く鳴(なり)はためきたり。忽ち、雨水(うすゐ)に大豆(おほまめ)程づゝの氷(ひよう)を交へて、暫時(しばし)、降たり。此氷(ひよう)、王子・日暮里・染井・谷中・上野・淺草邊(へん)、別(べつし)て甚敷(はなはだしく)、又、行德(ぎやうとく)・舟橋の方も甚だ強く荒(あれ)たりと。其概略(あらまし)を左(さ)に記(しる)す。

[やぶちゃん注:「文政十三年【庚寅】閏三月廿九日」グレゴリオ暦一八三九年五月二十一日。

「氷(ひよう)」「氷」はママ。底本では右に『(雹)』と訂正注するが、私はこの儘の方がよい。そもそもが「雹」は「氷の塊」であり(多くは雷雨に伴って降り、通常のものは直径は約五ミリから五センチメートルほど)、この「雹」の字音は本来は「ハク・ハウ」であるから、この「ひよう(ひょう)」というのは和訓であり、これは実は「氷」の音を当てたものとも、また、「氷雨(ひょうう)」の転とも言われるからである。

「本草綱目に云、騰蛇化ㇾ龍神蛇能乘雲霧而飛游千里云々。」原本の訓点に從うなら、

「本草綱目」に云く、「騰蛇(とうしや)、龍(りよう)に化(け)し、神蛇(しんしや)は能く雲霧(うんむ)に乘り、千里に飛游(ひいう)す云々。」と。

であろうが、李時珍の「本草綱目」の「鱗之二」の「諸蛇」の中にやっと発見したものの、そこでは、

   *

螣蛇化龍(神蛇能乘雲霧而飛游千里)。螣蛇聽孕(出「變化論」。又「抱朴子」云、『螣蛇不交。

   *

となっており、この想山の訓点にはやや疑義を感じた。この中文ウィキソースの丸括弧(割注)が正しい(実は他のデータを見ても正しいと判断出来る)とするなら、これは、

   *

螣蛇(とうだ)は龍と化す【神蛇たり。能く雲霧に乘りて千里を飛游す。】。螣蛇は聽きて孕(はら)む(「變化論」に出づ。又、「抱朴子」に云はく、『螣蛇、交はらず。』と)。

   *

だろう。「螣蛇」は「騰蛇」とも書くとあるから、それはよいとして、これは飛翔する能力を有するが、羽は持たないとし、あくまで神蛇であって龍ではないようだ。龍になるためのステージの下・中級程度なのかも知れぬ。面白いのはこの神蛇は交尾をせず、雄の声に応じてその声で雌が孕むらしいことである。]

 

 御本丸邊(へん)は、雹に大豆ほどの氷(こほり)交りて降たりと。

[やぶちゃん注:後に出る「西丸」、現在の皇居から濠(蓮池濠)を挟んだ東北位置。この間は三百メートルほどしか離れていないのにこちらは大豆(「だいず」大ととってよかろう)ほどの雹が降ったのに、あちらはただ雨ばかりである。]

 

 本所石原は、大豆程なるが降たるに、同所一ツ目邊は、團子程のぶん、交りて降、傘を破りたりと。

[やぶちゃん注:「本所石原」現在の東京都墨田区石原。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 市谷・大久保・四谷・赤坂邊も、大豆ほどなるが降たるに、内藤新宿は、雨計(ばかり)にて氷(ひよう)はふらざりしと。

[やぶちゃん注:「内藤新宿」現在の新宿御苑。当時は信州高遠藩主内藤家下屋敷があり、甲州街道への出口として宿場町が形成されて賑わった。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 西丸下(にしまるした)は雨計なるに、櫻田外(そと)は空豆程なるがふりたりと。

[やぶちゃん注:「櫻田」門「外」は西丸から、ほぼ南へ直線で八百メートルの位置。こちらはソラマメ大だから、本丸よりでかい。]

 

 芝神明(しばしんめい)邊も雨計なりと。

[やぶちゃん注:皇居から真南に三キロほど。増上寺門・東京タワーの東海側。]

 

 御濱御殿(おはまごてん)邊も氷はふらざりしと。

[やぶちゃん注:浜離宮。芝神明の東北東直近の江戸湾奥。]

 

 小日向(こびなた)邊は、空豆程なるが一圓に降り、中には、茶碗ほどの大さなるも數十交りて降て、家根瓦、損じたりと。

[やぶちゃん注:「小日向」文京区小日向は皇居の西北三キロほど。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 小石川氷川上(ひかはうへ)邊より白山邊は、拳(こぶし)程の雹多く降、柿の枝など、四五寸程の分(ぶん)を打折しもあり。尤、瓦は大(おほひ)に損じ、畑(はた)の苗類は悉く打潰せしと。

[やぶちゃん注:「小石川氷川上」は現在の文京区千石にある簸川神社の裏手(ここ(グーグル・マップ・データ))で、「白山」は現在の小石川植物園の東北の文京区白山の白山神社一帯である(ここ(グーグル・マップ・データ))。]

 

 上野・根岸・大塚邊は、團子或は玉子程なるが降り、板橋邊は、茶碗程もありて、畠は皆損じたりと。

[やぶちゃん注:「板橋」は小石川植物園から北西に三・五キロメートルほど離れる。ここで示される地域の中では最も内陸である。]

 

 大塚上町【波切不動の前の通り】此所へは、雹に白石(しろいし)を交(まぜ)てふらす。常の火打石のごとくなれば、試に、火打鎌(ひうちかま)にて打見るに、火打石に更に異(こと)なる事なしとぞ。勿論、初めの程は、みな人も、氷(ひよう)の大ひ成(なる)のと思ひ居(ゐ)たるが、爰彼所(こゝかしこ)に石有(あり)とて心付たれば、所々にて拾ひたるは、甚だ奇事(きじ)なり。

[やぶちゃん注:「大塚上町【波切不動の前の通り】」現在の文京区大塚の日蓮宗大法山本伝寺の門前。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「火打鎌」時代劇でお上さんが夫の出掛けに火打石にかっつけて打つ、あの板に鉄片を嵌めこんだ火打ち金(ひうちがね)の関東での呼称。

 以下の引用は「歷史等にも往々有と覺えし。」までは底本では全体が二字下げ(原典は一字下げ)。]

 

年代記に、後堀川院寛喜二年、奥州石降如ㇾ雨。

[やぶちゃん注:「年代記」「鎌倉年代記」。鎌倉時代の年表風の歴史書。幕府滅亡の二年前の元弘元(一三三一)年頃の成立で、編者は鎌倉幕府吏員と推定される。

「後堀川院」(ごほりかはのゐん)は正しくは「後堀河」で、しかも当時は「院」ではなく、現役の天皇

「寛喜二年」一二三〇年。

「奥州石降如ㇾ雨」「奥州、石、降ること雨のごとし」。]

 

續日本紀(ぞくにほんぎ)に、光仁帝寶亀七年九月、是月每夜瓦石及塊自落内竪曹司及京中往々屋上、明而鋭ㇾ之、其物見在經二十餘日乃止。

[やぶちゃん注:「續日本紀」現行では「しょくにほんぎ」と読む。平安初期に編纂された勅撰史書で「日本書紀」に続く六国史の第二。菅野真道らが延暦一六(七九七)年に完成させた。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇延暦一〇(七九一)年まで九十五年間を扱う。全四十巻。

「寶亀七年」(亀は底本は「龜」だが、原典は「亀」)七七六年。

「是月每夜瓦石及塊自落内竪曹司及京中往々屋上、明而鋭ㇾ之、其物見在經二十餘日乃止。」原典の訓点に従って書き下すと、「是の月、每夜、瓦石(くはせき)及ひ塊(つちくれ)自(おのづか)ら内竪(ないじん)の曹司(さうし)及び京中の往々(わうわう)・屋上(おくしやう)に落ち、明けて之を視れは、其の物、見在(げんざい)なり。二十餘日を經て、乃(すなは)ち止(や)む。」。]

 

五雜俎に、萬曆(ばんれき)壬子十二月廿五日申時、四川順慶府安州無ㇾ風無ㇾ雲、雷忽震動墜石六塊、其一重八斤、一重十五斤、一重十七斤、小者重一斤或十兩と見えたり。是等、同日の談なり。また石の降たる事は、春秋をはじめ、歷史等にも往々有と覺えし。

[やぶちゃん注:「五雜俎」明末の謝肇淛(しゃちょうせつ 一五六七年~一六二四年)の書いた考証随筆集。全十六巻。本邦でも江戸時代に広く愛読され、一種の百科全書的なものとして利用された。「五雑組」とも書く。

「萬曆(ばんれき)壬子」万暦四十年でグレゴリオ暦一六一二年。

「申時、四川順慶府安州無ㇾ風無ㇾ雲、雷忽震動墜石六塊、其一重八斤、一重十五斤、一重十七斤、小者重一斤或十兩」原典の訓点に従って書き下すと、「申の時、四川順慶府安州、風、無く、雲くして、雷(らい)、忽ち、震動す。石を墜(おと)すこと六塊(くわい)、其の一は重さ八斤、一は重さ十五斤、一は重さ十七斤、小なる者は重さ一斤或ひは十餘兩。」。「四川順慶府安州」は四川省南充市順慶区内か(ここ(グーグル・マップ・データ))。明代の一斤は約五百九十七グラム、一両は約三十七グラムであるから、最大のものは十キログラムを越える。当たったら、即死である。

「春秋」中国の歴史書で五経の一つ。]

 

 巣鴨邊は、なかんづく強氷(がうひよう)にて、或人、王子へ行(ゆく)迚(とて)、氷をさけて植木屋何某方へ立寄たるに、其大(おほき)さ尺計も有が落て碎けたり。余り珍敷(めづらしく)覺えて、辨當箱の中(なか)へ入來(いれきた)り、一時半程過て歸宅の後(のち)、右箱を明て見れば、解殘(とけのこ)り、未(いまだ)、茶碗ほど有たりと。此邊は、家根を打拔(うちぬく)所多く、七八寸ほどなるが降たる所、所々(しよしよ)に有(あり)と。

 

 大塚御厩畠(おんまやばたけ)の墓守の飼置(かひおき)たる鷄(にはとり)、雄の方、雹に打れて死せし由。

[やぶちゃん注:「大塚御厩畠」現在の文京区大塚五丁目附近の旧地名。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 千駄木御鷹匠(おたかじやう)八木氏(やぎうじ)の庭に、餘程大成が降たり。手に取て見るに、中(なか)に黑きものあり。石にても有䌫(あるらん)とて、盆の上に置たり。解(とく)るに隨ひ、よく見れば、大黑の形を鑄付(いつけ)たる古錢(こせん)也。土石(どせき)の類(るゐ)は左も有べけれど、錢(ぜに)の出(いで)たるは奇なりとて、近隣よりは、皆(みな)見に行たるよし。

[やぶちゃん注:「千駄木」現在の文京区千駄木。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 以下の想山の附言「いと珍敷事也。」までは、底本では全体が二字下げ。]

 

想山(しやうざん)云(いふ)。江戸の氷(ひよう)は、此(この)末に云置(いひおく)通り、中禪寺又は榛名の湖水より、騰蛇(とうじや)の卷上來(まきあげきた)る事と見えたり。既にこの氷中(ひやうちう)に有たる錢は、中禪寺の湖水中に久敷(ひさしく)沈み居(ゐ)たる錢と見えたり。毎年(まいねん)七月に至り、山禪定(やまぜんぢやう)とて、人々囘峰する時、此湖上(こしやう)をも舟にて巡(まは)り歩行(ありく)事にて、賽錢(さいせん)を水中へ投するものも多しといへば、夫(それ)を、彼(かの)騰蛇の卷上來りて、降(ふら)せしものと見えたり。左すれば、不審とするには及ばねども、いと珍敷(めづらしき)事也。

[やぶちゃん注:「山禪定」修験道に於いて、夏、日光の男体山登拝を中心とした回峰が行われるのを指していよう。]

 

 少しの事にて、板橋の先、戸田川(とだがは)邊は、雨ばらばらと降來りたる迄にて、雹はなしと也。

[やぶちゃん注:「戸田川」恐らくは荒川の左岸で北の埼玉県戸田市を縦断する支流を指すか、或いは荒川のこの附近での呼称とも思われる。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 福山侯本郷丸山の屋敷内(うち)、伊澤良安庭へ降たる雹は、二百廿匁有たりと。同藩の婦人、衣類の上より二の腕を打れて、翌朝に至り、痛み甚敷(はなはだしく)、右良安、療治すと云。又、下男壹人、脚に當りて、足たゝずとも云り。

[やぶちゃん注:「福山侯」備後福山藩(藩主阿部氏)の中屋敷。現在の東大赤門の道を隔てた西側奥(「本郷丸山」は現在の本郷五丁目)にあった。

「二百廿匁」八百二十五グラム。]

 

 駒込富士前にては、三人迄、頭をうたれ怪我せし由。

[やぶちゃん注:現在の文京区本駒込にある駒込富士神社の前であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 三河島の農人(のうにん)も頭を打れ、大ひになやみたるもの有と。

[やぶちゃん注:現在の荒川区荒川の三河島地区。この附近(グーグル・マップ・データ)。]

 

 淺草新鳥越邊も、眞白に成程ふり、中には、拳の大さなるも有たりと。

[やぶちゃん注:「淺草新鳥越」この中央付近と思われる(グーグル・マップ・データ)。]

 

 上野御本坊の御庭へ降たるは、壹貫拾匁餘有たる由。是は、同所小林氏の物語にて、慥成(たしかなる)事也と。

[やぶちゃん注:「上野御本坊」寛永寺。

「壹貫拾匁」約三キロ七百八十八グラム。]

 

 亀井戸邊も、團子(だんご)程の分(ぶん)ふりて、夫より段々東のかた、大きく成(かり)、行德(ぎやうとく)邊に至りては、大荒(おほあれ)にて人家損じ、つむじ風、卷來(まききた)りて、農人壹人卷揚(まきあげ)、遙過(はるかすぎ)て落(おつ)。夫より種々(しゆじゆ)手當致し遣(つかは)しけれども、息(いき)の有のみにて、言語(ごんご)も分らず、藥も通らずといえり。後、如何(いかゞ)致せしにや。是も慥成事也と。

[やぶちゃん注:「亀井戸」現在の江東区亀戸(かめいど)。ここ(グーグル・マップ・データ)。今までの報告例の中では最も東に位置する。]

 

 此日、不忍の池より龍卷(りゆうまき)出(いで)たりと、専(もつぱ)ら云ふらす。何にもせよ、水上(すゐしやう)一面に黑雲(くろくも)と成(なり)て恐ろしく、更に樣子は分らざりしよし。仲町(なかちやう)邊へは、鮒・魦(はや)・泥鰌(どじやう)の類(るゐ)多くふり、湯島の切通へは、大(おほき)さ尺餘の鯉を降らすと。これも慥成事なり。

[やぶちゃん注:「仲町」不忍の池の東南の直近の不忍通りを一本南に入った通り附近であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 此日、惣躰(そうたい)、小日向小石川邊より、染井・巣鴨・谷中邊も、暫(しばらく)はすべて黑雲と成、物すごかりしといへり。

 

淺草堂前邊の者の云には、三軒町(さんげんちやう)へ【田原町(たはらまち)のうらなり。】きのふ、雷雨の最中、町家のうらへ、異獸(いじう)落(おち)たり。雷獸のごとく、前足のみ三本有て、跡足(あとあし)はなし。腹(はら)破れて死居(しにゐ)たりと云。又、頭(かしら)は猫の如く、身は鼬(いたち)のごときものとも云。今一人、その邊のものゝ咄には、私(わたくし)は見申さず候得ども、兒童の見來(みきた)るを聞(きく)に、兎(うさぎ)の子の未だ毛も生(はえ)ざるやうのものにて、前足のみ三本有(ある)にはあらずと云て、區(まちまち)なれども、死傷の異獸、落居たるには相違なき事と聞ゆ。去(さり)ながら、此程は雑説多(おほき)故、おぼつかなし。然(しかれ)ども、惣躰、爰にしるすは、皆、夫々に慥成咄のみを撰取(えらみとり)て、記し置たり。扨(さて)、人は心得もあれども、禽獸には其わかちなければ、鳥はあはて、馬は驚き、犬は狂ひて、打(うた)るゝも多かり。既に駒込土物店(つちものだな)にて荷付馬(につけうま)一疋、はねくるひたる有て、鎭めかたなく困りたりと。左も有べきことにこそ。

[やぶちゃん注:「三軒町」旧浅草三間町、現在の東京都台東区寿及び雷門。

「雷獸」ウィキの「雷獣」を引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『落雷とともに現れるといわれる日本の妖怪。東日本を中心とする日本各地に伝説が残されており、江戸時代の随筆や近代の民俗資料にも名が多く見られる。一説には「平家物語」において源頼政に退治された妖怪・鵺は実は雷獣であるともいわれる』。『雷獣の外見的特徴をごく簡単にまとめると、体長二尺前後(約六十センチメートル)の仔犬、またはタヌキに似て、尾が七、八寸(約二十一から二十四センチメートル)、鋭い爪を有する動物といわれるが、詳細な姿形や特徴は、文献や伝承によって様々に語られている』。『曲亭馬琴の著書「玄同放言」では、形はオオカミのようで前脚が二本、後脚が四本あるとされ、尻尾が二股に分かれた姿で描かれて』おり、『天保時代の地誌「駿国雑誌」によれば、駿河国益頭郡花沢村高草山(現・静岡県藤枝市)に住んでいた雷獣は、全長二尺(約六十センチメートル)あまりで、イタチに類するものとされ、ネコのようでもあったという。全身に薄赤く黒味がかった体毛が乱生し、髪は薄黒に栗色の毛が交じり、真黒の班があって長く、眼は円形で、耳は小さくネズミに似ており、指は前足に四本、後足に一本ずつあって水かきもあり、爪は鋭く内側に曲がり、尾はかなり長かったという。激しい雷雨の日に雲に乗って空を飛び、誤って墜落するときは激しい勢いで木を裂き、人を害したという』。『江戸時代の辞書「和訓栞」に記述のある信州(現・長野県)の雷獣は灰色の子犬のような獣で、頭が長く、キツネより太い尾とワシのように鋭い爪を持っていたという。長野の雷獣は天保時代の古書「信濃奇勝録」にも記述があり、同書によれば立科山(長野の蓼科山)は雷獣が住むので雷岳ともいい、その雷獣は子犬のような姿で、ムジナに似た体毛、ワシのように鋭い五本の爪を持ち、冬は穴を穿って土中に入るために千年鼹(せんねんもぐら)ともいうとある』。『江戸時代の随筆「北窻瑣談」では、下野国烏山(現・栃木県那須烏山市)の雷獣はイタチより大きなネズミのようで、四本脚の爪はとても鋭いとある。夏の時期、山のあちこちに自然にあいた穴から雷獣が首を出して空を見ており、自分が乗れる雲を見つけるとたちまち雲に飛び移るが、そのときは必ず雷が鳴るという』。『江戸中期の越後国(現・新潟県)についての百科全書「越後名寄」によれば、安永時代に松城という武家に落雷とともに獣が落ちたので捕獲すると、形・大きさ共にネコのようで、体毛は艶のある灰色で、日中には黄茶色で金色に輝き、腹部は逆向きに毛が生え、毛の先は二岐に分かれていた。天気の良い日は眠るらしく頭を下げ、逆に風雨の日は元気になった。捕らえることができたのは、天から落ちたときに足を痛めたためであり、傷が治癒してから解放したという』。『江戸時代の随筆「閑田耕筆」にある雷獣は、タヌキに類するものとされている。「古史伝」でも、秋田にいたという雷獣はタヌキほどの大きさとあり、体毛はタヌキよりも長くて黒かったとある。また相洲(現・神奈川県)大山の雷獣が、明和二年(一七六五年)十月二十五日という日付の書かれた画に残されているが、これもタヌキのような姿をしている』。『江戸時代の国学者・山岡浚明による事典「類聚名物考」によれば、江戸の鮫ヶ橋で和泉屋吉五郎という者が雷獣を鉄網の籠で飼っていたという。全体はモグラかムジナ、鼻先はイノシシ、腹はイタチに似ており、ヘビ、ケラ、カエル、クモを食べたという』。『享和元年(一八〇一年)七月二十一日の奥州会津の古井戸に落ちてきたという雷獣は、鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ姿で描かれた画が残されており、体長一尺五、六寸(約四十六センチメートル)と記されている。享和二年(一八〇二年)に琵琶湖の竹生島の近くに落ちてきたという雷獣も、同様に鋭い牙と水かきのある四本脚を持つ画が残されており、体長二尺五寸(約七十五センチメートル)とある。文化三年(一八〇六年)六月に播州(現・兵庫県)赤穂の城下に落下した雷獣は一尺三寸(約四十センチメートル)といい、画では同様に牙と水かきのある脚を持つものの、上半身しか描かれておらず、下半身を省略したのか、それとも最初から上半身だけの姿だったのかは判明していない』。『明治以降もいくつかの雷獣の話があり、明治四二年(一九〇九年)に富山県東礪波郡蓑谷村(現・南砺市)で雷獣が捕獲されたと『北陸タイムス』(北日本新聞の前身)で報道されている。姿はネコに似ており、鼠色の体毛を持ち、前脚を広げると脇下にコウモリ状の飛膜が広がって五十間以上を飛行でき、尻尾が大きく反り返って顔にかかっているのが特徴的で、前後の脚の鋭い爪で木に登ることもでき、卵を常食したという』。『昭和二年(一九二七年)には、神奈川県伊勢原市で雨乞いの神と崇められる大山で落雷があった際、奇妙な動物が目撃された。アライグマに似ていたが種の特定はできず、雷鳴のたびに奇妙な行動を示すことから、雷獣ではないかと囁かれたという』。『以上のように東日本の雷獣の姿は哺乳類に類する記述、および哺乳類を思わせる画が残されているが、西日本にはこれらとまったく異なる雷獣、特に芸州(現・広島県西部)には非常に奇怪な姿の雷獣が伝わっている。享和元年(一八〇一年)に芸州五日市村(現・広島県佐伯区)に落ちたとされる雷獣の画はカニまたはクモを思わせ、四肢の表面は鱗状のもので覆われ、その先端は大きなハサミ状で、体長三尺七寸五分(約九十五センチメートル)、体重七貫九百目(約三十キログラム)あまりだったという。弘化時代の「奇怪集」にも、享和元年五月十日に芸州九日市里塩竈に落下したという同様の雷獣の死体のことが記載されており』(リンク先に画像有り)、『「五日市」と「九日市」など多少の違いがあるものの、同一の情報と見なされている。さらに、享和元年五月十三日と記された雷獣の画もあり、やはり鱗に覆われた四肢の先端にハサミを持つもので、絵だけでは判別できない特徴として「面如蟹額有旋毛有四足如鳥翼鱗生有釣爪如鉄」と解説文が添えられている』。『また因州(現・鳥取県)には、寛政三年(一七九一年)五月の明け方に城下に落下してきたという獣の画が残されている。体長八尺(約二・四メートル)もの大きさで、鋭い牙と爪を持つ姿で描かれており、タツノオトシゴを思わせる体型から雷獣ならぬ「雷龍」と名づけられている』(これもリンク先に画像有り)。『これらのような事例から、雷獣とは雷のときに落ちてきた幻獣を指す総称であり、姿形は一定していないとの見方もある』。『松浦静山の随筆「甲子夜話」によれば、雷獣が大きな火の塊とともに落ち、近くにいた者が捕らえようとしたところ、頬をかきむしられ、雷獣の毒気に当てられて寝込んだという。また同書には、出羽国秋田で雷と共に降りた雷獣を、ある者が捕らえて煮て食べたという話もある』(下線やぶちゃん)【2018年8月9日追記:前者は「甲子夜話卷之八」の「鳥越袋町に雷震せし時の事」。但し、原文では「獸」とのみ記し、「雷獸」と名指してはいない。しかし、落雷の跡にいたとあるので、雷獣でよろしい。後者は「甲子夜話卷之二」の「秋田にて雷獸を食せし士の事」で2016年10月25日に電子化注済み。】。『また同書にある、江戸時代の画家・谷文晁(たに ぶんちょう)の説によれば、雷が落ちた場所のそばにいた人間は気がふれることが多いが、トウモロコシを食べさせると治るという。ある武家の中間が、落雷のそばにいたために廃人になったが、文晁がトウモロコシの粉末を食べさせると正気に戻ったという。また、雷獣を二、三年飼っているという者から文晁が聞いたところによると、雷獣はトウモロコシを好んで食べるものだという』。『江戸時代の奇談集「絵本百物語」にも「かみなり」と題し、以下のように雷獣の記述がある。下野の国の筑波付近の山には雷獣という獣が住み、普段はネコのようにおとなしいが、夕立雲の起こるときに猛々しい勢いで空中へ駆けるという。この獣が作物を荒らすときには人々がこれを狩り立て、里の民はこれを「かみなり狩り」と称するという』。『関東地方では稲田に落雷があると、ただちにその区域に青竹を立て注連縄を張ったという。その竹さえあれば、雷獣は再び天に昇ることができるのだという』。『各種古典に記録されている雷獣の大きさ、外見、鋭い爪、木に登る、木を引っかくなどの特徴が実在の動物であるハクビシン』(ネコ(食肉)目ジャコウネコ科パームシベット亜科ハクビシン属ハクビシン Paguma larvata『と共通すること、江戸で見世物にされていた雷獣の説明もハクビシンに合うこと、江戸時代当時にはハクビシンの個体数が少なくてまだハクビシンという名前が与えられていなかったことが推測されるため、ハクビシンが雷獣と見なされていたとする説がある。江戸時代の書物に描かれた雷獣をハクビシンだと指摘する専門家も存在する。また、イヌやネコに近い大きさであるテンを正体とする説もあるが、テンは開発の進んでいた江戸の下町などではなく森林に住む動物のため、可能性は低いと見なされている。落雷に驚いて木から落ちたモモンガなどから想像されたともいわれている。イタチ、ムササビ、アナグマ、カワウソ、リスなどの誤認との説もある』。『江戸時代の信州では雷獣を千年鼬(せんねんいたち)ともいい、両国で見世物にされたことがあるが、これは現在ではイタチやアナグマを細工して作った偽物だったと指摘されている。かつて愛知県宝飯郡音羽町(現・豊川市)でも雷獣の見世物があったが、同様にアナグマと指摘されている』とある。なお、私の電子化訳注「耳嚢 巻之六 市中へ出し奇獸の事」もご覧あれかし。

「駒込土物店」現在の文京区本駒込一丁目にあった江戸の三大青果市場の一つ(後は神田・千住)。起源は元和年間(一六一五年~一六二四年)とされる。文京区公式サイトのこちらの解説によれば、『当初は近隣の農民が野菜を担いで江戸に出る途中、この地で休むのが毎朝の例となり、付近の住民が新鮮な野菜を求めたのが起こり』で、他にも『近くの富士神社の裏手は駒込ナスの生産地として有名であり、大根、にんじん、ごぼうなどの土のついたままの野菜(土物)が取り引きされた』とある。(天栄寺境内)ここ(グーグル・マップ・データ)。だから「荷付馬」が腑に落ちるというもんだ。]

 

 扨、氷(ひやう)の説(せつ)色々有(ある)中に、或人の記(き)に、先年、老人の説に、江戸へ降(ふる)氷(ひやう)は、多くは中禪寺の湖水の氷(ひやう)を、かのたつ卷の騰來(あげきた)りてふらすなりといヘり。また山崎美成(やまざきよしなり)の記に、雹は霰(あられ)の大ひなるものにて、その零(ふり)しこと史に見えたり。【書紀に、推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹零、大如桃子。壬辰雹零大如李子、自ㇾ春至ㇾ夏旱之【云々】、持統天皇五年六月朔、京師及郡國四十雨ㇾ氷、此後(このご)しばしば見えたり。】仍て奇とするにはたらねども、此大城(たいしやう)のもとに住み侍りては、かゝる事も、いともいとも珍敷(めづらしく)、後(のち)にきけば、其始(はじめ)は日光山のかたより雲起り、向ひかぜ勵敷(はげしく)、東南をさして雹をふらす事甚だしく、殊に駒込なる西教寺(さいきやうじ)の、駒山(くさん)が、墓所(はかしよ)へふりしを、手づから摸(も)したるは、重さ六匁計りにて、全く梅の花・牡丹の花のごとく、是を以他人(たにん)の云傳るもうべなひぬ。唐土(たうど)、元(げん)の世に零(ふり)し雹の其狀(そのかたち)は、龜のことく、兒(ちご)の如く、獅子のごとく、象のごとくありしとかや。

[やぶちゃん注:「山崎美成」(寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年)は随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹零、大如桃子。壬辰雹零大如李子、自ㇾ春至ㇾ夏旱之【云々】、持統天皇五年六月朔、京師及郡國四十雨ㇾ氷」原典の訓点に従って読み下す。

   *

推古天皇三十六年夏四月壬午朔辛卯、雹(はく)、零(ふ)る。大(をほき)さ桃子(たうし)のごとし。壬辰、雹、零る。大さ李子(りし)のごとし。春より夏に至つて旱(ひで)りす【云々】。持統天皇五年六月朔、京師(けいし)及び郡國(ぐんこく)四十処に氷を雨(あめふ)らす。

   *

「推古天皇三十六年」は六二八年、「持統天皇五年」は六九一年。

「大城(たいしやう)」江戸城。

「西教寺(さいきやうじ)」原典ではるびは「さいきうじ」であるが、訂した。現在の文京区向丘(むこうがおか:旧駒込片町)にある浄土真宗涅槃山(ねはんざん)西教寺であろう。前身は常州那珂郡村松(現在の茨城県東海村)にあったものを寛永七(一六三〇)年に神田金助町に移し、また、明暦三(一六五七)年に現在地に移転している。東京大学農学部キャンパスの隣、旧中山道本郷追分の近く。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「駒山」不詳であるが、一つの推理として、後に本文に出、注も附した江戸後期の歌人隈川春蔭(くまかわはるかげ)のことではなかろうか? 彼の号は「駒山」だからである。識者の御教授を乞うものである

「手づから摸したる」これが本文でも後に語られ、また掲げられる挿絵のそれ。

「六匁」二十二・五グラム。

 以下の漢文引用は全体が二字下げ、原典は一字下げ。]

 

元史五行志に云、至元四年四月癸巳、淸州八里塘雨ㇾ雹大過於拳其形有如ㇾ龜者、有小兒、有獅象、有環玦、或楕如ㇾ卵、或圓如ㇾ彈、玲瓏有ㇾ竅白而堅、云々。

[やぶちゃん注:原典の訓点に従って書き下す。

   *

「元史五行志」に云、至元(しげん)四年四月癸巳、淸州(せいしう)八里塘(たう)、雹(はく)を雨(あめふ)らす。大(おほき)さ拳(こぶし)に過ぎたり。其の形、龜のごとき者有り、小兒のごとき者有り、獅(し)・象(ざう)のごとき者有り、環玦(くわんけつ)のごとき者有り、或ひは楕(だ)にして卵(らん)のごとく、或ひは圓(ゑん)にして彈(だん)のごとし。玲瓏(れいろう)として竅(あな)有り、白うして堅(かた)し。

   *

「元史五行志」は元代に書かれた正史の中の「志第三上 五行一」と「志第三下 五行二」のこと。「至元四年」一二六七年。「淸州八里塘」不詳。「玲瓏」玉(ぎょく)のように美しく輝くさま。冴えて鮮やかなさま。]

 

 按ずるに、漢籍(かんじやく)に載する所の説、多くはみな理(ことわ)りに拘泥して、其論ずる所はいかめしけれども、決して左にあらず。殊に、蜥蝪(せきやく)の水を含みて雹を仕出(しいだ)すといふに至(いたつ)ては、辨を待ず。走卒(そうそつ)・兒童といへども、はやく其妄誕(まうたん)なるをしらん。雨は、雲氣の冷際(れいさい)に薄(せま)りて凝(こつ)て降(ふる)ものなれども、雹は、全く、地中の氷(こほり)を水とゝもに、騰蛇(とうじや)の類(るゐ)、空中にまきて零(ふら)す所の物也。されば、雨のごとくにはあらで、そのふる所、隧(みち)ありて普ねからず。曾て聞(きゝ)けるは、上野國榛名山の麓に住(すめ)る農家にては、夏月、雹のふる事を、春來(しゆんらい)、早く知りて、田畑(でんはた)に其心がまへをする事とぞ。榛名山には、御手洗(みたらし)とて、大ひ成(なる)湖水あり。其湖水の冬氷りて、春に至り、中心より解(とく)るときは、雹なし。岸より解るときは、雹有とて、おそるゝよし。中心より解初(とけはじむ)れば、殘りなく解(とけ)、岸より解初(とけはじむ)るときは、中心の氷、其儘、水底(すゐてい)に沈み、夏月といへどもとけざるを、水と共に、かの騰蛇のまきてふらす也といへり。日光山の湖水も同じさまなるよし。こたび零(ふり)し雹は、中禪寺の湖水の氷(こほり)ならんといふ。これら、ゆめゆめ虛説にあらず。その麓の里人(りじん)、常に經驗する所なりと云。謝在抗云、雹似二是最之大者一、但雨ㇾ霰寒而雨ㇾ電不ㇾ寒、霰難ㇾ晴而霰易ㇾ晴如二驟雨一、然北方常遇ㇾ相ㇾ之、傳龍過則雹下四時皆有、余在二齊魯一、四五月間、屢見ㇾ之、不二必冬一也といへる、實に知言(ちげん)と云べし。

[やぶちゃん注:「蜥蝪(せきやく)」とかげ。

「辨を待ず」お話にならない。

「走卒」使い走りをする下僕。

「妄誕(まうたん)原典では左にもカタカナで「みだりなるいつはり」とルビする。意味は「言うことに根拠のないこと」或いはそうした話の意。「ばうたん(ぼうたん)」とも読む。

「冷際(れいさい)」鈴木牧之の名著「北越雪譜」の「初編卷之上」の冒頭に、『太陰、天と地との間に三ツの際(へだて)あり、天に近(ちかき)を熱際(ねつさい)といひ、中を冷際(れいさい)といひ、地に近(ちかき)を溫際(をんさい)といふ』とし、更に、『雲、冷際にいたりて雨とならんとする時、天寒(てんかん)甚しき時は雨(あめ)氷(こほり)の粒となりて降り下(くだ)る。天寒の強きと弱きとによりて粒珠(つぶ)の大小を爲(な)す、是を霰(あられ)とし、霙(みぞれ)とす。【雹は夏あり。その辯(べん)こゝにりやくす。】地の寒強き時は、地氣(ちき)、形をなさずして天に升(のぼ)る微温湯氣(ぬるきゆげ)のごとし。天の曇るは是れ也。地氣、上騰(のぼ)ること多ければ、天、灰色(ねずみいろ)をなして雪ならんとす。曇りたる雲、冷際に到り、先づ、雨となる。此時、冷際の寒気、雨を氷(こほ)らすべき力たらざるゆゑ、花粉を爲(な)して下(くだ)す、是れ、雪也』と述べている。雹の叙述を略されたのは痛いが、これで何となく意味は解るように思われるので引いておいた。

「御手洗(みたらし)とて、大ひ成(なる)湖水あり」榛名山の神を祀る榛名神社の御手洗沼である榛名湖のこと。

「謝在抗云、雹似二是最之大者一、但雨ㇾ霰寒而雨ㇾ電不ㇾ寒、霰難ㇾ晴而霰易ㇾ晴如二驟雨一、然北方常遇ㇾ之、相傳龍過則雹下四時皆有、余在二齊魯一、四五月間、屢見ㇾ之、不二必冬一也」底本は原典の判読を誤っている箇所があるので原典で訂した。原典の訓点に従って書き下す。

   *

謝在抗(しやざいがう)云、雹(はく)は是れ、霰(さん)の大ひなる者に似たり。但し、霰を雨(あめふ)らすは寒くして雹を雨らすは寒からず。霰は、晴れ難く、雹は晴れ易し。驟雨(にはかあめ)のごとし。然かるに北方(ほくはう)は常に之れに遇ふ。相い傳ふ、龍(りよう)、過ぐれば、則ち、雹、下(くだ)る。四時、皆、有り。余、齊(せい)・魯に在りて、四、五月の間(あひだ)、屢(しばしば)之れを見る。必しも冬ならず。

   *

「謝在抗」は明代の「五雑組」(先に既注)の著者謝肇淛の字(あざな)。

「齊」現在の山東省北部を中心とした地方名。

「魯」現在の山東省南部を中心とした地方名。

「知言」道理に適った言葉。]

 

 和訓栞(わくんしほり)曰。新撰字鏡(じかがみ)・和名鈔に、雹(ひよう)とよめり。逆散(ぎやくさん)の儀をもて、名づくる也といへり。霰をもよめり。※は吾邦の造字なり[やぶちゃん字注:「※」=(上)「雨」+(下)「丸」。]。萬葉集に、丸雪を義訓せり。今の俗、是れをヒヨウといふは、氷雨(ひようう)の音なるべし。陸氏(りくじ)が説に、雹は氷雨也と見えたり。駒山潮音雨雹紀事に云。文政十三年歳次庚寅閏三月念九午後、晴天忽然晦冥、迅雷兩三聲降ㇾ雹、半時餘、破ㇾ瓦穿ㇾ屋株草多敗、都下駒籠根津上野淺草之地、尤甚矣、其雹小者、如梅子栗實大者如ㇾ拳如ㇾ肬、每ㇾ塊有ㇾ文、如重瓣梅花、或似牡丹花、皆於中心一堅實、如水精白玉、外邊絁類花瓣、東叡山中所ㇾ降大者共二三十錢、或至五十錢、駒籠西教寺裏所ㇾ降大者六錢二分或六錢、橫量二寸三分、或三寸、皆有花文、乃是千歳之一奇事也。曾門稗雅曰、形全似玉珠、其粒皆三出、此唯合小者、形不ㇾ同今所ㇾ見大而有花文者上、乃錄見聞以傳後世云。

[やぶちゃん注:「和訓栞」一般には「わくんのしをり(わくんのしおり)」と助詞を補って読む。原型は江戸中期の国学者谷川士清(ことすが 宝永六(一七〇九)年~安永五(一七七六)年)の編著になる辞書。全九十三巻。安永六 (一七七七) 年から実に明治二〇(一八七七)年までの百年に亙って刊行された。本邦近世に於ける最大の国語辞典。以下、漢文の前までが、総てその引用なので注意されたい。しかも、サイト「電子資料館」の「古事類苑データベース」のこちらを見ると、

   *

あられ 新撰字鏡、和名鈔に雹をよめり、迸散の義をもて名くる也といへり、霰をもよめり、※は和俗の造字也、万葉集には丸雪を義訓せり、今俗これをひやうといふは、氷雨の音なるべし、陸詞が説に雹氷雨也と見えたり

   *

とあり、一部の漢字の誤りが判明する。

「新撰字鏡」平安時代の昌泰年間(八九八年~九〇一年)に僧の昌住が編纂したとされる、現存する最古の漢和辞典。寛平四(八九二)年に三巻本が完成したとされるが、原本や写本は伝わっていない。その三巻本を基に増補した十二巻本が同時期に作られたが、その写本が現存して伝わる。十二巻本の収録漢字字数は約二万千字に及ぶ。

「和名鈔」「和名類聚抄」承平年間(九三一年~九三八年)に源順(みなもとのしたごう 延喜十一(九一一)年~永観元(九八三)年)が編纂した辞書。

「逆散」底本も原典もこうなっているが、前注で示した通り、これは「迸散」が正しい。これは「ホウサン」と読み、「迸(ほとばし)る・飛び散る」の意である。雲からガツンと飛び散るの儀(義)というである。

「霰をもよめり」は「霰(あられ)」を「ひよう(ひょう)」とも和訓するということ。現在は区別している。気象学上は「霰(あられ)」は直径五ミリメートル未満の氷の粒、五ミリメートル以上のものは「雹(ひょう)」と区別する。即ち、違いは大きさだけであるから、この昔の通用は正しい。

「萬葉集に、丸雪を義訓せり」「義訓」は「戯訓」のこと。「万葉集」の用字法の特殊なもので、漢字の形態・意義をかなり自由に利用して遊戯的・技巧的或いは洒落のめしたような感じで読みを当てたものを指す。これは、「万葉集」の「卷第七」の「旋頭歌」で柿本人麻呂の歌として載るものの第一二九三番歌で、

 

 丸雪降 遠江 吾跡川楊 雖苅 亦生云 余跡川楊

 

 霰(あられ)降り

 遠(とほ)つ淡海(あふみ)の

 吾跡川(あとかは)楊(やなぎ)

 刈れども

 またも生(お)ふといふ

 吾跡川(あとかは)楊(やなぎ)

 

であるが、実は「丸雪」を「あられ」と読む戯訓はこれだけで他に例はないから、ここで取り立てて示すほど偉そうなものではない。

「陸氏(りくじ)が説」前注通り、ここは「陸詞」が正しい(まあ、意味上は「氏」で誤りとは言えないが)。而してこれは隋代の音韻学者陸法言(生没年不詳:名は「詞」又は「慈」)のことである。ウィキの「陸法言」によれば、彼は『漢字の発音の標準を定めるため、古来の韻書の記述を統合し』、六〇一年に、かの知られた、中国語の語学上のバイブルとも言うべき韻書「切韻」全五巻を編纂した人物である。

「駒山潮音雨雹紀事」不詳であるが、この「駒山」とは江戸後期の歌人隈川春蔭(くまかわはるかげ 寛政一三・享和元(一八〇一―)年?~天保八(一八三七)年)の号ではないか? 兄で歌人であった春雄と和歌の研鑽に山陽道の各地を旅したが、長崎で病いのため没したという(兵庫県赤穂郡上郡町(かみごおり)公式サイト内のに拠った)。

 以下、漢文を原典の訓点に従って書き下しておく。

   *

文政十三年、庚寅(こういん)に歳次(さいじ)す。閏(うるう)の三月念九午後、晴天、忽然、晦冥、迅雷、兩三聲、雹(はく)降らすこと、半時餘(よ)、瓦(かはら)破(わ)り、屋(おく)を穿(うが)ち、株草(ちうさう)多く敗(やぶ)る。都下(とか)駒籠(こまごめ)・根津・上野・淺草の地、尤も甚だし。其の雹(はく)、小なる者、梅子(ばいし)・栗實(りつじつ)のごとく、大ひなる者、拳(こぶし)のごとし。肬(こぶ)のごとし。塊(くわい)每(ごと)に文(もん)有り、重瓣(やえ)の梅花(ばいくわ)のごとく、或ひは牡丹花(ぼたんくわ)に似たり。皆、中心に於いて、一堅實(けんじつ)有り、水精白玉(ししやうはくぎよく)のごとし。外邊(ぐわいへん)、絁(はなは)だ花瓣(はなびら)に類(るゐ)す。東叡山中、降る所、大ひなる者、共(とも)に二、三十錢(せん)、或ひは五十錢に至る。駒籠西教寺裏(さいけうじり)に降る所、大ひなる者、六錢二分、或ひは六錢、橫に量(はか)るに二寸三分、或ひは三寸、皆、花文(くわもん)有り、乃(すなは)ち、是(こ)れ、千歳(せんざい)の一奇事(きじ)なり。曾門(そうもん)稗雅(はいが)曰く、「形(かたち)、全(また)く玉珠(ぎよくじゆ)に似(に)たり。」。其(そ)の粒(つぶ)、皆(みな)、三出(しゆつ)、此(こ)れ、唯(たゞ)、小(せう)なる者なるべし。形(かたち)、今(いま)、見(み)る所(ところ)、大(おほ)ひにして、花文(くわもん)有(あ)る者(もの)に同(をな)じからず。乃(すなは)ち、見聞(けんもん)を錄(ろく)して以(も)つて後世(こうせい)に傳(つた)ふ。

   *

「念九」「ねんく」。二十九日のこと。「念」は「廿」と音通であることに依る。

「半時」現在の約一時間。

「株草」草木。

「重瓣(やえ)」八重。

「一堅實(けんじつ)有り」一つの堅い核がある。

「東叡山」寛永寺。

「二、三十錢、或ひは五十錢」この「錢」は重量単位。一銭は三・七五グラムであるから、七十五~百十二・五グラム或いは百八十七・五グラム。

「六錢二分、或ひは六錢」二十三・二五或いは二十一・九グラム。

「二寸三分」ほぼ七センチメートル。

「曾門(そうもん)稗雅(はいが)」不詳。識者の御教授を乞う。そのために、どこまでが引用かも判らぬ。取り敢えず、一文までとした。

 

「皆(みな)、三出(しゆつ)」意味不詳。三つの角を持つ結晶のように見えるという意味か? 判らぬ。]

 

Syouzanhyo2

 

[やぶちゃん注:挿絵の左右はこの前後の本文であって、キャプションではないので注意されたい。]

 

 又、勝田氏(かつだうじ)の大雨雹行(たいうはくかう)の詩、甚だ具(つぶ)さなり。聞(きく)まゝに左(さ)に記(しる)す。呉々も、近來(きんらい)、聞及ばざる降氷(ばうひよう)なりき。

 

[やぶちゃん注:以下、漢詩は前後に一行空けた。]

 

   大雨雹行   勝田 獻

 

庚寅閏月春盡日、節入淸和陽景驕、向ㇾ晩天氣忽變更、寒威刺々生迅飈一、雷公怒擊散硬雨、明珠圓轉迸且跳、須臾怪雲蔽四野、林谷振動泣、大丸小丸破屋瓦、千矢萬矢下九霄、鳥雀飛回無ㇾ處ㇾ避、女兒錯愕互叫囂、忽疑馮夷發憤怒、手握神槌瓊瑤、更怪女媧補ㇾ天處、誤觸列宿斗杓、別有花紋麗可一ㇾ愛、三出五出巧於描、君不ㇾ聞昔時雨ㇾ雹如人頭、耳目鼻口婉含ㇾ嬌、天工奇絶不ㇾ可ㇾ測、甚勝人間費刻彫、安知天公好伎戲、別發祕藏無聊、人道此物非吉兆、陰氣肅殺傷稼苗、誰知大平無事朝、縱有災異忽氷消、只今四海無一事、此物何足ㇾ爲氛妖、雖ㇾ然祥異天所ㇾ戒、只恐嘉穀不豐饒、默禱皇天后土含和氣、五風十雨玉燭調。

[やぶちゃん注:原典の訓点に従って書き下す。一部の清音送り仮名を濁音化、改行して読み易くした。これ、基本は七言ながら、途中でどうしても七言では訓読出来ない箇所があり、かなり苦しんだ。とんでもない誤りを犯しているかも知れぬので、学術的には原典を必ず参照されたい。但し、私は私なりに詩想を感受出来たとは思っている。注を附け出すとドツボに嵌りそうなので附ささぬこととするが、したり顔をするわけでもないことは断っておく。

   *

 

   大雨雹行(たいうはくかう)   勝田 獻(かつだ けん)

 

庚寅(かういん)閏月(じゆんげつ)春盡(しゆんじん)の日

節 淸和に入る 陽景 驕(ほこ)る

晩に向つて 天氣 忽ち變更

寒威(かんゐ) 刺(し)々 迅飈(じんへう)を生ず

雷公 怒擊 硬雨を散ず

明珠(めいじゆ) 圓轉 迸(ほとばし)りて且つ跳(をど)る

須臾(しゆゆ) 怪雲 四野を蔽ふ

林谷(りんこく) 振動 山魈(さんせく) 泣く

大丸(ぐわん)小丸 屋瓦(おくぐわ)を破(わ)る

千矢(せんし)萬矢 九霄(きうせい)を下(くだ)る

鳥雀 飛回 避くる處無し

女兒 錯愕(さくがく) 互ひに叫囂(けいがう)

忽ち疑ふ 馮夷(へうい) 憤怒を發す

手に神槌を握つて 瓊瑤(けいえう)を碎き

更に怪しむ 女媧 天を補ふ處

誤つて列宿に觸れて 斗杓(とひやう)を墜(お)とすかと

別に花紋麗はししふして愛すべき有り

三出五出 描(ゑが)くより巧みなり

君 聞かずや

昔時(せきじ) 雹(はく)雨(あめふ)らすこと 人頭(じんとう)のごとく

耳目鼻口 婉(えん)にして嬌(けう)を含む

天工奇絶 測るべからず

甚だ人間(げん) 刻彫(こくちう)を費すに勝(まさ)る

安(なん)ぞ知らん 天公 伎戲(ぎげ)を好み

別に祕藏を發して無聊(むれう)を慰(い)するを

人は道(い)ふ 此の物 吉兆に非ずと

陰氣 肅殺 稼苗かべう)を傷(そこな)ふ

誰(たれ)か知らん 大平無事の朝(てう)

縱ひ災異有るも忽ち氷消(ひようせう)す

只今 四海 一事 無く

此の物 何ぞ氛妖(ふんよう)と爲すに足らん

然りと雖も 祥異(しやうい)は天の戒しむる所

只だ恐る 嘉穀(かこく)豐饒ならざるを

默(ぼく)して禱(いの)る

皇天后土(くわうてんこうど) 和氣を含み

五風 十雨 玉燭 調(とゝの)ふ

 

   *]

 

 又、天保七年【丙申】五月三日。伯耆の國大山(たいせん)より、一朶(いちだ)の黑雲(くろくも)起り來りて、但馬の國大屋谷(おほやだに)と云一谷(いちこく)へ【山間(やまあひ)の狹き所なれども長さ五里計も有所也と。】雹ふりたり。大ひなるは重さ四十匁餘、小なるは四五匁程にして、人は怪我も少なけれども、野飼(のがひ)の牛は斃(をち)たりとの事也。是は其時、其地へ行合居(ゆきあひゐ)し何某より聞たり。然(しかれ)ども、人には怪我なくして、牛の斃たりとは如何(いかゞ)と問(とふ)に、此時の雹は二三尺降積(ふりつみ)たる故、多くの雛牛(ひなうし)などは斃たるも多かりしときく。又、伯耆の大山よりは、因幡一國を隔てゝ、その間(あ)ひ廿餘里も有(あれ)ども、其道通(みちどほ)りは、少しも雹はふらずして、此所(このところ)へ來りて、斯(かく)仰山(ぎやうさん)に降たるは、一奇事(いつきじ)也といへり。

[やぶちゃん注:「天保七年【丙申】五月三日」一八三六年六月十六日。

「大屋谷」現在の養父市大屋町附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。大山は西に百キロメートル弱。

「四十匁」百五十グラム。

「四五匁」十五グラムから十九グラム弱。

 

 以上、現在の気象学から見れば雹発生の元などには誤りもあるものの、雹被害の詳細な記録として実に興味深いものである。私は結構、面白く読んだ。]

 

 

 

 想山著聞寄集卷の三 終

ブログ950000アクセス突破記念 火野葦平 煙草の害について

 

[やぶちゃん注:本作は題名も内容も確信犯のチェーホフの独り芝居の一幕物喜劇「煙草の害について」Anton Pavlovich Chekhov“O vrede tabaka”1886のインスパイアである。本来は、このブログ・カテゴリ『火野葦平「河童曼荼羅」』では、底本に従うなら、「新月」「珊瑚礁」の間に入れるべきものであるが、チェーホフの元の話を電子化するまで待とうと思ったため、かく遅れた。先般、ブログ950000アクセス突破記念として「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化したので、ここに示すこととした。

 太字は底本では傍点「ヽ」。

 最初に現われる「當辨論大會出場」の「辨」はママである(以降は「辯」となっている)。

 「菊石(あばた)」は二字へのルビ。かつて主に天然痘に罹患して予後、その主に顔面に菊石のような痕が残ったことから、「あばた」のことをかく言った。こう書いて「じゃんこ」などとも読んだようである。

 また、作中、主人公は以前に「女の害について」「酒の害について」を弁論したとあるが、実は「河童曼荼羅」には「女の害について」「酒の害について」という題の作品が含まれている(未電子化。近い将来、順次、電子化予定)。ただ、その二つは弁論形式ではなく、本作と形式上で先行するダイレクトなプレ作品としては読めないのでお断りしておく。題名を見ただけで期待されてしまい果てに失望されても困るので(私は別に困らないのだが)それらの電子化より先に事前に述べておく。

 なお、本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが250000アクセスを越えた記念として、チェーホフのそれに次いで公開するものである。【2017年5月26日 藪野直史】]

 

 

 

   煙草の害について

 

 滿堂の紳士淑女諸君、

 わたくしが、このたび、鼻無沼(はななしぬま)代表といたしまして、當辨論大會出場の光榮に浴しました皿法師と申す者であります。自己紹介いたすまでもなく、每年、侃々諤々(かんかんがくがく)、流麗絢爛(けんらん)、奔流決河の雄辯をもつて、當壇上から、諸君におまみえしてきたものでありまして、諸君には、わたくしの印象は、さぞかし強烈に、消えがたいものとなつて殘つてゐることと信じます。ごらんのとほり、わたくしのこの頭の皿の巨大なことは、近郊近在に稀でありまして、故もなく頭百間といつて誹謗する者もあるにはありますが、實に、まさに、腦髓の巨大、かの世界的大詩人ゲーテの腦味噌のごとく、萬能の力と夢とを、この皿の下に藏して居る證據でありまして、わたくしが、まことに、河童世界において、選ばれたる者としての標識たることは、一點の疑ふ餘地もありません。

 鼻無沼、口無沼、臍無沼、耳無沼、眼無沼等、近郊河童界の合同辯論大會が、かく、空靑く澄み、水はつややかに、若葉きらめくこの季節に、大々的にもよほされますことは、まことに當代の盛大事、河童文化界の一大欣快事、かかる機會あればこそ、わたくしも諸君にまみえ、得意中の得意たる辯舌をもつて、諸君の稱讚をかち得ることのできますことは、喜びの第一であります。……どうも、諸君の眼は、冷いですな。どうして、そんな皮肉な眼で、わたくしを見なさる? 諸君の眼にはいやな光、輕侮のまなざしがある。……なるほど、わたくしは、本年までの大會におきまして、遺憾ながら、優勝したことはありません。それはないです。しかし、そんなことがなんですか。昨年は八等、一昨年は十一等、一昨々年は六等、一昨々々年は九等、一昨々々々年は二十二等、一昨々々々々年は四等、といふ具合に、わたくしは名譽ある榮冠をかち得たことは、たしかにただの一度もない。しかしながら、その理由は明瞭です。罪はわたくしの側にあつたのではありません。昨年までは、暗愚無能の審査員、眞の言葉をきく耳なく、眞の姿を見る眼なく、眞の偉大を理解する頭腦なく、そして、眞の眞實を語る口なき徒輩が、おこがましくも、審査にあたつて居りましたために、眞に價値あるものはかへりみられず、言語同斷の不公平の結果を將來したものであります。のみならず、審査の事前にあたりまして、眼や耳を掩ひ、唾したき醜陋(しゆうろう)のことが行はれて居りましたことは、はつきり申します。饗應、追從(つゐしよう)、懇願、そして贈賄(ぞうわい)が、こつそり審査員に對してなされましたことは、歷然たる事實でありまして、かくのごとくしては、いかで、神聖なるべき審査に、公平を期し得ませう。中正嚴烈の立場を堅持し、一に技(わざ)を辯口の練達に置き、いやしくも邪(よこしま)に組せぬわたくしが、その辯舌のならびなき優秀さにもかかはらず、審査員諸兄の鼻息をうかがはなかつたといふだけで、一等の榮冠を得ることのできなかつた理由は、ただに、以上の奇怪事にもとづいてゐるのであります。が、既往は問ひますまい。今囘は、その弊があらためられ、もつぱら技術の練能のみを審査基準として、公正の判定が下されますやうになりましたことは、喜びこれに過ぎるはありません。然るうへは、わたくしの眞價も、今囘はあやまりなく認められ、一等優勝の月桂冠をかち得ることを確信して疑はないところであります。理解ふかく達識ある聽衆たる紳士淑女諸君におかせられても、不屈の雄辯に、魅了されることは當然でありまして、擧(こぞ)つてわたくしに人氣投票して下さるものと、これまたふかく確信して居ります。

 さて、わたくしの演題は、ここにかかげてありますやうに、「煙草の害について」。昨年は、「女の害について」。一昨年は、「酒の害について」薀蓄(うんちく)をかたむけて、諸君に説きましたことは、なほ、御記憶に新なところであらうと存じます。しかるうへは、殘されたる煙草の害について語るは當然、三部作は世に流行するところであります。年來の河童の知己(ちき)たるあしへいさんも、土・花・麥といふ三部作を書いて居ります。酒と女と煙草、この三者の大害について、一大教訓を垂れますことは、わたくしの救世の宿願といつてもよろしく、すでに、酒と女とについて述べました以上は、今回、最後の煙草について、諸君にわたくしの卑見を開陳いたしますことは自然の順序、否、わたくしの義務、使命なのであります。ロシアのチエホフといふ作家が、嘗て、同問題について、一場の講演をしたことがありますが、わたくしのはさやうな陳腐退屈なものではありません。しばらく御靜聽を煩はしたく存じます。エヘン。

 わたくしは、最近、熱烈な戀愛をいたしました。いや、現在、なしつつある、つまり、その眞最中であります。……そのやうに、お笑ひ下きるな。わたくしとて、老いたりといへども、なほ、靑春の血は、五體の隅々にまでたぎつてゐる。わたくしは、この日ごろ、一女人のために、情熱のほむらをたぎらし、わたくしの一生の蓮命を、この戀に賭けて居るのであります。その女人こそは、鼻無、口無、臍無、耳無、眼無、五界にかけてたぐひも並びもなき麗人でありまして、東洋の詩人の言葉を借りますれば、沈魚落雁閉月羞花、實に、暗夜に現出した燦然(さんぜん)たる太陽、虹、その一顰(いつぴん)一笑によりまして、あたかも電燈の明滅するごとく、あたりの光も左右されるほどの、すばらしい婦人なのであります。……どうも、皆さん、よくお笑ひなさる。惚れた眼には、菊石(あばた)もゑくぼ、とおつしやるのですか。よろしい、それなら、それとして置きませう。どうぞ、野次(やじ)らずに聞いて下さい。いづれ、わたくしの言葉の眞實がわかるときが參ります。……ともかく、わたくしは戀をいたしました。いたして居ります。この戀愛の成就によつて、わたくしの生涯は精彩をはなち、幸福の基礎は定まる。わたくしは希望に燃え、胸高鳴らせて、わたくしの全力をこの戀愛に傾注いたしました。いたして居ります。わたくしの戀人たるその女人は、牡丹のやうな美しい皿に、水晶液のやうな水をたたへ、瑪瑙(めなう)の眼と、大理石の嘴と、綠玉の甲羅と、そして、螢石の手と、……もうわかつたとおつしやるのですか。どうも、さう、まぜかへされては、話ができませんな。戀人の自慢はもうたくさんだといふのですね。なに? 演題の煙草の害の話は、どうしたのかつて? どうも、せつかちですな。話には順序があります。起承轉結、布置結構、文章と同樣、演説にも、構成、スタイル、山あり、谷あり、ただ、のべつに、がさつに、工夫もなく、話したのでは、味も素氣もありません。拙劣といふものです。わたくしが、「煙草の害について」といふ演題をかかげながら、突如として、主題とは緣もゆかりもなきごとく見ゆるわたくしの戀愛について語りだしましたのも、まつたく、わたくしの練達習熟せる小説的技法にもとづいて居つたのであります。居るのであります。つまり、わたくしの戀愛そのものが、實に、煙草に、煙草の害に直結して居るわけでありまして、わたくしの戀愛を語ることなくしては、絶對に主題たる煙草の害について語ることはできない。春秋の筆法を借りるまでもなく、實に、わたくしをして煙草の害を説かしむるものは、説かざるを得ざらしめたものは、わたくしの戀愛、わたくしの愛人、その女人なのであります。おわかり下さいましたでせうか。お靜まりになつたところを見ると、御理解下さつたものと信じます。感謝いたします。では、話を進めませう。

 前述しましたとほり、わたくしは全身の血をたぎらせて、戀に沒頭いたしましたが、幸のことに、その女人も、わたくしの氣持を汲み、受け入れてくれました。くれたらしく、見えました。わたくしはドン・ファンではありません。ウエルテルです。女から女へ蜜蜂が花を漁り、花を變へ、今日は椿に、明日は百合にと、飛びまはるやうな浮氣心はわたくしには微塵もありません。わたくしはかの悲しきウエルテルのごとく、これと定めた戀人ただ一人に、すべてを捧げつくし、死をもいとはぬ誠實の徒なのであります。なるほど、わたくしは、醜男です、お笑ひ下さつてもよろしい。この頭の皿は、前述しましたやうに、大詩人ゲーテに匹敵する才能と夢とを藏してゐるとはいへ、たしかに、ちよつと不恰好です。頭百間といはれて笑はれても仕方がない。ことに、知識とか、才幹とか、人格とかいふやうなものはどうでもよく、ただ、のつペりとした顏形、通常色男と稱せられてゐるやうな男子に、關心を集中する婦人にとつては、わたくしのごときは、對象たる資格はありますまい。しかしながら、河童の眞實は、さやうな、單なる外形上の皮膚や骨格のなかにあるのではない。肉體ではない。精神です。肉體にだけ河童の價値を見るのは、精神の近視眼、色盲、實に、かのミーチャンハーチャン的輕薄の思想にほかなりません。したがつて、眞に精神美を理解し、人格に關心を有する女性は、わたくしのごとき、才幹豐かにして、哲學的な男性に、眞の價値を見いだすものです。わたくしの思ひをかけました女人が、この醜男たるわたくしの氣持を汲んでくれたといふのも、彼女がさういふ良識深き女性であつたからでありませう。わたくしの求愛にこたへてくれた、くれたかに見えた彼女へ、わたくしは深く感謝し、淚をもよほさんばかりの歡びをおぼえました。わたくしの人生は、この戀の成就によつて輝き、才能と力とはいよいよ發揮され、なにごとも今や不可能なることなしとさへ、わたくしは希望に燃えました。

 ああ、わたくしは、このことを語るのが、苦痛なのであります。かくも、歡びと希望とに燃えたわたくしの戀が、いかに無殘なる形で、今日(こんにち)、放置されてゐるか。胸が苦しくなります。頭が疼きます。失禮お許し下さい。悲しくなりました。ちよつと淚を拭かきせていただきます。……わたくしは、實に、今、嘗て經驗せぬ最大の勇氣をふるつて、告白して居るのであります。告白と懺悔(ざんげ)とには、非常な苦痛と勇氣を要します。かのジャン・ジャック・ルソオが懺悔錄を書いたとき、彼は萬人の前に血をはく思ひをもつて、すべての眞實を叶露したのだと申しましたが、あの悲壯な書物のなかにも、なほ、隱されてゐる眞實、否、明瞭に虛僞があるといふではありませんか。しかし、わたくしは、なにも隱しません。すべてをここに告白いたします。わたくしが全靈をゆすぶる苦痛をもつて語りますことを、皆さんも眞劍にお聞き下さいますよう。

 かの女人は、わたくしの求愛にこたへ、誘はれるままに、一日、鼻無沼の靑草萠える土堤に出ました。五月の太陽は、わたくしたちの戀愛を祝福するかのごとく、さんさんとあたたかい光をそそぎかけます。わたくしは美しい彼女の姿がまぶしく、さうです、實に、彼女は、沈魚落雁閉月羞花、虹、色硝子、プリズム、太陽の光線をはねかへして、わたくしの眼をくらませるのです。わたくしは滿足と幸福とで、有頂天でした。

  わたくしたちは、ならんで、草のうへに腰を下しました。今や、わたくしは諸君のまへに、かの、ラヴ・シーンといふものを展開しようとしてゐるのであります。しかしながら、それがのろけでも自慢でもないことは、諸君のよく賢察されることでありませう。これこそは、わたくしの破綻(はたん)の、悲しき除幕式であつたのであります。とはいへ、なほ、その破滅までの數分はわたくしたちにとつて、えもいへぬ甘美と陶醉の悦樂境でした。心臟の高鳴りを押へ、つとめて平靜を裝つてゐましたけれども、わたくしは若干の聲のふるへを如何ともすることができませんでした。彼女の方はいかがだつたでせうか。それはわたくしの知るところではない。いたづらに高貴な女人の心境を忖度(そんたく)することは、失禮にあたりますので、わたくしは遠慮いたしますけれども、彼女とて、その妙(たへ)なる胸の琴線になにか觸るるものを感じて居つたのではないでせうか。心の窓たる眼は一切の祕密を語る。わたくしはうぬぼれませぬけれども、それどころか、自己の醜さを知つてゐるわたくしは、女人の前でいかなる場合でも謙虛、といふより、臆病、おどおど、ひやひや、ほとんど萎縮してゐるのが常でありましたけれど、そのときは、わたくしは、明瞭に、彼女のわたくしに對する好意を、その二つの涼しい瑪瑙の眼のなかに感じとりました。感じとつたと信じました。さすれば、もはや相思、心通ひあふ戀人同志、この五月の土堤のあひびき、ラヴ・シーンは完璧で、この幸福と前途に、なんの暗い影もあるわけではなかつたのです。にもかかはらず、この事痛が無殘にも崩れたのは?

 あれです! ああ、あれです! 實に、煙草です! 煙草、聞くだに恐しい言葉!

 幸福感に、痴呆のごとく醉ひ痴(し)れてゐましたわたくしは、瞬間、はつと凝結して、息をのんでしまひました。驚愕と、失望と、悲しみと、怒りと、さまざまの感情が、坩堝(るつぼ)に、いちどきに、千種類の金屬を投げこんだやうに、こんぐらかり、煮えかへり、騷ぎはじめました。わたくしは阿呆のごとくひらいた眼を女人の動作に釘づけにして、もう膝頭がふるへ、背の甲羅のつぎ目がぎしぎしと鳴り軋(きし)むのをおぼえました。

 煙草です。彼女が煙草を吸ひはじめたのです。蓮葉の小筥から、金口のシガレットをとりだした彼女は、いかにも馴れた手つきで、ライターの火を點じ、あの大理石の嘴にもつてゆくと、いかにもおいしさうに、くゆらしはじめました。彼女がその行動をもつとも通常のことと考へ、わたくしの思惑などをいささかも氣にかけてゐないことは、その安らかな自然の行動で明瞭でした。それは、さうでせう。煙草をのむことが、惡事でも、破廉恥でもなく、今やひとつのエチケットにさへなつてゐるものとすれば、彼女がそのことを、なんのわたくしの前に遠慮したり、恥ぢたりするわけがありませう。道德も、倫理も、法則すらも、強力な習慣の作用にもとづいてゐることは、歷史が證明してゐます。常人の法則は、その萬人の最大多數の認識によつて肯定される。さういふ法則には、一切、羞恥はともなはない。されば、彼女が悠々とわたくしの前で煙草をのみはじめたことは、自然の理で、なんら咎むべきところはないのでありました。

 然らば、その彼女のなにげない行爲に對して、わたくしが何故にそのやうに驚愕し、混亂したか? それは實に、わたくしの生理的本能、あのどうにもかうにもやりきれぬ、煙草嫌ひといふ氣質にもとづいてゐるのです。これは、もはや、道德でも、理論でもない。無論、法則でもない。仕樣のないわたくしの天性、生來の潔癖、宿命ですらあるのです。

 わたくしは他人の趣味、嗜好に對して、誹謗を加へたり、排擊はしない。それは、自由です。しかし、わたくしは萬人の最大多數が煙草をたしなみ、その醍醐味を説き、紫煙の幻術、エクスタシイ、そして、その偉大なる價値を説かうとも、わたくし自身は、頑として、その宣傳に乘らぬ、誑(たぶら)かされぬ。そして、あの、いやなニコチンの匂ひ、毒に染まぬと決心してゐました。わたくしは煙草のみを輕蔑しはしませんが、これを賞揚する氣のないのは勿論、煙草のみの客がきて、あの無遠慮無感覺に、煙草の灰を散らす、これまでのんでゐたコーヒーの皿にでも、食べてゐた茄子や胡瓜の椀にでも、灰を落す、あの無神經、その不快さに辟易することは、一再ではありません。男子はまだよい。婦人が煙草を吸ふ姿を見ると、誇張ではなく、慄然と身ぶるひがしてくる思ひなのです。好意をよせてゐた女人が、煙草をのむと知つて、たちまち嫌ひになる、その經驗はたぴたびなのでした。宿命となれば、致しかたありません。かくしてわたくしは恐しい煙草から遠ざかり、今日まで、一度も、手に取つたことすらなかつたのです。[やぶちゃん字注:「煙草の灰を散らす」底本では「煙草の灰を敢らす」であるが、読めないので、誤植と断じて、特異的にかく訂した。]

 なんといふ皮肉でせうか。さういふ天性の煙草嫌ひ、ほとんど煙草恐怖症といつてもよいわたくしが、全精神と全生活とを賭けて惚れました女人が、なんとしたことか、またしても、煙草のみ、煙草好きであらうとは! わたくしが、五月の土堤で心地よげに煙草をのみだした戀人の姿に、愕然とし、失望し、悲しみ、そして、絶望的な氣特になつて行つたことは、諸君の充分に明察されるところであらうと信じます。

 わたくしは苦しみ、迷ひました。わたくしのその女人に對する思慕の情は、これまで經驗したやうな淺薄のものではなく、いかなる困難、迫害があらうとも、かならず突破して、成就しなければならぬといふ鞏固(きようこ)な勇氣をわたくしの身内にふるひおこし、ほとんどわたくしを英雄的興奮に追ひあげてゐたほどのものであつたのです。親が反對するか、周圍が反對するか、或ひは彼女へ思ひをかける戀敵(ライバル)が、わたくしへ決鬪を申しこむか、火でも、矢でも、嵐でも、來らば來れと、決意してゐたのでした。ところが、それが、なんと! あらはれた敵といふのが、煙草であらうとは!

 ああ、戀か? 煙草か? わたくしの戀人が煙草のみであるといふことは、到底わたくしの耐へ得るところではない。然らば、彼女を思ひ切るか。ああ、それができるくらゐなら、なんでこれほど苦しみませう? わたくしは混亂し、悶え、天を仰いで、慟哭(どうこく)しました。彼女が煙草をやめてくれれば、これに越したことはないのでありますけれども、彼女の煙草を吸ふ樣子といふものは、彼女の煙草への愛好がいかに深いかといふことを、如實に語つてゐます。彼女はわたくしに、一本いかがといつて、小筥のケースをさしだしました。わたくしが、のまないと申しますと、ちよつと怪訝(けげん)な顏はしましたが、そんなにわたくしが、極端な煙草嫌ひ、煙草恐怖症といふことを、もとから知るわけはありませんから、默つてケースをしまふと、なほも、煙草をくゆらし、さもおいしげに、心地よげに、空にむかつて、紫色の輪を吹くのでした。それが五月の風にたなびいて、消えてゆく。見た目にはきれいなのですが、わたくしの方は、そのにほひのいやらしさに、悶絶せんばかりでしつかりと鼻をふさいでゐるのでした。わたくしが彼女を失ひたくなければ、この煙草への嫌惡を我慢するほかはない。この忍耐と克己がはたして可能か。わたくしの宿命を變へ得るか。いかなる暴力的な施療をもつてすれば、この變貌を遂げ得るか。わたくしに自信も意見もあらうわけはなく、戀か? 煙草か? 不可能を可能にし得ぬ弱少の資質に、ほとんど泣きたいばかりでありました。

 彼女とて、かういふわたくしをも愛し、この戀愛を遂げんとすれば、煙草をやめなければ、あの、黑白一致の完全な合體はできない。戀か? 煙草か? とりもなほさず、それは彼女自身の悲痛な課題でもあつたでありませう。

 紳士淑女諸君、

 かくのごとく、煙草の害たるや、恐るべきものであります。わたくしは觀念しました。今さら、わたくしが最大の鬼門であり、なにより、先天的習性による宿敵といつてよい煙草へ屈服することは、いかにしてもできない。何度でもいひます。わたくしは煙草は嫌ひです。どうしても好きになれません。煙のにほひを嗅ぐと、卒倒しさうになります。これまで一度も、手にしたことすらありませんが、もし、手にしたら、その瞬間に、わたくしは癲癇(てんかん)的發作をおこすかも知れません。煙草はわたくしの敵です。そして、煙草は、……おや! 皆さん、これは、なんとしたこと! 皆さんは、わたくしをなぶるつもりですか。人が惡いにもほどがある。誰もかれもが、煙草をのみはじめた。五六人かと思つたら、七人、十人、二十人、四十人、百人、……ああ、みんなだ。全部の方が、煙草を吸ひだした。煙がもうもうと場内を埋める。わたくしの方へくる。たまらない。いやなにほひだ。皆さんは、わたくしを燻(いぶ)し殺すつもりですか。ああ、やめて下さい! やめて下さい!

 おや、わたくしの眼のあやまりではないか? 全部が煙草を吸つてゐるのに、たつた一人、吸はない人がある。あの人だ! あなただ! あなたが、今夜の辯論大會にきてゐることをはじめから、僕は知つてゐたんです。僕は、あなたのことを念頭において、はじめから喋舌(しやべ)つてゐたんです。いや、あなた一人に向かつて、話、いや、僕の告白、願望を述べてゐたんだ。ああ、あなたは煙草を吸つてゐない。あんなに、好きだつた煙草を。戀か? 煙草か? あなたの考へはきまつたんですか?

 滿堂の紳士淑女諸君、

 諸君は意地わるく、わたくしを嘲弄しようとなさる。わたしを煙攻めにする。わたくしを癲癇で卒倒させようといふ魂膽にちがひない。たしかにわたくしは眼が舞ひさうだ。氣が狂ひさうだ。しかしながら、わたくしは諸君に負けたのではない。勝利者はわたくしです。わたくしが勝つたのだ。わたくしの戀人がわたくしをうけ入れたのだ。……皆さん、その中央の座席にゐる女人、さつきから、わたくしが縷(る)々として述べたすばらしき美人、それこそ、彼女です。ああ、煙草の海のなかで、たつた一人、煙草を吸はずにゐる。すてきだ! 僕は勝つた!……おや、あなたはどなた? 演説の最中に、演壇に土足であがるとは、なにごとです? なに、警察官? 警官が、小生になんの用があるのです? 用があるなら、あとで承ります。いまは、大切な辯論の最中だ。小生の一生の輝ける瞬間です。殺風景な警官の闖入(ちんにふ)で、妨げられたくはありません。小生の辯論に忌諱(きゐ)にふれる個所はない筈です。檢閲にひつかかるやうなことは、なにひとついつてゐないぢやありませんか。……なに? 全然、別の用だつて? なんです、それは? 逮捕状! 小生を逮捕するのですか? 冗談ぢやないですよ。僕はそんなことはなにもしてゐないよ。……えつ? 僕がヤミ煙草を製造した? ここで皆が吸つてゐる煙草は、全部、僕の祕密工場から出たものだつて? やめて下さい。冤罪(ゑんざい)を着せるにも、ほどがある。さつきからの僕の辯説を聞かなかつたんですか。僕は生來煙草嫌ひ、煙は勿論、煙草を手にとつただけでも卒倒する。そんな僕が、なんで、煙草なんか作るもんですか。とんでもない濡衣です。……あつ! それは!……うむ、……そんな證據があがつてゐるのか。……さうか。……そんなに引つぱらなくてもよろしい。もうかうなつたら、惡びれはしません。行きます。待つて下さい。一服してから行きます。……どうです、あなたがたも一服されたら? これ、最上等の葉卷ですよ。

 

[やぶちゃん後注:正直、惨めな恐妻家を痙攣的に露呈してゆく原話に比すと、格落ちは否めず、落ちもイマイチである。演じて見たい気はあまりしない。]

 

950000アクセス突破

ここのところ、ブログ・アクセスが特異的に増え(一日400や700を越える日もある)、今日に日付けが変わった前後に950000アクセスを越えてしまった。二十四日ほどで10000アクセスは特異点だ。
ページ別アクセス集計を見ると、個別では梶井基次郎の「檸檬」の授業ノートが一番で、「枕中記」が三番手であるから、高校生或いは予備校生又は大学生のアクセスが相変わらず多いのであろうと思うのだが、今回は一日、「山之口貘」の全詩を閲覧(保存)しに来られた方があったらしく、ランキング二番にカテゴリ「山之口貘」が挙がっていた。
後は「履歴書」絡みからか「南方熊楠」、そして「小泉八雲」のカテゴリ閲覧が非常に多い。
あるテクスト注が途中なのであるが、ペンディングして、これより記念テクスト作製にとりかかることとする。

2017/05/25

南方熊楠 履歴書(その38) 山本達雄の我を覚えざること

 

 咄(はなし)もここまでくれば末なり。よって珍妙なことを申し上げ候。大正十一年春東京にありしとき、四月十二日に代議士中村啓次郎、堂野前種松(小石川音羽墓地三万坪をもち一坪いくらと売りし人)二氏に伴われ、山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)を訪(おとな)いし。明治三十年ごろ、この人正金銀行の今西豊氏と英国に来たり(当時山本氏は日本銀行総裁)、小生今西氏とサンフランシスコにて知人たりしゆえ、大英博物館に案内し、その礼に山本氏と並び坐して食事を供せられしことあり。その時山本氏問いに、西洋の婦女は日本のと味が同じかとは、よく好きな人と覚えたり。さて山本氏は小生を知らぬ由をいう。この人小生の研究所の発起人なるに知らずというを小生は面白く思わず、渡英されしときのことどもをいろいろ咄せしに、ようやく臆い出したらしかりしが、なお貴公がそんなに勉学しおるものなら農相たる予が多少聞き知るはずなるに、一向聞き知りしことなきは不思議なという。

[やぶちゃん注:「大正十一年春東京にありしとき」既に述べた通り、南方植物研究所資金募集のための大正三月から八月に上京、奔走した折りのことを指す。これも注したが、実際には七月十七日から八月七日までは日光に採集旅行に出かけている。

「中村啓次郎」既出既注

「堂野前種松」(明治二(一八六九)年〜昭和三〇(一九五五)年)骨董集主家として知られたこと、それらについての幾つかの著述があることぐらいしか判らなかった。識者の御教授を乞う。

「山本達雄氏(子か男か記臆せぬゆえ氏と書く)」山本達雄(安政三(一八五六)年~昭和二二(一九四七)年)は銀行家で政治家。男爵ウィキの「山本達雄によれば、『日本銀行総裁に就任後、政界に転じて貴族院議員、日本勧業銀行総裁、大蔵大臣・農商務大臣・内務大臣・立憲民政党の最高顧問を歴任した』。『豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれ』、十七歳で『大阪に出』、三年間、『小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため』、『慶應義塾で学んだ期間は短かった』。そこで、『当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した』。『卒業後、岡山の県立商法講習所の教頭になったが、政治の批判会などを開催し』て『問題を起こし、大阪商業講習所の教頭に転任せざるをえなくなり、そこで教頭として』一年勤めたものの、『ここでも問題を起こし、三菱商業学校を卒業した関係から』、明治一六(一八八三)年に『郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入った』。そこで実業家川田小一郎に『才能を認められて幹部候補生となって各地の支店の副支配人を歴任』、明治二三(一八九〇)年に『当時総裁であった川田の要請によって』『日本銀行に入行』五年後の明治二十八年には、『川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた』。更に翌明治二九(一八九六)年四月には『金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された』。ところが、明治三一(一八九八)年十月に『日本銀行総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如』、『日本に呼び戻され』、第五代日本銀行『総裁に任じられ』る(下線やぶちゃん)。実に入行から僅か八年、山本は満四十三歳であった。南方熊楠のロンドン滞在は一八九二年から一九〇〇年である。『日本銀行総裁退任後の』明治三六(一九〇三)年に『貴族院で勅撰議員となり』、明治四二(一九〇九)年には日本勧業銀行総裁に就任している。その二年後の明治四十四年、その年に成立した第二次西園寺内閣に於いて、『西園寺公望総理に乞われて、財界からの初の大蔵大臣として入閣したことであった。健全財政主義を奉じて日露戦争後の財政立て直しを持論としていた山本は当時の軍部による軍拡に批判的であり、二個師団増設問題を巡って陸軍と衝突して内閣総辞職の原因を作った。だが、以後の山本は西園寺の立憲政友会との関係を強め、大正政変後の』第一次山本(海軍大将山本権兵衛)内閣では『政友会の推挙で農商務大臣に就任して、山本の』二『代後の日本銀行総裁であった高橋是清大蔵大臣とともに財政再建にあたるが』、シーメンス事件(ドイツの当時、軍需関連企業であった「シーメンス」社による日本海軍高官への贈賄事件。大正三(一九一四)年一月に発覚して同年三月に山本内閣は総辞職に追い込まれた)によって『志半ばで挫折する。この農商務大臣在任中に正式に政友会に入党した。政友会による本格的な政党内閣である原内閣においても再度』、農商務大臣を務めている。大正十一年当時は原の暗殺によって、後継となった高橋是清内閣(大正一〇(一九二一)年十一月十三日から大正一一(一九二二)年六月十二日)まで農商務大臣を続けていたから、まさに彼の「農相」最後の折りであったものと思われる。この熊楠との再会当時、山本は満六十六である(熊楠より十一年上)。熊楠は『このボケ・エロ爺いが!』と思ったことであろう。なお、その後、斎藤内閣で内務大臣を勤めている。

「明治三十年」一八九七年。上記の通り、二人の事蹟とも一致する。

「正金銀行の今西豊」不詳であるが、横浜正金銀行の取締役であった山本が、金本位制実施のための準備のため、日銀総裁からロンドンに派遣されていることから、彼と同道というのは腑に落ちる。

「当時山本氏は日本銀行総裁」「日本銀行理事」の誤り。前注参照。

 以下、二段落は底本では全体が二字下げ。]

 

 かかることは、欧米の挨拶にはよほど人を怒らすを好む人にあらざればいわぬことに候。小生の旧知にて小生キュバ島へ行きし不在中に、小生が預けおいた書籍を質に入れた小手川豊次郎というせむしありし。日本へ帰りてちょっと法螺(ほら)を吹きしが死におわれり。この者都築馨六男と電車に同乗中、君の郷里はどこかと問われて、おれの生れ場所を知らぬ者があるかといいしに、都築男聒(かつ)となりて汝ごとき奴の郷里を知るはずなしといいしを、板垣伯仲裁せしことあり、と新紙で見たことあり。小手川の言は無論として、都築男も品位に不相応な言を吐かれたものと思う。

[やぶちゃん注:「小生キュバ島へ行きし不在中」一八九一年(明治二十四)年九月から翌年の一月まで。

「小手川豊次郎」事蹟不詳ながら、多くの著作があり、内容から見て経済学者らしい。

「せむし」吉井庵千暦著「名士の笑譚」(明三三(一九〇〇)年刊)「小手川豐次郎後藤に殴打る」という話が載り(国立国会図書館デジタルコレクションの画像のこちらで読める)、これは同一人物を思われ、そこでは彼に「ドクトル」が冠せられており、「短軀」「丈纔かに三尺背骨高く聳え胸また出づ」とあるので、小手川は佝僂(くる)病或いは脊椎や腰椎の先天性奇形であったのかも知れぬ。

「都築馨六」筑馨六(つづきけいろく 万延二(一八六一)年~大正一二(一九二三)年)は外交官・政治家。男爵。ウィキの「筑馨六」によれば、貴族院議員・枢密顧問官・法学博士で男爵。「都築」と表記される場合もあるとある。『高崎藩名主・藤井安治の二男として生まれ、西条藩士・都筑侗忠の養子となる。築地大学校、東京開成学校を経て』、明治一四(一八八一)年七月に東京大学文学部(政治理財学専攻)を卒業、翌年『ドイツに留学し』、『ベルリン大学で政治学を学んだ』。明治一九(一八八六)年に帰国して『外務省に入り、公使館書記官兼外務省参事官に就任。外務大臣秘書官』となったが、明治二一(一八八八)年には今度は『フランスに留学』二年後に帰国すると、『内閣総理大臣秘書官とな』り、『以後、法制局参事官、兼内閣総理大臣秘書官、内務省土木局長、兼内閣総理大臣秘書官、図書頭、文部次官、外務省参事官、外務次官などを歴任』、その後、貴族院勅選議員・枢密院書記官長に就任、明治四〇(一九〇七)年四月には『特命全権大使に任じられ』てオランダの『ハーグで開催された』第二回『万国平和会議に委員として派遣され、ハーグ密使事件』(大韓帝国が会議に密使を送って自国の外交権回復を訴えようとしたが国際社会の列強から会議への参加を拒絶されて目的を達成することができなかった事件)『の対応に当っている』。

「板垣伯」板垣退助(天保八(一八三七)年~大正八(一九一九)年)。]

 

関ケ原の戦争に西軍あまり多勢なので東軍意気揚がらず、その時坂崎出羽守(西軍の大将浮田秀家の従弟兼家老たりしが、主を怨(うら)むことありて家康に付きし者、この軍ののち石見国浜田一万石に封ぜられしが、大阪の城落つるとき、秀頼の妻をとり出したらその者の妻にやると聞き、取り出せしに秀頼の後家本多忠刻にほれその妻となる。出羽守怒ってこれを奪わんとし、兵を構えんとするを家臣に弑(しい)せらる。故福地源一郎氏はこのこと虚談といいしが、小生コックスの『平戸日記』を見るに、コックス当時江戸にあり、このことを記したれば実事なり)進み出で、西軍などおそるるに足らず、某(それがし)一人あれば勝軍(かちいくさ)受合いなりと言いしを家康賞美する。出羽守出でてのち小姓ども大いにその大言を笑いしに、家康、かようの際に一人なりとも味方のために気を吐く者あらば味方の勇気が増すものなり、その者の言葉を笑うべきにあらず、と叱りしという。咄の始終も履歴も聞かぬうちに、われは汝にあいし覚えなしなどいわれたら、その者の心はたちまちその人を離るるものなり。スペインのアルフォンソ何世たりしか、華族にあえば知らぬ顔して過ぎ、知らぬ百姓に逢うても必ず色代(しきだい)せしより、百姓ども王に加担して強梁せる華族をことごとくおさえ、王位を安きに置きたり、と承りしことあり。

[やぶちゃん注:「坂崎出羽守」坂崎直盛=宇喜多詮家(うきたあきいえ 永禄六(一五六三)年?~元和二(一六一六)年)。ウィキの「坂崎直盛」によれば、『備前国の戦国大名・宇喜多氏の家臣・宇喜多忠家の長男』で、『従弟の宇喜多秀家に仕えた』『が、折り合いが悪かった。そのため』、慶長五(一六〇〇)年一月に『宇喜多氏において御家騒動が発生すると、主君・秀家と対立することとなる。徳川家康の裁定によってそのまま家康のもとに御預けとなり、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後その功績により石見浜田』二『万石を与えられ、後に同国津和野に』三万石『を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降』、『坂崎直盛と名乗るようになった』。元和元(一六一五)年の『大坂夏の陣による大坂城落城の際に、家康の孫娘で豊臣秀頼の正室である千姫を大坂城から救出した。この後、千姫の扱いを巡って、直盛と幕府は対立することになり、最終的に千姫を奪おうとする事件を起こしており、これが千姫事件と呼ばれる』。『この千姫事件については、直盛が千姫を再嫁させることを条件に直接家康の依頼を受けていたが、これを反故にされたとする説』、『家康は千姫を助けた者に千姫を与えると述べただけで直盛に依頼したわけではないという説』など『がある。また直盛が千姫を救出したかという点についても、また実際に直盛が救出したわけではなく、千姫は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が徳川秀忠の元へ送り届けた、とする説』なども『あり、この他、直盛が千姫を救出したにも関わらず火傷を負いながら千姫を救出したにもかかわらず、その火傷を見た千姫に拒絶されたという説もある』という(但し、以上の千姫事件の仮説については、リンク先では要出典要請がかけられてある)。『また、事件の原因としてはこうした千姫の救出ではなく、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに』、突如、『姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まったため、面目を潰された』 とする説もあるという。『いずれの理由にしても、直盛は大坂夏の陣の後、千姫を奪う計画を立てたとされるが。この計画は幕府に露見していた。幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかけたが、主君を切腹させるわけにはいかないと家臣が拒否し討たれたという説、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したという説』、『立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したという説がある。なお、柳生宗矩の諫言に感じ入ったという説に拠れば、柳生家の家紋の柳生笠』(二蓋笠(にがいがさ))『は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている』。『一方、当時江戸に滞在していたイギリス商館長リチャード・コックス』(Richard Cocks 一五六六年~一六二四年)は、ステュアート朝イングランド(イギリス)の貿易商人で江戸初期に平戸にあったイギリス商館長(カピタン)を務めた。在任中に記した詳細な公務日記Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks)「イギリス商館長日記」 一六一五年から一六二二年まで)はイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の様々な史実を伝える一級史料)『の日記によれば』、元和二年九月十一日(グレゴリオ暦一六一六年十月十日)の『夜遅く、江戸市中に騒動起これり、こは出羽殿と呼ばれし武士が、皇帝(将軍秀忠)の女(千姫)が、明日新夫に嫁せんとするを、途に奪うべしと広言せしに依りてなり。蓋し老皇帝(家康)は、生前に彼が大坂にて秀頼様の敵となりて尽くしし功績に対し、彼に彼女を与へんと約せしに、現皇帝は之を承認せずして、彼に切腹を命ぜり、されど彼は命を奉ぜず、すべて剃髪せる臣下一千人及び婦女五十名とともに、其邸に拠り、皆共に死に到るまで抵抗せんと決せぬ。是に於いて皇帝は兵士一万人余人を以て其邸を囲ましめ、家臣にして穏かに主君を引き渡さば凡十九歳なる長子に領土相続を許さんと告げしに、父は之を聞くや、自ら手を下して其子を殺せり。されど家臣などは後に主君を殺して首級を邸外の人に渡し、其条件として、彼等の生命を助け、領土を他の子に遺はさん事を求めしが、風評によれば、皇帝は之を諾せし由なり』。『とある。ともあれこの騒動の結果、大名の坂崎氏は断絶した(中村家などが子孫として続いている)』。『関ヶ原の戦いに敗れ、改易された出羽横手城主・小野寺義道は、津和野で直盛の庇護を受けていた。直盛の死後』、その十三回忌に、『義道はその恩義に報いるため、この地に直盛の墓を建てたと言われている。墓には坂崎出羽守ではなく「坂井出羽守」と書かれている。これは徳川家に「坂崎」の名をはばかったとされる(一説に一時、坂井(酒井)を名乗っていたとも言われる)』とある。

「従弟兼家老」「従弟(いとこ)、兼(けん)、家老」。

「福地源一郎」作家・劇作家で衆議院議員にもなった福地桜痴(天保一二(一八四一)年~明治三九(一九〇六)年)の本名。

「スペインのアルフォンソ何世たりしか」不詳。民衆に絶大な人気があったという点では何となく思い当たる人物もないではないが、世界史は私の守備範囲でないので、不詳としておく。識者の御教授を乞う。

「色代(しきだい)」会釈。

「強梁」勢力強くのさばること。

 ここまでが底本では二字下げ。]

毛利梅園「梅園魚品圖正」  章魚


Madako

海魚類

 「本草」曰

章魚【タコ】 章擧(キヨ)【韓文】

「臨海志」

𠑃(キツ)【タコ】

 

 

癸巳(みづのとみ)十月十二日

眞寫

 

 

「和名鈔」

 海蛸子(かいしやうし)【和名太古(たこ)】

 今按(あんずる)に、蛸、正に鮹に作る。

 俗にの字を用ふ。出づる所、詳らかならず。

 「本草」に云はく、『海蛸子は

 貌(すがた)、人の裸(はたか)なるに似て圓

 頭なる者なり。長さ、丈余なる

 者、之を海肌子と謂ふ』。

 

 

章魚(たこ)に大章魚(をほだこ)

---魚(くもだこ) 意志距(あしながたこ)

井々八梢魚(いゝだこ)等あり。

但馬の大梢魚甚(はなはだ)大也。

人馬及(および)獸(けもの)を食ふと云(いふ)。

丹波・熱海(つまつ)の章魚

又大也。蟒(うはばみ)を取りし

説あり。畧(ほぼ)之(これ)、盲説

矣ならん。

 

[やぶちゃん注:最初に注した通り、「梅園魚譜」は本来は「梅園魚品圖正」二帖と併せて三帖一組で描かれたものであったのが、後に分割されてしまったものである。従って、ここに「梅園魚品圖正」のものを載せることは私の確信犯である。掲げたのは国立国会図書館デジタルコレクションの「梅園魚品図正」の保護期間満了画像の当該頁(周囲をトリミングした)と、私が視認して活字に起こしたキャプション(右上から右下、左上から中央下)。割注は【 】で示し、書名は「 」で囲った。本種は

軟体動物門 Mollusca 頭足綱 Cephalopoda 八腕形上目 Octopodiformes 八腕(タコ)目 Octopoda マダコ亜目 Incirrina マダコ科 Octopodidae マダコ亜科 Octopodinae マダコ属 Octopus マダコ亜属 Octopus マダコ Octopus vulgaris

と同定してよかろう。吸盤の描き方が上手いが、各吸盤内の襞のそれは今一つである。

「本草」通常は李時珍「本草綱目」を指すが、同書にこのような記載を見出せない。これは内容を比較したところ、後に出る引用が本邦の「本草和名」(ほんぞうわみょう)と一致した。ウィキの「本草和名」によれば、本書は醍醐天皇に侍医・権医博士深根輔仁の撰になる日本現存最古の本草書(薬物辞典)で、延喜年間(九〇一年~九二三年)に編纂された。唐の「新修本草」を範に取り、その他、『漢籍医学・薬学書に書かれた薬物に倭名を当てはめ、日本での産出の有無及び産地を記している。当時の学問水準より比定の誤りなどが見られるが、平安初期以前の薬物の和名をことごとく記載しておりかつ来歴も明らかで、本拠地である中国にも無いいわゆる逸文が大量に含まれ、散逸医学文献の旧態を知る上で、また中国伝統医学の源を探る上でも貴重な資料である。また、丹波康頼の『医心方』にも引用されるなど後世の医学・博物学に影響を与えた。また、平安時代前期の国語学史の研究の上でも貴重な資料である』。『その後、長く不明になっていたが、江戸幕府の医家多紀元簡が紅葉山文庫より上下』二巻全十八編から成る『古写本を発見して再び世に伝えられるようになった。多紀元簡により発見された古写本の現時点の所在は不明であるが、多紀が』寛政八(一七九六)年に校訂を行って刊行された版本があり、本草学者がよく引いている。

𠑃」は漢語で「タコ」の義。

「癸巳十月十二日」本書は天保六年完成であるから、天保四年癸巳でグレゴリオ暦一八三三年十一月二十三日に当たる。

」は「魪」と同義で「鰈」(かれい:脊索動物門 Chordata 脊椎動物亜門 Vertebrata 魚上綱 Pisciformes 硬骨魚綱 Osteichthyes カレイ目 Pleuronectiformes カレイ科 Pleuronectidae)を指すので誤用。

「長さ、丈余なる者、之を海肌子と謂ふ」細かいことを言うと、「大和和名」では「海蛸子」ではなく、「海蛸」で割注で「所交支貌似人躶而圓頭」と解説し、その下に「海肌子」を掲げて割注で「長丈餘名海肌子 長尺餘名海蛸子」と載せるので、この梅園は下方のそれを引き上げて名称としていることが判る。以下、「髑妾子【江東名之】小鮹魚【頭脚并長一尺許者出崔禹】和名多古」と続いている(因みに「崔禹」というのは唐代に書かれたと目されている「崔禹錫食経」という現在は失われた本草書の名である)。

「大章魚(をほだこ)」本邦どころか、世界最大種のタコである、マダコ科ミズダコ属 Enteroctopus ミズダコEnteroctopus doflein としてよかろう。別名をマジで「おおだこ」と称する。

「小---魚(くもだこ)」四字で「クモダコ」とルビしている(そのために熟語記号を附しているものと思われる)。マダコ属クモダコ Octopus longispadiceus を挙げておくが、或いは後掲するイイダコの異名である可能性も高い。

「意志距(あしながたこ)」マダコ属テナガダコ Octopus minor であろう。福岡県柳川市では同種をアシナガダコと現在も呼称している。

「井々八梢魚(いゝだこ)」これは浅海に棲息する小型の蛸、沿岸域では古代から食用としてされてきた馴染みの、マダコ属イイダコ Octopus ocellatus のことと考えてよかろう。

「但馬」現在の兵庫県北部で、現在の豊岡市と美方郡(みかたぐん)新温泉町(ちょう)の日本海沿岸域となる。

「人馬及獸を食ふと云」意外なことに、非常に信じられた伝承である。私の「谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふ」「想山著聞奇集 卷の參 七足の蛸、死人を掘取事」をご覧あれ。しかしなんと言っても、最高傑作は蛸馬の死闘と驚天動地の大爆笑の顛末を迎える「佐渡怪談藻鹽草 大蛸馬に乘し事」にとどめを刺す。

「丹波・熱海(つまつ)」不詳。「つまつ」(「あつまつ」か?)の読みも不審。識者の御教授を乞うものであるが、そもそも「丹波」は陸内国(現在の京都府中部・兵庫県北東部・大阪府北部相当)で海と接していないし、「丹波熱海」という地名も確認出来ない。すこぶる不審。「蟒」を取り喰らうんだからそこまで来るんだと言われりゃ、黙るしかないが。ともかくもこれは、全国的に見られる蛇が蛸に化生するという伝承の逆転伝承ではなかろうか? 私の「佐渡怪談藻鹽草 蛇蛸に變ぜし事」「谷の響 二の卷 三 蛇章魚に化す」を参照されたい。

「盲説」「妄説」の誤字。差別的で厭な感じだ。]

 

Ars longa vita brevis.

21日からのここまでの16タイトルが今私の目の前のデスク・トップに出してある作業中電子テクスト注群。他に「博物学」フォルダになかなか進まぬ江戸時代の本草関連書8タイトルがある。全く以って――Ars longa vita brevis.――ですね、「先生」……


 

Kokoro1



2017/05/24

「新編相模國風土記稿卷之九十八 村里部 鎌倉郡卷之三十」 山之内庄 大船村(Ⅳ) 常樂寺

 

○常樂寺 粟船山と號す、臨濟宗【鎌倉建長寺末】北條泰時が開基の道場にして〔村民所藏、永正十二年、建長寺西來菴修造勸進狀に、常樂檀那武藏守權大夫泰時云々、〕【東鑑】に粟船御堂とある是なり〔【東鑑】の文下に引用す。又同書に、嘉禎三年十二月十三日、右京兆泰時爲室家母尼追福於彼山内墳墓之傍、被建一梵宇、今日有供養儀云々と見えたるもの、其舊跡今別に存せされば、恐らくは當寺なるべく覺ゆ、但し當寺創建の年代を傳へず、又泰時が母尼、室家等の墳墓の事も、こゝに傳へもしなければ推考もて決し難し、〕仁治三年六月十五日泰時卒してこゝに葬す〔後に墳墓山あり。〕寛元々年六月信濃法印道禪を導師とし、奉時が小祥の佛事を修す〔【東鑑】曰、六月十五日、故武州禪室周闋御佛事、於山内粟船御堂、被修之、北條左親衛幷武衞參給、遠江入道前右馬權頭、武藏守、以下人々群集、曼茶羅供之儀也、大阿闍梨信濃法印道禪讃衆十二口、此供幽儀御在生之時、殊抽信心云々、〕同四年宋の蘭溪本朝に歸化し鎌倉に下向して龜谷山壽福寺に寓せしを、北條時賴建てこゝに居しめ、軍務の暇屢訪ひ來たりて禪道を學べり、〔【元亨釋書】道隆傳曰、以淳祐六年、乘商船、着宰府、本朝寛元四年丙午也、乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽、時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺、軍務之暇、命駕問道、〕隆こゝに任する事七年〔按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど、今此等の事寺家に傳へなし、又隆を開山と稱する事は、其始當寺は全き一宇の寺院たらず、泰時が持佛堂の如くなり、故に定まりたる、常住の僧はなかりしなり、されば【東鑑】にも、粟船御堂と記して、寺號を云はず、釋書に、時賴、隆を延て、常樂寺に居らしむと書せしは、全く追記の文にて、當時寺號を唱へし證とはし難し、泰時が歿後、時賴香花誦經等廢絶なからしめんが爲、隆を延てこゝに居らしめしと覺ゆれば、隆をもて住僧の始めと云ふべし、さては後傳へて、開山祖と思ひまがへるも理なきにあらず、志に云所は、全く梵僊が榜文に據て、ふと思ひ違へし訛なり、彼は福山の開山と云へるなり、榜文下に註記せり、合考して了解すべし、又按ずるに、當寺撞鐘、寶治二年の銘文に、初て寺號を見るに據れば隆が住するに及て一宇の寺院となし、寺號を唱ふる事も、こゝに草創せしなるべし、〕建長四年時賴建長寺を創する後、隆、福山に入て開山祖となる、五年六月故泰時が十三周の忌辰に値り、當寺にて追福の供養あり、又信濃僧正道禪を請て導師とす〔事は【東鑑】に見えたり、泰時墳墓の條に引用す、〕後建長寺の末となり、其寺領のうちを配當あり、されど當寺は彼開祖隆が出身の地なる故建長寺根本と稱せり、此頃の事が隆定規一篇を送り、凡て福山の法則に據るべき旨を寺僧に示す〔全文は寺寶の條に註記す、〕近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり。

[やぶちゃん注:「永正十二年」ユリウス暦一五一五年。足利幕府第十代将軍足利義稙(よしたね)の治世(明応の政変による逃亡からの帰還後)。

「嘉禎三年」一二三七年。今までもそうだが、細かいことを言い出すときりがないので、特に指摘しないが、「吾妻鏡」の引用は完全なものではなく、省略(時には誤植かと思われるもの)があるので注意が必要である(「吾妻鏡」については読み難い部分は極力、私のオリジナルな注を附してあるが、それでも読めないという方には、「吾妻鏡」のサイトはかなり多いけれども、私は現代語訳がかなり進行しており、注も堅実なサイト「歴散加藤塾」のこちらを強くお勧めする)。ここを書き下すと、「右京兆室家(しつか)の母尼(ははに)の追福の爲、彼(か)の山内の墳墓の傍らに於いて、一梵宇を建てらる。今日供養の儀有り。」で「室家の母」は親族である実母の意。生没年などの詳細は不詳であるが、泰時の母は御所に仕える女房で、名を「阿波局(あわのつぼね)」と伝える。但し、これはかの北条時政の娘で源実朝乳母・阿野全成の妻である「阿波局」とは同名異人であるので注意されたい。

「梵僊」鎌倉末に元から渡来し、南北朝期の日本で亡くなった臨済僧竺仙梵僊(じくせんぼんせん 一二九二年~貞和四/正平三(一三四八)年)。古林清茂(くりんせいむ)の法嗣。一三二九年(元徳元年:南宋の淳祐六年)六月、九州豊後の守護大名大友貞宗の要請を受けて明極楚俊(みんきそしゅん)に従って日本へ来た。一三三〇年(元徳二年)、鎌倉に下り、足利尊氏・直義兄弟の帰依を受けた。後、浄妙寺・浄智寺を経、京の南禅寺・建長寺の住持となった。学識は一山一寧の次位とされ、各寺に於いて多くの弟子を養成した。公武からともに帰依を受け、五山文学発展の基礎を築いた人物であった。淨智寺に戻って、寺内に彼が建てた塔頭楞伽(りょうが)院にて示寂。彼が従った楚俊も建武三(一三三六)年、建仁寺の方丈で示寂している。

「仁治三年」一二四三年。

「寛元々年」一二四三年。「周闋御佛事」は「周闋(しゆうけつ)の御佛事」で一周忌のこと。引用の終りの部分は「此の供(ぐ)は、幽儀御在生の時、殊(こと)に信心を抽(ぬき)んずと云々。」と読み、「この供養は故人が存命中、殊に熱心に信心しておられた故に執り行われたものであるとのことである。」の意。

「蘭溪」蘭渓道隆(らんけいどうりゅう 一二一三年~弘安元(一二七八)年)は南宋から渡来した禅僧。建長寺にて示寂した。無明慧性(むみょうえしょう)の法嗣。寛元四(一二四六)年三十三歳の時、渡宋した泉涌(せんにゅう)寺の月翁智鏡(がっとうちきょう)の縁によって弟子とともに来日、筑前円覚寺や京の泉涌寺来迎院を経、鎌倉の寿福寺などに寓居、宋風の本格的臨済宗を広めた。この辺りのシークエンスも含めて「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注、及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「台家」「だいけ」。天台宗。

「宰府」大宰府。

「乃入都城寓泉涌寺之來迎院、又杖錫相陽」書き下すと、「乃(すなは)ち、都城に入りて泉涌寺の來迎院に寓(ぐう)し、又、相陽(=鎌倉)に錫杖(しやくじやう:赴くこと)す」。

「時了心踞龜谷山、隆掛錫於席下、副元帥平時賴、聞隆之來化、延居常樂寺」「時に了心、龜谷山(きこくさん:寿福寺の山号)に踞(きよ)す(住持として勤めていた)。隆、錫を席下に掛く」。「了心」は仁治(にんじ)年間(一二四〇年~一二四四年)前後の臨済僧大歇了心(だいかつりょうしん)のこと。退耕行勇の法嗣で渡宋の後に帰国、寿福寺や建仁寺の住持を勤めた。禅僧の衣服・礼典等を整備したとされる。

「來化」「らいげ」。仏法を広めるために大陸から来ること。概ね生きて国に戻れぬ覚悟であったから(帰った僧も兀庵普寧(ごったんふねい 一一九七年~一二七六年:蘭渓道隆らの招きにより文応元(一二六〇)年に来日、時頼の招聘を受けて建長寺第二世となったが、弘長三(一二六三)年に強力な帰依者であった北条時頼が亡くなると支持者を失い、文永二(一二六五)年に帰国。元のスパイと疑われたことや、彼が日本語を殆んど学ぼうとせず、多くの御家人と意志疎通がなかったことにもよると思われる)のようにいるが)、事実上の「帰化」とも同義的と言えば言える。

「延居常樂寺」「延(ひ)きて常樂寺に居(を)らしめ」。「延きて」は「進んで・積極的に・招聘して」の意。

「命駕問道」「駕を命じて道を問ふ」。「駕」は貴人の乗り物。自ら寿福寺に車を向かわせて親しく問答したことを指す。

「按ずるに【鎌倉志】に、元は台家なりしが、隆入院の後、禪家に改む、故に隆を開山と稱する由記したれど」「新編鎌倉志卷之三」にの常楽寺の項に(リンク先は私の電子テクスト注)、「按ずるに、【元亨釋書】に、副元帥平時賴、隆蘭溪(りうらんけい)が來化を聞、延(ひ)いて常樂寺に居(を)らしむと有。此の寺(てら)元(もと)は天台宗なりしが、蘭溪入院以後、禪宗になりたりと云傳ふ。故に梵仙の榜には開山蘭溪とあり」とある。この以下の本「相模國風土記稿」の考証割注は非常に優れたものであって、近代の鎌倉史研究に於ける常楽寺成立史を先取りするものと私は思う。現在、常楽寺は嘉禎三(一二三七)年の創建で開基を北条泰時、開山を栄西の高弟退耕行勇とする。これは、道隆が建長寺に移って以降、現在に至るまで、臨済宗建長寺派に老いては建長寺開山の道隆が最初に落ち着いた名跡であることから「常樂は建長の根本なり」と重視され続けてきていることによる誤認である。

「榜文」「はうぶん(ほうぶん)」「ひやうぶん(ひょうぶん)」或いは「ばうぶん(ぼうぶん)」と読み、告示文・触れ書きのこと。ここは以下に示される「定規」(ていき:文章化された規則・具体的規律)を指す。

「志に云所は」「(新編鎌倉)志に云ふところは」。

「訛」音で「クワ(カ)」と読んでおく。本来の話や考えなどの内容が、何時の間にか変わって、それが誤って慣用化されて流布されてしまうことを指す。

「福山」彼が常楽寺から移って開山となった巨「福山」(こふくさん)建長寺のこと。

「寶治二年」一二四八年。前年、宝治合戦で三浦氏が滅び、北条得宗による占有支配が確立した。

「及て」「およびて」。

「建長四年時賴建長寺を創する」一二五二年。「吾妻鏡」では建長三(一二五一)年から造営が開始さられ、建長五(一二五三)年に落慶供養が行われたとある。現在、公式には建長五年を創建としている。これは本格的な最終工期に入ったものと読めばおかしくはない。だからこそ「後、隆、福山に入」りて「開山祖となる」と続くと読めるからである。

「忌辰」「きしん」忌日に同じい。

「値り」「あたり」。

「近來無住にして福山の塔頭龍峯庵兼管せり」江戸後期の寂れようが伝わってくる。]

【寺寶】

△定規二篇〔共に梓に鏤ばむ、〕一は道隆の書たり〔曰、光陰有限六七十歳、便在目前、苟過一生、灼然難得復本、既挂佛衣之後、入此門來、莫分彼此之居、各々當行斯道、儻以粟船上殿、爲名、晝夜恣情於戲、非但與俗無特、亦乃於汝何益、今後本寺主者、既爲衆僧之首、當依建長矩式而行、畫則誦經之外、可還僧房中客前坐禪初後夜之時、以香爲定式、領衆坐禪、二更三點可擊鼓房主歸衆方休息、四更一點、依復坐禪、至閑靜時方人寮、夜中不可高聲談論、粥飯二時、並須齊赴、不可先後、今立此爲定規、不可故犯、若有恣意不從之者、申其名來、可與重罰住山道隆華押〕

[やぶちゃん注:以上に限らず、以下での引用も、一部に脱落或いは誤判読又は誤植がかなり見られるが、それを訂正注すると厖大でしかも非常に読み難くなるので、誤りは誤りのママに電子化した必ず私の「新編鎌倉志卷之三」に載るそれらと対比されたい(ここ以下に引用されているものは概ね同書にも書かれてある)リンク先では私の訓読文と注も加えてあるので是非、参照されたい。

「梓に鏤ばむ」「あずさにちりばむ」。版木に刻む。「出版・上梓する」の意。昔、中国では梓(シソ目ノウゼンカズラ科キササゲ属キササゲ Catalpa ovata。但し、別な樹種を指すとする異説も多い)の木を版木に用いたところに由来する。]

一は梵僊の筆なり〔曰、常樂寺乃建長之根本也、開山板榜、切々訓誨、明如日月誠不可忽、今以晩來之者、似不知之、於輪番僧衆、多遊它所、今評定宜時々撿點、或住持自去、或臨時委人、若乃點而不到之者、卽時出院、各宜知悉、評定衆、前堂・柏西堂・都管・信都寺・興維那・習藏主・方首座・安首座・桂首座・用都聞・衣鉢胃淸、貞和丁亥三月二日 住山梵僊、華押、按ずるに、梵僊字笠仙、自號來々禪子、元の明州の人、元德二年二月、鎌倉に來り建長に寓す、后淨智・南禪・眞如の三寺に歷住、貞和三年建長に住して、二十九世の僧となる、后又淨智に再住し、同四月十六日寂す、〕

[やぶちゃん注:「貞和丁亥」「ぢやうわひのとゐ(じょうわひのとい)」は貞和三/正平二(一三四七)年。

「元德二年」一三三〇年。

「后」盛んに出るが、「のち」。「後に」の意。]

△硯一面〔佛光禪師牛澤の物なり、其圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「佛光禪師」無学祖元(嘉禄二(一二二六)年~弘安九(一二八六)年)。明州慶元府(現在の浙江省寧波市)生まれの臨済僧。建長寺にて示寂。建長寺及び円覚寺に兼住、本邦の臨済宗に大きな影響を与えた。

「牛澤」意味不詳。識者の御教授を乞う。

 

Jyourakusuzuri

 

[やぶちゃん注:右のキャプション(活字化)「直經九寸三分」は約二十八センチメートル。以下、画像は視認底本としている国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして加工したものである。]

 

△佛殿 祈禱の額を掲ぐ、本尊三尊彌陀を安ず、傍に泰時の牌〔牌面に、過去觀阿靈の五字見ゆ、餘は磨滅して讀むべからず〕及其室〔牌面に、歿故淨覺靈位の字見ゆ、鬼簿に、淨覺禪定尼と記し、卒年を載せず、〕其女の牌〔歿故戒妙大姉靈位とあり、〕を置、殿前に銀杏の老樹あり〔圍一丈七八尺〕

[やぶちゃん注:「過去觀阿靈」北条泰時の法名は「觀阿」で、「新編鎌倉志卷之三」に「位牌に、過去觀阿禪門とあり」と記す。

「其室」不詳。泰時の継室であった安保実員(あぼ/あぶさねかず 生没年未詳)の娘か?

「其女」不詳。

「圍」「めぐり」。

「一丈七八尺」五・一五~五・四五メートル。蘭渓道隆お手植えの公孫樹とされる木が現存はする。]

△客殿 釋迦〔座像長一尺八寸、日蓮植髮の像と云ふ、〕地藏〔中古建長寺門前の堂より移せりと云〕を置、圓鑑の額を扁す〔佛光禪師の筆、左に縮寫す、〕

[やぶちゃん注:「釋迦」木造釈迦如来坐像。南北朝時代の作。

「一尺八寸」五十四・五四センチメートル。

「日蓮植髮の像」私はそのような伝承は知らない。]

 

Ennkan

 

[やぶちゃん注:右側に扁額の縦の長さ「八寸八分一厘」(二十六・九六センチメートル)、上部に「一尺六寸五分八厘」(六十六・〇五センチメートル)と手書きである。]

 

△鐘樓 寶治二年三月の鑄鐘を懸く、序文に據ば北條時賴祖父泰時追善の爲に、左馬允藤原行家に命じ、撰せしむる所なり〔其序銘曰、鎌縣北偏、幕府後面、有一仁祠、蓋家君禪閤、墳墓之道場也、境隔囂喧、足催坐禪之空觀、寺號常樂、自擬安養之淨刹、弟子、追慕難休、夙夜于苔壠之月、遺恩欲報、欣求於華界之雲、便鑄鳧吼之鐘、聊添鴈堂之飾、於是狂風韻遠、可以驚長夜之夢、輕霜響和、可以傳三會之曉、當時若不記錄者、後代誰得相識哉、仍課刀筆、以刻銘文、寶治二年戊申三月廿一日、左馬允藤原行家法師、法名生蓮作辭曰、偉哉斯器造化自然、陰陽炭調、山谷銅甄、鳧氏功舊、蒲牢名傳、入秋今報、應律今懸、響和靑女、聲驚金仙、動三千界、振九五天、於是先主、早告歸泉、爾來弟子、屢溺淚淵、深恩如海、淺報似涓、夙夜之志、旦夕未悛、桑門閑鎖、房墳墓邊、花鐘新鑄、安道場前、揚九乳韻、祈七覺緣、開曉獲益、長夜罷眠、下自八大、上至四禪、以此善種、萌彼福田、〕

[やぶちゃん注:以上も「新編鎌倉志卷之三」に載るそれと対比されたいリンク先では私の訓読文と注も加えてある

「鳧吼之鐘」例外的に注するが、「鳧乳」(ふにゅう)の誤り。「鳧乳之鐘」は梵鐘のこと。中国古代の音楽をつかさどる鳧氏(ふし)が最初に作ったとされることからで、「乳」は「九乳」で梵鐘に特徴的な上部にある九つの出っ張り部分を言う

「寶治二年」一二四八年。既注。

「據ば」「よれば」。]

△文殊堂 本尊の左右に不動・昆沙門を安ず〔【鎌倉志】に據れば、始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ。〕永祿十年五月住持九成の時甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕長俊・同正直等信施して文殊の像を修飾し、其事を木牌に記して胎中に收む〔曰、文殊御影色、御檀那被成候間奉拜事、永祿十丁卯年五月十八日、平正直、平長俊、各華押、相模國東郡粟船山常樂寺、住持比丘九成叟、沙門僧菊拜書と記す、按ずるに、長俊は舊家小三郎の祖なり、〕、秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり、左に縮寫す、

[やぶちゃん注:この「文殊堂」について、「鎌倉市史 社寺編」では、諸本は『明治初年英勝寺から移建したものであると』するが、『古老は山上からひいて来たといっている』とあり、本書でかく記す以上、明治の移築というのはおかしい。

「始め道隆文殊の像のみ携へ來たり、此土にして全體を造り添へたるとなりとぞ」脱落があって意味が通じない。「新編鎌倉志卷之三」の当該条を読んで戴くと判るが、「文殊は、首ばかり、蘭溪宋より持來り、體は本朝にて蘭溪作り續(つ)ぎたるとなり」なのである。

「永祿十年」一五六七年。室町幕府第十四代将軍足利義栄(よしひで)の治世というか、既に戦国時代。

「住持九成」「僧菊」住持の名。

「甘糟太郎左衞門〔後佐渡守と稱す。〕」「鎌倉市史 社寺編」の「常楽寺」によれば、『口碑によれば上杉氏の臣、後に北条氏に属し』たとする、『この地方の豪族で、江戸時代には名主であった』とある。地元の「のり」氏のサイト内の「大船町内会管内の史跡めぐり」の「甘糟屋敷」を参照されたい。先の「大船村」の「熊野社」に出、後の「○舊家小三郎」にも記される。

「信施」「しんせ」。布施に同じい。

「秋虹殿の額を扁す、蘭溪の筆なり」「鎌倉市史 社寺編」は蘭渓筆は『疑わしい』とする。]

 

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△辨天社 客殿の後背に池あり〔色天無熱池と呼ぶ〕、其中島に勸請す、是江島辨天社に安ずる十五童子の一、乙護童子を祀れりと傳ふ〔其本體は建長寺に安じ、爰には其模像を置くと云、〕蘭溪江島に參寵の時、感得せしものなりとぞ〔建長寺西來庵永正十二年の勸進狀に、大覺禪師下向關東、江島一百日參籠、辨財天所感天童一人付與禪師也、居粟船常樂寺云々、故に江島には童子一體を缺と云傳ふ、〕相殿に志水荒神〔木曾冠者義高の靈を祀ると云、〕姫宮明神〔泰時の女を祀れりと云〕稻荷・天神等を祀れり、

[やぶちゃん注:「乙護童子」「おとごどうじ」。仏法を守るために姿を現す、童子の姿をした鬼神。乙護法(おとごほう)とも呼ぶ。

「永正十二年」一五一五年。]

△天神社

△北條武藏守泰時墓 客殿の背後山上にあり、【東鑑】建長六年六月北條時賴祖父泰時十三回の忌辰に値り、眞言供養を修せし條に、靑船御塔と見えしは是なり〔六月十五日、迎前武州禪室十三年忌景被供養彼墳墓靑船御塔、導師信濃僧正道禪、眞言供養也、請僧之中、中納言律師定圓、備中已講經幸、藏人阿闍梨長信等在之、爲此御追善御八講、自京都態所被招請也、相州御聽聞、〕按ずるに泰時は義時の長子なり、小字は金剛江間太郎或は相模太郎と稱す、建曆元年九月八日修理亮に任じ、建保四年三月廿八日式部少丞に迂り讃岐守を兼、固辭して州任に就かず、承久元年正月廿二日駿河守に任ず、十一月十三日武藏守に轉じ、三年洛に上り六波羅探題北方に居る、元仁元年六月鎌倉に歸り、廿八日、父に代りて執権の職を奉る。嘉禎二年十二月十八日、左京権大夫を兼、曆仁元年四月六日武藏守を辭し、九月廿五日、左京兆を辭す、仁治三年五月十五日薙髮して觀阿と號す、六月十五日卒。年六十、常樂寺と號す〔碑圖左の如し〕

[やぶちゃん注:「建長六年」一二五四年。以下、「吾妻鏡」の書き下し文を示す(省略があるが、ここで示されたものを読み下す)。

   *

六月十五日。前武州禪室の十三年忌景(きけい)[やぶちゃん注:回忌。]を迎へ、彼の墳墓靑船(あをふね)の御塔(ごたう)を供養せらる。導師は信濃僧正道禪。眞言供養なり。請僧(しゆあそう)の中(うち)に、中納言律師定圓(ぢやうゑん)[やぶちゃん注:当時、歌人として知られた葉室光俊(はむろみつとし 建仁三(一二〇三)年~建治二(一二七六)年)の子。]・備中已講(いこう)經幸(きやうこう)・藏人(くらうど)阿闍梨長信(ちやうしん)等、之れ、在り。此の御追福(ごついぶく)御八講(ごはちこう)の爲、京都より態(わざ)と招請せらるる所なり。相州[やぶちゃん注:北条時頼。]、御聽聞。

   *

「小字」「こあざな」。幼名。

「建曆元年」一二一一年。

「建保四年」一二一六年。

「州任」国守号のことか。

「承久元年」一二一九年。

「三年洛に上り六波羅探題北方と居る」)承久の乱の直後の承久三(一二二一)年六月十六日に泰時は六波羅探題北方に就任している。

「元仁元年」一二二四年。「六月」は改元前なので貞応三年が正確。

「嘉禎二年」一二三六年。

「曆仁元年」一二三八年。正確には嘉禎四年が正しい(暦仁元年改元は嘉禎四年十一月二十三日)。

「仁治三年」一二四二年。]

 

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[やぶちゃん注:図の右上に「高四尺五寸」(約一メートル三十五センチメートル)のキャプション(活字化)がある。]

 

△姫宮塚 佛殿後の山上にあり、老松二株あり〔圍一丈五尺〕、泰時が女の墳なりと云〔元は祠堂ありしが、頽廢して、神體は今辨天社に合祀す、西來庵永正勸進狀に大覺禪師居常樂寺、平泰時息女歸依佛法、號戒妙大姉、抽戒枝結常樂果と見ゆ、北條系譜を閲するに泰時三女を生む、長は足利義氏の室字、次は三浦若狹前司泰村、次は武藏守朝直に嫁す、此三女の内なるや、慥かなる所見なし〕

[やぶちゃん注:「一丈五尺」約四メートル五十四センチメートル。]

△木曾冠者義高塚 姫宮塚の山腹にあり、小塚の上に碑を建【高三尺許】古塚は小名木曾免の田間にあり〔當寺の坤方、二町餘を隔、〕延寶八年二月廿一日村民〔石井氏、〕塚を穿ち靑磁の瓶を得たり、瓶中に枯骨泥に交りてあり、由て爰に塚を築き收藏せしと云〔舊地にも、今尚古塚あり、〕按ずるに義高は〔系圖義基に作る、今【東鑑】に從ふ、〕木木曾義仲の長子なり、壽永元年鎌倉に質たり、賴朝女を以て是に妻す、元曆元年義仲江州にて討れし時、賴朝後患を慮り誅戮せんことを謀る、義高伺ひ知て密に遁れ四月廿六日武州入間河原にて追手の兵、堀藤次親家が郎等藤内光澄に討る〔【東鑑】曰、元曆元年四月廿一日、自去夜殿中聊物忩、是志水冠者、雖爲武衛御聟、亡父已蒙勅勘被戮之間、爲其子其意趣尤依難度、可被誅之由、内々思食立、被仰含此趣於昵近壯士等、女房等伺聞此事、密々告申姫公御方、仍志水冠者𢌞計略、今曉遁去給、此間假女房之姿、姫君御方女房圍之出、而海野小太郎幸氏者、與志水同年也、日夜在座右片時無立志、仍今相替之、入彼帳臥、宿夜之下出髻云々。日闌後。出于志水之常居所、不改日來形勢、獨打雙六、志水好雙六之勝負、朝暮翫之、幸氏必爲其合手、然間至于殿中男女、只成于今、令坐給思之處、及曉綺露顯、武衛太忿怒給、則被召禁幸氏、又分遣堀藤次親家以下軍兵於方々道路被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給、廿六日甲午。堀藤次親家郎從、藤内光澄歸參、於入間河原、誅志水冠者之由申之、此事雖爲密議、姫公已令漏聞之給、愁歎之餘、令斷漿水給、可謂理運、御臺所又依察彼御心中、御哀傷殊太、然間殿中男女多以含歎色云々、〕光澄首を携へ歸り實檢の後當村に葬りしなるべし、

[やぶちゃん注:ここは「吾妻鏡」も完全に引いて訓読も附した、私の北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎をご覧あれ。私はこの二人が哀れでたまらぬ。

「木曾冠者義高」(承安三(一一七三)年?~元暦元年四月二十六日(一一八四年六月六日)。木曾義仲嫡男。

「古塚は小名木曾免の田間にあり」後掲される。

「坤方」「ひつじさるがた」。南西。

「二町」二百十八メートル。

「延寶八年二月」グレゴリオ暦一六八〇年。徳川家綱の治世であるが、この年の五月に彼は死去し、綱吉が江戸幕府第五代将軍となっている。

「石井氏」大船・玉繩地区の地の者に多い姓である。

「壽永元年」一一八二年。

「質」「じち」。人質。

「賴朝女」悲劇の長女大姫(おおひめ 治承二(一一七八)年~建久八(一一九七)年)。寿永二(一一八三)年の春、頼朝と対立していた義仲は当時十歳(推定)の源義高を人質として鎌倉に送り、当時六歳の大姫の婿とすることで頼朝と和議を結んだ(義高と大姫は又従兄妹に当たる)。

「元曆元年」一一八四年。

「入間河原」「いるまがはら」。現在の狭山市入間川付近。

「堀藤次親家」「ほりのとうじちかいへ」。

「藤内光澄」「とうないみつずみ」。]

△大應國師墓 地後山麓にあり、五輪塔を立、師は延慶二年建長寺にて寂す、當寺は茶毘の舊跡なるが故に塔を建となり〔【高僧傳】を按ずるに國師名は紹明南浦と號す、駿州の人、正元年間入唐し、文永四年東歸す、七年、筑州興德寺に住持し、繼て大宰府の常樂寺洛の萬壽寺に轉住し、東山嘉元禪院の開祖となり、德治二年、建長寺に住し、十三世の職を董し、延慶二年十二月廿九日寂す、舍利を獲る無數、勅して圓通大應國師と諡す、弟子建長、崇福にあるもの、各舍利を奉じて塔を建建長の塔中、天源庵と云、今に支院たり、崇福の塔を瑞雲と云、〕

[やぶちゃん注:「大應國師」臨済僧で建長寺住持であった南浦紹明(なんぽしょうみょう/なんぽじょうみん 嘉禎元(一二三五)年~延慶元(一三〇九)年)。出自は不詳乍ら、駿河国安倍郡の出身。勅諡号が「円通大應國師」。ウィキの「南浦紹明によれば、『幼くして故郷駿河国の建穂寺に学び』、建長元(一二四九)年、『建長寺の蘭渓道隆に参禅した』。正元元(一二五九)年に『宋に渡って、虚堂智愚の法を継いだ』。文永四(一二六七)年、日本に帰国して建長寺に戻り(この時点では南溪道隆は未だ存命であった)、その後は文永七年に筑前国の興徳寺、文永九年には博多の崇福寺の住持を勤めた。嘉元二(一三〇四)年に『後宇多上皇の招きにより上洛し』、現在の京都市東山区にある東福寺塔頭の『万寿寺に入』った。徳治二(一三〇七)年になって鎌倉に戻って『建長寺の住持となったが』、その二年後、七十五歳で示寂した。没した翌年、『後宇多上皇から「円通大応」の国師号が贈られたが、これは日本における禅僧に対する国師号の最初である。南浦紹明(大応国師)から宗峰妙超(大灯国師)』(しゅうほうみょうちょう 弘安五(一二八二)年~延元二/建武四(一三三八)年)は、鎌倉時代末期の臨済宗の『を経て関山慧玄』(かんざんえげん 建治三(一二七七)年~正平一五/延文五(一三六一)年)と『へ続く法系を「応灯関」といい、現在、日本臨済宗は』皆、『この法系に属する』とある。]

△門 粟船山の額を掲ぐ、黃檗僧木庵の筆なり、

[やぶちゃん注:「黃檗僧木庵」江戸前期に明から渡来した黄檗(おうばく)宗(曹洞宗・臨済宗と並ぶ日本三禅宗の一つ。本山は現在の京都府宇治市にある黄檗山万福寺。承応三(一六五四)年に明から渡来した僧隠元隆琦(いんげんりゅうき 一五九二年~寛文一三(一六七三)年によって齎された。宗風は臨済宗とほぼ同じであるが、明代の仏教的風習が加味されている。明治七(一八七四)年に一旦、臨済宗と合併したが、二年後に独立、今も一宗派となっている)の僧木庵性瑫(もくあんしょうとう 一六一一年~貞享元(一六八四)年)。寛文元(一六六一)年に山城国宇治の黄檗山萬福寺に入り、寛文四年、かの隠元の法席を継いだ。翌年には江戸に下り、第四代将軍徳川家綱に謁見して優遇され、江戸の紫雲山瑞聖寺を初めとして十余ヶ寺を開創、門下も五十余人に及び、寛文九年には将軍から紫衣を賜っている。延宝八(一六八〇)年二月、黄檗山の第三代法席を、やはり明から渡来した僧慧林性機(えりんしょうき 一六〇九年~天和元(一六八一)年)に譲って山内の紫雲院に隠退、そこで亡くなった(以上はウィキの「木庵性瑫に拠った)。]

 

小泉八雲 神國日本 戶川明三譯 附やぶちゃん注(24) 禮拜と淨めの式(Ⅱ)

 

 朝の禮拜の務は、その内に書牌(お札)の前に供物を置く事も入つて居るのであるが、それは一家の祭祀の唯一の務ではない。神道の家に於ては、祖先と高い神々とが、別々に禮拜されるのであるが、祖先の神壇はロオマの Lararium(家族の神)と似て居るらしい、一方その大麻、御幣(特に家族の崇敬する高い神々の象徴てある)のある神棚はラテンの慣習に依つて Penates(家の爐邊の神)の禮拜に與へられた場所と比べられ得る。この兩種の神道の祭祀には、その特殊の祭日がありへ祖先祭祀の場合には、祭日は宗敎上の集合の時であり――一族の親戚が、家の祭拜を爲すために集まる時である……。神道家はまた氏神の祭りをあげ、國家の祭記に關する九種の國家の大祭を祝するに、少くともその助力をしなければならない、國家の大祭は十一種あるが、その內この九種は皇室の祖先を禮拜する機會なのてある。

[やぶちゃん注:「Lararium(家族の神)」「ララリウム」は古代ローマで信じられた守護神的な神々ラレース(LasesLares:単数形:Lar(ラール))を祭祀した壇。古代ローマ人の各家の中や街角に、壁を掘ったごくつつましい空間に素朴な絵で彩りを施して作られた小さな祭壇。家庭・道路・海路・境界・豊饒・無名の英雄の祖先などの守護神とされていた。共和政ローマの末期まで二体の小さな彫像という形で祭られるのが一般的であった(ウィキの「レースに拠った。家庭内祭祀の細かな解説もリンク先にある)。

「大麻」「たいま」。「幣(ぬさ)」を敬っていう語。「おほぬさ(おおぬさ)」と訓じてもよい。

Penates(家の爐邊の神)」「ペナーテース」はローマ神話に登場する神で、元々は「納戸の守護神」であったが、後に「世帯全体を守る家庭神」となった。先のラレースや、ゲニウス(geniusi:擬人化された精霊で、守護霊或いは善霊と捉えられた)レムレース(lemures:騒々しく有害な死者の霊或いは影を意味し、騒がしたり怖がらせたりするという意味で悪霊 larva:ラルヴァ)に近いとされる)と関係が深い。ローマの各氏族の権勢とも関連付けられており、「祖先の霊」とされることもある。古代ローマの各家庭の入口には女神ウェスタ(Vesta:女神でもとは「竃の神」であったものが転じて家庭の守護神となった)の小さな祠があったが、この祠の中にはこのペナーテースの小さな像が安置されていた(以上はウィキの「ペナーテースと、そのリンク先の記載に拠った)。

「國家の祭記に關する九種の國家の大祭を祝するに、少くともその助力をしなければならない、國家の大祭は十一種あるが、その内この九種は皇室の祖先を禮拜する機會なのてある」よく分らないが、ウィキの「「皇室祭祀」の天皇自ら親祭する大祭日(だいさいじつ)の古式(それでも明治以降)のものを数えてみると、①元始祭(天皇が宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)に於いて皇位の元始を祝ぐ儀式)・②紀元節祭(「日本書紀」で初代天皇とする神武天皇の即位日)・③神武天皇祭・④神嘗祭・⑤新嘗祭・⑥春季皇霊祭/春季神殿祭・⑦秋季皇霊祭/秋季神殿祭(「皇霊祭」は歴代天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式)・⑧先帝祭(先帝の崩御日)・⑨先帝以前三代の式年祭・⑩先后の式年祭・⑪皇妣(こうひ:崩御した皇太后)である皇后の式年祭で、十一が数えられ、この内、①から③及び⑥から⑪の九種の祭祀は、まさにその内容から「皇室の祖先を禮拜する」祭祀であると言える。もし、間違っていれば、御指摘あれ。] 

夢野久作 日記内詩歌集成(Ⅵ) 昭和五(一九三〇)年一月

 

 昭和五(一九三〇)年

 

 

 一月二日 木曜 

 

◇屍体の血はこんな色だと笑ひつゝ

  紅茶を匙でかきまはしてみせる

 

[やぶちゃん注:これは翌昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の一首、

 

屍體の血は

コンナ色だと笑ひつゝ

紅茶を

匙でかきまはしてみせる

 

の表記違いの相同歌である。]

 

 

 

 一月三日 金曜 

 

◇木枯らしや提灯一つわれ一人

 

 

 

 一月四日 土曜 

 

◇死刑囚が眼かくしされて微笑した。

  其の時黑い後光がさした。

 

[やぶちゃん注:同じく昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の一首、

 

死刑囚が

眼かくしをされて

微笑したその時

黑い後光がさした

 

の表記違いの相同歌。]

 

 

 

 一月四日 土曜 

 

雪よふれ、ストーブの内みつめつゝ

 昔の罪を思ふひとゝき

 

[やぶちゃん注:「獵奇歌」に類似したコンセプトのヤラセっぽいものは複数散見されるが、どうもこの一首は、私には不思議に素直に腑に落ちる。それらの〈ストーブ獵奇歌〉のプロトタイプとは言える。]

 

 

 

 一月七日 火曜 

 

◇闇の中に闇があり又暗がある。

  その核心に血しほしたゝる。

 

◇骸骨があれ野を獨りたどり行く

  ゆく手の雲に血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:「血しほしたゝる」は一時期の「獵奇歌」の常套的下句の一部であるが、このような内容のものは見当たらない。一首目は特に大真面目な観念的短歌ともとれなくもない。]

 

 

 

 一月八日 水曜 

 

◇投げ込んだ出刃と一所のあの寒さが

  殘つてゐるやうトブ溜めの底

 

[やぶちゃん注:やはり昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の一首、

 

投げこんだ出刃と一所に

あの寒さが殘つてゐよう

ドブ溜の底

 

の初期稿。]

 

 

 

 

 一月十日 金曜 

 

◇ストーブがトロトロとなる

  ズツト前の罪の思ひ出がトロトロと鳴る

 

[やぶちゃん注:二箇所の「トロトロ」の後半は底本では踊り字「〱」。六日の原形から派生した〈ストーブ獵奇歌〉の一首。やはり昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』に載せる「獵奇歌」の、

 

ストーブがトロトロと鳴る

忘れてゐた罪の思ひ出が

トロトロと鳴る

 

の初期稿であろう。]

 

 

 

 一月十一日 土曜 

 

◇黑く大きくなる吾が手を見れば

  美しく眞白き首摑みしめ度し

 

 

 

 一月十三日 月曜 

 

◇赤い日に爍烟を吐かせ

  靑い月に血をしたゝらせ狂畫家笑ふ

 

[やぶちゃん注:「爍烟」音なら「シヤクエン(シャクエン)」で、意味は光り耀く煙り或いは高温で眩しく発火している烟りのことか。孰れにせよ、音数律の破格が多過ぎ、韻律が頗る悪い。]

 

 

 

 一月十五日 水曜 

 

◇自殺しやうかどうしやうかと思ひつゝ

  タツタ一人で玉を突いてゐる

 

[やぶちゃん注:この三ヶ月後の昭和五(一九三〇)年四月号『獵奇』の「獵奇歌」の、

 

自殺しようか

どうしようかと思ひつゝ

タツタ一人で玉を撞いてゐる

 

の表記違いの相同歌。]

 

 

 一月十六日 木曜 

 

◇洋皿のカナリヤの繪が眞二つに

  割れし口より血しほしたゝる

◇人間が皆良心を無くしつゝ

  夜の明けるまで玉を撞いてある

 

[やぶちゃん注:一首目は昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る一首、

 

洋皿のカナリアの繪が

眞二つに

割れたとこから

血しほしたゝる

 

の初稿。後者は前日のそれと同工異曲で同様のステロタイプが散見される〈陳腐獵奇歌〉の一つ。]

 

 

 

 一月十八日 土曜 

 

◇すれちがふ白い女がふりかへり

  笑ふ唇より血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:やはり昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る一首、

 

すれ違つた白い女が

ふり返つて笑ふ口から

血しほしたゝる

 

の初期稿らしい。]

 

 

 

 一月二十一日 火曜 

 

◇眞夜中の三時の文字を長針が

  通り過ぎつゝ血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:やはり昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』に載る一首、

 

眞夜中の

三時の文字を

長針が通り過ぎつゝ

血しほしたゝる

の表記違いの相同歌。]

 

 

 

 一月二十三日 木曜 

 

◇子供等が相手の瞳に吾が顏を

  うつして遊ぶそのおびえ心

 

◇老人が寫眞にうつれば死ぬといふ

  寫眞機のやうに瞳をすゑて

 

[やぶちゃん注:この二首、なかなかいい。特に後者はその情景の浮かぶ、リアルな一首ではないか。この一首、久作はかなり思いがあったものか、六日後の一月二十九日(水曜)の日記にも全く相同のものを書き込んでいる(この日は日記本文に「獵奇歌」の歌稿を書き直していることが記されてある。但し、この二首は孰れも「獵奇歌」にはとられていない)。こういうことは彼の今までの日記には見られない特異点である。単なる書き込んだことを忘れていたということは私には考えにくいのである。]

 

 

 

 一月三十日 木曜 

 

◇夕暮れは人の瞳の並ぶごとし

  病院の窓の向ふの軒先

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』の「獵奇歌」の一首、

 

夕ぐれは

人の瞳の並ぶごとし

病院の窓の

向うの軒先

 

の表記違いの相同歌。]

 

 

 

 一月三十一日 金曜 

 

◇眞夜中の枕元の壁撫でまはし

  夢だとわかり又ソツと寢る

 

[やぶちゃん注:昭和六(一九三一)年三月号『獵奇』の「獵奇歌」の、

 

眞夜中に

枕元の壁を撫でまはし

夢だとわかり

又ソツと寢る

 

相似歌。]

 

◇雪の底から抱え出された佛樣が

  風にあたると眼をすこしあけた

 

[やぶちゃん注:同前、

 

雪の底から抱へ出された

佛樣が

風にあたると

眼をすこし開けた

 

表記違いの相同歌。]

 

◇煙突がドンドン煙を吐き出した

  あんまり空が淸淨なので

 

[やぶちゃん注:「ドンドン」の後半は底本では踊り字「〱」。同前の「獵奇歌」中の一首、

 

煙突が

ドンドン煙を吐き出した

あんまり空が淸淨なので……

 

の相似歌(リーダ追加と分かち書きに変更)。]

 

◇二日醉の頭の痛さに圖書館の

  美人の裸像を觸つてかへる

 

◇病人はイヨイヨ駄目と聞いたので

  枕元の花の水をかへてやる

 

[やぶちゃん注:「イヨイヨ」の後半は底本では踊り字「〱」。同前、

 

病人は

イヨイヨ駄目と聞いたので

枕元の花の

水をかへてやる

 

の表記違いの相同歌。]

 

◇水藥を花瓶に棄てゝあざみ笑ふ

  肺病の口から血しほしたゝる

 

[やぶちゃん注:昭和五(一九三〇)年五月号『獵奇』の一首、

 

水藥を

花瓶に棄てゝアザミ笑ふ

肺病の口から

血しほしたゝる

 

の表記違いの相同歌。決定稿の「アザミ」は花のアザミを連想させてしまうので読みの躓きを起こすが、或いはあの花をそこに恣意的にモンタージュさせる久作の確信犯かも知れぬ。]

 

◇毒藥は香なし色なく味もなし

  たとへば君の笑まぬ唇

 

◇馬鹿野郎馬鹿野郎又馬鹿野郎と

  海にどなつて死なずにかへる

 

[やぶちゃん注:「馬鹿野郎馬鹿野郎」の後半は底本では踊り字「〱」。]

 

◇探偵が室を見まはしてニツト笑ふ

  その時たれかスヰツチを切る

 

◇精蟲の中に人間が居るといふ

  その人間が笑つてゐるといふ

 

2017/05/23

ジョナサン・スイフト原作 原民喜譯 「ガリヴァー旅行記」(やぶちゃん自筆原稿復元版) 飛ぶ島(ラピュタ)(2) 「變てこな人たち」(Ⅱ)

 

二章

 

 私が〔鎖の〕その島へ下りると、すぐ大勢の人人にとりかこま〔か〕れました。見ると、一番前に立つてゐるのが〔、〕どうも上流の人人のやうでした。彼等は私を眺めて、ひどく驚いてゐる樣子でしたが、私の方も、すつかり驚いてしまつたのです。なにしろ、その恰好も、服裝も、容貌(かほ)も、こんな奇妙な人間〔を私は私は〕まだ見たことがなかつたからです。

[やぶちゃん注:章見出しは現行版には存在せず、前の段落との間も空けられていない。

 彼等の頭はみんな、左か右か、どちらかへ傾いてゐます。眼は片方は内側へ〔向き〕、もう一方は眞上を向いてゐるのです。上衣の模樣は太陽、月、星などの模樣に、提琴、橫笛、竪琴、喇叭、六弦琴、そのほか、いろんな珍しい樂器の模樣を交ぜてゐます。ところ私はあ〕ちこちに〔それから、〕召使の服裝をした男〔たちは、〕短い棒の先に〔、〕膀胱をふくらませたものをつけて〔、〕持ちあるいてゐます。そんな男たちも〔、〕だいぶゐました。〔これはあとで知つたのですが〕この膀胱の中には〔、〕乾ゐた豆と礫〔、〕が少しばかり入つてゐます。

[やぶちゃん注:現行版では楽器の箇所にそれぞれに、『提琴(フィドル)。橫笛(フリュート)、竪琴(ハープ)、喇叭(トランペット)、六弦琴(ギター)』(拗音は推定)と振られてある

「提琴」(ていきん)はヴァイオリンのこと。「ヴァイオリン」はイタリア語派生で、現行版のルビ「フィドル」(fiddle)でこちらは英語。

「膀胱をふくらませたもの」多くの他の訳者でも和訳はそのまま「膀胱」であるが(確かに原典も“a blown bladder”としかないのだが)、豚の膀胱である。

「礫」現行版は「小石」。ここもこれで「こいし」と読んでおく。]

 ところで、彼等は〔、〕この膀胱で、傍に立つてゐる男の口や耳をたたきます。(私は〔まだ〕その時はこれはなんのことかさつぱりわからなかつたのですが、)〔これは〕この國の人間は〔、〕いつも何か深い考へごとに熱中してゐるので、〔何か〕外からつついてやらねば、物も言へないし、他人の話を聞くこともできない〔から〕です。そこで〔、〕お金持は、たたき役を一人、召使として傭つておき、外へ出るときには必ずつれて行きます。〔ですから〕召使の仕事といふのは〔、〕この膀胱で主人やお客の耳や口を靜かに〔、〕かはるがはる〔、〕たたくことなのです。〔また、〕このたたき役は主人につきが外出につきそつて步き、時時、その眼を輕くたたいてやります。といふのは〔、〕主人は考へごとに夢中になつてゐますから、どうかすると〔うつかりして〕崖から落つこちたり、溝に轉げ〔はま〕つたりしさう〔するか〕もしれないからです。

[やぶちゃん注:太字は現行では傍点「ヽ」。現行版では総てが「叩き」「叩く」などと漢字になっていて、傍点は存在しない。]

 ところで、私はこの國の人々に案内されて、階段を上り、島の上の宮〔殿〕へ〔連れて〕行かれました。〔たのですが、〕その時、私は〔、〕みんなが何をしてゐるのか、さつぱりわかりませんでした。階段を上つて行く途中でも〔、〕彼等はぽかんと〔考へごとに熱中し、〕〔ぼんやり〕してしまふのです。その度に〔、〕たたき役が〔、〕彼等をつついて〔、〕氣をはつきりさせ〔てやり〕ました。

 私たちは宮殿に入つて、謁見〔國王〕の間に通されました。見ると國王陛下の左右には〔、〕高位の人たちがずらりと並んでゐます。王の前にはテーブルが一つあつて、その上には〔、〕地球儀や〔、〕その他〔、〕種々さ樣々の数學の器械が一杯並べてあります。なにしろ〔、〕今〔、〕〔私たち〕大勢の人がどかどか〔と〕入つ〔〕たので〔、〕騷がしかつたはずですが、陛下は〔、〕一向〔、〕私たち〔が來たこと〕に氣がつかれません。陛下は〔今、〕ある問題を一心に考へてをられる最中なのでした〔す〕。私たちは〔、〕陛下がその問題をお解きになるまで〔、〕〔一時間ぐらゐ〕待つてゐなければなりません。〔ました。〕陛下の兩側には、たたき棒を持つた侍童が〔、〕一人づつついてゐます。陛下の考へごとが終ると、一人は〔、〕口もとを〔、〕一人は〔、〕右の耳を、それぞれ〔、〕輕く叩きました。

[やぶちゃん注:現行版では「陛下の兩側には、たたき棒を持つた侍童が、一人ずつついています。陛下の考えごとが終ると、一人は口許を、一人は右の耳を、それぞれ軽く叩きました。」と整序された部分が、改行されて独立段落を形成している。]

 すると〔、〕陛下は〔、〕まるで急に目〔が〕覺めた人のやうに、ハツとなつて、私たちの方を振向かれました。それで〔、〕やつと〔、〕私の來たことを氣づかれたやうです。王が何か一言二言いはれたかと思ふと、たたき棒を持つた若者が〔、〕私の傍へやつて來て、靜かに私の耳をたたきはじめました。私は手眞似で、そんなものはいらないといふことを傳へてやりました。

 陛下は頻りに何か私に質問されてゐるらしいのでした。で、私の方もいろいんな國〔の言葉〕で答へてみました。けれども向の言ふこともわからなければ、こちらの言ふことも〔まるで〕通じません。

 それから〔、〕私は陛下の命令で〔、〕宮殿の一室に案内され、召使が二人私につきそひました。やがて〔、〕食事が運ばれてきました。〔すると〕〔そして〔、〕〕四人の貴族たちが〔、〕私と一緒に食事〔テー〕ブルに着きました。食事は三皿二度に運ばれました。正三角形に切つた羊の肉を、菱型食事中、私はいろんな品物を指して〔、〕何といふ名〔前〕なのか聞いてみました。すると貴族たちは、たたき役の助けをかりて、喜んで答へてくれました。私は間もなく、パンでも飮物でも、欲しいものは何でも云へるやうになりました。

 食事がすむと〔、〕貴族たちは歸りました。そして今度は、陛下の命令で來たといふ男が、たたき役をつれて入つて來ました。〔彼は〕ペン、インキ、紙、それに〔、〕三四册の書物を持つて來て、言葉を教へに來たのだと手眞似で云ひます。私たちは〔、〕四時間一緒に勉強しました。私はたくさんの言葉を縱に書き、それを並べて〔に〕譯を書いて行きました。短い文章も少し覺えました。

 それには先づ先生が召使の一人に、「何々を持つて來い」、「あつちを向け」、「お辭儀」、「坐れ」、「立て」といふふうに命令をします。すると私はその文章を書きつけるのでした。それから今度は書物〔本〕を開いて、日や月や星や、その他〔、〕いろんな平面図、立體図の名を教へてくれました。〔先生〕はまた〔、〕樂器の名前と説明を音樂の言葉を〔、〕いろいろ教へてくれました。こんな風にして二三日すると、私は大たい彼等の言〔葉〕がどんなもの〔である〕かわかつてきました〔たので〕す。〔こ〕この島〕は飛行島「ラピュタ」といつて、〔います。〕〔私はそれを〕飛ぶ島、浮島などと譯しておきました。

 

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姬(3) 產女(うぶめ)

 

 

 近年の國玉の橋姬が乳吞兒を抱いて來て、之を通行人に抱かせようとした話にも亦傳統がある。此類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んで居た。ウブメは普通には產女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓たどを夜分に外に出して置くと、ウブメが血を掛けて其子供が夜啼をするなどゝ云ふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものと云ふが、別に又兒を抱いた婦人の形に姿などにも描き、つい賴まれて抱いてやゝ重いと思つたら石地藏であつたと云ふやうな話もある。是も今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に產女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて產女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話を載せ、「此ノ產女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子產ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いて居る。元より妖恠の事であれば隨分怖く、先づ之に遭へば喰はれぬ迄もおびえて死ぬ程に畏れられて居たにも拘らず、面白いことには產女にも往々にして好意があつた。例へば和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の產女塔の由來は、昔此寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より產女の幽魂現れ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女の爲に囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。此寶塔は卽ち其金を費して建つたものである。夷堂橋の北の此寺の門前に、產女の出た池と橋柱との跡が後までも有つたと云ふ。加藤咄堂氏の日本宗敎風俗志には又こんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産(うぶ)の玉と稱する物は、是も此寺の昔の仕持で日行と云ふ上人、或時途上で頗る憔悴した婦人の赤兒を抱いて居る者が立つて居て、此子を抱いてくれと云ふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは水のやうであつた。上人は名僧なる故に少しも騷がす御經を讀んで居ると、暫くして女の言ふには御蔭を以て苦艱を免れました。是は御禮と申して呉れたのが此寶物の玉であつた。今でも安產に驗ありと云ふのは、多分產婦が借用して戴けば產が輕いといふことであらう。此例などを考へて見ると、謝禮とは言ふけれども實は之を吳れる爲に出て來たやうたもので、佛法の功德と云ふ點を後僧徒が附添へたものと見れば、其他は著しく赤沼黑沼の姬神の話などに似て居り、少なくも產女が平民を氣絕させる事のみを能として居なかつたことがわかる。さうして橋の神に安產と嬰兒の成長を祈る說話は隨分諸國にあるから、國玉の橋姬が後に子持ちと成つて現れたのも、自分には意外とは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「ウブメ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種で「姑獲鳥(うぶめ)」などとも表記された妖怪「産女(うぶめ)」。やや内容がダブる箇所があるが、ウィキの「産女」を引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に產女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話」これは産女伝承の現存する最古ののもので、「今昔物語集」「卷第二十七」の「賴光郞等平季武値產女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郞等(らうそど)平季武(たひらのすゑたけ)產女(うぶめ)に値(あ)ふ語(こと)第四十三)である。以下に示す。小学館の日本文学全集版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、しかも読み易く追加(送り仮名など)を加えたオリジナルのものである。□は欠字。■は脱文が想定される箇所。

   *

 今は昔、源の賴光の朝臣(あそむ)の美濃の守にて有りける時に、□□の郡(こほり)に入りて有りけるに、夜(よ)る侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。警固の武士の詰所。]に數(あまた)の兵(つはもの)共集まり居て、萬(よろづ)の物語りなどしけるに、

「其の國に渡(わたり)[やぶちゃん注:比定地は確定的ではないが、参考にした小学館版の注では『飛騨川と木曽川の合流地付近』の「今渡(いまわたり)の渡し場」ではないかと推定している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云ふ所に、產女有りけり。夜に成りて、其の渡り爲(す)る人有れば、産女、兒を哭(な)かせて、『此れ、抱(いだ)け、抱け。』と云ふなる。」

など云ふ事を云ひ出でたりけるに、一人有りて、

「只今、其の渡に行きて、渡りなむや。」

と云ひければ、平の季武と云ふ者(も)の有りて云く、

「己(おのれ)はしも、只今(なり)也とも、行きて渡りなむかし。」

と云ひければ、異者共(ことどももの)有りて、

「千人の軍(いくさ)に一人懸け合ひて、射給ふ事は有りとも、只今、其の渡をば、否(え)や渡り給はざらむ。」

と云ければ、季武、

「糸(いと)安く行きて渡りなむ。」

と云ひければ、此く云ふ者共、

「極(いみ)じき事侍りとも、否(え)不渡給(わたりたま)はじ。」

と云ひ立ちにけり。

 季武も、然許(さばか)り云ひ立ちにければ、固く諍(あらそ)ひける程に、此の諍ふ者共は十人許り有りければ、

「只にては否不諍(えあらそ)はじ。」

と云ひて、鎧・甲・弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う筒、或いは、箱状の武具。箙(えびら)。]、吉(よ)き馬(むま)に鞍置きて、打ち出での大刀(たち)[やぶちゃん注:近年、新たに鍛えたばかりの新しい太刀。]などを、各々取り出ださむと、懸けてけり。亦、季武も、

「若し否不渡(えわたら)ずは、然許(さばか)りの物を取り出ださむ。」

と、契りて後(のち)、季武、

「然は一定(いちぢやう)か。」[やぶちゃん注:「先の約束に間違いないな?」。]

と云ひければ、此く云ふ者共、

「然(さ)ら也。遲し。」

と勵ましければ、季武、鎧・甲を着、弓・胡錄を負ひて、從者も■■■。■■■、

「■■■何でか知るべき。」[やぶちゃん注:従者は現場には従っていないから、「連れざりけり」辺りか? なおも、この台詞は「確かにそこに行って、確かにそこを渡って、そうして戻ってきたということをどのように我々が知り得よう。何をその証拠するのか?」と賭けをした同僚らのある者が不満と疑義を述べているのであるから、「ある者」が主語で、「渡れるを何でか知るべき」辺りか?]

と。季武が云く、

「此の負ひたる胡錄の上差(うはざし)の箭(や)[やぶちゃん注:胡錄の上に突き出すように目立って装飾的に差した実戦用の単純な征矢(そや)でない鏃部分が特殊な矢。鏑(かぶら)矢や雁股(かりまた)の矢。]を一筋、河より彼方に渡りて、土に立てて返へらむ。朝、行きて見るべし。」

と云ひて行きぬ。

 其の後、此の諍ふ者共の中に、若く勇みたる、三人許り、

「季武が渡らむ一定を見む。」

と思ひて、竊(ひそ)かに走り出でて、

「季武が馬の尻に不送(おく)れじ。」

と走り行きけるに、既に季武、其の渡に行き着きぬ。

 九月の下(しも)つ暗(やみ)の比(ころほひ)なれば、つつ暗(くら)[やぶちゃん注:真っ暗闇。]なるに、季武、河を、ざぶりざぶり、と渡るなり。既に彼方に渡り着きぬ。此れ等[やぶちゃん注:こっそりつけて来た三人。]は、河より彼方の薄(すすき)の中に隱れ居て聞けば、季武、彼方に渡り着きて、行縢(むかばき)[やぶちゃん注:「向か脛(はぎ)に穿(は)く」の意で、旅や狩猟などの際に足を被った布また革。平安末期頃から武士は狩猟・騎乗などの際には腰から足先までの、有意な長さを持った鹿皮のそれを着用したが、ここはそれ。]走り打ちて、箭(や)拔きて[やぶちゃん注:地面に。]差すにや有(あ)らむ。

 暫し許り有りて、亦、取りて返して、渡り來(く)るなり。其の度(たび)聞けば、河の中程にて、女(をむな)の音(こゑ)にて、季武に現(あら)はに、

「此れ、抱(いだ)け、抱け。」

と云ふなり。亦、兒ちご)の音(こゑ)にて、

「いがいが。」[やぶちゃん注:赤ん坊の泣き声のオノマトペイア。]

と哭(な)くなり。其の間、生臭き香(か)、河より此方(こなた)まで薰(くん)じたり。

 三人有るだにも、頭(かしら)の毛太りて怖しき事、限り無し。何(いか)に況んや、渡らむ人を思ふに、我が身乍らも、半(なか)ばは死ぬる心地す。

 然(さ)て、季武が云ふなる樣、

「いで抱かむ。己(おのれ)。」[やぶちゃん注:「己」は相手を見下した卑称の二人称。]

と。然れば、女、

「此(こ)れば、くは。」「くは」は当時の口語で「そら!」「さあ!」という相手に注意を促させる感動詞。

とて、取らすなり。季武、袖の上に子を受けて取りければ、亦、女、追々(おふお)ふ、

「いで、其の子、返し得しめよ。」

と云ふなり。季武、

「今は返すまじ。己。」

と云ひて、河より此方の陸(くむが)に打ち上(あが)りぬ。

 然て、館(たち)に返りぬれば、此れ等も尻に走り返りぬ。

 季武、馬より下(お)りて、内に入りて、此の諍ひつる者共に向ひて、

「其達(そこたち)、極じく云ひけれども、此(か)くぞ□□の渡(わたり)に行きて、河を渡りて行きて、子をさへ取りて來たる。」

と云ひて、右の袖を披(ひら)きたれば、木(こ)の葉なむ、少し有りける。

 其の後(のち)、此の竊かに行たりつる三人の者共、渡の有樣を語りけるに、不行(ゆか)ぬ者共、半(なかば)は死ぬる心地なむ、しける。然て、約束のままに懸けたりける物共、皆、取り出だしたりけれども、季武、取らずして、

「然云(さい)ふ許り也。然許りの事、不爲(せ)ぬ者やは有る。」

と云ひてなむ、懸け物は皆、返し取らせける。

 然れば、此れを聞く人、皆、季武をぞ讚めける。

 此の產女と云ふは、

「狐の、『人、謀らむ。』とて爲(す)る。」

と、云ふ人も有り、亦、

「女(をむな)の、子、產むとて死(しに)たるが、靈(りやう)に成りたる。」

と、云ふ人も有り、となむ語り傳へたるとや。

   *

「和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る鎌倉小町の大巧寺の產女塔の由來」寺島良安の百科事典「和漢三才圖會」は私も所持するが、「卷第六十七」の「相摸」国の地誌に載るそれはごく短く、次に掲げる「新編錬倉志」のそれと比しても、電子化する価値を認めないので省略する。「新編錬倉志卷七」の「大巧寺(ダイギヤウジ)」の条にある「產女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ)」を引いておく(リンク先は私の完全電子化注)。なお、本文に出る「夷堂橋」などもリンク先を参照されたい。お望みとあらば、案内し、語りもしよう。

   *

產女の寶塔 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を產女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、每夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、產女の幽魂出て、日棟に逢ひ、𢌞向に預つて苦患(くげん)を免れ度き由を云ふ。日棟これが爲に𢌞向す。產女、金(しんきん)一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に產女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尙存す。夷堂橋の少し北なり。

   *

金」は「施しのための金」を指す。ここでは、自身の廻向のための布施。この一連の説話については、「お大功寺」(現在安産祈願る。祖母結核名古屋後、間借いわ因縁であ公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。

「苦艱」「くげん・くかん」。つらい目に遇って苦しみ悩むこと。艱難(かんなん)。苦患。

「加藤咄堂氏の日本宗敎風俗志」仏教学者(但し、僧籍は持たなかった)で作家の加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)が明治三五(一九〇二)年に森江書店から刊行した書で、以上の記載は「第二篇 地方志」の「第二章 東海道志」の「第六節 安房、上總」の(国立国会図書館デジタルコレクション画像。左端の最後から四行目以降から次頁にかけて)に書かれている。

「上總山武郡大和村法光寺」千葉県東金(とうがねし)市田中にある日蓮宗宝珠山法光寺。現在も寺宝の水晶玉が「ふぶすな(産)の玉」と称されて安産のお守りとして崇められていることがネット情報から確認出来た。(グーグル・マップ・データ)。

「能として居なかつた」「能」は「よし」と訓ずる。]

芥川龍之介 手帳7 (1) 雍和宮

 

芥川龍之介 手帳7

 

[やぶちゃん注:実は私は既に「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」で本手帳の電子化を済ませている。しかし、今回は徹底的に注を附す形で、改めてゼロから作業に取り掛かる覚悟である。なお、現在、この資料は現存(藤沢市文書館蔵)するものの、破損の度合いが激しく判読不可能な箇所が多いことから、新全集は旧全集を底本としている。従ってここは旧全集を底本とした。であるからして、今までのような《7-1》のような表示はない。

 本「手帳7」の原資料は新全集の「後記」によれば、発行年・発行元不詳で、上下十二・四センチメートル、左右六・五センチメートルの左開き手帳と推測される手帳とある。

 但し、ここまでの新全集の原資料翻刻から推して、旧全集の句読点は編者に拠る追補である可能性すこぶる高いことが判明していることから、本電子化では句読点は除去することとし、概ね、そこは一字空けとした。但し、私の判断で字空けにするとおかしい(却って読み難くなる)箇所は詰めてある。逆に一部では連続性が疑われ、恣意的に字空けをした箇所もある。ともかくも、これは底本の旧全集のままではないということである。

 適宜、当該箇所の直後に注を附したが、白兵戦の各個撃破型で叙述内容の確かさの自信はない。私の注釈の後は一行空けとした。

 「○」は項目を区別するために旧全集編者が附した柱であるが、使い勝手は悪くないのでそのままとした。但し、中には続いている項を誤認しているものもないとは言えないので注意が必要ではある。

 本「手帳7」の記載推定時期は、新全集後記に『これらのメモの多くは中国旅行中に記された、と推測される』とある(芥川龍之介の大阪毎日新聞社中国特派員旅行は手帳の発行年と同じ大正十年の三月十九日東京発で、帰京は同年七月二十日である(但し、実際の中国及び朝鮮に滞在したのは三月三十日に上海着(一時、乾性肋膜炎で当地の病院に入院)、七月十二日に天津発で奉天・釜山を経た)。さらに、『この手帳に記されたメモと関わる作品は「手帳6」と重なるものが多い』とのみある。因みに、「手帳六」の構想メモのある決定稿作品を見ると、大正一〇(一九二一)年(「影」同年九月『改造』)が最も古い時期のもので、最も新しいのは「湖南の扇」(大正一五(一九二六)年一月『中央公論』)である。]

 

   七

 

○赤壁 黃瓦 綠瓦壁(半分) 大理石階 ○黃 赤 紫のラマ 黃色の帽(bishop) ○惜字塔(靑銅)

[やぶちゃん注:「ラマ」既出既注のチベット仏教のラマ僧。

「黃色の帽bishop)」「bishopは本来はカトリックの「司教」や英国国教会の「主教」であるが、ここで芥川龍之介はラマ僧の最高位の者を指して言っているようである。とすると、この人物はラマ教の新教派である黄帽派のそれである可能性が強い。同派は十四世紀の高僧ツォンカパがラマ教の教風改革を図り、厳格な戒律実践を主張し、「ゲルー(徳行)派」を興したが、彼は法会に際し、僧帽を裏返しに被って黄色を表に出したことからこの派を「黄帽派」と呼ぶからである。次の条の頭で龍之介は「和合佛第六所東配殿」と記しており、ここ以下の描写は北京市東城区にある北京最大のチベット仏教寺院雍和宮(ようわきゅう)である。同宮殿は清の康熙三三(一六九四)年に皇子時代の雍正帝の居館として建築されたが、一七二二年に雍正帝が即位した後、皇帝の旧居を他人の住居とすることが憚られたことなどから寄進されて寺院となったものである。私の芥川龍之介北京日記抄 一 雍和宮の本文及び私の注も参照されたい。]

 

○和合佛第六所東配殿 繡幔 3靑面赤髮 綠皮 髑髏飾 火焰背 男數手 女兩手 人頭飾(白赤) 手に幡 孔雀羽 獨鈷戟 4女に牛臥せるあり 上に男 牛皮を着たる小男 男に對す 2象首の女をふむもの 1馬に人皮をかけ上にまたがる 人頭逆に垂れ舌を吐しこの神 口に小人を啣 ○大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍) ○銅鑼 太鼓 赤 金

[やぶちゃん注:「和合佛」芥川龍之介は北京日記抄 一 雍和宮の本文では「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」と、歓喜天として出し、非常に関心を持って描出しており、この条のメモ全体が非常に有効な素材とされていることが判る。リンク先の私の「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」注以下も参照されたい。

「繡幔」「しうまん(しゅうまん)」は刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。

「幡」「はた」。

「獨鈷戟」「どくこげき(どっこげき)」。先端に独鈷杵(とっこしょ)を装着した槍で本来はインドの実戦用の武器であるが、仏教では各種の菩薩が邪気を払う法具として持ち、精進努力を怠らず、菩提心を貫くことを象徴するという。

「逆に」「さかさに」。

「啣」「くはふ」。咥(くわ)えている。

「大熊(半口怪物) 小熊 二武人(靑面 黑毛槍)」北京日記抄 一 雍和宮の本文では、「歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ」とある。]

 

○法輪殿 兩側ラマ席 黃綠の蒲團 中央に供米(boy 鯉 波)光背ニ鏡をはめた小像(金面) 正面に繡佛 前に白い法螺貝二つ 壁畫の下に山の如き經文あり 繡佛の後に五百羅漢あり 北淸事變の後本願寺大藏經を寄贈す

[やぶちゃん注:「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。雍和宮の建築群中、最も大きい。

「繡佛」「しうぶつ(しゅうぶつ)」。布地に刺繡で縫い現わした仏像。縫い仏(ぼとけ)。

「北淸事變」清朝末期の一八九九年から一九〇〇年に起こった義和団の乱の別称。日清戦争後、山東省の農民の間に起こった白蓮教の一派の武闘派秘密結社義和団が、生活に苦しむ農民を集めて起こした排外運動。各地で外国人やキリスト教会を襲い、北京の列国大公使館区域を包囲攻撃したため、日本を含む八ヶ国の連合軍が出動してこれを鎮圧、講和を定めた北京議定書によって中国の植民地化がさらに強まった。]

 

○照佛殿(地獄極樂圖アリ)○第十四所西配殿 十處綏成殿 九處萬福殿(三階) 第八照佛殿 第七處法輪殿 第六所東配殿 五永祐殿 雍和宮 ラマ説碑 寧阿殿(ラマラツパをふく) 天王殿(布袋(金) 現妙明心 乾隆 御碑 石獅 槐)

[やぶちゃん注:「照佛殿」観光された方の記載には現在の雍和宮には「照佛樓」なるものがあるらしいので、それか?

「西配殿」後の「東配殿」とともに(個人サイト)で画像が見られる。

「綏成殿」「すゐせいでん」。建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。

「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。

「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。

「ラマ説碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。一七四四年(乾隆八年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。

「寧阿殿(ラマラツパをふく)」これは中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた四つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りと思われる。北京日記抄 一 雍和宮の本文でも、「それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり」と喇叭を吹くラマ僧を描写している。

「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一つ。通常のラマ教寺院と同じく、ここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす三世仏及び十八羅漢像が安置されている。

「現妙明心」不詳。経典類の総称か?]

 

○萬福 大栴檀木(ウンナン來) 七丈 片手に(右)嗒噠をかく 兩側に珊瑚樹(木製)あり 嗒噠をかく ○背後南海佛陀 龍 龍面人 鬼 鷗 鯉 海老 波 岩 陶佛大一小二

[やぶちゃん注:「大栴檀木」「だいせんぼく」であるが、私はビャクダン目ビャクダン科ビャクダン属ビャクダン(白檀)Santalum album のことではないかと思う。ムクロジ目センダン科センダン属センダン Melia azedarach があるが、中国ではビャクダン Santalum album のことを「栴檀」と称するからである。

「ウンナン」雲南省(地方)。

「七丈」約二十一・二一センチメートル。

「嗒噠」音なら「タウタツ(トウタツ)」であるが、ここでの意味が分からぬ。識者の御教授を乞う。

「南海佛陀」東南アジア経由で伝来したと思われる特徴を持った仏陀像のことか。]

 

○綏成殿 壁に千佛 三佛 賣不賣 首を切らると云ふ 萬福殿手前の樓上 馬面多頭の怪物(黃面 白面 靑面 赤面) 右足鳥 人をふみ左足、獸人をふむ 人頭飾 手に手 足 首 弓 鉞 坊主幕をとるにいくらかくれと云ふ 和合佛でないと云ふ あけてから 指爪があると云ふ ○關帝殿 (途中 石敷 コブシの大葉 赤壁)木像に衣をつくmogol 式 赤舌あり(左)

[やぶちゃん注:北京日記抄 一 雍和宮の本文では、「それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんぷくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黃面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)」と出る。「萬福殿」(正しくは萬福閣)は法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にあるから誤りではない。

「木像に衣をつくmogol 式」仏像に実際の衣服を着せた着装像のことであるが、“mogol”は、インド古式の(モグール)ムガール式なのか、モンゴル式なのかは不明。もしかすると、ポルトガル語の“mogol”の意味で芥川は用いており、その衣服の素材を言っている可能性もあるかもしれない 所謂、金モールである ムガール帝国で好んで用いられた絹製紋織物の一種で、縦糸に絹糸を用い、横糸に金糸を使ったものが金モール、銀糸を使ったものが銀モールである。]

 

○ラマ畫師、西藏より來る (元明)七軒 30 or 40人 永豐號最もよし(恒豐號へ至る)一年に一萬二三千元賣れる 蒙古西藏に至る(佛□五萬)

[やぶちゃん注:「永豐號」「恒豐號」不詳。ラマ絵師の中で継承された名人雅号か? なお、ここまでが「雍和宮」。最後に中国雍和宮公式サイト伽藍配置をリンクさせておく。]

明恵上人夢記 54

 

54

一、建保七年正月、夢に云はく、京の邊近き處に住房有り。上師とともに此處に在り。師、忽ちに出でて外へ行き給ふ。予、御送りに庭へ下る。一丁許り行きて、上師止めしめ給ふ。予思はく、京にては知らず、迎ふるに良(まこと)に還らむと欲す。顧れば大きなる門有り。師に問ひて云はく、「住房は彼の門の處か。」答へて曰はく、「少しき肱折れて至る也。」卽ち其處より還る。心に思はく、上師、此處を出で、暫く勝れたる處に至りて、彼の處より本の住處へ還り給ふべき也と云々。

[やぶちゃん注:「建保七年正月」一二一九年。まさに、この建保七年一月二十七日(一二一九年二月十三日)に第三代将軍源実朝が公暁に暗殺されているが、暗殺日と内容(それらしい衝撃を語っていない点)から見て、この夢はそれよりも前の可能性が強い。

「上師」以前にも述べたが、彼が書く言った場合、かの文覚上人或いは母方の叔父で出家最初よりの師で伝法灌頂を受けている上覚房行慈で、それぞれの生没年は、

文覚 保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年七月二十一日

上覚 久安三(一一四七)年~嘉禄二(一二二六)年十月

であるから、文覚なら既に亡くなっており、上覚ならまだ存命である。この場合、軽々には孰れとも断ずることは出来ぬものの、最後の夢中での明恵の妙に現実的な主張からは、生きている上覚である可能性が高いように思われる。

「一丁」百九メートル。

「京にては知らず、迎ふるに良(まこと)に還らむ」難解である。これはまず後半は――師とともに新たに住まうべき、「在るべきまことの場所」「常住の地」後に出る「本」(もと)はその含みと読み、「京の邊近き處」の「本の」「住房」とは読まないということであるにこそ還りたい、還ろう――という謂いであろう。されば、前半は――京に近きところにてはそのような「在るべきまことの場所」はついぞ「知らない」、そのような場所は京(及びその周辺)にはない――という意味ではないか? たった「一丁」であってもそれは夢空間では一町が千里であってよいのである。

「肱折れて」「ひぢおれて」。角を曲がって。これは時空間の歪んだ表現であって、だからこそ前の私の一町千里的解釈と一致するものと考える。]

□やぶちゃん現代語訳

54

 建保七年正月、こんな夢を見た。

 京の辺り、大内裏に近き所に住房がある。私は上師とともに此処に住まっている。

 師が、突然、その房を出て外へ行かれる。

 私は師をお送りするために庭へと降りた。

 二人して一町ばかり行くと、上師はそこで私をお停めになられた。

 私がその時、心に思ったことは、

『――京にはそのようなところはない――師をお迎えし、我らもともにその「まことの在るべき常住の地」に還ろう――』

という強い願いであった。

 後ろを顧みると、そこには大仰な如何にもな門があった。

 私は師に問うて尋ねた。

「住房はかの門のところでしょうか?」

 師は答へて仰せられた。

「――いや――少しき角を曲がって行きつく場所である。」

 そこで、しかし、師は私を従えて、その路上より、元の住房へと帰ってしまわれた。

 私は心に思った。

『上師は、この喧しく生臭い住房を出でて、一時、勝(すぐ)れたる「まことに在るべき」場所へとたどり着かれ、かの住房から、本(もと)「あるべきまことの」棲家へとお還りなさるべきである。』

と…………

 

進化論講話 丘淺次郎 藪野直史附注 第六章 動植物の增加(1) 序 / 一 增加の割合

 

    第六章 動植物の增加

 

 野生の動植物にも遺傳性と變異性とのあることは前章に述べた通りであるから、一種の淘汰が之に加はりさへすれば、恰も飼養動植物が人爲淘汰によつて種々の著しい變種を生じたのと同樣に、代々必ず少しづゝ變化し、終には積つて先祖とは甚しく異なつたものとなる筈であるが、實際は如何と考へて見るに、野生の動植物間には確に人爲淘汰よりも嚴しい一種の淘汰が日夜絶えず自然に行はれて居る。その有樣を簡單に述べれば次の通りである。

 先づ動植物の繁殖の割合は何種を取つてもなかなか盛であるが、地球上に動植物の生存し得る數には、食物その他の關係から一定の際限があつて、到底生れた子が悉く生長し終るまで生存することは出來ず、一小部分だけは親の跡を繼いで行くが、その他は總べて途中に死に絶えて、全く子孫を殘さぬ。卽ち生存の競爭に打勝つたものは後へ子孫を遺すが、敗けたものは皆死に失せる。而して如何なる者が生存競爭に打勝つかといへば、無論生活に適した者が生存するに定まつて居るから、代々多數のものの中から、最も生活に適したもののみが生存して繁殖する譯になるが、之がダーウィンが初めて心附き、生物進化の主なる原因として世に公にした自然然淘汰である。

 

     一 增加の割合

 

 自然淘汰の働きを明に理會するためには、先づ動植物は如何なる割合に繁殖するもので、若し生れる子が悉く生長するものとしたならば、如何なる速力で增加するものであるかを知ることが必要である。

 嘗てリンネーは植物の增加力の盛なことを示すために、次の如き場合を假想した。こゝに一本の草があり、二個の種子を生じて一年の末に枯れてしまふ。翌年にはその二個の種子から二本の草が出來、各二個づゝの種子を生じてその年の末に枯れてしまふ。斯く代々一本の草が各々二個づゝの種子を生じて進んで行つたならば、如何に增加すべきかといふに、十年の後には千本以上となり、二十年の後には百萬本以上となり、三十年の後には十億本以上となる。之は東京邊でよく人のいふ愛宕山の九十六段ある石段の一番下の段に一粒、次の段に二粒、また次の段に四粒といふやうに、倍增して米粒を置いて行くときは一番上の段まで置くには幾粒を要するかといふ問と同じ理窟で、一段每の增加はたゞ一と二との剖合であるが、所謂幾何級數卽ち鼠算で殖えて行くから、忽ち驚く程に增加し、十囘每にアラビア數宇の位取りが三段づゝも進む勘定となるから、百囘目には數字を三十以上も竝べて書かなければならぬ程の、到底我々の考へられぬやうな大數となる。象は總ベての動物中で最も繁殖の遲いものであるが、凡そ三十歳位で生長を終へ、九十歳になるまでの間に平均六疋の子を生み、百歳まで生きると見積つて勘定しても、若し生れた子が悉く成長するものとしたならば、七百四五十年の間には一對の象の子孫が千九百萬疋程になる。

 以上は兩方ともに繁殖力の最も少い場合を想像したものであるが、動物中に象ほど少く子を生むものは外に例が少い。また每年僅に二個の種子より生ぜぬやうな植物は實際決して一種類もない。どの動植物でも之よりは遙に多數の子を生ずるものであるが、動物の中で最も多くの子を生むもので、人のよく知つて居る例は、魚類・昆蟲類等である。新年の祝儀に使ふ數(かず)の子(こ)は鯡(にしん)の子であるが、卵粒の頗る多い所から子孫の多く生れるやうに、一家の益々繁昌するやうにとの意を寓して斯く一般に用ゐるのであらう。一體、魚類は卵を生むことの多いものであるが、鱈(たら)などは一度に殆ど千萬に近い程の卵を生む。我が國の人口の七分の一に匹敵する程の卵を一度に生むとは實に驚くべきである。また蠶の種紙には一面に附いて居る細い卵粒は僅の雌蛾の生み付けたものである。多くの昆蟲は略々之と同樣に多くの卵を生む。かやうな例か一々擧げたらば到底限はない。次に植物は如何と見るに、之は尚一層明で、一年生の小い草でも一粒の種子から出來た草に何百粒かの種子が生ずる。大きな樹木になれば、每年何個づゝの種子を生ずるかなかなか數へ盡せぬ。更に菌類などを調べると、その種子の數は實際無限といふべき程で、一個一個の種子は、五六百倍の顯微鏡で見なければ解らぬ位な、極めて微細なものであるが、その數は到底我等は想像も出來ぬ。傘の開いた生の松蕈を黑塗の盆の上に伏せて置くと、暫くの間に傘の下だけが一面に白く曇るが、之は全く無數の目に見えぬ程の種子が落ちて積つたためである。

[やぶちゃん注:「鱈(たら)などは一度に殆ど千萬に近い程の卵を生む。我が國の人口の七分の一に匹敵する」本書は大正一四(一九二五)年九月刊行の版で、その前年で、

大正一三(一九二四)年 58875.6千人(約五千八百八十七万五千人)

刊行の同年でも、

大正一四(一九二五)年 59736.7千人(約五千九百七十三万七千人)

であるから、丘先生は一千万人ほど多く鯖を読んでいる。参照した総務省統計局公式データ(エクセル・データ)よれば、日本の人口が七千万人に達するのは、刊行から十一年後の

昭和一一(一九三六)年 70113.6千人(約七千   十一万三千人)

である。

「松蕈」「まつたけ」。松茸(菌界担子菌門真正担子菌綱ハラタケ目キシメジ科キシメジ属 Tricholomaキシメジ亜属 Tricholomaマツタケ節 Genuinaマツタケ Tricholoma matsutake)。]

 

 斯くの如く動植物の一代の間に生む子の數には種々の相違があり、象の如く僅に六疋位より生まぬもの、菌類の如く無限の種子を生ずるものなどがあつて、子の多い少いには甚だしい不同があるが、若し生れた子が悉く生長し繁殖したならば、必ず幾何級數の割合に增加すべきことは理窟上明白なこと故、孰れの場合に於ても、代々生れた子が悉く生存することは決して望むべからざることである。非常に多數の子を生ずる動植物が代々生れただけ悉く生長したならば、忽ち地球の表面に一杯になるであらうとは、誰も直に考へるであらうが、少數の子を生む動植物とても幾何級數で進む以上は、理窟は全く同樣で、前に擧げた愛宕山の石段に米粒を置く譬の如く忽ちにして地球の表面には載せ切れぬ程になつてしまふ。たゞこの有樣に達するのが、多くの子を生む動植物に比べると、幾年か後れるといふだけに過ぎぬ。遠海の無人島に海鳥や膃肭獸類が無數に群集してゐるのも、決して親が每囘多數の子を産むためではなく、僅に一箇の卵または一疋の子を産んだものが多く生き殘つて繁殖する結果である。

[やぶちゃん注:「膃肭獸」「おつとせい」と読んでいる。通常、現在では「オットセイ」(哺乳綱食肉(ネコ)目イヌ亜目鰭脚下目アシカ科オットセイ亜科 Arctocephalinae)の漢字表記は「膃肭臍」である。]

 

Robben

 

[「ろっぺんがも」の群棲]

[やぶちゃん注:底本キャプション(右から左書き)の鍵括弧は一見、丸括弧のように見えるほどに有意に歪んでいるが、鍵括弧と断じた。以下、これは注さない。

「ろっぺんがも」英和辞典で調べると、“guillemot”(ギルマート)でウミガラス(学名は後掲)・ウミバト(チドリ目ウミスズメ科ウミバト属ウミバト Cepphus columba)の類の海鳥の総称として出るが、図に出る形態とその断崖上での群棲様態から見てこれは、チドリ目ウミスズメ科ウミガラス属ウミガラス(海烏)Uria aalgeである。ウィキの「ウミガラス引用はそこ。但し、それ以外の一部ではその他のネット記載も複数、参考にした)等によれば、体長四十~四十五センチメートルで体重は一キロ程になり、『背中が暗褐色で、腹は白い。冬羽では頬のあたりまで白い部分が増える。くちばしは長く、脚は尾の近くにあって、翼も尾も短く、陸上で直立歩行をする姿はペンギンを想像させる』(「北のペンギン」という異称もある)。『北太平洋と北大西洋、北極海に広く分布する。日本周辺では樺太の海豹島』・海馬島・ハバロフスク周辺・歯舞群島に『分布し、冬期には本州の北部まで南下する』。『水中では翼で羽ばたいて泳ぎ、水深』五十メートル(最深観察記録百八十メートル)を三分間ほど『潜水できる』。但し、『脚が体の後方にあるため、陸上を歩くのが苦手である。巧みに潜水してイカ』・シシャモ・イカナゴ・カジカ・ギンポ『などを捕食する。雛に給餌する場合、半分のどに入れた状態で繁殖地へ戻る』。『飛ぶ時は短い翼を高速で羽ばたき、海面近くを飛ぶ』。『繁殖期には無人島や陸生の捕食者が近づけないような崖や崖の上に集団でコロニー(集団繁殖地)を作る』。密度は最大で一平方メートル当り二十羽で、『多くの個体の繁殖開始年齢は』五歳。少なくとも二十年は『繁殖が可能である』。『巣を作らず岩や土の上に直接』、一個のみ『産卵する。卵が失われた場合』は、一『度だけ産み直すことがある』。『卵は他の鳥に比べると一端が尖っており、「セイヨウナシ型」と呼ばれる。この形状は転がっても』、『その場で円を描くようにしか転がらないため、断崖から落ちにくい。平均抱卵日数は』三十三日で、ヒナは生後、平均二十一日間は『繁殖地にとどまり』、『親鳥の半分くらいの大きさでまだ飛べないうちに繁殖地から飛び降り』て『巣立ち』するが、それ以後二ヶ月の間は未だ『海上で親鳥の世話を受ける』。『かつては北海道羽幌町天売島、松前町渡島小島』・ユルリ島・モユルリ島『で繁殖し、その鳴き声から「オロロン鳥」と呼ばれていた。しかし、漁網による混獲、観光による影響、捕食者の増加、エサ資源の減少などにより数が減少したと考えられ』、二〇一〇年には天売島で十九羽が飛来し、『数つがいが繁殖するのみで』、『国内の繁殖地が失われる危機にある。天売島では繁殖地の断崖にデコイや音声装置を設置し、繁殖個体群の回復の試みがおこなわれている』もののあまりかんばしい成果は上がっていない模様である。『繁殖失敗の原因の一つはハシブトウミガラス』(チドリ目ウミスズメ科ウミガラス属ハシブトウミガラス Uria lomvia:本種とよく似ているが、嘴の根元に白い線が入ること、夏羽の喉元に白い羽毛が字型に切れ込むこと、冬羽でも顔が殆んど黒いことなどで区別出来る)や『オオセグロカモメ』(チドリ目カモメ亜目カモメ科カモメ属オオセグロカモメ Larus schistisagus)『による卵や雛の捕食である。オオセグロカモメは大型のカモメで近年数を増加しており』、『漁業や人間の廃棄物を餌として利用してきたことがその原因の可能性がある。天売島では捕食者であるオオセグロカモメがウミガラスの個体数よりも多く、他の繁殖地よりもウミガラスへの捕食圧が高いことを示唆している。実際に、天売島のウミガラスは過去に繁殖していた赤岩・屏風岩・カブト岩などの開けた場所では繁殖しなくなり、捕食者の攻撃から卵や雛を守り易い狭い岩のくぼみなどで音声やデコイによって誘引されながらかろうじて繁殖をしている状況である』。なお、丘先生の呼称にある「ロッペン」はサハリンの繁殖地海豹島の原島名「ロッペン島」に由来する。同島は一六四三年(寛永二十年相当)にオランダの航海家マルチン・ゲルリッツエン・フリースが発見し、“Robbe Eylant”Robbeneiland)と名付けたことに由来する。ウィキの「によれば、『オランダ語で単にRobbenといえばアザラシのことであるが、アシカをOorrobben(耳のあるアザラシの意)と呼ぶなど鰭脚類の動物一般を指す言葉でもあるこれはヨーロッパの言語では珍しいことではなく、英語ではオットセイをfur seal(毛皮用のアザラシの意)と呼び、あるいはリンネはオットセイの学名をPhoca ursina(熊のようなアザラシの意)としたなどの例が挙げられる。したがってこの島をRobbenと名付けたのはオットセイに由来すると考えられ、それを海豹(アザラシ)と翻訳したのはある種の誤訳といえる』とし、ロシア語の名称の“Остров Тюлений”(チュレーニー島)も同じ「アザラシの島」の意であり、現行の日本語の島名もオランダ語の直訳であるとする。]

 

Ottoseigusei

 

[「をつとせい」の群棲]

 

 動植物は單に理窟上ここに述べた如く速に增加すべき力を有するといふのみならず、實際に於て殆ど斯かる割合に繁殖した例が幾らもある。動植物の增加力の非常に盛なことは自然淘汰を論ずるに當つて一刻も忘るべからざる肝要の點である故、二三の著しい實例を次に擧げて見よう。

 

2017/05/22

和漢三才圖會卷第五十三 蟲部 天漿子 (ナミハナアブの幼虫に同定)

Namihanaabu

くそむし 糞蟲 屎蟲

天漿子

     【俗云久曾無之】

 

和劑局方以糞蟲爲天漿子本綱以雀甕中子爲天

 漿子入門云治驚風可用雀甕子治疳方須用此天漿

 子六月取入布袋置長流水中三日夜晒乾爲末此蟲

 夏月生糞尿中初生如蛹白色老則灰色有節長尾無

 足滾行而形似萊菔子莢羽化爲大蠅【形似俗云布牟布牟虫云】

[やぶちゃん注:「」=(上)「L」字形の内部に「人」+(下)「虫」。東洋文庫は「虻」の字を当てており、事実、原典でも読みとして「アブ」と振っているので、訓読では「虻」を用いることとする。]

避屎蟲咒歌 書之貼厠口則不日屎蟲消散但可倒貼

[やぶちゃん注:以下の字配はブラウザの不具合を考慮して上げた。]

今年より卯月八日は吉日よ尾長くそ虫せいばいそ
                     す

 

 

 

くそむし 糞蟲〔(くそむし)〕 屎蟲〔(くそむし)〕

天漿子

     【俗に云ふ、「久曾無之〔(くそむし)〕」。】

 

按ずるに、「和劑局方」には糞蟲を以つて天漿子〔(てんしやうし)〕と爲〔(な)〕す。「本綱」には、雀甕(〔すずめ〕のたご)の中の子を以つて天漿子と爲す。「入門」に云く、驚風を治するには、雀甕子を用ふべし、疳を治するには方〔(まさ)〕に須らく此の天漿子を用ふべし。六月、取りて布の袋に入れ、長〔き〕流水の中に置くこと三日、夜、晒〔し〕乾〔して〕末と爲す。此の蟲、夏月、糞尿の中に生じ、初生、蛹〔(さなぎ)〕のごとく白色、老する時は則ち、灰色。節、有りて長尾。足、無し。滾〔(ころ)〕び行〔(ゆ)き〕て、形、萊菔(だいこん)の子(み)の莢(さや)に似る。羽化して大蠅と爲る【形、虻(あぶ)に似、俗に「布牟布牟虫〔(ふんふんむし)〕」と云ふ。】

屎蟲を避くる咒歌〔(じゆか)〕 之れを書きて、厠〔(かはや)〕の口に貼(は)れば、則ち、日あらずして、屎蟲、消散す。但し、倒(さかさま)に貼(は)るべし。

[やぶちゃん注:ブログでの不具合を考え、和歌の位置を上げた。]

今年より卯月〔(うづき)〕八日は吉日〔(きちじつ)〕よ尾長くそ虫せいばいぞする

 

[やぶちゃん注:一読、双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目 Muscomorpha に属するハエ(蠅)類の幼虫かと思うが、実は既項目として広義の「蛆」(「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蛆」)があった。ウィキの「ハエ」の「幼虫」によれば、一齢で孵化し、三齢で終齢となる。『いわゆる蛆(ウジ)であり、無脚でかつ頭蓋(とうがい)など頭部器官はほとんど退化している。その代わりに複雑強固な咽頭骨格が発達している。咽頭骨格の先端には口鉤(こうこう)というかぎ状部が発達し、底部にはろ過器官(pharyngeal filter)が見られる』。『ハエの幼虫の多くは腐敗、あるいは発酵した動植物質に生息し、液状化したものを吸引し、そこに浮遊する細菌、酵母といった微生物や有機物砕片といった粒状物をpharyngeal filterによってろ過して摂食する』とある。しかし、どうも何か、おかしい。何より図を見られたい。

この蛆、鼠のような長い尾を持っているではないか!?

これは実は、

双翅(ハエ)目短角(ハエ)亜目ハエ下目ハナアブ上科ハナアブ科ナミハナアブ亜科ナミハナアブ族 Eristalini に属するナミハアナブ類の幼虫で、通称「尾長蛆」と呼ばれるもの

なのである(但し、タクソン名で判る通り、彼らは「アブ」ではなく、確かに「ハエ」なのである)。ウィキの「ハナアブ」によれば、彼らの幼虫(蛆)は水中生活をし、『円筒形の本体から尾部が長く伸張して先端に後部気門が開き、これを伸縮させてシュノーケルのように用いて呼吸する生態からオナガウジ(尾長蛆)の名で知られている。この仲間は生活廃水の流れ込む溝のような有機物の多いよどんだ水中で生活するものがよく知られているが、ほかにも木の洞(樹洞)に溜まった水の中でゆっくりと成長する種もある』。また、ナミハナアブ族ナミハナアブ属ナミハナアブ Eristalis tenax や同属のシマハナアブ Eristalis cerealis など、『オナガウジ型のナミハナアブ族の幼虫の一部は生活廃水の流れ込む溝や家畜の排泄物の流れ込む水溜りといったごく汚い水に住み、その姿が目立っていて気味悪がられることが多い。この類の成虫はミツバチにきわめてよく似ており、アリストテレスがミツバチがどぶの汚水から生まれるとしているのは、これと見誤ったからではないかと言われる。』本種はかなりひどい汚水環境を好み、実際に旧式のトイレやその周辺で見つけたいというネット記事も多いのでこれで決まりである。

「和劑局方」本来は、北宋の大観年間(一一〇七年~一一一〇年)に国家機関の肝煎で発行された医薬品処方集で、初版は全五巻で二百九十七の処方を収め、当時の国定薬局方でもあったものを指すが、ここのそれは、その後にそれの増補が繰り返され、紹興年間(一一三一年~一一六二年)の一一五一年に書名を改題して「太平恵民和剤局方」(全十巻・七百八十八処方収録)として発行されものを指す。

「雀甕(〔すずめ〕のたご)の中の子」この場合は蠅の幼虫でなく、鱗翅(チョウ)目 Glossata 亜目 Heteroneura 下目ボクトウガ上科イラガ科イラガ亜科イラガ属 Monema に属するイラガ類或いはその近縁種の作る繭の中の幼虫ということになる。先行する「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 雀甕」の本文及び私の注を参照されたい。

「入門」「醫學入門」。明の李梃(りてい)に寄って書かれた総合的医学書。一五七五年刊。

「驚風」(きょうふう)は小児が「ひきつけ」を起こす病気の称。現在の癲癇(てんかん)症や髄膜炎の類に相当する。

「疳」は「癇の虫」と同じで「ひきつけ」などの多分に神経性由来の小児病を指す。

「末」粉末。

「老する時」老成すると。終齢の三齡を迎えると。

「滾〔(ころ)〕び行〔(ゆ)き〕て」東洋文庫版が「滾行」に『ころがりゆき』とルビを当てているのを参考に附した当て読みである。

「萊菔(だいこん)の子(み)の莢(さや)」大根の種の莢。

「布牟布牟虫〔(ふんふんむし)〕」不詳。現在は生き残っていない呼称らしい。

「咒歌〔(じゆか)〕」まじないの和歌。

「倒(さかさま)に貼(は)るべし」しばしばこの手の呪(まじな)いで見られる手法で、魔に素直に読まれないようにすることを目的とするものであろう。

「今年より卯月〔(うづき)〕八日は吉日〔(きちじつ)〕よ尾長くそ虫せいばいぞする」「うづき」の「う」と「きちじつ」の「じ」で「うじ」が読み込まれているのではないかと思ってかく読みを振った。言上げする以上、成敗する対象が既にしてその中に「尾長くそ虫」以外に隠れて名指されていなくては呪いにならぬと私は思うたからである。]

 

北條九代記 卷第十一 惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

      ○惠蕚入唐 付 本朝禪法の興起

 

蒙古大元の世祖忽必烈(こつびれつ)は、今度大軍を鏖(みなごろし)にせられ、憤(いきどほり)、尤も深く、如何にもして日本を討隨(うちしたがへ)へ、この怒(いかり)を休(きう)せんと、寢食を忘れて祕計を𢌞(めぐら)すといへども、智謀雄武の日本國を容易(たやす)く討(うつ)て、急迫(きふはく)には滅難(ほろぼしがた)からん。只その弊(つひえ)を伺ひ、時節を計るに加(しく)なしとて、日本の樣(やう)を聞居(きゝゐ)たり。この比(ころ)、龜山の新院、鎌倉の北條、京、鎌倉の間、佛心宗を崇敬(そうきやう)し、禪法を歸仰(きかう)し給ふ事、都(すべ)て諸宗に超過せり。抑、本朝に禪法の弘通(ぐつう)する事、遠くは聖德太子、直(ぢき)に達磨(だるま)の心印(しんにん)を傳へ給ふといへども、その名のみ論書に見えて世に知る人もなし。淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし。橘(たちばなの)皇太后と申し奉り、深く佛法に歸依し、道德の僧を講じて法門を聞召(きこしめ)す。眞言密法を空海和尚に聞き給ふ。その便(たより)に問ひ給はく、「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」と。空海、答へて宣く、「大唐國に佛心宗とて候ふなる、是、則ち、南天(なんてん)菩提達磨の傳來せし所、盛(さかり)に彼(かの)地に行はれ候。然れども、空海、是を究(きはむ)るに暇(いとま)なくて、歸朝致し候」と申し給へば、橘皇太后、「さては又、如來の大法、未だ唐國に留りて傳らず。是、大に悕(こひねが)ふ所なりしとて惠蕚(ゑがく)法師に勅して、文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる。唐の宣宗皇帝大中の年なり。惠蕚、卽ち、登萊(とくねき)の界(さかひ)より鴈門(がんもん)、五臺(だい)を經て、杭州の靈池寺(れいちじ)にいたり、齊安(せいあん)禪師に謁して、宗門の直旨(ぢきし)を極め、禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる。京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふといへども、根機(こんき)、未だ熟せざりけるにや、世に知る人も希なりけり。寶治の比(ころ)、蜀の僧、隆蘭溪、本朝に遊化(いうげ)せらる。最明寺時賴、厚く禮敬(れいきやう)を致し、巨福山建長寺を立てて、開山とす。相摸守時賴は、祖元を開山として瑞鹿山圓覺寺を創めて、宗門を弘通せしむ。京都には建仁寺の榮西禪師より起りて、主上、上皇、この法に御歸依あり。攝家、淸華(せいくわ)の輩(ともがら)、皆、宗門の弟子となり、四海、是に依て、禪法の繁昌(はんじやう)する事、頗る鎌倉に超過せり。殊更、この比は、日本の諸國、佛心宗を尊びて、公家武家共に頭を傾(かたぶ)くる由、元朝に傳聞(つたへきゝ)て、王積翁(わうせきをう)と云ふ者を使者として、如智(によち)と云へる禪僧を此日本にぞ渡しける。王積翁は海路の間、同船の者に刺殺(さしころ)されしかば、日本の風俗を伺ひ見るべきやうもなく、如智も、その名を知る人なし。海中にや入りぬらん、元國にや皈りけん。その終(をはり)は聞及ばず。愈(いよいよ)、本朝、この宗、普(あまね)く弘(ひろま)りて盛なれども、異國襲來の備(そなへ)をば堅く守り、強く誡めて、西海の湊々(みなとみなと)は、更に用心怠る時なし。

[やぶちゃん注:「佛心宗」禅宗の異称。文字などに依らず、直ちに仏心を悟ることを教える宗門の意。

「達磨」中国禅宗の開祖とされているインド人仏教僧菩提達磨大師(サンスクリット語音写:ボーディダルマ 生没年未詳。五世紀末から六世紀末の人とされる)。南インドで王子として生まれたが、般若多羅から教えを受け、中国に渡って禅宗を伝えた。

「心印」禅宗用語としては、以心伝心によって伝えられる悟り、決定(けつじょう)していて不変である悟りの本体のことを指す。

「淳和(じゆんな)天皇の御后(おんきさき)は、仁明天皇の御母なり。贈太政大臣正一位橘淸友(たちばなのきよとも)公の御娘とぞ聞えし」「淳和天皇」(第五十三代)は「嵯峨天皇」(第五十二代)の誤り。嵯峨天皇の皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ 延暦五(七八六)年~嘉祥三(八五〇)年)は橘奈良麻呂の孫で贈太政大臣橘清友の娘。諡号は檀林皇后。ウィキの「橘嘉智子によれば、『世に類なき麗人であったといわれる。桓武天皇皇女の高津内親王が妃を廃された後、姻戚である藤原冬嗣(嘉智子の姉安子は冬嗣夫人美都子の弟三守の妻だった)らの後押しで立后したと考えられ』ている。『仏教への信仰が篤く、嵯峨野に日本最初の禅院檀林寺』(承和年間(八三四年~八四八年)に洛西嵯峨野に創建された。後に出る通り、開山は唐僧の義空で、京都で最初に禅を講じた寺として知られる。盛時は壮大な寺院として塔頭十二坊を数えたと伝えられるが、皇后の没後、急速に衰え、平安中期には廃絶した。その跡地に建てられたのが夢窓疎石を開山とした天龍寺である)『を創建したことから檀林皇后と呼ばれるようになる。嵯峨天皇譲位後は』ともに『冷然院・嵯峨院に住んだ』が、『嵯峨上皇の崩後も太皇太后として朝廷で隠然たる勢力を有し、橘氏の子弟のために大学別曹学館院を設立するなど勢威を誇り、仁明天皇の地位を安定させるため』、承和の変(承和九(八四二)年に伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らが謀反を企てたとして流罪となり、仁明天皇の皇太子恒貞親王が廃された事件。藤原良房の陰謀とされ、事件後、良房の甥道康親王が皇太子となった)にも『深く関わったといわれる。そのため、廃太子・恒貞親王の実母である娘の正子内親王は嘉智子を深く恨んだと言われている』。『仏教に深く帰依しており、自分の体を餌として与えて鳥や獣の飢を救うため、または、この世のあらゆるものは移り変わり永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を自らの身をもって示して、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を呼び起こすために、死に臨んで、自らの遺体を埋葬せず』、『路傍に放置せよと遺言し、帷子辻』(かたびらがつじ:現在の京都市北西部にあったとされる場所)『において遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したといわれ』。或いは、『その遺体の変化の過程を絵師に描かせたという伝説がある』とある。

「佛法更に又、是に過ぎたるものありや」の「是」は空海の教えた真言宗を指す。

「南天(なんてん)」南インド。

「惠蕚(ゑがく)法師」(生没年未詳)平安前期の本邦の僧で、日本と唐の間を何度も往復した。ウィキの「惠蕚によれば、彼の事蹟は本邦及び中国のさまざまな書籍に断片的な記載はあるものの、多くは不明である。ここで示されたように嘉智子の禅の教えを日本に齎すべしとの命を受けて、『弟子とともに入唐し、唐の会昌元年』(八四一年)『に五台山に到って橘嘉智子からことづかった』『贈り物を渡し、日本に渡る僧を求め』、『その後も毎年』、『五台山に巡礼していたが、会昌の廃仏』(開成五(八四〇)年に即位した唐の第十八第皇帝武宗が道教に入れ込んで道教保護のために教団が肥大化していた仏教や景教などの外来宗教に対して行った弾圧)『に遭って還俗させられた』。この『恵萼の求めに応じて、唐から義空が来日している。のち、恵萼は蘇州の開元寺で「日本国首伝禅宗記」という碑を刻ませて日本に送り、羅城門の傍に建てたが、のちに門が倒壊したときにその下敷きになって壊れたという』。『白居易は自ら『白氏文集』を校訂し、各地の寺に奉納していたが、恵萼は』その内の『蘇州の南禅寺のものを』会昌四(八四四)年『に筆写させ、日本へ持ち帰った。これをもとにして鎌倉時代に筆写された金沢文庫旧蔵本の一部が日本各地に残っており、その跋や奥書に恵萼がもたらした本であることを記している。金沢文庫本は『白氏文集』の本来の姿を知るための貴重な抄本である』。恵萼はまた、『浙江省の普陀山の観音菩薩信仰に関する伝説でも有名である』。諸伝書によれば、『恵萼は』大中一二(八五八)年に『五台山から得た観音像(『仏祖歴代通載』では菩薩の画像とする)を日本に持って帰ろうとしたが、普陀山で船が進まなくなった。観音像をおろしたところ船が動くようになったため、普陀山に寺を建ててその観音像を安置したという。この観音は、唐から外に行こうとしなかったことから、不肯去観音(ふこうきょかんのん)と呼ばれた』とある。この最後の話は先行する「北條九代記 卷第七 下河邊行秀補陀落山に渡る 付 惠蕚法師」に出、そこでも私は注しているので、参照されたい。

「文德天皇の御宇、齊衡(さいかう)年中に入唐(につたう)せしめらる」「齊衡」は八五四年から八五七年。これではしかし嘉智子の没後(嘉祥三(八五〇)年没)となり、如何にもおかしい。前注の通り、彼が弟子とともに入唐して五台山に至ったのは唐の会昌元(八四一)年)とするのがピンとくるから、この叙述は変である直後に「宣宗皇帝大中の年なり」とあるが、大中は八四七年から八五九年で、二つを合わせると、入唐はユリウス暦八四七年から八五七年の間ということになり、これだと、嘉智子の晩年と三年だけかぶるからまだしもではある

「登萊(とくねき)」読みはママ。山島半島の北側にある登(とう)州と萊(らい)州のこと。

「鴈門」山西省北部にある句注山(雁山)のこと。中国史に於ける北辺守備の要地。

「五臺」山西省北東部の台状の五峰からなる山で、峨眉山・天台山とともに中国仏教の三大霊場の一つ。文殊菩薩の住む清涼山に擬せられた。元代以降はチベット仏教の聖地となった。

「靈池寺」杭州塩官県の霊池院。現存しない模様。

「齊安禪師」塩官齊安 (?~八四二年)。「碧巖錄」の「第九十一則 鹽官 (えんかん)の犀牛 (さいぎう) の扇子」などで知られる禅僧。

「禪師の弟子義空(ぎくう)を伴ひて歸朝せらる」恵萼の帰朝は、先の注に記した、唐宣宗の大中一二年、本邦の天安二年、ユリウス暦八五八年のことであった。因みに、この年の八月、文徳天皇は薨去し、清和天皇が践祚している。

「京師の東寺に居住せし間に、皇太后、既に檀林寺を創(はじ)めて居らしめ、時々(よりより)道を問ひ給ふ」時代が齟齬している。おかしい

「根機」時機。禪語で言うなら、禅宗が広まるための禪機である。

「寶治」一二四七年~一二四八年。

「隆蘭溪」蘭溪道隆(一二一三年~弘安元(一二七八)年:建長寺にて示寂)。この辺りは先行する「北條九代記 卷之八 陸奥守重時相摸守時賴出家 付 時賴省悟」の本文と私の注及び私の「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の項を参照されたい。

「遊化」教化のために来日したこと。

「祖元」蘭溪道隆の後継として来日した無学祖元(一二二六年~弘安九(一二八六)年:建長寺にて示寂)。この辺りも私の「新編鎌倉志卷之三」の「圓覺寺」の項を参照されたい。

「榮西禪師」備中国賀陽郡(現在の岡山県加賀郡吉備中央町)の神官の子であった臨済僧明菴栄西(永治元(一一四一)年~建保三(一二一五)年)。正治二(一二〇〇)年に北条政子が建立した寿福寺の住職に招聘され、建仁二(一二一二)年には鎌倉幕府第二代将軍源頼家の外護により、京都に建仁寺を建立(同寺は禅・天台・真言の三宗兼学)、以後、幕府や朝廷の庇護を受け、禅宗の振興に努め、建仁寺で示寂した。

「攝家」摂関家。

「淸華」現行では「せいが」と濁る。清華家。公家の家格のの一つで最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置する。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることの出来る七家(久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川)を指す。

「王積翁」(一二二九年~一二八四年)が殺されたのは、先例に徴して日本に行けば問答無用で斬首されると恐れた水夫らの反乱によるものと考えられているようである。

「如智」不詳。補陀禅寺の長老という記載をネット上では見かけた。

「皈り」「かへり」(歸り)。]

 

「想山著聞奇集 卷の參」 「イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」

 

 イハナ坊主に化たる事

  幷、鰻同斷の事

Ihanabouzu

 濃州地の内、信州堺、御嶽山(おんたけさん)[やぶちゃん注:岐阜県下呂市及び高山市と長野県木曽郡王滝村に跨る。標高三〇六七メートル。]の麓の方へ寄(より)たる所は、我國[やぶちゃん注:尾張国。]の御領にて川上付知(つけち)加子母(かしも)と[やぶちゃん注:旧岐阜県恵那郡加子母村。「東濃檜」の主産地として知られる。現在は中津川市加子母。御嶽山の南西麓。ここ(グーグル・マップ・データ)。]云(いふ)村有。是を三ケ村(さんかそん)[やぶちゃん注:現在の中津川市の北部に位置する旧加子母村・付知村・川上村は、裏木曽三ヶ村と呼ばれ、尾張藩(旧天領)御料林域として豊かな森林資源に恵まれていた。]と云。【恵那郡也。】是、濃州の東北、深山の村の極(きはみ)なり。【五穀不毛の地にて山稼(やまかせぎ)のみの所なり。】此邊にては、毒もみと云事をなして、魚を獵するなり。【辛皮(からかは)[やぶちゃん注:山椒(双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ属サンショウ Zanthoxylum piperitum)の実の皮のことであろう(現在は山椒の木の薄皮を佃煮にしたものを食品としており、それをかく呼称している)。山椒の種子の皮に含まれるサンショオール(α-Sanshool・脂肪酸類縁体)には麻痺成分が含まれ、「毒揉(どくも)み」にはよく使われた。現在、この漁法は水産資源保護法によって禁止されている。]に石灰とあく灰(ばい)とを入(いれ)、せんじめ團丸(だんぐわん)となして淵瀨へ沈(しづむ)るなり、追付(おつつけ)、淵瀨一面に魚虫毒死するなり、方數十丈[やぶちゃん注:十八メートル四方前後。]の淵にても、僅(わづか)團丸二つ三つにて魚類悉く死するとなり、又其中へ小便を一度すると、毒に當りたる魚類忽ち蘇生してにげ失るゆゑ、毒もみには小便を禁ずる事也、能(よく)毒の妙は種々の事あるものなり。】或時、若き者ども、山稼に入て、其所の淵は至(いたつ)て魚多き故、けふは、晝休(ひるやすみ)に毒揉をなして、魚を捕(とり)て、今宵の肴(さかな)とせばや迚(とて)、朝より其催(もよほし)を企て[やぶちゃん注:毒団子を製するのには相応の時間がかかることが判る。]、やがて晝にも成(なり)たる頃、皆々一所に寄集(よりあつま)りて、晝飯を給(たべ)居(ゐ)たる所へ、何國(いづくに)より來りけん、坊主一人來りていふ樣(やう)、そち達は魚をとるに毒揉をなすが、是は無躰成(むたいなる)事なり外の事にて魚を捕え[やぶちゃん注:ママ。]兎も角もあれ、毒揉は決してなす間敷(まじき)と云。成程、毒流しはよからぬ事に候半(さふらはん)、以來、止申(やめまうす)べきと答へければ、毒揉は、魚と成(なり)ては遁(のが)れ方(かた)なく、誠に根だやしと成(なる)なり。以後は必(かならず)なし申(まうす)まじくと異見したり。皆々薄氣味もわるく成て、もふ愼み申べしと云ながら食事せしに、件(くだん)の坊主、直(ぢき)には立去(たちさ)らず、側に彳(たたず)み居(をり)たり。折節、人々團子(だんご)を喰居(くひをり)て餘りもあれば、是をたべられぬかと云(いひ)て坊主へ與(あたふ)るに、むまそふに[やぶちゃん注:「うまそふに」(美味そうに)。]給(たべ)たり。飯も餘りの澤山にあれば、是も給られぬかと、又與ふるに、悅んでたべたり。其内に、重ねては汁の殘りもあり、かけて進申(しんぜまう)すべしとて、汁懸(しるかけ)にして遣はせしに、此飯、甚だ給にくき樣子なれど、殘らずたべ終りて、去行(さりゆき)たり。跡にて、人々顏を見合(みあひ)て云樣(いふやう)、あれはいか成(なる)僧にや、此山奧は、出家の來(きた)るべき所に非ず、甚(はなはだ)不審なり。日頃、我等が惡所業をなせしを、山の神の來りて止(と)め給ふものか、又は弘法大師抔の來り給ふて、誡め給ふのにやあらん、以來は、もふ[やぶちゃん注:「もう」。]毒揉は止(やめ)にするがよきぞと云もあれど、又、強氣成(つよきなる)者は聞入(ききいれ)ずして云樣、此深山へ日々入込居(いりこみを)るものが、山の神や天狗がこはくば、山稼は止(やむ)るがよし、心臆(こころおく)したるものは兎(と)もあれ、いざや、我々計り毒揉なすべしとて、究竟(くつきやう)なる[やぶちゃん注:力を持て余した。]元氣者共、二三人して、遂に其日も毒揉をなしにけり。將(ま)して得物も多き中に、イハナ[やぶちゃん注:硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis 或いは日本固有亜種ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius 又は日本固有亜種ヤマトイワナ Salvelinus leucomaenis japonicus。]の、その丈け六尺程の大魚を得たり。皆々悅びて、さきの坊主の異見に隨はゞ、此魚は得られまじなど、口々に云罵(いひののし)りて、やがて村へ持歸り、若き者共、大勢寄集(よりあつま)りて、彼(かの)大魚を料理(つくり)、腹を割(わり)たるに、こは如何に、晝、坊主に與へたる團子を初め、飯なども其儘あり。此時に至りて、かの强氣(がうき)なる者迄も氣分臆(おく)れて、この魚は、得食(えしよく)せざりしと也。昔より、イハナは坊主に化(ばけ)るとの事、右三ケ村邊(あたり)にても、土俗云傳(いひつたふ)る事なりしに、現に坊主に化來(ばけきた)りたると也。是は、予が知己、中川何某、先年、彼むらへ久敷(ひさしく)勤役(ごんえき)なし居(ゐ)て、慥(たしか)に聞來(きききた)る咄なり。信州御嶽山の前後には、四尺五尺に及びたる大イハナも、折節は居ることなりと云。此邊、何れにても、土俗、おしなへて坊主に成(なる)と云來(いひきた)る事也。予、文政三年【庚辰(かのえたつ)】[やぶちゃん注:一八二〇年。]の夏、木曾路旅行の時、イハナの坊主に成たる事や有(ある)と、所々尋下(たづねくだ)りけるに、奈良井(ならゐ)[やぶちゃん注:中山道の宿場奈良井宿。現在の長野県塩尻市奈良井。ここ(グーグル・マップ・データ)。西側に接して次の藪原地区も確認されたい。]・藪原[やぶちゃん注:現在の長野県西部の木曾谷の北部にある木祖(きそ)村の中心集落で、古くは「やごはら」とも呼ばれた。鳥居峠の南麓にあって同北麓の奈良井とともに中山道の峠越えの宿場町であり、同時に北西方の境峠を越えて飛驒高山へ出る飛驒街道の分岐点でもあって交通の要所として栄えた。木曾谷の伝統産業である「お六櫛」の生産の中心で、現在も製材・木工業が発達している。]邊(あたり)に至りて、人足の内に、イハナの坊主に成たりと云咄しを知り居(をり)たる者、兩人有。是は、水上、御嶽山より出て、東のかたへ流れ出(いづ)る何とか云(いふ)川の瀨にて、毒流(どくながし)[やぶちゃん注:「毒揉み」に同じ。]にて、珍敷(めづらしき)イハナを二尾まで取(とり)て、一尾は五尺餘あり、一尾は少しちいさく五尺程有との事。腹中に團子あり。その團子はその日、山中にて、坊主に與へたる覺(おぼえ)のある團子なれば、皆々甚だ恐れ候との咄は、慥に承り候得ども、我々は少し所違ひ故、その魚は得見申さず候といふ。前の三ケ村の咄と全く同じ樣成(やうなる)事にて、いづれも、御嶽山の麓續きながら、西と東の違ひ故、その場所は三四十里程隔たれば、全く別の事也。狐は女と成(なり)、狸は入道と成、猫俣(ねこまた)は老婆と成(なる)の類(たぐひ)にて、イハナは坊主と化る者と見えたり。【濃州武儀(むぎ)郡の板取川(いたどりがは)[やぶちゃん注:現在の岐阜県と福井県の県境付近を水源として岐阜県関市・美濃市を流れ、長良川に合流する木曽川水系の河川。ここ(グーグル・マップ・データ)。]には大なるイハナ澤山にて、常々坊主に化て出(いづ)ると也、猶、其事は其地の者に篤(とく)ときゝ探りて、重ねて委(くはし)く記す積りなり。[やぶちゃん注:残念ながら、その後巻は現存しない。]

[やぶちゃん注:以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

 イハナは甲州・信州などの山川に生(うま)る魚也。ヤマメ[やぶちゃん注:山女はサケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種ヤマメ(サクラマス)Oncorhynchus masou masou。]といふ魚の類(たぐひ)にて、鮎に似たる魚也[やぶちゃん注:イワナは現在の魚類の分類学ではヤマメの同類ではないし、またアユ(キュウリウオ目キュウリウオ亜目キュウリウオ上科キュウリウオ科アユ亜科アユ属アユ Plecoglossus altivelis とも全く似ていない。]。ヤマメは斑文有(あり)、イハナは斑文なしといふ[やぶちゃん注:この説明もおかしい。ヤマメは確かに体の側面に上下に長い木の葉或いは小判状を呈した斑紋模様(パー・マーク)があるが、イワナ種群にも概ね白い斑紋が顕著に存在するからである。]。本草綱目啓蒙の嘉魚(かぎよ)[やぶちゃん注:岩魚の別名。]の條に、イハナ【津輕】一名山寐魚【通雅】溪ノ深淵中ニ産シ、巖穴ニ居ル故ニ、イハナト名ク、形チ鱒魚ニ似テ小ク、白色ニシテ、ヤマベ[やぶちゃん注:ここは「ヤマメ」の東北地方での地方呼称。面倒なことに関東地方では「ヤマメ」は全くの別種「追河(おいかわ)」(コイ目コイ科 Oxygastrinae 亜科ハス属種オイカワ Opsariichthys platypus)を指すので注意が必要。]ノ如クナル班紋[やぶちゃん注:「班」はママ。以下同じ。注さない。]ナシト云々。又、ヤマべハ津輕ノ方言ニシテ、京師ニテハアマゴ[やぶちゃん注:この記載は現行ではアマゴ(漢字表記は「甘子」など)はサケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の陸封型を指すので誤りである。]ト云(いひ)、一名ミヅグモアメゴ【伊州】イモコ【若州】ヒラッコ【和州白矢村[やぶちゃん注:現在の奈良県吉野郡川上村白屋(しらや)のことか? ここ(グーグル・マップ・データ)。]】ヤマガハ【丹後】マコ【同上】ヱノハ【大和本草、雲州ノエノハハ別ナリ。[やぶちゃん注:出雲の「エノハ」は海産のスズキ目スズキ亜目ヒイラギ科ヒイラギ属ヒイラギ Nuchequula nuchalis を指す。]】形チ香魚(アユ)ノ如ク、長サ七八寸、身ニ黑班及細朱點アリ[やぶちゃん注:おかしい。朱(紅)色の点紋が有意に目立つのはイワナではなくヤマメである。小野蘭山は後で別種とか言っているが、以下の叙述を見ても少なくともこの部分ではイワナとヤマメをごっちゃにして記載しているとしか思われない。実際の魚体を観察せずに語っている可能性が極めて高く、信用が措けない。、鱗細ナリ、奧州・和州、及他州ニ產スル者ハ、黑班ノミニシテ朱點ナシ。是、廣東新語[やぶちゃん注:清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる広東地誌及び人物風俗記録。]ノ似嘉魚(ニカギヨ)ナリと云々、ヤマべとイハナとは、ボラ[やぶちゃん注:ボラ目ボラ科ボラ属ボラ Mugil cephalus。]とアカメ[やぶちゃん注:スズキ目スズキ亜目アカメ科アカメ属アカメ Lates japonicus。海産の大型種であるが汽水域にもよく入り込む肉食魚。和名は「赤目」で、眼が暗い場所で光を反射すると角度によっては赤く光ることに由来する。しかし、ボラとアカメは全く似てなんかいない。この謂いもおかしい。蘭山は「アカメ」を他の魚と誤認している可能性が高いように思われる。]のことく、同じ樣成(やうなる)ものにして、全く別種なり。ヤマメは瀧の上に居(をり)、イハナは瀧の下に住もの也。濃州の武儀郡の板取川にては、三尺以上のヤマメの事を鼻(はな)マガリと云。岩川にて大きくなれば、鼻曲るゆゑとぞ。又、同じ地續き、同國郡上郡の郡上川にてはアマゴと云て、味甚だ宜しと。三尺以上の大なる分をアマヽス[やぶちゃん注:異様に大きいことから見て、これはサケ目サケ科イワナ属イワナ亜種アメマス Salvelinus leucomaenis leucomaenis と思われる。アマゴ(サツキマス)は大きくなっても五十センチメートル程度でこんなに大きくはならない。]といふ。風味、鱒の通りなれども、少し劣れりと。諸國とも、方言は種々なる故、分り兼るなり。

 又、老媼茶話に曰(いはく)。慶長十六年【辛亥】[やぶちゃん注:一六一一年。]七月、蒲生飛驒守秀行卿、只見川毒流しをし給へり。柿澁、蓼(たで)、山椒の皮、家々の民家にあてゝ[やぶちゃん注:分担させて。](つき)はたく。此折節、フシと云(いふ)山里[やぶちゃん注:不詳。原典(後注のリンク先)を参照のこと。]へ、旅行の僧、夕暮に來り、宿をかり、主(あるじ)を呼(よび)て、此度の毒流しのことを語り出し、有情非情に及(およぶ)まで、命を惜まざるものなし。承るに、當大守、明日、此川へ毒流しをなし給ふと也。是、何の益ぞや。果して業報(ごふほう)を得玉(えたま)ふべし。何卒、貴殿、其筋へ申上、とゞめ玉へかし。莫大の善根なるべし。魚鼈(ぎよべつ)の死骨を見給ふとて、大守の御慰みにも成(なる)まじ。いらざる事をなし給ふ事ぞかしと、深く歎きける。主も旅僧の志をあはれみ、申樣(まうすやう)、御僧の善根、至極、理(ことわり)にて候得ども、最早、毒流も明日の事に候上、我々しきの[やぶちゃん注:我々のようなる。]賤(いやし)きもの、上樣へ申上候とて、御取上(おとりあげ)も是(これ)有(ある)まじ。此事、先達(せんだつ)て、御家老の人々、御諫め有(あり)しかども、御承引御座なく候と承り候ひしと云。扨(さて)、我身も隨分の貧者にて、參らする物もなし、佗しくとも聞(きこ)し召(めし)候へとて、柏の葉に粟(あは)の飯をもりて、旅僧をもてなしける。夜明(よあけ)て、僧深く愁(うれひ)たる風情(ふぜい)にて、いづくともなく出去(いでさ)れり。扨又、曉には、家々より件(くだん)の毒類持運(もちはこ)び、川上より流しける。異類の魚鼈、死(しに)もやらず。ぶらぶらとして、さしもすさまじき毒蛇ども浮出(うかみいで)ける。其内に、壹丈四五尺計(ばかり)[やぶちゃん注:四・二四~四・五四メートル。]の鰻、浮出けるに、その腹、大きにふとかりしかは[やぶちゃん注:「は」はママ。]、村人、腹をさき見るに、粟の飯、多く有。彼(かの)あるじ、是を見て、夕べ宿せし旅僧の事を語りけるにぞ、聞(きく)人、扨は其坊主は鰻の變化(へんげ)來りけるよと、皆々憐れに思ひける。同年八月廿一日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流(ながれ)をふさぎ、洪水に會津四群[やぶちゃん注:「群」はママ。]を浸(ひた)さんとす。秀行の長臣、町野左近・岡野半兵衞、郡中の役夫を集め是を掘開(ほりひら)く。此時、山崎の湖水、出來(いでき)たり。柳津(やないづ)の舞臺[やぶちゃん注:福島県河沼郡柳津町にある臨済宗靈岩山圓藏寺(えんぞうじ)の本堂正面の只見川を望む舞台のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。]も、此地震に崩れ、川へ落ち、塔寺の觀音堂、新宮の拜殿も倒れたり。其明(あく)る年五月十四日、秀行卿逝(せい)し給へり。人骨、河伯龍神の祟りなりと恐れあへりと云々。【此茶話と云は、今會津藩の三坂氏の人の先祖なる由、三坂越前守隆景の後[やぶちゃん注:後裔。]、寬保年間にしるす書にて、元十六卷有(あり)て、會津の事を多く記したり、此本、今、零本(れいほん)[やぶちゃん注:完全に揃っている本を完本と称するのに対し、半分以上が欠けていて、残っている部分が少ない場合を「零本」という。零は「はした・少し」の意で「端本(はほん)」に同じい。]と成(なり)て、漸(やうやう)七八卷を存せり、尤(もつとも)、其家にも全本なしと聞傳(ききつた)ふ、如何にや、多く慥成(たしかなる)、怪談等を記す。】全く同日の談也。依(より)て、倂せ記し置きぬ。鰻も數百歲を經ては、靈に通ずるもの歟。【七の卷に記し置(おき)たる大鰻と見合(みあは)べし。[やぶちゃん注:七巻は現存しない。]】扨又、毒流しの事は、古くより有(ある)事と見えたり。三代實錄に、元慶六年[やぶちゃん注:八八二年。]六月三日、僧正遍昭、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有。又、東鑑に、文治四年[やぶちゃん注:一一八八年。]六月十九日、二季彼岸放生會の間、東國斷殺生、其上如燒狩毒流之僧向後可停止之由、被定訖云々。左(さ)すれば、上古は、毒流しは國禁なる事と知れたり。毒流しは、山椒の皮と薯蕷(やまのいも)と石灰とを和して沈(いづむ)る所も有。又は、辛皮(からかは)【山椒の皮也。】胡桃(くるみ)の皮、唐辛(たうがら)しを石灰にて煮詰(につめ)、或は多葉粉(たばこ)の莖、又は澁(しぶ)かきなど、國々にて色々の仕方有(ある)事と見えたり。大同小異なり。

[やぶちゃん注:「老媼茶話」「ろうおうさわ」(現代仮名遣)は会津藩士と思われる三坂春編(みさかはるよし 宝永元・元禄十七(一七〇四)年?~明和二(一七六五)年)が記録した会津地方を中心とする奇譚を蒐集したとされる寛保二(一七四二)年の序を持つ怪談集。最も知られるのは「入定の執念」で、これは原文と私の注及び現代語訳をリンク先で読める。未見の方は是非。私がハマりにハマった大変面白い怪談である。ここに出る「老媼茶話」の「卷之弐」に載る「只見川毒流」(ただみがはどくながし)は、本件に類似した話柄(但し、舞台は江戸)である私の電子化訳注「耳囊 之八 鱣魚[やぶちゃん注:鰻。の怪の事の注で既に電子化注してあるので、参照されたい(なお、比べて戴くと判るが、想山は一部をカットしている)

「蒲生飛驒守秀行卿」蒲生秀行(がもうひでゆき 天正一一(一五八三)年~慶長一七(一六一二)年五月十四日)は従四位下・飛騨守・侍従。蒲生氏郷の嫡男。天正一八(一五九〇)年に伊達政宗(会津は伊達政宗旧領)を抑えるため、秀吉の命で伊勢より陸奥国会津に移封されたが、後の慶長三(一五九八)年にやはり秀吉の命で会津から宇都宮へ移封されている。後の関ヶ原の戦いでの軍功によって没収された上杉領のうちから陸奥に六十万石を与えられて会津に復帰した。しかし、会津地震や家中騒動の再燃などが重なり、その心労などのために死去した。享年三十で若死である。

「同年八月廿一日、辰の刻、大地震山崩れ、會津川の下の流(ながれ)をふさぎ、洪水に會津四群を浸さんとす」会津地震。慶長十六年八月二十一日(グレゴリオ暦一六一一年九月二十七日)午前九時頃に会津盆地西縁断層帯付近を震源として発生した直下型地震で、地震の規模はマグニチュード六・九程度と推定されているが、震源が浅かったため、局地的には震度六強から七に相当する激しい揺れがあったとされる。記録によれば、家屋の被害は会津一円に及び、倒壊家屋は二万戸余り、死者は三千七百人に上った。鶴ヶ城の石垣が軒並み崩れ落ち、七層の天守閣が傾いたほか、本文で後に記されるように、多くの寺社仏閣も大きな被害を受けた。また、各地で地滑りや山崩れが発生、特に喜多方市慶徳町山科付近では、大規模な土砂災害が発生して阿賀川(当時の会津川)が堰き止められたため、東西約四~五キロメートル、南北約二~四キロメートル、面積十~十六平方キロメートルにもなる山崎新湖が誕生、二十三もの集落が浸水した。その後も山崎湖は水位が上がり続けたが、河筋のバイパスを設置する復旧工事によって三日目あたりから徐々に水が引き始めた。しかしその後の大水害もあり、山崎湖が完全に消滅するには実に三十四年(一説では五十五年)の歳月を要し、そのため、移転を余儀なくされた集落も数多かった。さらに旧越後街道の一部がこの山崎湖に水没し、勝負沢峠付近も土砂崩れにより不通となって、同街道は会津坂下町から鐘撞堂峠を経由するものに変更を余儀なくされたされた(以上はウィキの「会津地震」に拠った)。この秀行自らが指揮を執った大々的な毒流しは同年七月であるから、地震発生は僅か一ヶ月後のことで、事実とすれば、これを「祟り」とした人心はすこぶる理解出来る

「町野左近」氏郷以来の忠臣の家系。

「岡野半兵衞」不詳ながら、同前であろう。

「柳津の舞臺」福島県河沼郡柳津町にある臨済宗靈岩山圓藏寺(えんぞうじ)の本堂正面の只見川を望む舞台のこと。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「塔寺の觀音堂」現在の福島県河沼郡会津坂下町塔寺字松原にある真言宗豊山派金塔山恵隆寺。本尊は十一面千手観音菩薩で、寺自体を立木観音と通称する。この観音も会津地震で倒壊している。

「新宮の拜殿」現在の福島県喜多方市慶徳町新宮にある新宮熊野神社。ウィキの「新宮熊野神社」によれば、天喜三(一〇五五)年の『前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願のために熊野堂村(福島県会津若松市)に熊野神社を勧請したのが始まりであるといわれ、その後』の寛治三(一〇八九)年の『後三年の役の時に頼義の子・義家が現在の地に熊野新宮社を遷座・造営したという』源氏所縁の神社であったが、後、盛衰を繰り返した『慶長年間に入り蒲生秀行が会津領主の時』、本社は五十石を支給されたが、『会津地震で本殿以外の建物は全て倒壊してしまった』とある。以上見るように、蒲生秀行が毒流を強行した只見川周辺及び彼が助力した会津を守護するはずの神社仏閣が悉く倒壊、秀行もほどなく死したという紛れもない事実を殊更に並べ示すことによって、まさに典型的な祟り系の怪談に仕上げられていることが判る

「三代實錄」正しくは「日本三代實錄」。平安時代に編纂された歴史書で「六国史」の第六に辺り、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇の三代に相当する、天安二(八五八)年八月から仁和三(八八七)年八月までの三十年間を扱ったもの。延喜元(九〇一)年成立。編者は藤原時平・菅原道真・大蔵善行・三統理平(みむねのまさむら)。編年体で漢文。全五十巻。

「僧正遍昭、七ケ條を起請せし中に、流ㇾ毒捕ㇾ魚事を禁ぜらるゝ條有」で原文が読めるが、七箇条の最後に(一部の表記を恣意的に変更した)、

   *

其七。應禁流毒、捕魚事。如聞。諸國百姓、毎至夏節、剝取諸毒木皮、搗碎散於河上。在其下流者、魚蟲大小、擧種共死。尋其元謀、所要在魚、至于蟲介、無用於人。而徒非其要、共委泥沙。人之不仁、淫殺至此。夫先皇永遺放生之仁、後主盍除流毒之害。伏望。自今以後、特禁一時之殺、將救群蟲之徒死。

   *

とあるのを指す。

「東鑑に、文治四年[やぶちゃん注:一一八八年。]六月十九日、二季彼岸放生會の間、於東國斷殺生、其上如燒狩毒流之僧向後可停止之由、被定訖云々」「吾妻鏡」の「卷第八」の文治四年六月の最後の条に(私が書き下した)、

   *

十九日、二季の彼岸放生會(はうじやうゑ)の間、東國に於いて殺生(せつしやう)を禁斷せらるべし。其の上、燒狩(やきがり)・毒流しの類ひのごときは、向後(きやうご)、停止(ちやうじ)すべきの由、定められ訖(をは)んぬ。諸國に宣下(せんげ)せらるべきの旨、奏聞を經らるべしと云々。

   *

とある。

「薯蕷(やまのいも)」一応、かく読みを振ったが、毒流しの材料としては私はこれはナス目ナス科ハシリドコロ属ハシリドコロ Scopolia japonica のことを指しているのではないかと実は疑っている。本種は「走野老」と書き、これはトコロ(野老)は全くの別種であるユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属 Dioscorea の蔓性多年草の山芋(=薯蕷(音は「ショヨ」))の一群を総称するものとして用いられる語で、混同されやすいからである。しかもハシリドコロは強い毒性があり、「走野老」という和名は「食べると錯乱して走り回ること」及びその根茎が「トコロ(野老)」に似ていることに拠るからである。その毒成分はアルカロイド類のトロパンアルカロイドを主とし、全草が有毒で、特に根茎と根の毒性が強い。人間の中毒症状としては嘔吐・下痢・血便・瞳孔散大・眩暈・幻覚・異常興奮などで、最悪の場合には死にさえ至る。これは同じ西洋の毒殺にしばしば使われたことで知られるベラドンナ(ナス科オオカミナスビ属オオカミナスビ Atropa bella-donna)などと同様の症状を呈する(以上は主にウィキの「ハシリドコロに拠った)。「毒揉み」に用いるのなら、これでしょう!

「胡桃(くるみ)の皮」クルミ(マンサク亜綱クルミ目クルミ科クルミ属 Juglans)の樹皮や果実の外皮には多量のタンニンが含まれ、古くから毒流しの素材として用いられてきた。]

2017/05/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」

 

 樹怪

 

 上總(かづさ)國大久保といふところには樹の化物が出る。山の裾野で片側は田に續いた道のほとりに、大木が澤山生えて居るが、夜おそくこゝを通りかゝると、大きな木がいくつともなく道に橫たはつて、容易に通りがたいことがある。さういふ時には心得てあとへ下り、暫くしてから行きさへすれば、前の木は皆消え失せ、常の道になつて何の障害もない。木の倒れてゐる時に無理に通らうとすると、必ずよくない事があると「譚海」に見えてゐる。昔のやうに照明の乏しい時代には、夜道を步いて行く場合に、急に目の前に川が出來たり、垣根が道を遮つたりすることがある。平生ある筈のないところにそんなものが出來たら、暫時瞑目して心をしづめ、それから步き出した方がいゝと老輩から聞かされた。大久保の樹怪も多分その類であらう。

[やぶちゃん注:以上は「譚海 卷之八」に出る「上總國大久保に樹の化物出る事」。□は欠字。

   *

上總國大久保と云所には、樹の化物出るなり。山のすそのにて、かたそばは田につゞきたる道のほとりに大木あまた生て有、此道を深夜に人過る時、大なる木いくらともなく道に橫たはりふして、一向通りがたき事每年有。是に行あふ人は、いつも心得て跡へしりぞき、しばらく有てゆく時は、先の木ども皆々うせて、常の道の如く成て往還にさはる事なし。木のたふれふしたる時、無理にこえ過んとすれば、必あしき事有といひつたへたり。又同国□□といふ所にもあやしき事ありて、夜行には時々人のなげらるる事あり、狐狸の所爲にや、こゝろえぬ事なり。

   *]

 

 樹自身に靈があるのか、他の妖が樹を動かすのかわからぬが、老樹の怪をなす話は屢々ある。上元中、臨淮の諸將が夜集まつて宴を張り、猪肉羊肉を炙り、香ばしい匂ひを四邊に漲らせて居ると、突然大きな手が窓から差込まれた。肉を一片貰ひたいといふのである。誰も與へずにゐたところ、頻りに同じ要求を繰り返すので、ひそかに繩を以て輪を作り、手を差込む穴のところにあてがつて置いて、それぢや肉をやらうと云つた。再び差込まれた手はこの繩に括られ、どうしても脱けることが出來ぬ。夜が明けてからよく見たら、大きな楊の枝であつた。乃ちこれを切り、その樹を求めて近い河畔に發見し、根本から伐り倒してしまつたが、その際多少の血を見たさうである(廣異記)。

[やぶちゃん注:「臨淮」(りんわい)は現在の江蘇省宿遷市泗洪(しこう)県の南東部に相当する。唐朝(七〇四年)に県として設置された。の辺り(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「廣異記」の「卷七」の「臨淮將」。

   *

上元中、臨淮諸將等乘夜宴集、燔炙豬羊、芬馥備至。有一巨手從窗中入、言乞一臠、眾皆不與。頻乞數四、終亦不與。乃潛結繩作彄、施於孔所、紿云、「與肉。」。手復入。因而繫其臂、牽挽甚至、而不能。欲明、乃仆然而斷、視之、是一楊枝。持以求樹、近至河上、以碎斷、往往有血。

   *]

 

 郭代公の常山の居で、夜中に忽然として見知らぬ人が現れた。盤のやうに平たい顏で、燈下に出たせゐか、大きな目をぱちぱちさせてゐる。公は少しも恐れず、おもむろに筆を染めて「久戍人偏老。長征馬不肥」の十字をその廣い頰に題し、自らこれを吟じてゐると、怪しい男の姿は自然に消えてしまつた。四五日たつて公が山中を步いてゐた時、巨木の上に大きな白い耳のやうなものがあつて、そこに例の題句が記されてゐるのを發見した。先夜の妖はこの木だつたのである。盤のやうに廣い顏の謎もこれで解けた(諾皐記)。

[やぶちゃん注:「郭代公」東洋文庫版「酉陽雑俎」の今村与志雄氏の割注によれば、郭元振とある。これは郭震(六五六年~七一三年)で盛唐の詩人で政治家。

「常山」これは柴田の「嘗」(かつて:以前に)の判読の誤り

「久戍人偏老。長征馬不肥」訓読すれば、

 久しく戍人たり 偏へに老ゆ

 長征の馬 肥えず

で今村氏は『ながき守りに人老いて』『厭世の馬やせにけり』と訳しておられる。

「大きな白い耳のやうなもの」今村氏の「白耳」の注には『きのこの一種。あるいは木耳(きくらげ)の一種か』とある。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十四」の「諾皐記」にある以下。

   *

郭代公嘗山居、中夜有人面如盤、寅目出於燈下。公了無懼色、徐染翰題其頰曰、「久戍人偏老、長征馬不肥。」公之警句也。題畢吟之、其物遂滅。數日、公隨樵閒步、見巨木上有白耳、大如數斗、所題句在焉。]

 

 深夜に異樣なものが窓から手を差出す話は他にもある。少保の馬亮公が若い時分、燈下に書を讀んでゐると、突然扇のやうな大きな手が窓から出た。公が問題にせぬので、手はいつか見えなくなつたが、次の晩も同じやうな手が出た。今度は朱筆を執つてその手に自分の書き判をしるしたところ、手の持ち主は引込めることが出來ぬらしく、大きな聲で脅かすやうに洗つてくれと叫び出した。公が寢てしまつてからも、叫ぶ聲は續いてゐたが、明方近くなつてはさすがに聲が弱り、歎願の調子に變つて來た。何だか可哀さうになつて、水で洗つてやつたら、手は次第に縮んで遂に見えなくなつた。

 

「異聞總錄」にあるこの手なども、前の例を以て推せば、やはり樹怪の惡戲らしく思はれる。倂し馬亮公は肝腎の花押(かきはん)を洗ひ去つたのだから、後にこの木にめぐり合つても、それと斷定することは困難だつたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:以上は「異聞總錄」(宋代の作者未詳の志怪小説集)の「卷之三」の以下。

   *

馬少保公亮少時、臨窗燭下書、忽有大手如扇、自窗欞穿入。次夜又至、公以筆濡雄黃水、大書花押、窗外大呼、「速爲我滌去、不然、禍及於汝。」。公不聽而寢。有頃、怒甚、求爲滌去愈急、公不之顧。將曉、哀鳴、而手不能縮、且曰、「公將大貴、姑以試公、何忍致我極地耶。公獨不見溫嶠然犀事乎。」。公大悟、以水滌去花押、手方縮去、視之一無所見。

   *]

 

 臨瀨の西北に寺があつて、智通といふ僧が常に法華經を讀誦してゐた。寒林靜寂の地で人の來るやうな事はないのに、智通が住んで何年かたつた或晩、その院をめぐつて智通の名を呼ぶ者がある。曉に至ればおのづから聞えなくなるが、夜になるとまた呼ぶ。さういふことが三晩も續いたので、智通もたうとう我慢しきれなくなり、わしを呼ぶのは何用だ、用があるなら入つて來て言へ、と云つた。やがて入つて來たのは、六尺餘りの靑い顏をした男で、黑い着物を着てゐる。目も口も異常に大きいが、智通に向つて神妙に手を合せてゐる。その顏をぢつと見て、お前は寒いのか、それならこゝへ來て火にあたれ、と云つたら、しづかに燵のほとりに座を占めた。智通はまた誦經三昧に入る。五更に至つて顧みると、靑い男は爐の火に醉つたらしく、目を閉ぢ口をあいて、鼾をかきながら睡つてゐた。これを見た途端に智通は惡戲氣分になり、香匙(きやうじ)で爐の灰を掬つて、あいてゐる口の中に入れた。男は大いに驚いて、何か叫びながら駈け出した。閾のところで躓くやうな音がしたが、その姿は寺の裏山に消えた。夜が明けてから閾のところを見れば、一片の木の皮が落ちてゐる。智通はこれを袖に入れて裏山へ行つて見た。何里か行つたところに靑桐の大木があつて、その根に近い邊に新たに缺けたやうな跡が目に付いたから、例の皮をあてがつたらぴたりと合つた。幹の半ばぐらゐのところに深い疵のあるのが昨夜の男の口で、香匙で掬ひ入れた次が一杯になつて居り、火はなほ餘煙を保つてゐた。智通はこの木を伐り燒き棄てたので、それきり怪は絶えた(支諾皐)。

[やぶちゃん注:「臨瀨」原典の一本は「臨湍」とし、現在の河南省南陽市鄧州(とうしゅう)市。(グーグル・マップ・データ)。

「智通」未詳。

「五更」午前四時頃。

「香匙」香(こう)を掬う匙(さじ)。

「何里」原典の「酉陽雜俎」は唐代の作品であるから、当時の一里は五百五十九・八メートルであるから、三キロメートル前後。

 以上は「酉陽雜俎」の「續集卷一 支諾皋上」の第二話である。

   *

臨瀨西北有寺、寺僧智通、常持「法華經」入禪。每晏坐、必求寒林靜境、殆非人所至。經數年、忽夜有人環其院呼智通、至曉聲方息。歷三夜、聲侵戸、智通不耐、應曰、「汝呼我何事。可人來言也。」。有物長六尺餘、皂衣靑面、張目巨吻、見僧初亦合手。智通熟視良久、謂曰、「爾寒乎。就是向火。」。物亦就坐、智通但念經。至五更、物爲火所醉、因閉目開口、據爐而鼾。智通睹之、乃以香匙舉灰火置其口中。物大呼起走、至閫若蹶聲。其寺背山、智通及明視蹶處、得木皮一片。登山尋之、數裏、見大靑桐、樹稍已童矣、其下凹根若新缺然。僧以木皮附之、合無蹤隙。其半有薪者創成一蹬、深六寸餘、蓋魅之口、灰火滿其中、火猶熒熒。智通以焚之、其怪自絶。

   *]

 

 この話は石濤に附合されたりしてゐるが、何にしても石濤の時代は明末清初であるし、唐代の書に出てゐる以上、智通に讓るべきであらう。「廣異記」より「支諾皐」に至る一連の話は、山魈木魅(さんせうぼくみ)に類する怪である。山中蕭散の地に置かなければその妙を發揮しにくいけれど、彼等が人間に近付かうとした迹に、共通性のあるのが吾々には面白い。

[やぶちゃん注:「石濤」(せきとう 一六四二年~一七〇七年)は清初に活躍した遺民画人。俗称は朱若極、石濤は字で、後に道号とした。明王室の末裔に当たる靖江王府(今の広西チワン族自治区桂林市)に靖江王家末裔として生まれた。高僧で名画僧として知られる。黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により、清朝第一の傑出した画家に挙げられる人物(以上はウィキの「石濤に拠った)。

「山魈木魅(さんせうぼくみ)」山中の妖怪・精霊である魑魅魍魎の一群の別称。「山魈」(現代仮名遣「さんしょう」)は狭義には一本足で、足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっており、手足の指は三本ずつとする。男は「山公」、女は「山姑」と称し、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉を要求する。嶺南山中の大木の枝の上に住み、木で作った囲いに食料を貯え、虎を操り、要求物を呉れた人間は虎が襲わないようにしたりするという。「木魅」は所謂、「木霊(こだま)」の妖怪化である。

「蕭散」静かでもの淋しいこと。]

 

 かういふ樹怪の存在は山中に限つたわけでもない。元和中、崇賢里の北街の大門外に大きな槐の樹があり、黃昏にこれを望めば、恰も外を窺ふ婦人のやうに見えた。孤犬老烏の類が屢々樹中に飛び入るのを怪しみ、伐り倒して見たところが、中から嬰兒の死體が發見されたと「諾皐記」にある。これなどは市中の大樹であるだけに、山魅木魅よりも却つて氣持が惡い。何でその槐が婦人のやうに見えたかわからぬが、似たやうな事はあるものらしく、江戸時代にも京都の御靈社内の椋の木が十八九の娘の形に見えるといふので、「文化祕筆」などにはその畫を入れ、側へ寄れば常の木の姿である、夜分に東へ三町ほど行つて見れば、顏の樣子、髷や髱の工合、帶の風までうるはしく、凄いほどに見える、大坂から夕涼みがてら見物に來る人が多いとあつて、その連中の詠んだ狂歌まで載せてゐる。一方は黃昏、一方は夜分で、こんもり茂つた木の形が女のやうに見えるのであらう。「諾皐記」の方はまだ若干の妖味があるが、「文化祕筆」の方は物數寄な納涼者を驅り出した外、格別の話もなかつたやうである。

[やぶちゃん注:これも次の段も、所謂、心霊写真の多くを占める単なるシミュラクラ(Simulacra)現象に過ぎぬ。

「元和」八〇六年~八二〇年。

「崇賢里」長安城内の坊里の一つ。

「京都の御靈社」現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪(たてまち)町にある上御霊(かみごりょう)神社か。下御霊神社ならば京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町。

「髱」は「たぼ」或いは「つと」と読む。襟足に沿って背中の方に張り出した後ろ髪の部分。たぼがみ。たぶ。関西では「つと」と称するのでここはその方が正しいであろう。

 前述のそれは「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皐記下」の以下。

   *

有陳朴、元和中、住崇賢里北街。大門外有大槐樹、朴常黃昏徙倚窺外、見若婦人及狐大老烏之類、飛入樹中、遂伐視之。樹三槎、一槎空中、一槎有獨頭慄一百二十、一槎中襁一死兒、長尺餘。

   *

「文化祕筆」は以前に述べた通り、所持しないので提示出来ない。]

 

 晉の劉曜の時、西明大の内の大樹が吹き折れて、一晩たつたら人の形に變じた。髮の長さが一尺、鬚眉の長さが三寸もあつて、それが皆黃白色である。兩手を歛(をさ)めたやうな形で、兩脚は裙のある著物を著た形であつた。たゞ目鼻だけがない。毎夜異樣な聲を發してゐたが、十日ばかりで枝を生じ、遂に大樹になつて繁茂したと「集異志」に見えてゐる。これは人の形に變じただけで、これといふ妖はなさなかつたらしい。「諾皐記」の槐も「文化祕筆」の椋も茂つたところが人に見えたのに、「集異志」の例は風に吹き折れた後の形であるのが變つてゐる。風に音を立てるのは樹木の常だから、毎夜聲ありといふだけでは、妖といふほどのことはないかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「劉曜」(りゅうよう 二七五年頃~三二九年)五胡十六国時代の前趙(漢)の第五代皇帝。司馬炎によって建てられた王朝「西晉」(二六五年~三一六年)を漢の皇族として長安を攻略、西晋を滅ぼした。従ってこの「晉の劉曜の時」という言い方は誤りである。

「西明大」洛陽城南の西明門付近か。

「裙」「もすそ」。裳裾。

 以上の出典とする「集異志」は「集異記」か? しかし同書には見当たらない。「三國志」のサイトのにある以下が一致する内容である。「晉書」や清の劉於義の「陝西通志」に載る。

   *

西明門大樹風吹折、經一宿、樹撥變爲人形、發長一尺、鬚眉長三寸、皆黃白色、有斂手之狀、亦有兩著裙之形、惟無目鼻、每夜有聲、十日而生柯條、遂成大樹、枝葉甚茂。

   *

 

 大原佛寺に居る董觀といふ僧が、從弟の王生と共に南に遊び、山館に一宿した時、王生は已に眠り、董觀はまだ寢ずに居ると、燈下に何者か現れて燭を掩つた。その樣子は人の手のやうであるが指がない。注意して見れば燭影の外に何か居るやうなので、急に王を呼び起した。王が起きるとその手は見えなくなつたが、寢てはいかん、怪しい者がまた來るかも知れぬ、と云はれ、杖を持つて待ち構へた。暫くたつて何も現れぬので、王は怪しいものなんぞゐやしない、下らぬことを云つておどかしてはいけませんよ、と云つてまた寢てしまつた。漸くうとうとする時分に現れたのは、身の丈(たけ)五尺餘りの怪しい者、燭を掩ふやうにして立つたが、手もなければ目鼻もない。董は益々恐怖して王を呼び起したけれど、一度も怪しい影を見ない王は、腹を立てて起きようともせぬ。董は已むを得ず杖を揮つて一撃を食はせた。倂し先方の身體はまるで草のやうで、杖はずぶずぶ中に入つてしまふから、力の入れやうがない。とにかくこの一擊により、怪しい姿は見えなくなつたやうなものの、董はまた來ることを恐れ、明方まで一睡も出來なかつた。翌日になつて山館の役人を訪ひ、委細を話したところ、これから西數里のところに古い杉があつて、それが常に怪をなすといふことである、疑はしければ行つて御覽になつたら如何です、と云ふ。董と王は役人に案内して貰つて、そこまで出かけて見た。成程古い杉の木があつて、董の杖はその枝葉の間を貫いてゐる。役人は二人を顧みて、こいつが怪しいといふことは前から聞いてゐたのですが、これで譃でないことがよくわかりました、と云つた。三人はその場を去らず直ちに斧を執り、怪しい杉の木を伐り倒してしまつた。「宣室志」にあるこの話が今までと違ふのは、手を以て燭を蔽ふ點に在る。もし二人とも知らずにゐたら、更に第二段の惡戲に移ることは疑ひを容れぬ。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「草木十一」に「董觀」として「宣室志」からとして載る以下。

   *

有董觀者嘗爲僧、居於太原佛寺。太和七年夏、與其表弟王生南遊荊楚、後將入長安。道至商於。一夕。舍山舘中。王生既寐、觀獨未寢。忽見一物出燭下、既而掩其燭。狀類人手而無指。細視、燭影外若有物、觀急呼王生。生起、其手遂去。觀謂王曰、「慎無寢、魅當再來。」因持挺而坐伺之。良久、王生曰、「魅安在。兄妄矣。既就寢。頃之。有一物長五尺餘。蔽燭而立、無手及面目。觀益恐、又呼王生。生怒不起。觀因以挺椹其首、其軀若草所穿。挺亦隨入其中、而力取不可得。俄乃退去。觀慮又來、迨曉不敢寢。明日。訪舘吏。吏曰、「此西數里有古杉、常爲魅、疑即所見也。」。卽與觀及王生徑尋、果見古杉、有挺貫其柯葉間。吏曰、「人言此爲妖且久、未嘗見其眞。今則信矣。」。急取斧、盡伐去之。

   *]

 

 以上の樹怪は種々の形を執つて居るが、いづれにしても人を驚かす程度で、人を害するやうなことはない。馬亮公にしろ、智通にしろ、反對に怪を苦しめてゐるくらゐである。然るに「子不語」に至つて、はじめて人を害する怪が出て來た。西蜀に出征した兵士が或木の下を通りかゝると、三人まで倒れて死んだ。その木は枯枝ばかりで、花も葉もなかつたが、下枝が鳥の爪のやうな形をしてゐて、下を通る者があると摑むのである。これを見屆けてから劍を拔いて切つたら、枝から血が流れて、その後は無事であつた。かうなると動物だか、植物だか、俄かに判斷が付かぬやうである。

[やぶちゃん注:以上は「子不語」の「第十九卷」に載る以下。

   *

費此度從征西蜀、到三峽澗、有樹孑立、存枯枝而無花葉、兵過其下輒死、死者三人。費怒、自往視之、其樹枝如鳥爪、見有人過、便來攫拿。費以利劍斲之、株落血流。此後行人無恙。

   *]

 

譚海 卷之二 朝士笹山吉之助母堂の事

 

朝士笹山吉之助母堂の事

○官家の士に笹山吉之介なるもの有(あり)、その祖母は栗島通有と云(いふ)人の女(むすめ)にて、天壽[やぶちゃん注:底本には「壽」の右に『(樹)』とする。]院殿の侍女也。此天壽院と申(まうし)奉るは、豐臣秀賴公政所にて東照宮の御孫也。此祖母ある夜(よ)更(ふけ)て目ざめたるに、盜人(ぬすびと)藏の屋尻(やじり)をきる音を聞(きき)つけ、折しも吉之介御番の留守にて、孫を抱きゐられしが、ふところに抱(かかへ)ながら帶刀し、竊(ひそか)に土藏に入(いり)伺ひゐられけり。盜人ほどなく屋尻をきりすまし、穴よりはひ入(いる)處を祖母刀をぬきて盜人の首を切落(きりおと)し、死骸を穴より引入(ひきいれ)脇に片よせ置(おき)たるに、又一人穴よりはひ入(いる)ものあるを、また首を打落(うちおと)し前の如くして待居(まちゐ)られたり。ややしばらく音もなければ、最早盜人はなきかと穴よりのぞかれし時、頸(くび)をさし入(いる)る盜人と見合(みあひ)たるに、盜人大(おほき)におどろきいづちともなくにげうせぬ。是は盜人の大將なるべし。大坂戰場をへたる婦人は、格別膽(きも)のふとき事也と申(まうし)あへり。

[やぶちゃん注:「朝士」(てうし(ちょうし))「官家」幕府御家人のことであろう。

「笹山吉之助」不詳。「笹山吉之介」との違いはママ。ブログ「『鬼平犯科帳』Who's Who」のに、笹山吉之助光官(みつのり:七十二歳・五百石・裏四番町)という名が出るが、同一人物かどうかは判らぬ。

「栗島通有」不詳。「くりしまみちあり」と一応、読んでおく。

「天樹院」(補正注で示した)徳川秀忠と継室江(ごう)の間に生まれ、豊臣秀頼・本多忠刻の正室となった千姫(慶長二(一五九七)年~寛文六(一六六六)年)の院号。慶長二〇(一六一五)年の「大坂夏の陣」では祖父家康の命により、落城する大坂城から救出された。直後に秀頼と側室の間に生まれていた娘天秀尼(慶長一四(一六〇九)年~正保二(一六四五)年)が処刑されそうになった際には千姫は彼女を自らの養女にして命を助けている。姫は彼女を自ら元和二(一六一六)年に桑名藩主本多忠政の嫡男本多忠刻(ただとき)と結婚したが、寛永三(一六二六)年には夫忠刻・姑熊姫・母江が次々と没するなどの不幸が続き、結局、本多家を娘勝姫とともに出て江戸城に入って出家し、娘と一緒に竹橋御殿で暮らした。寛永二〇(一六四三)年には鎌倉の東慶寺の伽藍を再建している(「駆け込み寺」として知られる同寺には豊臣秀頼の娘の天秀尼が千姫の養女として東慶寺に入って後に二十世住持となっている)。正保元(一六四四)年には家光の厄年を避けるために江戸城から移った弟徳川家光の側室夏(後の順性院)と、その後に生まれた家光の三男綱重と暮らすようになり、このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされている(以上はウィキの「千姫に拠った)。

「屋尻」戸締りしてある戸や窓或いは壁の裾などを指す。ここは後のシークエンスから見て、連子窓と思われる。そうした場所を切破って忍び入る窃盗・強盗の類いを「屋尻切(やじりきり)」と称した。

「戰場」「いくさば」と訓じておく。]

 

甲子夜話卷之四 14 同人、物數奇多き事(松平乗邑譚その2)

 

4-14 同人、物數奇多き事

左近は胸次の不凡ゆへにや、物好にて一時にせられしこと、後に傳ること多し。駕籠の腰、昔は高くて出入むづかしゝと也。左近好みて際を淺く造られしより、人々それに倣ひ、今は一統の形同じやうになりたり。大小の鞘をしのぎに削り、丸きより帶留りよきやうにし、そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも、其好みなり。昔は左近形と云しが、今は名を知るものもなし。八寸の脚を半短くして、物すへと名づけ、常に用らる。今は工人尋常に作り出して、低(ヒク)八寸と云。硯蓋を脚付にし、遠州透を彫り、朱漆にしたるを、有明盆と名づけ、大小掛を松樹の俤にして、印籠までかゝるやうにしたるなど、世にもてはやせり。襖を腰通り一枚、別色の紙にて張たる。天井を四方の𢌞り一枚通り、これも別紙にて張たるなど、させることもなけれど、風趣あるものなり。今はその本を知るものさへも無しと、林氏語れり。

■やぶちゃんの呟き

「同人」「左近」前話の主人公松平乗邑(のりさと)のこと。 彼は左近衛将監であった。

「物數奇」「ものすき」。風流で、しかもプラグマティクな数寄者であったこと。

「胸次」「きようじ」。胸中。常の想い。

「不凡」「ぼんらざる」。

「一時に」ちょっと。

「傳る」「つたはる」。

「しのぎに削り」刀の大小の(ここは)鞘の、刀身の棟と刃との中間で鍔元(つばもと)から切っ先までの稜(りょう)を高くした「鎬(しのぎ)」の相当箇所を、通常は「丸」いのであるが、そこを削り上げさせて、「帶留りよきやう」(帯から抜けおちぬように鋭角に)仕上げ。

「そのしのぎを、鮫など片はぎにしたるも」その鞘の鋭角的に削った鎬相当の片面箇所の表面に、サメやエイ或いはチョウザメなどの魚皮革を剝いで乾かしたものを装飾や滑り止めとして貼り付けたもの。チョウザメのそれは「菊綴」と称した。私の古い投稿記事チョウザメに画像がある。

「八寸」「はつすん(はっすん)」は懐石料理などで用いる八寸(二十四センチメートル)四方の器で、一般に赤杉の木地で作った盆状のもの。これに三種から五種の珍味などを少量ずつ盛って載せて供する。この頃のそれは高い脚がついていたものらしい今の八寸は脚などはないか、あってもごく低いものであるから、まさにこの時の乗邑の改良が今、当たり前となっているということになる

「半」「なかば」。

「硯蓋」「すずりぶた」。

「脚付」「あしつき」。

「遠州透」「ゑんしうすかし」。池に囲まれた庭のイメージを透かし加工で模したものとも言われる、幾何学的な文様を組み合わせた細工模様。庭のイメージから、安土桃山から江戸前期の茶人で造園家として知られた小堀遠州の名を冠している。

「朱漆」「しゆうるし」。

「大小掛」刀掛け。

「俤」「おもかげ」。

「張たる」「はりたる」。

「その本を知るものさへも無し」それが松平乗邑殿の発案の風流であることを知る者とて一人もおらぬ。

「林氏」林述斎。

 

南方熊楠 履歴書(その37) 募金寄附者のこと/鉄眼のこと(下ネタ有り)

 

 ずいぶん諸方よりいろいろの事を問い合わせ来るを一々叮嚀(ていねい)に能う限り返事を出し、さて趣意書を送って寄付を求むるに、十の四、五は何の返事さえ下されぬもの多し。つまりこの貧乏な小生に多大の時間と紙筆を空費せしむるものなり。されど、世には無情の人ばかりでなく、この不景気に、小包郵便は一週間に二度しか扱わぬという大和の僻陬(へきすう)より、五円贈られたる人あり。また水兵にして小生と見ず知らずの人なるに、一日五十銭の給料を蓄えて十円送られたるもあり。亡父が常に小生の話をせしとて三円送り来たり、素焼きの植木鉢一つでも買ってくれと申し込まれし少年あり(植木屋を小生が開業すると心得違うたるなり)。幸いに命さえつづかば早晩このことは成るべしと楽しみおり申し候。

[やぶちゃん注:それにしても研究所を建てられなかった南方熊楠はこの金を返金したのであろうか? これだけいろいろ豪語する以上、そこはそこ、誠意に誠意を以って応じねば、熊楠は我慢がならぬ節の人と思うのだが。というより、大金を払った連中には寧ろ、縷々不成立とその寄付金の消費用途を書き送って詫びればよかろうとは思うが、この水兵や少年にこそ相応の詫びと返礼をせねば私なら気が済まぬが。どだったのか? その顛末を記した熊楠の関連書を私は不学にして読んだことがない。気になる。

「僻陬(へきすう)」「僻」は「遠い片隅」で、「陬」も「隅」の意。 辺鄙な土地。「僻地」と同義。]

 

 むかし鉄眼、一切経を開板するため勧化するに、阿部野で武士の飛脚らしき者を見、一切経の功徳を説きながら一里ばかりつき行きしに、その人一文を取り出し地になげ、われ一切経をありがたく思うて寄付するにあらず、貴僧の執念つよきに感心せるなりと言い、さて茶屋に腰かけ女のすすむる茶一椀に八文とか十文とか余計に抛(なげう)ちし由、鉄眼これを見て涙を落とし、合掌して三宝を敬礼し、わが熱心かかる無漸の男をして一文をわれに与えしめたるを見て、わが志は他日必ず成就するを知ると悦び帰りし由。

[やぶちゃん注:やや文脈上、判り難いが、一文しかいやいや喜捨しなかったこの武士が、その直後、鉄眼の目の前で街道脇の茶屋に入って「腰かけ」、田舎「女のすす」めた「茶一椀に八文とか十文とか余計に抛」った、それを見た鉄眼が「わが熱心かかる無漸の男をして一文をわれに与えしめたる」と歓喜して帰ったというのであろう。しかし、ネットで調べてみると、この話、もっと違う様相を呈した話として伝わっているように思われる(阿部野も茶店も出てこないから、熊楠の語ったこの全く別の「無慚」な糞武士の別話が存在するのかも知れぬが)。例えば、「しんでん森の動物病院」のブログ「ひかたま(光の魂たち)」の鉄眼桜と今週の待合室の花の記事によれば、鉄眼が後に、いざ、一切経を彫る段になって、版木の入手に困っていたところ、『昔、山を越えてまでついてきた鉄眼に一文銭を投げつけた武士が、吉野山の桜を守る代官に出世して』おり、『その代官は』、かつて無慙な応対を彼にした『ことがとても気になっていて、いつか鉄眼の役にたてないだろうかと思っていた』ことから、その『代官は、「自分は桜の木を守る立場、でも、桜の木を活かすことも仕事だ」と決意し、幕府を必死に説得して、鉄眼に充分な量の桜の木を送ることが出来た』という話である。但し、正直言うと、熊楠の語った方がすっきりとしていてリアルで、如何にも事実あったらしい気はする。

「阿部野」現在の大阪府大阪市阿倍野区附近か。現在、当地区の多くの表記は「阿倍野」であるが中・近世において主流であった表記は「阿部野」である旨がウィキの「大阪阿部野橋駅内の解説にある。]

 

『南水漫遊』とかいうものには鉄眼、菴(いおり)に夜分寵りおりしに美婦一人来たり、雪の夜なれば歩進まず、何とぞ宿(やど)しくれと頼む。いかに拒むも、この雪中に死せしむるつもりかといわれて、止むを得ずそこに宿せしめ、子細をきくに、人の妾(めかけ)たりしが本妻の妒(ねた)みで追い出されたるが、里へ帰る途上日暮れ大雪に逢いしという。さてその女終夜身の上を案じ眠られざるに、艾(もぐさ)の臭気絶えず、へんなことに思い、ひそかに次の間をのぞけば、鉄眼の一物蛟竜雲を得た勢いで脈を打たせはね上がるを制止せんとて、終夜灸(きゅう)をすえおりたるなり。その女のちに本妻死して夫の家にかえり本妻となり、このことを夫に話せしに、その夫は大富なりしゆえ、感心して、その志に報いんため寺を建て鉄眼を置きし、とあり。真偽は知らざるも、鉄眼の伝にも、某という富家の婦人より大寄付を得て一切経出板を資(たす)けたことあれば、なにか似寄ったことはあるべしと思う。小生はずいぶん名だたる大酒なりしが、九年前にこの家を購(か)うため和歌山に上る船中、感冒に伝染して肺炎を疾むこと九十日ばかり、それより酒をやめ申せしが、近年このことにかかりてよりは滴(しずく)も用いず候。他の諸事もこれに准ず。一物も鉄眼以上の立派な物なりしが、只今は毎日失踪届けを出さねばならぬほど、あってなきに等(ひと)しきものになりおわり候。

[やぶちゃん注: 「南水漫遊」「古今参考 南水漫遊」。江戸後期の浜松歌国の随筆。書名は歌国が「浪華江南颯々亭南水主人」と号したことによる。初編・続編・拾遺から成る各五巻全十五冊。南水が在住した大坂の事跡について述べたもの(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「蛟竜」は「こうりゅう/こうりょう」と読み、竜の一種或いは龍の成長過程に於ける幼齢期型・未成期型の状態を指す。

「滴(しずく)も用いず候」表面上は、一滴も酒を飲まぬ、調味料としても一滴の酒をさえ用いぬ、という意味に見えるが、実はこれは直後の後文の枕であって、「滴」は「精液」の意である。

「毎日失踪届けを出さねばならぬ」全く勃起せず、股間に隠れて見えぬことを言う。]

 

無題(坭だらけの兩手をふつて……/添え辞らしき「自畫像」がある)   萩原朔太郎

 

 

                 自畫像

 

わたしは兩手を坭だらけの兩手をふつて

わたしは海岸《を》の砂をはしつて居た

風の《かみのくるふく方角にむかつた

わたしは《風のやうにとんで居た

 

風のやうにはしつて居た

沖では舟《が》《帆が白→を→があふくらんで

わたしは

沖《に》ではそのとき舟はみよいつさい沖に帆をはらみ

かもめは地上に白く光りかがいてゐた

ああ、わたしは風のいとけないわたしの心は 

 

[やぶちゃん注::底本は昭和五二(一九七七)年刊筑摩書房版全集第三巻の「未發表詩篇」(三一九頁)に拠った。《 》は抹消に先き立って抹消された箇所を示し、「→」は推敲順序を示す。「自畫像」という添題らしきものは底本の注に従って推定して私が再現した。「坭」は「泥」に同じい。当該詩篇は底本本文で以下のように全集編者によって校訂されたものが載る。お分かりの通り、九行目の「かがいていた」は編者によって脱字と判断されて「や」が補塡されてある 

 

 

 

坭だらけの兩手をふつて

わたしは海岸をはしつて居た

風のやうにはしつて居た

そのとき舟はいつさいに帆をはらみ

かもめは地上にかがやいてゐた

いとけないわたしの心は 

 

底本ではこの詩篇の八篇後に『一九一五、四』のクレジットをもつ詩篇を編者は配しており、この「未發表詩篇」は編者によって推定編年順で配列されているから、それよりも前、「月に吠える」時代(同詩集刊行(大正六(一九一七)年)前の創作期)の詩篇と推定出来る。]

国民総テロリスト運動

私はボブ・デユランが全く好きでないが、彼の歌詞を引用して著作権侵害とするのであれば、積極的組織的波状的に確信犯としてこれをすれば「共謀罪」だ! それはとりもなおさず、誰かの不満不平を増殖させるSNS自体がテロ集団だということになる。さて、皆でやろう! 「国民総テロリスト運動」!!!

2017/05/19

明日は

明日は翠嵐時代の教え子の結婚式に招待されているので更新なし。担任でもなかったのに式にまで招かれたのは恐らく初めて――

本日は

本日は髪結ひに參るによつてこれにて店仕舞ひ 心朽窩主人敬白

南方熊楠 履歴書(その36) 神社合祀反対運動

 

 御存知かもしれず、前年原敬氏首相たりし時、神社合祀の令を出し、所によりこれを強行することはなはだしく、神社神林を全滅して私腹を肥やすこと大いに行なわれ、心ある人々は国体を害することこれより大なるはなしと申せしも、誰一人立ってこれをいう者なかりし。その時伊勢に生川(なるかわ)鉄忠という神官ありてこのことを論ぜしも、ただ筆さきに止まり何の影響なかりしに、大正九年、小生このことを言い出し、代議士中村啓次郎氏に頼み数回国会へもち出し、またみずからこれを論議するのはなはだしかりしより、十八日間未決監につながれしことあり、その後もやめずにこれを論じ、ちょうど十年めに神社合祀は無益とのこと貴族院で議決され申し候。およそ十年このことに奔走し、七千円という、小生に取りては大なる金円を損じ申し候。しかして神社合祀無益と議決されし時は、すでに多くの神社が合祀全滅されたる後にて、何の役に立たざりしようなれど、これがため今も全国に存残せる神社は多く、現に当町の神社などは、一、二の外はみなのこれり。さて今日となって、神社へまいりたきも道遠くしてまいり得ざる等の事情より田舎の人心離散せること、都会で思うよりもはなはだしきもの多く、これが農村疲弊思想濫違(らんい)の主たる源由(げんゆ)となりおり申し候。小生自分の予言の当たりしは、国家衰運に向かいしと同然で決して喜ぶべきにあらざれども、とにかく国民としていうべきことをいい憂うべきことを憂いたるは本心において慙(は)ずるところなし。研究所の件のごときも、すでに一度いい出せしことはひくべきにあらず。いわんや数万円の金ができ集まりおるにおいてをやで、この上いかに難儀するとも、鉄眼(てつげん)が一切経を翻刻せし時の心がけで集金すべく、ずいぶん骨を折りおり申し候。

[やぶちゃん注:「前年原敬氏首相たりし時、神社合祀の令を出し」この部分の叙述にはかなり問題がある。そもそも神社合祀政策は明治三九(一九〇六)年の勅令「神社寺院佛堂合倂跡地ノ讓與ニ關スル件」(明治三十九年八月十日勅令第二百二十號)に基づくもので(「国立公文書館デジタルアーカイブズ」で画像で視認出来る。検索ボックスに「神社寺院仏堂合併」を入れると二種の画像が出、下が勅令であるが、上の「神社寺院仏堂合併跡地譲与方」がその施行規則風の内容で詳しく、その冒頭に、『別紙内務大臣請議社寺合併跡地無代下付の件を審査するに現在社寺の數は甚た多きに失し社殿堂宇の頽破し維持困難にして崇敬の實擧らす法用行はれす名ありて實なきもの尠なからす斯かる社寺は宜しく合併を行はしめ可成其の數を減し完全なるものと爲すを得策と認むるを以て合併を爲す場合に於ては其の結果不用に歸したる境内官有地は之を其の合併したる社寺に讓與し以て其の資産を増加し體面維持の基礎を鞏固にすると同時に之に依り以て社寺整理の目的を遂行するの便宜に供せんとするものにして相當の儀と思考す依て請議の通閣議決定せられ可然と認む』とある。勅令の最後の連署者は確かに原敬であるが、これは内務大臣であって、当時の内閣は第一次西園寺内閣(第十二代内閣総理大臣西園寺公望/明治三九(一九〇六)年一月七日~明治四一(一九〇八)年七月十四日)であって、次の第二次桂内閣(桂太郎/明治四一(一九〇八)年七月十四日~明治四四(一九一一)年八月三十日)もこの政策を積極的に引き継いだ。これは、各集落毎に複数ある神社を合祀し、一町村一神社を標準とせよとするもので、この後、第二次西園寺・第三次桂・第一次山本(海軍大将山本権兵衛/この内閣は六十二日間で短命に終わった)・第二次大隈(大隈重信)・寺内(元帥陸軍大将・軍事参議官寺内正毅)の各内閣が継続的に運用したものと考えられる。その後、第十九代内閣総理大臣として立憲政友会総裁で衆議院議員の原敬が選ばれて原内閣が大正七(一九一八)年九月二十九日に誕生した。彼は最初の勅令の連署である以上、この政策をやはり強く実施しようとしたであろうと推測することには吝かではないが、「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」を見ると、既に『大正に入ってからは、次第に不合理な神社合祀がされることはなくなり』とあり(下線やぶちゃん)、結果として、実はこの原内閣の時、まさにここに記されている通り、大正九(一九二〇)年に貴族院で「神社合祀無益」と決議され、終息したのであった。この南方熊楠の謂いには、神社合祀令が原内閣によって出令されたという点で誤りであり、寧ろ、この内閣時にこの政策は停止されたという事実を語っていない点で二重の誤りであることは指摘しておかねばならない。因みに、原は大正一〇(一九二一)年十一月四日に東京駅丸の内南口コンコースに於いて、大塚駅駅員で右翼青年の中岡艮一(こんいち)に襲撃されて殺害され、十一月十三日に解散している。但し、ウィキの「神社合祀」によれば、この政策によって全国で大正三(一九一四)年までに約二十万社もあった神社の内、約七万社が『取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ』九『割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では』一『割程度ですんだ』(下線太字はやぶちゃん)。『この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。当然のことながら、生活集落と行政区画は一致するとは限らず、ところによっては合祀で氏神が居住地からはほど遠い場所に移されて、氏子が氏神参拝に行くことができなくなった地域もある。合祀を拒んだ神社もあったが、所によってはなかば強制的に合祀が行なわれた』とある。先の「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」を見ると、熊楠は『各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主』で熊楠の盟友であった毛利清雅の当該新聞に『反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した』。『『牟婁新報』には毎号、反対意見を投稿し、掲載され賑わしたが、さらに『大阪毎日新聞』、『大阪朝日新聞』、『東京朝日新聞』などにも反対意見の原稿を送り、また中央の学者に応援を求める働きかけをした』。『なかでも、東京大学教授で植物の権威、松村任三(じんぞう)に、国・県の神社合祀のやり方をきびしく批判した長文の手紙を寄せた。これを、民俗学者で当時内閣法制局参事官であった柳田國男が、『南方二書』として印刷し、関係者に配布して熊楠の運動を助けた』とある。

「生川(なるかわ)鉄忠」伊勢四日市の諏訪神社の社司生川鉄忠(なるかわてつただ)。詳細事蹟不詳。

「中村啓次郎」(慶応三(一八六七)年~昭和一二(一九三七)年)は政治家・弁護士・実業家。後に衆議院議員・衆議院議長を務めた。和歌山生まれ。明治四一(一九〇八)年五月の第十回衆議院議員総選挙で和歌山県郡部区の立憲政友会候補として出馬して初当選。その後、再選・落選を繰り返したが、大正一三(一九二四)年五月の第十五回総選挙で政友本党から出馬して当選しており(ウィキの「中村啓次郎」に拠る)、本書簡(大正一四(一九二五)年二月)当時は衆議院議員であった。先の「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」には、『熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし』、明治四五(一九一二)年三月(初回当選時)、『県選出の衆議院議員中村啓次郎が本会議で合祀に関する反対質問を一時間余りもしたり、貴族院議員の徳川頼倫(よりみち)が努力したりして』、神社合祀政策の停止に功あった人物である。

「またみずからこれを論議するのはなはだしかりしより、十八日間未決監につながれしことあり」やはり「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」に、明治四三(一九一〇)年八月、『田辺中学校講堂(現田辺高校)で夏期教育講習会があり、主催者側として出席した田村某は神社合祀を進める県の役人で、熊楠はこの人に会おうと閉会式の会場を訪れたところ、入場を阻止されたので、酒の酔いも手伝って、持っていた標本の入った信玄袋を会場内へ投げ込んだ。このことから「家宅侵入罪」で連行され』、十八日間(「南方熊楠コレクション」の注によれば、八月二十二日から九月七日とあり、これだと十七日間となる)、『未決のまま監獄に入れられた。結局、無罪で釈放となったが、その間本を読み、構内で粘菌を見つけたりした。釈放される時、看守がそのことを知らせると、「ここへは誰も来ないので静かだし、その上涼しい。もう少し置いてほしい」と言って、出ようとしなかったと伝えられている』とある。

「ちょうど十年め」大正九(一九二〇)年に貴族院で「神社合祀無益」と決議されて停止しているから、その十年前は明治四三(一九一〇)年となり、これは、直前に書かれた反対主張をせんとして、熊楠が拘置された時点から、の謂いであるので注意されたい。

「しかして神社合祀無益と議決されし時は、すでに多くの神社が合祀全滅されたる後にて、何の役に立たざりしようなれど、これがため今も全国に存残せる神社は多く、現に当町の神社などは、一、二の外はみなのこれり。さて今日となって、神社へまいりたきも道遠くしてまいり得ざる等の事情より田舎の人心離散せること、都会で思うよりもはなはだしきもの多く、これが農村疲弊思想濫違(らんい)の主たる源由(げんゆ)となりおり申し候」「濫違」は「違濫」・「違乱」と同義で、本来は「法に背き、秩序を乱すこと」であるが、ここはそれではおかしいので、所謂、法の側の偏頗にして狭量な思想による「濫用」「乱用」の謂いである。やはり「南方熊楠記念館」公式サイト内の「神社合祀反対運動」には、『しかしこの間、熊楠の運動の成果として伐採を免れた神社林は何ヵ所かあるが、かなりの社殿や、森、社叢、原生林が姿を消した』。『このため、熊楠はとくに田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である』とあり、また、ウィキの「神社合祀の「合祀反対運動」にも、『氏子・崇敬者の側としては、反対集会を開くこともあったが、主として大きな運動もできず、合祀によって廃された神社の祭神が祟りを起こしたなどと語る形でしか不満を示すことはできなかった』。『とはいうものの、この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。南方は、合祀によって①敬神思想を弱める、②民の和融を妨げる、③地方を衰微する、④民の慰安を奪い、人情を薄くし、風俗を害する、⑤愛国心を損なう、⑥土地の治安と利益に大害がある、⑦史跡と古伝を滅却する、⑧天然風景と天然記念物を亡滅すると批判した』。『こうした反対運動によって次第に収束して、帝国議会での答弁などを通して、明治四三(一九一〇)年『以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった』とある。

「鉄眼(てつげん)が一切経を翻刻せし」「鉄眼」は江戸前期の黄檗僧鉄眼道光(てつげんどうこう 寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年:肥後国益城郡守山村(現在の熊本県宇城市小川町南部田)生まれ)。ウィキの「鉄眼道光によれば、寛文四(一六六四)年に「大蔵経」(=「一切経」)を刊行することを発願、寛文七年には全国行脚を行って施材を集め、途中、畿内の飢えに苦しむ住民を見かねて集まった施財を二度も給付し尽くしてしまったが、三度目にして、『ようやく施財を集めることを得、京都の木屋町二条の地に印経房(のちの貝葉書院)を開設』、寛文八年、『中国明の万暦版を基に覆刻開版し』、発願から十四年後の延宝六(一六七八)年に実に千六百十八部七千三百三十四巻を完成させ、『後水尾法皇に上進した』ことを指す。]

 

2017/05/17

明日は

明日は早朝より脳MRIの検査にて更新はしない。――

柴田宵曲 續妖異博物館 「朱雀の鬼」

 

 朱雀の鬼

 

「撰集抄」に鬼の話が二つある。一つは都良香が朱雀門のほとりで靑柳の風になびくのを見て、「氣霽風梳新柳髮」と詠じ、あとの句を考へてゐると、朱雀門の上から大きな聲で「氷消波沈舊苔鬚」と付けたといふ有名な話である。これは赤鬼で白いたふさきをしてゐたといふから、まだ虎の皮の褌は使用しなかつたらしい。もう一つは源經信が九月ばかりの月明の夜に、砧の音のほのかにするのを聞いて、「から衣うつ聲聞けば月きよみまだねぬ人をそらにしるかな」といふ四條大納言の歌を口ずさんだところ、前栽の方に當つて「北斗星前横旅雁。南樓月下擣寒衣」といふ詩を高らかに吟ずる者がある。何人かと驚いてその方を見やると、長(たけ)二丈もあらうと思はれる、髮の逆樣に生ひたる者であつた。思はず「八幡大菩薩たすけさせ給へ」と祈念したら、何の祟りをしようぞ、と云つてその者は搔き消すやうに見えなくなつた。目擊者の經信が「さだかにいかなるものゝ姿とは見えも覺えず」と云ふのだから、穿鑿のしやうもないが、「撰集抄」の作者は、朱雀門の鬼であつたらうかと推測してゐる。

[やぶちゃん注:「都良香」(みやこのよしか 承和元(八三四)年~元慶三(八七九)年)は平安前期の貴族文人。ウィキの「都良香」によれば、『姓は宿禰のち朝臣。初名は言道。主計頭・都貞継の子。官位は従五位下・文章博士』。『文章生から文章得業生を経』、貞観一二(八七〇)年に少内記(中務省直属官で詔勅・宣命・位記の起草・天皇の行動記録を職掌とした内記の次官級)に任官、翌貞観十三年には、『太皇太后・藤原順子の葬儀に際して、天皇が祖母である太皇太后の喪に服すべき期間について疑義が生じて決定できなかったために、儒者たちに議論させたが、良香は菅原道真とともに日本や中国の諸朝の法律や事例に基づき、心喪』五ヶ月で『服制不要の旨を述べ』ている。貞観一四(八七二)年には『式部少丞・平季長とともに掌渤海客使を務める一方、自ら解文を作成して言道(ことみち)から良香への改名を請い、許されている』。貞観一五(八七三)年、『従五位下・大内記に叙任され』、二年後の貞観十七年『以降は文章博士も兼ねた』。貞観十八年に、『大極殿が火災に遭った際、廃朝及び群臣が政に従うことの是非について、明経・紀伝博士らが問われた際、良香は同じ文章博士の巨勢文雄とともに、中国の諸朝において宮殿火災での変服・廃朝の例はないが、春秋戦国時代の諸侯では火災に対して変服・致哭の例があることから、両者を折衷して廃朝のみ実施し、天皇・群臣は平常の服を変えるべきでないことを奏し、採用されている』。『詩歌作品を作る傍らで、多くの詔勅・官符を起草し』、貞観一三(八七一)年より『より編纂が開始された『日本文徳天皇実録』にも関与したが、完成する前』に亡くなった。『漢詩に秀で歴史や伝記にも詳しく、平安京中に名声を博していた。加えて立派な体格をしており腕力も強かった。一方で貧しくて財産は全くなく、食事にも事を欠くほどであったという』。『各種伝承を記した『道場法師伝』『富士山記』『吉野山記』等の作品もある。『富士山記』には富士山頂上の実情に近い風景描写がある。これは、良香本人が登頂、または実際に登頂した者に取材しなければ知り得ない記述であり、富士登山の歴史的記録として重要である』。『漢詩にまつわる説話が複数伝えられており、後世においても、漢詩人として評価されていたことが窺われる』。『良香が晩夏に竹生島に遊んだ際に作ったという「三千世界は眼前に尽き。十二因縁は心裏に空し。」の下の句は竹生島の主である弁才天が良香に教えたものであるという(『江談抄』)。』『また、活躍時期がやや異なるにもかかわらず、良香と菅原道真が一緒に登場する説話・逸話が見られ』(道真の方が九歳歳下。若き日の道真の試験の際の問答博士を彼は勤めている)、『良香の家で門下生が弓遊びをしていた際、普段勉学に追われていることから、とうていうまく射ることはできないであろうと道真に弓を射させてみたところ、百発百中の勢いであった。良香はこれは対策及第の兆候であると予言し、実際に道真は及第したという(『北野天神縁起』)』。『菅原道真に昇進で先を越されたことから、良香は怒って官職を辞し、大峯山に入って消息を絶った』。百『年ほど後、ある人が山にある洞窟で良香に会ったところ、容貌は昔のままで、まるで壮年のようであったという(『本朝神仙伝』)』などである。

「たふさき」漢字表記「犢鼻褌」を見れば判る通り、後の褌(ふんどし)のような、男が下穿きとして着用したもの。下袴(したばかま)。「たふさぎ」とも表記する。

「源經信」(長和五(一〇一六)年~永長二(一〇九七)年)は平安後期の公家・歌人。官位は正二位・大納言で「桂大納言」と号した。「小倉百人一首」の第七十一番「夕されば門田の稻葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く」(「金葉和歌集」秋之部・第一八三番歌)の作者「大納言經信」として知られる。大納言から大宰権帥となって大宰府で没した。漢詩文・琵琶にも秀で、有職故実にも通じた多才多芸の人として、当代の歌壇に重きをなした。「祐子内親王家名所歌合」をはじめとして、多くの歌合に参加、「高陽院殿七番和歌合」などの歌合の判者も務めた。和歌のあり方として典雅な声調美と情趣ある趣向を求め、歌作は客観的叙景歌の観照によいものがある。藤原通俊の撰進した「後拾遺和歌集」を低く評価し、「後拾遺問答」「難後拾遺」を書いて強く論難している。家集に他撰になる「大納言経信集」、日記に漢文体の「帥記(そちき)」がある(平凡社「世界大百科事典」等に拠った)。

「四條大納言」藤原公任(康保三(九六六)年~長久二(一〇四一)年)の号であるが、誤りで、以下の歌は紀貫之(貞観八(八六六)年或いは貞観一四(八七二)年)頃?~天慶八(九四五)年?)の歌である。

「から衣うつ聲聞けば月きよみまだねぬ人をそらにしるかな」「新勅撰和歌集」の紀貫之の一首(第三二三番歌)、

  擣衣(たうい)の心をよみ侍りける

 唐衣(からころも)うつ聲きけば月きよみまだ寢(ね)ぬ人をそらに知るかな

である。

「二丈」六メートル六センチ。

「北斗星前横旅雁。南樓月下擣寒衣」劉元叔(生没年未詳/晩唐か?)の「妾薄命」(しょう はくめい)の賦の一節(彼の作品はこの一篇のみが伝わる)。「和漢朗詠集」の「卷上」の「擣衣(たうい)」にも載る、実は当時は知られた一節であった。

 以上は(以下の話柄番数と標題は所持する一九七〇年岩波文庫刊の西尾光一校注版のもの)「撰集抄」の「卷八」の第三話(第二話「都良香詩の事」の続きで岩波文庫版では「朱雀門鬼の詩の事」とする)と、同じ「卷八」の第三十一話「經信大納言の前に鬼神出現の事」である。上記岩波文庫版で示す。漢詩は孰れも底本には従わず、前後を行空けして白文で出し、次行に( )で訓読文を示した。読みは一部のみに附した。踊り字「〲」は正字化した。

   *

 延喜の初めつかた、都良香、如月の十日比(ごろ)、内へ參りけるに、朱雀門(すざくもん)のほとりにて、春風に靑柳のなびきけるをみて、

  氣霽風梳新柳髮

  (氣 霽(は)れては 風 新柳(しんりう)の髮を梳(けづ)り)

と詠じて、下の句をいはむとて、打案(あむ)ずるに、朱雀門の上より、赤鬼の白(しろ)たうさぎして、もの怖しげなる、大なる聲して、

  氷消波洗舊苔鬚

  (氷 消えては 波(なみ) 舊苔(きうたい)の鬚(ひげ)を洗ふ)

とつけて、かき消すごとくに失せにけりとなん。

 この詩、心ことば、たぐひなくぞ侍る。げに、風大虛(たいきよ)に吹けば、氣は四方に晴て、靑柳髮(かみ)と見えて風に梳(けづ)れり。はじめて氣はるる春にもあれば、新柳と云も心よろしかるべし。鬼のつくる下の句、又ありがたくぞ侍るべき。水は氷に閉(とぢ)られて、みぎはの舊苔すすがるゝ世もなきを、氣はれて新柳風に梳(けづ)る。春は氷(こほり)ひらけて、苔の根やゝ水に洗(あら)れ、柳を髮とすれば、苔、鬚とする。木草の本末(ほんまつ)なる心までこめたり。かへすがへすおもしろき詩也。

   *   *

 經信の帥大納言、八條わたりに住み給ひける比、九月ばかりに、月のあかゝりけるに、ながめしておはしける。砧(きぬた)の音の外に聞こえ侍れば、四條大納言の歌、

  からころも打つ聲聞けば月淸みまた寢ぬ人をそらに知るかな

と詠じ給ふに、前栽(せんざい)のかたに、

  北斗星前橫旅鴈 南樓月下擣寒衣

  (北斗の星前に旅鴈(りよがん)橫(よこた)ふ 南樓の月の下に寒衣を擣(う)つ)

といふ詩を、まことに恐しき聲して、高らかに詠ずる者あり。たればかりか、かくめでたき聲したらんと思ひおどろきて見やりたまふに、たけ一丈五六尺も侍らんとおぼゆるが、髮のさかさまにおひたる物にて侍り。「こはいかに。八幡大菩薩たすけさせ給へ」と、祈念し給へるに、この物、「何かはたゝりをなすべき」とて、かき消ち失せ侍りぬ。さだかに、いかなりし物のすがたとは覺えずと語り給へりけり。朱雀門の鬼なんどにや侍りけん。それこそ其比(ころ)、さやうのすき物にては侍りしか。

   *

「一丈五六尺」四メートル五十四センチから四メートル八十五センチほど。但し、慶安三年本では「一丈あまり」(一丈は三メートル三センチ)とさらに低い。]

 京都の鬼は羅生門の專賣になつた觀があるが、あれは渡邊綱の武勇傳が出た爲で、「今昔物語」あたりを管見しても鬼の事は見當らぬのみならず、羅生門に關する事柄は芥川龍之介の小説の題材になった一條の外にあまりない。もし當時に鬼の噂が多少でもあつたならば、いくら慾と二人連れにしろ、死人の髮を拔くだけの目的の下に、老婆の身で門の上層まで登る勇氣は出なかつたに相違ない。

[やぶちゃん注:「渡邊綱の武勇傳」「羅生門類話」に既出既注。

「芥川龍之介の小説の題材になった一條」芥川龍之介の「羅生門」は「今昔物語集」の「卷第二十九」の「羅城門登上層見死人盜人語第十八」(羅城門(らせいもん)の上層(うはこし)に登りて死人を見る盜人(ぬすびと)の語(こと)第十八)を種本とする。こことは関係ないが、「羅生門」は誰でも知っているが、実は原典は読まれることが意外に少ないように思う(私は教育実習を含め、高校教師時代で総計二十回近く「羅生門」を授業したのだが、唯の一度も原典をプリントして読ませた記憶がない。原話は圧倒的に面白くないからである)。短いので引いておく。

   *

 今は昔、攝津の國邊(ほと)りより、盜みせむが爲に京に上りける男(をのこ)の、日の未だ明かりければ、羅城門の下に立ち隱れて立てりけるに、朱雀(しゆじやく)の方に人重(しげ)く行(あり)きければ、

「人の靜まるまで。」

と思ひて、門の下(した)に待ち立てりけるに、山城の方より、人共の數(あまた)來たる音のしければ、

「其れに附見(み)えじ。」

と思ひて、門の上層に和(やは)ら搔(かか)つり登りたりけるに、見れば、火、髴(ほのか)に燃(とも)したり。

 盜人、

「怪し。」

と思ひて、連子(れんじ)より臨(のぞ)きければ、若き女の死にて臥したる有り。其の枕上(まくらがみ)に火を燃して、年極(いみ)じく老いたる嫗(おうな)の白髮(しらが)白きが、其の死人の枕上に居て、死人(しにん)の髮をかなぐり拔き取る也けり。

 盜人、此れを見るに、心も不得(え)ねば、

「此れは若(も)し、鬼にや有らむ。」

と思ひて、怖(おそろ)しけれども、

「若し、死人にてもぞ有る。恐(おど)して試む。」[やぶちゃん注:「鬼」(鬼神)と「死人」(死霊)が全く異なる階層と影響力を持つ別存在として無学な庶民レベルでも広く区別されて認識されていたことがここで見て取れる。]

と思ひて、和(やは)ら戸を開きて、刀を拔きて、

「己は。」

と云ひて走り寄りければ、嫗、手迷(てまど)ひをして、手を摺りて迷へば、盜人、

「此(こ)は何ぞの嫗の、此(かく)はし居(ゐ)たるぞ。」

と問ひければ、嫗、

「己(おのれ)が主(あるじ)にて御(おは)しましつる人の失せ給へるを、繚(あつか)ふ人の無ければ、此(かく)て置き奉りたる也。其の御髮(おほむかみ)の長(たけ)に餘りて長ければ、其れを拔き取りて鬘(かつら)[やぶちゃん注:かもじ。頭髪を豊かに見せるための添え髪。]にせむとて拔く也。助け給へ。」

と云ひければ、盜人、死人の着たる衣(きぬ)と、嫗の着たる衣と、拔き取てある髮とを奪(ば)ひ取りて、下(お)り走いて、逃げて去りにけり。

 然て、其の上(うへ)の層(こし)には、死人の骸(かばね)ぞ多かりける。死にたる人の葬(はうぶり)など否不爲(えせぬ)をば、此の門の上にぞ置きける。

 此の事は、其の盜人の人に語りけるを聞き繼ぎて、此く語り傳へたるとや。

   *]

 博雅三位と云へば、蟬丸が流泉啄木を彈ずるのを聞かんがために、夜々逢坂まで出かけて行つて、その庵の邊を徘徊すること三年に及んだといふ逸話で知られてゐるが、この人は單に琵琶だけに堪能だつたのではない。月明に乘じて朱雀門の前に遊び、夜もすがら笛を吹いたことがある。その時同じやうに直衣(なうし)を著て笛を吹く人があり、その笛の音が世にたぐひのないものであつたので、不思議に思つて近寄つて見たところ、一向に見識らぬ人であつた。此方から言葉もかけず、先方も何も云はず、月夜每に落ち合つて笛を吹くことが度重なつたが、その人の笛の音があまりにめでたいので、ためしに取り替へて吹いて見たら、その笛がまた世にあるまじき名管であつた。月夜に落ち合つて吹くことは猶續いたが、別に返してくれとも云はぬため、つい取り替へたまゝになつてしまつた。博雅の歿後、帝(みかど)がこの笛を笛吹きどもに吹かせられても、一人も博雅のやうな音を出す者がない。その後に淨藏といふ笛の名手が出て、この人は博雅に劣らぬくらゐであつたから、帝御感の餘り、この笛の主は朱雀門のほとりで得たと聞く、汝彼處に行きて吹け、と仰せられた。淨藏畏まつて月夜の朱雀門で吹いた時、門の樓上から聲高らかに、猶逸物かなと賞めた者がある。歸つてこの旨を奏し、はじめて鬼の笛であることが明かになつたと「十訓抄」に見えてゐる。

[やぶちゃん注:「博雅三位」源博雅(みなもとのひろまさ 延喜一八(九一八)年~天元三(九八〇)年)は平安中期の公卿で雅楽家。ウィキの「源博雅」によれば、『醍醐天皇の孫。兵部卿・克明親王の長男。官位は従三位・皇后宮権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)、長秋卿と呼ばれる。管弦の名手』。『臣籍降下し、源姓を賜与され』、承平四(九三四)年に『従四位下に叙せられ』、その後、中務大輔・右兵衛督・左中将を経て、天延二(九七四)年に『従三位・皇太后宮権大夫に叙任』された。『雅楽に優れ、楽道の伝承は郢曲』(えいきょく:当時の日本の宮廷音楽の中で「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌われたという卑俗な歌謡に由来)『を敦実親王に、箏を醍醐天皇に、琵琶を源脩に、笛は大石峰吉、篳篥』(ひちりき)『は峰吉の子・富門と良峰行正に学んだ。大篳篥を得意とするが、舞や歌は好まなかった』。天暦五(九五一)年に『内宴で和琴を奏』し、康保三(九六六)年には『村上天皇の勅で『新撰楽譜(長秋卿竹譜)』(別名『博雅笛譜』)を撰する。現在でも演奏される『長慶子』の作曲者』である。天徳四(九六〇)年に行われた、所謂、「天徳四年内裏歌合」に『講師として参加、歌(和歌)を詠ずる役であったが、天皇の前で緊張し、出されていた歌題とは異なる歌を読んでしまうという失敗をしたという逸話もある』。『朱雀門の鬼から名笛「葉二(はふたつ)」を得、琵琶の名器「玄象(げんじょう)」を羅城門から探し出し、逢坂の蝉丸』(後注参照)のもとに三年間、通い続け、『遂に琵琶の秘曲「流泉(りゅうせん)」「啄木(たくぼく)」を伝授されるなど、今昔物語などの多くの説話に登場する。また、言い伝えによると酒に強く、酒豪であったともいわれている』。『性格について藤原実資はその日記『小右記』で「博雅の如きは文筆・管絃者なり。ただし、天下懈怠の白物(しれもの)なり」と評している』とある。

「蟬丸」(せみまる 生没年不詳)は歌人で音楽家とされ、「小倉百人一首」第十番歌として「後撰和歌集」の雑一の第一〇八九番歌を元とする「これやこの行くも歸るも別れては知るも知らぬも逢坂(あふさか)の關」(原歌は「これやこの行くも歸るも分かれつつ知るも知らぬも逢坂の關」)で人口に膾炙するが、事蹟不詳で、多分に伝説化された人物である。古くは「せみまろ」とも読まれた。ウィキの「蝉丸」によれば、出自については宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ぞうしき)であるとか、醍醐天皇の第四皇子であるとか諸伝があり、『後に皇室の御物となった琵琶の名器・無名を愛用していたと伝えられる。また、仁明天皇の時代の人という説もある』。『管弦の名人であった源博雅が逢坂の関に住む蝉丸が琵琶の名人であることを聞き、蝉丸の演奏を何としても聴きたいと思い、逢坂に』三年もの間、通い続けた末、遂に八月十五日の晩に『琵琶の秘曲『流泉』『啄木』を伝授されたという』(「今昔物語集」の「卷第二十四」の「源博雅朝臣行會坂盲許語第廿三」(源博雅朝臣、會坂(あふさか)の盲(めしひ)の許(もと)に行く語(こと)第二十三))。『他にも蝉丸に関する様々な伝承は『今昔物語集』や『平家物語』などにも登場している』。また、能にも四番目物の狂女物に「蝉丸」という『曲がある。逆髪という姉が逢坂の関まで尋ねてきて』、二『人の障害をもった身をなぐさめあい、悲しい別れの結末になる』。但し、『この出典は明らかでない』。『近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも』「蝉丸」があり、そこでは『蝉丸は女人の怨念で盲目となるが、最後に開眼する』という展開になっている。

「直衣(なうし)」現代仮名遣「のうし」 は「直(ただ)の服」の意で、天皇以下貴族の平常時に着る服。束帯の袍(ほう)と同じ形ではあるが、位階による色目・文様の制限がなく、通常は烏帽子(えぼし)と指貫(さしぬき)の袴(はかま)〔幅をたっぷりと広く採った裾に括(くく)り緒のある袴。〕を用いる。勅許を得た者は、この直衣姿のままでも参内することが出来た。雑袍(ざっぽう)とも呼ぶ。

「淨藏」(寛平三(八九一)年~康保元(九六四)年)は天台僧で父はの公卿で漢学者でもあった三善清行。ウィキの「浄蔵」によれば、『宇多法皇に師事して出家。比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ』という。「扶桑略記」によれば、延喜九(九〇九)年のこと、怨霊となって藤原時平に祟っているとされた『菅原道真を調伏しに行くが、時平の両耳から青竜に化』した道真が現れて祈禱を制止したことから、『調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという』。承平五(九三五)年から天慶三(九四〇)年『にかけて平将門が関東で乱をおこすと、その調伏のため修法を行い霊験があり、その他にも験があたったという。美声の声明』(しょうみょう)『を行うことでも知られ、また天文・医薬にも通じていた』とされる。この笛の話も彼の霊験的エピソードとしてはかなり有名なものである。

 以上は「十訓抄」の「第十 才藝を庶幾(しよき)すべき事」(「庶幾」(しょき)とは「心から冀(こいへが)うこと」の意)にある以下。一九四二年岩波文庫刊の永積安明校注本で引用する。踊り字「〱」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りはママ。

   *

 博雅三位、月のあかゝりける、夜なほしにて、朱雀門の前にあそびて、よもすがら笛をふかれけるに、おなじさまなる人きたり、笛を吹きけり。誰ならむとおもふほどに、その笛の音、このよにたぐひなくめでたくきこへければ、あやしくちかくよりて見れば、いまだ見ぬ人なりけり。われも物もいはず、かれ物もいふ事なし。かくのごとく、月のよごとに行あひて、ふく事、よごろに成ぬ。彼人の笛の音、ことにめでたかりければ、心みに、かれをとりかへて吹けるに、世になきほどの笛なり。その後、なをなを月比は行逢て吹けれど、本の笛をかへしとらんともいはざりければ、やがてながくかへへてやみにけり。三位うせて後、御門此笛をめして、時の笛吹どもにふかせられければ、其聲ふきあらはす人なかりけり。その後、淨藏といふめでたき笛吹有けり。めしてふかせられけるに、此三位にをとらざりければ、御門感じ給て、「この笛のぬし、朱雀門の邊にて得たりけるとこそ聞け。淨藏かの所に行きて吹。と仰せられければ、月のよかしこに行て、此笛を吹ければ、樓門の上に、高く大なる聲にて、「なを一物や」とほめけるを、かくとそうしければ、はじめて鬼の笛としろしめしてけり。葉二と名づけて、天下第一の笛なり。其後つたはりて、御堂入道殿の御物に成にけるを、宇治殿、平等院をつくらせ給ひける時、御經藏に納められにけり。この笛には葉二あり。一つはあかく、一つはあをし。朝每につゆををくといひ傳へたれば、京極殿、御覽じける時は、赤葉落ちて、露をかざりけると、富家入道殿、かたらせたまひけるとぞ。笛には、皇帝・圖亂旋・師子・荒序、是を四秘曲といふ。それにをとらず秘するは、萬秋樂の五六帖なり。笛の寳物には靑葉・葉二・大水龍・小水龍・頭燒・雲太丸、此等なり。名によりて、をのをの由緒ありといへども、ことながければ略す。

   *

笛の名「葉二」は「はふたつ」と読むようである。「御堂入道殿」は藤原道長、「宇治殿」は藤原頼通、「京極殿」は藤原師実、「富家入道殿」は藤原忠実である。]

 その頃宮中に玄象といふ琵琶の名器があつた。撥の面に黑い象が畫いてあるので、玄象と名付けられたのである。昔から靈物と云はれただけに、内裏燒亡の時も、人の取り出さぬ前に飛び出して、大庭の椋(むく)の木の末にかゝつて居つた。村上天皇の御代にこの琵琶が紛失したが、朱雀門の鬼が盜んだといふ評判で修法が行はれた。玄象は頭に緒を付けて、朱雀門の上から下ろされた、とこれも「十訓抄」にある。「古今著聞集」にも同じく祕法を二七日修し、修法の力によつて朱雀門の上から下ろされたと書いてある。最も委しいのが「今昔物語」で、例の博雅三位が淸涼殿に於て遙かに琵琶を彈ずるのを聞き、その音を慕つて行くことになつてゐる。但それによると、朱雀門まで行つてもまだ南に聞えるので、朱雀大路を南に向ひ、羅生門に達する。門の上に彈ずるのが玄象に相違ないのを慥かめて、博雅はこゝまで音を尋ねて來た次第を告げたところ、天井から琵琶が下つて來たといふのである。朱雀門にしろ、羅生門にしろ、前の笛の場合と同じく、結果から見て鬼の仕業と推定するまでで、鬼の盜むのを見た者は誰もない。いやしくも鬼である以上、見付けられるやうなへまはしないのが當然かも知れぬ。

[やぶちゃん注:「玄象」(げんじやう(げんじょう))は古い時代の御物とされる琵琶の名。「玄上」「絃上」と書く場合もあるが、「玄象」は仁明(にんみょう)天皇(弘仁元(八一〇)年~嘉祥三(八五〇)年)/在位:天長一〇(八三三)年~嘉祥三年)の御世の御物の琵琶であり、「弦上」と書く方はそれから凡そ百年後の村上天皇(延長四(九二六)年~康保四(九六七)年/在位:天慶九(九四六)年~康保四年)遺愛の御物の琵琶であったともされる。同名異物・同名同物、さて、孰れなのか? 少なくとも、後に掲げる「今昔物語集」のエピソードでは、「村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶、俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、極(いみ)じき公けの財(たから)にて有るを、此(か)く失せぬれば、天皇、極めて歎かせ給ひて、此かる止事無(やんごとな)き傳はり物の我が代にして失せぬる事と思(おぼ)し歎かせ給ふ」とあるから、これは同じものととるべきである

「二七日」掛け算で十四日間。

 まず、「十訓抄」のそれは先と同じ「第十 才藝を庶幾すべき事」の以下である。底本は先に同じで、踊り字「〱」は「々」に変更した。激しい歴史的仮名遣の誤りは総てママである。

   *

 大宰大弐資通は、琵琶に名を得たりける上、これに心を入たること、人に勝れて、しばしもさしおく事なかりけり。殊なる念誦もせず、每日持佛堂に入て、佛前にて比巴を引て、人に數をとらせて、是を廻向し奉けり。能心にしめる也けり。然れども、みかどより玄象を給はりて、引けるに、いとしらべゑざりければ、濟政三位、これを聞て、「玄象こそ腹立ちにけれ。」と謂れけり。後に、かの資通の弟子、經信卿、調べ得ざりければ、「濟政言へることあり。今もその詞の如し。」とぞ、時のひと云ける。これは、此人々の未ㇾ至おりの事にや。覺束なし。かの玄象、もとは唐の琵琶の師、劉二郎が琵琶なり。深草の御門の御時、掃部頭貞敏が唐に渡りて、琵琶習ひける時の琵琶なり。紫檀の甲の繼ぎ目なきにてあるなり。されども、「唐人は信せず」とぞ、基綱の大貳はいわれける。ある人説に云、「玄象は、玄上宰相の琵琶なり。其主の名を付けたるによりて、玄上と書けり。」と云事もあり。猶唐人の琵琶と見えたり。撥面に黑き象をかけるによりて、玄象といふとぞ。むかしより靈物にて、内裡燒亡のときも、人のとり出ださぬ前に飛出て、大庭のむくの木の末にぞかゝれりける。あるときは、朱雀門の鬼に盜まれたりけり。これを求んために、修法おこなはれければ、門の上より、頸に緒を付て下せりなど、語り傳えたり。今の世には、此道に至らぬ人ひかんとすれば、必さわり出來と云り。琵琶の秘曲には、上玄・石上・流泉・白子・楊眞操・啄木也。是を名付て、胡渭州三曲とは云也。比巴の名物は、玄象・牧馬・井手・渭橋・木繪・元興寺・小琵琶・無名、是等也。名に付て皆子細あれども、事長ければ記さず。

   *

「大宰大弐資通」は源資通(寛弘二(一〇〇五)年~康平三(一〇六〇)年)で、後に出る「濟政三位」源済政の長男。従二位・参議。歌人である以上に管弦に秀で、琵琶を先に出た源経信に教授している。和歌の心得もあり、藤原彰子に仕えて和泉式部・紫式部などと親交した知られた伊勢(大輔)や菅原孝標女らと交流を持った。「濟政三位」は源済政(なりまさ 天延三(九七五)年~長久二(一〇四一)年)のこと。正四位上・播磨守。管絃の名手として知られ、宮中での御遊でもしばしば笛を担当している。「深草の御門」仁明天皇。前の「玄象」の注の下線部を参照。「掃部頭貞敏」(かもんのかみさだとし)は藤原貞敏(大同二(八〇七)年~貞観九(八六七)年)。従五位上・掃部頭。刑部卿藤原継彦の六男。ウィキの「藤原貞敏」によれば、承和二(八三五)年、『美作掾兼遣唐准判官に任ぜられ(この時の位階は従六位下)る。二度の渡航失敗を経て』、承和五(八三八)年、『入唐し長安に赴く。貞敏は劉二郎(一説に廉承武)という琵琶の名人に教えを請うために砂金』二百両『を贈った。劉二郎は「往来を行うのが貴い礼であり、請うなら、伝えよう」と言って、すぐに』三『調の琵琶を授けると、貞敏は』二、三ヶ月の『間に妙曲を習得してしまった。劉二郎はさらに数十曲の楽譜を贈って、「師匠は誰か、既に日本で妙曲を学んできたのか」と問うたところ、貞敏は「(音楽は)累代の家風で、特に師匠はいない」ことを答えた。劉二郎は感心して、自らの娘(劉娘)を貞敏に娶らせるが、劉娘は箏に優れ、貞敏はさらに新曲を数曲学んだという』。承和六(八三九)年の『貞敏の帰国にあたって、劉二郎は送別の宴を開き』、『紫檀と紫藤の琵琶各』一『面ずつを贈ったという。同年』、八月に『貞敏は琵琶の名器「玄象」「青山」(ともに仁明天皇の御物)及び琵琶曲の楽譜を携えて日本に帰国する。なお、一説では貞敏は唐で結婚した妻を連れて帰国し、妻は日本に箏を伝えたともいう』。翌九月には『渡唐の功労により正六位上に叙せられ』、その翌月には『仁明天皇臨席の元』、『紫宸殿で開催された宴において琵琶の演奏を披露している』。帰国後は三河介・雅楽助などを経て従五位下に叙せられ、承和一四(八四七)年に『雅楽頭に昇格すると、仁明朝末から文徳朝にかけてこれを務めた』。『若い頃から音楽を非常に愛好し、好んで琴を学んだが、琵琶が最も優れていた。他に才芸ははなかったが、琵琶の演奏をもって三代(仁明・文徳・清和)の天皇に仕えた。特別な寵遇を受けることはなかったが、その名声は高かった』。『また、多くの琵琶の秘曲を日本にもたらしたことから、琵琶の祖とされる』とある。中国人の妻を連れて帰国した辺り、いいね。「基綱の大貳」藤原基綱。「玄上宰相」公卿藤原玄上(はるうら/はるかみ/くろかみ 斉衡三(八五六)年~承平三(九三三)年)。藤原南家。中納言藤原諸葛の五男。従三位・参議で刑部卿兼帯。『管絃に優れ、琵琶の名手とされるとともに、和琴の名器「玄上(玄象)」は玄上の持物であったという』とウィキの「藤原玄上」にある。

   *   *

 次に「古今著聞集」であるがこれは至って短い。「卷第十七 變化」の「二七日の祕法に依りて琵琶玄象顯はるる事」である。但し、同書には玄象の記載が多く載る。

   *

昔、玄象(げんじやう)のうせたりけるに、公家おどろきおぼしめして、祕法を二七日修(しゆ)せられけるに、朱雀門のうへより、くびに繩をつけておろしたりける。鬼のぬすみたりけるにや。修法のちからによりておろしたりける。むかしはかく皇威も法驗(はうげん)も嚴重なりける、めでたき事也。

   *   *   *

 次に「今昔物語集」。「卷第二十四」の「玄象琵琶爲鬼被取語第廿四」(玄象といふ琵琶、鬼の爲に取らるる語(こと)第二十四)。□は欠字。

   *

 今は昔、村上天皇の御代に、玄象と云ふ琵琶、俄かに失せにけり。此れは世の傳はり物にて、極(いみ)じき公けの財(たから)にて有るを、此(か)く失せぬれば、天皇、極めて歎かせ給ひて、

「此かる止事無(やんごとな)き傳はり物の我が代にして失せぬる事。」

と思(おぼ)し歎かせ給ふも理(ことわり)也。

「此れは人の盜みたるにや有らむ。但し、人、盜み取りらば、可持(たもつべ)き樣無(やうな)き事なれば[やぶちゃん注:他の伝承が伝える、琵琶玄象は弾くに値しない者が触れるとその人物に災いが起こるとされたことを指しているように読め、最後の、玄象が下手な奏者に対しては人間のように腹を立てるということへの伏線ともなっている。]、天皇を不吉(よから)ず思し奉る者、世に有りて、取りて損じ失ひたるなんめり。」

とぞ疑はれける。

 而る間、源博雅と云ふ人、殿上人(てんじやうびと)にて有り。此の人、管絃の道極めたる人にて、此の玄象の失ひたる事を思ひ歎きける程に、人皆、靜かなる後(のち)に、博雅、淸涼殿にして聞きけるに、南の方に當りて、彼の玄象を彈く音、有り。極めて怪しく思へば、

「若し僻耳(ひがみみ)か。」[やぶちゃん注:「もしや、これはただの聴き違いだろうか?」。]

と思ひて、吉(よ)く聞くに、正(まさ)しく玄象の音也。博雅、此れを可聞誤(ききあやまるべ)き事に非ねば、返々(かへすがへす)驚き怪しむで、人にも不告(つげず)して襴姿(なほしすがた)にて、只一人、沓(くつ)許りを履きて、小舍人童(こどねりわらは)[やぶちゃん注:ここは殿上の間に対して奉仕する小童。]一人を具して、衞門(ゑもん)の陣を出でて南樣(ざま)に行くに、尚、南に此の音有り。

「近きにこそ有りけれ。」

と思ひて行くに、朱雀門(しゆじやくもん)に至りぬ。尚、同じ樣に南に聞ゆ。然(しか)れば、朱雀の大路を南に向きて行く。心に思はく、

「此れは、玄象を人の盜みて、□樓觀(らうくわん)にして蜜かに彈くにこそ有りぬれ。」

と思ひて、急ぎ行きて、樓觀に至り着き、聞くに、尚、南に糸(いと)近く聞ゆ。然れば、尚、南に行くに、既に羅城門(らせいもん)に至りぬ。

 門の下(した)に立ちて聞くに、門の上の層(こし)に玄象を彈く也けり。博雅、此れを聞くに、奇異(あさま)しく思ひて、

「此れは人の彈くには非らじ。定めて鬼(おに)などの彈くにこそは有らめ。」

と思ふ程に、彈き止みぬ。暫く有りて亦、彈く。其の時に、博雅の云く、

「此れ、誰(た)が彈き給ふぞ。玄象、日來(ひごろ)失せて、天皇、求め尋ねさせ給ふ間(あひだ)、今夜(こよひ)、淸涼殿にして聞くに、南の方に此の音、有り。仍(より)て尋ね來たれる也。」

と。

 其の時に彈き止みて、天井より下るる物、有り。怖しくて、立ち去(の)きて見れば、玄象に繩を付けて下(おろ)したり。然(しか)れば、博雅、恐れ乍ら、此れを取りて、内(うち)に返り參りて、此の由を奏して、玄象を奉りたりければ、天皇、極じく感ぜさせ給ひて、

「鬼の取りたりける也。」

となむ被仰(おほせられ)ける。此れを聞く人、皆、博雅をなむ讃(ほ)めける。

 其の玄象、于今(いまに)公けの財(たから)として、世の傳はり物にて内に有り。此の玄象は生きたる者の樣にぞ有る。弊(つたな)く彈きて不彈負(ひきおほせざ)れば、腹立(はらた)ちて不鳴(ならぬ)なり。亦、塵(ちり)居(ゐ)て不巾(のごはざ)る時にも、腹立て不鳴なり。其の氣色(けしき)、現(あら)はにぞ見ゆなり。或る時には、内裏に燒亡(ぜうまう)有るにも、人、不取出(とりいでず)と云へども、玄象、自然(おのづか)ら出でて庭に有り。

 此れ、奇異の事共也、となむ語り傳へたるとや。

   *

その昔、三十年前、私の好きなこの源博雅や琵琶「玄象」の話を古文の授業でしても、まず、誰一人として反応しなかった。それがかの「陰陽師」ブームで(安倍晴明のお友だち設定だったからね)、博雅の名が爆発的に知られるようになると、逆に話を聴きに来たり、押しかけで関連の漫画を貸してくれる女生徒(概ねそうだった)まで現われたのを懐かしく思い出す。それはそれで良いことだったと私はあの何だかな流行には感謝はしている。]

 以上列擧したところでわかるやうに、朱雀門の鬼は詩歌を解し、管絃を弄し、頗る風流心に富んでゐる。渡遽綱の兜の錣(しころ)を摑んで、片腕を斬り落される羅生門の鬼とは大分違ふ。「井華集」にある左の句はその風流心を認めたものであらうが、特に月を持ち出したのは、月夜の話がいくつもあるためと思はれる。

 

      月前懷古

   名月や朱雀の鬼神たえて出ず   几董

 

[やぶちゃん注:句の前後は一行空けた。前書は底本ではポイント落ちである。

「井華集」「せいくわしふ(せいかしゅう)」と読む。江戸後期の高井几董(きとう 寛保元(一七四一)年~寛政元(一七八九)年:京都の俳諧師高井几圭の次男。明和七(一七七〇)年、三十で与謝蕪村に入門、入門当初より頭角を現し、蕪村を補佐して一門を束ねるまでに至った。天明三(一七八四)年に蕪村が没すると、直ちに「蕪村句集」を編むなど、俳句の中興に尽力した)の自撰句集で全二巻。寛政元(一七八九)年刊。同句集はサイト「俳句の森」ので全部を読むことが出来る。]

南方熊楠 履歴書(その35) 南方植物研究所募金に纏わる弟への恨み節

 

 さて研究所の首唱者は舎弟常楠と田中長三郎氏二人なりしが、田中氏は大正十年仲春、洋行を文部省より命ぜられ米国へ渡り、何となく退いてしまわれし。これは今より察するに、舎弟が我慾強き吝嗇漢(りんしょくかん)で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かりて利にまわさんとでも心がけて、小生に慫慂(しょうよう)したることらしく分かったので、田中氏はのいてしまいしことと察し申し候。小生は世俗のことに聞きゆえ、そんなことと知らず、すでに研究所の趣意書までまきちらしたことゆえ、また東京では数万金が集まったことゆえ、今に鋭意して集金しおり、基本金には手をつくることならぬゆえ、いろいろと寄書、通信、教授また標本を売りなどして、わずかに糊口しおり候。舎弟は、小生意外に多く金あつまり銀行へ預けた上はそれで自活すれば可なりと、研究所の寄付金と小生一家の糊口費を混視し、従来送り来たりし活計費を送らざることすでに二年、よってさし当たりこの住宅なくては研究安定せざるゆえ、前年買いしときの約束に基づき四千五百円で譲与を望むも、今の時価ならでは(少なくとも一万円)譲らずと主張し、またその代りに小生亡父より譲られたる田地を渡し交換せんというに、大正三年小生の望みにより名前を舎弟のものに切り換えありという。これはそのころ当町の税務署より突然小生に所得税を徴せられしことあり。小生、一向所得税を払うべき物なしと言いしに、田地二町二反余あるを知らずやという。小生そんなことは末弟らより聞きしことあるも、自分は金銭のことに疎(うと)ければ知らずと言いて、舎弟へ書面を出し、右様のこと申し来たりては面倒ゆえ従前ごとく小生に代わりこれを預かりおるその方より納税しおきくれと、代納委任状をおくれり。実印は舎弟に預けあり。よってその代納税の委任状の小生の記名を何とかして譲与証書を作り、自分の物にしてしまいしことと存じ候。小生の月々の費用は、米が居多(きょた)にて年に六石ほど食う。右の二町二反余より三十石ばかり上がるなり。それに小生は迂闊(うかつ)にして、右二町二反余の地価の九百九十円とあるを明治二十年ごろの価と知らず、わずかなことなれば介意するに足らずとして、このごろまで過ぎおりたるなり。酒屋というものは毎年納税期に四苦八苦して納税する、そのためにはずいぶん兄弟や親戚の財産を書き替えることもありと聞くゆえ、骨肉の情としていつでも間にあわせ用が済まばまた小生に復(かえ)すことと心得、実印までも預けおきたるなり。しかるに、小生ごとき金銭にかけては小児同様のものをかようになしおわるとは、骨肉しかも同父母の弟としては非人道の至りなり。例年代納し来たりしに、この歳に限り小生依然金銭に迂なりや否を試し見んため代納を拒み、突然小生に徴税せしめたると分かる。このかけあいに前日上りしも、寒気烈しくして帰り来たり、さらに妻と妻の妹を遣わし、五時間もかけ合いしも埒(らち)明かず、春暖になれば小生またみずから上らんと思う。しかして談判のかたわら、生れ故郷のことなれば今も知人や知人の子弟は多くあり、それらの人々に訴えて集金せんと思う。今のような不景気な時節に集金は難事ながら、只今とても時々小生の篤志を感じ寄付金をおくらるる人なきにあらず。小生一度企てた以上は、たとい自身の生涯に事成らずとも、西洋の多くの例のごとく、基礎さえ建ておけば、また後継者あって大成しくるることと思う。

[やぶちゃん注:「大正十年仲春」一九二一年の仲春(春三ヶ月の中の月で正確には陰暦二月の異名であるが、ここは新暦二月の意)。南方植物研究所構想はこの二月頃に始められ、六月に田中長二郎の設立趣意書が発表されている。

「糊口費」「ここうひ」。生活費。

「混視」混同して認識することであるが、要は、同一のものと勝手に見做したことのを意味する。

「居多(きょた)」大部分を占めること。

「六石」米の場合、九百キログラム相当。南方熊楠一家は夫婦と長女・長男の四人家族で、月割りで七十キログラムになり、これは現行の消費量から考えると異様に多いが、今のように米以外のものを主食としていない点、熊楠邸には女中や使用人などもいることなどを考慮すれば、驚くべき量とは言えないと私は思う。

「明治二十年」一八八七年。本書簡は大正一四(一九二五)年のもの。

「迂」音で「ウ」と読んでいよう。疎いこと・鈍いこと。

 

「前日上りしも」「南方熊楠コレクション」の注によれば、上松蓊宛書簡から大正一四(一九二五)年一月のこととある。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「死者生者」

 

 死者生者 

 

 支那の書物を讀む場合、第一に勝手が違ふのは鬼といふ言葉である。日本の鬼は一寸法師に出て來るのも、羅生門に出て來るのも大した違ひない。見上げるやうに丈が高く、兩眼は鏡の如く、頭に角が生えてゐる。中には打出の小槌などを持つてゐるのもあるが、鐡棒を振り𢌞して人を脅かすのが原則のやうである。支那の鬼はこれほど類型的でないから、「太平廣記」にして四十卷に亙る鬼の内容を簡單に説明することは、如何なる學者にしても困難であらう。或者は幽靈であり、或者は化物であり、その外觀も千態萬狀で、鬼に金棒などといふ簡單な概念は通用しにくい。同じ幽靈にしても日本のやうに特殊の扮裝をして居らず、普通の人間と同じやうに行動するから困るのである。

[やぶちゃん注:「鬼」知っている人には言わずもがなであるが、最初に述べておくと、「鬼」という漢字の本来の意味は「死者」或いは「死者の魂」である。「廣漢和辭典」の解字には『グロテスクな頭部を持つ人の象形』文字『で死者のたましいの意を表す』と記す。しかし私は大学時代にしごかれ、しかし故に忘れられない亡き吹野安先生が「鬼」という字は死者の顔に、それを覆い隠すための四角い白い布「幎冒(べきぼう)」を被せ、それを縦横に結んで縛った形であると、講義で絵を描いて教えて下さった時のそれが、目から鱗のインパクトであった。同辞典では二番目(①の㋑。㋐は最初に示した意味)に『ひとがみ。人鬼。神として祭られた霊魂。「鬼神」↔天神・地祇』とし、次(①の㋒)に『不思議な力があると信ぜられるもの。一に聖人の精気を神、賢人の精気を鬼という』とあって、ここまでは非常にフラットな意味である。そこを私は押さえておかないと、中国語に於ける「鬼」概念を踏み誤ることとなると考えている。第四番目に至って、やっと①の㋓で『人に害を与えるもの。もののけ。ばけもの』という邪悪性が示されるのである。ところが、②になると『さとい』『わるがしこい』となり、③では「遠い」の意となるのである。⑧のところで仏教用語として梵語の「プレータ」の漢訳の『餓鬼をいう。飢えて飲食を求める死者。餓鬼道におちた亡者、また夜叉(ヤシャ)・羅刹(ラセツ)など、凶暴な鬼神をいう』とする。これは原型の最初の意味に中国で作られた偽経に基づく複雑怪奇な地獄思想を組み込んだものである。これらの後に国訓しての「鬼」の意として、『想像上の生物。人の形をして角があり、裸で虎の皮のふんどしをしている』と突如くるのである。因みに、これも言わずもがなであるが、何故、角があって虎の皮の褌かと言えば、これは何のことはない、鬼だから鬼門の方角からくるであろうということで、あちらは艮(うしとら)則ち「丑寅」であることから、日本で勝手に「牛の角」と「虎の褌」ということになってしまったに過ぎない。鬼門や十二支やあくまで符牒でしかなく、実在の「鬼」や動物とは無関係なのに、こうした比喩が安易に形成されるのも本邦のお目出度さだと言えば言えると私は思う。また、後の青鬼・赤鬼の肌色や体格は、何人かの法医学者や解剖学者が述べているように、実際の死体が腐敗して変様してゆく過程での、肌の色の変化や腐敗ガスの膨満をリアルに写したものである。]

「夷堅志」に出て來る李吉といふ男は、死んでから十年もたつてもとの主人に逢ひ、一緒に酒を飮んだりしてゐる。彼の説によると、幽靈は隨所に見出すことが出來るので、あれもさうです、これもさうですと云つて指摘した。同じ書物にある王立の話も略々同樣だから、支那では家常茶飯事なのかも知れぬ。「宜室志」にある呉郡の任生なども、この鑑別の出來る人であつた。或時二三の友人と舟を泛べて虎丘寺に遊んだが、その舟の中で鬼神の話になり、鬼は澤山ゐても人が識別出來ぬのだ、と任生は云つた。さうして岸を步いてゐる靑衣の婦人を指し、あれも鬼だが、抱いてゐる子供はさうぢやない、と説明した。友人の楊生が驚いて、どうしてさういふ辨別が出來るのか、と問うたら、君はただ見てゐろ、僕が話して見るから、と云ひ、その婦人に向つて、お前は鬼ぢやないか、どこから人間の子を盜んで來た、と萬聲叱咤した。婦人はびつくりして逃げ出したかと思ふと、忽ち見えなくなつた。楊生も深く感歎して夕方共に歸つて來たが、郭を去る數里のところで、一家が岸の傍に筵を敷き、巫女が鼓を打つたり舞ひを舞つたりしてゐるのに逢著した。樣子を聞いて見たら、今日嬰兒が俄かに亡くなり、今しがた生き還つたので、かうやつてお祝ひをしてゐるのです、と巫女が答へた。その嬰兒は慥かに靑衣の婦人が抱いてゐた子に相違なかつた。幽靈の眞贋鑑定などは日本ではあまり見當らぬ圖であらう。

[やぶちゃん注:「虎丘寺」現在の蘇州市の西北五キロメートルの山塘街にある虎丘にあった寺(現在は虎丘公園)。呉王闔閭の墓所と伝えられ、その名は丘が虎が蹲る形に見えるからとするもの、或いは闔閭の葬儀の三日目、白虎が現われて塚の上に蹲ったとも伝える。ここは私も行ったことがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 最初の話は「夷堅志」の「夷堅丙志」にある「李吉雞」であるが、原話はもっと長い。

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范寅賓自長沙調官於臨安。與客買酒昇陽樓上。有賣雞者。向范再拜、盡以所攜爲獻。視其人。蓋舊僕李吉也。死數年矣。驚問之、曰、「汝非李吉乎。」。曰、「然。」。「汝既死爲鬼。安得復在。」。笑曰、「世間如吉輩不少。但人不能識。」。指樓上坐者某人、及道間往來者、曰、「此皆我輩也。與人雜處商販傭作。而未嘗爲害。豈特此有之。公家所常使浣濯婦人趙婆者、亦鬼耳。公歸試問之、渠必諱拒。」。乃探腰間二小石以授范、曰、「示以此物。當令渠本形立見。」、范曰、「汝所烹雞可食否。」。曰、「使不可食、豈敢以獻乎。良久乃去。」。范藏其石還家、以告其妻韓氏。韓曰、「趙婆出入吾家二十年矣。柰何以鬼待之。」。他日趙至。范戲語之曰、「吾聞汝乃鬼果否。」。趙慍曰、「與公家周旋久。無相戲。」。范曰、「李吉告我如此。」。示以石。趙色變、忽一聲如裂帛、遂不見。此事與小中所載者多同。蓋鬼技等耳。右二事皆唐少劉説。

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幸い、私の愛読する話梅子(フウメイズ)氏のブログ「寄暢園別館」のこちらに「羹売りの李吉」として訳されてある。ご覧あれ。

 次に主人公名「王立」だけを挙げる同書のそれは、「夷堅丁志」の「王立火・麀鴨」で以下。

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中散大夫史忞。自建康通判滿秩。還臨安鹽橋故居。獨留虞候一人。嘗與俱出市。賣火麀鴨者甚類舊庖卒王立。虞候亦云無小異。時立死一年。史在官日。猶給錢與之葬矣。恍忽間已拜於前。曰、倉卒逢使主。不暇書謁。遂隨以歸。且獻柈中所餘一鴨。史曰、汝既非人。安得白晝行帝城中乎。對曰、自離本府即來此。今臨安城中人。以十分言之。三分皆我輩也。或官員。或僧。或道士。或商販。或倡女。色色有之。與人交關。往還不殊。略不爲人害。人自不能別耳。史曰、鴨豈眞物乎。曰、亦買之於市。日五雙。天未明。齎詣大作坊。就釜灶燖治成熟。而償主人柴料之費。凡同販者亦如此。一日所贏。自足以糊口。但至夜。則不堪。既無屋可居。多伏於屠肆肉案下。往往爲犬所驚逐。良以爲苦。而無可奈何。鴨乃人間物。可食也。史與錢兩千遣去。明日、復以四鴨至。自是時時一來。史竊嘆曰、吾人也。而日與鬼語。吾其不久於世乎。立已知之。前白曰。公無用疑我。獨不見公家大養娘乎。袖出白石兩小顆。授史曰、乞以淬火中。當知立言不妄。此媼蓋史長子乳母。居家三十年矣。史入戲之曰、外人説汝是鬼如何。媼曰、六十老婢。眞合作鬼。雖極忿慍。而了無懼容。適小妾熨帛在旁。史試投石於斗中。少頃焰起。媼顏色即索然。漸益淡淺。如水墨中影。忽寂無所見王立亦不復來。予於丙志載李吉事。固已笑鬼技之相似。此又稍異云。朱椿年説。聞之於史倅

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『「宜室志」にある呉郡の任生』は「卷四」の「呉任生」。

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郡任生者、善視鬼、廬於洞庭山。貌常若童兒、楚之俗、莫能究其甲子。寶應中、有前昆山尉楊氏子僑郡。常一日、里中三數輩相與泛舟、俱遊虎丘寺。時任生在舟中、且語及鬼神事。楊生曰、「人鬼殊跡、故鬼卒不可見矣。」。任生笑曰、「鬼甚多、人不能識爾、我獨識之。」。然顧一婦人、衣靑衣、擁豎兒、步於岸。生指語曰、「此鬼也。其擁者、乃嬰兒之生魂爾。」。楊曰、「然則何以辨其鬼耶。」。生曰、「君第觀我與語。」。卽厲聲呼曰、「爾、鬼也、竊生人之子乎。」。其婦人聞而驚懾、遂疾囘去、步未十數、遽亡見矣。楊生且嘆且異。及晚還、去郭數里、岸傍一家陳筵席、有女巫鼓舞於其左、乃醮神也。楊生與任生俱問之。巫曰、「今日里中人有嬰兒暴卒、今則寤矣、故設筵以謝。」。遂命出嬰兒以視、則眞婦人所擁者。諸客皆驚嘆久之、謂任生曰、「先生真有術者。」。生曰、「以神合用、以用合神、則吾得而知之矣。

   *]

 浦城の人が若くして旅中に亡くなり、家に一斤の金があつたのを、妻が隱匿して姑に知らせなかつたところ、翌年その男が夜歸つて來て門を敲く。母親は駭きながらも、お前は本當に死んだのではないのか、と尋ねると、いゝえ本當に死んだのです、たゞ不平の事があるので、ちょつと歸つて來たのです、と答へ、今度は妻に向つて、何故おれの金をお母さんに上げずに、自分で匿したのか、と責め出した。男の手には刀があり、今にも殺しさうな樣子に見えたので、母親が慌ててこれを止め、お前は已に死んでゐる、こゝで嫁が殺されれば、世間では私が殺したと云ふに相違ない、それだけはやめておくれ、と注意した。男は慟哭して母の許を立ち去つたが、その去るに臨み、刀を提げたまゝ妻を實家まで連れて行つた。もう明方近くなつてゐたので、實家の數十步手前まで來たら、忽然見えなくなつた。母親の話によれば、男の言語は平生の如くであつたが、手足は水のやうに冷たかつたさうである。

[やぶちゃん注:ここで柴田は出典を示していないが、これは後に出る「稽神錄」の「卷三」の「浦城人」である。

   *

浦城人、少死於路、家有金一斤、其婦匿之、不聞於其姑。逾年、忽夜扣門、號哭而歸。其母驚駭、相與哀慟、曰、「汝真死耶。」。曰、「兒實已死、有不平事、是以暫歸。」。因坐母膝、言語如生、但手足冷如水耳。因起握刀、責其妻曰、「我死有金爾、何以不供母乃自藏耶。」。卽往殺之、其母曰、「汝已死矣、儻殺爾妻、必謂我所殺也。」。於是哭辭母而去、復自提刀送其妻歸母家。迨曉及門數十步、忽然不見。

   *]

 支那の幽鬼の世間に出沒する樣子は大體こんなもので、現實の人間世界とあまり變つてゐない。中には車馬輜重を從へて堂々と官舍に乘り込み、こゝは自分の舊宅であると云つて地上權を主張するやつまである。一體あなたがこゝに居られたのはいつ頃かと反問したら、隋の開皇の頃であると答へたので、はじめて鬼であることがわかつた。彼等は人間と同じ世界に住み、時にかういふ折衝を敢てしたりするが、中には遠く人間を離れ、獨立國家を經營してゐる例もないではない。

[やぶちゃん注:「輜重」正確に言えば、これは軍隊の糧食・被服・武器・弾薬などの輸送すべき軍需品の総称で、輜重隊とはそうした後続支援部隊を指すが、ここは軍隊と採ってよかろう。

「隋の開皇」隋の文帝楊堅の治世の年号で隋朝最初の年号である。五八一年から六〇〇年で、この開皇一五(五九五)年は、中国で始めて、かの科挙が創設・開始されている。同年は本邦では推古天皇三年に相当する。

 これも柴田は出典を明らかにしていないが、やはり同じく「稽神錄」で、「卷二」の「周元樞」(しゅうげんすう)である。

   *

周元樞者、睢陽人、爲平盧掌書記。居臨淄官舍、一夕將寢、忽有車馬輜重甚眾、扣門、吏報曰、「李司空候謁。」。元樞念親知輩皆無此人、因自思必郷曲之舊、吾不及知矣、因出見之。延坐請問其所從來、曰、「吾新移家至此、未有所止、求君此宅可矣。」。元樞驚曰、「何至是。」。對曰、「此吾之舊宅也。」。元樞曰、「吾從官至此、相傳雲書記之公署也。君何時居此。」。曰、「隋開皇中嘗居之。」。樞曰、「若爾、君定是鬼耶。」。曰、「然。」。地府許我立廟於此、故請君移去爾。」。元樞不可、曰、「人不當與鬼相接、豈吾將死、故君得臨吾耶。雖然、理不當以此宅授君、吾雖死必與君訟。」。因召妻子曰、「我死、必多置紙筆於棺中、將與李君對訟。」。即具酒與之飮相酬數百杯、詞色愈厲。客將去、復留之、良久、一蒼頭來雲、「司空周書記、木石人也、安可與之論難、自取困哉。」。客於是辭謝而去、送之出門、倏忽不見。元樞竟無恙。

   *

これについては、柴田の謂いは梗概とも言えぬもので、この後の顛末がまるで分らぬ恨みあるが、幸い、こちらで全訳が読める。参照されたい。後半の展開こそが実に面白い。]

 梁の時代に靑州の一商人が海上で大風に吹き流され、見馴れぬ國に漂著した。造かに城郭なども見えるけれど、どこであるかわからない。多年海上を往來する船頭にも全く見當が付かず、事によつたらこれが話に聞いた鬼國かも知れません、と云ひ出した。とにかく上陸することにして、城の見える方へ步いて行くのに、家の建築や田畑の樣子は支那の内地と同じ事だが、道で逢ふ人に會釋しても皆知らん顏をしてゐる。城門には門番がいかめしく控へてゐるので、一應會釋して通らうとすると、こゝもまた雲烟過眼であつた。王宮では大宴會の最中らしかつたが、列座の人の服裝も、竝べられた器具や音樂なども別に異國らしいところは見えぬ。咎める人もないまゝに、その樣子を窺つてゐたところ、王が急に發病された。巫が恭しく述べるのを聞けば、これは陽地の人が參りましたので、その陽氣のためと存ぜられます、彼等は偶然漂著致しましたので、祟りをなす次第でもございませんから、飮食車馬の類をお與へになればよろしうございませう、といふのである。早速別室に酒食が用意され、巫や群臣はそこへ來て何か祈つてゐるらしい。宇宙人が地球に降りて來たやうなものと見ればよからう。やがて馬の準備もとゝのつたので、それに乘つてもとの岸に到り、舟は幸ひに順風を得て無事に戾ることが出來たと「稽神錄」にある。もしその間此方の姿が徹頭徹尾先方に見えぬとしたら、皿に盛られた珍味が自然に消え失せたり、影もない者が馬に乘つて行つたり、種々の不思議が演ぜられたものと思はれる。要するにこの話では幽界と人間界とが全く融和せぬので、人間が幽靈をこはがるやうに、鬼國の人々は人間を敬遠する。正に陰陽對立の狀態であるが、どうして此方に向うの人々が見えて、向うの人には此方が見えぬのか、その點はいさゝか相對的でない。かういふ鬼國漂流譚は支那の書物の中でも先づ珍しい話題である。

[やぶちゃん注:「梁」以下に示す原文に「朱梁」とあるように、これは五代の最初の王朝後梁(こうりょう)のこと(南北朝時代の後梁(西梁)と区別するために「朱梁」とも呼ぶ)。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が九〇七年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した。国域は参照したウィキの「後梁を見られたい。

「靑州」現在の山東省の旧称。

「雲烟過眼」普通、雲や霞が目の前を過ぎるのに対して心を動かさないように、全く目の前にあってもなきが如くに振る舞うこと、転じて、如何なる物事にも執着しことの意。しかし、この話柄ではご覧の通り、民に会釈しても知らんぷりに始まって、実際に実は主人公らの姿は彼らに見えていなかったというところがミソ、則ち、本話の重要な伏線なのである。

 以上は「稽神錄」の「卷二」の「靑州客」。

   *

朱梁時靑州有賈客、泛海遇風、漂至一處、遠望有山川城郭、海師曰、「自頃遭風者、未嘗至此。吾聞鬼國在是、得非此耶。」。頃之、舟至岸、因登之、向城而去。其廬舍田畝、皆如中國、見人皆揖之、而人皆不應。已至城、有守門者、揖之亦不應。入城、屋室人物殷富、遂至其王宮、正大宴、群臣侍宴者數十、其衣冠器用、絲竹陳設之類、多如中國。客因升殿、俯逼王座以窺之。俄而、王疾、左右扶還、亟召巫者示之、巫雲、「有陽地使人至此、陽氣逼人、故王病。其人偶來爾、無心爲祟、以飲食車馬謝遣之、可矣。」。卽具酒食、設坐於別室、王及其群臣來祀祝、客據案而食、俄有仆夫馭馬而至、客亦乘馬而歸。至岸登舟、國人竟不見。復遇便風得歸。時賀德儉爲靑州節度、與魏博節度楊思厚有親、因遣此客使魏、具爲思厚言之。魏人範宣古親聞其事、至爲余言。

   *]

2017/05/16

幸福について   萩原朔太郎

 人間の幸福なんてものは、實に果敢なく詰らないものだと、ニイチェが悲しげな調子で言つてる。なぜといつて人生の眞の幸福は、宇宙の大眞理を發見することでもないし、高遠な大理想を實現することでもない。日常生活の些々たること、たとへば朝起きて、枕元に暖かい紅茶が入れてあつたり、書齋がきれいた掃除してあつたり、机の上に一輪の花が挿してあつたり、晝飯の菜が旨かつたり、妻の御機嫌が好かつたりすることなのだ。そしてこの實にくだらないことの日課が、幸福そのものの實體なのだと。

 このニイチェの言葉には、彼の「人間的な、あまりに人間的」なものに對する嫌惡と絶望の嗟嘆がこめられて居る。だが結局言つて生の意義は、本能獸の感覺を充たすことにしか過ぎないのだらう。大トルストイが生涯を通して嘆いたことは、美男子に生れなかつたことの悔みであつた。しかも彼のイデアした美男子とは、藝術的意味の崇高美や深刻美を持つた美男子ではなく、普通の女たちに好かれるやうな、下等な性慾的な顏をした色男、卽ち世俗の所謂好男子であつたのだ。宿の娘をだました色魔貴族のネフリュードフは、彼が密かに憧憬したモデルであつた。彼は老年になつてからも、常に鏡を見て自己の容貌を嘆いて居たといふ。トルストイほどの文豪が、何といふ人間的な、詰らない幸福を熱情して居たのであらう。そしてしかも、大概の人の求めてゐる幸福とは、實際みなそんなものなのである。

 自分の知つてる、或る天分の豐かな小説家が、いつも人々に語つて言つた。自分のこの世に願ふところは、強健な逞ましい肉體と、三度の食事が旨く食へるところの胃袋である。それさへ神が與へるならば、自分の文學の才能なんか、豚にやつてしまつてもかまはないと。この小説家は胃が惡く、ふだんに強胃劑ばかりを飮んで居た。悲しい幸福があつたものだ。

 

 支那の詩人陶淵明は、官を捨てて郷里に歸り、小さな庭に菊を作つたり、妻子を連れて近郊に散步したり、子供の勉強を見てやつたり、時に隣人と酒を飮んだりして、平凡な詰らない日課の中に生を經つた。しかもその生活について、陶淵明は最上の幸福を感じて居た。佛蘭西の詩人ヹルレーヌは、酒代をかせぐために詩を書いて居た。彼にとつての幸福とは、名譽でもなく藝術でもなく、アルコールに醉つてることの一生だつた。安直な、意味のない、動物的な麻醉への追求が、悲しい詩人の幸福だつた。

 

 幸福とは何だらう。

 エビクロスによれば、幸福とは快樂をほしいままにすることである。だが彼のいふ快樂とは、一片のパンと少量の水で、心の滿足する喜悦を意味した。エビクロスの樂園とは、つまり言つて貧者の天國に過ぎないのである。反對にまた支那の楊子は、富者の幸福説を教へた。楊子によれば、人間の中の眞の人間、即ち所謂聖人賢者とは、紂王やネロのやうな暴君を言ふのである。なぜなら彼等は、自己の欲情のおもむくままに、道德や法律を蹂躙して、あらゆる本能の快樂をほしいままにし、しかもその美しい幕の閉ぢない中に、潔よく破滅して死んでしまつた。これこそ英雄の生涯だと言ふ。だがこれを實現するには、異常な健康とエネルギイと、それから莫大の富と權力とを持たねばならぬ。楊子の教へた幸福説は、富者や帝王のためにしか聽聞されない。

 犬儒学者のヂオゲネスは、意志の克己による欲望の否定を教へた。それはバラモン僧の苦行と同じく.自己虐使による愉悦表象の麻醉であり、心理上の象徴主義に屬して居た。中世の基督教徒は、すぺての幸福を來世にかけ、現世の快樂を憎悪した。所謂「精神上の幸福」とは、何かの或る信仰や理念に對する、宗教的なエクスタシイを意味するのである。さうでもなければ、人は感覺のない精神からのみ、眞の滿足する幸福を感じはしない。そこでカントは、人生の意義が幸福になく、義務の遂行にあると教へた。だが我々は、一體どんな義務を他に負つてるのだ。「汝の生活を規範的にし、萬人の公則律となるやうに行爲せよ。」始め! 一(アインス)、二(ツアイ)。一(アインス)、 二(ツアイ)。そこで幸福とは、獨逸的兵式體操の教官になることである。

 ショーペンハウエルによれば、快樂とは苦痛の消滅した狀態を言ふのである。この説の前提には、生れざりせばといふニヒルの厭世觀が命題して居る。そこで彼の結論は、カルモチンをのんで催眠自殺をする人が、世の中で一番賢いといふことになる。南無阿彌陀佛。南無阿彌陀佛。

 

 米國の心理學者ゼームスは、幸福の正體を分數の數理で説明してゐる。欲望の量が分母であつて、生活上の實數が分子である。そこで分母の欲望が多いほど、分子の價値が小さくなり、生活への不滿感が強くなる。反對に欲望が少ないほど、分數の値が大きくなつて、人生が幸福になるのである」德川幕府の爲政家等は、この心理學を應用して、政府の安定の爲に人民の不平を押へた。卽ち嚴重な階級制度や、質素儉約主義や、分を知ることの教育やで、最低限度の欲望しか、人民の意識にあたへないやうに注意した。老年になつてから、概して人が幸福になり、平和と安逸を見出すのもこの爲である。老年は欲望を稀薄にする。收穫するところは少ないけれども、費消するところも少なくなり、差引して安樂を餘劑する。佛教の説く寂滅爲樂は、かうした人生觀の究極哲學である。

 

 メエーテルリンクは、幸福を「靑い鳥」にたとへた。靑い鳥の姿は、月光の森に見る幻影である。一度實體を捕へてみれば、普通のつまらない鳥でしかない。所詮人間の一生は、幻影の鳥を探す旅行に過ぎないと、あの宿命論者の詩人は教へる。だがしかし、ああ幸福とは何だらう? 人が一生の旅行を終り、ライフの決算をしようとして、靜かに過去を考へる時、所詮は記憶の追懷しかない。人生の最後の價値は、その記憶の量の貧富によつて計算される。過去に於て、一も欲情の充たされなかつた人生。一の花々しい思ひ出もなく、冒險もなく、戀愛もなく、ロマンスもなく、骨の白々とした椅子のやうな人生。ただそれだけが老年の追憶に殘るとすれば、ああ人生の總決算は、寂しい悔恨の外の何物でもない。然らば再度、幸福とは何だらうか? 汝の生きてる間に、とりわけその靑春時代に、すべての花やかな記憶を作れ。そして善くも惡しくも、人が生きてる間に經驗し得る、一切の人生を經驗せよ。度々不幸な結婚や失戀をして、孤獨に取り殘された女の悲哀は、一度の結婚も戀もしないで、無爲に過ぎてしまつた老孃の悔恨にまさつて居る。善くも惡しくも、多くの人生を經驗して、金を費ひ果してしまつた人の零落は、それを所有したままの財布を抱へて、空しく病死する人にまさつて居る。すべての快樂は瞬間である。だがその記憶は長く殘り、心の陰影に縹渺して、後日の樂しい追憶になる。不幸な苦痛の經驗でさへも、人生を知つたことの價値に入れられ、生涯の總決算を豐富にする。善くも惡しくも、自分は人生を經驗し、ライフの何物たるかを味ひ知つた。と老年になつて自覺する時、人は死に對して未練が無くなる。いちばん惡く不幸なことは、過去に何事の追憶もなく、人生を白紙のままで、無爲に浪費してしまつたといふことの悔恨である。この悔恨は死に切れない。しかしながらまた幸福とは? ああその恐ろしい虛妄の幻影。悔恨する意識自體を、早く喪失してしまふことにあるのかも知れない。

 

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年三月号『若草』初出。昭和一一(一九三六)年五月発行の「廊下と室房」の本文冒頭に収録された。昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第九卷」を底本とした。

 第二段落「ネフリュードフ」はレフ・ニコラエヴィチ・トルストイ(Лев Николаевич Толстой:ラテン文字転写:Lev Nikolayevich Tolstoy 一八二八年~一九一〇年)の名作「復活」(Воскресение 一八八九年~一八九九年)の主人公。

 第六段落に出る「楊子」(ようし)は楊朱(紀元前三七〇頃?~前三一九頃?)。春秋戦国時代の思想家で個人主義的な思想である為我(いが)説(自愛説)を主張した。人間の欲望を肯定して自己満足こそが自然に従うものであるとした。儒家・墨家に対抗し、異端として孟子などから排撃された。著書は伝わっておらず、「列子」の楊朱篇や「荘子」などに断片的に記載される。哲学史に於いては、朔太郎も並べて述べている通り、西洋の同時代人である快楽主義を提唱したる古代ギリシア・ヘレニズム期の哲学者エピクロス(紀元前三四一年~紀元前二七〇年)と比較される(ここはウィキの「楊朱等に拠った)。

 第七段落の「犬儒学者のヂオゲネス」は古代ギリシアの哲学者でキュニコス学派(犬儒学派・皮肉派などとも称される)ディオゲネス(紀元前四一二年?~紀元前三二三年)。ソクラテスの孫弟子に当たる。社会規範を蔑視し、自然に与えられたものだけで満足して生きる「犬のような」(ギリシア語で「キュニコス」)人生を理想とし、「徳」こそが人生の目的であり、「欲望」から解放されて「自足」すること、動じない心を持つことを説き、肉体的・精神的鍛錬を重んじた。

 第八段落の「カルモチン」は催眠鎮静剤であるブロムワレリル尿素(bromvalerylurea)の武田薬品工業商品名(既に販売中止)。旧来の薬物自殺や心中事件にしばしば挙がってくる名であるが、致死性は低い。

 第九段落の「米國のゼームス」はアメリカの哲学者・心理学者で、徹底したプラグマティストとして知られるウィリアム・ジェームズ(William James 一八四二年~一九一〇年)。「意識の流れ」理論(stream of consciousness:意識とは絶えず変化しつつあり、それがまた、一箇の人格的意識を形成し、その中にあっては意識や思惟は連続体としてのみ感取され、この変化しつつ連続している「状態」こそが「意識」と呼ぶものであるとする)を提唱し、欧米や日本の近代文学にも非常に強い影響を与えた。因みに、実弟は兄のその理論を適用した、かの絶品の幻想心理小説The Turn of the Screw(「螺子(ねじ)の回転」 一八九八年)の作者ヘンリー・ジェームズ(Henry James 一八四三年~一九一六年)である。]

南方熊楠 履歴書(その34) 南方「性」談

 

 右の次第にて小生は、南隣の主人の無法のために五年来の試験を打ち切らざるを得ざることとなりしにつき、県知事始め友人ら、これ全く小生多年あまりに世間とかけ離れて仙人棲居(すまい)をせし結果なれば、何とかして多少世間に目立ち、世人より敬せられ保護さるるようの方法を講ずべしとのことにて、協議の末生まれたのが植物研究所で、その首唱者は、拙弟常楠と田中長三郎氏(趣意書の起草者、大阪商船会社、中橋徳五郎氏の前に社長たりし人[やぶちゃん注:ここに底本では編者による括弧書き補正注『の令息』が入っている。])なりし。しかるに、この常楠というもの、幼時は同父同母の兄弟として至って温厚篤実の者なりしが、その妻が非常の悍婦にて、もと小生ごとき成り金ものの悴とかわり、代々名高かりし田舎長者の娘なり。にわか大名がひたすら公卿の娘を妻として誇りたきごとく、小生の父亡後、母が以前士族に奉公したことがあるので、悴に旧家より嫁をとりやりたしとて、この女を弟の妻としたるなり。その女の兄は明治十九年に妻を娶り、少しの間に狂を発し、今に癲狂院に入りおり、時々平癒して帰休するとまた発狂して入院するなり。その弟は発狂して人を殺せしものなり(その後若死せり)。しかして兄の妻また悍婦にて、嫁入り来たり一男一女を挙ぐるうちに、夫が発狂せしゆえ、寡居して家を守り、姑(すなわち拙弟の妻の母)と至って仲悪く、数十年別居しおる。この姑すなわち拙弟の妻の母もまた若くして寡となりしものにて、いろいろと醜行の評もあり、それを気に病んで、その長男が発狂し、母の髪を鋏(はさ)み切りたるなり。こんな家に生まれたる女ゆえ、拙弟の妻また狂人ごときふるまい多く、何とも始末におえず、自分の里に帰りしことなしといえば、しごく貞女のようなれど、実は発狂せる兄の妻が悍婦で、姑を遂い出すほどの者ゆえ、夫の妹(すなわち拙弟の妻)を容れず、それがため、拙弟の妻は拙弟方にかじりつきて、この家で討死と覚悟を極めおるから勢い凄まじく、拙弟が頭が上がらず。亡父の時の旧番頭にて分家せしもの、また小生と常楠の末弟、また小生の兄や姉など、あまりのことに驚き怪しみ、拙弟を戒め、今少しく鉗制せよというと、この女、則天武后、平の政子という体で、威猛高にこれに反抗す。それがため、兄と末弟はほとんど窮死また自殺同前に死んでしまい、兄の娘は娼妓同前に横浜の色情狂ごときものの妻にほとんど売られおわりぬ。姉も去年死亡す。かくて、小生は久しく海外にありし者ゆえ、その間のことは一切分からず。家の伝説履歴を知った者はみな死んでしまう。小生の父母の一族は一切舎弟方へ寄りつかず、ただただ舎弟の妻の一族のみ強梁(きょうりょう)しおるなり。

[やぶちゃん注:「植物研究所」何度か注してきたが、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方植物研究所」に表向きの話は詳しい(逆にここで熊楠が明かしているような隣家とのトラブルが動機であることは一切記されていない)。それによれば、『大正十(一九二一)年六月、原敬ほか三十三名の知名人によって発起された南方熊楠の学術研究後援組織。第一次目標を基金十万円と定め、これによって財団法人を設立、所長南方熊楠に全般の経営を委託して、設立後三ヶ年間に植物及び植物生産にかかわる熊楠の研究成果を内外に公表するなどの趣旨を掲げて』おり、『研究所設置をいち早く提唱したのは兵庫県出身の田中長三郎で、田中は米国留学中に米国政府の植物工業局長だったスウィングル博士の助手をしていた関係から、同博士と親交のあった南方熊楠を知り、帰国後再三田辺を訪れ、熊楠の研究姿勢に共鳴、その収集標品、蔵書等を基礎にわが国第一号の植物研究所設立を企画したものである』とし、『この動機について田中は『牟婁新報』で、わが国の学事が世界の二、三流にあるのは、日本人が学者を尊敬しないからで、世界の大勢は戦後(注=第一次大戦後)争って偉才を押立てて新しい組織を作り、互いに研究開発に熱中しているのが世界の趨勢だと述べ、わが国でただちにそうした機関を作って世界に伍そうとするならば、それは南方熊楠を置いてない(大正十年三月)と力説している。そのため田中は帰国直後の大正八年、大阪に植物興産所を建設したいと阪神在住の富豪に出資を求める一方、熊楠に候補地の検分をさせるなどしたが、強力な後援者が現われぬまま計画は頓挫した』。『植物研究所は、その延長とも見られるもので、田中はその研究所を熊楠の宅に置き、募金によって財団法人を設立しようとした。そこで、当事者の熊楠とその弟南方常楠(酒店経営)、毛利清雅(牟婁新報社主、県議)の四人で協議を重ね骨格を作った』とある。既に繰り返し記した通り、この研究所もまた、資金面と常楠との決定的な関係悪化によって頓挫し、設立を見なかった。

「田中長三郎」複数回既出にして既注。

「中橋徳五郎氏の前に社長たりし人」中橋徳五郎(なかはしとくごろう 文久元(一八六一)年~昭和九(一九三四)年は実業家で政治家。大阪商船取締役社長(大正三(一九一四)年辞任)を勤め、明治四五(一九〇二)年に大阪から衆議院議員に立候補して当選七回、内務大臣・商工大臣・文部大臣を歴任した。この前社長というのは田中市兵衛(天保九(一八三八)年~明治四三(一九一〇)年)という実業家・政治家で、ウィキの「田中市兵衛」によれば、肥料・銀行・紡績・貿易・海運・新聞・桟橋・鉄道などの『経営を手がけ、今日の多くの名門企業の前身を築いた』『関西経済界の重鎮』だったとある。『大阪商工会議所会頭、大阪肥料取引所理事長、大阪市会議員、大阪府会議員、衆議院議員を務め』たともある。調べてみると、中橋の前の大阪商船取締役社長で、明治二八(一八九五)年七月から明治三一(一八九八)年七月までその地位にあったことが判った(長澤文雄氏の綿密なサイト「なつかしい日本の汽船」の「大阪商船株式会社」の頁に拠った)。但し、活字本「南方熊楠を知る事典」にもネット上の記載にも、田中長三郎がこの田中市兵衛の子息であることは記されていない。ちょっと不思議である。

「悍婦」(かんぷ)は、気の荒い女・気の強い女・じゃじゃ馬のこと。

「明治十九年」一八八六年。

「鉗制」「カンセイ」或いは「ケンセイ」と読み、押さえつけて自由にさせないことを意味する。

「強梁」芯が強い・頑固で気力が強い・強い力を指す語であるが、ここは「強梁跋扈(ばっこ)」で「勢い強く、のさばっていること」の意。]

 

 物徂徠の語に「僧侶の行い浄きものは多く猥語を吐く」とありしと記臆す。ローマのストア派の大賢セネカも、わが行を見よ、正し、わが言を聞け、猥なり、と言えり。小生は、ずいぶん陰陽和合の話などで聞こえた方だが、行いは至って正しく、四十歳まで女と語りしことも少しく、その歳に始めて妻を娶り、時々統計学の参考のためにやらかすが、それすらかかさず日記帳にギリシア字で茶白とか居(い)茶白とか倒澆(さかさま)蠟燭とか本膳とかやりようまでも明記せり。司馬君実(くんじつ)は閨門中の語までも人に聞かされないものはないと言ったそうだが、小生はそのまだ上で、回向院の大相撲同前、取り組みまでも人に聞かされないものはないと心得おる。また他人とかわり、借金ということをしたことなし。至って尋常なことのようだが、これは至ってしにくきことに御座候。しかるに舎弟は、表面孔子からつりをとるような顔をした男ながら、若い時折花攀柳とやらで淋病を疾(や)み、それをその妻に伝えたるなり。漢の呂后、隋の独孤后、唐の則天などは知らず、黴毒ということ盛んに行なわるる世となりては、これを伝えられたる妻が性質一変して嗔(いか)りと嫉(ねた)みより牝獅が子を乳するときのごとく狂い出すはあり内のことで、今の世に妻に頭の上がらない夫は十の八、九はこの一つの過失ありしため、めめしくも閉口しおると見え申し候。

[やぶちゃん注:「物徂徠」「ぶつ(ぶっ)そらい」知られた江戸中期の学者荻生徂徠(寛文六(一六六六)年~享保一三(一七二八)年)は本名を茂卿といい、本姓が物部氏であったことから「物茂卿」「物徂徠」とも称した。

「猥なり」「みだらなり」。

「四十歳まで女と語りしことも少しく、その歳に始めて妻を娶り」既に自ら記しているように、南方熊楠は数え四十歳の明治三九(一九〇六)年七月、親友喜多福武三郎の紹介により田辺の闘鶏神社の社司であった田村宗造の四女松枝と結婚した。

「時々統計学の参考のためにやらかすが」ちょっと判らない。「人口統計学」、則ち、人口増加の参考に寄与せんが「ために」子を作らんと、「時々」は性行為を「やらかすが」か?(しかし、常に子を作るためではないわけだから、これは言いとして変である) それとも、妻を娶った男は、生存中、何度、妻と性行為に及ぶかという「統計学の参考のために」「時々」それを「やらかすが」という意味か? この後の体位の「統計学の参考のためにやらかす」わけではあるまい。当初、その意味(性交に於ける体位の種別とそれぞれの頻度を「統計学の参考」にする)で読んだが、それでは文章が転倒してしまうし、「それすらかかさず日記帳に」「明記」するとい謂い方と上手く整合しない。しかし、後の方の注記風追記の最後の段落で「やりようの如何(いかん)により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし、深く研究を要す」というイギリスの冒険家リチャード・フランシス・バートンの言葉を記しているところなどは、この最後の謂いのようにも思われなくはない。

「茶白」「ちゃうす」。古くからの性交の体位の一法を指す語。男が仰向けになって、女がその男の上に騎馬するようにして性交する体位を指す。「逆(ぎゃく)」「笠伏せ」とも称する。

「居(い)茶白」互いに正面を向き合って座った状態で、両足を前に出して抱擁する形で性交にする体位。これは互いが座位であることから、所謂、騎乗位のグループには含まれない。

「倒澆(さかさま)蠟燭」不詳。対面座位の一種で男性が体を起こして、女性の片足を肩に担ぐような形にする「帆かけ茶臼」(高くあげた女性の足を船の帆に見立てる)それを考えたが、どうもピンとこない。深沢俊太郎氏のサイトの「ネット中国性文化博物館」のページに、明末清初の小説である李笠翁の「肉蒲団」にこの四字熟語が出ており、「蠟燭を倒澆(とぼ)す」(二字で訓じているか)と訓読して『騎乗位の「つり橋」』とあるのを発見したので、添書きしておく。

「本膳」不詳。正常位のことか?

「司馬君実」北宋の学者で政治家の司馬光(一〇一九年~一〇八六年)の字(あざな)。地方官を歴任した後、中央政府に入ったものの、革新派の王安石と合わず、退いて二百九十四巻に及ぶ壮大な歴史書「資治通鑑(しじつがん)」の編集に専念した。その後、哲宗が即位すると、その宰相となり、王安石の新法を廃して旧法に復し,保守派の信望を集めたが,間もなく死亡した。その思想は儒学に老荘を交えたものとされる(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「閨門」(けいもん)は原義は「寝室の入り口・寝室」であるが、そこから転じて、夫婦間の事柄・家庭内の極私的な内容の意。

「語」読みは「ご」でも「こと」でも「ことば」でもよい。私は「今昔物語集」風に「こと」と訓じたい。

「折花攀柳」「せっかはんりゅう」と読む。遊女の働く花柳街で妓女らと遊ぶこと。「折花」は「花を手折る」で女と戯れること(直に性行為を示す)、「攀柳」は「柳の枝を引く」の意。後者は、古く花柳街には多く柳が植えられていたことに由来するが、嫋やかな女体を引き寄せることも隠喩されていよう。

「淋病」真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteria βプロテオバクテリア綱 Beta Proteobacteria ナイセリア目 Neisseriales ナイセリア科 Neisseriaceae ナイセリア属  Neisseriaナイセリア・ゴノローエ (淋菌)Neisseria gonorrhoeae に感染することにより起こる性感染症。ウィキの「淋病」によれば、名称の「淋」は『「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』。『古代の人は淋菌性尿道炎の尿道から流れ出る膿を見て、陰茎の勃起なくして精液が漏れ出す病気(精液漏)として淋病を』捉え、“gono”(「精液」)、“rhei”(「流れる」)の意の合成語“gonorrhoeae”と『命名した』(ギリシャ語由来のラテン語であろう)。『男性の場合は多くは排尿時や勃起時などに激しい痛みを伴う。しかし、場合によっては無症状に経過することも報告されている』。『女性の場合は数週間から数カ月も自覚症状がないことが多い。症状があっても特徴的な症状ではなく、単なる膀胱炎や膣炎と診断されることがある』が、『放置すると菌が骨盤内の膜、卵巣、卵管に進み、内臓の炎症、不妊症、子宮外妊娠に発展する場合もある』。『新生児は出産時に母体から感染する』ことが殆んどで、『両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがあ』り、以前はこれを「風眼(ふうがん)」と呼んだ。感染者の多かった江戸時代や近代では、温度の低い湯屋(ゆうや:銭湯)で感染して、失明した子を知っている、と四十四年も前、高校時代の老体育教師が保健の授業で語っていたのを思い出す。「浴槽のこういう角のところに菌が集まるんだ。」と絵まで描いて呉れた。

「呂后」呂雉(りょち ?~紀元前一八〇年)は漢の高祖劉邦の皇后。恵帝の母。劉邦の死後、皇太后・太皇太后となって専横を極めたことから、「中国三大悪女」として後に出る唐代の則天武后と清代の西太后とともに挙げられる一人。

「独孤后」唐の初代皇帝李淵の母であった元貞太后独孤氏。気性が荒かったことで知られる。

「則天」中国史上唯一の女帝武則天(則天武后)(六二四年~七〇五年)。唐の高宗の皇后となり、後に唐に代わって「武周」朝を建てしまった女傑。ウィキの「武則天」によれば、六八三年に高宗が崩御すると、太子の李顕(中宗)が即位したが、『中宗の皇后韋氏が血縁者を要職に登用したことを口実に、太平公主を使って中宗を廃位し、その弟の李旦(睿宗)を新皇帝に擁立』、『睿宗は武后の権勢の下、傀儡に甘んじることを余儀なくされた』。『武則天の専横に対して、皇族は男性・女性を問わず次々と挙兵に動いたが、いずれも打ち破られた上に族滅の惨状を呈した。民衆は武后に恐怖を感じ、朝政も生活を困窮に至らしめ多くの浮戸や逃戸を招いたが、農民蜂起が起こるほどの情勢ではなかったため、反乱軍に同調する者は少なく、大勢力には発展しなかった。この時に反乱軍の檄文を詩人の駱賓王が書いたが、その名文に感嘆した武則天が「このような文才のある者が(官職につけられずに)流落しているのは宰相の責任だ」と言ったという逸話があるが、そのとき宰相は黙って返答しなかった』。『唐宗室の挙兵を打ち破った後、武后は女帝出現を暗示する預言書(仏典中の『大雲経』に仮託して創作された疑経)を全土に流布させ、また周代に存在したとされる「明堂」(聖天子がここで政治を行った)を宮城内に建造させ、権威の強化を謀り、帝位簒奪の準備を行った』。六九〇年。『武后は自ら帝位に就いた。国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し、天授と改元した。睿宗は皇太子に格下げされ、李姓に代えて武姓を与えられた。この王朝を「武周」と呼ぶ(国号は周であるが、古代の周や北周などと区別するためこう呼ぶ)』。彼女は『帝室を老子の末裔と称し』、『「道先仏後」だった唐王朝と異なり、武則天は仏教を重んじ、朝廷での席次を「仏先道後」に改めた。諸寺の造営、寄進を盛んに行った他、自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称し、このことを記したとする『大雲経』を創り、これを納める「大雲経寺」を全国の各州に造らせた』。一方で、稀代の名臣狄仁傑を重用し、実力のある官人を要職に抜擢、『宗室の混乱とは裏腹に政権の基盤は盤石なものとなっていった』。『晩年の武則天が病床に臥せがちとなると、宮廷内では唐復活の機運が高まった(武則天は武姓にこだわって甥に帝位を譲ろうとしていたが、「子をさしおいて甥に譲るのは礼に反する」との狄仁傑の反対で断念していた』。子とは、即ち、『高宗との子であり、唐王朝の復活となる)。当時、武則天の寵愛を受け』、『横暴を極めた張易之・昌宗兄弟を除くため』、七〇五年二月、『宰相・張柬之は中宗を東宮に迎え、兵を発して張兄弟を斬り、武則天に則天大聖皇帝の尊称を奉ることを約束して位を退かせた。これにより中宗は復位し、国号も唐に戻ることとなった。しかし、武氏の眷属は李氏宗室を筆頭とする唐朝貴族と密接な姻戚関係を構築しており、武則天自身も太后としての立場を有していたため、唐朝再興に伴う粛清は太平公主や武三思などには及ばず』、『命脈を保った。その後まもなく武則天は死去し』、翌年、『乾陵に高宗と合葬された』。

「黴毒」(ばいどく)は「梅毒」のこと。言わずと知れた“Syphilis”、真正細菌スピロヘータ門 Spirochetes スピロヘータ綱 Spirochaetes スピロヘータ目 Spirochaetales スピロヘータ科 Spirochataceae トレポネーマ属トレポネーマ・パリドム(梅毒トレポネーマ)Treponema pallidum よって発症する性感染症である。各期病態については幾らも容易に読める資料(ウィキの「梅毒」など)があるから省略する。

 以下、三段落は底本では二字下げ。]

 

 今の医学者など、徴毒はコロンブスの時米国より水夫が伝染して世界に弘まれりと心得る輩(やから)多し。それが慶長、元和ごろ唐瘡(とうかさ)とて本邦に渡り、結城秀康、黒田如水、浅野幸長、本多正信など、みなこのために歿せしと申す。なるほど劇しき黴毒は左様かも知れず、しかしながら『壒囊抄』は文安時代(足利義政公まだ将軍に任ぜざりしとき)できたものなり。それに、ある鈔物にいわくと引いて、和泉式部が瘡開(かさつび)という題で「筆もつびゆがみて物のかかるるはこれや難波のあし手なるらん」と詠みしとあり。(紀州などには今も黴毒をカサという。つびゆがみて物のかかるるとは黴毒を受けた当座陰に瘡できて痒(かゆ)きをいえるなり。)和泉式部と同じく平安時代にできた『今昔物語』巻二四に、貴女の装いし美なる車に乗りて典薬頭(てんやくのかみ)某という老医師方に来たり、貴公に身を任(まか)すからと言いてなく。何事ぞと問うに、女袴の股立ちを引き開けて見すれば、股の雪のごとく白きに少し面腫れたり云々。袴の腰を全く解いて前の方をみれば毛の中にて見えず、典薬頭手をもってそれを披(あ)ぐれば、辺(へり)にいと近くはれたる物あり。左右の手をもって毛を搔き別けて見れば、もはらに慎むべき物なり、云々。典薬頭われに身を任せたと聞いて大悦びで、種々手を尽して治療し、なお数日留め置いてこの女を賞翫せんと楽しむうち、この女忍んでにげ去り、老医泣き怒りしという咄(はなし)を載す。これも梅毒と見え申し候。もちろん今の梅毒と多少ちがうかもしれぬが、同様の病いたることは論なしと存じ候。一八八二年にドイツのロセンバウムが『淫毒病史』を出す。これは、黴毒はコロンブス以前よりありし証をへブリウ、ギリシア、ローマ以下の書どもよりおびただしく挙げた大著述なり。

[やぶちゃん注:「徴毒はコロンブスの時米国より水夫が伝染して世界に弘まれりと心得る輩(やから)多し」ウィキの「梅毒」によれば、クリストファー・コロンブスス(イタリア語:Cristoforo Colombo:ラテン語:Christophorus Columbus 一四五一年頃~一五〇六年)が『率いた探検隊員がアメリカ上陸時』(一四九二年)『に原住民女性と交わって感染してヨーロッパに持ち帰り(コロンブス交換)、以後世界に蔓延したとする説』がよく知られ、『コロンブスの帰国から梅毒の初発までの期間が短いという難点があるが、アメリカでも古い原住民の骨に梅毒の症状がある例が発見されており、また例えば日本でも、コロンブス以前の人骨には梅毒による病変が全く見つかっていないなど証拠は多く、最も有力な説とされている』とある。

「慶長、元和」一五九六年から一六二四年。しかし、ウィキの「梅毒」及びサイト「探検コム」の「梅毒の歴史」などによれば、日本で梅毒が初めて記録されたのは室町時代の永正九(一五一二)年のことで、歌人三条西実隆の歌日記「再昌草」に、四月二十四日『道堅法師、唐瘡(からがさ)をわづらふよし申たりしに、 戲(たはふれ)に、もにすむや我からかさをかくてだに口のわろさよ世をばうらみじ』とあるとあり、この年に京都で梅毒が大流行している。後者には、『竹田秀慶の『月海録』にも同じような記録があるよう』だとし、更に、『これ以前から「横根」という言葉が使われており、これは一般に性病によるリンパ節腫脹を指してい』るとあるから、ここに新たな表現をし、区別していると考える方が自然で、これからも、明らかに新手の性病として梅毒が来ったことを物語っていると考えてよかろう。なお、この「横根」(「横痃(おうげん)」「便毒」などとも呼称した)というのは、鼠蹊部のリンパ節が炎症を起こして腫れる症状を広義に指すものであって、梅毒の初期症状にも含まれはするものの、他の性病である淋病・軟性下疳(げかん)・鼠蹊リンパ肉芽腫でも起こり、現在でも外傷や種々の感染症などに於いて鼠蹊部のリンパ節を含む各部のリンパ節腫脹は普通に起きるから、この「横根」をイコール梅毒のこととするわけにはいかない。ともかくも南方熊楠が本書簡を書いたこの頃の医師の認識よりも実際の梅毒伝播は八十数年以上も前だったということになる。

「唐瘡(とうかさ)」唐人が持ち込んだことから。南方からの流入で「琉球瘡」などとも呼称したらしい。

「結城秀康」(天正二(一五七四)年~慶長一二(一六〇七)年)は徳川家康次男(母は側室於万(おまん)の方)で大名。越前北ノ庄藩初代藩主で越前松平家宗家初代。終生、家康に疎まれ(理由は種々挙げられているが、真相は不明)、他の兄弟たちとも不仲で、晩年は鼻が欠けていたとも伝えられ(梅毒では進行した第三期(感染後三~十年)には皮膚・筋肉・骨等に感触がゴムのような腫瘍(ゴム腫)が発生し、それが鼻骨に感染すると鼻が陥没・脱落することがある。私(昭和三二(一九五七)年生)は幼少の頃、そういう人を見かけた)、死因も梅毒による衰弱死であったとする説がある。

「黒田如水」明軍師にして筑前国福岡藩祖となったキリシタン大名黒田官兵衛孝高(天文一五(一五四六)年~慶長九(一六〇四)年)。これは彼が岡城幽閉後に足が不自由になったことに起因する説のようで、彼の梅毒罹患説や梅毒を死因とする説は必ずしも信憑性があるとは言えないように私には思われる。

「浅野幸長」(よしなが 天正四(一五七六)年~慶長一八(一六一三)年)は豊臣政権下の五奉行筆頭であった浅野長政の長男。紀伊国和歌山藩初代藩主。ウィキの「浅野幸長」によれば、寛永年間(一六二四年~一六四四年)頃に成立したとされる史書「当代記」には『幸長の死因を好色故の虚ノ病(腎虚(花柳病)か)から、唐瘡(梅毒)へ至ったとしている』とある。

「本多正信」(ほんだまさのぶ 天文七(一五三八)年~元和二(一六一六)年)は徳川家康の片腕。江戸幕府老中・相模国玉繩藩主(私が今いる、ここ)。Q&Aサイトの回答によれば、「徳川実記」(歴代将軍の各記録類を纏めた江戸幕府公式記録の総称通称。家康から第十代将軍徳川家治(天明六(一七八六)年)までの事象を日ごとに記述してあり、文化六(一八〇九)年に起稿され、嘉永二(一八四九)年に第十二代徳川家慶に献じられた)は確かに「徳川家正史」の記録ではあるが、人物によって依怙贔屓している部分があり、不可解な記述もあるとし、特に本多正信についての記述は全体にひどく、その死因を「梅毒」と記しているのは、実はこの「徳川実記」だけであるという。「徳川実記」に限らず、幕府の記録は徳川家にとって好ましからざる人物についてはその死因を「性病」にする傾向があり、本多が幕府関係者からは嫌われていた証左となもなるものの、逆から見れば、彼は幕府の暴走を防ぐブレーキ役であったと捉えることも出来るとあった。されば、彼の梅毒死というのも、ちょっと留保しておいた方がよいように思われる。

「壒囊抄」「南方熊楠コレクション」の注によれば、原文は「埃囊抄」となっているとある。行誉らによって撰せられた室町時代に成立した百科辞書・古辞書の「塵添壒囊抄(じんてんあいのうしょう)」のこと。南方熊楠は著述で好んで引くものである。

「文安時代(足利義政公まだ将軍に任ぜざりしとき)」一四四四年から一四四九年。足利義政(ここの時制中では初名の義成)永享八(一四三六)年に第六代将軍足利義教三男庶子として生まれたが、嘉吉元(一四四一)年に父義教が嘉吉の乱で赤松満祐に暗殺された後、兄の義勝が第七代将軍として継いだが、嘉吉三(一四四三)年に義勝も夭折(満九歳)したため、義政は管領の畠山持国などの後見を得、八歳で将軍職に選出されたものの、元服を迎えた文安六(一四四九)年四月二十九日になってやっと将軍宣下を受け、同日のうちに吉書始(きっしょはじめ)を行って宮中に参内、正式に第八代将軍として就任している。その室町幕府将軍職空位のことを南方熊楠は附記しているのである(以上はウィキの「足利義政」に拠った)。

「鈔物」古今の典籍を抄出した文書或いは類書。

『瘡開(かさつび)という題で「筆もつびゆがみて物のかかるるはこれや難波のあし手なるらん」と詠みしとあり』全く不詳。和泉式部の和歌としても見当たらぬし、そもそもがこの鈔録物の書名などが記されていないのが痛い。但し、「古事類苑全文データベース」のこちらで「古事類苑」の「方技部 疾病二」に「壒囊抄」の当該分を発見出来た。それを見ると、男女の陰部に出来た瘡の治療法が記された後に、

   *

〈壒囊抄三〉アシデカキタル下繪ト書ルハ、何ナル繪ゾ、或人ノ云、アシデトハ文字ニテ繪ヲカクヲ云、

又或鈔物云、和泉式部無雙ノ好色也ケルニ、亥子ノ夜御歌アリケルニ、態心ヲ合セラレケレバ[やぶちゃん注:「態」は「わざと」と訓じておく。]、 瘡開[やぶちゃん注:上記二字には傍点「○」が附されてある。ここでは太字とした。]ト云名ヲ式部取當テ、

筆モツヒユガミテ物ノカヽルヽハ是ヤ難波ノ惡筆(アシデ)ナルラン

トヨメリ、惡筆トハ字ニテ繪ヲナスト注セル物アリ、又葦手トモ書也、或ハ木節、或ハ雲ノハヅレナドヲユガメルマヽニ、字ノ似合タルヲ以テ書ヲ、蘆ナドノ枯臥タルニソヘテ云也、

   *

本当に和泉式部の逸話かどうか不審だが(デッチアゲの可能性が高いようににも思われる)、これは明らかに外陰部に出来た皮膚病であると読める。前の処方から男女共通で性感染症が強く疑われるが、この、

 

 ふでもつひゆがみてもののかかるるはこれやなにはのあしでなるらん

 

というヘンな歌を眺めていると、

「ふで」は「筆」と、「男根」を、

「ゆがむ」は「筆が思わぬ方向へ曲がる」と、「男根が性交の際に正しくない悪しき振舞いをする」を、

「つひ」は副詞の「思わず・うっかり」の意の「つい」と、熊楠が濁音化しているように「つび」で「螺(つび)」由来の「玉門(つび)」即ち女性の生殖器を、

「かかるる」(「るる」は自発の助動詞「る」)は「自然に書かれてしまう」と、痒くて痒くて「自然に手がそこへ行って掻かれてしまう」を、

「なには」は「難波」の浦と、「難(なん)」「なる」「は」で、これはまた、「難儀な不出来」と「難儀な症状」を、

「あしで」は「蘆で」と、「悪手」で、これはまた、「悪い筆法・悪しき書体」と「いけない手」を、

掛けた掛詞であることが判り、ここは

「筆を執って書いていて、つい、手が辷って筆が歪んだ状態で字が書かれる、そのようにして書かれた字というものは、これ、歌枕でよく詠み込まれる『難波の蘆』ではありませんけれど、難のある悪しき書手(しょて)と言うのでありましょう。」

と、

「男根が知らぬうちに悪しきものをもたらして、妾(わらわ)のつび(会陰部)が無性に痒くて痒くなってしまい、そのために顔も歪み、いけないこととは分かっておりましても、知らず知らず、そこに手を差し入れて掻き毟ってしまうのですわ。」

といった如何にもなバレ歌であることが判る。ところが下ネタであるところを我慢してこの裏の意味を虚心に読むならば、この場合、女性の外陰部に梅毒第一期の腫れ物が出来たその症状とは読めないことが判る梅毒では感染から三週間から三ヶ月で梅毒トレポネーマが侵入した部位に塊が生じ、膿を出すようになる(これを「硬性下疳」と称する)が、これは多く無痛性の硬結であって、痒くはならない(但し、参照したウィキの「梅毒」によれば、その『塊はすぐ消えるが、稀に潰瘍となる』とあるから、慢性的潰瘍となった場合は或いは掻痒感は生ずるかもしれぬが、そのような稀なケースを読み手の理解を求める和歌に詠み込むはずがない)。さすれば、何か? もう大方の方は判っておられるであろう、判らぬ方は、あの「病草紙」(平安末期から鎌倉初期頃に成立)に描かれている陰部を掻いている男とそれを笑う女(妻とされる。とすれば、この笑いは恐らく女を買ってそれをうつされた夫への嘲笑に外ならぬ)の絵を思い出されるがよい。そう、南方熊楠にたてつくようで悪いが、この伝和泉式部の和歌の症状は性行為による感染ケースが多い、陰虱(つびじらみ)による猛烈な痒さを詠んだものに他ならないと私は断言するのである。

「紀州などには今も黴毒をカサという」「瘡(かさ)」は第一義は天然痘・できもの・腫れ物等の皮膚疾患の総称であり、そこには外傷治癒過程の後終期に生ずる瘡蓋(かさぶた)さえも含まれる。「日本国語大辞典」では確かに二番目に梅毒の意を挙げるが、そこに引かれる使用例は江戸前期の浅井了意の仮名草子「東海道名所記」や雑排で、熊楠がお決まりの鬼首捕ったり的に言い募る「瘡」=「梅毒」という等式は江戸よりも前には殆んど通用しないと考えるべきである。但し、梅毒では進行した第三期の皮膚に出現したゴム腫は症例写真を見ると立派な「瘡」には見える。

「つびゆがみて物のかかるるとは黴毒を受けた当座陰に瘡できて痒(かゆ)きをいえるなり」前の前の私の反論注を参照されたい。

「『今昔物語』巻二四に、貴女の装いし美なる車に乗りて典薬頭(てんやくのかみ)某という老医師方に来たり……」「今昔物語集」の「卷第二十四」の「女行醫師家治瘡逃語第八」(女(をむな)、醫師(くすし)の家へ行きて瘡(かさ)を治(ぢ)して逃ぐる語(こと)第八)」である。以下に昭和五四(一九七九)年(第五版)小学館刊の「日本古典文学全集」の「今昔物語集(3)」(馬淵・国東・今野校注)を参考底本にしつつ、漢字を正字化し、一部に手を加えて読み易くして示す。□は欠字。途中に入れた注も同参考底本の頭注を一部、参考にした。

   *

 今は昔、典藥頭(てんやくのかみ)にて□□□と云ふ止む事無き醫師、有りけり。世に並び無き者也ければ、人皆、此の人を用たりけり。

 而る間、此の典藥頭に、極(いみ)じく裝束仕りたる女車(をむなぐるま)の乘り泛(こぼ)れたる[やぶちゃん注:医師は、牛車の外にはみ出させた華やかな出衣(いだしぎぬ)を見て、複数の高貴な女性が車から零れんばかりにぎゅうぎゅうに乗っていると錯覚したのである(後の車から女が降りたシーンで他に乗客はいないことが明らかにされる)。色好みの医師を暗示させる上手いシーンと言える。]、入(い)る。頭(かみ)、此れを見て、

「何(いづ)くの車ぞ。」

と問ひぬれども、答へも不爲(せず)して、只、遣(や)りに遣り入れて、車を搔き下して[やぶちゃん注:車を牛から外して。]、車の頸木(くびき)[やぶちゃん注:牛車の前に突き出た左右二本の轅(ながえ)の先に渡した横木。]を蔀(しとみ)の木[やぶちゃん注:「蔀」は縦横に組んだ格子の裏に板を張り衝立のように作った、昔の雨戸のようなもので、ここはその上下二枚に分かれているケースで、その蔀の下部の板壁にの意。]に打ち懸けて、雜色(ざふしき)共は門(かど)の許(もと)に寄りて居ぬ。

 其の時に、頭、車の許に寄りて、

「此れは誰(た)が御(おは)しましたるにか。何事を仰せられに御座(おはしま)したるぞ。」

と問へば、車の内に其の人[やぶちゃん注:具体的な名を指す。]とは不答(こたへず)して、

「可然(しかるべか)らむ所に局(つぼね)して[やぶちゃん注:自分のための部屋を設えて。]下(おろ)し給へ。」

と、愛敬付(あいぎやうづ)き可咲(をか)しき氣はひにて云へば、此の典藥頭は本より遣(きづ)きしく、物目出し(ものめで)ける翁にて[やぶちゃん注:元来が、女に目がなく、多情多淫のじいさんであったによって。]、内に角(すみ)の間(ま)の人離れたる所を、俄かに掃ひ淨(きよ)めて、屛風立て、疊敷(し)きなどして、車の許に寄りて、□□□[やぶちゃん注:「しつらひ」か。「部屋を用意する」の意。]たる由を云へば、女(をむな)、

「然(さ)らば去(の)き給へ。」

と云へば、頭、去りて立てるに、女、扇を差し隱して居り下りぬ。車に、

「共の人乘りたらむ。」

と思ふに、亦、人、不乘(の)らず。女、下(お)るままに、十五、六歳許りなる□□[やぶちゃん注:「ひすまし」であろう。「樋箱(ひばこ)を清める者」の意で、平安以降、宮中などで便所の清掃を職とした身分の低い女性。御厠人(みかわやうど)。]の女(め)の童(わらは)ぞ車の許に寄り來て、車の内なる蒔繪(まきゑ)の櫛の筥(はこ)[やぶちゃん注:化粧道具入れ。]取りて持て來ぬれば、車が雜色共寄りて、牛懸けて、飛ぶが如くに□□[やぶちゃん注:不詳。]の去りぬ。

 女房、のる□[やぶちゃん注:不詳。]所に居(ゐ)ぬ。女の童は筥の櫛を裹みて隱して、屛風の後に屈まり居ぬ。其の時、頭、寄りて、

「此(こ)は何(いか)なる人の□[やぶちゃん注:不詳。助詞か。]何事仰されむずるぞ。疾く仰せられよ。」

と云へば、女房、

「此(こち)入り給へ。恥、不聞(きこゆ)まじ。」

と云へば、頭、簾(すだれ)の内に入りぬ。女房、差向かひたるを見れば、年三十許りなる女の、頭付(かしらづき)[やぶちゃん注:髪型。]より始めて、目・鼻・口、此(ここ)は弊(つたな)しと見ゆる所無く端正(たんじやう)なるが、髮、極じく長し。香(か)、馥(かうば)しくて、艷(えもいは)ぬ衣(きぬ)共を着たり。恥づかしく思ひたる氣色(けしき)も無くて、年來(としごろ)の妹(いも)[やぶちゃん注:永年連れ添った妻。]などの樣に安らかに向ひたり。

 頭、此れを見るに、

「希有に怪(あや)し。」

と思ふ。

「何樣(いかやう)にても、此れは我が進退(しんだい)に懸らむずる者なんめり。」[やぶちゃん注:「何としても、これは我が意のままにしてみたい女ではないか。」。]

と思ふに、齒も無く、極めて萎(しぼ)める顏を極じく咲(ゑ)みて、近く寄りて問ふ。況んや頭、年來の嫗(おうな)共(ども)[やぶちゃん注:好色爺いなので複数なのであろう。]失せて三、四年に成りにければ、妻も無くて有ける程にて、

「喜(うれ)し。」

と思ふに、女の云く、

「人の心の疎(う)かりける事は、命の惜しさには、萬(よろづ)の身の恥も思はざりければ、『只、何(いか)ならむ態(わざ)をしても命をだに生きなば』と思(おぼ)へて參り來つる也。今は生けむも、殺さむも、其(そこ)の御心地(みこころ)也。身を任せて聞(きこ)へつれば。」

とて、泣く事、限り無し。

 頭、極じく此れを哀れと思ひて、

「何なる事の候ぞ。」

と問へば、女、袴(はかま)の股立(ももだち)[やぶちゃん注:袴の上部の腰の部分の左右にある解放された部分を縫い止めた箇所。]を引き開けて見れば、股の雪の樣に白きに、少し面(おも)[やぶちゃん注:大腿部上部の皮膚の表面。]、腫れたり。其の腫れ、頗る心不得見(こころえずみ)ゆれば、袴の腰[やぶちゃん注:腰紐。]を解かしめて、前の方を見れば、毛の中にて不見(み)へず。然(しか)れば、頭、手を以ちて其(そこ)を搜(さぐ)れば、邊(ほと)りに糸(いと)近く※(ちちぼ)みたる物有り[やぶちゃん字注:「※」=「疒」の中に(「隱」-「阝」)を入れた字体。「ちちぼみたる物」で赤く腫れあがった箇所。]。左右の手を以つて搔き別けて見れば、專(もは)らに愼むべき物也[やぶちゃん注:非常に重篤な状態の症状である。]。□□[やぶちゃん注:病名が入るが、意識的に欠字としたものであるように思われる。「癰(よう)」か。癰は皮膚や皮下に発症する急性の腫れ物で「癤(せつ)」が集合したもの。隣接する複数の毛包に黄色ブドウ球菌が感染し、化膿したもので、高熱や激痛を伴う。]にこそ有りければ、極じく糸惜(いとほ)しく思ひて、

「年來の醫師(くすし)、只、此の功(くう)に、無き手を取り出だすべき也(なり)。」[やぶちゃん注:「永年の医師として、ただもう、その経験の名誉にかけて、あらゆる施術秘術を以ってこの腫れ物を取り出さねばなるまい。」。]

と思ひて、其の日より始めて、只人(ただひと)も寄せず[やぶちゃん注:余人を誰も寄せさせず。]、自ら襷上(たすきあ)げをして、夜(よ)る晝、疏(つくろ)ふ[やぶちゃん注:治療する。]。

 七日(なぬか)許り疏ふて見るに、吉く𡀍(い)えぬ。頭、喜しく思ひて、

「今暫くは此(かく)て置きたらむ。其の人と聞きてこそ返へさめ。」

など思ひて、今は氷(ひや)す事をば止めて、茶垸(ちやわん)の器(うつはもの)に、何藥(なにくすり)にてか有(あ)らむ、摺(す)り入れたる物を、鳥の羽(はね)を以つて日に五、六度付く許り也。

「今は事にも非ず。」

と、頭の氣(け)はひも、喜し氣(げ)に思ひたり。

 女房の云く、

「今、奇異(あさま)しき有樣をも見せ奉りつ。偏へに祖(おや)と可奉憑(たのみたてまつ)るべき也。然(さ)れば、返らむにも、御車(みくるま)にて送り給へ。其の時に、其(それ)とは聞へむ[やぶちゃん注:私がどこの誰であるかお教え申しましょう。]。亦、此にも常に詣で來む。」

など云へば、頭、

「今、四、五日許りは此(かく)て居(を)らむ。」

と思ひて、緩(たゆ)みて有る程に、夕暮方(ゆふぐれがた)に、女房、宿直物(とのゐもの)の薄綿(すわた)の衣(きぬ)一つ許りを着て、此の女(め)の童(わらは)を具して逃げにけるを、頭、此(かく)とも知らで、

「夕べの食物(じきもつ)參りらせむ。」

と云ひて、盤(ばん)[やぶちゃん注:盆。]に調へ居(すゑ)て、頭自ら、持ちて入りぬるに、人も無し。

「只今、可然(しかるべ)き事、構へつる時にこそは有らめ。」[やぶちゃん注:「ちょうど今は、(屏風の蔭で)用を足しておるところなのであろう。」。「用」は着替え或いは排泄。当時、用便も室内で清器(しのはこ:所謂「おまる」)を用いて足した。]

と思ひて、食物を持ち返りぬ。

 而る程に暮れぬれば、

「先づ、火、燈(とも)さむ。」

と思ひて、火を燈臺に居(すゑ)て持(も)て行きて見るに、衣共(きぬども)を脱ぎ散らしたり、櫛の筥(はこ)も有り。

「久しく隱れて屛風の後に何態(なにわざ)爲(す)るにか有(あ)らむ。」

と思ひて、

「此(かく)久しくは何態せさせ給ふ。」

と云ひて、屛風の後(うしろ)を見るに、何しにかは有らむ[やぶちゃん注:「どうしてそこで用足しなんぞしておろうはずがあろうものか。」。反語。「今昔物語集」の記者の嘲笑的感想が挿入されたもの。]、女の童も見へず、衣共(きぬども)、着重(きかさね)たりしも、袴も然乍(さなが)ら有り。只、宿直物にて着たりし薄綿の衣一つ許りなむ無き。

「無きにや有らむ。此の人は其れを着て逃げにけるなんめり。」

と思ふに、頭、胸塞(むねふさが)りて、爲(せ)む方も無く思(おぼ)ゆ。

 門(かど)を差して、人々、數(あまた)、手每(てごと)に火を燈して家の内を□[やぶちゃん注:「あさる」か。捜す。]に、何(な)にしにかは有らむ[やぶちゃん注:「どうしてどこかにいようはずがあろうか。」反語。先と同じく「今昔物語集」の記者による嘲笑感想。]、無ければ、頭、女の有つる顏・有樣、面影に思へて[やぶちゃん注:目の前にまざまざと浮かんできて。]、戀しく悲しき事限り無し。

「不忌(いまず)して、本意(ほんい)をこそ可遂(とぐべ)かりけれ、何にしに疏(つくろ)ひて忌みつらむ。」

と、悔しく妬(ねた)くて、然(しか)れば、

「無くて[やぶちゃん注:目的語は自身の妻。]、可憚(はばかるべ)き人も無きに、人の妻(め)などにて有らば、妻(め)に不爲(せず)と云ふとも、時々も物云はむに、極じき者、儲(まう)けつ、と思つる者を。」

と、つくづくと思ひ居(ゐ)たるに、此(か)く謀(はか)られて逃がしつれば、手を打ちて妬(ねた)がり、足摺りをして、極(いみ)じ氣(げ)なる顏[やぶちゃん注:年老いて歯抜けとなった皺だらけの醜い顏。]に貝(かひ)を作りて[やぶちゃん注:べそをかいて。参考底本の頭注に『口つきが「へ」の字』型『になって』ちょうど二枚『貝の形に似ることからの形容』とある。]泣きければ、弟子の醫師共は、蜜(ひそ)かに極じくなむ咲ひける。世の人々も、此れを聞きて咲(わら)ひて[やぶちゃん注:その典薬頭自身に。]問ひければ、極じく嗔(いか)り諍(あらそ)ひける。

 思ふに、極じく賢かりける女(をむな)かな。遂に誰(たれ)とも知られで止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *

「これも梅毒と見え申し候」五種ほど所持する私の「今昔物語集」の注釈書で、この話の女性の病名を梅毒と断定したものはない私はこれは所謂、麦粒腫(アテローム)の化膿したものか、蕁麻疹等を掻きむしった結果、傷から黄色ブドウ球菌などが入って重い二次感染を起こして腫れ上がったものであって、梅毒どころか、性感染症でないという気さえするのである。即ち私は「もちろん今の梅毒と多少ちがうかもしれぬが、同様の痛いたることは論なし」とする熊楠には激しく異を唱えたいのである。

「一八八二年にドイツのロセンバウムが『淫毒病史』を出す」幾つかの欧文単語の組み合わせで検索を試みたが、「ロセンバウム」も「一八八二年」(明治十五年相当)刊の「淫毒病史」なる書物も全く分からない。識者の御教授を乞う。

「へブリウ」“hebrew”。ヘブライ。以下の並列から「古代イスラエル」のこと。]

 

小生かかることを長々しく言うは、支那の名臣房玄齢(ぼうげんれい)、戚継光(せきけいこう)、わが邦の勇将福島正則すらも妬婦悍婦にはかなわなんだよう見ゆ。これらはその内実夫(おっと)において疚(やま)しきことがあったので、実は黴毒を伝えたのがおったと存じ申し候。英国に下院へ一案が出たるに、これを出したる政党の首領の失策でこの案通らず、しかるに大蔵大臣がその首領の姻戚たりし縁でその辺造作もなく通過したり。バジョーこれを見て、近世政党史を偏するに特に著名なる政治家の縁戚を調べて、縁戚関係が政略の成不成に及ぼせる子細を研究したら面白かろうと言いしとか。氏自身も誰もこれが研究をしたものありや、小生は知らず。過日の貴社の騒動なども内幕をしらべたら、世間に思いがけなきこの類のことがもっとも力ありしこともあるべしと存じ候。

[やぶちゃん注:「房玄齢」(五七八年~六四八年)は唐代の政治家で歴史家。太宗の名臣。隋末の乱に挙兵した李淵(高祖)・世民(太宗)父子の勢力に加わって謀臣として活躍、玄武門の変にでは太宗の権力奪取を助けた。後の「貞観の治」の立役者の一人とされる。「晋書」などの歴史書の編集監督も成した。個人サイト「定遠亭」の「中国史雑文演義」の「第十三回 女のカガミか、男のカタキか」によれば、彼の妻は彼が妾を持つことを許さず、それを聴いた皇帝(太宗であろう)が、直々に妻を呼び出して妾を持つことを許すように説得したが、いっかな肯んぜず、皇帝は毒酒と称して差し出し、これを飲むか、夫に妾を持たせるか、二つに一つの命令だと威すと、躊躇うことなく、彼女はその酒を飲みほした、とある。これは房の恐妻家というよりも、その妻の烈女性の方が遙かに際立つエピソードである。但し、房玄齢が梅毒であったという記載はネット上では見出せなかった

「戚継光」(一五二八年~一五八八年)は明の名将。倭寇及びモンゴルと戦ってともに戦果を挙げたことからその名を知られる。「竜行剣」という剣法の開祖ともされる。参照したウィキの「戚継光」によれば、『歴戦の勇将ながら大変な恐妻家であったとされ、軍律に背いた息子を処刑したことに怒った夫人から生涯妾を持たない事を誓わされた。その後誓いを破り』、二人の『妾と密通し、それぞれ隠し子を』それぞれ一人ずつもうけたが、『夫人に露見してしまう。激怒した夫人から妾と子供を殺すよう迫られた戚継光は』、一日だけ猶予を貰って、『部下であった夫人の弟を呼び』出し、『「妾たちを許し、子供を養子として引き取るよう明日までに姉を説得しろ。さもなくば、お前もお前の姉も、お前の一族も全員殺した』上、自分は官職を辞し、『世捨て人になる」と脅した。弟は泣きながら』、『夫人を説得したため、夫人は仕方なく隠し子を引き取り、母親である妾』二『人には杖罰五十を加え追放するに止めた。これを聞いた世間の人々は、戚継光の深謀を称えると共に、彼の恐妻家ぶりを笑った。数年後、夫人が病死すると妾たちを家に呼び寄せ、子供達と一緒に生活させた』とある。但し、房玄齢同様、戚継光が梅毒であったという記載はネット上では見出せなかった

「福島正則」秀吉配下の「賤ヶ岳の七本槍」の一人で、豊臣秀頼から徳川家康・秀忠と巧妙に主君を変えた福島正則(永禄四(一五六一)年~寛永元(一六二四)年)が、正室照雲院(津田長義の娘)には頭が上がらなかったというのはかなり知られた話で、浮気した彼を問答無用で薙刀で脅したとされる。例えば、「関ヶ原ブログ」のこちらに書かれてあるのを参照されたい。調べてみると、出所不詳ながら、朝鮮出兵の際に女性を強姦して梅毒を染され、それが死因だとする書き込みがあった。真偽は知らぬ

「英国に下院へ一案が出たるに、これを出したる政党の首領の失策でこの案通らず、しかるに大蔵大臣がその首領の姻戚たりし縁でその辺造作もなく通過したり」不詳。識者の御教授を乞う。

バジョー」イギリスのジャーナリストで経済学者のウォルター・バジョット(Walter Bagehot 一八二六年~一八七七年)か。ウィキの「ウォルター・バジョット」によれば、『保守主義の政治思想に傾倒し』、『評論家としては、政治・経済・社会・文芸・歴史・人物と幅広い分野を対象とした』。彼が一八六七年に刊行したThe English Constitution(「イギリス憲政論」)は『君主制擁護論として』、『政治学の古典となっている』とある。

「過日の貴社の騒動」不詳。本書簡は大正一四(一九二五)年二月に日本郵船株式会社大阪支店副長であった矢吹義夫に宛てて書かれたものであるから、その時期の同社に関わる内紛か事件らしいが、よく判らぬ。ウィキの「日本郵船の「沿革」のその辺りを見ると、大正四(一九一五)年の条に、『ポートサイド付近で日本郵船の八坂丸が金塊』十『万ポンドを積載したまま』、『ドイツ潜水艇に撃沈される。この金塊は』大正一四(一九二五)年八月七日に『片岡弓八の日本深海工業が引き上げに成功し』、回収分の八割が『日本深海の所有となった。UPI通信社が同日付で報じた』とある事件、大正六(一九一七)年の『南米東岸線開設』の際、前年十一月から『ブラジル移民組合との契約により、移民輸送を目的としていた』。四月に『神戸を若狭丸が出航。イギリス西岸-東洋間の海運を独占していた青筒社が、船腹不足を理由に縄張りへの寄航を打診してくる』。五月、『これを機に香取丸を神戸から直行させる』。大正九(一九二〇)年に『独占権を回復したいと青筒社が申し入れてくるが、日本郵船は命がけのピンチヒッターであったことを主張し、配船継続を承諾させる』とある一件、大正一一(一九二二)年の『大阪商船と協定』などの内にあるか? 或いは、単純に矢吹の管理していた大阪支店内での事件・紛争なのかも知れぬ。識者の御教授を乞う。]

 

またついでに申す。インドの神や偉人の伝に、その父母が何形を現わして交会して生めりということ多し。鸚鵡(おうむ)形、象形、牛形等なり。これはちょっと読むと、神や偉人の父母はむろん常人にあらざればかよういろいろの動物に化(ば)けて交会せしごときも、実は然(しか)らず。上に述べたる茶白とか居茶臼とか後ろどりとかいろいろのやりようあるなり。それにかくのごとき動物の名をつけたるなり。本邦にもやりように、古く鶴の求食(あさり)、木伝(こづた)う猴(ましら)などいろいろの名ありしこと『類衆名物考』に見えたり。英国のサー・リチャード・バートンいわく、インド人がかかることに注意してかきとめしは大いに有意義で、やりようの如何(いかん)により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし、深く研究を要す、と。

[やぶちゃん注:「交会」性交。

「鸚鵡(おうむ)形」の神は不詳。マヤ神話に伝わる巨人ヴクヴ・カキシュはエメラルドの歯と金と銀で出来た輝く体を持つが、その名は「七の鸚鵡」を意味するというとウィキの「ヴクブ・カキシュにはあった。

「象形」ヒンドゥー教の神で現世利益をもたらすとして人気のあるガネーシャは太鼓腹の人間の身体に片方の牙の折れた象の頭をもった神で四本の腕を持つ神として描かれ、この神は仏教に取り入れられ、天部の一人である歓喜天として、象頭人身の単身像、及び、立像で抱擁している象頭人身の双身像の奇体な姿の像として造形されることが多く、一般には夫妻和合の神として信仰される。

「牛形」ギリシア神話に登場する牛頭人身の怪物ミノタウロス(ラテン語:Minotaurus)が有名。クレータ島のミノス王の妻パシパエーが雄牛と交合して生まれたとされる。古代エジプトの都市メンフィスで信仰された聖なる牛アピスは創造神プタハの化身或いは代理とされた。シンボルとしてならば、古代エジプト神話の愛と美と豊穣と幸運の女神ハトホルは牝牛で示され、ヒンドゥーでもシヴァ神の乗るものとして神聖性が説かれるの言わずもがなである。

「後ろどり」後背位。

「それにかくのごとき動物の名をつけたるなり」南方熊楠は異類婚姻譚の動物は性交の際の体位が起源だと言い切る。これもまた、凄い。

「鶴の求食(あさり)」体位型であるが、不学にして不詳。識者の御教授を乞う。

「木伝(こづた)う猴(ましら)」同前。

「類聚名物考」江戸時代の類書(百科事典)。日本文物の類書中でも形式・内容ともに充実した最初のものとされる大著。成立年は不詳。編者は江戸中期の幕臣で儒学者で、賀茂真淵門下の国学者でもあった山岡浚明(まつあけ 享保一一(一七二六)年~安永九(一七八〇)年)。「日本大百科全書」の彌吉光長氏(懐かしい名だ。図書館概論で講義を受けた。受けていた女子が体調不良で卒倒し、皆で保健室から担架を持って来て、運んで戻ってみると、平然と講義を続けていて、流石にムッとして「先生!」と叫ぶと、「何かありましたか?」と平然と答え、そのままさらに授業を続けた。私はそれ以降、当該の講義をボイコットし、試験だけ受けたが、「優」を呉れたので文句はない)の解説によれば、『彼は博学で有名であったが、若いときから国書を広く読み、その抄をつくって整理していた。しかし、先輩の老人に、抄出しても急場に役だたぬから暗記せよと諭され、その教えに従って破り捨てたものの、記憶には限界と誤りがあると覚』『って、この編集にかかったという。そのため、基本的図書は破棄されたままに脱している。現存の』三百四十二『巻を精査すると、天文、時令、神祇(じんぎ)、地理など』三十二『類と抜き書きの部に分かたれている。各項目は総説と考証、文献からなり、その考証の行き届いて合理的なことは類をみない』とある。

「サー・リチャード・バートン」十九世紀の大英帝国を代表する冒険家で、人類学者・言語学者・作家・翻訳家であり、軍人・外交官でもあったリチャード・フランシス・バートン(Sir Richard Francis Burton  一八二一年~一八九〇年)。本邦では特に「アラビアン・ナイト」の英訳The Book of the Thousand Nights and a Night(「千夜一夜物語」 一八八五年~一八八八年出版。本編十巻・補遺六巻)の翻訳者として知られる。タンガニーカ湖を発見したり、王室人類学協会を共同で設立に加わり、ESP(超感覚的感知)の存在を肯定してこの言葉を提唱した人物でもあった(以下にも南方熊楠好みの変人で、実際、バートンは奇人変人と好んで交際した)。特に東洋の性技の研究なども行い、古代インドの性愛論書「カーマ・シャーストラ」(英語:Kama Sutraカーマ・スートラ:四世紀から五世紀に成立したと推定される)の英訳でも知られるから(大場正史氏の和訳で私も高校時分に読んだ)、以下の驚きの意見も腑には落ちる。詳しい事蹟は参照したウィキのリチャード・フランシス・バートンなどを参照されたい。

「やりようの如何(いかん)により産まるる子の性質に種々のかわりあることなるべし」性交の際の体位によって、それで受精して誕生する子どもは、その体位如何によって性格が決定され、変化が生ずるのに違いない。う~む、ちょっと、ねえ?]

2017/05/15

靑猫を書いた頃   萩原朔太郎

 [やぶちゃん注:以下は昭和一一(一九三六)年六月号『新潮』初出し、昭和一一(一九三六)年五月発行の「廊下と室房」に収録された随筆である。

 昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第九卷」を底本としたが、私は同全集の過剰な消毒をした校訂本文が、実は嫌いである。三箇所を「校異」に従って初出形に戻しておいた。

 また、引用される詩篇は既にブログで当該詩篇或いは初出形等を電子化してあるので(何篇かはずっと昔に、何篇かは今回のこの電子化のため直前に)、本文の当該詩篇題の箇所にリンクを張って参考に供した(正直言うと、実は萩原朔太郎のここでの引用は杜撰で正確でない部分があるので(例えば初っ端の「憂鬱の川邉」の引用冒頭は頭の「げに」が脱落しているし、最後の「怠惰の曆」の引用冒頭は「むかしの戀よ 愛する猫よ」であるべきところが「むかしの人よ 愛する猫よ」となってしまっている)、必ずリンク先の正しいそれを参照されたい。但し、一部は初出形を主体とし、注で、後の再録の幾つかを参考に示したものの場合もある。将来的には萩原朔太郎の単行詩集の電子化注(但し、後年の再録改変詩篇はどうも好きになれない改悪も含まれているので、全部を無批判に採ることは恐らくはしない)をやり遂げたいとは思っている)

 「ソファ」は底本では古式通りの「ソフア」であるが(ルビは現代仮名遣でも原則、拗音表記しないという底本出版当時の印刷業界の常識である)、本文に徴して拗音化して読みを附した

 なお、表題通り、「靑猫を書いた頃」であって、実は初版「靑猫」に所収しない詩篇も引用されているので注意されたい。引用された詩篇の後に附された丸括弧内の題名は、ブログのブラウザ上の不具合を考えて一部の字配は底本に従っていない。太字は底本では傍点「ヽ」である。

 第六段落に出る「スペードの9」というのは、占いに興味のない私は知らなかったが、ネット上の情報によれば、トランプ占いに於いて全部のカードの中で最も悪いカードを意味するそうで、「病気・損失・紛失・喪失・危険・災難・幸運を不運に変える・家族との終わりのない意見の相違」等の最悪の予兆だそうである。

 詩篇「猫の死骸」を語る際に言っている「リヂア」とは、恐らくはポーランドの作家ヘンリク・アダム・アレクサンデル・ピウス・シェンキェーヴィチ(ラテン文字転写:Henryk Adam Aleksander Pius Sienkiewicz 一八四六年~一九一六年)が一八九五年に発表した、ローマ皇帝ネロの統治時代の、若いキリスト教徒の娘リギアとローマの軍人マルクス・ウィニキウスの間の恋愛を中心として、糜爛したローマ帝国を描いたQuo Vadis: Powieść z czasów Nerona(クォ・ヴァディス(「あなたは何処へ行くのか?」): ネロの時代の物語」:“Quo Vadis”はラテン語。「ヨハネによる福音書」第十三章第三十六節でペトロが最後の晩餐でイエスに投げかけた問い、“Quo vadis, Domine”(「主よ、どこに行かれるのですか?」)に由来し、この語は後のキリスト教の苦難と栄光の歴史を象徴するものとしてしばしば使われる)のヒロイン、リギア(英語表記: Lycia)のことであろう。] 

 

 靑猫を書いた頃 

 

 靑猫の初版が出たのは、今から十三年前、卽ち一九二三年であるが、中の詩は、その以前から、數年間に書き貯めたものであるから、つまり一九一七年ら一九二三年へかけて書いたもので、今から約十七年も昔の作になるわけである。十年一昔といふが、十七年も昔のことは、蒼茫して夢の如く、概ね記憶の彼岸に薄らいで居る。

 しかし靑猫を書いた頃は、私の生活のいちばん陰鬱な梅雨時だつた。その頃私は、全く「生きる」といふことの欲情を無くしてしまつた。と言つて自殺を決行するほどの、烈しい意志的なパッションもなかつた。つまり無爲とアンニュイの生活であり、長椅子(ソファ)の上に身を投げ出して、梅雨の降り續く外の景色を、窓の硝子越しに眺めながら、どうにも仕方のない苦惱と倦怠とを、心にひとり忍び泣いてるやうな狀態だつた。

 その頃私は、高等學校を中途で止め、田舍の父の家にごろごろして居た。三十五、六才にもなる男が、何もしないで父の家に寄食して居るといふことは、考へるだけでも淺ましく憂鬱なことである。食事の度每に、每日暗い顏をして兩親と見合つて居た。折角たのみにして居た一息子が學校も卒業できずに、廢人同樣の無能力者となつて、爲すこともなく家に歸つて居る姿を見るのは、父にとつて耐へられない苦痛であつた。父は私を見る每に、世にも果敢なく情ない顏をして居た。私は私で、その父の顏を見るのが苦しく、自責の悲しみに耐へられなかつた。

 かうした生活の中で、私は人生の意義を考へ詰めて居た。人は何のために生きるのか。幸福とは何ぞ。眞理とは何ぞ。道德とは何ぞ。死とは何ぞ。生とは何ぞや? それから當然の歸趨として、すべての孤獨者が惑溺する阿片の瞑想――哲學が私を捉へてしまつた。ニイチェ、カント、ベルグソン、ゼームス、プラトン、ショウペンハウエルと。私は片つぱしから哲學書を亂讀した。或る時はニイチェを讀み、意氣軒昂たる跳躍を夢みたが、すぐ後からショウペンハウエルが來て、一切の意志と希望とを否定してしまつた。私は無限の懷疑の中を彷徨して居た。どこにも賴るものがなく、目的するものがなく、生きるといふことそれ自身が無意味であつた。

 すべての生活苦惱の中で、しかし就中、性慾がいちばん私を苦しめた。既に結婚年齡に達して居た私にとつて、それは避けがたい生理的の問題だつた。私は女が欲しかつた。私は羞恥心を忍びながら、時々その謎を母にかけた。しかし何の學歷もなく、何の職業さへもなく、父の家に無爲徒食してゐるやうな半廢人の男の所へ、容易に妻に來るやうな女は無かつた。その上私自身がまた、女性に對して多くの夢とイリュージョンを持ちすぎて居た。結婚は容易に出來ない事情にあつた。私は東京へ行く每に、町を行き交ふ美しい女たちを眺めながら、心の中で沁々と悲しみ嘆いた。世にはこれほど無數の美しい女が居るのに、その中の一人さへが、私の自由にならないとはどういふわけかと。

 だがしかし、遂に結婚する時が來た。私の遠緣の伯父が、彼自身の全然知らない未知の女を、私の兩親に說いてすすめた。半ば自暴自棄になつて居た私は、一切を運に任せて、選定を親たちの意志にまかせた。そしてスペードの が骨牌に出た。私の結婚は失敗だつた。

 陰鬱な天氣が日々に續いた。私はいよいよ孤寂になり、懷疑的になり、虛無的な暗い人間になつて行つた。そしていよいよ深く、密室の中にかくれて瞑想して居た。私はもはや、どんな哲學書も讀まなくなつた。理智の考へた抽象物の思想なんか、何の意味もないことを知つたからだ。しかしショウペンハウエルだけが、時々影のやうに現はれて來て、自分の悲しみを慰めてくれた。槪念の思想のものではなく、彼の詩人的な精神が、春の夜に聽く橫笛の音のやうに、惱しいリリカルの息思ひに充ちて、煩惱卽口提の生の解脱と、寂滅爲樂のニヒルな心境を撫でてくれた。あの孤獨の哲學者が、密室の中に獨りで坐つて、人間的な欲情に惱みながらも、終生女を罵り世を呪ひ、獨身生活に終つたといふことに、何よりも深い眞の哲學的意味があるのであつた。「宇宙は意志の現れであり、意志の本體は惱みである。」とショウペンハウエルが書いた後に、私は付け加へて「詩とは意志の解脫であり、その涅槃への思慕を歌ふ鄕愁である。」と書いた。なぜならその頃、私は靑猫の詩を書いて居たからである。

 

  げにそこにはなにごとの希望もない

  生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ

  梅雨(つゆ)だ

  じめじめとした雨の點滴のやうなものだ

  しかしああ、また雨! 雨! 雨!

          (憂鬱の川邊 

 

と歌つた私は、なめくぢの這ひ𢌞る陰鬱な墓地をさまよひながら、夢の中で死んだ戀人の幽靈と密會して、 

 

  どうして貴女(あなた)はここに來たの?

  やさしい、靑ざめた、草のやうにふしぎな影よ。

  貴女は貝でもない、雉でもない、猫でもない。

  さうしてさびしげなる亡靈よ!

  ……………………(中略)

  さうしてただ何といふ悲しさだらう。

  かうして私の生命(いのち)や肉體はくさつてゆき

  「虛無」のおぼろげなる景色の中で

  艶めかしくも、ねばねばとしなだれて居るのですよ。

          (艶めかしい墓場 

 

と、肉體の自然的に解消して行く死の世界と、意志の寂滅する涅槃への鄕愁を切なく歌つた。 

 

  蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で

  わたしはくづれてゆく肉體の柱をながめた。

  それは宵闇にさびしくふるへて

  影にそよぐ死びと草のやうになまぐさく

  ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。

  ……………………(中略)

  それは風でもない、雨でもない

  そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ。

  さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

  わたしのくづれて行く影がさびしく泣いた。

          (くづれる肉體 

 

 と、ショウペンハウエル的涅槃の侘しくやるせない無常感を、印度の蛇使ひが吹く笛にたとへて、鄕愁のリリックで低く歌つた。自殺の決意を持ち得ないほど、意志の消耗に疲れ切つて居た當時の私は、物倦く長椅子(ソファ)の上に寢たままで、肉體の自然的に解消して物理學上の原素に還元し、一切の「無」に化してしまふことを願つて居た。 

 

  どこに私らの幸福があるのだらう

  泥土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

  悲しみはいよいよ深く湧いてくるのではないか。

  ……………………(中略)

  ああもう希望もない、名譽もない、未來もない。

  さうして取りかへしのつかない悔恨ばかりが

  野鼠のやうに走つて行つた。

          (野鼠 

 

 それほど私の悔恨は痛ましかつた。そして一切の不幸は、誤つた結婚生活に原因して居た。理解もなく、愛もなく、感受性のデリカシイもなく、單に肉慾だけで結ばれてる男女が、古い家族制度の家の中で同棲して居た。そして尙、その上にも子供が生れた。私は長椅子(ソファ)の上に身を投げ出して、昔の戀人のことばかり夢に見て居た。その昔の死んだ女は、いつも紅色の衣裝をきて、春夜の墓場をなまぐさく步いて居た。私の肉體が解體して無に歸する時、私の意志が彼女に逢つて、燐火の燃える墓場の陰で、悲しく泣きながら抱くのであつた。 

 

  ああ浦、さびしい女!

  「あなた いつも遲いのねえ。」

  ぼくらは過去もない、未來もない

  さうして現實のものから消えてしまつた……

  浦!

  このへんてこに見える景色の中へ

  泥猫の死骸を埋めておやりよ。

          (猫の死骸 

 

 浦は私のリヂアであつた。そして私の家庭生活全體が、完全に「アッシャア家の沒落」だつた。それは過去もなく、未來もなく、そして「現實のもの」から消えてしまつた所の、不吉な呪はれた虛無の實在――アッシャア家的實在――だつた。その不吉な汚ないものは、泥猫の死骸によつて象徴されてた。浦! お前の手でそれに觸るのは止めてくれ。私はいつも本能的に恐ろしく、夢の中に泣きながら戰いて居た。

 それはたしかに、非倫理的な、不自然な、暗くアブノーマルな生活だつた。事實上に於て、私は死靈と一緒に生活して居たやうなものであつた。さうでもなければ、現實から逃避する道がなく、悔恨と悲しみとに耐へなかつたからである。私はアブノーマルの仕方で妻を愛した。戀人のことを考へながら、妻の生理的要求に應じたのである。妻は本能的にそれを氣付いた。そして次第に私を離れ、他の若い男の方に近づいて行つた。

 すべては不吉の宿命だつた。私は過去を囘想して、ポオの「大鴉」の歌のやうに、ねえばあもうあ! ねえばあもうあ! と、氣味惡しく叫び續けるばかりであつた。しかしそんな虛無的の悲哀の中でも、私は尙「美」への切ない憧憬を忘れなかつた。意志もなく希望もなく、疲れ切つた寢床の中で、私は枕時計の鳴るオルゴールの歌を聽きながら、心の鄕愁する侘しい地方を巡歷した。 

 

  馬や駱駝のあちこちする

  光線のわびしい沿海地方にまぎれて來た

  交易をする市場はないし

  どこで毛布(けつと)を賣りつけることもできはしない。

  店鋪もなく

  さびしい天幕が砂地の上にならんでゐる。

          (沿海地方 

 

 そんな沿海地方も步いたし、蛙どもの群つてゐる、さびしい沼澤地方も巡歷したし、散步者のうろうろと步いてる、十八世紀頃の侘しい裏街の通りも步いた。 

 

  太陽は無限に遠く

  光線のさしてくるところに、ぼうぼうといふほら貝が鳴る。

  お孃さん!

  かうして寂しくぺんぎん鳥のやうに竝んでゐると

  愛も肝臟も、つららになつてしまふやうだ。

  ……………………(中略)

  どうすれば好いのだらう、お孃さん!

  ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で、貝肉のやうにふるへてゐる。

  そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし

  こんなにも切ない心がわからないの? お孃さん!

          (ある風景の内から 

 

 氷島の上に坐つて、永遠のオーロラを見て居るやうな、こんな北極地方の侘びしい景色も、夢の中で幻燈に見た。

 私のイメーヂに浮ぶすべての世界は、いつでも私の悲しみを表象して居た。そこの空には、鈍くどんよりとした太陽が照り、沖には沈沒した帆船が、蜃氣樓のやうに浮んで居た。そして永劫の宇宙の中で、いつも靜止して居る「時」があつた。それは常に「死」の世界を意味して居たのだ。死の表象としてのヴィジョンの外、私は浮べることができなかつたのだ。 

 

  むかしの人よ、愛する猫よ

  私はひとつの歌を知つてる

  さうして遠い海草の焚けてる空から、爛れるやうな接吻(きす)を投げよう。

  ああこのかなしい情熱の外、どんな言葉も知りはしない。

          (怠惰の 

 

 詩集「靑猫」のリリシズムは、要するにただこれだけの歌に盡きてる。私は昔の人と愛する猫とに、爛れるやうな接吻(きす)をする外、すべての希望と生活とを無くして居たのだ。さうした虛無の柳の陰で、追懷の女としなだれ、艶めかしくもねばねばとした邪性の淫に耽つて居た。靑猫一卷の詩は邪淫詩であり、その生活の全體は非倫理的の罪惡史であつた。私がもし神であつたら、私の過去のライフの中から、この生活の全體を抹殺してしまひたいのだ。それは不吉な生活であり、陰慘な生活であり、恥づべき冒瀆的な生活だつた。しかしながらまたそれだけ、靑猫の詩は私にとつて悲しいのだ。今の私にとつて、靑猫の詩は既に「色の褪せた花」のやうな思ひがする。しかもその色の褪せた花を見ながら、私はいろいろなことを考へてるのだ。

 見よ! 人生は過失なり――と、私は近刊詩集「氷島」中の或る詩で歌つた。まことに過去は繰返し、過失は永遠に囘歸する。ボードレエルと同じく、私は悔恨以外のいかなる人生をも承諾しない。それ故にまた私は色の褪せた靑猫の詩を抱いて、今もまた昔のやうに、人生の久遠の悲しみを考へてるのだ。 

 

[やぶちゃん注:最後の「見よ! 人生は過失なり――と、私は近刊詩集「氷島」中の或る詩で歌つた」は昭和九(一九三四)年六月第一書房刊の詩集「氷島」の「新年」である。「新年」は同年三月発行の『詩・現實』を初出とするが、一部に有意な異同があるので、まず、初出を示し、而して「氷島」版を掲げて終りとする。定本はやはり筑摩書房版「萩原朔太郎全集 第二卷」に拠ったが、後者は歴史的仮名遣等が補正された本文ではなく、異同に従って詩集「氷島」のママを再現した。「凜然」は「寒さが厳しく身に沁み入るさま」を言う。底本校訂本文は「凛然」と〈訂する〉が「凜然」とも表記するから、従わない

   * 

 

 新年

 

新年來り

門松は白く光れり。

道路みな霜に凍りて

冬の凜烈たる寒氣の中

地球はその週曆を新たにするか。

われは尙悔ひて恨みず

百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。

いかなれば非有の時空に

新しき辨證の囘歸を待たんや。

わが感情は飢えて叫び

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

いかんぞ曆數の周期を知らむ

見よ 人生は過失なり

けふの思惟するものを彈劾して

百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせむ。 

 

   *   *

 

 新年 

 

新年來り

門松は白く光れり。

道路みな霜に凍りて

冬の凜烈たる寒氣の中

地球はその週暦を新たにするか。

われは尙悔ひて恨みず

百度(たび)もまた昨日の彈劾を新たにせむ。

いかなれば虛無の時空に

新しき辨證の非有を知らんや。

わが感情は飢えて叫び

わが生活は荒寥たる山野に住めり。

いかんぞ暦數の囘歸を知らむ

見よ! 人生は過失なり。

今日の思惟するものを斷絕して

百度(たび)もなほ昨日の悔恨を新たにせん。 

 

   *]

萩原朔太郎 ある風景の内壁から (「ある風景の内殼から」初期形)

 

 ある風景の内壁から

 

どこにこの情慾は口(くち)をひらいたら好いだらう

大海龜(うみがめ)は山のやうに眠るてゐるし

古世代の海に近く

厚さ千貫目ほどもある鷓鴣(しやこ)の貝殼が眺望してゐる。

なんといふ鈍暗な日ざしだらう

しぶきにけむれる岬岬の島かげから

ふしぎな病院船のかたちが現はれ

それが沈沒した錠の纜(ともづな)をずるずると曳いてゐるではないか。

ねえ! お孃さん

いつまで僕等は此處に座り 此處の悲しい岩に並んでゐるのでせう

太陽は無限に遠く

光線のさしてくるところにぼうぼうといふほら貝が鳴る。

お孃さん!

かうして寂しくぺんぎん鳥のやうにならんでゐると

愛も 肝臓も つららになつてしまふやうだ

やさしいお孃さん!

もう僕には希望(のぞみ)もなく 平和な生活(らいふ)の慰めもないのだよ

あらゆることが僕をきがひじみた憂鬱にかりたてる

へんに季節は轉々して

もう夏も季桃(すもも)もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。

どうすれば好いのだらう お孃さん!

ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるえてゐる。

そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし

これほどにもせつない心がわからないの? お孃さん!

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九三七)年二月号『日本詩人』初出。歴史的仮名遣の誤りと「世」「鷓鴣」「錠」「季桃」はママ。太字「つらら」は底本では傍点「ヽ」。

「千貫目」三トン七五〇キログラム。

 昭和三(一九二八)年三月第一書房刊の「萩原朔太郎詩集」に収録された際、「あるう風景の内殼から」と改題した上、本文にも手が加えられているが(大きな変更の一つは「もう夏も季桃もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。」の「夏」が「春」となっている点である)、この詩篇、改稿されたものやその後の再録詩集でも、残念ながら、首をかしげざるを得ない表記箇所が多過ぎる。初出の一読で判る通り、

「古世代」は「古生代」、「季桃」は「李桃」

でないとおかしいし、

「鷓鴣」は鳥(狭義には鳥綱キジ目キジ科シャコ属コモンシャコ Francolinus pintadeanus:中国南部・東南アジア・インドに生息し、家禽として飼育され、鶏肉よりも高価に取引される。本邦には棲息しない。広義にはシャコ属 Francolinus を指し、約四十種がアフリカ・アジア・ヨーロッパに分布する)

であるから、ここは明らかに、

「硨磲」貝、則ち、斧足綱異歯亜綱ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科 Tridacnidae のかのシャコガイ類の大型個体

をイメージしているわけから、この誤字のままでは読者は躓いてしまう

「錠」も、まず「碇」(いかり)の誤りに他ならない

と読める

 されば、本詩篇に関しては、底本とした筑摩書房「萩原朔太郎全集 第二卷」の本文を以下に提示しておくこととしたい(既に述べた通り、この全集の校訂は独善的で不遜な部分が多分にあって不満ではあるが)。実は他にも訳の分からぬいらぬことを底本編者はしている(一行目の「口」のルビの除去など)のであるが、ここは我慢してそのまま底本正規本文を示すこととする。

   *

 

 ある風景の内殼から

 

どこにこの情慾は口をひらいたら好いだらう

大海龜(うみがめ)は山のやうに眠るてゐるし

古生代の海に近く

厚さ千貫目ほどもある硨磲(しやこ)の貝殼が眺望してゐる。

なんといふ鈍暗な日ざしだらう

しぶきにけむれる岬岬の島かげから

ふしぎな病院船のかたちが現はれ

それが沈沒した碇の纜(ともづな)をずるずると曳いてゐるではないか。

ねえ! お孃さん

いつまで僕等は此處に坐り 此處の悲しい岩に竝んでゐるのでせう

太陽は無限に遠く

光線のさしてくるところにぼうぼうといふほら貝が鳴る。

お孃さん!

かうして寂しくぺんぎん鳥のやうにならんでゐると

愛も 肝臓も つららになつてしまふやうだ。

やさしいお孃さん!

もう僕には希望(のぞみ)もなく 平和な生活(らいふ)の慰めもないのだよ

あらゆることが僕をきちがひじみた憂鬱にかりたてる

へんに季節は轉轉して

もう春も李(すもも)もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。

どうすれば好いのだらう お孃さん!

ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるへてゐる。

そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし

これほどにもせつない心がわからないの? お孃さん!

 

   *]

 

萩原朔太郎 野鼠  (初出形)

 

 野鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

坭土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧(わ)いてくるではないか。

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ぼうぼうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來はしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日雇人(ひやうとり)のやうに步いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない。

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが野鼠のやうに走つて行つた

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年五月刊『日本詩集』初出。歴史的仮名遣の誤りと「坭土」はママ。「めるとん」の傍線は無論、右傍線。詩集「靑猫」(大正十二年一月新潮社刊)所収の際には、以下のように手が加えられており、大きな改変は最終行を二行に分かった点である。ここは「靑猫」が無論、いい。

   *

 

 野鼠

 

どこに私らの幸福があるのだらう

坭土(でいど)の砂を掘れば掘るほど

悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか。

春は幔幕のかげにゆらゆらとして

遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。

どこに私らの戀人があるのだらう

ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても

もう永遠に空想の娘らは來やしない。

なみだによごれためるとんのづぼんをはいて

私は日雇人のやうに歩いてゐる

ああもう希望もない 名譽もない 未來もない。

さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが

野鼠のやうに走つて行つた。

 

   *

底本とした筑摩版全集は「坭土」を「泥土」に、「日雇人」を「日傭人」に〈訂し〉、後者のルビを「ひやうとり」に「ひようとり」に訂している。読みは当て読みであり、歴史的仮名遣から改変は正しいが、前の「坭土」と「日雇人」の改変は訂正とは言えない。「坭」は漢字として存在し、「泥」と同義であり、「日雇人」はそれで意味が過たず、読者に通ずるからである。以前から筑摩版のこの全集の勝手な〈訂正〉には不満があるが、ここでも不愉快極まりない。こんな消毒したものが萩原朔太郎の詩として読み継がれるとすれば、これは何か、奇体な字を前に逡巡しつつも、そこに雰囲気を摑める気持ちで読み進めるよりも、遙かに逆に虫唾が走る。]

 

萩原朔太郎 くづれる肉體  (初出形)

 

 くづれる肉體

 

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で

わたしはくづれてゆく肉體(にくたい)の柱をながめた

それは宵闇にさびしくふるえて

影にそよぐ死(しに)びと草のやうになまぐさく

ぞろぞろと蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた

ああこの影をひく景色の中で

わたしの靈魂はむづがゆい恐怖をつかむ

それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島々を渡つてきた

それは風でもない 雨でもない

そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ

さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。歴史的仮名遣の誤り及び「」はママ。詩集「靑猫」(大正十二年一月新潮社刊)所収の際には、以下のように手が加えられている。

   *

 

 くづれる肉體

 

蝙蝠のむらがつてゐる野原の中で

わたしはくづれてゆく肉體の柱(はしら)をながめた

それは宵闇にさびしくふるへて

影にそよぐ死(しに)びと草(ぐさ)のやうになまぐさく

ぞろぞろと蛆蟲の這ふ腐肉のやうに醜くかつた。

ああこの影を曳く景色のなかで

わたしの靈魂はむずがゆい恐怖をつかむ

それは港からきた船のやうに 遠く亡靈のゐる島島を渡つてきた

それは風でもない 雨でもない

そのすべては愛欲のなやみにまつはる暗い恐れだ

さうして蛇つかひの吹く鈍い音色に

わたしのくづれてゆく影がさびしく泣いた。

 

   *]

 

萩原朔太郎 艶めかしい墓場 (初出形)

 

 艶めかしい墓場

 

風は柳をふいてゐます

どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。

なめくじは垣根を這ひあがり

見はらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる。

どうして貴女(あなた)はここに來たの

やさしい 靑ざめた 草のやうにふしぎな影よ

貴女(あなた)は貝でもない 雉でもない 猫でもない

さうしてさびしげなる亡靈よ

貴女(あなた)のさまよふからだの影から

まづしい漁村の裏通りで 魚(さかな)のくさつた臭ひがする

そのはらわたは日にとけてどろどろと生臭く

かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひ

 

ああ この春夜のやうになまぬるく

べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ

妹のやうにやさしいひとよ

それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない

さうしてただなんといふ悲しさだらう。

かうして私の生命(いのち)や肉體(からだ)はくさつてゆき

虛無のおぼろげな景色のかげで

艶めかしくも ねばねばとしなだれてゐるのです。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年六月号『詩聖』初出。歴史的仮名遣の誤り及び「なめくぢ」はママ。詩集「靑猫」(大正十二年一月新潮社刊)所収の際には、以下のように手が加えられている。

   *

 

 艶めかしい墓場

 

風は柳を吹いてゐます

どこにこんな薄暗い墓地の景色があるのだらう。

なめくぢは垣根を這ひあがり

みはらしの方から生(なま)あつたかい潮みづがにほつてくる。

どうして貴女(あなた)はここに來たの

やさしい 靑ざめた 草のやうにふしぎな影よ

貴女は貝でもない 雉でもない 猫でもない

さうしてさびしげなる亡靈よ

貴女のさまよふからだの影から

まづしい漁村の裏通りで 魚(さかな)のくさつた臭ひがする

その膓(はらわた)は日にとけてどろどろと生臭く

かなしく せつなく ほんとにたへがたい哀傷のにほひである。

 

ああ この春夜のやうになまぬるく

べにいろのあでやかな着物をきてさまよふひとよ

妹のやうにやさしいひとよ

それは墓場の月でもない 燐でもない 影でもない 眞理でもない

さうしてただなんといふ悲しさだらう。

かうして私の生命(いのち)や肉體(からだ)はくさつてゆき

「虛無」のおぼろげな景色のかげで

艶めかしくも ねばねばとしなだれて居るのですよ。

 

   *]

萩原朔太郎 憂欝の川邊 (初出形)

 

 憂欝の川邊

 

川邊で鳴つてゐる

芦(よし)や葦(あし)のさやさやといふ音はさびしい

しぜんに生えてゐる

するどい ちひさな植物 草本の莖の類はさびしい

私は眼を閉ぢて

なにかの草の根をかまふとする

なにかの草の汁を吸ふために、憂愁の苦い汁を吸ふために

げにそこにはなにごとの希望もない

生活はただ無意味な幽欝の連なりだ

梅雨だ

じめじめとした雨の点滴のやうなものだ

しかし ああ また雨 雨 雨

そこには生える不思議の草本

あまたの悲しい羽虫の類

それは憂欝に這ひまはる岸邊にそうて這ひまはる

じめじめとした川の岸邊を行くものは

ああこの 光るいのちの葬列か

光る精神の病靈か

物みなしぜんに腐れゆく岸邊の草から

雨に光る木材質のはげしきにほひ。

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年四月号『感情』初出。歴史的仮名遣の誤り及び「幽欝」「点」「虫」はママ。詩集「靑猫」(大正十二年一月新潮社刊)所収の際には、以下のように手が加えられている。大きな変更は終りから二行目であるが、以降の詩集類ではこれ総て「草むら」であるから、これは初出の誤植の可能性が高いとも言えるが、断定は出来ぬ。なお、最後の詩集となる昭和一四(一九三九)年九月創元社刊の「宿命」でのみ、終りから三行目の「精神」に「こころ」とルビされる大きな改変がなされてある。底本は昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第九卷」を用いた。

   *

 

 憂鬱の川邊

 

川邊で鳴つてゐる

蘆や葦のさやさやといふ音はさびしい

しぜんに生えてる

するどい ちひさな植物 草本(さうほん)の莖の類はさびしい

私は眼を閉ぢて

なにかの草の根を嚙まうとする

なにかの草の汁をすふために 憂愁の苦い汁をすふために

げにそこにはなにごとの希望もない

生活はただ無意味な憂鬱の連なりだ

梅雨だ

じめじめとした雨の點滴のやうなものだ

しかし ああ また雨! 雨! 雨!

そこには生える不思議の草本

あまたの悲しい羽蟲の類

それは憂鬱に這ひまはる 岸邊にそうて這ひまはる

じめじめとした川の岸邊を行くものは

ああこの光るいのちの葬列か

光る精神の病靈か

物みなしぜんに腐れゆく岸邊の草むら

雨に光る木材質のはげしき匂ひ。 

 

   *] 

2017/05/14

柴田宵曲 續妖異博物館 「大和の瓜」

 

 大和の瓜

 

 大和國から瓜を馬に積んで京へ出る者があつた。宇治の北にある成らぬ柿の木といふ木の下まで來ると、皆瓜の籠を馬から下ろして、暫くその蔭に涼んでゐるうちに、積んで來た瓜を取り出して、少しつつ食ひはじめた。そこへどこからやつて來たか、帷子に平足駄を穿き、杖をついた老人が現れて、扇を使ひながら皆の瓜を食ふのを見守つてゐたが、その瓜を一つ私にも食べさせてくれませんか、咽喉がかわいて堪らないのです、と云ひ出した。瓜を運ぶ下人達は、氣の毒だから上げたいが、これは私どもの物ではない、人に賴まれて京へ持つて行くのだから上げるわけに往かぬ、とすげなく斷つた。

 

 老人は、あなた方は情けを知らぬとか、年寄はいたはつてやるものだとか、ぶつぶつ云つてゐたが、そのうちに、下さらぬものは仕方がない、よろしい、私が瓜を作つて食ひませう、と云つたかと思ふと、木片を拾つて地面を畑のやうに掘り、下人達の食ひ散らした瓜の種をそこに埋めた。はじめの間は笑談半分に見てゐた下人達も、その種が間もなく二葉を出し、蔓を延してあたり一面の瓜畑になるのを見ては、びつくり仰天せざるを得なかつた。老人は澄ましたもので、自分がその瓜を取つて食ふだけでなしに、下人達にも食べろと云ふ。通行人にも勸める。あるほどの瓜を食べ盡してしまつたら、それでは皆さん失禮、と云つて老人はどこかへ立ち去つた。大分暇を潰したから、吾々も出かけようといふので、下人達が見ると、籠の中の瓜は一つもない。瓜をこゝに作ると見せて、籠の中から持ち出したのかと騷いでも追付かぬ。空の籠を馬に積んで大和へ引返すより外はなかつた。

[やぶちゃん注:以上は、以下に述べられる通り、「今昔物語集」の話で「卷第二十八」の「以外術被盜食瓜語第四十」(外術(ぐゑずつ)を以つて瓜を盜み食はるる語(こと)第四十しじふ))である。「外術」(げじゅつ)は(歴史的仮名遣では実は「げじゆつ」でよい)外道(げどう)の術で、魔法。幻術のこと。「下術」とも書く。

   *

 今は昔、七月許(ばか)りに、大和の國より、多くの馬(むま)共に瓜を負(お)ほせ烈(つら)ねて、下衆(げす)共多く京へ上りけるに、宇治の北に、不成(なら)ぬ柿の木と云ふ木有り。其の木の下の木影(こかげ)に、此の下衆共、皆、留(とど)まり居(ゐ)て、瓜の籠共をも皆、馬より下(おろ)しなどして、息(やす)み居て、冷(すず)みける程に、私(わたくし)に[やぶちゃん注:自分らが食う分として]、此の下衆共の具したりける瓜共の有りけるを、少々取り出でて切り食ひなどしけるに、其の邊に有りける者にや有(あ)らむ、年極(いみ)じく老いたる翁の、帷(かたびら)に中(なか)を結ひて[やぶちゃん注:単衣(ひとえ)の薄物を纏い、その腰の辺りを紐で結わいて。]、平足駄(ひらあしだ)を履きて、杖を突きて出で來たりて、此の瓜食ふ下衆共の傍らに居(ゐ)て、力弱氣(ちからよはげ)に扇(あふぎ)、打ち仕ひて、此の瓜食ふを、まもらひ居たり[やぶちゃん注:凝っと見守り続けている。]。

 暫し許り護りて、翁の云く、

「其の瓜一つ、我れに食はせ給へ。喉(のど)乾きて術無(ずつな)し。」

と。瓜の下衆共の云く、

「此の瓜は、皆、己等(おのれら)が私物(わたくしもの)には非ず。糸惜(いとほ)しさに[やぶちゃん注:気の毒に感ずるから。]一つをも可進(たてまつるべ)けれども[やぶちゃん注:差し上げたいとは思うけれども。]、人の京に遣す物なれば、否不食(えくふ)まじき也。」

と。翁の云く、

「情け不座(いまさ)ざりける主達(ぬしたち)かな。年老いたる者をば、哀れと云ふこそ、吉(よ)きことなれ、然(さ)はれ、何(いか)に得させ給ふ[やぶちゃん注:「(愚痴は)さてもそれまでとして、ではでは……そなたらは……どのようにして私に……その瓜どもを得させてくれりょうかのぅ?」。後の妖術の仕儀を暗示させる不思議な予言めいた謂いである。]。然らば、翁、瓜を作りて食はむ。」

と云へば、此の下衆共、

「戲言(たはぶれごと)を云ふなんめり。」

と、

「可咲(をかし)。」

と思ひて、咲(わら)ひ合ひたるに、翁、傍らに木の端(はし)の有るを取りて、居たる傍らの地を掘りつつ、畠の樣(やう)に成しつ。

 其の後(のち)に、此の下衆共、

「何に態(わざ)を此れは爲(す)るぞ。」[やぶちゃん注:何の真似をこの爺いはするつもりなんだ?」。]

と見れば、此の食ひ散したる瓜の核(さね)共を取り集めて、此の習(なら)したる[やぶちゃん注:平らに均(なら)した。]地(ぢ)に植ゑつ。其の後ち、程も無く、其の種瓜(たねうり)にて、二葉にて生ひ出でたり。此の下衆共、此れを見て、

「奇異(あさま)し。」

と思ひて見る程に、其の二葉の瓜、只(ただ)[やぶちゃん注:無暗に。急速に。]、生ひに生ひて這凝(はびこりまつは)りぬ。只、繁りに繁りて、花、榮(さ)きて、瓜、成りぬ。其の瓜、只、大きに成りて、皆、微妙(めでた)き瓜に熟しぬ。

 其の時に、此の下衆共、此れを見て、

「此は神などにや有(あ)らむ。」

と、恐れて思ふ程に、翁、此の瓜を取りて食ひて、此の下衆共に云く、

「主達(ぬしたち)の食はせざりつる瓜は、此(か)く瓜作り出だして食ふ。」

と云ひて、下衆共にも、皆、食はす。瓜、多かりければ、道行(みちゆ)く者共をも呼びつつ、食はすれば、喜びて食ひけり。食ひ畢(は)てつれば、翁、

「今は罷(まか)りなむ。」

と云ひて、立ち去りぬ。行方(ゆきかた)を不知(し)らず。

 其の後(のち)、下衆共、

「馬に瓜を負(お)ほせて、行かむ。」

とて、見るに、籠は有りて、其の内の瓜、一つも、無し。其の時に、下衆共、手を打ちて奇異(あさま)しがること限り無し。

「早う、翁の籠の瓜を取り出だしけるを、我等が目を暗(くら)まして不見(み)せざりける也けり。」

と知りて、嫉(ねた)がりけれども、翁、行きけむ方を知らずして、更に甲斐無くて、皆、大和へ返りてけり。道行ける者共、此れを見て、且つは奇(あや)しみ、且つは咲(わら)ひけり。

 下衆共、瓜を惜しまずして、二つ三つにても翁に食はせたらましかば、皆は不被取(とられ)ざらまし。惜みけるを翁も※(にく)みて此(か)くもしたるなんめり。亦、變化の者などにてもや有りけむ。[やぶちゃん字注:「※」=「忄」+「惡」。]

 其の後(の)ち、其の翁を遂に誰人(たれひと)と不知(し)らで止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 

 この老人は何者であつたか、誰に聞いてもわからなかつたが、「今昔物語」はこの話に外術(げじゆつ)といふ言葉を使つてゐる。「列仙傳」の左慈なども時にこの手段を用ゐた。曹操が大勢の臣下を連れて郊外に遊んだ時、左慈はどこからか酒と脯(ほしにく)を持つて來て百官に振舞つた。曹操その出所を怪しみ、人を派して調べさせたら、宮中の藏に入れてあつた酒も脯も悉くなくなつてゐた、といふやうな話がある。

[やぶちゃん注:「左慈」既出既注

 以上の話は調べてみたが、「列仙傳」の中には何故か見当たらない。その代わり、「搜神記」の「第一卷」のこの話ならば、よく知っている。下線部太字部分がそれである。

   *

左慈、字符放、廬江人也。少有神通。嘗在曹公座、公笑顧眾賓曰、「今日高會、珍羞略備。所少者、松江鱸魚爲膾。」。放曰、「此易得耳。」。因求銅盤貯水、以竹竿餌釣于盤中、須臾、引一鱸魚出。公大拊掌、會者皆驚。公曰、「一魚不周坐客、得兩爲佳。」。放乃復餌釣之。須臾、引出、皆三尺餘、生鮮可愛。公便自前膾之、周賜座席。公曰、「今既得鱸、恨無蜀中生薑耳。」。放曰、「亦可得也。」。公恐其近道買、因曰、「吾昔使人至蜀買錦、可敕人告吾使、使增市二端。」。人去、須臾還、得生薑。又云、「於錦肆下見公使、已敕增市二端。」。後經餘、公使還、果增二端。問之、云、「昔某月某日、見人於肆下、以公敕敕之。」。後公出近郊、士人從者百數、放乃賚酒一罌、脯一片、手自傾罌、行酒百官、百官莫不醉飽。公怪、使尋其故。行視沽酒家、昨悉亡其酒脯矣。公怒、陰欲殺放。放在公座、將收之、卻入壁中、霍然不見。乃募取之。或見于市、欲捕之、而市人皆放同形、莫知誰是。後人遇放于陽城山頭、因復逐之。遂走入羊群。公知不可得、乃令就羊中告之、曰、「曹公不復相殺、本試君術耳。今既驗、但欲與相見。」忽有一老羝、屈前兩膝、人立而言曰、「遽如許。」。人即云、「此羊是。」。競往赴之。而群羊數百、皆變爲羝、並屈前膝、人立、云、「遽如許。」。於是遂莫知所取焉。老子曰、「吾之所以爲大患者、以吾有身也、及吾無身、吾有何患哉。」。若老子之儔、可謂能無身矣。豈不遠哉也。

   *

私はこの話全体がすこぶるつきに大好きなのである。だから、ちょっと今までなく、語りたいのである。前の部分は曹操(原文は「曹公」であるが、左慈の事蹟を調べると、これは曹操であろうと比定されている)の催した宴会での魔術で、その食卓の上の銅盤に釣り糸を垂らして曹操が足りないから欲しいといった鱸(すずき)を二尾も釣りあげ、次に、その膾に添えるために、遠く離れた僻地蜀(しょく)の生姜を持ってこさせ、序でに、「蜀に錦を買いに使者として出してあるから、その者にもう二反(たん)追加せよと言いつけよ」と難題を出す。左慈は一寸出て直きに生姜を持って帰って参り、伝言を伝えたと言う。一年後に帰って来た使者は二反多く買ってきており、その訳を聴けば、使者は「ずっと以前の何月何日に店で逢った方が公の御命令だと言って、追加の二反を買わせましたので。」と答えたという中型爆弾程度の仰天エピソードである。この話(但し、「搜神記」では「沽酒家」(百人の役人が全員ぐでんぐでんに酔ってしまったというのだから、都城中の酒屋という酒屋総ての謂いであろう)で柴田の言う「宮中」ではない)の後は、而して操は、酒を妖術で全部奪い取ったこと知って怒り、危険人物として左慈を密か殺そうとして捕えんとした。ところが、彼はすっと壁の中に消えてしまい、町を捜索させれば、町中の人間がみんな左慈となってしまっていて見分けがつかないという始末。後に陽城山の辺りで彼を見かけたという情報を受け、捕縛に向かわせると、今度は左慈は羊の群れの中に逃げ込んでしまう。捕り手が「曹公は貴君を殺そうと思ってはおられません。ただ、貴君の術を試してみようというだけのお気持ちに過ぎません。今はもうそれもよぅく分りましたから、どうか、もう、ただただ、お目にかかりたいばかりで。」と下手に出て、油断させたところが、一疋の年取った牡羊が前脚を折り曲げ、人間のように立ち上がると、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と喋った。捕り手はすかさず、「あれが左慈だッツ!」と叫んで皆して競うようにその直立した牡羊のところへ走り寄ろうとしたところが、同時に数百の羊が、総て牡羊に変じて、同じように前脚を屈めながら、人のように後ろ足立ちし、それがまた同じように、「今までは殺す気だったのをやめて、許すって、か?」と声をそろえて喋った。そのために、結局、どれを捕縛すればよいか判らなくなってしまった、というメガトン級痛快エピソードでシメてある個人的にはこの羊のシークエンスが好きで好きでたまらないんである!。最後の評言は、老子の言葉をまず引く。「私が最も大きな患(わずら)いとしていることは、私に肉体があることである。私から肉体が無くなるに及べば、さても、私に何の憂いが残ろうものか。」。そうして、左慈もこのような境地に遠くない存在であったのではなかろうか、と締めくくっている(梗概には竹田晃氏訳の昭和三九(一九六四)年東洋文庫版「捜神記」を参考にした)。]

 

「今昔物語」の瓜の話はそれほど大規模なものではないが、多分「探神記」にある徐光の話から來てゐるのであらう。徐光は三國時代の呉に奄つて、種々の術を行つた者である。或家に瓜を乞うた時、主人が惜しんで與へなかつたので、それでは花を貰ひたいと云つた。地面に杖を立ててその花を植ゑたら、忽ち蔓が伸び、花開いて實を結ぶ。これを採つて自ら食ひ、見物人にも與へたことは「今昔物語」と同樣である。然る後商人がその瓜を採つて賣りに出たが、中身は全部空であつた。

[やぶちゃん注:以上は前の注で私が引いた「搜神記 第一卷」の左慈の話の後の三つ目にある徐光の逸話の前半部である。そこだけ引く。

   *

呉時有徐光者、嘗行術於市里。從人乞瓜、其主勿與、便從索瓣、杖地種之、俄而瓜生、蔓延、生花、成實、乃取食之、因賜觀者。鬻者反視所出賣、皆亡耗矣。

   *]

 

 この話が支那でも後になつて「聊齋志異」に入つた時は、瓜から梨に變つてゐた。卓に梨を積んで市に賣らうとする者に對し、道士が一顆を乞うたけれども、與へようとしない。道士は、一車數百顆のうちたゞ一顆を乞ふに過ぎぬのだと云ひ、傍人もまた小さいのを一つ遣つたらいゝぢやないか、と忠告したに拘らず、頑強に讓步せぬ。途に或者が錢を出して一箱を買ひ、それを道士に渡した。道士は大いに感謝の意を表し、吾々は決して物吝(をし)みはせぬ、これはあなたに上げませう、と云ふ。折角あるものを食べたらよからうと云つても、いや、私はこの種で梨を作り、それから澤山食べます、と云つて澄ましてゐる。種から芽を生じ、樹が茂つて實がなるまでの過程は、瓜の場合と變りがない。あるだけの實が衆人によつて食ひ盡されてしまふと、入念に樹を伐り倒し、枝葉の類を肩に据いで悠々と步み去つた。梨の持主も見物の中にまじつて、ぽかんとして道士の業(わざ)を見てゐたが、道士がゐなくなつてから車の上を見れば、あれだけ積んであつた梨が一つもない。そこに置いた手綱までがなくなつてゐる。憤然として迹を追はうとする時、ずたずたに切られた手綱が垣根の下に棄ててあるのが目に入つた。彼が入念に木を伐り倒すと見えたのは、この手綱を斷ち切つたのであつた。

 

 この話は徐光の話よりも「今昔物語」の方に似てゐる。梨の種を蒔く前にも、梨を食つてしまつた後にも、「今昔物語」にないものが加はつてゐるのは、あらゆる話が簡單より複雜に赴く一例と見てよからう。已に「搜神記」に徐光の話がある以上、「今昔物語」が逆輸入されて、「聊齋志異」の話になつたと解する必要もあるまいと思ふ。

[やぶちゃん注:「聊齋志異」のそれは「第一卷」の「種梨」。まず原文を示す。

   *

 

 種梨

 

 有郷人貨梨於市、頗甘芳、價騰貴。有道士破巾絮衣、丐於車前。郷人咄之、亦不去。郷人怒、加以叱罵。道士曰、「一車數百顆、老衲止丐其一、於居士亦無大損、何怒爲。」。觀者勸置劣者一枚令去、郷人執不肯。肆中傭保者、見喋聒不堪、遂出錢市一枚、付道士。道士拜謝、謂眾曰、「出家人不解吝惜。我有佳梨、請出供客。」。或曰、「既有之、何不自食。」。曰、「吾特需此核作種。」。於是掬梨大啗。且盡、把核於手、解肩上鑱、坎地深數寸、納之而覆以土。向市人索湯沃灌。好事者於臨路店索得沸瀋、道士接浸坎處。萬目攢視、見有勾萌出、漸大、俄成樹、枝葉扶疏;倏而花、倏而實、碩大芳馥、纍纍滿樹。道人乃即樹頭摘賜觀者、頃刻向盡。已、乃以鑱伐樹、丁丁良久、乃斷、帶葉荷肩頭、從容徐步而去。初、道士作法時、郷人亦雜眾中、引領注目、竟忘其業。道士既去、始顧車中、則梨已空矣。方悟適所俵散、皆己物也。又細視車上一靶亡、是新鑿斷者。心大憤恨。急跡之。轉過牆隅、則斷靶棄垣下、始知所伐梨本、即是物也。道士不知所在。一市粲然。

 異史氏曰、「郷人憒憒、憨狀可掬、其見笑於市人、有以哉。每見郷中稱素封者、良朋乞米則怫然、且計曰、『是數日之資也。』。或勸濟一危難、飯一煢獨、則又忿然計曰、『此十人、五人之食也。』。甚而父子兄弟、較盡錙銖。及至淫博迷心、則傾囊不吝、刀鋸臨頸、則贖命不遑。諸如此類、正不勝道、蠢爾郷人、又何足怪。」。

   *

次に例によって、遺愛の名訳柴田天馬氏のそれを示す。原文と天馬訳を見ると宵曲が説明を避けるために、論理的に翻案した箇所(瓜を貰った道士の台詞とその後)があることが判る。底本はいつもの通り、昭和五一(一九七六)年改版八版角川文庫版を用いた。注以下はポイント落ちで全体が二字下げである。

   *

 

 種梨(しゅり)

 

 郷(いなか)の人が梨を市で売っていた。たいそう甘くて芳(におい)がよかったから、たちまち値段が高くなった。すると破巾(やれずきん)、袈衣(やれぬのこ)の道士が、車の前に、もらいにきた。郷の人は叱ったが、道士は行かなかった。郷の人は怒って、ますますどなりつけた。すると道士は、

 「ひと車に数百顆(なんびゃく)とあるのじゃがな。老衲(ろうのう)は、その中の、たった一つをくださいというので、あんたにはたいした損でもないに、なぜ、そう怒りなさるのじゃ」

 と言った。見ている人たちが、劣者(わるいの)を一つやって行かせなさいと、すすめたけれど、郷(いなか)の人は聴かなかった。店の中にいた雇人は、やかましくて、たまらないので、とうとう銭を出して一つだけ買って道士にやった。すると道士は拝謝(おじぎ)をして、みんなに向かい、

 「出家人というものは、吝惜(けち)ということを知りませんのじゃ。わしに、よい梨がありますで、それを出して、お客さんがたに、あげたいと思いますじゃ」

 と言うので、ある人が、

 「あったら、なぜ自分で食わないんだ」

 と言うと、

 「わしは特に、この核をもらって、種にしようと思いましたからじゃ」

 と言って、梨を握って食ってしまい、その種を手に取ると、肩の鑱(すき)をおろして、地面を何寸か掘り、それを入れて土をかぶせ、市の人たちに向かって、かける湯をくれと言った。すると、好事者(ものずき)が路店買って熱い湯をもとめ、道士にやった。道士は、それを受けとって、掘った処を浸(ひた)た。みんなが見つめていると、勾(まが)った萠(め)が出て来る。だんだん大きくなる。にわかに樹となる。枝葉が茂る。たちまちにして花が咲く。たちまちにして実がなる。大きい芳馥(においのい)いのが、鈴なりに、なったのである。そこで道士は樹から摘みとり、見ている人たちに分けてやった。樹上の梨は、すぐになくなった。すると道士は鑱(すき)で樹を伐るのであったが、良久(しばらく)丁々(とんとん)やっているうちに、切れたので、葉のついたまま肩に荷い、静かに行ってしまった。

 初め、道士が法術をやりだした時、郷(いなか)の人も、やはり大ぜい中にまじって、首を長くして見入っていた。商売を忘れてしまっていたのである。道士が行ってしまってから車の中を見ると、梨は、もうなくなっていたので、いま俵散(わけてやっ)たのが、みんな自分の物であったのを、やっと悟ったのである。そして、よく見ると、車の靶(かじ)が一つ無くなっている。それは新たに切りとったものであった。たいそう、くやしがって、急いで迹をつけて行った。そして牆(へい)の隅(かど)を曲がると、切りとった靶が垣下(ねがた)に棄ててあった。で、道士の伐り倒した梨の木が、すなわち、これであったことを知った。道士の行くえはわからなかった。市じゅう粲然(おおわらい)をしたのである。

 

  注

 

一 衲は、ころも、のこと。それで僧のことを、衲子という。老衲は、年をとった僧という意。

二 詩の小雅に、伐木丁々、とある。丁々は、木を伐る音である。トウトウとよむ。

三 俵散とは、分ち与うることである、俵は、分つことで、たわらというのは、和訓である。

四 粲然とは、白歯を出して大笑することで、穀梁伝に「軍人みな粲然として笑う」とある。

 

   *

一つ、柴田宵曲の梗概訳で気になることがある。それは天馬氏が「靶(かじ)」と訳されている部分を宵曲は「手綱」(たづな)と訳している点である。「彼が入念に」梨の「木を伐り倒すと見えたの」が実はふにゃふにゃの手綱の繩だったというのは、おかしくはないだろうか? そこで調べてみると、この原文にある「靶」は、第一義が確かに牛や馬の引く車の「手綱」であるが、今一つ、そうした荷車・牛馬の牽引する車に乗る際に手を懸ける「握り」・「取っ手」・「柄」の意あったのである(因みに現代中国語では専ら、あの矢を射る同心円状の「的」の意)。そこで、はた! と私は膝を打ったのである。天馬氏の「かじ」というルビが腑に落ちたのである。これは、荷馬車の馭者台のような場所に乗り込む際に手を掛けるための「木製の取っ手」か、或いは手綱を引っ掛けておいて、それを引いて牛馬に進行や停止の合図を伝える「木製の棒状の楫(かじ)」なのではあるまいか? それなら小さくても「棒状でしっかりした木」であるからである。

 なお、「聊齋志異」の訳では辛気臭くてすこぶる人気がない、最後の作者蒲松齡の評言(天馬氏は思い切って一括割愛しておられる。事実、確かにだいたいが退屈な内容で、折角の志怪本文の面白さが殺がれる)は、

――まんまと騙された田舎者の愚かな様子が手にとるように見え、市中の人々に彼が笑われたのは当然と言うべきである。こうしたことはよく見かけることで、田舎の素封家と呼ばれる人が、朋輩から米を分けて呉れ頼まれると、渋面(しぶづら)をして、「これは、それ、○○日分にも相当する大事な糧(かて)だぞ!」と升(ます)でかっちり量っていやいや出すものである。或いは、災難に遇った人を援けるようにとか、貧しい者に飯を与えるように勧めると、やはり同じようにむっとして、「これは、これ、十人分、五人分に相当する大切な食物だぞ!」と升で量ってしぶしぶ出すものである。甚だしきは父や子や兄弟に対してですら、細かく算盤(そろばん)を弾きさえする。しかし、一たび、賭博や女色に溺れると、財布の底の塵まで払っても一向に平気なほどの浪費家になってしまい、そのために青龍刀や鋸を頸に当てられても命を贖う遑(いとま)もないほどに入れ込んでしまうのである。かくの如きの話の類いは、これもまた、数え上げるに、枚挙に遑がないほどに多く、この話も、かくも、ケチな田舎者の被ったことなればこそ、今さら、怪しむには足らぬことではないか。――

といった意味であろう。訳には所持する平凡社「中国古典文学大系」四十巻「聊斎志異 上」の松枝茂夫氏の訳を参考にしつつ、オリジナルに訳した。ここには漱石の「こゝろ」の「先生」のような田舎者に対する強い嫌悪感情が窺われ、作者の何かの私的な原体験に基づくトラウマがあるような感じがする点ではすこぶる興味深いとは言える。

 

南方熊楠 履歴書(その33) 金と法律に冥い我 そんな我を買う旧知

 

[やぶちゃん注:以下の一段落は、底本では全体が二字下げ。]

 

 催眠術などで御承知の通り、精神強固ならぬうちに尊長のいい聞かしたことは、後年までもその人の脳底に改革できざる印象を押し申し候。シベリアの土民間に、男にして女の心性なるもの多し。これは軍(いくさ)に勝った者が負けた者の命をとるべき処を宥しやり、その代りに以後きっと女になれと言い渡すなり。精神のたしかならざる土民のこととて、それより後は心性全く婦人に化し、一切男子相応の仕事はできず。庖厨(ほうちゅう)縫織(ほうしょく)等の業のみつとめ、はなはだしきは後庭を供して産門に代え、主人の慾を充たしめて平気なるに至る。小生は脳の堅固ならぬうちに、家が商売をするについて金のためにいろいろ人の苦しむを見、前状に申し上げしと思うが、自分の異母姉が博徒の妻となって、その博徒が金の無心に来て拘引されしなどを見、また父が常々、兄が裁判所にのみ出でて金を得て帰るを見て、法律法律というものは人情がなくなる、金を儲(もう)くることが上手でも必ず人望を失うてついには破滅すべしと誨(おし)えしを、幼き脳底に印したので、金銭と法律には至って迂遠(うえん)なるが一つの大玼(たいし)(?)に御座候。研究所を企てるに及んでより、止むを得ず金銭や法律のことをも多少懸念するに至りしも、ほんの用心を加うるというばかりで、このごろの金慾万能の舎弟その他より見れば、まるのおぼうさんたるは論なし。これがために一歎もすれば、また自分の幸福かとも悦び申し候。小生は口も筆も鋭く、ずいぶん人をこまらせたること多き男なれども、今に全く人に見棄てられず。一昨々年三十六年めで上京せし時も、旧知内田康哉伯(当時の外務大臣)、岡崎邦輔氏ら、みな多少以前に迷惑をしたことのある人々なれども、左様の顔をもせず紀州の名物男を保存すべしとてそれぞれ出資され、ことには郵船会社の中島滋太郎氏を始め、旧友という旧友斉(ひと)しく尽力して寄付金を募(つの)り贈られ申し候。(四十七円もち汽車中で牛乳二本のみしのみで上り、三万三千円ばかり持ち帰り申し候。)明智光秀というは主君を弑(しい)した不道の男なり。かつ最期の戟争のやり方ははなはだ拙(つた)なかりし。武勇の甥、明智左馬之介をして、あったところが何の役にも立たぬわずかの軍勢を分かち率いて空しく安土の城を守らせたるがごとし。しかるに山崎の一戦に、その将士はことごとく枕を並べて討死致し候。四方天、並河、内藤を始め、いずれも以前光秀とは敵たりしが止むを得ず降参せし人々なり。それにその人々が一人も背(そむ)かずまた遁れずに光秀のために討死致し候。小生は善悪ともにとても光秀の比較にならぬ男ながら、右申す通り、多くの人々が三十余年、二十余年の後も旧交を念じ、旧怨を捨てて尽力下されしは、小生が金銭と法律のことにあまり明るからざるよりの一得(いつとく)かと存じ申し候。その時集まりし金に本山彦一氏よりの五千円の寄付を合わせて、今も三万九千余円は少しも減らさず、預け有之候。小生の弟は多額納税者ながら三年立ちし四年めの今日まで約束の二万円を出さず、また親戚どもより集まったはずの五千円も寄せくれず。これはやはり小生が金銭と法律に明るからざるの損に御座候。一得一失は免れざるものにやと存じ候。西洋では親が子を罵ることを大いに忌み候。ドイツの昔話に、父が子供三人にみなろくなものなし、烏になれといいしに、たちまち烏と化し飛び去った話あり。笑談にはあらざるも、女になれと言われて女になることもあれば、よりどころなきにあらず。

[やぶちゃん注:「シベリアの土民間に、男にして女の心性なるもの多し」不詳。南方熊楠以外でこのことを記す書や記録或いは文書があれば、是非、御教授戴きたい。大変、興味がある。

「精神のたしかならざる土民のこととて」原本は「たしかならざる」が「たしかなる土民」となっている。底本の編者訂正挿入を正しいと判断して、以上に変更した。

「後庭」肛門。

「産門」膣。

「前状に申し上げしと思うが、自分の異母姉が博徒の妻となって、その博徒が金の無心に来て拘引されしなどを見」この「前状」とは、以前に矢吹に出した手紙を指すのであろう(私は全集を所持しないので確認は出来ない)。この書簡の前の部分には南方熊楠の「異母姉」の以下の事柄は書かれていない。というより、この「異母姉」の存在自体が判らない。私の所持するものにはその記載が全くないからである(熊楠には姉に南方(婚姻して垣内)くま(文久四・元治元(一八六四)年~大正一三(一九二四)年)がいるが、彼女はサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、『熊楠より三歳年上で』『熊楠の同腹の姉』であるとあり(因みに熊楠は彼女の美貌であることを再三再四自慢している)、くまの夫は推定ながら、医師であり、二人の間に出来た倅(せがれ)も熊楠の書簡(大正一二(一九二三)年九月十六日附田村広恵宛書簡)によれば『東大出の医博』で『今は和歌山にて私立病院を営な』んでいる、とあるから、全然違う)。識者の御教授を乞う。

「大玼(たいし)」「玼」は「傷(きず)」。大きな瑕疵(かし)。

「まるの」まるっきりの。まるのまんまの。

「一昨々年三十六年めで上京せし時」本書簡は大正一四(一九二五)年二月の執筆で、南方熊楠が南方植物研究所設立のための資金集めのために上京したのは、大正一一(一九二二)年三月から八月(但し、その間の七月十七日から八月七日までは上松蓊を伴って日光に採集に行っている)である。この上京から三十六年前は明治一九(一八八六)年で、この年の二月に熊楠は体調不良(精神変調)により東京大学予備門を退学して和歌山に帰った年に当たる(熊楠は明治十六年に和歌山中学を卒業して上京、共立学校で高橋是清に英語を学び、翌年九月に東京大学予備門に合格して入学するも、翌明治十八年十二月の試験で落第していた)。因みに、その明治十九年の十月には父兄から外遊の許可を得、年末の十二月二十二日に横浜より渡米の途に就いている。

「内田康哉伯(当時の外務大臣)」外交官で政治家の伯爵内田康哉(こうさい/やすや 慶応元(一八六五)年~昭和一一(一九三六)年)は明治・大正・昭和の三代に亙って外務大臣を務めた唯一の人物で、外相在職期間は通算七年五ヶ月に及び、これは現在に至るまで最長の記録である。年次経歴は判らないが、ウィキの「内田康哉によれば、『東京帝国大学法科卒業後に外務省に入省し、ロンドン公使館』に勤務していること、生年とウィキに書かれたその後の経歴及び南方熊楠が「旧知」と言っていること等から推すと、熊楠のロンドン滞在中に知り合ったものと考えてよいように思われる。

「岡崎邦輔」既注であるが、今回はサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの長谷川興蔵氏の解説から熊楠との関連箇所を中心に引いておく。『岡崎邦輔(旧姓長坂)は和歌山県出身で、明治~昭和期の政党政治家である。陸奥宗光の子分かつ分身として出発し、星亨の懐刀、原敬の片腕として活躍し、立憲政友会の領袖として、衆議院議員当選十回、勅選貴族院議員の略歴をもつ。今日あまりその名が知られていないのは、表舞台に立つことを避け(大臣は、農林大臣に一度なっただけである)、もっぱら党務に専念したからであろう。そのため謀士・策士と呼ばれる一方、私欲のない高潔の士とも評された。もとより和歌山県選出議員であるから、その点で熊楠との関わりはある。しかし二人がもっとも緊密に交際したのは、アメリカのアンナーバー時代』(南方熊楠は一八八八(明治二一)年十一月にミシガン州立農科大学を自主退学(既に述べられた通り、学寮から遁走したのが事実)してアンナーバーに赴き、地衣類や菌類の採集などに専念しつつ、ミシガン大学の日本人留学生とも親しく交際した。但し、彼自身は大学等には入学していない)(『――それも喧嘩相手としてであった』。『岡崎邦輔は』『紀州藩士長坂角弥の次男として生まれた』。『邦輔の母は陸奥宗光の母の妹で、邦輔は十歳も年長の従兄を終生尊敬した。維新後、明治六年には陸奥を頼って上京し、陸奥邸の食客となり、いくつかの役所に出仕したが、明治十一年には郷里和歌山に帰り、警察関係の職務に就いた。十三年には和歌山警察署長になったが、博徒との付き合いが原因となって、翌年十一月免職となった。熊楠はアンナーバー時代、邦輔攻撃の武器としてこの「経歴」をさかんに使っている』。明治二一(一八八八)年に『陸奥が駐米全権公使として渡米した』が、この時、『邦輔も随行した。陸奥は秘書として使うことも考えたようであるが、当時三十六歳の邦輔は英語の読み書きも会話もできなかったので、日本人留学生の最も多かったアンナーバーのミシガン大学に留学することになった』(下線やぶちゃん)。陸奥は『邦輔の「才機」を相当高く買っていて、新しく開かれる議会に送り込む考えを持っていたこと、ミシガン大学の学資も陸奥が出し、川田甕江の娘婿の杉山令吉(熊楠と同船同室で渡米、当時ミシガン大学に留学)に世話を依頼する手紙を書いていることなど』が、『史料的に明らかにされている。ただ、まず小学校初年級に入り、ABCから勉強をはじめたというから、本当に大学に入学したのかどうかも定かではな』く、現在では、『ミシガン大学卒業とあるが、正規の大学課程ではなく、なんらかの特別コースで』で『もあったのであろう』と考えられている(どこかの総理大臣と全く以って同んなじ経歴詐称の臭いがするのは嗅覚を消失した私にさえ嗅げる)。『いずれにせよ、こうして熊楠と邦輔との接点が生じた』。『アンナーバーにおける熊楠と邦輔との対立と確執については『珍事評論』の項を参照されたい』(同じくサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内の長谷川興蔵氏の『「珍事評論』の撃つもの― 第弐号をめぐって ―」の「V アナバーの対立と確執」の箇所に詳しい。なお、以下省略したミシガン大学を舞台にした日本人留学生の禁酒決議についても、その論文を参照されたい)。その後、岡崎も南方も帰国し、それぞれの道を歩んだが、大正一一(一九二二)年に『植物研究所資金募集のため上京した熊楠は、岡崎と三十年をこえる歳月をはさんで再会した。岡崎は快く寄付に応じ、熊楠も如才なく、色好みの岡崎のために処女を喜ばせる話などをしてサービスしている。以後若干の文通をのぞいて、両者の交遊には語るべきほどのことはない』とある。

「中島滋太郎」(安政七・万延元年(一八六〇)年~昭和一四(一九三九)年)は恐らくこの当時は日本郵船会社重役であったか。彼のことも「旧友」と述べており、中島は日本郵船会社のロンドン駐在員であったことがあるから、そこで或いは知り合っていたかも知れぬが、それ以前の、南方熊楠の外遊前の和歌山出身の友人として熊楠との同性愛的関係にあったと目される羽山繁太郎(はやましげたろう 慶応二(一八六六)年~明治二一(一八八八)年:熊楠より一つ年上)・蕃次郎(はんじろう 明治四(一八七一)年~明治二九(一八九六)年:熊楠より四つ歳下)なる兄弟(没年で判る通り、孰れも夭折している)がいるが、その弟羽山蕃次郎はこの中島と共立学校時代の友人であったとサイト「南方熊楠のキャラメル箱」のこちらの記載にあるが、この「共立学校」は熊楠が明治一六(一八八六)年に上京して英語を学んだ学校であるが、所持する「南方熊楠を知る事典」の羽山兄弟の記載中の南方自身の記述(昭和六(一九三一)年八月二十一日附岩田準一宛書簡)によれば、熊楠が弟蕃次郎と最後に別れた時、彼は十六歳であったとあり(この年齢から考えてこれは熊楠渡米の年明治一九(一八八六)年である)、熊楠が上京して共立学校に学んだ頃は、蕃次郎は未だ満十二歳であるから、同じ時期に蕃次郎がいたわけではなく、「南方熊楠のキャラメル箱」の記載を信ずるなら、中島は熊楠より三つ年上、蕃次郎に至っては十一も年上であるけれども、蕃次郎と共立学校で同窓であったということなのであろう(この時代、これだけの年齢差で同窓というのはそれほどおかしくはない)。

「甥、明智左馬之介」明智秀満(ひでみつ 天文五(一五三六)年?~天正一〇(一五八二)年)明智光秀の重臣。娘婿又は従弟(光秀の父光綱の弟で、幼き日の光秀の後見人であった明智光安の、子)とも言われるが、異説が多い。ウィキの「明智秀満によれば(明智出自説及び娘婿説で事蹟は書かれてある)、『明智嫡流だった明智光秀の後見として、長山城にいた父・光安に従っていたが』、弘治二(一五五六)年に『斎藤道三と斎藤義龍の争いに敗北した道三方に加担したため、義龍方に攻められ落城。その際に父は自害したが、秀満は光秀らとともに城を脱出し浪人となったとする』。天正六(一五七八)年以降に『光秀の娘を妻に迎えている』。『彼女は荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいたが、村重が織田信長に謀反を起こしたため』、『離縁されていた』。『その後、秀満は明智姓を名乗るが、それを文書的に確認できるのは』、天正一〇(一五八二)年四月である。天正九年、丹波福知山城代となっている。『光秀が織田信長を討った本能寺の変』(天正十年六月二日(グレゴリオ暦一五八二年六月二十一日/グレゴリオ暦はこの年の二月二十四日に改定された)『では先鋒となって京都の本能寺を襲撃した。その後、安土城の守備に就き、羽柴秀吉との山崎の戦いでは光秀の後詰めとして打ち出浜で堀秀政と戦うが敗れ、坂本城に入った』。『秀吉方の堀秀政軍に城を囲まれた秀満は、光秀が所有する天下の名物・財宝を城と運命を共にさせる事は忍びないと考え、それら名物をまとめて目録を添え、天守閣から敵勢のいる所に降ろした。そして「寄せ手の人々に申し上げる。堀監物殿にこれを渡されよ。この道具は私物化してはならない天下の道具である。ここで滅してしまえば、この弥平次を傍若無人と思うであろうから、お渡し申す」と叫んだ(『川角太閤記』)。しばらくの後、直政と秀政が現れ「目録の通り、確かに相違ござらぬ。しかし日頃、光秀殿が御秘蔵されていた倶利伽羅の吉広江の脇差がござらぬのは、如何いたしたのか」と返すと「その道具は信長公から光秀が拝領した道具でござる。吉広江の脇差は貴殿もご存じの如く、越前を落とした際に朝倉殿の御物奉行が身に差していたもので、後に光秀が密かに聞き出し、これを求めて置かれたもの。お渡ししたくはあるが、光秀が命もろともにと、内々に秘蔵されていたものなので、我が腰に差して、光秀に死出の山でお渡ししたく思う。この事は御心得あれ」と秀満は返事し、秀政・直政らも納得した』。六月十五日の夜、『秀満は光秀秘蔵の脇差を差したまま、光秀の妻子、並びに自らの正室を刺し殺し』或いは『介錯し、自ら城に火を放って自害したとされる』とある。出自の異説などはリンク先を見られたい。

「四方天」明智光秀の四天王の一人、四方天政孝(しほうてん/しほうでん ?~天正一〇(一五八二)年)。本能寺の変の後、同年六月山崎の戦いで加藤清正に討たれ、光秀に先んじて亡くなっている。

「並河」並河易家(なみかわやすいえ 生没年不詳)光秀家臣。ウィキの「並河易家によれば、『丹波国亀岡の豪族で、並河城(在・京都府亀岡市大井町並河)の城主と』いわれ、当初は『丹波亀山城主内藤五郎兵衛忠行の家臣』であったが、元亀四(一五七三)年『頃より、信長の丹波侵攻へ協力し、光秀に丹波衆の一人として従うようになった』。天正四(一五七六)年一月、『丹波の赤鬼・赤井直正の策にかかり、波多野秀治が別心、光秀は大敗し、坂本を指して落ち』のびたが、『この時、易家は、松田太郎左衛門』らとともに『案内者を勤め』、『光秀は並河一族の案内でかろうじて丹波を脱出できた』。天正五(一五七七)年、『亀山城主内藤備前守定政が卒去。光秀・長岡忠興(細川忠興)が』、同年十月十六日から『三日三晩亀山城を攻めて降参させ、内藤の家人は光秀の旗下に属した。この時、易家も随ったという』。以後、光秀の腹心として働き、本能寺の変の後、『山崎の戦いでは明智軍右翼先陣として息子の八助と共に出陣した。山ノ手で、堀久太郎(堀秀政)、浅野弾正(浅野長政)父子等と激戦となり』、激戦を展開、五百余人を討ち取ったとされる。『其の後、討死にしたとも、生き延びて、秀吉より大坂で扶助を受け、摂津国で病死した』ともされる。

「内藤」不詳。本能寺の変を受けて、備中高松城の攻城戦から引き返してきた羽柴秀吉軍が天正十年六月十三日(一五八二年七月二日)に摂津国と山城国の境の山崎(現在の大阪府三島郡島本町(しまもとちょう)山崎及び京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町(おおやまざきちょう))に於いて光秀軍と激突した山崎の戦いの、調べた限りでは、明智方には内藤姓は見当たらない。或いは前の並河易家の仕えた内藤家を誤認したものか?

「本山彦一」当時の大阪毎日新聞社長本山彦一(もとやまひこいち 嘉永六(一八五三)年~昭和七(一九三二)年)。東京日日新聞を合併して現在の毎日新聞の祖を作った。後に貴族院勅選議員ともなっている。

「ドイツの昔話に、父が子供三人にみなろくなものなし、烏になれといいしに、たちまち烏と化し飛び去った話あり」グリム童話で知られる「七羽のカラス」。福娘氏のサイト「福娘童話集」の「きょうの世界昔話」の七羽のカラス及びドイツ語対訳になっているをリンクさせておく。]

 

復活した耶蘇の話   萩原朔太郎

 

  復活した耶蘇の話

 

 山から降りて來た時に、耶蘇は全く疲れきつて居た。數時間に亙る必死の祈禱も、彼の空虛の心を充たすことができなかつた。重たい疲れた足を引きずりながら、傷だらけになつた耶蘇の心が、麓の方へ步いて來た時、午後の日光は大地に照りつけ、赭土の上に輝いて居た。そこには弟子のぺテロが寢て居た。ベテロは師の歸りを待つてる中に、何時しか寢入つてしまつたのである。耶蘇はその姿を悲しく眺めた。生死の境に立つてる自分が、最後の祈禱をして居る間、吞氣にも心地よく眠つてる弟子の姿が、悲しくもまた羨ましく思はれた。

「その心は願ふなれども、肉體弱きなり。」

 と、耶蘇はペテロに言ふのでもなく、獨り言のやうにつぶやいた。その言葉の深い意味には、彼自身に對する憐憫と寂寥がこめられて居た。

 

 耶蘇はこの頃になつてから、自分の破滅が近づいてることを直覺した。民衆は彼を羅馬人に訴へた。法律によつて私刑が禁じられてなかつたら、羅馬の裁判に訴へる前に、寧ろ民衆自身の手で殺したかつたのであらう。耶蘇はその民衆の怒りをよく知つて居た。なぜなら民衆の求めた神は、耶蘇の説く神とはおよそ正反對の神であつた。民衆は何よりも自由と獨立を欲求して居た。エヂプト人や羅馬人やによつて、その民族の故國を奪はれ、奴隷として長く逆壓されて居た猶太人等は、彼等に約束されてる新約の神の姿を、あの怒りと復讐の神である舊約のエホバに眺めた。エホバの子がもし眞にエホバの子であるならば、火と電光によつて彼等の敵(惡むべき暴虐者共)を擊滅し、地上に於ける猶大人の復讐を完成してくれなければならない筈だ。すべての猶太人等が、火のやうに渇き求めて居るキリストはそれであつた。所で耶蘇は、彼等に無抵抗主義の愛を教へた。「カイゼルの物はカイゼルに返せ。」不幸な隷屬者としての猶太人等は、永久に隷屬者としての宿命を天に約束されて居るのである。耶蘇がもし眞に新約のキリストだつたら、猶太人のあらゆる歷史的熱望は水泡である。耶蘇を殺さなかつたら、猶太人の夢が死んでしまふ。

 耶蘇は死を恐れなかつた。だが彼は近頃になつて、肉體の疲勞の加つて來ることを強く感じた。彼の年齡はまだ若かつた。しかし彼の過去の戰ひは、長くそして苦しかつた。至るところに、彼はその強大な敵を持つて居た。パリサイの學者と、僞善者と、猶太の愛國者と、民族主義者と。そして實に猶太人全體でさへもあつた。彼は自身の弟子のことを考へて寂しくなつた。ペテロも、ヨハネも、ヤコブも、無知な漁師の素朴性から、單に彼の奇蹟を信じて居るにすぎないのである。そしてこれだけが彼の全體の味方なのだ。この頃になつて、耶蘇は戰ふことに疲れて來た。或る夜の夢では、猶太人の氏神であるエホバが、民衆と共に彼を怒つてる幻さへ見た。そのエホバは戰車に乘り、萬軍をひきゐて羅馬人等と戰つて居た。

 

 耶蘇はマリアのことを考へて居た。星のやうな明瞭と、胡麻色の髮毛とを持つた若い娘は、耶蘇の魂にとつての音樂だつた。心のひどく疲れた時、絶望的な懷疑に惱んだ時、耶蘇はいつもマリアの所へ歸つて來た。マリアは彼の心の「休息」だつた。その外のどんな世界も、耶蘇に休息をあたへなかつた。美しいマリアは、疲れ傷ついてる耶蘇の額に、いつも優しい接吻をした。

 耶蘇はまたマリアの家で、近頃した宴會のことを思ひ出した。十二人の弟子の外に、美しいマリアが列つて居た。もう一人の女、マリアの姉は臺所で働いて居た。耶蘇は絶えず酒盃を乾し、元氣に愉快らしく話をして居た。その間中、マリアは耶蘇の側に寄りそひ、さも樂しげに男の顏を眺めて居た。耶蘇の高い秀麗な鼻、貴族的な廣い額、縮れた金色の髮毛。すべて皆マリアにとつての夢想的な歎美であつた。耶蘇の語るすべての言葉は、詩か音樂か何かのやうに、彼女の耳に恍惚として聽えるのだつた。

「お前つたら。何だね。側にばかり食つ付いて居て、少しはお料理の方も手傳つてくれないの。私一人で働いてるのに。」

 と、その時臺所から出て來た姉娘が、少しは嫉妬も混つてマリアに言つた。

「はふつておけ。俺は自分の爲に料理をこしらへてくれる親切より、俺の話を聽きたがる女の方が嬉しいのだ。」

 と耶蘇が言つた。うら若いマリアにとつて、耶蘇の言葉は愛の表現のやうに感じられた。彼女は興奮して立ち上り、卓上の美しい花瓶を兩手に抱いた。その花瓶の中には、アラビアの高貴な香油が充たしてあつた。マリアはそれを耶蘇の身體にふりかけた。

 目ざめるやうな百合の匂ひが、部屋中いつぱいにむせ返つて、異常な昂奮が人々の心を捉へた。

「馬鹿な眞似をするなツ。」

 と、隅の椅子の上からユダが叫んだ。

「世には貧乏人が澤山居るのだ。そんな贅澤な眞似をするなら、何故その金で飢ゑてる者を救はないのだ。」

 ユダの言葉の深い意味は、耶蘇によく解つて居た。民衆の求めてるものは愛でなくて復讐なのだ。その上に彼等は空腹で飢ゑて居るのだ。「先づパンをあたへよ。次に自由と平等の權利をあたへよ。然る後に汝の勝手な福音を説け」と彼等は叫ぶ。眞に民衆を救ふものは、靈の永生を説く宗教でなくして、物質の平等と革命を約束する、經濟上の法則であるかも知れない。ユダは耶蘇一行の財政を處理してゐたところの、唯一の弟子中での經濟學者であつた。

 ユダの思想は、いつも耶蘇の心を暗く寂しくした。彼は自分の福音を本質的に懷疑して居る。いつか自分の死後に於て、ユダは第二のキリストとなるだらう。自分の基督教は早く亡びる。だがユダの基督教は長く殘る。ユダは自分の福音を敵に賣り、地下にも長く耶蘇教の敵となるであらう。

 耶蘇は悲しくなつて目を伏せた。そして過失を犯した罪人のやうに、小さくおどおどして居るマリアの方へ、侘しく力のない視線をやりながら。

「許してやれ。こんな純情な若い娘を、皆であまり苛めるな。」

 と彼自身を憫むやうにつぶやいた。それから肉叉(フオーク)に肉を刺して、ユダの口へ入れながら、そつと耳元で囁いた。

「行け。敵に俺を賣つて來い。」

 

 ゴルゴタの砂丘の上に、三つの十字架が立てられて居た。その眞中の一つに耶蘇が架けられて居た。太陽は空に輝き、砂丘には白い陽炎が燃えて居た。耶蘇は肋骨から血を流して居た。兵卒は槍の先に海綿つけ、酢を含ませて耶蘇の口にあてがつた。それでもしかし、彼の烈しい渇きと苦痛は止まなかつた。

「これで俺は死ぬのか。だが死ぬといふ筈は絶對にない。俺は神から永遠の生命を約束されてる。俺が死ぬといふ筈は決してないのだ。いや、俺は死なない。俺は死といふ事實を承諾しないのだ。」

 耶蘇は恐ろしい意志の力を集中して、最後まで死と戰はうとして抗爭した。なぜならその死の實在する彼岸には、何もない虛無の暗黑が見えて來たから。彼は齒を喰ひしばつて苦痛に耐へ、意識を把持しようとして焦燥した。だが夜の闇が近づく頃に、彼の意識もまた次第に暗くかげつて行つた。

「えり。えり。らまさばくたに!」

 と、最後の殘された意志を集中して、引き裂くやうに烈しく絶叫した。その言葉の意味は「神よ。何ぞ我れを捨て給ふや。」といふのであつた。奇蹟は遂に起らなかつた。夜が靜かに更けて、星が空に輝やいて居た。

 仄かな薄暮のやうな意識が、長く墓石の下で持續して居た。耶蘇の呼吸は止つたけれども、彼の張りつめた意識だけが、地下に眠る冬眠の蛇のやうに、微かな明暗の境を彷徨して居た。耶蘇は墓場の下で生きて居たのであつた。

 初めはただ暗黑だつた。それから薄明のやうな日影が漂つて居た。

 「何故だ? 何故俺は蛇のやうに、こんな暗い地下に寢て居るのだらう。」

 と、その薄明の意識の中で、耶蘇は薄ら侘しく考へて居た。何といふ理由もなしに、存在することそれ自身が悲しかつた。彼は聲をあげて泣きたかつた。或る形而上學的な、それで居て本能的な強い悲しみが、胸をえぐるやうにせきこんで來た。「何がこんなに悲しいんだ?」と、彼は自身に反問した。そしてこの反問自身がまた悲しかつた。歔欷の情が喉の下までこみあげて來て、押へることが出來なかつた。夢の中の泣聲みたいに、聲は音響に現れなかつた。そしてただ淚だけが、顏中いちめんを濡らして流れ出し、止めやうもなく後から後からと湧くのであつた。

「此虚は何處だ? 俺は一體どうして居るのだ。何がこんなにも悲しいのだ?」

 と、再度また繰返して考へてみた。

「過去の地上に居た時の生活だらうか? あの民衆に對する敗れた戰ひの記憶だらうか? それとも信仰に對する自分の傷ついた懷疑だらうか? 否。ちがふ。ちがふ。もつと外の別の物だ。何か、もつと深く、曖昧で、俺の感情に食ひ込んでる別の物だ。」

 けれども認識を捕へることが出來なかつた。耶蘇の知つてるすべての事は、すべての現象する宇宙の中で、悲哀だけが實在するといふことだつた。そしてこれだけが、實にまざまざとはつきりした事實であつた。

 薄暮の仄明るい光の中で、何處か遠く遙かな方から、女のすすり泣くやうな聲が聽えた。その悲しげな女の聲が、宇宙に實在する本質の物、卽ち彼の悲哀の神祕を解きあかしてくれるやうに思はれた。耶蘇は墓の下で耳を澄まして居た。

 一筋の微かな光が、糸のやうにさまよつて居た。長い長い時間が過ぎた。それから次第に明るくなり、地下の暗闇の中の穴にも、幽かな黎明の氣合ひがした。

「死んではいや。死んではいや。」

 耶蘇が墓場から生き返つた時、一人の女が彼の側で泣き崩れて居た。それはマグダラのマリアであつた。彼女は淚に顏を濡らしながら、流血にまみれた耶蘇の體を兩手に抱き、烈しい接吻の雨をあびせて泣き悶えて居るのであつた。

「マリアよ。泣くな。俺は生きてる。生きてるのだ。」

 耶蘇の聲は、しかし女の耳に通じなかつた。なぜなら彼の聲は喉からでなく、肉體以外の別な靈的意識から出たのであるから。死して三日目に蘇生(よみがへ)つた耶蘇キリストは、その血まみれな死骸のままで、かうして永遠に女の手に抱かれて居たのであつた。アメン。

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年六月号『若草』初出。昭和一一(一九三六)年五月発行の「廊下と室房」に収録された。昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第九卷」を底本とし、校異によって、初出にあったが、「廊下と室房」所収の際に削除された、最後の「アメン」を再現した。]

休息のない人生   萩原朔太郎

 

  休息のない人生

 

 いつか橫須賀の造船所を見物した。大きい小さい、無數のベルトが天井から𢌞轉して、鋼鐡の巨大な機械が、無氣味な生物のやうに動いて居た。技師の説明によると、その中の或る機械は、晝夜不休で三年間も働き通して居るさうである。私はそれを聞いて悲しくなつた。

 

 文學者の大きな悲哀は、孤獨の寂寥でもなく貧乏でもない。實に「休息がない」といふ一事である。普通の社會人の生活では、事務の時間と休息とが別れて居る。會社から歸つたサラリイマンは、和服に着換へて湯に入り、それから子供や妻を對手にして團欒する。最も烈しい勞働者でさへも、夜は一杯の燒酎を飮んで安眠する。然るに文學者の生活には、どこにもさうした休息がなく、夜の安眠さへも自由でない。と言ふのは、筆を取る時間のことを意味するのではない。原稿紙に向つて、文士が筆を取る時間などと言ふものは、一生の中のごく僅かな時間にすぎない。特に詩人などいふ連中は、生涯に二册か三册位の詩集しか書かず、机に向ふ時間なんていふものは、殆ど言ふに足りないほどである。(だから世間は、彼等を怠け物の大將だと思つてゐる)詩人は十年考へて一册の詩集を書くと言はれて居る。だが普通の文學者も皆同樣であり、原稿紙に物を書くのは、平常既に考へて居ることの筆寫にすぎない。文士がペンを取る時間は、むしろ勞働でなくて休息である。文學者の烈しい苦しみは、世間が目して「のらくら遊んでゐる」と見るところの、不斷の生活の中にあるのである。

 

 ドンキホーテといふ騎士は、世に正義の行はれないことを憂へて、夜も眠らず不眠不休で旅をしてゐた。文學者の憂ふるところは、もとよりドンキホーテの憂ひではない。しかしながら彼等もまた、人生の眞實相や、社會の矛盾相や、彼自身の中の爭鬪や、性格の悲劇する樣々の宿命やに就いて、夜も安眠ができないほど、晝夜をわかたず眞劍に考へてる。否「考へて居る」のではなく、正しくは「思ひ感じて居る」のであり、それ故により多く神經が疲れて苦しいのである。そしてこの苦しい「休息のない生活」からのみ、すべての善き文學が生れて來る。

 世に道の行はれないことを憂へて、支那の曠野を漂泊して居た孔子が、或る時河のほとりに立つて言つた。「行くものはかくの如きか。晝夜をわかたず。」と。この孔子の言葉には、無限の深い嘆息が含まれて居る。だが文學者の嘆息は、もつと悲しい宿命的の響きを持つてる。ああ人と生れて思ふことは、百度も悲しく文學者たりしことの悔恨である。

 

[やぶちゃん注:昭和九(一九三四)年十二月十三日附『國民新聞』初出。昭和一一(一九三六)年五月発行の「廊下と室房」に収録されたが、その際、「(だから世間は、彼等を怠け物の大將だと思つてゐる)」は削除されている。昭和五一(一九七六)年筑摩書房刊「萩原朔太郎全集 第九卷」を底本とし、校異によって初出を再現した。]

2017/05/13

柴田宵曲 續妖異博物館 「關屋の夢」

 

 關屋の夢

 

 惟孝親王の下家司(しもけいし)に常澄安永といふ者があつた。宮家の領地の事で何年か上野國に行つて居つたが、久しぶりに京へ歸ることになつて、美濃の不破の關までやつて來た。安永は最愛の妻が都に殘してある。その妻のことなどを思ひやりながら、關屋に一宿すると都とおぼしき方角から松明をともして來る者がある。漸く近付いたのを見れば、それは男女の二人連れで、一人は童、一人は我が最愛の妻に相違ない。二人は同じ關屋に宿を取つたが、壁を隔ててゐるので、向うでは氣が付かぬらしく、鍋を取り寄せて飯を炊き、童と並んで睦まじく食事をしてゐる。さては自分の居らぬ間にこの童と夫婦になつたかと思ふと、次第に我慢出來なくなつて、たうとう二人のゐるところへ躍り込んだ。途端に一切は消え失せ、寂然たる關屋に見た一場の夢とわかつたが、何分妻の上が心許なく、夜が明けると共に出立し、晝夜兼行の形で京に著いた。妻は何事もなくよろこび迎へ、別れてゐた間の事を何くれと話すうちに、妻の方から昨夜見た夢の話をした。全然見知らぬ童と二人、どことも知らぬところへ行き、がらんとした家の中に入り、食事をして寢たと思つたら、あなたが急に出て來たので、驚いて目がさめた、何でこんな夢を見たものか、不思議で堪らなかつたが、思びがけずあなたが今日お歸りになつたのです、といふ。安永も關屋の夢の話をして、お互ひに不思議がつたといふに了つてゐる。

[やぶちゃん注:「惟孝親王」御不審の向きがあると思うの言っておくと、後に示す原典のママで、これは「惟喬親王」(これたかしんわう)の原典の誤りである。文徳天皇の第一皇子惟喬親王(承和一一(八四四)年~寛平九(八九七)年)。母は紀名虎の娘静子で、当初は皇太子になる予定であったが、母が紀氏の出で後ろ盾が弱かったことと、嘉祥三(八五〇)年に右大臣藤原良房の娘明子に惟仁親王(後の清和天皇)が生れたため、この皇太子即位は夢と消えた。天安二(八五八)年に大宰帥、その後に弾正尹・常陸太守を経、貞観一四(八七二)年に上野太守となったのを最後に、病いを得て出家し、比叡山山麓の小野に幽居した。そこから「小野の宮」とも称し、法名を「素覚」と言った。詩歌に長じ、在原業平とも親交があり(業平は惟喬親王の母方の姪婿)、「伊勢物語」にも登場する。木地師の全国的な伝承によれば、隠棲中に木工技術を伝えたとして「木地師の祖」とされる。

「下家司」「しもけいし」。親王や公卿の家に置かれた職員を「家司」と称し、その中でも六位・七位の下級の者をかく呼んだ。

「美濃の不破の關」現在の岐阜県不破郡関ヶ原町(ちょう)にあった関所であるが、天武天皇二(六七三)年に置かれ、百十四年後の延暦六(七八七)年に廃止されており、ここでは既に関所跡である。

 以下の段落(行が孰れも詰っているが、私は改行があるものと判断して独立段落とした。今までの宵曲の書き癖からみてまず間違いないと思う)。で示される通り、これは、「今昔物語集」の「卷第三十一」の「常澄安永於不破關夢見語第九」(常澄(つねずみ)の安永(やすなが)不破の關にして夢を見る語(こと)第九)である。但し、宵曲は妻と童子のコイツスの場面を訳出していない

   *

 今は昔、常澄の安永と云ふ者有りけり。此れは、惟孝の親王(みこ)と申しける人の下家司(しもけいし)にてなむ有りける。其れに、安永、其の宮の封戸(ふこ)[やぶちゃん注:親王以下、諸臣の官位や勲功に応じて配分された農民世帯。租の半分(時には全部)と庸と調の総てが当該給与者への所得となった。]を徴(はた)らむ[やぶちゃん注:徴収せん。]が爲に、上野(かむづけ)の國に行きにけり。然(さ)て、年月を經て返り上(のぼ)けるに、美濃國不破の關に宿しぬ。

 而る間、安永、京に年若き妻(め)の有りけるを、月來(つきごろ)[やぶちゃん注:数ヶ月前に。]、國に下ける時より、極めて不審(いぶか)しく[やぶちゃん注:気懸りに。]思ひけるに合せて、俄かに極(いみ)じく戀しく思えける。

「何(いか)なる事の有るならむ。夜(よ)、明けば、疾(と)く急ぎ行かむ。」

と思ひて、關屋[やぶちゃん注:関谷の番小屋の跡。]に寄り臥したりける程に、寢入りにけり。

 夢に、安永見れば、京の方より火を燃(とも)したる者來たるを見れば、童(わらは)、火を燃して女(をむな)を具したり。

「何(か)なる者の來(く)るならむ。」

と思ふ程に、此の臥したる屋(や)の傍らに來たるを見れば、此の具したる女は、早(はや)う[やぶちゃん注:何とまあ!]、京に有る我が『不審(いぶか)し』と思ふ妻也けり。

「此(こ)は何(いか)に。」

と奇異(あさま)しく思ふ程に、此の臥したる所に、壁を隔てて居(ゐ)ぬ。

 安永、其の壁の穴より臨(のぞ)きて見れば、此の童、我が妻と並び居て、忽ちに鍋を取り寄せて[やぶちゃん注:すぐさま(妻は)鍋を取り出して。]、飯を炊(かし)きて、童と共に食ふ。安永、此れを見て思はく、

「早う、我が妻は、我が無かりつる間(あひだ)に、此の童と夫妻(めをうと)と成りにけり。」

と思ふに、肝騷(きもさは)ぎ[やぶちゃん注:胸が潰れて。]、心動きて安からず思へども、

「然(さ)はれ、爲(せ)む樣(やう)を見む。」

と思ひて見るに、物食ひ畢(は)てて後(のち)、我が妻、此の童と二人、搔き抱(いだ)からひて[やぶちゃん注:互いに抱き合って。]臥しぬ。然(さ)て、程も無く娶(とつ)ぐ[やぶちゃん注:性行為をする。]。安永、此れを見るに、惡心[やぶちゃん注:憎悪。]、忽に發(おこ)りて、其(そこ)に踊り入りて見れば、火も無し、人も見えず、と思ふ程に夢覺めぬ。

「早う、夢也けり。」

と思ふに、

「京に何(いか)なる事の有るにか。」

と彌(いよい)よ不審(いぶか)く思ひ臥したる程に、夜、明けぬれば、急ぎ立ちて、夜を晝に成して京に返りて、家に行きたるに、妻(め)、恙(つつ)が無くて有りければ、安永、

「喜(うれ)し。」

と思ひけるに、妻、安永を見るままに咲(わら)ひて云く、

「昨日(きのふ)の夜(よる)の夢に、此(ここ)に知らぬ童の來て、我れを倡(いざな)ひて相ひ具して、何(いづ)くとも不思(おぼえ)ぬ所に行きしに、夜(よ)る、火を燃(とも)して、空(うつほ)なる屋(や)の有りし内(うち)に入りて、飯を炊きて、童と二人、食ひて後(のち)、二人、臥したりし時に、其(そこ)に俄かに出來(いでき)たりしかば[やぶちゃん注:略されているが、主語は安永である。]、童も我も騷ぐと思ひし程に夢覺めにき。然(さ)て、『不審(いぶか)し』と思ひ居(ゐ)たりつる程に、此(か)く御(おは)したる。」

と云ひけるを聞きて、安永、

「我も然々(しかしか)見て、『不審し』と思ひて、夜を晝に成して急ぎ來たる也。」

と云ひければ、妻(め)も此く聞きて奇異くに思ひけり。

 此れを思ふに、妻(め)も夫(をうと)も此く同じ時に同じ樣(やう)なる事を見けむ、實(まこと)に希有(けう)の事也。此れは、互ひに同じ樣に「不審(いぶか)し」と思へば、此く見るにや有らむ。亦、精(たましひ)の見えけるにや有らむ、不心得(こころえ)ぬ事也。

 然(しか)れば、物などへ行くにも[やぶちゃん注:ちょっした旅なんどに出る場合でも。]、妻子にても[やぶちゃん注:たとえ愛する妻子のことであっても。]、強(あなが)ちに「不審し」とは思ふまじき也[やぶちゃん注:やたら滅多ら「心配なことである」なんどとはゆめゆめ思うてはならぬことが肝要である。]。此く見ゆれば[やぶちゃん注:このような不安な夢を見てしまうと。]、極(いみ)じく心の盡くる事にて有る也、となむ語り傳へたるとや。

   *]

 「今昔物語」にあるこの話の焦點は、別れてゐた夫妻が同時に同じ夢を見るといふことに在る。「實に希有の事」ではあるが、この原話らしいものが支那にいくつもあつて、どうもその飜案であらうと思はれる。「河東記」「夢遊錄」「三夢記」等の記載は大體似たやうなものなので、一番簡潔な「三夢記」の話を出して置くことにする。

[やぶちゃん注:宵曲も言っている通り、先の「今昔物語集」の話の核心は実は「別れてゐた夫妻が同時に同じ夢を見るといふことに在る」のだが、私が「不審(いぶか)し」く思うのは、「今昔物語集」の記者がそこを奇妙に捩じらせて、「物などへ行くにも、妻子にても、強(あなが)ちに「不審し」とは思ふまじき也。此く見ゆれば、極(いみ)じく心の盡くる事にて有る也」と教訓を引き出していることである。これは実は心を通じ合わせる者同士の夢は驚くべき感応を示すと言いたいのか? だったら、妻が抱きつき、妻に抱きつてまぐわった少年は一体、何だったのか? 夫の疑心暗鬼による嫉妬の生んだ幻覚であるならば、何故、妻も同じ少年を見たのかが語られない。或いは夫の夢に妻が感応して同じ夢を見させられたとでも言うのか? 私は精神分析学的にも、はたまた民俗学的にも、どうもこの話は別な深層或いは真相を隠しているという気がしてならぬのである。

「夢遊錄」任蕃(じんばん)撰になる唐代伝奇小説集。

「三夢記」中唐の白行簡(はくこうかん:彼は白居易の弟)の短編伝奇小説。他人の夢にこちらで出会う第一話、こちらが何かしているのを他人が夢見る第二話、双方が同じ夢を見る第三話の三つの不可思議な夢の話から成る。以下に示されるのはその第一話である。全体が短いので中文「維基文庫」のそれを加工して総て示す。太字部分が宵曲の訳した部分。

   *

 人之夢、異於常者有之、或彼夢有所往而此遇之者、或此有所爲而彼夢之者、或兩相通夢者。天後時、劉幽求爲朝邑丞。嘗奉使、夜歸。未及家十余裏、適有佛堂院、路出其側。聞寺中歌笑歡洽。寺垣短缺、盡得睹其中。劉俯身窺之、見十數人、兒女雜坐、羅列盤饌、環繞之而共食。見其妻在坐中語笑。劉初愕然、不測其故久之。且思其不當至此、復不能舍之。又熟視容止言笑、無異。將就察之、寺門閉不得入。劉擲瓦擊之、中其罍洗、破迸走散、因忽不見。劉逾垣直入、與從者同視、殿序皆無人、寺扃如故、劉訝益甚、遂馳歸。比至其家、妻方寢。聞劉至、乃敘寒暄訖、妻笑曰、「向夢中與數十人遊一寺、皆不相識、會食於殿庭。有人自外以瓦礫投之、杯盤狼籍、因而遂覺。」。劉亦具陳其見。蓋所謂彼夢有所往而此遇之也。

 元和四年、河南元微之爲監察禦史、奉使劍外。去逾旬、予與仲兄樂天、隴西李杓直同遊曲江。詣慈恩佛舍、遍歷僧院、淹留移時。日已晚、同詣杓直修行裏第、命酒對酬、甚歡暢。兄停杯久之、曰、「微之當達梁矣。」。命題一篇於屋壁。其詞曰、「春來無計破春愁、醉折花枝作酒籌。忽憶故人天際去、計程今日到梁州。」。實二十一日也。十許日、會梁州使適至、獲微之書一函、後寄「紀夢詩」一篇、其詞曰、『夢君兄弟曲江頭、也入慈恩院裏遊。屬吏喚人排馬去、覺來身在古梁州。』。日月與遊寺題詩日月率同、蓋所謂此有所爲而彼夢之者矣。

 貞元中扶風竇質與京兆韋旬同自毫入秦、宿潼關逆旅。竇夢至華嶽祠、見一女巫、黑而長。靑裙素襦、迎路拜揖、請爲之祝神。竇不獲已、遂聽之。問其姓、自稱趙氏。及覺、具告於韋。明日、至祠下、有巫迎客、容質妝服、皆所夢也。顧謂韋曰、「夢有征也。」。乃命從者視囊中、得錢二、與之。巫撫拿大笑、謂同輩曰、「如所夢矣。」。韋驚問之、對曰、「昨夢二人從東來、一髯而短者祝醑、獲錢二焉。及旦、乃遍述於同輩。今則驗矣。」。竇因問巫之姓氏。同輩曰、「趙氏。」。自始及末、若合符契。蓋所謂兩相通夢者矣。

 行簡曰、「春秋」及子史、言夢者多、然未有載此三夢者也。世人之夢亦眾矣、亦未有此三夢。豈偶然也、抑亦必前定也。予不能知。今備記其事、以存錄焉。

   *

最初の第一話を含む第一段落分全部が、ネットのQ&Aサイトに書き下し文があったので、それを参考にしつつ(但し、誤読と思われる箇所が散見された)、私なりに訓読してみる。

   *

 人の夢、常に異なる者、之れ、有り。或いは、彼(か)の夢に往く所有りて、此こに之れ、遇ふ者、有り。或いは、此に爲(な)す所有りて、彼に之れを夢みる者、有り。或いは、両(ふた)つながら相(たが)ひに夢に通ずる者、有り。天後(てんご)の時[やぶちゃん注:武則天(六二四年~七〇五年:在位六九〇年~七〇五年)の在位の間を指すらしい。因みに、彼女は治世の最初に「天授」という元号を用いている(六九〇年~六九二年)。]、劉幽求、朝邑丞(てういふじやう)[やぶちゃん注:朝邑県の県令の副官。]たり。嘗て使ひを奉じて、夜、歸る。未だ家に及ばざること、十余里[やぶちゃん注:唐代の一里は五六〇メートル弱であるから、五・七~六キロメートルからほどか。]にして、適(たまたま)、佛堂院有り、路に、其の側(そば)に出づる。寺の中に歌笑歡洽(かせうくわんがう)[やぶちゃん注:歓び和らぐこと。楽しくうち解け合うこと。]するを聞く。寺の垣(かき)、短く缺(か)けたれば、盡(ことごと)く其の中(うち)を睹(み)ることを得(う)。劉、身を俯して之れを窺(うかが)ふに、十數人の兒女の、雜(まじ)りて坐し、盤饌[やぶちゃん注:盤状の器に載せた食事。]を羅列し、之を環繞(くわんねう)して[やぶちゃん注:取り囲んで。]共(とも)に食するを見る。其の妻の、坐中に在りて語り笑へるを見る。劉、初め、愕然として、其の故を測れず、之れを思ふこと、久(ひさ)し。且つ、其れ、當(まさ)に此(ここ)に至るべからざるを思ひへば、復た、之れを舍(す)つること能(あた)はず。又、熟視するに、容止言笑(ようしげんしせう)に異なること、無し。將に之れを察して就かんとすれども、寺門、閉じて入るを得ず。劉、瓦(かはら)を擲(なげう)ちて之れを擊つに、其の罍洗(らいせん)[やぶちゃん注:「罍」は原義は銅器で、「洗」は恐らく「フィンガー・ボール」のようなものと読んだ。食餐に並べられた「器」の類いの謂いであろう。]に中(あた)り、破迸(はへい)し[やぶちゃん注:壊れ、飛び散り。]、走り散る[やぶちゃん注:主語は場の人々。]も、因つて忽ち見えず。劉、垣を逾(こ)直ちに入り、從者と同じうして視るに、殿序、皆、人無し。寺、扃(とざ)されて故(もと)のごとし。劉、訝むこと、益々甚しくして、遂に馳せ歸る。其の家に比至(いた)るに、妻、方(まさ)に寢ねたり。劉の至るを聞き、乃(すなは)ち、寒暄(かんけん)を敘(の)べ[やぶちゃん注:時候の挨拶。「暄」は「暖かさ」の意。]訖(お)へ、妻、笑ひて曰く、

「夢中に向かふに、數十人と一寺に遊ぶに、皆、相ひ識らずして、殿庭に會食す。人、有りて、外より、瓦礫を以つて之れを投げ、杯盤狼籍し、因りて遂に覺む。」

と。劉、亦、具(つぶ)さに其の見るところを(の)陳ぶ。

 蓋(けだ)し、所謂、彼(か)の夢に往く所有りて、此れ、之れに遇する者なり。

   *]

 劉幽求なる者が遠くに使して歸り、家から十餘里の距離のところまで來ると、路傍の寺の中から歌笑歡洽の聲が聞える。何の氣なしに覗いて見たら、十數人の兒女が車座になつて盃盤を圍み、盛に飮み食ひしてゐるので、その中に劉の妻も加はつて樂しさうに談笑してゐる。劉は愕然とした。よく考へて見るのに、妻がこんなところへ出て來る筈がないが、いくら見直しても、妻であることは間違ひないらしい。入つて慥かめようとしたが、寺門は固く鎖されてゐて入ることが出來ぬ。足許に落ちてゐた瓦を拾つて投げ付けると、何物かに當つて皆逃げ散る樣子であつたから、劉は直ちに垣を乘り越えた。從者もあとに續いて中に入つて見たが、そこには人影もなし、寺は寂然としてしつまり返つてゐる。劉は怪訝に堪へず、一散に馳せ歸つたところ、妻は已に寢に就いて居つた。劉の歸つたのを聞いて起きて出た妻が、夢の話をするのは「今昔物語」と同じである。今しがた大勢でお寺へ遊びに行つて、庭で食事をしてゐたら、外から何か投げ込んだ者があり、盃盤狼藉になつたところで目がさめました、傍にゐたのは誰も知らない人ばかりなのです、といふ。劉も自分の見た通りを話して聞かせた。

「今昔物語」は雙方が夢であつたが、「三夢記」の話は一方が現實で、他人の夢の世界に入り込むことになつてゐる。その點は「夢遊錄」も「河東記」も皆同じで、瓦を擲つと共に一切空に歸す。夫の疑惑がさういふ幻を見たものと解せられるが、「夢遊錄」の張生の如きは、瓦が妻の額に中(あた)つたため、妻は已に死せりとして慟哭して歸る。家人がよろこび迎へる時、婢僕の話に娘子(ぢやうし)夜來頭痛すといふやうな餘沫を作つてゐる。不破の關の安永にも無論疑惑はあるが、雙方夢を見るよりは、一方現實である方が話としては面白さうである。

[やぶちゃん注:「夢遊錄」のそれは「太平廣記」の「夢七」の「張生」から引く(そこでは「纂異記」からの引用とあるが、ほぼ同文が「夢遊錄」にあることを確認した(そちらを示さないのは句読点なしのベタ漢文だからである。悪しからず)。

   *

有張生者、家在汴州中牟縣東北赤城坂。以饑寒、一旦別妻子遊河朔、五年方還。自河朔還汴州、晚出鄭州門、到板橋、已昏黑矣。乃下道。取陂中逕路而歸。忽於草莽中、見燈火熒煌。賓客五六人、方宴飮次。生乃下驢以詣之。相去十餘步。見其妻亦在坐中、與賓客語笑方洽。生乃蔽形於白楊樹間、以窺之。見有長鬚者持盃。請措大夫人歌。生之妻、文學之家、幼學詩書、甚有篇詠。欲不爲唱、四座勤請。乃歌曰。歎衰草、絡緯聲切切。良人一去不復還、今夕坐愁鬢如雪。長鬚云。勞歌一盃。飮訖。酒至白面年少、復請歌。張妻曰。一之謂甚、其可再乎。長鬚持一籌筯云。請置觥。有拒請歌者。飮一鍾。歌舊詞中笑語、准此罰。于是張妻又歌曰。勸君酒、君莫辭。落花徒繞枝、流水無返期。莫恃少年時、少年能幾時。酒至紫衣者、復持盃請歌。張妻不悦、沉吟良久、乃歌曰。怨空閨、秋日亦難暮。夫壻斷音書。遙天鴈空度。酒至黑衣胡人、復請歌。張妻連唱三四曲、聲氣不續。沉吟未唱間、長鬚觥云。不合推辭。乃酌一鍾。張妻涕泣而飲、復唱送胡人酒曰。切切夕風急、露滋庭草濕。良人去不囘、焉知掩閨泣。酒至綠衣少年、持盃曰。夜已久、恐不得從容。即當暌索。無辭一曲、便望歌之。又唱云。螢火穿白楊、悲風入荒草。疑是夢中遊、愁迷故園道。酒至張妻、長鬚歌以送之曰。花前始相見、花下又相送。何必言夢中、人生盡如夢。酒至紫衣胡人、復請歌云。須有艷意。張妻低頭未唱間、長鬚又抛一觥。於是張生怒、捫足下得一瓦、擊之。中長鬚頭。再發一瓦、中妻額。闃然無所見。張君謂其妻已卒、慟哭連夜而歸。及明至門、家人驚喜出迎。君問其妻、婢僕曰。娘子夜來頭痛。張君入室。問其妻病之由。曰。昨夜夢草莽之處、有六七人。遍令飮酒、各請歌。孥凡歌六七曲、有長鬚者頻抛觥。方飮次、外有發瓦來、第二中孥額。因驚覺、乃頭痛。張君因知昨夜所見、乃妻夢也。

   *

「河東記」のそれは「獨孤遐叔」とある以下のそれか?

   *

貞元中、進士獨孤遐叔、家於長安崇賢里、新娶白氏女。家貧下第、將游劍南、與其妻訣曰、「遲可周歸矣。」。遐叔至蜀、羈棲不偶、逾二年乃舊。至鄠縣西、去城尚百里、歸心迫速、取是夕及家、趨斜徑疾行。人畜既殆、至金光門五六里、天已暝、無逆旅、唯路隅有佛堂、遐叔止焉。時近淸明、月色如晝、繫驢於庭外。入空堂中、有桃杏十餘株。夜深、施衾幬於西窗下。偃臥、方思明晨到家、因吟舊詩曰、「近家心轉切、不敢問來人。」。至夜分不寐、忽聞牆外有十餘人相呼聲、若里胥田叟、將有供待迎接。須臾、有夫役數人、各持畚鍤箕帚、於庭中糞除訖、復去。有頃、又持牀席牙盤蠟炬之類、及酒具樂器、闐咽而至。遐叔意謂貴族賞會、深慮爲其斥逐、乃潛伏屛氣、於佛堂樑上伺之。輔陳既畢、復有公子女郎共十數輩、靑衣黃頭亦十數人、步月徐來、言笑宴宴。遂於筵中間坐、獻酬縱橫、履舄交錯。中有一女郎、憂傷摧悴、側身下坐、風韻若似遐叔之妻。窺之大驚、即下屋袱、稍於暗處、迫而察焉、乃真是妻也。方見一少年、舉杯矚之曰、「一人向隅、滿坐不樂。小人竊不自量、願聞金玉之聲。」。其妻冤抑悲愁、若無所控訴、而強置於坐也。遂舉金爵、收泣而歌曰、「今夕何夕、存耶沒耶。良人去兮天之涯、園樹傷心兮三見花。」。滿座傾聽、諸女郎轉面揮涕。一人曰、「良人非遠、何天涯之謂乎。」。少年相顧大笑。遐叔驚憤久之、計無所出、乃就階陛間、捫一大磚、向坐飛擊。磚才至地、悄然一無所有。遐叔悵然悲惋、謂其妻死矣。速駕而歸、前望其家、步步淒咽。比平明、至其所居、使蒼頭先入、家人並無恙。遐叔乃驚愕、疾走入門、靑衣報娘子夢魘方寤。遐叔至寢、妻臥猶未興、良久乃曰、「向夢與姑妹之黨、相與玩月、出金光門外、向一野寺、忽爲兇暴者數十輩、脅與雜坐飮酒。」又夢中聚會言語、與遐叔所見並同。又云、「方飮次、忽見大磚飛墜、因遂驚魘殆絶、才寤而君至、豈幽憤之所感耶。」。

   *]

 この話を材料に使つたのが奇談小説の「凩草紙」で、都築織部といふ士が、良馬を求めに關東に赴くのは、「今昔物語」と大同小異であるが、留守を守る妻のところへ美しい女が來て、夫に逢はせると云つて、逢坂の關の手前まで連れて行く。その間に穿いてゐた板金剛で足を疵付けるのは、瑣事のやうで後の話に關係がある。馬に乘つて來た織部は、例の美女の家に伴はれて彼女と戲れてゐるので、妻は口惜しさに飛び出して入水しようとすると、後ろから抱き止める者がある。妻は織部とばかり思ひ、その肩に嚙み付いたら、自分の弟の藤八であつた。藤八は姉から子細を聞いて、美女の家に石を投げ込み、織部は頭に負傷する。こゝで目がさめて、それまでの事は夢になるのであるが、妻の足の疵は殘つて居り、翌日歸つた織部は頭を裹(つつ)んでゐる。たまたま來合せた藤八は肩に疵がある。夢を見たのは妻だけであるのに、夢の中に登場する夫にも弟にも疵があるのは少々念入り過ぎる。作者はこれだけごたごた書いても、まだ滿足出來ぬと見えて、鬼哭子といふ易者を持ち出し、夜行遊女金(さぶるこがね)の塚を蹄にかけた祟りだといふことにした。不破の關の代りに逢坂の關、童でなしに美女と、「今昔物語」の線に沿うてゐるが、投石の一條は支那から借用したらしい。

[やぶちゃん注:「凩草紙」医者・蘭学者で戯作者でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)が寛政四(一七九二)年に板行した読本「拍掌奇談 凩草紙」(後に「曠世奇談」と改題)。国書刊行会の「叢書江戸文庫」に入っているが、当該巻は所持していないので原典は示せない(翻刻はこの「江戸文庫」版が初めて)。慚愧の年に堪えぬ。この如何にもぐちゃぐちゃした展開は浄瑠璃作家の習癖である(森島は幾つかの浄瑠璃も手掛けている)。

「夜行遊女金(さぶるこがね)」原話を読んでいないので何とも言えぬが、この「夜行遊女」というのは「酉陽雑俎」(前集卷十六)及び「太平廣記」(卷四百六十二)に載り、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で「或言産死者所化(或いは産死者の化せる所なりと言う)」とされる』(ウィキの「産女より)とあるから、これは所謂、本邦の妖怪「産女(うぶめ)」(「姑獲鳥」とも書く。難産で死んだ妊婦と子の妖怪化したもの)の塚である。]

「今昔物語」ほど古くはないが、「凩草紙」より大分先んじてゐるのが「伽婢子」である。これには不破の關も逢坂の關もない。大内義隆が上洛して正三位の侍從太宰大貮に補任せられた時、隨從した濱田禰兵衞なる者が、義隆の歸國と共に山口に歸り、夜更けて城中から戻る時の事になつてゐる。これは月下の路傍に幕を打ち囘し、燈火を挑げて酒宴をする體で、濱田の妻もその中に居つた。盃を𢌞らして吟詠などするほどに、一人の投げた盃が濱田の妻の額に當る。妻怒つて石を擲てば、また人の額に當つて血を流し、座中騷動と見えた途端に、燈火消えて人もなく、「唯草むらに蟲の聲のみぞ殘りたる」といふことになつた。濱田は妻が空しくなつて、幽靈の顯れたかと疑ひ、家に歸つたら妻は無事で、今見た夢の話をする。この話では濱田が全然傍觀の立場に在り、座上の酒興から盃や石を投げることにしたのは、少しく振はざる憾みがある。たゞ濱田の妻が頭が痛いなどゝ云つてゐるところは、「夢遊錄」の話を取り込んだらしく見える。「伽婢子」は支那小説の飜案を主とした書物だから、「今昔物語」を經由して居らぬことは云ふまでもない。

[やぶちゃん注:「大内義隆」(永正四(一五〇七)年~天文二〇(一五五一)年)は周防国の在庁官人大内氏の第三十一代当主にして戦国大名。周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前の守護を務めたが、文治政治に不満を抱いた家臣の陶隆房に謀反を起こされ、義隆とその一族は自害して大内家は滅亡した。

 以上は「伽婢子」の「卷之三」の冒頭に配されてある「妻の夢を夫(をつと)面(まのあたり)に見る」である。以下に示す。岩波新古典文学大系版を参考底本とし、恣意的に漢字を正字化した。読みは必要と考えられるものを、参考底本により附した。踊り字「〱」「〲」は正字化或いは「々」に換えた。和歌の前後を行空けした。今様はブログのブラウザ上の不具合を考え、読点で改行した。漢詩は白文で出し、後に〔 〕で訓点に従って書き下したものを示した。直接話法及び心内語の一部は改行して、読み易くした。挿絵も参考底本のものを使用した(左右二枚のものを合成処理した)。

   *

      妻の夢を夫面に見る

 周防山口の城主大内義隆の家人(けにん)、濱田(はまだの)與兵衞が妻は、室(むろ)[やぶちゃん注:現在の兵庫県兵庫県たつの市御津町(みつちょう)室津(むろつ)。(グーグル・マップ・データ)。]の迫(とまり)[やぶちゃん注:湊(みなと)。]の遊女なりしが、濱田これを見そめしより、わりなく思ひて、契りふかくかたらひ、つゐにむかへて本妻とす。かたちうつくしく、風流ありて、心ざま情深く、歌のみちに心ざしあり。手もうつくしう書(かき)けるが、しかるべき前世(ぜんぜ)の契りにや、濱田が妻となり、たがひに妹背(いもせ)のかたらひ、此世ならずぞ思ひける。

 主君義隆、京都將軍の召(めし)によりて上洛し、正三位の侍從兼太宰大弐(だざいのだいに)に補任(ふにん)せられ、久しく都に逗留あり。濱田もめしつれられ、京にありけり。妻これを戀て、間なく時なく待(まち)わび侍べり。比(ころ)は八月十五夜、空くもりて月のみえざりければ、

  おもひやるみやこの空の月かげをいくえの雲かたちへだつらむ

とうちながめ、ねられぬ枕をひとりかたふけて、あかしかねたる夜をうらみふしたり。その日義隆國にくだり給ひて、濱田も夜更るまで城中にありて、漸(やうやく)家にかへる。その家は惣門(さうもん)の外にあり。

 

Tumanoyumewo

 雲おほひ月くらくして、さだかならざりける道のかたはら、半町[やぶちゃん注:五十四メートル半。]ばかりの草むらに幕(まく)打まはし燈火(ともしび)あかくかゝげて、男女十人ばかりこよひの月にあこがれ、酒宴するとみゆ。濱田おもふやうは、

「國主かへり給ひ、家々よろこびをなす。誰人(たれびと)か、こよひこゝに出てあそぶらん」

とあやしみてひそかに立より、白楊(やなぎ)の一樹しげりたる間に、かくれてうかゞひみれば、わが妻の女房もその座にありて物いひわらひける。

「是はそもいかなる事ぞ。まさなき[やぶちゃん注:怪しからぬ、あってはならぬ無様な。]わざかな」

と、うらみふかく、猶の有樣をつくづくと見居たり。

 座上にありける男いふやう、

「いかにこよひの月こそ殘りおほけれ。心なの雲や。是になど一詞(ことば)のふしもおはせぬか」

といふ。濱田が妻辭しけれども、人々しゐて、

「歌よめ」

とすゝむれば、

  きりぎりすこゑもかれ野のくさむらに月さへくらしこと更になけ

 とよみければ、柳陰にかくれて聞ける濱田も、あはれにおもひつゝ淚をながす。座中の人はさしも興じてさかづきをめぐらす。かくて十七八とみゆる少年の前に、さかづきあれども、酒をうけざりしを、座中しゐければ、

「此女房の歌あらば飮侍べらん」

といふ。女房、

「一首こそ思ふ事によそへてもよみけれ、ゆるし給へ」[やぶちゃん注:底本は「よみけれ」の後に句点を打つが、ここは「こそ」已然形の逆接用法であるから、読点に変えた。]といふに、きかず。さてかくなむ、

  ゆく水のかへらぬけふをおしめたゞわかきも年はとまらぬものを

 さかづきあるかたにめぐりて、濱田が妻に、

「又、歌うたひ給へ」

といふに、今やう一ふしをうたふ、

  さびしき閏(ねや)の獨(ひとり)ねは、

  風ぞ身にしむ荻はらや、

  そよぐにつけて音づれの、

  絶ても君に恨(うらみ)はなしに、

  戀しき空にとぶ鴈に、

  せめてたよりをつけてやらまし

 その座に儒學せしとみえし男、いかゞ思ひけん、うちなみだぐみて、

  螢火穿白楊

  悲風入荒草

  疑是夢中遊

  愁斟一盃酒

  〔螢火(けいくわ) 白楊を穿(うが)ち

   悲風 荒草(くわうさう)に入る

   疑ふらくは是れ 夢中の遊び

   愁へて斟(く)む 一盃の酒〕

と吟詠するに、

「いかでかこよひばかり夢なるべき。すべて人の世はみな夢なるものを」

とて、濱田が妻そゞろに淚をながす。座上の人大(おほき)にいかりて、

「此座にありて淚を流す、いまいましさよ」

とて、濱田が妻に盃をなげかけしかば、額にあたる。妻いかりて、座の下より、石をとり出しなげたりければ、座上の人の頭(かしら)にあたり、血ばしりて、ながるゝ事瀧のどとし。座中おどろき立さはぐかと見えし、ともしびきえて人もなく、たゞ草むらに蟲の聲のみぞ殘りたる。濱田、大にあやしみ、

「さてはわが妻むなしくなりて幽靈のあらはれみえけるか」

と、いとゞ悲しくて、家に歸りければ、妻はふしてあり。

「いかに」

とおどろかせば、妻おきあがり、よろこびて、かたるやう、

「あまりに待わびてまどろみしかば、夢の中に十人ばかり草むらに酒のみあそびて歌をのぞまれ、その中にも君のみ戀しさをよそへてうたひ侍べり。座上の人みづからが淚をながす事をいみて、盃(さかづき)をなげかけしを、みづから石をとりて打返すに、座中さはぎ立(たつ)とおぼえて夢さめたり。盃の額にあたりしとおぼえしが、夢さめて、今も頭(かしら)の痛(いたく)おぼゆ」

とて、歌も詩も、かうかうとかたる。白楊(やなぎ)の陰にして見きゝたるに、少(すこし)も違(たが)はず。濱田つらく思ふに、

「白楊陰(やなぎかげ)にかくれて見たりし事はわが妻の夢のうちの事にてありける」

となむ。

   *]

南方熊楠 履歴書(その32) 熊野習俗 / 隣家との攻防戦

 

 御承知の通り紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し、『太平記』などを読んでも分かるごとく、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり。小生二十四年前帰朝せしときまでは(実は今も)今日の南洋のある島のごとく、人の妻に通ずるを尋常のことと心得たるところあり。また年ごろの娘に米一升と桃色のふんどしを景物(けいぶつ)として、所の神主または老人に割ってもらうところあり。小生みずからも、十七、八の女子が柱に両手をおしつけ、図

 

Taneusukitutekudanse

 

のごとき姿勢でおりしを見、飴(あめ)を作るにやと思うに、幾度その所を通るもこの姿勢ゆえ何のことか分からず怪しみおると、若き男が鬮(きじ)でも引きしにや、おれが当たったと呟(つぶや)きながらそこへ来たり、後よりこれを犯すを見しことあり。また熊野の三個の最難所といわるる安堵ケ峰に四十余日、雪中に木小屋にすみ、菌類を採集中、浴湯場へ十四、五の小女(こむすめ)、小児(こども)を負って来たるが、若き男を見れば捉えて「種臼(たねうす)切って下んせ」と迫る。何のことか分からざりしが、女陰を臼に譬えしことは仏経にも多く例あれば、種臼とは子をまく臼ということと悟り申し候。夫婦のことに関してすらこんな乱坊(らんぼう)な所ゆえ、他は推して知るべしで、今も熊野の者は行儀の作法のということを知らず。

[やぶちゃん注:「紀州の田辺より志摩の鳥羽辺までを熊野と申し」熊野は古代の熊野国が律令制下に紀伊国に編入させて成立した牟婁郡(むろぐん)とほぼ一致する。牟婁郡は現在の和歌山県西牟婁郡・東牟婁郡・新宮市の全域と田辺市の一部に、三重県の北牟婁郡・南牟婁郡・尾鷲市・熊野市の全域と度会郡大紀町の一部を加えた非常な広域(紀伊国及び南海道で最大面積相当)を有する郡であった。

「『太平記』などを読んでも分かるごとく、日本のうちながら熊野者といえば人間でなきように申せし僻地なり」例えば、「太平記」(現行流布本で全四十巻。作者・成立時期不詳。但し、十四世紀中頃までに後醍醐天皇崩御が描かれる巻二十一辺りまでの部分を天台僧「五国大師」(後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明天皇の五帝に戒を授けたことによる呼称)円観慧鎮(えちん 弘安四(一二八一)年~正平一一/延文元(一三五六)年)が記し、後半を室町幕府と密接な関わりを持つ僧らを中心に編纂、その原型がやはり同宗派系の僧侶らの手によって増補改訂されて、正平二五・建徳元/応安三(一三七〇)年頃までには現在の四十巻本が成立していたと推定されている(ここはウィキの「太平記」等に拠った)の「卷第五」の「大塔宮(おほとふのみや)熊野落ちの事」では、大塔宮護良(もりなが)親王の夢枕に童子が一人来たって、「熊野三山(さんざん)の間は尚(なほ)も人の心、不和(ふわ)にして大儀成(なり)難し。」と諫めるシーンが出る。この「尚」は当時現在の政治的人心状況を指すのではなく、土地柄、今も熊野の辺りは野蛮で人心が乱れているという謂いと読める。「卷十七」の足利尊氏の延暦寺攻略を描く「山攻めの事付(つけたり)日吉神託の事」で山攻めに参加する熊野八庄の庄司の軍兵は一軍、総て黑ずくめの異様な出で立ちであり、その戦闘シーンでは各人を「鬼歟(か)神と見へつる熊野人(くまのひと)」とか、「是も熊野人歟と覺へて、先(さき)の男」(前述の鬼か神かと見まごう武士)「に一かさ倍(まし)て、二王(にわう)を作損(つくりそん)じたる如(ごとく)なる武者」などとおよそ人間離れした者どもとして描いている。

「景物(けいぶつ)」添え物。景品。

「割ってもらう」破瓜(はか)してもらう。性交して貰うことで処女を喪失させること。処女権を奪取する権限が配偶者となる者以外にある風習は、日本の民俗社会では古くから存在し、実際には近代まで続いた。ウィキの「初夜権」によれば、『古代の神道において、神と交流できるのは、男性であれば神主、女性であれば巫女のみであった。したがって、まだ精通経験のない男性や童貞の男性、初潮経験のない女性や処女の女性は、神や共同体の所有物であり、彼らを成人の社会へ導けるのは神主や巫女のみとされた。ここから、処女や新婦の女性を臨時的に巫女と同等に見なし、神の代行役である神主や媒酌人が性交することで神の怒りや厄災を回避したとする説がある。また、こういった考え方を受け継いだ風習が近代前後まで各地に残っていたとする説も多い』とあり、中山太郎は「日本婚姻史」(昭和三(一九二八)年刊)で、『奈良時代の「日本書紀」(允恭紀)や平安時代の「本朝文粋」(意見十二箇条)などを事例に挙げ、神主や「座長(かみのくら)が処女を要求できた」とする説を紹介しつつ、「一種の呪術として処女膜を破る儀式」などが、現代では一般的に解釈される初夜権と同一視されがちだが「似て非なるものであることを注意されたい」と述べている』。『一方で、民俗学者の折口信夫は』大正一五(一九二六)年に『雑誌「人生創造」(人生創造社)に発表した「古代研究」の中で、少なくとも奈良時代以前の神主は初夜権と見なしてよい権利を持ち、現人神(あらひとがみ)と見なされた豪族などは「村のすべての処女を見る事の出来た風(確認することが可能だった世情)」が、近代まで残っていたと述べている。また、朝廷に従える采女(うねめ)や「巫女の資格の第一は神の妻(かみのめ)となり得るか」どうか、つまり処女であるかどうかが重視されており、たとえ常世神(とこよのかみ、神の代理役)であっても現実的に貞操を守り続けることは困難であったため、処女や新婦は一時的に「神の嫁として神に仕へて後、人の妻(ひとのめ)となる事が許される」ような儀式へと変化し、これらが「長老・君主に集中したもの」が初夜権と同等であっただろうと述べている。また、「神祭りの晩には、無制限に貞操が解放せられまして、娘は勿論、女房でも知らぬ男に会ふ事を黙認してゐる地方」などもあったため、当時の性に対する感覚や処女の立場、初夜権の発生原因などを理解しないと「古事記・日本紀、或は万葉集・風土記なんかをお読みになつても、訣らぬ処や、意義浅く看て過ぎる処が多い」とも述べている』とある。以下、リンク先には「近代以前」及び「近代以降」の初夜権やその名残りとして記録された事例が掲げられてある。さらに、このウィキの記者はまさに南方熊楠のこの「履歴書」のこの部分を「参考」として掲げて(快哉!)、『「割ってもらう」とは破瓜を意味し、「おりしを見」とは「折り敷き(おりしき)」と呼ばれる姿勢で「片膝立ちになってみせて」という意味である。ただし、これを以って南方自身が初夜権であると指摘しているわけではなく、当時の性交経験の年齢が現在よりも格段に低かったことなども考慮すると、くじ引きに当たった男性が犯した「十七、八の女子」が処女だったのかどうなのかは疑問も残る。実際、この記述の直後に、「十四、五に見える少女」が赤子を背負いながらに若い少年に「種臼(たねうす)切ってくだんせ」と頼む様子も見たことがあると述べている。「種」は「子種(こだね、男性器)」であり、「臼」を「女陰(にょいん、女性器)」として、仏典の事例から「悟り申した」と推測している』。また、熊楠は大正一〇(一九二一)年に『雑誌「太陽」(博文館)で発表した随筆「十二支考」の項目「鶏に関する伝説」の中では、カール・シュミットの「初婚夜権」を手初めに様々な初夜権の事例を挙げている』。『これは、南方が「読んだ」ことのある古今東西の文献から紹介されており、文中で雑多に列挙しながら「奇抜な法じゃ」や「処女権の話に夢中になってツイ失礼しました」と茶化すような記述もあって、その直後には続けて「女の立ち尿(たちいばり、立ち小便)」の歴史について脱線してしまうような破天荒な構成にもなっているため、その真偽までは不明である』とし、『以下、「鶏に関する伝説」で紹介された初夜権の事例を』インド・ヨーロッパ・中米・中国・日本に分けて簡単に解説している。中国まではリンク先或いは原当該論文(「青空文庫」のこちらで読める)で読んで戴くとして、当該ウィキの「日本」のパートを引いておくと、明和八(一七七一)年『版、増舎大梁の『当世傾城気質』四」にて、「藤屋伊左衛門(ふじやいざえもん)が諸国で見た奇俗」を述べており、結婚式の「振舞膳(ふるまいぜん)の後(のち)我女房を客人と云々(うんぬん、その他に色々あった)」という。「幼き頃まで紀州の一向宗の有難屋(ありがたや、神仏を盲信する人々)」であったため、「厚く財を献じてお抱寝(だきね)と称し、門跡(神社仏閣など)の寝室近く妙齢の生娘を臥せ(がせ、ふせ、寝る)させもらい、以て光彩門戸(こうさいもんこ、最初の手習い)に生ずと大悦び」するような風習だったという』。『和歌山県にある「勝浦港では年頃に及んだ処女を老爺に托して破素(はす)してもらい」、返礼として「米や酒、あるいは桃紅色の褌(ふんどし)」を渡したという』(本記載内容と同じ)。『「藤沢(藤沢衛彦)君の『伝説』信濃(信濃国)巻に百姓の貢米(ぐまい)を責められて果す事が出来ないと、領主は百姓の家族の内より、妻なり、娘なりかまわず、貢米賃(ぐまいちん)というて連れ来って慰んだ」という』とある。

「飴(あめ)を作るにや」この女の姿勢は何かを踏んで潰しているように見える。しかし、調べて見たが、古式の飴作りの行程で、このような作業は見当たらない。蒸した米を用いたが、それを踏んで潰すような行程は見当たらない。識者の御教授を乞う

「熊野の三個の最難所といわるる安堵ケ峰」和歌山県と奈良県の県境沿いに位置する果無(はてなし)山脈にある安堵山(あんどさん)。標高一一八四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「果無山脈」(ファンジー物にでもありそうな名前の由来はリンク先をどうぞ)によれば、『後醍醐天皇の王子・護良親王が、元弘の変の際、鎌倉幕府の追討を逃れて十津川村方面へ向かっている時、「ここまで来ればもう追手もないだろう」と安心したという故事にちなむ』とある。「最難所」は他の二つはよく判らないが、まず一つは「雲取越」(くもどりこえ:「大雲取越」(おおぐもとりごえ:那智山から小口(こぐち:現在の新宮市熊野川町)までで、舟見峠・石倉峠・越前峠と標高八百メートル前後の三つの峠の登り降りを繰り返しながら結ぶルート)と後半の「小雲取越」(こぐもとりごえ:小和瀬(こわぜ:新宮市熊野川町)から請川(うけがわ:田辺市本宮町)を結び、熊野本宮大社に至るルート)をセットにしたもの。場合によっては以上の全「雲取越」を最難所とする。総延長は三十キロメートルに及ぶ。以上は主にウィキの「雲取越に拠った)であろうし、今一つは古来「西国一の難所」と言われた「八鬼山(やきやま)道」(尾鷲市矢浜大道から同市三木里町へ下るルート。)かと私は思う。誤りであれば、お教え戴きたい。

「湯浴場」「ゆあみば」。温水のある浴場のようだが、現行の航空写真を見る限り、この安堵山周辺はかつては深山幽谷であったと思しく、人家があった様子さえない。或いは、熊野詣での古道としては明治末から大正初期(この菌類採取の時期が不明のためかく示した)頃までは、そうした巡礼者を接待する古い宿などがあったものか? 識者の御教授を乞う。]

 

 これは昔話のようだが、上野(うわの)という所(紀州の最南端にて無線電信局のある岬なり)に喜平次という旧家あり(旧家といっても元禄ころの地図にこの地名さえ見えぬほどゆえ、米国の旧家と斉(ひと)しく知れたものなり)、今も多額納税者なり。この家の老主婦がある年本願寺とかへ参るとて、自家の船に乗り大阪の川口に到りしに、たまたま暴風起こり諸国より集まりし船舶大いに混雑するを見て、この老婆が、みなみな静まれ、喜平次の船じゃ喜平次の船じゃと呼びしという。熊野の小天地で勢いあればとて、天下の船場処たる大阪の川口で、みなみな静まれとて名乗りしも、遠州浜松の町通り同然広いようで狭きのはなはだしきものと、後年まで万人の諺となり、笑うところとなりおる。

[やぶちゃん注:「上野」現在の和歌山県東牟婁郡串本町(くしもとちょう)潮岬(しおのみさき)。ここ(グーグル・マップ・データ)。サイト「み熊野ねっと」内「紀伊すぽっと」の「上野浦:現・和歌山県東牟婁郡串本町潮岬」に「紀伊續風土記」(紀州藩が文化三(一八〇六)年)に、藩士の儒学者仁井田好古(にいだこうこ)を総裁として編纂させた紀伊国地誌。編纂開始から三十三年後の天保一〇(一八三九)年)完成)の「上野浦」の現代語訳が載るが、そこには何と! 最後に『地士』(土地の著名士)として『鈴木喜平次』の名が挙げられてある!

「遠州浜松の町通り」これは遠江国(現在の静岡県の大井川以西)が侠気が高く、粗暴な連中が多いとされたことから譬えたものであろう。]

 

Kumagusuteiryoudonarinozu

 

[やぶちゃん注:挿絵のキャプションは右(及び上から下へ)から、

「北隣リノ宅」

「小生ノ宅地」

「書庫」「居宅」

「研究室」「小生ノ袋長屋」

「小生ノ宅地」(庭部分の中央に書かれてある)

「試驗畑」(長方形三つに指示線で)

「南隣ノ宅ノ長屋」

「マド」((イ)の指示線の下にあり、上下二箇所の短い縦線(窓)を指している)

「南隣ノ宅」

である。右側が「北」であるから、南隣直近に二階屋が建つと試験畑に日が当らなくなるという意味が分かる。]


Mekakusi

 それに違わず小生南隣に移り来たりし男も、川添村とて何とも知れぬ僻邑の生れで、わずかな成り金となりたればとて、他人のことを一際(いっさい)かまわぬものなり。それが小生の隣宅を買い移り来たりてのち、その長屋(前図(イ))で蜜柑箱の製造を始める。この長屋に窓二つあって小生宅の後園に向かう。これは成規によれば隣宅の内部を見るはよろしからぬことゆえ、空気だけ通して眼視るを得ざるように目かくしを設くべきものなり。しかるに、これまで南隣の宅に住せし人は小生の知人にもあり、礼儀をも心得たる人ゆえ、かつは小生よりも久しく住せし人にて、もとこれらの隣接せし三家は一人の住宅たりしゆえ、かかるこむつかしきことを要せず。拙方の者どもが後園に出れば南隣の人が長屋の窓をしめきり、拙方の者どももまた長屋に人ありと見るときは、斟酌(しんしゃく)してなるべく近づかざりしなり。しかるに件(くだん)の成り金がミカン箱製造を始めてより、立ちかわり入れかわり、どこの人とも知れぬ者を傭い来たり、長屋の窓を終日開けはなして拙方を自由自在に見通すから、子女ども恥じて後園に出ること能わず。幾日経ってもこの次第ゆえ、小生その窓辺にゆき、你(なんじ)らここよりわが園内をのぞくなと言いしに、それより事起こって、この南隣の者が右の長屋(二階なしの低きもの)を高さ二丈ばかりの二階立ちに改築せんとす。

[やぶちゃん注:「川添村」かつて和歌山県西牟婁郡にあった村で、現在の白浜町の東端、日置川の中流域及び同支流である将軍川の流域に相当する。この附近(グーグル・マップ・データ)。

「僻邑」「へきゆう」。僻地の村。

「成規」この語は本来は「成文化された規則」の意であるが、ここは寧ろ、判例法に基づく、他人の住居を妄りに覗いてはならぬという「礼儀」「一般常識」の謂いである。

「眼視る」「めみる」「まみる」とでも訓じているか。或いは二字で「み」と当て訓しているのかも知れぬ。

「斟酌(しんしゃく)」相手の事情・心情などを汲み取ること。「斟」も「酌」も「汲む」の意。因みに、最近、馬鹿者どもばかりの国会でオール馬鹿どもが悪義で使っている「忖度(そんたく)」という語は「忖」も「度」も「量(はか)る」の意であって、「他人の気持ちをおしはかること・推察」という至ってフラットな意味である。馬鹿どもが国語を歪曲することに堪えがたい。脱線であるが、どうしても言っておきたい。

「子女ども」この隣りが買われた当時(大正九(一九二〇)年)は長男熊弥が満十三、長女文枝は九歳であった。

「二丈」六メートル六センチ。]

 

Rinkazoutiku

 

 左様さるると五年このかた試験し来たりし前述の畑は冬三月間(みつきかん)全く日光が当たらず、試験ができなくなる。よって抗議を申し込みしも聞き入れず、止むを得ず和和歌山に登り、当時の県知事小原新三氏に頼み、同氏より長さ三尺ばかりの長文の諭書を出し、郡長、学務課長をして説諭せしめしに、表面半ば聞き入れし体(てい)を装い、せっかく材木を集めたことゆえまるで工事を止むることはならざるも、図のごとくロロロなる旧長屋をイイイなる高き二階立ちにするに正中の処だけは大分低くすべし、しかる時は日光が多少畑に及ぼし、あまりに全く冬中畑に及ぼさぬということなかるべしとのことで、イイの点において構造組み立ての棟を切って見せる。よって学務課長らも安心して県庁へ引き上げ、小生もまずはやや安心して外出せし間に、隣主多くの人足を急に集め、件(くだん)の一度切ったる棟をつぎ合わせ、全く二丈ばかりの高さの建築を立てたり。これがため小生の試験畑はまるで無効のものとなり、累年の試験は全廃となり申し候。

[やぶちゃん注:太字「イイ」は底本では傍点「ヽ」。

「小原新三」(おはらしんぞう 明治六(一八七三)年~昭和二八(一九五三)年)は当時、就任したばかりの和歌山県知事。以下、ウィキの「小原新三によれば、東京府出身で新潟県庶務課長を務めた小原実の長男として生まれた。第一高等学校から東京帝国大学法科大学政治学科を明治三〇(一八九七)年に卒業、同年十二月に『文官高等試験行政科試験に合格。貴族院事務局に入局した』。翌年、『貴族院事務局書記官兼内務省参事官に就任。以後、青森県事務官、奈良県内務部長を歴任』、明治四三(一九一〇)年十月、『朝鮮総督府に転じ』て『内務部地方局長に就任。さらに、忠清南道長官を経て』、大正五(一九一六)年には『総督府農商工部長官とな』った。その後、大正九(一九二〇)年二月に和歌山県知事に就任。『不況下での緊縮予算の編成を実施。財政難のなか』、大正十二年に行われた郡制廃止に伴い、『郡立施設の県立への移管を進めたが、県吏員の人員整理や消耗品等の減額を余儀なくされた』。しかし同年六月に新潟県知事に転任、大正一四(一九二五)年十月に知事を依願免本官して退官している。『その後、松江市に隠棲したが』、昭和六(一九三一)年には『愛国婦人会事務総長に就任し』、昭和一七(一九四二)年まで在任している。

「諭書」訓ずるなら「さとしがき」、音なら「ユショ」。説諭説得を成した勧告書の謂いであろう。後の文(三段落後の冒頭)から見ても、これは法的な正式手続きを踏んだ命令書や通達ではなく、一種の和解提案を促すためのものと思われる。]

 

 しかしてもっとも不埒なことは、この高き建築と拙宅界限との間に少しも空間をおかず、ただちに限界を摩して右の建築を立てたるゆえ、人足ら棟上(むねあ)げの時足場の余裕少しもなければ拙方の邸地内に多人入り来たり、件(くだん)の試験畑を蹂躙し、小生不在なるゆえ妻子が咎めると悪口雑言し、はなはだしきは小便をたれちらす。(その人足というはあまり人々の好まぬ人群といえば、そのいかようの人群なるかは貴察あるべし。)

[やぶちゃん注:「多人」「たにん」と読んでおくが、正直言うと「たにんず」(多人数)と読みたい。]

 

Rinnkazoutikukoubousen

 

[やぶちゃん注:熊楠が張った「曲鉤刺(かぎばり)」(有刺鉄線)が見える。]

 

 小生帰り来たりてこの由をきき大いに怒り、次日右の高厦(こうか)の小生方へ向けたる方に壁をぬらんとするを知り、再び小生宅地内に入り込まざるように、こちらも限界に摩接(ませつ)して、曲鉤刺(かぎばり)を具せる鉄条を三列にはりつめたり。故にこの鉄条網と壁との間に、壁ぬり人足が身を入るること能わず。いろいろ歎願せしも小生聞き入れず、到底壁をぬること成らぬゆえ、図のごとく、屋根の上より大き綱を下げ、狭き板を中釣(ちゅうづり)にし、その上に人が坐して屋根の上より渡す板を一枚一枚とりて粗壁(あらかべ)に打ちつけて、ようやくこれを蓋(おお)えり。その時小生方に軍師ありて、この高建築に近接して堭(ほり)をほるべしと言いしが、小生は左様なことをすると、件の建築が必ず小生の邸地内へ倒れ込むからと言って見合せにせり。

[やぶちゃん注:「堭(ほり)」濠(ほり)。「堭」は「外堀り」。]

 

 当時県庁より吏人を派し説諭せしめ、また県知事みずから長文の諭書を出せしなどは(知事も学務課長も)法学士なるにしてははなはだ不穿鑿(ふせんさく)なことにて、一年後に東京で控訴院判事尾佐竹猛氏に聞きしに、家と家との間には必ず三尺の空間を除きおくべしと明文あり、またこれを犯せし者を訴えて改築せしめることを得れば、損償をとることもできることの由。もと当地に検事たりし、田村四郎作という新宮の弁護士、去秋来訪されしときも、民法にその箇条ありとて示され申し候。小生はいろいろの学問をかじりかいたが、亡父が、亡兄を法律をふりまわして多くの人ににくまれ、ついに破産すべき者なり、熊楠は必ず法律に明るくなるべからずといわれしを守りて、少しも法律を心得ざりしゆえ、かようの屈すべからざることをも屈せねばならぬへまをやらかし申し候。

[やぶちゃん注:「不穿鑿」この場合の「穿鑿」はフラットな「綿密にどこまでも調査すること」の意。調査が甚だ杜撰で不徹底であることを言っている。

「尾佐竹猛」(おさたけ たけき 明治一三(一八八〇)年~昭和二一(一九四六)年)は法学者(法制史専門)で明治文化研究者。ウィキの「尾佐竹猛」によれば、『石川県金沢に旧加賀藩の儒者の子として生まれる。上京後、明治法律学校(現明治大学)に学び』、明治三二(一八九九)年卒業。同年、第一回『判事検事登用試験に合格し、司法官試補。福井地方裁判所、東京控訴院・名古屋控訴院の判事を務め』、大正一三(一九二四)年から昭和一七(一九四二)年までは大審院判事となった。『判事の地位に留まらず、憲政史や刑罰史など法制史の研究を手がけた。研究姿勢は、史料を重視した実証主義、洒脱な着眼点、談話調で達意な文章を特徴とする。一方で』、大正一三(一九二四)年には『吉野作造・宮武外骨らとともに明治文化研究会を設立し、『明治文化全集』などを編集、後に吉野の後を継いで第』二代会長に就任している。大正七(一九一八)年以降、『執筆活動を活発化させ』、大正九年には日本の新聞人の先駆者の一人であった柳川春三を論じた論文「(新聞雑誌之創始者)柳川春三」を発表っした。その後、大正一四(一九二五)年には「維新前後に於ける立憲思想」を出版、これによって昭和三(一九二八)年には法学博士を授位された。昭和五(一九三〇)年に出版された「日本憲政史」では、『幕末から帝国議会開設に至る立憲政治の確立過程を描』き、昭和十一年からは『法律及政治』に於いて「帝国議会史前史」を『連載、大政奉還・五箇条の御誓文・自由民権運動などに関して新たな視点を提起した』。昭和一三(一九三八)年には『貴族院五十年史編纂会と衆議院憲政史編纂会の委員長に就任。このほか、明治大学法学部教授、九州帝国大学法学部講師を務めた。退官後は憲政史研究に専念するも、戦災などによって困難を極め、志半ば』にして戦後すぐに亡くなった。

「家と家との間には必ず三尺の空間を除きおくべしと明文あり、またこれを犯せし者を訴えて改築せしめることを得れば、損償をとることもできる」これは現在も有効な「民法」の「(境界線付近の建築の制限)」を規定した「第二百三十四条  建物を築造するには、境界線から五十センチメートル以上の距離を保たなければならない。」及び「2  前項の規定に違反して建築をしようとする者があるときは、隣地の所有者は、その建築を中止させ、又は変更させることができる。ただし、建築に着手した時から一年を経過し、又はその建物が完成した後は、損害賠償の請求のみをすることができる。」を指す。

「田村四郎作」不詳。

「いろいろの学問をかじりかいたが」「かいた」は「掻く」或いは「欠く」(部分を欠いて得た)で「かじる」の強調形であろう。

「亡父」父南方弥兵衛(後に弥右衛門)(文政一二(一八二九)年~明治二五(一八九二)年)。既に南方熊楠が述べた通り、明治二五(一八九二)年八月八日に数え六十四歳で死去した。熊楠は同年九月二十八日にアメリカから渡った直後のロンドンで父の訃報を受けている。

「亡兄」兄南方藤吉(後に弥兵衛)(安政六(一八五九)年~大正一三(一九二四)年)。明治十一(一八七八)年十月に父「弥兵衛」(当時)が隠居して家督を相続し「弥右衛門」を名乗り、藤吉は「弥兵衛」を襲名した。放蕩止まず、晩年には家を出、熊楠がこの「履歴書」を書いている前年、数え六十六で呉市西城町で没している。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の彼の解説によれば、藤吉と妻の愛の間に生まれた『長女くすゑ』(明治二一(一八八八)年生)『は、熊楠から目をかけられた一人であ』り、また、『熊楠の戸籍は、昭和三年六月の分家届まで藤吉とその長男弥太郎を戸主とする、和歌山市十三番庁七番地にあった』とある。

「少しも法律を心得ざりしゆえ、かようの屈すべからざることをも屈せねばならぬへまをやらかし申し候」「南方熊楠コレクション」の注には、この一件について、大正一〇(一九二一)年『三月に起った出来事』と時期を明らかにしており、『当時の大阪毎日新聞には「新設される南方植物研究所、鶏小屋事件が誘因」の題で、「近頃南隣に移つて来た某は去年の秋、前記研究園の直後にあつた小さな納屋を取壊』(とりこぼ)『つて其処に鶏小屋を建てるのだと云つてゐたが、何と思つたか長さ七間』(約十二メートル七十三センチ)、『高さ一丈四尺』(四メートル二十四センチ)『もあらうと云ふ可なり大きな建築に取りかかつた。(中略)驚いた南方氏から種々懸合つたが、埒明かずお互に感情の行きちがひから問題が益々大きくなつて仲裁者も飛び出したがとうとう妥協が出来ず偉大な『鶏小屋』は研究園を圧して聳え立つた。」と出る』とある。熊楠は蜜柑箱製造工場のように記し、養鶏場とは書いていない。実際に鷄小屋であったとしたら、鶏糞やダニや臭気で熊楠は致命的にキレたであろうから、ここは鷄小屋(最初の目論みはそうであったと仮定しても)とはならなかったものと考えられる。]

 

2017/05/12

譚海 卷之二 京極家士正木太郎太夫事

 

京極家士正木太郎太夫事

○戸田采女正(うねめのしやう)家の士に、正木太郎太夫と云(いふ)者あり。力量人にこへ劍術鍛錬なりしが、道の奧儀を祈請して遠州秋葉山に千日こもり、權現より鐡のくさりを授りえて歸る。此くさり魅魅魍魎盜賊の難等を避(さく)る事神(しん)有(あり)、因て諸人正木氏に懇望して、くさりを鑄(い)てもらひ、戸内(こない)にかけ災難を遁(のがる)るまじなひとするなり。此太郎太夫安永年中まで現在せし人也。

[やぶちゃん注:「京極家」「戸田采女正」この目次の「京極家」と「戸田」氏の関係性が私にはよく判らぬ後者は「正木太郎太夫」の絡みで美濃国大垣藩藩主の戸田家であることは間違いない(十一代に及ぶ藩主は二人を除いて総て「采女正」である)のだが。識者の御教授を乞う。

「正木太郎太夫」名前及び事蹟と没年から見て、剣客として知られた正木俊光(元禄三(一六九〇)年~安永五(一七七六)年)である。ウィキの「によれば、『剣術では正木一刀流、薙刀術・鎖鎌術・分銅鎖術(万力鎖)では正木流または変離流を称した。俊充、利充の表記もある。通称、庄左衛門 - 団之進 - 段之進 - 太郎太夫』。『大垣藩士、正木利品(太郎太夫)の養子で』七歳で『居合(伝系は不明)を父親に学』び、十八歳で『古藤田俊定(弥兵衛。古藤田一刀流』三『代目)に学び、後に俊定の門人、杉浦正景(平左衛門。唯心一刀流)を師とした』。正徳三(一七一三)年二十三歳の時、『三河国鳥居刑部左衛門宅を訪問した際に香取時雄(金兵衛)に会い、先意流薙刀術を学ぶ。後に先意流の祖、信田重次(一円斎。重治とも)に入門して免許を受けた』。『俊光は、これらの諸流に槍術や遠当の術(目潰し袋を投げつける術)を合わせ、「変離流」と称した』。本話に彼が鋳造した鎖が出るが、まさに彼は自身で、宝暦年間(一七五〇年代)に「万力鎖」を発案している。これは長さ二尺三寸(六十九・六九センチメートル)の『鎖の両端に分銅を付けた捕縛用具で、正木流玉鎖、あるいは分銅鎖、正木鎖などともいう。分銅にはさまざまな形状があり、軽量で袖に入れて持ち歩ける。俊光はこの鎖の用法を研究して「守慎流」と称した。また、この鎖は秋葉権現から賜った秘器で、掛けておくだけで盗難・剣難除けの御利益があるとして、鎖を求所望する者のためにひとつひとつ祈祷して渡したという』(下線やぶちゃん)。『俊光は生まれつき大力で』、未だ十二歳の時に、『病気中にもかかわらず』八千五百斤(約二十五貫=約九十四キログラム)の『庭石を動かし』たと伝え、長じては七十斤二貫目(約七・五キログラム)以上の鉞(まさかり)を毎朝八百回振っても、顔色一つ変えなかった、とある。『あるとき、綾川という肥満体の力士と力比べをした。まず、俊光が腰を落としてふんばる綾川を抱き上げた。次に綾川が右手一本で俊光の帯を持ってつり上げた。俊光は「いまのは拙者の目方を見せたまで。今度は両腕でこい」といった。今度は綾川がどんなに腰を入れても』、『俊光の足は地面から離れなかった』といい、『これを「身体軽重自在の術」という』のだそうである。

「秋葉山」現在の静岡県浜松市天竜区春野町領家の赤石山脈の南端に位置する標高八百六十六メートルの山。この山頂付近に三尺坊大天狗を祀った秋葉寺があった。これは現在、秋葉山本宮秋葉(あきはさんほんぐうあきは)神社となっている。古くから山岳信仰の対象であり、中世以降は修験道の霊場となった。現代では専ら火伏せの神として知られるが、秋葉権現の眷属は天狗であり、義経伝説で彼が天狗から剣術の鍛錬を受けたとするように、人型で超人的な能力を持つ天狗と武術は密接な紐帯があった。

「權現」秋葉山に伝説を残す修験者の神格化された「秋葉三尺坊権現」のこと。白狐に乗り、不動明王と同じく剣と羂索を持った、烏天狗の姿で描かれることが多い。

「神(しん)」神妙なる効験(こうげん)。

「安永年中」一七七二年から一七八〇年。]

 

甲子夜話卷之四 13 松平乘邑、茶事の事

 

4-13 松平乘邑、茶事の事

松平乘邑は、茶事を好まれける。原田順阿彌と云し同朋頭、これも茶事に精くして氣に入、折々招かれしが、あるとき茶會にて順阿彌詰なりしとき、會席に柚みそ出たり。其後順阿彌申には、此間は御庭の柚とり立にて、格別の香氣なりと云。乘邑何ゆへ庭の柚と云ぞとありしかば、御路次へ入りたるときと、退去のときと、御庭の柚實の數違へりと答へぬ。油斷のならぬ坊主よと乘邑云れしとなり。それほど懇意なりしが、或時政府にて、何か茶事の咄ありしとき、乘邑の云はれし數奇事を、順阿彌感じ入て、扨々御手に入候と申けるを、乘邑怒られ、不禮なりとありければ、順阿彌恐れて、四五日病を稱して籠りける。その後同寮の者へ、順阿彌見へず、何如と、乘邑申されければ、病に候と答ける。最早病も快かるべし、出候へとありければ、翌日より出勤しけるとなり。その嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ。

■やぶちゃんの呟き

「松平乘邑」既出既注

「原田順阿彌」本名原田孝定。検索を懸けると、本話の訳が幾つか出る。

「同朋頭」「どうぼうがしら」。幕府の職名で、若年寄に属して同朋(将軍や大名に近侍し、雑務や諸芸能を掌った僧体の者。室町時代以降、一般に「阿弥」号を称し、一芸に秀でた者が多かった。江戸時代には幕府の江戸城内での役職の一つとして規定され、若年寄支配で大名の案内・着替えなどの雑事を勤めた)及び表坊主(城中で大名や諸役人の給仕を担当。同朋よりも格上)・奥坊主(特に江戸城奥向きにあって、茶室を管理し、将軍の茶や諸侯の接待・給仕などを担当した坊主。小納戸(こなんど)坊主とも称した。無論、表坊主よりも格上)の監督を掌った。

「詰」「つめ」。松平乗邑の屋敷で行われた茶会に呼ばれたことととる。茶事(ちゃじ)を「つめた」は茶会業務に従事したことの謂いでろうが、ホストの差配業務に徹していては茶菓子は食はれまい。

「柚みそ」底本では編者は「柚(ゆ)みそ」とルビする。柚子味噌。

「何ゆへ庭の柚と云ぞ」「何故、我が屋敷の庭の柚子と言えるのじゃ?」。

「路次」底本では「ろじ」とルビするが、私は「ろし」と清音で読みたい。なお、ここは茶室へ向かう路地であろう。

「油斷のならぬ坊主よと乘邑云れし」ここは鋭い観察眼を褒めた側面もあるものの、それ以上に寧ろ、風流の道を旨とする茶人のくせに、抜け目なく、庭の柚子の実の数なんぞを数える、謂わば、「徒然草」の柑子に囲いをするような俗僧に同じい、いやな一面をも感じとって、「油斷」「ならぬ」と言ったものと私は解する。

「數奇事」「すきごと」。茶事に関わる意見。

「扮々御手に入候」「さてさておんてにいりさふらふ」。「いやはや! お手の入ったご立派なる謂いで御座るな。」。

「同寮の者」順阿弥の同僚。

「快かるべし」「よかるべし」。乗邑は自身の怒り故の仮病と判っているから、「ああ。あれで発した病か。それならもう恢復したはずじゃ」と言って、暗に許すから「出て参れ」という意を含ませているのである。

「嚴剛も亦かくの如くなりしとぞ」「嚴剛」(げんがう)は格別に厳格なことであるが、「その厳格さもまたガチガチの一辺倒なのではなく、硬軟美事に使い分けるらるるさま、「かくの如」しであったとのことである、というのである。

「想山著聞奇集 卷の參」 「金を溜たる執念、死て後、去兼たる事 幷、隱盜現罸を蒙りたる事」

 

 金を溜たる執念、死て後、去兼たる事

  幷、隱盜現罸を蒙りたる事

Udeniude

 江戶市谷藥王寺の秀乘阿閣梨[やぶちゃん注:不詳。]は上州の人にして、初め、同國多胡(たご)郡小串(おぐし)村【高崎より南三里程の所と。】地藏寺惠淨律師[やぶちゃん注:不詳。]の弟子なり。此律師、若き時、本寺大和國長谷寺の學寮に居らるゝ節、或日、右の手首に、また右の手首計(ばかり)壹つ取付(とりつけ)たる者[やぶちゃん注:意味が分からぬ方は挿絵を見られよ。]來り、懺悔(さんげ)して咄(はなす)樣(やう)、私在所に何某なる者有(あり)て、若き時より、實に千辛萬苦して、餘程の金をため申候に、生命限り有て、大病に及ひ[やぶちゃん注:ママ。]、終に空しくならんとせしに、此時に至り、此金に執着(しふぢやく)を殘し、右の手に堅く持(もち)たるまゝ、臨終をなし申候。扨、死(しし)て後も、此金を握り居て、如何しても放し申さず。よつて詮方なく、此金に執心殘りては、後の世の妨げとも成(なる)べきまゝ、此儘に埋葬なすべしとて、やがて野送り[やぶちゃん注:野辺の送り。葬送。]をもなし申候を、私、此事、能(よく)存罷在(ぞんじまかりあり)、日來(ひごろ)の欲心增長して、夜分、かの墓所へ行(ゆき)て、人知れず掘穿(ほりうが)ち、手探(てさぐり)にて、かの死人の持(もち)たるかねを、むりにとらんとすれども、放さゞるまゝ、力に任せて指をこぢ開くに、先にてもたまり兼しか、金を放して、此(かく)の如く手首に取付(とりつき)、又々如何しても放し得ず。如何とも仕樣も御座なく、其内に人々も寄合(よりあひ)、敎訓をもなしくれ、彼(かの)者の菩提を吊(とむら)ひ、回國修行をもなし申(まうす)へし[やぶちゃん注:ママ。意志・決意の意。]。又、懺悔には罪の滅すると云(いふ)事も候得は、此手の離るゝ迄、佛閣靈地へ參詣をもなし申へしとて、かくの通り、彼(かの)死人の手首より切取吳(きりとりくれ)、思はぬ恥辱を蒙り申候。罪業深きとは申ものゝ因果の卽罸(そくばつ)、悲しき目に遭(あひ)申候と語るを見たりとて、をりをり惠淨律師の咄されたる由、秀乘阿闍梨申されき。この惠淨と云(いふ)律師は、今より、四代程以前の住職にて、此律師の學寮に居らるゝ時の事故、安永・天明[やぶちゃん注:一七七二年か一七八九年。]頃の事なりと、是も秀乘阿闍梨、申されたり。又松前の箱館より二里東、大野村[やぶちゃん注:現在の北海道北斗市本町附近か。ここ(グーグル・マップ・データ)。]といふの邊りに、小庵有。此庵主は元九州の者なるが、はじめは强惡(ごうあく)にて、天罸を蒙り、發心して六十六部と變し[やぶちゃん注:「へんじ」か。]、道心至(いたつ)て堅固と成(なり)て、此所へ來りて住居成居(すまひなしをり)たるが、其發心の譯といふは、村内にて、金子僅(わづか)拾兩を溜(ため)、前段の話のごとく、死前に及びて、其金に執念を殘して死に兼、右の金を手に堅く持たるまゝにて臨終をなし、扨、死(しし)て後も右金を放さゞる故、止(やむ)事を得ず、其儘に埋葬なしたり。此事を、彼(かの)强惡もの知居(しりゐ)て、夜陰、竊(ひそか)に三昧(ざんまい)[やぶちゃん注:墓地。]へ行(ゆき)て墓を掘壞(ほりくだ)き[やぶちゃん注:送り仮名「き」ではこう読むしかない。「き」が「ち」ならば「ほりこぼち」であるが。]、金を取(とら)んとすれども、放さゞる儘、是も力に任せて、指を一本づゝこぢ開きに懸ると、其手を放して、二の腕に握り付(つき)たり。如何(いかに)なしても放さゞる儘、其場はむりに死人の腕を捻切(ねぢきり)て歸りたれども、其手、離れざるのみならず、頓(やが)て其握り付(つか)れたる所より、腕腐り出して、久々難儀なし、遂に腐り落(おち)て、無手(てんぼ)と成(なり)たり。爰に至りて、初(はじめ)て人間の執心の甚だ敷(しき)事と、天罸の遁(のが)れかたくて、死人の腕を捻取來(ねぢとりきた)りて、己(おのれ)の腕も又、生(いき)ながら腐れおち、現報の炳然(いちぢるき)事を感して、六十六部と成(なり)て、諸國の神佛へ參詣なし、彼(かの)者の執着消滅と己の罪障消滅とを祈りて、懺悔なし步行(ありき)、此所に參り住居(すまひ)て、悟道徹底の道者(だうじや)とは成居(なりをり)たりと、人々の咄を聞(きき)たる故、稱佛上人[やぶちゃん注:不詳。]【德本(とくほん)上人の弟子なり。】彼(かの)地に留錫(るじやく)の頃、【文政十二年[やぶちゃん注:一八二九年。]の事と覺居(おぼえを)らるゝよし。】態々(わざわざ)彼(かの)庵へ訊(おとな)ひて、庵主(あんじゆ)に面會して咄を聞(きく)に、人の話せし通りにて、腕は、右の肩より纔(わづか)壹寸計(ばかり)殘り居(をり)たり。其(その)道心の堅固なる事は、流石(さすが)の大惡人の善根に飜りたる故、餘人の及ぶ所にあらず。年は其時、六十計(ばかり)にて有たりとの事。稱佛上人より直(ぢか)に聞(きき)たり。前の談と割符(わりふ)を合せたる如き事なれども、全く兩談[やぶちゃん注:同様の話。]と知られたり。か樣の事は、此外にも、まだまだ諸國に有べき事にて、此後迚(とて)も、又々出來(いでき)そふ成(なる)事也[やぶちゃん注:「そふ」はママ。]。夫(それ)に付(つけ)ても、死期(しご)に及ひては[やぶちゃん注:「ひ」はママ。]、金に執心は殘すまじ。たとへ死人(しびと)の持行(もちゆき)たりとも、其金の用をなさゞるは、誰人(たれひと)にもしれ居(をり)し事也。大集經(だいじつきやう)に、妻子珍寶及王位臨命終時無隨者と有。然れども、千辛萬苦して溜(ため)たる金故、其期(ご)に及びては、愚智と成(あり)て執着し、死後にも、斯(かく)のごとき曲事(くせごと)の出來(いできた)るのみならず、長く冥府に迷ふ種(たね)となせしは、殘念至極の事也。七珍萬寶は生(しやう)有(ある)内の寶と辨(わきま)へて、末期(まつご)に至りて、金に執(しふ)は殘すまし[やぶちゃん注:ママ。]。又、人の溜置(ためおき)たる金を貪り取(とる)事の惡敷(あしき)といふことは、如何成(いかなる)惡人も能(よく)しり居(をり)てなせし事なれども、天罸遁れがたく、來世を待(また)ずして、か樣に即罸を蒙る事も有ものなり。積不善(せきふぜん)の家には餘殃(よわう)有(あり)とは此事故、己を克(よく)して善を勸め、惡を懲(こら)して、纔(わづか)の生涯を安穩に送りて、恥辱を殘す間數(まじき)事也。焉兮(あゝ)、是等の事は、誰人(たれひと)も能(よく)知り居(を)ることながらも、筆に任せて記し添置(そへおき)ぬ。今世にて、直(ただち)に報ひの來(きた)るは報ひ方薄く、又、生を隔(へだて)て、來世に成(なり)て報ひの來るは、報ひかた重く來るといふは佛說なれば、卽報の來らざるは、猶更、夫(それ)より重き果(くわ)を追(おひ)て受(うく)る事を兼て心得おき、別(べつし)て隱惡(いんあく)はなす間敷(なじき)也。太上感應篇(たいじやうかんなうへん)に、善惡之報如影隨ㇾ形と有。是は、影は近ければ小(ちひさ)く、遠き程、次第に大きく成(なる)譬へなりと聞(きく)。佛說と同じ事なり。

[やぶちゃん注:「江戶市谷藥王寺」現在の東京都新宿区市谷薬王寺町(いちがややくおうじまち)(旧川田ヶ久保)にあった真言宗医王山薬王寺。明治維新時に廃寺となって法灯は文京区大塚の護国寺に移され、現存しない。同町はここ(グーグル・マップ・データ)。

「同國多胡(たご)郡小串(おぐし)村【高崎より南三里程の所と。】」旧群馬県多野郡入野(いりの)村で現在は多野郡吉井町(よしいまち)小串。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「地藏寺」不詳であるが、現在、同地区内に真言宗豊山派の「地勝寺」が現存する。ここか?(グーグル・マップ・データ)。

「本寺大和國長谷寺」現在の奈良県桜井市初瀬(はせ)にある真言宗豊山派総本山豊山神楽院長谷寺。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「六十六部」狭義には、「法華経」六十六部分を書き写して日本全国の六十六ヶ国の国々の霊場に一部ずつ奉納して廻った僧を指した。鎌倉時代から流行が始まり、江戸時代には遊行(ゆぎょう)聖以外に、諸国の寺社に参詣する巡礼者をも指すようになり、白衣に手甲・脚絆・草鞋掛けという出で立ちで、背に阿弥陀像を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠を被った独特の姿で国を廻った。後にはそうした巡礼姿ながら、実際には米や銭を請い歩いた乞食も多く出た。単に「六部」とも呼称する。

「無手(てんぼ)」「手棒(てぼう)」が「手(て)ん棒(ぼう)」と訛り、さらに「う」が落ちたもの。棒のような手で、指や手首から先がないことを言う。

「炳然(いちぢるき)」当て読みで、音は「へいぜん」原義は「光り輝いているさま」で、転じて「明らかなさま」となった。

「德本上人」江戸後期の浄土僧で念仏聖として知られた徳本(宝暦八(一七五八)年?~文政元(一八一八)年?)。紀伊国日高郡の生まれで、文化一一(一八一四)年に江戸増上寺典海の要請により、江戸小石川伝通(でんづう)院の一行院に住し、庶民に十念を授けるなど教化に勤めた(特に大奥女中で帰依する者が多かったという)。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、その範囲は関東・北陸・近畿にまで及んだ。「流行神(はやりがみ)」と称されるほど熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けた。彼の念仏は木魚と鉦を激しく叩く独特なもので「徳本念仏」と呼ばれた(ここはウィキの「徳本」に拠った)。

「留錫」行脚僧がある場所に暫く滞在すること。

「大集經」「だいじっきょう」は「だいしゅうきょう」と読んでもよい。正式には「大方等大集経(だいほうどうだいじっきょう)」と称し、中期大乗経典の一つで、釈迦が十方の仏菩薩を集めて大乗の法を説いたものとされ、「空」思想に加え、密教的要素が濃厚な経典である。

「妻子珍寶及王位臨命終時無隨者」「妻子・珍寶及び王位、命終に臨みたる時、隨ふ者、無し」と訓じておく。これは「大集経」の「妻子珍寳及王位 臨命終時不隨身 唯戒及施不放逸 今世後世爲伴侶」という四句の偈の一部である。

「積不善の家には餘殃有」これは「易経」の一節。「積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。」(積善の家は必ず、餘慶(よけい)有り。積不善の家は必ず餘殃有り。)で、全く善行を積むことのなかった一族にはその祖先の悪事の報いとして「余殃」(よおう:子孫への災い)が及ぶという謂いである。

「太上感應篇」南宋初期に作られた道教の経典。善行を勧め、悪行を諫める善書の代表的な書物。参照したウィキの「太上感応篇」を読まれたい。

「善惡之報如影隨ㇾ形」「善惡の報ひは「影」の「形」に隨ふがごとし」。]

南方熊楠 履歴書(その31) フィサルム・グロスム

 

[やぶちゃん注:以下、「日夜番(ばん)しおりしなり。」までの三段落は総て、底本では全体が二字下げ。]

 この外に枯菌類に、フィサルム・グロスムというものあり。これは他の粘菌とちがい、初め朽木を食って生きず、地中にあって地中の有機分を食い、さて成熟に臨んで地上に現われ、草木等にかきのぼりて生熟するが、中にも土壁や石垣等の生気なきものにはい上りて成熟すること多し。明治三十四年に、小生和歌山の舎弟の宅の雪隠の石壁に、世界中レコード破りの大なるものを見出だす(直径三寸ばかり)。去年秋小畔氏邸の玄関の履(くつ)ぬぎ石につきしものは一層大きかったらしい。他にもアフリカ辺にかくのごとく土中に生活する粘菌二、三種見出だされたるを知る。これは先に申せし、生きた物につかねば成熟せぬものどもと反対に、なるべく生命のなき物を好むとは妙なことなり。朽木腐草などを食って生活するものよりも、有機分の少なき土の中に活きおりては体内に摂取する養分も少なかるべく、したがって成熟した後の大きさも、生物を食うものどもに比して小さかるべきに、事実はこれに反し、尋常生物の腐ったのを食うものどもよりも数百倍または千倍の大きさなり。これをもって見ると、滋養分の多い物を食うから身体大きく、滋養分の少ない物を食うから身体小さいというわけに行かぬと見える。このことを研究したくて、右の畑にこの粘菌をも栽え、不断その変化発生を見たるなり。

[やぶちゃん注:「フィサルム・グロスム」真核生物アメーバ動物門コノーサ亜門変形菌綱モジホコリ目 Physarales モジホコリ科 Physaraceae モジホコリ属クダマキフクロホコリPhysarum gyrosum。和歌山県公式サイト内のこちら(県総合情報誌『連』の内)に同種の画像があり、そのキャプションに『クダマキフクロホコリ:合祀反対運動により、収監されていた熊楠は、この種類の変形体の色彩変化を刑務所内で観察している』とある。英文サイトのこちらは五葉の画像で細部が観察出来る。こちら(「入生田菌類誌資料」よる(PDF))もよいが、そこでは学名がPhysarum gyrosa となっている(シノニムであろう)。この拘留はサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「神社合祀反対運動」によれば、明治四三(一九一〇)年『八月二十一日のことで、紀伊教育会主催の夏期講習会が田辺町の田辺中学校を会場に開かれたおり、これまで県庁の社寺係をつとめ、合祀督励に再三田辺に来たことのある相良渉(さがら わたる)が、今度』、『県の内務部長で紀伊教育会の会長として来田することを知り、熊楠は積年の思いを叩きつけるつもりで面会を求めた』。『講習会は七日目で、熊楠が訪れたときは閉会式の最中であった。受付で、しばらく待つように言われたのを、その間に逃がすつもりと受け取った熊楠は、ビールの酔いも手伝って、会場に押し入り、手に持っていた標本袋を会場に投げ込み、式場は騒然とした。この件で「家宅侵入」の疑いから十八日間の未決拘留となり、九月二十一日、証拠不十分で免訴の判定がなされた』。という事件を指しており、南方武勇伝の中でもかなり知られた学術物セットのそれである。南方熊楠満四十三の時であった。

「明治三十四年」一九〇一年。]

 

また妙なことは、粘菌類が活動しておるうちの色は白、紅、黒、紫、黄、緑等いろいろあるが、青色のものはなかりし。しかるに大正八年秋末に、この田辺の知人で杓子かけ、くらかけ、ちりとり、鍋ぶた等を作りて生活する若き人が妙なものを持ち来たる。春画に見える淫水のようなものが土の上に滴下しおる。その色がペレンスのごとく青い(きわめて快晴の日の天また海の色なり)。小生はこの人戯れに糊(のり)に彩色を混じ小生を欺きに来たりしかと思いしが、ついでありしゆえその宅にゆき件(くだん)の物の生ぜし所を見るに、ちょうど新たに人を斬ったあとのごとく、青き血が滴(したた)り飛びおる体(てい)なり。およそ三尺ほどの径(わた)りの所(雪隠の前)の地面の中央には大なる滴りがあり。それより四方八方へやや長くなりて大きさ不同の滴りが飛び散りおれり。その滴りを見ると、蠕々(じゆじゆ)として動くから粘菌の原形体と分かり、大なる樽の栓をその辺へころがしおき、この淫水様の半流動体がこの栓に這い上り、全くこれを蓋(おお)うたなら持ち来たれと命じ帰宅すると、翌朝持ち来たり栓が全く青色になりおる。

[やぶちゃん注:「大正八年」一九一九年。

「杓子かけ」(杓子掛け)は杓子や擂粉木(すりこぎ)などの台所用品などを収納するための道具。太い竹の節おとに斜めの穴を開け、そこに杓子などを差し込んでぶら下げ掛けておくようにしたもので、台所の壁等に配された。

「くらかけ」本来は鞍を掛けて置く四脚の台を指すが、この場合はそれを踏み台として援用したことから、日常の用に用いた、四脚の踏み台・足継ぎのことか、或いは、腰掛けを意味していよう。

「淫水」老婆心乍ら、注しておくと、これは精液のことではない性行為の際に男女の生殖器から分泌される潤滑性を持った液(女性のそれはバルトリン腺分泌液・スキーン腺分泌液等と、男性のそれは尿道球(きゅう)腺液・カウパー氏腺分泌液等と呼称する)の総称である。

「ペレンス」「日本国語大辞典」にも載らず、少し苦労したが、「世界大百科事典」の「紺青(こんじょう)」の項等によって、鉱物性の青色無機顔料の一種であり、一七〇〇年代初頭にドイツで発明されて後にフランスで製法改良された、現在の所謂、「プルシアンブルー」(Prussian blue)のことであることが判った。そうして、同色名は「ベルリン青」(Berlin blue)、「ミロリー・ブルー」(Milori blue:製法改良したフランス人の名に因む)、「ベレンス」などとも呼ばれるとある。この「ベレンス」はネットで調べて見ても、ラテン文字の綴りが見当たらないのであるが、ウィキの「紺青」によれば、日本ではベルリン藍が訛って「ベロ藍(あい)」と呼ばれたとあり、どうもこの「ベレンス」も、地名の「ベルリン」に茜色のフランス語として知られた「ガランス」(フランス語:garance)を強引に結合させた、和製造語のような気が私にはしてきている。]

 

Physarum_gyrosum

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[やぶちゃん注:一枚目が原図。二枚目は南方熊楠の意を受けて、私が彩色を施し、キャプションを除去したもの。但し、Physarum gyrosum の画像を検索して見ても、熊楠の描いたような血紅色の半流動体を滲出させたものは残念ながら見当たらなかった。]

 

さて、その栓を紙箱に入れ、座右に置いて時々見ると、栓の全体を被(おお)った青色の粘液様のものが湧きかえり、そのうち、諸処より本当の人血とかわらざる深紅の半流動体を吐き出す。翌朝に至り下図のごときものとなり、すなわちフィサルム・グロスムという粘菌で、多く栓の上の方に登りて成熟しおりたり。(灰茶色が尋常なれど、この時に限り、灰茶色にして外面に青色の細粒をつけておりたり。しかるに、数日のち青色の細粒は全く跡を留めずなりぬ。)むかしより支那で、無実の罪で死んだものの血は青くなり、年月を経(ふ)るも、その殺された地上にあらわるると申す。周の萇弘という人は惨殺されたが、その血が青くて天に冤(えん)を訴えたという。また、倭冠(わこう)が支那を乱坊(らんぼう)しあるきしとき、強姦の上殺された婦女の尸(しかばね)の横たわった跡に、年々青い血がその女の像形(すがたかたち)に現われたということあり。これはこの粘菌の原形体が成熟前に地上に現じ、初めは青いが、おいおい血紅となるので、これを碧血となづけ、大いに恐縮したことかと思うて、ロンドンの『ジョーナル・オヴ・ボタニー』へ出しおけり。とにかく、従来かつて無例の青色の原形体を見たのは小生一人(およびむろん発見者たる匠人また小生の家族)で、何故普通にこの種の粘菌の原形体は淡黄なるに、この一例に限り青色なりしかは今において一向分からず、この研究のためにもその種を右の畑にまき、日夜番(ばん)しおりしなり。

[やぶちゃん注:ここまでが、底本では二字下げ

「萇弘」(ちょうこう ?~紀元前四九二年)は周の霊王・敬王に仕えた学者で政治家。彼は讒言に遭って郷里の蜀に戻って自殺したが、蜀の民が哀れに思ってその血を隠していたが、三年ほど経った後、その血が化して青く美しい碧玉になったという。そこから「碧血丹心」(「至上の真心・忠誠心・赤心(せきしん)」の意。「碧」は「青」、「丹心」は「真心」)という故事成句が生まれた。

「倭寇」十三世紀から十六世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊及び私貿易・密貿易を行った貿易商人の総称。

「乱坊(らんぼう)」乱暴。

「ジョーナル・オヴ・ボタニー」Journal of Botanyであるが、どこの国の植物学雑誌か不明。American Journal of Botanyならば、一九一四年に創刊されている。但し、「南方熊楠コレクション」の注によれば、『上松蓊宛書簡(大正八年十月十二日付)では「近日『ネイチュール』へ出すつもり」とある』と記す。本書簡は大正一四(一九二五)年二月のものである。]

 

しかるに花千日の紅なく人百日の幸なしとか、大正九年末に及び、小生の南隣の家を、ある(当時の)材木成り金が買って移り住む。もと小生の宅は当地第一の有福の士族の宅地で悉皆(しっかい)で千坪に余るべし。その家衰えて幾度にも売りに出し、いろいろと分かれて、拙宅が中央、さて北隣りの宅は小生知人のものとなり(これは本(もと)持主の本宅たりし)、南隣りの宅がいろいろと人の手に渡りてこの成り金のものとなりしなり。

[やぶちゃん注:「花千日の紅なく人百日の幸なし」「水滸傳』(元・施耐庵著)「第四十三囘 錦豹子小徑逢戴宗 病關索長街遇石秀」に「常言、『人無千日好、花無百日紅。』。」(常に言へり、「人に千日の好(かう)なく、花に百日の紅(こう)なし。」と。)に基づく。「南方熊楠コレクション」の注では、『人の親しい交際も花の盛りと同様に長続きしないものだということ』とする。その場合は、「好」「幸」を「よしみ」「幸福」の意でとっていよう。なお原典の「千」と「百」の数値は理屈から考えても腑に落ち、この引用は熊楠の誤りで、中華に於ける百花の王たる牡丹の花でも、千日もの永きに渡ってはその美しく紅の花弁を咲き誇り続けることが出来ぬように、人もほんの百日の間でさえ良運・栄光に恵まれ続けるということ出来ぬ、というほどの謂いであろう。因みに、実際の牡丹(ユキノシタ目ボタン科ボタン属 Paeonia)の花は開花してから長くてもせいぜい一週間ほどしかもたないから、そのスケール比を適応すれば、人の盛運は十七時間に満たないということになる。

 

「大正九年」一九二〇年。

「小生の南隣の家」熊楠は大正五年四月に田辺の中屋敷町に約四百坪の宅地と家とを弟常楠の名義で購入して転居していた。

「悉皆」全部(で)。

「千坪」テニス・コート五面分ほど。]

 

2017/05/11

柴田宵曲 續妖異博物館 「吐き出された美女」

 

 吐き出された美女

 

 泉鏡花はこの話を書くに嘗り、殊更に「知つたふり」と題し、「舊雜譬喩經」や「アラビアン・ナイト」を引合ひに出した。已に比較濟みの材料を繰り返したところで始まらぬから、こゝは「續齊諧記」だけで往くことにする。この書物は見たことがないので、「酉陽雜俎」で間に合すより仕方がない。

[やぶちゃん注:「泉鏡花」の「知つたふり」は明治四〇(一九〇七)年発表。(サイト「鏡花花鏡」のこちらにあるPDF版で読めるが、一部の表記がやや読み難くなっているのが難点ではある)。

「舊雜譬喩經」「くぞうひゆきょう」(現代仮名遣)と読み、呉の康僧会(こそうえ)が漢訳した物語性の高い経典であるが、原経典は現存しない、明らかに「アラビアン・ナイト」と同源の説話が中に含まれている。

「續齊諧記」南朝梁の官僚で文人呉均(四六九年~五二〇年)が六朝時代の宋の東陽无疑 (むぎ)の書いた志怪小説集「斉諧記」(せいかいき)に擬えて書いた志怪小説集。]

 

 許彦といふ男が綏安山を通りかゝると、路傍に寢ころんでゐた年の頃二十歳ばかりの書生が聲をかけて、どうも足が痛くて堪らない、君の擔いでゐる鵞鳥の籠の中に入れて貰へぬか、と云つた。彦も笑談半分によろしいと答へたら、書生は直ぐ乘り込んで來た。籠には鵞鳥が二羽入れてあつたのだが、そこへ書生が加はつても一向に狹くならず、擔ぐ彦に取つて重くもならぬのである。やがて一本の木の下に來た時、書生は籠から出て、この邊で晝飯にしようと云ひ、大きな銅の盤を吐き出した。盤の中には山海の珍味がある。酒數獻𢌞つたところで、書生が彦に向ひ、實は婦人を一人連れてゐるのだが、こゝへ呼び出して差支へあるまいか、と云ふ。彦は異議の唱へやうがない。忽ち口から吐き出したのは、十五六ぐらゐの絶世の美人であつた。そのうちに書生は醉拂つて眠つてしまふ。今度はその美人が、實は男を一人連れて居りますので、ちょつとこゝへ呼びたいのです、どうか何も仰しやらないで下さい、と云ひ出した。女の吐き出したのは似合ひの美少年で、先づ彦に一應の挨拶をした後、盃を擧げてしきりに飮む。たまたま書生が目を覺ましさうな樣子を見せたので、女は錦の帳(とばり)を吐いて隔てたが、愈々本當に起きさうになるに及んで、先づ美少年を呑却し、何事もなかつたやうに彦に對坐してゐる。書生はおもむろに起きて、大分お暇を取らせて濟まなかつた、そろそろ夕方になるからお別れしよう、と云ひ、忽ち女を呑み、大銅盤を彦に贈つて別れ去つた。

[やぶちゃん注:「許彦」「きよげん(きょげん)」。

「綏安山」「すいあんざん」。現在の江蘇省無錫市宜興市の西南にある、と「酉陽雜俎」の東洋文庫の注にはあるが、地図上では発見出来なかった。

 宵曲は「續齊諧記」「は見たことがない」とするが、幸い、中文の「維基文庫」のこちらに原文があったので、他の中文サイトの同話と校合し、加工して引いておく。

   *

陽羡許、於綏安山行、遇一書生、年十七八、臥路側、云痛、求寄鵝籠中。以爲言。書生便入籠、籠亦不更廣、書生亦不更小、宛然與雙鵝並坐、鵝亦不驚。負籠而去、都不覺重。前行息樹下、書生乃出籠、謂曰、「欲爲君薄設。」。曰、「善。」。乃口中吐出一銅奩子、奩子中具諸餚饌、珍饈方丈。其器皿皆銅物、氣味香旨、世所罕見。酒數行、謂曰、「向將一婦人自隨、今欲暫邀之。」。曰、「善。」。又於口中吐一女子、年可十五六、衣服綺麗、容貌殊、共坐宴。俄而書生醉臥、此女謂曰、「雖與書生結妻、而實懷怨。向亦窃得一男子同行、書生既眠、暫喚之、君幸勿言。」。曰、「善。」。女子於口中吐出一男子、年可二十三四、亦穎悟可愛、乃與敘寒溫。書生臥欲覺、女子口吐一錦行障、遮書生。書生乃留女子共臥。男子謂曰、「此女子雖有心、情亦不甚、向復窃得一女人同行、今欲暫見之、願君勿洩。」。彦曰、「善。」。男子又於口中吐一婦人、年可二十許、共酌、談甚久。聞書生動声、男子曰、「二人眠已覺。」。因取所吐女人、還納口中。須臾、書生處女乃出、謂曰、「書生欲起。」。乃吞向男子、獨對坐。然後書生起、謂曰、「暫眠遂久、君獨坐、當悒悒邪。日又晚、當與君別。」。遂吞其女子、諸器皿悉口中。留大銅盤、可二尺廣、與別曰、「无以藉君、與君相憶也。」。大元中爲蘭台令史、以盤餉侍中張散。散看其銘題、云是永平三年作

   *

原話は宵曲の引いた「酉陽雜俎」よりも入子構造がより複雑で描写も艶で遙かによい。最後の部分は太元年間(三七六年~三九六年)に許彦が蘭台の太史に昇った時、嘗て貰ったその銅盤を侍中の張散に贈ったが、張がその銘を調べて見たら、漢の永平三年(紀元六〇年)作とあったとある。比較に供するため、「酉陽雜俎」版も示しておく。それは「酉陽難俎續集」の「卷四 貶誤」に「續齊諧記」よりとして出る。

 

   *

許彦於綏安山行、遇一書生、年二十餘、臥路側、雲足痛、求寄鵝籠中。彦戲言許之、書生便入籠中。籠亦不廣、書生與雙鵝並坐、負之不覺重。至一樹下、書生乃出籠、謂彦曰、「欲薄設饌。」。彦曰、「甚善。」。乃於口中吐一銅盤、盤中海陸珍羞、方丈盈前。酒數行、謂彦曰、「向將一婦人相隨、今欲召之。」。彦曰、「甚善。」。遂吐一女子、年十五六、容貌絶倫、接膝而坐。俄書生醉臥、女謂彦曰、「向竊一男子同來、欲暫呼、願君勿言。」。又吐一男子、年二十餘、明恪可愛、與彦敘寒溫、揮觴共飮。書生似欲覺、女復吐錦行障障書生。久而書生將覺、女又吞男子、獨對彦坐。書生徐起、謂彦曰、「暫眠遂久留君、日已晩、當與君別。」。還復吞此女子及諸銅盤、悉納口中、留大銅盤與彦、曰、「無以籍意、與君相憶也。」。釋氏「譬喩經」云、『昔梵志作術、吐出一壺、中有女、與屛處作家室。梵志少息、女復作術、吐出一壺、中有男子、復與共臥。梵志覺、次第互吞之、柱杖而去。』。餘以呉均嘗覽此事、訝其説、以爲至怪也。

   *

最後の引用中の「梵志」はバラモン。この話は、実は私が殊の外、偏愛する話である(いっとう最初は、高校二年の時、蟹谷徹先生の漢文の授業で面白く聞いた。変化(へんげ)を見せるのが仙人風の老人であったこと、吐き出す中には大きな屋敷が含まれていたことなどを覚えているが、どうもそのへんは蟹谷先生お得意のオリジナル・アレンジであったのかも知れない)。この入れ子が、口から出、口へと戻り、まさに虚実空間がクライン管のようになってゆく眩暈がことさらによいではないか!]

 

 西鶴はこの話を「諸國はなし」に取り入れる時、舞臺を畿内にした。通りかゝるのは平野の里へ歸る木綿買ひだから、鵞鳥入りの籠などといふ厄介なものは擔いでゐない。折ふし時雨の空で、聲をかけるのも二十歳ばかりの書生とは緣の遠い、八十餘りの老人である。老足の山道がまことに難儀である、暫く負うて貰ひたい、と云ふ。木綿買ひは重荷があるから引受けられぬと斷つたが、いたはりの心さへあればさう重くもなるまい、と都合のいゝ事を云つて、鳥のやうに飛び乘つた。一里ばかり來た松原のところで、丁度天氣になつたのを見て、さぞお草臥(くたび)れでしたらう、酒でも一つと云ふなり、吹き出す息の中から手樽が現れ、次いで黃金の鍋が現れる。とてもの馳走に酒の相手をと云つて吹き出したのは、十四五の美女であつた。これが琴を彈じ酒をすゝめる。いゝ加減醉ひの𢌞つたところで時ならぬ瓜が出る。そのうちに老人は美人の膝を枕に寢てしまつた。美女は小聲になつて、隱し男に逢ふことを見許して下されと云ひ、十五六の若衆を吹き出し、手を引き合つてその邊を歌ひ步きなどしてゐたが、二人でどこかへ姿を消した。この間に老人が目を覺ましたらと冷々するほどに、いつの間にか歸つて來て、女は若衆を呑み、老人が起きて女を呑む順序は別に變りもない。先ほどの金の鍋一つを商人にくれ、老人は住吉の方へ飛び去る。商人は假寢の夢さめて、「殘る物とて鍋ひとつ」といふことになつてゐる。その頃生馬(しやうば)仙人なる者が毎日住吉より生駒に通ふといふ話であつたから、多分その老人であつたらうといふのが結末である。

[やぶちゃん注:「平野」(ひらの)は固有地名。現在の大阪市東区住吉区の内で、当時は平野村。綿や木綿の集散地として知られた。

「手樽」(てだる)は携帯出来るように弦(つる)のついた小さな酒樽。

「生馬(しやうば)仙人」明治書院の「決定版 対訳西鶴全集 5」(麻生磯次・富士昭雄訳注)の注によれば、『摂津国住吉の人で、河内国高安(大阪府八尾市内)の東山の麓、生馬(いこま)谷に住んだ。寛平九』(八九七)『年行脚の僧明達(みょうたつ)が、生馬谷でこの仙人にあい、瓜五個を馳走されたという(本朝列仙伝、二)本文挿絵』(後掲。右下)『にも瓜を描いてある』とある。

 以上は西鶴の「近年諸國咄 大下馬 卷二」の「四 殘る物とて金(きん)の鍋(なべ)」である。以下に原典を示す。底本は平成四(一九九二)年明治書院刊の「決定版 対訳西鶴全集 5」の原文部分を用いたが(一部の略漢字を正字化した)、読み易く改行や記号を加え、読みは最小限に留めた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りや特異な読みもママである。挿絵は底本が薄いので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの鮮明な画像をトリミング・合成処理して添えた。

   *

 

     殘る物とて金の鍋

 

Nokorihakinnonabe

 

 俄に時雨(しぐれ)て、生駒の山も見えず、日は暮におよび、平野の里へ歸る、木綿買(もめんがい)、道をいそぎ、むかし業平(なりひら)の、高安(たかやす)がよひの、息つぎの水といふ所迄、やうやうはしりつきしに、跡より八十あまりの、老人きたつて賴むは、

「ちかごろの[やぶちゃん注:「甚だなる・大変な・非常な」の意。]無心なれども、老足(らうそく)の山道、さりとては難義なり。しばらく負(あふ)てたまはれ。」

といふ。

「やすき事ながら、かゝる重荷の折ふしなれば、叶はじ。」

と申(まうす)。

「いたはりのこゝろざしあらば、おもくはかゝらじ。」

と、鳥のごとく飛乘(とびのり)て行(ゆく)に、一里ばかりも過(すぎ)て、松原の陰にて、日和(ひより)もあがれば[やぶちゃん注:「雨が止んだので」。]、老人ひらりとをりて、

「草臥(くたぶれ)の程も、おもひやられたり。せめては、酒ひとつ、もるべし。是へ。」

と、見へわたりて吸筒(すいづゝ)[やぶちゃん注:水や酒を入れる携帯用の竹筒。]もなく、不思議ながら、ちかふよれば、ふき出す息につれて、うつくしき手樽ひとつ、あらはれける。

「何ぞ肴(さかな)も。」

と、こがねの小鍋いくつか出しける。是さへ合點のゆかぬに、

「とてもの馳走に、酒のあいてを。」

と吹(ふけ)ば、十四、五の美女、びわ・琴出して、是をかきならし、後には付(つけ)ざし[やぶちゃん注:自分が口をつけた盃を相手に差し出すこと。酒席での親愛を示す行為。]さまざま、我を覺(おぼへ)ず、醉(ゑい)出ければ、

「ひやし物。」

とて、時ならぬ瓜(ふり)を出しぬ。

 此自由極樂(しゆふごくらく)のこゝちして、たのしみけるに、彼(かの)老人、女のひざ枕をして、鼾(いびき)出し時、女、小聲になつて申は、

「自(おのづから)、是なる御かたの、手掛者(てがけもの)[やぶちゃん注:妾(めかけ)。]なるが、明暮(あけくれ)つきそひて、氣づくし、やむ事なし。御目の明(あか)ぬうちのたのしみに、かくし妻(つま)[やぶちゃん注:密夫。]にあふ事、見ゆるして給はれ。」

と申。言葉のしたより、是も息(いき)ふけば、十五、六なる若衆(わかしゆ)を出し、

「最前申せしは、此かた。」

と手を引合(ひきあい)、そのあたりを、つれ哥(うた)うとふてありきしが、後(のち)にはひさしく、行方(ゆきかた)のしれず。『老人、目覺(さめ)たらば』と、寐(ね)がへりのたびたびに、彼女を待兼(まちかね)つるに、いつとなく立歸り、若衆を、女、呑込(のみこみ)ければ、老人、目覺して、此女を呑こみ、はじめ出せし道具を、かたはしから呑仕舞(のみしまい)、金(きん)のこなべをひとつ殘して、是を商人(あきびと)にとらし、兩方[やぶちゃん注:老人と商人。]ともに、どれ[やぶちゃん注:酔いどれ。]になつて、色色の物語つきて、既に日も那古(なご)[やぶちゃん注:大坂住吉の沖の海の呼称。]の海に入れば、相生(あいおひ)の松風うたひ立に、老人は住吉のかたへ飛(とび)さりぬ。

 商人はしばし枕して、夢見しに、花がちれば、餠をつき、蚊屋[やぶちゃん注:蚊帳。]をたゝめば、月が出、門松(かどまつ)もあれば、大踊(をどり)[やぶちゃん注:盆踊り。]あり、盆も正月も一度に、晝とも夜ともしれず、すこしの間に、よいなぐさみをして、殘る物とて鍋ひとつ、里にかへりて、此事を語れば、

「生馬(しやうば)仙人といふ者、毎日すみよしより、生駒にかよふと申傳へし、それなるべし」。

 

   *]

 

 さすがに原話の筋を失はず、隨所に變化を見せてゐる。生馬仙人は生駒を利かせたのかと思つたが、「元亨釋書」の中に生馬仙の名が見える。沙門明達が出逢つた時、五瓜を與へた話などもあるから、こゝの瓜も存外それが利かしてあるのかも知れぬ。無論昔の人ではあるが、神仙である以上、いつ姿を現しても不思議はないのであらう。

[やぶちゃん注:「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ(現代仮名遣))は歴史書で、鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済僧虎関師錬(一二七八年~一三四六年)。全三十巻。元亨二(一三二二)年に朝廷に上呈された。「釋書」は釋迦牟尼佛の書の意。収録年代は仏教初伝から鎌倉後期までの七百余年に及び、僧の伝記や仏教史を記す。南北朝時代に「大蔵経」に所収された。鎌倉時代史の資料としても評価が高い。]

 

「諸國はなし」は貞享二年版であるが、寶永三年に出た「御伽百物語」にも「雲濱の妖怪」としてこの話が出てゐる。鏡花が綏安山を能登國に持つて行つたところに少からぬ妙があると云ひ、彦を鵜飼にしたのも何となく因縁があるやうだと覺めてゐるのは、この「御伽百物語」の事である。鵞鳥を鵜に變へた外は、原話の筋を逐うて日本の話にしたもので、特に作者の働きと見るべきところはない。最後に鵜飼にくれたのは銀の足打とあるが、足打といふのは三方とか折敷とかの類に足の付いたものらしい。

[やぶちゃん注:「貞享二年」一六八五年。

「寶永三年」一七〇六年。

「御伽百物語」京都の青木鷺水著。題名は浅井了意の「伽婢子」を意識しつつ、百物語怪談集に仕立てようとした意図であろう。青木が初めて手掛けた怪異小説(集)である。

「足打」「あしうち」と読む。宵曲の言っているように食器や杯などを載せる、細い幅の板で囲って縁とした木製の方形をした盆である「折敷」(をしき(おしき))の脚のついたものを言う。

 以上は「卷之四」の「雲濱(くものはま)の妖怪」。「叢書江戸文庫」版を例の仕儀で処理し、読み易く手を加えて以下に示す(読みは一部に限った)。歴史的仮名遣の誤りはママ。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵も添えた。

   *

 

     雲濱の妖怪

 

Kumonohamanoyoukai

 

 能登の國の一宮(いつぐう)氣多(けた)の神社[やぶちゃん注:石川県羽咋(はくい)市寺家町(じけまち)気多大社。大己貴命(おおむなちのみこと)を主祭神とする北陸の古社。]は能登の大國玉[やぶちゃん注:「おほくにたま」。ここは所謂、古来からの産土神を指す。]にして羽咋郡(はくひのこほり)に鎭座の神なり。祭祀おほくある中に毎年十一月中の午(むま)の日は鵜(う)まつりと號して丑の刻にいたりて是れをつとむるに、十一里を隔てて鵜の浦といふ所より、いつも此神事のため鵜をとらへ籠にして捧(さゝ)げ來たる役人あり。彼が名を鵜取兵衞と號して代々おなじ名を呼びつたえて故實とせり。去(い)ぬる元祿のころかとよ、この鵜取兵衞いつものごとく神事のためとて、鵜の浦にたち出でまねきけるに、餘多(あまた)ある鵜の中に神事を勤むべき鵜はたゞ一羽のみ。鵜取兵衞が前に來たる事なるを、今宵は珍しく二羽寄り來たりしを、何こゝろなく只一同とらんとしけるに、二羽ながら手にいりければ不思議の事に思ひて、放ちかへせども猶(なを)立ちかへりける程に、やうこそあらめとおもひて籠におさめ、一宮のかたへと急ぎける所に、年の程廿ばかりとも見えたる男の惣髮(さうかう)にて、何さま學問などに通ひける人にやと見えて、書物をふところに入れたるが此鵜取兵衞に行きあひて、道づれとなりしばらく物がたりなど仕かけうちつれたるに、何とかしたりけん、俄に腰をひき出(い)でたる程に、

「いかにしけるや。」

と問ひければ、彼の人いふやう、

「殊の外、疝氣(せんき)の發(おこ)りたれば、今は、足も引きがたし。あはれ、その鵜籠にしばし乘せて給ひてんや。」

といひけるを、鵜とり兵衞、たはぶれぞとおもひ、

「安き事、乘せ申さん。」

といふに、かの人、立ちあがり、

「さらば乘り申さん。ゆるし給へ。」

と、いふかとおもへば、たちまち鵜籠の中にあり。されど、さのみ重しともおぼえず。然(しか)も鵜と雙(なら)び居たりければ、いとあやしとおもへど、さのみとがむる迄にもおよばず。なを、道すがらはなしうちして行くほどに、一宮までは今二里ばかりもやあるらんとおもふ折ふし、彼の書生、鵜籠より出でていふやう、

「さてさて、今宵はよき御つれをまふけ侍るゆへ、足をさへやすめ給はりぬるうれしさよ。いでや、此御はうしに振舞ふべき物あり、しばらくやすみ給へ。」

と、ありけるほどに、鵜取兵衞も不敵ものにて、

「さらば休み申すべし。」

と、荷をおろしける時、書生、口をあきて、何やらん、物をはき出だすよ、と見えしが、大きなる銅(あかゞね)の茶辨當(ちやべんたう)壱つ、高蒔繪(たかまきゑ)したる大提重(おほさげぢう)壱組をはき出しぬ。此中にはさまざまの珍しく奇(あや)しき食物(くひもの)をしたゝめ、魚類野菜、あらゆる肴(さかな)、みちみちて、鵜取兵衞にくはせ、酒も數盃(すはい)におよびける時、彼(か)の書生、かたりけるは、

「我、もとより、一人の女をつれ來たりぬれども、君が心を如何(いかゞ)と議(はか)りがたくて、今に及べり。くるしかるまじくば、呼び出だして、酒をもらんと思ふなり。」

と語りけるを、

「何のくるしき事か候はん。」

と、鵜取兵衞がいひければ、又、口より女を吐き出だしけるに、年のころ十五、六ばかりと見えたるが、容顏美麗にして愛しつべし。書生もいよいよ興をもよほし、酒をのみける程に、事の外、醉ひてしばらく臥したるに、また女、鵜取兵衞にむかひていふやう、

「我は、もと、此おのこと夫婦のかたらひをなしける折ふし、兄弟もなきものなりといつはりて身を任せ侍るゆへ、心やすくおもひとりて、我ひとりは何方(いづかた)迄も召(めし)ぐして、いたはり、やしなふべきちかひを立て、こゝまでもいつくしみ惠み給ふ也。しかれども誠(まこと)は我に一人の弟(おとゝ)ありて、我また此夫に隱して養ひ侍る也。今此妻(つま)の醉ひふしたる隙(ひま)に呼び出だして、物くはせ、酒なんどもてなさんとおもふ也。かまへてかまへて我が夫の眠さめたりとも此事もらし給ふな。」

と、口かためして此女もまた一人の男と金屛風壱雙(いつさう)とを吐きいだし、夫のかたに此屛風をはしらかして隔(へだて)とし、彼のおのこと、うち物かたらひて、酒をのみける内、はや夜も七つ[やぶちゃん注:言い方がちょっとおかしいが、午前四時頃か。]に過ぎぬらんとおもふころ、彼の醉ひふしたるおのこ呵欠(あくび)して起きんとする氣色(けしき)ありければ、是れにおどろきて女は最前(さいぜん)吐き出だしつる男と屛風とを呑みて、何の氣もなきさまにてかたはらにあり。書生はやうやうとおきあがり鵜取兵衞にむかひて、

「扨(さて)も宵よりさまざまと御世話に預り、道を同じくしてこゝまで來たり。ゆるやかに興を催し侍る事、身にあまりて忝(かたじけ)なし。」

などゝ一禮し、さて彼(か)の女をはじめ辨當、敷物、悉くのみつくして、たゞ一つの銀(しろかね)の足打(あしうち)一具をのこして、鵜取兵衞にあたへて、是れより、わかれぬ。鵜取兵衞、此足打を得て宿にかへり、先づ此あやしき咄(はなし)を妻にもかたり、終(つい)に人にも見せて什物(じうもつ)となしけるが、はじめ慥(たしか)に二羽とりたりし鵜のたゞ一羽ありて籠に入りてありけるも、又あやしかりける事とぞ。

   *

因みに、ィキの「気多大社によれば、気多大社では現在も古式の祭りである「鵜祭(うまつり)」が十二月八日から十六日に行われており、これは『大己貴命が高志の北島から鹿島郡の新門島に着いた時、この地の御門主比古神が鵜を献上したのが始まりとされる。祭で鵜を献上する人々は』「鵜捕部(うっとりべ)」と呼ばれ、鹿島(かしま)郡の鹿渡島(かどしま)という所に先祖代々、『住み、その役に仕えていた』(「七尾市観光協会公式サイト」の「鵜祭り」によれば、『七尾市鵜浦町の観音岬、通称「鵜捕崖」で小西家に代々受け継がれた一子相伝の技法で捕えられた「鵜」を』二十一『人の鵜捕部に渡し、その年の当番である』三人が三日がかりで『羽咋市の気多大社へ奉納する』とある)。十二月八日に『鵜崖という場所に神酒・米・花などを供えた後、麻糸を付けた竹竿で鵜を捕らえるが手法には一子相伝の秘訣があるという。献上された鵜は社殿の階上に放され、宮司がそれを内陣に行くよう図るが』、『その時の鵜の進み具合によって翌年の作物の豊凶を占う。進み方が芳しくない時は神楽や御祓いを行う。鵜が内陣の机の上にとまったら』、『神官はそれを捕まえて、浜で放す』とある。]

 

 この話などは最も支那的な題材で、日本に移すには困難な點が少くないと思はれるのに、貞享より寶永に至る二十年餘の間に於て、二つの作品に用ゐられてゐるのは、やはりそれだけ作者の興味を刺激したに相違ない。

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「壁の中」

 

  壁の中

 

 アポリネエルの「オノレ・シユブラツクの消滅」といふ小説は、昔風に云へば妻敵討(めがたきうち)の片われである。愈々殺される土壇場に立つた時、摩訶不思議の事が起つて、彼は自ら希つた通り壁と同化してしまつた。そのため女は殺されても彼は生き殘つたのみならず、一旦緩急ある場合には、カメレオンの如く壁と同化して、相手の目をくらますことが出來るやうになつた。倂し彼は依然として狙はれつゝある。常に薄著をして、いつでも壁と同化出來る用意を怠らなかつたが、遂に最後の段階に至り、兵營の長い壁に消え失せたところを、追跡した相手にピストルを打ち込まれた。それ以來オノレ・シユブラツクはこの世に姿を見せず、兵營の壁には彼の顏の輪郭がうすぼんやりと認められる、といふのである。

[やぶちゃん注:フランスで活躍したイタリア生まれのポーランド人詩人で小説家、「surréalisme」という語の創造者、「Cubisme」の旗手にして私の偏愛する、ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire 一八八〇年~一九一八年:本名:ヴィルヘルム・アポリナリス・コストロヴィツキ Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky:ポーランド語: Wilhelm Apollinaris de Wąż-Kostrowicki)の幻想小説La Disparition d'Honoré Subrac(一九一〇年)。]

 

 この小説はオノレ・シユブラツクの友人の立場で書かれてゐる。或夜中に自分の家に歸らうとして歩いて來ると、路傍の壁の中から名前を呼ぶ者があり、「往來にはもう誰もゐないか? おれだよ、オノレ・シユブラツクだよ」と云ふ。誰もゐない旨を告げたら、彼は忽然として壁から拔け出して來た。さうして地上に脱ぎ棄ててあつた僧服を頭から被り、スリツパを突つかけて步き出した。その友人がはじめて彼の壁と同化する祕密を聞いたのはこの時である。オノレ・シユブラツクはその後も依然として生命の不安に脅かされてゐたが、最後にピストルを持つた相手に襲はれた時も、この友人と一緒に道を歩いてゐた。友人は先づ壁から拔け出して來るオノレ・シユブラツクを見、また壁に消え失せるオノレ・シユブラツクを見てゐる。小説としては首尾を備へたものと云つてよからう。

 

 こんな不思議な話は日本にはあまり見當らぬ。あれば支那だらうと思つてゐたら、やはりあつた。「列仙全傳」の中の麻衣仙姑は石室山に隱れ、家人達がその踪跡を探し求めても、容易に突き留めることは出來なかつた。ところが或日石室山に於て偶然出會つた者があり、その棲家を問ふと、一言も答へずに壁のやうに突立つた岩石の中に入つてしまつた。岩石は自然と口を開いて中に呑み込み、雷の如き恐ろしい響きと共に再びその口を閉ぢた。その時岩石の上に印した足跡は、後まで明かに殘つてゐたさうである。

[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「列仙全傳」は所持しないので原典は示せない。]

 

 世を遁れ人目を避ける點は同じであるが、麻衣仙姑とオノレ・シユブラツクとでは動機が違ふ。オノレ・シユブラツクの恐れるのはピストルを持つた一人に過ぎぬに反し、仙姑はあらゆる人の目から自分を裹み去らうとする。罪を犯した者と仙を希ふ者との相違である。共通點は人に遇つた刹那、突如として身を隱す方法だけであらう。仙姑の隱れ方はアリ・ババに似たところもあるが、岩石の扉を開く呪文などは無論傳はつてゐない。

 

 呉道子が明皇帝の命により宮中の牆壁に山水を畫いた時は、先づ大盤に入れた墨汁を壁の上に撒かしめ、次いで幕を以てその上を覆うた後、やゝあつてその幕を取り去ると、山水の景がありありと現れた。山水ばかりではない、木も草も人も鳥も皆生動する思ひがある。呉道子はしづかにその畫の前に進み、一々その場所を説明したが、或岩を指して、この下には小さな洞があり、中に一人の仙人が住んで居ります、と云つた。呉道子が指で岩の上を輕く敲けば、そこに一つの門が現れ、中から一人の童子が出て來た。その時、呉道子は皇帝に對し、小臣が陛下の御案内を致しまして、この洞中の景色を御覽に入れませう、と云ひながら、門内に入つてしきりに帝をさしまねいた。帝が暫時躊躇されて、中に入る決斷が付かぬうちに、門の扉ははたと閉されて、今までそこに在つた山水の畫も、呉道子の姿と共に消え去り、牆壁はもと通りの白壁になつてしまつた。

[やぶちゃん注:「呉道子」盛唐の玄宗に仕えた画家呉道玄(生没年不詳)。「画聖」と呼ばれ、山水画の画法に変革を齎した。その画は後世も高く評価され、中国・日本の画家に多大な影響を与えた。但し、彼の真蹟は現存しないとされる。呉道子は初名。詳しくは参照したウィキの「呉道玄」などを見られたい。

「明皇帝」「めいこうてい」は玄宗の諡(おくりな)である「至道大聖大明孝皇帝」に基づく、後代の呼称。宋代の聖祖の諱(いみな)が「玄朗」の「玄」をであったことに基づく。]

 

 これも「列仙全傳」中の世界である。畫中に消え去るのは支那人得意のところで、畫中に入つて人物の姿勢を直したりする話まであるが、ありふれた屛風や衝立(ついたて)の類でなしに、牆壁であるのが面白い。オノレ・シユブラツクは勿論、麻衣仙姑の話とも大分かけ離れて來る。仙界の幻術談の一つであるが、壁の中に消え去る一點に於てこゝに附け加へて置く。

南方熊楠 履歴書(その30) 窒素固定法(2)

 

 小生はとても左様の大事業を思い立つべきにあらざるが、物みな順序なかるべからずで、まず第一に空中から窒素をとる一法としては、その方向きのバクテリアを養成せざるべからず。バクテリアの種(たね)を養成するに、普通用うるアガーアガー(トコロテンを精製せるもの)は今日決して安値なものにあらず。トコロテンを作るべき海藻は到る処の海に生ぜず。海中にても定まった少しばかりの処にのみ生ずるものなれば、到底空中から多く窒素をとるに必要なるだけ多くわが邦に産せざるなり。しかるに、他邦は知らず、この紀州にはずいぶん多く生ずるパルモグレアという藻(も)あり。これは陰湿の丘側また山村の家の庭園などに、葛を煮て打ちなげたるごとき、透明の無定形の餅塊をなして多く生ずるなり。

[やぶちゃん注:「その方向きのバクテリア」所謂、人工的でない窒素固定(生物が空気中の遊離窒素を取り込んで窒素化合物を作る自然現象)は各種生物で見られる。因みに、地球上で固定される窒素は年間約三億トンに及ぶと推算されているが、その大部分はこの生物による窒素固定である。参照した小学館「日本大百科全書」によれば、『窒素固定微生物は大きく共生によるものと非共生によるものとに分けられ』、『共生的な窒素固定微生物ではマメ科植物に共生する根粒菌』(真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteria αプロテオバクテリア綱 Alpha Proteobacteria リゾビウム目リゾビウム科リゾビウム属 Rhizobium・ブラディリゾビウム属Bradyrhizobium 等)『がその代表的なものである。根粒をつくってすみついた根粒菌に植物は光合成で得た炭水化物を与えるが、細菌のほうは植物に窒素源としてのアンモニアを提供する。非マメ科植物』(ブナ目カバノキ科ハンノキ属 Alnus ・ブナ目ヤマモモ科ヤマモモ属 Morella・マンサク亜綱モクマオウ目モクマオウ科モクマオウ属Casuarina 等)『には放線菌』(真正細菌放線菌門放線菌綱フランキア目 Frankiales フランキア科 Frankiaceae フランキア属 Frankia)『が根粒を形成して窒素固定を行う。ほかに』、真正細菌藍色細菌門 Cyanobacteria(シアノバクテイリア:藍藻類)は『単独でも窒素固定を行うが』、裸子植物(裸子植物門ソテツ綱ソテツ目ソテツ科ソテツ属ソテツ Cycas revoluta の根など)・シダ植物(シダ綱サンショウモ目アカウキクサ科アカウキクサ属アカウキクサ亜属アカウキクサ節アカウキクサ Azolla imbricata の葉など)・地衣類(菌類と藻類の共生体で見かけ上、単一の生物のように見えるものの総称)『とも共生して窒素を固定できる。非共生的な窒素固定微生物は絶対嫌気性細菌』(真正細菌フィルミクテス門 Firmicutes クロストリジウム綱 Clostridia クロストリジウム目 Clostridiales クロストリジウム科 Clostridiaceae クロストリジウム属 Clostridium など)・通性嫌気性細菌(フィルミクテス門バシラス綱 Bacilli バシラス目 Bacillales バシラス科 Bacillaceae バシラス属 Bacillus など)・好気性細菌(真正細菌プロテオバクテリア門 Proteobacteria γプロテオバクテリア綱 Gammaproteobacteria シュードモナス目 Pseudomonadales シュードモナス科 Pseudomonadaceae アゾトバクター属 Azotobacter など)・光合成細菌・藍藻類など『多岐にわたっている』。ここで南方熊楠がその窒素固定をやらせるに最も向いた種群としては真正細菌藍色細菌門 Cyanobacteria の「シアノバクテイリア」類(旧称・藍藻類)が一番であると言っているのである。

「アガーアガー(トコロテンを精製せるもの)」“agar-agar”は培地用に精製された寒天のこと。

「トコロテンを作るべき海藻」主に紅色植物門紅藻綱テングサ目テングサ科 Gelidiaceae の天草類(最も一般的な種はテングサ属マクサ Gelidium elegans)や紅藻綱オゴノリ目オゴノリ科オゴノリ属オゴノリ Gracilaria vermiculophylla 等を原材料とする。

「パルモグレア」「南方熊楠顕彰会のブログ」の記事のコメント回答によれば、緑藻植物門緑藻綱ヨツメモ目パルメラ科 Palmellaceae グレオキスティス属 Gloeocystis の一種とする。ただ、邦文学術サイトや海外サイトの同科の画像を見ても、このパルメラ科やグレオキスティス属で、南方熊楠が言うような、庭に(則ち、湿潤ではあっても陸に。次段でも南方熊楠は、はっきりと、この生物の生成する「トコロテン」様物質を「陸生トコロテン」と断じている)葛餅を投げ捨てたような寒天状の有意な塊りとなって生ずるような画像は遂に見い出すことは出来なかった。正体不明の物質として如何にもそれらしいものがあったが、それはなんとまあ! 流星群の発生した後に出現し、それは「スター・ゼリー」(Star Jelly)と呼ばれるなんどと書かれてあった。記事。但し、これ、眉に唾つけて見た方が私はよろしいと思う。それを見ながら、これこそ熊楠の言う「パルモグレア」と同定した方が、ずっと腑に落ちる気はした。ともかくも識者の御教授を乞うものである。]

Parumogurea


 顕微鏡で見れば、このような[やぶちゃん注:底本にはここに編者により『図のAを指す』と割注が入る。]微細の小判形の緑色のもの多くあり。これが藻の本体にて、こんな『図のBを指す』と割注が入る。]餅塊でつゝつまる。これが軟膠(ゼラチン)で、件の藻の体よりふき出さるるなり。海藻よりカンテンを作るには煮たり晒したりいろいろと手数を要するが、この陸生のトコロテンは既成のカンテン同様純白無色透明で、ただ多少混入せる土砂をさえ去ればよいのですこぶる便利にもあり、土の上に生じたのを水に入れ、ちょっと洗って砂糖をかくればただちに食い得るなり。陰湿の地にさえあらば多量に繁殖せしめ得る。よってこの陸生トコロテンを多く繁殖せしめて、空中から窒素をとるべきバクテリアを安価に多く繁殖せしむる方便とせんと企てしに、第一に日光とこの藻との精確なる関係を知り明らむるを要するゆえ、一畝ほどの畔(あざ)を作り、これに件(くだん)の藻を栽(う)えつけ冬至の日にその畔の北端まで日があたるように作り、それより一日一日と立つに随い、日光がおいおい夏至までにその畔の南端まで及ぶように作り、多年日光がこの藻に及ぼす影響を試みし。ただし、この外にもいろいろと学術上試験すべきことありて、この畔を日夜七度ずつ、夜は提灯をと催して五年つづけて怠りなく視察しおりたるなり。

[やぶちゃん注:「軟膠(ゼラチン)」ゼラチン(gelatin)は、動物の骨・皮膚・腱などの動物性原材料に酸やアルカリを作用させ、さらに加水して長く煮、そこから抽出された蛋白質を指す語であって、ここで藻類の形成するそれにこの語を使うのは正しくない。せめて「軟膠(ゼラチン)状」とすべきところである。

「空中から窒素をとるべきバクテリア」先に挙げた「南方熊楠顕彰会のブログ」の記事のコメント回答によれば、『その熊楠が研究しようとしていた「バクテリア」』が如何なる種であったかは『今のところ不明で』あるとある。]

 

2017/05/10

柴田宵曲 續妖異博物館 「離魂病」

 

 離魂病

 

 離魂病といふものは、いつ頃からあるか知らぬが、「搜神後記」に見えてゐる話などが古い方であらう。夫婦のうち妻が先づ起き、次いで夫も起きて出た。暫くして妻が戾つて來ると、夫は寢床の中に眠つてゐる。夫が起き出たことを知らぬ妻は、別に怪しみもせずにゐると、下男が來て鏡をくれといふ夫の意を傳へた。旦那はこゝに寢てゐるではないかと云はれて驚いた下男は、寢床の中の主人を見て、慌てて駈け出した。下男の報告によつて來て見た夫も、自分と全く違はぬ男の眠つてゐるのにびつくりした。夫は皆に騷いではいけないと云ひ、衾の上から靜かに撫でてゐるうちに、寢てゐた男の姿はだんだん薄くなり、遂に消えてしまつた。この夫はその後一種の病氣に罹り、ぼんやりした人間になつたさうである。

[やぶちゃん注:「離魂病」日本でも古くから信じられた、魂(たましい)が肉体から離れて今一人の全く同じ姿の人間になると考えられた病気、「影(かげ)の病い」のこと。西洋の「ドッペルゲンガー」(ドイツ語:Doppelgänger:「自己像幻視」「二重身」)と同じで、死や厄災を受ける凶兆とされたことは言うまでもあるまい。西洋の文学作品では枚挙に暇がないが、私ならまず、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(William Wilson 一八三九年)だ。本邦のものは現象としては古文にも出はするものの、そこに絞って描き切ったものは少ない。近代では私は鎌倉を舞台とした泉鏡花の「星あかり」(明治三一(一八九八)年八月『太陽』に「みだれ橋」)を真っ先に挙げる(サイト「鏡花花鏡」のこちらにあるPDF版をお薦めする)。つい最近電子化注を終わった佐藤春夫の「未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)」(大正七(一九一八)年十一月刊行の作品集「病める薔薇」の第二篇)のここにも、主人公のそれらしいものが出現し、また、佐藤と同時代で盟友でもあった芥川龍之介も晩年、自分自身、実際に自分のドッペルゲンガーを見たと何度か告白しており、小説「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月『黒潮』発表。同作は「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名))でも「ドッペルゲンゲル」を扱っている。

「衾」「ふすま」。掛け布団。

 以上の「搜神後記」のそれは「第三卷」の以下。

   *

宋時有一人、忘其姓氏、與婦同寢。天曉、婦起出。後其夫尋亦出外。婦還、見其夫猶在被中眠。須臾、奴子自外來、云、「郎求鏡。」。婦以奴詐、乃指牀上以示奴。奴云、「適從郎間來。」。於是馳白其夫。夫大愕、便入。與婦共視、被中人高枕安寢、正是其形、了無一異。慮是其神魂、不敢驚動。乃共以手徐徐撫牀、遂冉冉入席而滅。夫婦惋怖不已。少時、夫忽得疾、性理乖錯、終身不癒。

   *] 

 

 起きて鏡をくれと云つた方が本當の夫であるに相違ないが、寢床に寢てゐて邊に消えたのは何者であつたか。妻や下男のみならず、本人の夫にもほつきり見えたのだから、單なる目の迷ひといふわけにも往かぬ。狐狸の化けて來たのでもない。後世の離魂病といふ言葉は、かういふ場合に用ゐられるのだが、その後ぼんやりした人間になつたといふことは、愈々その時に魂が離れたものの如く解せられる。

 これに比べると、「今昔物語」にある雅通中將の乳母が二人になる方は、妖味の度合が大分強い。乳母が二歳ばかりの子を抱いて遊ばせてゐるところへ、見知らぬ女房がどこからか出て來て、それは私の子だ、と云つて奪ひ取らうとしたので、奪ひ取られまいとして引き合ふ。互びに罵り爭ふ聲を聞き付けて、中將が太刀を閃めかして馳せ寄つたものだから、一人の乳母は搔き消すやうに見えなくなつた。同時にもう一人の乳母も抱かれた子も死んだやうになつてゐたが、加持祈禱などして人心地に還つた。これは狐などの化けたのか、何か他の霊であつたか、とにかく太刀の光りに恐れて退散したらしい。「搜神後記」の夫が終始眠つてゐたのとは趣を異にする。

[やぶちゃん注:「雅通中將」村上源氏久我流の公卿源雅通(まさみち 元永元(一一一八)年~承安五(一一七五)年)。天養元(一一四四)年一月に左近衛権中将となり、久安六(一一五〇)年一月に中将から参議となり、後、正二位に進み、内大臣となった。久我(こが)内大臣と呼ばれた。

「太刀を閃めかして」これは実際に斬る目的ではなく、物の怪が光り物を忌避することを考えての抜刀である。

 以上は「今昔物語集 卷第二十七」の「雅通中將家在同形乳母二人語第廿九」(雅通の中將の家に同じ形(かたち)の乳母(めのと)二人(ふたり)在る語(こと)第二十九)である。以下に示す。

   *

 今は昔、源の雅通の中將と云ふ人有りき。丹波中將となむ云ひし。其の家は、四條よりは南、室町よりは西也。

 彼(か)の中將、其の家に住みける時に、二歳許りの兒(ちご)を乳母抱(いだ)きて、南面(みなみおもて)也(なり)ける所に、只獨り離れ居(ゐ)て、兒を遊ばせける程に、俄かに兒の愕(おび)ただしく泣きけるに、乳母も喤(ののし)る音(こゑ)のしければ、中將は北面(きたおもて)に居たりけるが、此れを聞きて、何事とも知らで、大刀(たち)を提(ひさ)げて走り行きて見ければ、同じ形なる乳母二人が、中に此の兒を置きて、左右(さう)の手足を取りて引きしろふ。[やぶちゃん注:引っ張り合っている。]

 中將、奇異(あさま)しく思ひて、吉(よ)く守(まも)れば、共に同じ乳母の形にて有り。何(いづ)れか實(まこと)の乳母ならむと云ふ事を不知(しら)ず。

 然(しか)れば、

「一人は定めて狐などにこそは有(あ)らめ。」

と思ひて、大刀をひらめかして走り懸(かか)りける時に、一人の乳母、搔き消つ樣に失せにけり。

 其の時に、兒も乳母も死にたる樣にて臥したりければ、中將、人共(ひとども)を呼びて、驗有(しるしあ)る僧など呼ばせて、加持せさせなどしければ、暫し許り有りて、乳母、例(れい)の心地に成りて、起き上たりけるに、中將、

「何(いか)なるつる事ぞ。」

と問ひければ、乳母の云く、

「若君を遊ばかし[やぶちゃん注:「遊ばす」の当時の口語表現。]奉つる程に、奧の方(かた)より、不知(しら)ぬ女房の俄かに出で來りて、『此れは我が子也』と云ひて、奪(ば)ひ取りつれば、『不被奪(ばはれ)じ』と引きしろひつるに、殿の御(おは)しまして、大刀をひらめかして走り懸らせ給ひつる時になむ、若君も打ち棄て、其の女房、奧樣(おくざま)へ罷りつる。」

と云ひければ、中將、極(いみ)じく恐れけり。

 然(しか)れば、「人離れたらむ所には、幼き兒共(ちごども)を不遊(あそばす)まじき事也」となむ人云ひける。狐の□□[やぶちゃん注:欠字「すかし」或いは「ばか」か。]たりけるにや。亦、物の靈にや有りけむ。知る事無くて止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *] 

 

「閲徴草堂筆記」にある繡鸞の話も大體同じやうなものであるが、時間的にはこれが一番短い。繡鸞といふのは張太夫人の婢の名である。或月夜に、夫人が堂階に立つて名を呼ぶと、東の廊からも西の廊からも、繡鸞が駈け出して來た。その形や衣服に變りがないのみならず、右の襟が折れ返つたり、左の袖が半分捲れてゐるところまで全く同じであつた。夫人は駭きの餘り倒れさうになつたが、再び見直したら、もう一人しかゐない。その繡鸞に向つて、東の廊の人を見たかと尋ねても、いゝえ何も見ませんでしたと答へる。この月夜は七月の事で、夫人は十一月に世を去つた。命已に盡きんとして、かういふ不思議が起つたものかと云はれてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「閲徴草堂筆記」の「卷三」にある以下。

   *

前母張太夫人、有婢曰繡鸞。嘗月夜坐堂階、呼之、則東西廊皆有一繡鸞趨出。形狀衣服無少異、乃至右襟反摺其角、左袖半卷亦相同。大駭幾仆、再視之、惟存其一。問之、乃從西廊來。又問、「見東廊人否。」。云、「未見也。」。此七月間事、至十一月卽謝世。殆祿已將盡、故魅敢現形歟。

   *] 

 

「奧州波奈志」に「影の病」として書いてあるのは明かに離魂病である。北勇治といふ人が外から歸つて來て、自分の居間の戸を明けたところ、机に倚りかゝつてゐる者がある。自分の留守に居間に入つて、かういふ馴れ馴れしい振舞ひをするのは何者かと、暫く見守つてゐるのに、髮の結びぶりから衣類や常に至るまで、まさに自分のものである。自分のうしろ姿といふものは、誰も見た事がないからわからぬが、寸分違ふまいと思はれた。不思議で堪らぬので、つかつかと步み寄つて顏を見ようとしたら、向うむきのまゝ障子の細目に明いたところから緣側に出た。倂し追駈けて障子を開いた時は、もう何も見えなかつた。この話を聞いて母親は何も云はず眉を顰めたが、勇治はその頃からわづらひ出し、年を越さずに亡くなつた。北の家ではこれまで三代、自分の姿を見て亡くなつてゐる。租父も父もこの病ひであつたことを、母や家來は知つてゐるけれども、主人には話さなかつたのである。繡鸞の場合は見た人が亡くなり、これは本人が亡くなるので、その點だけは一致せぬが、凶兆である點に變りはない。

[やぶちゃん注:以上は宵曲の言う通り、「奧州波奈志」の「影の病」(かげのやまひ)。例の国書刊行会「叢書江戸文庫」版の「只野真葛集」を参考底本として、例の仕儀で示す。踊り字「〱」は正字化した。オリジナルに歴史的仮名遣で読み(推定)を附した。但し、「俗(よ)」は底本のルビである。【 】は原典の頭注で、そこに出る「解」とは作者只野真葛が一時期、親しく文通し、本書を筆写した滝沢馬琴の本名である。

   *

     影の病

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我居間の戸をひらきてみれば、机におしかゝりて人有(あり)。誰(たれ)ならん、わが留守にしも、かくたてこめて、なれがほにふるまふは、あやしきことゝ、しばし見ゐたるに、髮の結(むすび)やう、衣類帶にゐたるまで、我常に著(ちやく)しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、寸分たがはじと思はれたり。餘りふしぎに思はるゝ故、おもてを見ばやと、つかつかとあゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明(あ)けたる所より、緣先にはしり出しが、おひかけて障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたちみえず成(なり)たり。家内にその由をかたりしかば、母は物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより勇治病氣つきて、其年の内に死たり。是迄三代、其身の姿を見てより、病(やみ)つきて死(しに)たり。これや、いはゆる影の病(やまひ)なるべし。祖父・父の此病(やまひ)にて死せしこと、母や家來はしるといヘども、餘り忌(い)みじきこと故、主(あるじ)にはかたらで有(あり)し故、しらざりしなり。勇治妻も又、二才の男子をいだきて後家と成(なり)たり。只野家遠き親類の娘なりし。

【解(とく)云(いふ)、離魂病は、そのものに見えて人には見えず。「本草綱目」の説、及(および)羅貫中が書(かけ)るもの[やぶちゃん注:「三国志」のこと。]などにあるも、みなこれなり。俗(よ)には、その人のかたちのふたりに見ゆるを、かたへの人の見るといへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ飯田町なる鳥屋の主の、姿のふたりに見えしなどいへれど、そはまことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云。】

   *

馬琴は「搜神記」と言っているが、先の「搜神後記」といっしょくたにしてかく言っているように思われる。「搜神後記」は「搜神記」の体裁を真似た別書であるが、名前からかく言ったとしても江戸時代にはおかしくはなく、また、それほど、先に挙げられた「搜神後記」の短い話は、離魂譚として古くから人口に膾炙していた。] 

 

 併し右に擧げた諸例だけを見て、離魂病なるものは必ず不祥事の前提として現れると斷ずるのは早計である。題名からして「離魂記」といふ書に記された話の如きは、大分樣子が違ふ。衡州の役人であつた張鎰に二人の娘があつて、長女は早く亡くなつたが、下の娘の倩といふのは端姸絶倫であつた。鎰の外甥に王宙なる者があり、これがまた聰悟なる美少年であつたから、鎰も折りに觸れては、今に倩娘(せんぢやう)をお前の妻にしよう、などと云つて居つた。二人とも無事に成長し、お互ひの志は自ら通ふやうになつたが、家人はこれを知らず、鎰は賓僚から緣談を持ち込まれて、倩をくれることを承知してしまつた。女はその話を聞いて鬱々となり、宙は憤慨の餘り京へ出る。先づは平凡な戀物語である。然るに宙は船に乘つてからも、悲愁に鎖されて眠り得ずに居ると、夜半の岸上を追つて來る者がある。遂に追ひ付いたのを見れば、倩娘が跣足であとから駈けて來たのであつた。兩者は手を執り合つて泣き、宙は倩娘を船に匿して遁れ去ることにした。數月にして蜀に到り、五年の月日を送るうちに、子供が二人生れた。鎰とはそのまゝ音信不通になつてゐたのであるが、さすがに女の情で、倩娘は頻りに父母に逢ひたくなつた。宙もその心をあはれみ、久しぶりに手を携へて衡州に歸る。宙だけが鎰の家を訪れて、一部始終を打ち明け、既往の罪を謝したところ、鎰は更に腑に落ちぬ樣子で、倩娘は久しいこと病氣で寢てゐる、何でそんなでたらめを云ふか、と頭から受け付けない。宙は宙で、そんな筈はありません、健かに船の中に居ります、と云ふ。鎰が大いに驚いて、人を見せに遣ると、船中の倩娘は至極のんびりした顏で、いろいろ父母の安否を尋ねたりする。使者が飛んで歸つてこの旨を報告したら、病牀の娘は俄かに起き上り、化粧をしたり、著物を著替へたりしたが、笑つてゐるだけで何も云はない。奇蹟はこゝに起るので、船から迎へられた倩娘と、病牀から起き上つた倩娘とは、完全に合して一體となり、著てゐた著物まで全く同じになつてしまつた。張家では一切を祕してゐたけれど、親戚に内情を知つた者があり、這間の消息はほのかに傳へられた。その後四十年の星霜が經過して、父親の鎰は勿論、宙倩娘も亡くなり、二人の間に生れた子供は役人になつて出世したといふのだから、この話に不祥な點は少しもない。神仙の徒が人を修行に誘ふ場合、靑竹をその人の丈に切つて殘して置くと、家人などは本人の居らぬのに氣が付かぬといふ話がある。倩娘の本質は宙のあとを追つて去り、形骸だけが病牀に橫はつてゐたものであらう。倩娘歸ると聞いて病牀を出で、衣を更め粧ひを凝らした女が、笑つて語らなかつたといふところに、容易に解きがたい謎が含まれてゐる。この成行きは離魂病者に類がないのみならず、普通の戀物語にも稀に見るめでたい大團圓であつた。

[やぶちゃん注:「離魂記」ドッペルゲンガー譚として恐らく最も知られると言ってよい、陳玄祐(ちんげんゆう)の撰になる唐代伝奇の名品。私はそれを二〇〇九年四月の「無門關 三十五 倩女離魂」のオリジナルな注で、原文・訓読・現代語訳を行っている。以上の本文の漢字の読みなども含め、そちらを是非、参照されたい。それはサイトの一括版「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」にも載せてある。そちらの方がフォントも大きく、より読み易くはあると思う。

「這間」は「しやかん(しゃかん)」と読み、「この間(かん)」の意。但し、「這」には「この」という指示語の意はなく、誤読の慣用法である。宋代、「この」「これ」の意で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体が「這」と誤判読されたことに由来するものである。] 

 

「靈怪錄」の鄭生も結末は似てゐるが、發足點は大分違ふ。天寶末年に科擧に應ずるため、京に出ようとして西郊に宿を取つたところ、その家の老母から結婚の話を持ち出された。自分の外孫女がこゝに居るが、この父親は柳氏で、目下准陰(わいいん)の縣令になつてゐる、あなたとは似合ひの夫婦のやうに思ふから、結婚してはどうかといふのである。鄭生は敢て辭せず、その夕べ直ちに式を擧げたといふのは、現代にもまたあるまじきスピードであつた。數箇月たつと、今度は二人で柳家へ行つておいでと老母が云ふ。鄭生はその命に從ひ、新婦同道で准陰に赴いたが、愈々柳氏の許に辿り著いて、この趣を申し入れた時、全家の人々は驚愕した。殊に柳の細君は、自分に隱して餘所に儲けた娘がたづねて來たものと推したから、心中甚だ穩かでない。怨望の色は自ら顏に現れざるを得ぬ。倂し門内で車を下り、しづかに庭を步いて來る姿は、まがふ方なき自分の娘である。娘もこの話を聞くや否や、笑つて出て來たが、兩方から步み寄つて顏を見合せたかと思ふと、今まで二人ゐた娘は合體して一人になつてしまつた。この顚末は柳氏としても容易に解釋が付かなかつたが、結局已に亡くなつてゐた細君の母親が、外孫女のために良緣を結んだものであらう、といふところに落ち著かざるを得なかつた。鄭生は更に五里霧中で、もう一度結婚の舊跡を尋ねたら、そこには何もなかつた。

[やぶちゃん注:「靈怪錄」五代の牛嶠(ぎゅうきょう)の撰になる伝奇小説集。

「鄭生」「ていせい」。

「天寶」唐の玄宗の治世の後半に用られた元号。十五年まででユリウス暦七四二年から七五六年まで。天宝一四(七五五)年には安史の乱勃発し、洛陽が安禄山によって占領され、翌十五年六月、粛宗の即位に伴い、至徳と改元されている。

「淮陰」現在の江蘇省中部にある淮安市附近。古くから水運上の重要拠点として栄え、秦・漢初の名将韓信の故郷として知られる。

 以上は「太平廣記」の「神魂一」に「靈怪錄」からとして載る、「鄭生」である。以下に示す。

   *

鄭生者、天寶末、應舉之京。至鄭西郊、日暮、投宿主人。主人問其姓、鄭以實對。忽使婢出云。娘子合是從姑。須臾、見一老母、自堂而下。鄭拜見、坐語久之、問其婚姻、乃曰。姑有一外孫女在此、姓柳氏、其父見任淮陰縣令、與兒門地相埒。今欲將配君子、以爲何如。鄭不敢辭、其夕成禮、極人世之樂。遂居之數月、姑爲鄭生、可將婦歸柳家。鄭如其言、攜其妻至淮陰。先報柳氏、柳舉家驚愕。柳妻意疑令有外婦生女、怨望形言。俄頃、女家人往視之、乃與家女無異。既入門下車、冉冉行庭中。女聞之笑、出視、相于庭中、兩女忽合、遂爲一體。令卽窮其事、乃是妻之母先亡、而嫁外孫女之魂焉。生復尋舊跡、都無所有。

   *]

 

 これは支那の話の一つの型で、家のあつたと思ふところには古塚の存するばかりといふやうなのが多いが、この話にはそれもなかつた。こゝで注意すべき點は、當の娘が別に怪しまず、笑つて出て來る一條なので、倩娘の場合も全く同じであつた。二人の娘が合體して一人になるのは、奇怪ではあつても悲しむべき現象でないから、笑ひが伴ふことになるのかも知れぬ。

 貞元の初め、河南少尹の李則が亡くなつて、まだ棺に納めずにあるうちに、蘇郎中と稱する人が弔問に來た。室内に入つて哀働すること最も甚しかつたが、突然屍が立ち上つて撲り合ひをはじめた。家の人達がびつくりして逃げ出した跡、二人は門を鎖して執拗に撲り合ひ、夕方に至つて漸くしづかになつた。李の子が中に入つて見ると、二人の屍は共に牀上に橫はつて居り、それが背の高さから形から、容貌、鬚髯、衣服に至るまで、寸分の違ひもない。親族達も皆集まつて二人を見較べたけれど、どうしても見分けが付かなかつた。已むを得ず同じ棺に入れて葬つたと「奇鬼傳」にある。これは今までの例と違ひ、一方は已に死んでゐるのだから、魂は早く天外に去つた筈である。弔間者の蘇郎中といふのは何者か、二人が撲り合つたのは何故か、一切わからぬ。死骸になつてまで寸分變らぬとしたら、最初來た時にわかりさうなものだと思ふが、まことに「奇鬼傳」の名に愧じぬ離魂病の例外である。

[やぶちゃん注:「貞元」(ていげん)は唐の徳宗の治世で用られた元号。七八五年から八〇五年。

「少尹」「せうゐん」は次官級官職。

「鬚髯」「しゆぜん(しゅぜん)」顎鬚(あごひげ)と頰髯(ほおひげ)。

「奇鬼傳」不詳。次注を参照。

 以上は「太平廣記」の「鬼二十四」の「李則」と同話であるが、そこでは出典は「獨異志」である。それを以下に示す。

   *

貞元初、河南少尹李則卒、未歛、有一朱衣人來、投刺申弔、自稱蘇郎中。既入、哀慟尤甚。俄頃屍起、與之相搏。家人子驚走出堂、二人閉門毆擊、及暮方息、孝子乃敢入。見二尸共臥在牀。長短形狀、姿貌鬚髯衣服、一無差異。於是聚族不能識、遂同棺葬之。

   *]

 

 離魂病の例とは少々違ふやうだが、泉鏡花が「春著」といふ隨筆に書いた話をもう一つ附け加へる。村山鳥逕の父親である攝津守有鎭が、秋の夕暮に門へ出て、何心なく町を見てゐると、人足の途絶えた道を、二人の士が何か話しながら、矢來の方から通寺町の方へすつと通つた。二人の姿は郵便局の坂を下りて見えなくなつたが、攝津守は三十何年前――明治維新前後に、同じ時、同じ節、同じ門で、同じ景色に、同じ二人の士を見たことを思ひ出して、ぞつとしたといふのである。これは一人の人間が二人になるのでもない。自分の姿を自分が見るのでもない。時移り世の變つた同じ場所で、同じやうに四十ぐらゐの士と二十歳ぐらゐの若侍を見るといふのは、鏡花も書いてゐる通り、慥かに物凄い。それが攝津守に取つて凶兆であつたかどうか、そこまでは書いてないからわからない。

[やぶちゃん注:「泉鏡花」の「春著」(はるぎ)「といふ隨筆』は大正一三(一九二四)年一月発表の、鏡花満五十一歳の折りの小品「春着」。「青空文庫」ので正しく正字正仮名で読める。当該箇所は以下。底本は所持する岩波の「鏡花全集」の、「卷廿七」(昭和一七(一九四二)年刊)を使用したが、読みは一部に限った。

   *

その攝津守が、私(わたし)の知つてる頃は、五十七八の年配、人品(ひとがら)なものであつた。つい、その頃、門(もん)へ出(で)て――秋の夕暮である……何心(なにごころ)もなく町通(まちどほ)りを視(なが)めて立つと、箒目(はゝきめ)の立つた町に、ふと前後(あとさき)に人足(ひとあし)が途絶えた。その時、矢來(やらい)の方から武士(ぶし)が二人きて、二人で話しながら、通寺町(とほりてらまち)の方へ、すつと通つた……四十(しじふ)ぐらゐのと二十(はたち)ぐらゐの若侍とで。――唯(と)見るうちに、郵便局の坂を下(さが)りに見えなくなつた。あゝ不思議な事がと思ひ出(だ)すと、三十幾年の、維新前後に、おなじ時、おなじ節(せつ)、おなじ門(もん)で、おなじ景色に、おなじ二人の侍を見た事がある、と思ふと、悚然(ぞつ)としたと言ふのである。

 此(これ)は少しくもの凄い。……

   *

「村山鳥逕」(ちょうけい 明治一〇(一八七七)年~?)は牧師で小説家。本名は村山敏雄。親戚に尾崎紅葉と親しい医者がおり、紅葉の「硯友社」の同人であった広津柳浪の家とも親しく、しかも紅葉門下の柳川春葉と幼友達という環境の中、「硯友社」作家としてデビューした。明治三八(一九〇五)年頃からは『明星』にも投稿した。一方で角筈教会の牧師でもあった。西大久保時代の島崎藤村とも親交があり、村山の宗教小説「ささにごり」には藤村が序を書いている(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。「春著」では『いま座敷うけの新講談で評判の鳥逕子(てうけいし)』と茶化し、『鳥逕とは私たち懇意だつた。渾名を鳶(とび)の鳥逕と言つたが、厚眉(こうび)隆鼻(りうび)ハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町(はらひかたまち)の教會を背負(しよ)つて立つた色男で』と紹介してある。

「有鎭」「ありしづ(ありしず)」。「春着」には『鳥逕子のお父さんは、千石取(せんごくどり)の旗下(はたもと)で、攝津守(せつつのかみ)、有鎭(いうちん)とかいて有鎭(ありしづ)とよ』み、『やしきは矢來の郵便局の近所にあつ』たとある。

「矢來」現在の東京都新宿区矢来町(やらいちょう)。

「通寺町」旧牛込通寺町。現在の新宿区神楽坂。

「三十何年前――明治維新前後」明治元・慶応四年は一八六八年であるから、例えば、その三十年後なら明治三一(一八九八)年に当たる。なお、泉鏡花が牛込の紅葉宅を訪ねて入門を快諾され、その日から尾崎家での書生生活を始めたのは明治二四(一八九一)年十月十九日のことであった。]

「想山著聞奇集 卷の參」 「大蛇の事」

 

 大蛇の事

 

Daijya1

[やぶちゃん注:この挿絵は蟒蛇(うわばみ)の蜷局(とぐろ)の中央に描かれている人物が右手に持っている特殊な武器及び彼の両眼部分が眼鏡様(実際にゴーグルである)に描かれていることから、第一段落末の「美濃國加茂郡虎溪邊」りの白髪の翁の捨て身の蟒蛇退治譚を描いたものであるあることが判る。]

 大蛇と云(いふ)もの、爰(ここ)の沼、かしこの森に住めりなどゝ云傳(いひつたふ)る事は、よく有(ある)事なれども、慥(たしか)に見たると云人は少く、尤(もつとも)、掃溜(はきだめ)には蚯蚓(みみず)わき、濕地には濕蟲(うじ)わくも同じ事にて、深山幽谷には、大蛇のすむは珍しからざる事ながら、思(おもひ)の外、淺(あさ)まなる所にも、大成(おほいなる)蛇も住(すみ)、又よく隱顯するものにして、隱るゝ時は、更に見ゆる事なし、あるひは、小蛇にも龍種(りうしゆ)有て、足下より風雨を起し、昇天するあり。蛇は都(すべ)て龍の種屬にして、神變不可思議、書記(かきしる)すべきに非ず。よつて、唯、慥に聞(きく)事のみを記し置(おき)ぬ。美濃の國加茂郡麻生[やぶちゃん注:現在の岐阜県加茂郡七宗町(ひちそうちょう)上麻生(かみあそう)及びその下流の川辺町上川辺の下麻生地区。私の妻の父の実家はこの七宗上麻生で、私は三度訪れたことがあるここ(グーグル・マップ・データ)。]は飛騨川に添(そひ)て、後ろは峨々たる絶壁の巖石(ぐわんせき)にして、直に上麻生より金(かね)山[やぶちゃん注:現在の岐阜県下呂市金山町(かなやまちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]七宗山[やぶちゃん注:七宗町(ここ(グーグル・マップ・データ))の「宗」は「みたまや(神の宿る場所)」を意味し、町の北部にそびえる峰々を古えより「七宗山」「七宗権現」と呼び、崇めてきた歴史がある。]、飛驒境の深山幽谷へ地續きの所なり。然れども、此麻生の地は、深山と中(ちう)にはなく、中山道太田宿[やぶちゃん注:現在の岐阜県美濃加茂市太田町附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。]より艮(うしとら)[やぶちゃん注:東北。]の方へ三里、邑(むら)續きの所也。此麻生の地に、昔より大なるうはゞみ住めり。近きころ見たると云は、或時、狩人、此山に入込居(いりこみをり)て、大成(なる)巖(いはほ)の下に獲物を待(まつ)所に、山上より俄(にはか)に響(ひびき)發(おこ)りて、大鹿二頭、駈行(かけゆき)たり。是は、何か追來(おひきた)るものゝ有て逃行(にげゆく)のなりと心得て[やぶちゃん注:「のなり」はママ。「ものなり」の脱字か、「の」の衍字であろう。]、その追ひ來(く)き物を打取(うちとら)んと、錢砲を取直(とりなほ)し待受(まちうく)に、間もなく、聞(きき)なれざる冷(すさ)まじき音して來りたり。是は如何成(いかなる)物の來(きた)るやと、甚だ不審に思ひて、彼(かの)嚴に添て彳(たたず)み居(をり)たるに、其巖の上よりずつと斜(ななめ)に成(なり)て、大成(だいなる)蛇、今の鹿を追行(おひゆき)たり。その早(はや)く冷(すさ)まじき事、譬(たとふ)るにものなく、其蛇の𢌞(まは)りは二圍(ふたかかへ)[やぶちゃん注:両腕幅(尋:六尺一・八メートル)とすれば、十二尺で、三メートル六十四センチ弱に相当する。以降もそれで各自、計算されたい。]も有べく、頭は大成(な)る立臼(たてうす)の如くにして、口をあきたり。都(すべ)て、二三尺𢌞り程の蛇にても、行(ゆく)時は頭を擧(あげ)て、是非[やぶちゃん注:必ず。]、口を明(あけ)て行ものなるに、ましてや是は、鹿を逐(おひ)て口をあき行勢ひ、誠に恐ろしかりし事也とぞ。狩人は巖の下に居(ゐ)て、蛇は頭(かしら)の上を突切(つききり)て通りたるまゝ、こなたよりはよくしり居(をり)、蛇よりは狩人を知(しら)ずして追行たりと云。又、同村の者、同所の内にて山稼(やまかせぎ)に行たるに、深林の上より、かの蛇、件(くだん)の山稼の者を見付(みつけ)て、外の生物と心得、已に呑(のむ)べき勢ひにて、大成(なる)口をあき、たゞちに飛懸(とびかか)りたれども、人なれば、避(さけ)て呑(のむ)事を止(やめ)たり。彼(かの)者は、覺(おぼえ)なく、逃歸(にげかへ)りて後、氣絶し、漸(やうやう)甦(よみがへ)りたれども、遂に夫(それ)が基と成(なり)て、半年程、煩(わづら)ひて死(しに)たりと。此兩談は、予三十年のむかし、此地に出役(しゆつやく)して、現に聞知(ききしり)たる事也。その者共の名も聞置しに、今は忘れたり。此蛇は、人をば避て呑(のま)ずと云傳えたり。左も有べきか。此川向の吉田村[やぶちゃん注:現在、七宗や下麻生の飛騨川下流に加茂郡川辺町下吉田がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の者にも、此咄しを聞たり。惣躰(さうたい)、此邊にては、一貮尺𢌞(まは)りの蛇を見る事は、折節有(ある)事とぞ。此麻生より三四里西の方、武儀郡志津野村[やぶちゃん注:現在の岐阜県関市志津野。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の山内にも、大蛇有て、芝・薪(まき)[やぶちゃん注:薪(たきぎ)にするような小木の謂いであろう。]・小松など倒れて、通りたる跡は付(つく)事なれども、昔より慥に見たるものはなきよし。是は、右麻生の蛇よりはまた大(おほき)く、三圍か四圍も有べきと思ふほどの跡なりとぞ。彼(かの)蜀國(しよくこく)[やぶちゃん注:揚長江上流の四川省を中心とした地方。]に住(すむ)、巴蛇(はじや)[やぶちゃん注:次の「蛇」とともに段落後に注する。通常、大陸の本草書の「蛇」は「だ」と読むのが普通で、ここも私は当初、「はだ」と読んでいたが、後で判るが、想山は基本、「~蛇」の場合は「~じや(じゃ)」としか読んでいない。従って以降も「蛇」を末語とする蛇の名の読みは基本、「~じや」で通した。]の類(たぐひ)にや。又、漢土の書に、蛇(ぜんじや)の大なるは、よく鹿を呑(のむ)と云事もあれば、彼國にも有事にて、同談なり。世に蛇に呑(のま)れ、腹を裁割(さきわり)て出(いで)たると云事は、咄傳(はなしづた)えには多く、又、書記(かきしる)したる書もまゝ見當りたれども、虛實は如何にやと思ひ居(をり)しが、其内、或人上州草津の湯へ蛇に呑れて助命せし者、毒氣を治する迚(とて)、來り居(ゐ)たるを見たりといへども、其譯、懇(ねんごろ)に聞來(きききた)らざれば、精(くは)しく記し難し。世に云傳(いふつたふ)る通り、髮の毛もぬけ、呑れてまだ日も經ねば、惣身(さうみ)、赤むけの如く成居(なりゐ)たりといへり。又、玉の三治と云者の咄に、駿州の富士郡村山村[やぶちゃん注:現在の静岡県東部の富士宮市内村山。ここ(グーグル・マップ・データ)。富士山の西南の裾野近く。]の狩人、兄弟連(つれ)にて山深く入込(いりこみ)て、弟の喜八、谷へ下(くだ)り行(ゆき)て歸り來らず。良(やや)暫く待居(まちをり)たれども、來らざる故、聲をかくれども、答(こたへ)もなきまゝ、兄の藤五郎、尋(たづね)に行て見るに、蛇橫たはり居(ゐ)て、弟を呑たりと見えて、蛇の鼠を呑たる如く、腹張居(はりをり)たる故、取敢(とりあへ)ず、力に任せて鐡砲にて打(うつ)と、蛇もくるしかりしにや、直に喜八を吐出したり。依(よつ)て藤五郎は、猶、錢砲を以て、其蛇を遂に打殺(うちころし)たりと。然れ共、喜八は夢心ちにて、正氣と成兼(なりかね)、色々介抱をなして、漸(やうや)く翌日に至りて蘇生なし、夫より種々に治療をなして、不思議に助命なしたりと也。然ども、蛇毒にて、惣身解懸(とけかか)りて、悉く赤むけと成(なり)、勿論、毛髮は少しもなく、鼻も耳も消失(きえうせ)て、漸く左(ひだ)りの耳ばかり、少し殘り居(をり)たりと。元來、この喜八は、通例よりは餘程大振(おほぶり)なる男にて有しが、何の苦もなく、一呑(ひとのみ)となしたるにや。俄に眞黑に成て來ると思ふ迄は覺(おぼえ)有たれども、夫よりはいかゞなりしか、更に覺はなかりしとなり。三治は、右の兄弟の者に心安くて、兩人共より能(よく)聞しり居(をり)ての咄し也。喜八、四十三の時に呑れて、七十餘りの時、知る人に成たれば、久敷(ひさしき)ことなりとて、早々年曆を繰返して見るに、呑れたるは天明[やぶちゃん注:一七八一年~一七八九年。]の中頃の事と聞えたり。是を以(もつて)見る時は、深山には往々有事と見えたり。恐敷(おそろしき)事也。又、予が知己(ちき)、川澄(かわずみ)何某の物語に、同人稚(おさな)き時、親類の方へ來りし髮・鬚・眉とも悉く白髮なる老翁のありしを、父の示さるゝには、あの者は蛇に呑れし故、あの如く白髮と成たり。能く見覺置べしと云(いは)るゝ故、幼心ながら、能(よく)見覺置(みおぼえおき)て、今に慥に覺有(おぼえある)なりと。扨、此者は、美濃國加茂郡虎溪[やぶちゃん注:不詳。旧加茂郡は美濃加茂市の全域及び周辺域の一部を広範囲に含み、先に出た七宗町の一部も含まれていた。岐阜県多治見市に虎渓山町(こけいざんちょう)があり、ここは確かに名古屋の東北に当たるけれども、少なくとも近代の旧加茂郡域ではない。]邊(あたり)の者なるが、【尾州名古屋より十里程、艮の方なり。】。其呑れしと云譯は、其者の至(いたつ)て愛せし十歳程に成(なる)孫を、蛇に呑れたるゆゑ、われも倶に呑れて、其蛇の腹を切裂出(きしさきいで)て、孫の敵(かたき)を取(とる)べしと云ふと、夫は中々覺束(おぼつか)なき事也、毛を吹て(ふき)痕(きず)を需(もとむ)る諺のごとくならんと、人々留(とむ)れども聞入(ききれ)ず。外には輙(たやす)く殺すべき手段なし。我は老人の事、假令(たとひ)、夫切(それき)り沒したりとも、おしからぬ命也。あの蛇をあのまゝ差置(さいおか)ば、又、人の子供等をも取べきまゝ、捨置(すておき)がたしと云て、名古屋へ出(いで)て鞢師(ゆがけし)[やぶちゃん注:「ゆがけ」(「弓懸」「弽」などとも書く)は弓を引く際に右手に嵌めて弦から右手親指を保護するための鹿革製の手袋状のものを指す。]に申付(まうしつけ)て、惣身殘らず、鞢(ゆがけ)の如くに革にて包むものを拵(こしらへ)させ、目の所には目鏡(めがね)を入(いれ)させ、又、同所鍛冶屋丁(かぢやちやう)の信高(のぶたか)と云(いふ)刀鍛冶に、内外(うちそと)兩刄にして、左右へ兩頭なる鎌を丈夫に打立(うちいだ)させ、十分に支度(したく)をなして、かの蛇のいづる所へ、幾日も行て、待受居(まちうけを)る其内に、蛇出來(いできた)り、思ふ儘に呑れて後、難なく腹を切割出(きりさきいで)て逃歸り、悴(せがれ)初め大勢を催して其所へ連行(つれゆき)、無上に[やぶちゃん注:「むじやう」でこの上なくの意でとっておくが、私はこれは「無止(むやみ)に」の誤りのような気がする。]錢砲を打(うち)て殺せし由。初め呑るゝ時、腹へ篤(とく)と落付(おちつき)て後、切破(きりやぶ)り懸ればよろしかりしに、口に入ると其儘、矢庭(やには)に切懸りたる故、喉より腹に至る迄、所々疵だらけとなして切出(きりいで)たる由、追々(おひおひ)成長の上、聞置たるとの事なり。此者は、かく手段をなして呑れたるゆゑか、毛髮悉く白くなりし迄にて、惣身はさして替りたる事もなかりしと云(いへ)り。右の者を見請(みうけ)しは、天明五年[やぶちゃん注:一七八五年。]頃にて、其時、六十有餘の農夫にて有たりしと也。

[やぶちゃん注:「巴蛇」ウィキの「巴蛇」によれば(そこでは「ぜんだ」と読んでいる)、『黒蛇(こくだ)黒蟒(こくぼう)とも』称する『巨大なヘビ(大蛇)』というか、想像上の怪物とする。中国の幻想的地理書(戦国時代から秦朝・漢代(紀元前四世紀から三世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものとされる)で現存する最古の地誌である『『山海経』海内南経によると、大きなゾウを飲み込み』、三『年をかけてそれを消化したという。巴蛇が消化をしおえた後に出て来る骨は「心腹之疾」』(しんぷくのしつ。『治療が困難な難病のこと。具体的にどのような症状に薬効があると考えられていたのかは不詳』)『の薬になるとも記されている。また、『山海経』海内経の南方にある朱巻の国という場所の記述には「有黒蛇 青首 食象」とあり、同じよう大蛇が各地に存在すると信じられていた。『山海経』の注には「蛇(ぜんだ)吞鹿、鹿已爛、自絞於樹腹中、骨皆穿鱗甲、間出、此其類也」とあってゾウの話は蛇(大蛇)がシカなどを飲み込むような事を示したものであろうと書いている』。『『聞奇録』には、山で煙のような気がたちのぼったのを見た男があれは何かとたずねたら「あれはヘビがゾウを呑んでるのだ」と答えられたという話が載っている』。『ゾウ(象)を食べるというのはウサギ(兔)という漢字との誤りから生じたのではないかとの説もある』。『『本草綱目』では蚋子(蚊の小さいもの)は巴蛇の鱗の中に巣をつくる、と記している』とある。

蛇」前で引いたウィキの「巴蛇」の『中国におけるおろち・うわばみ』の項には、「南裔異物志」からとして、この「蛇」(これも記者は「ぜんだ」と読むつもりであろうが、後に出るように想山は「ぜんじや」と読んでいる)を挙げ、その牙は長さが六~七寸にも達し、『土地の者が魔除けとして珍重しており、ウシ数頭分の価値があった、と記されている』とある。但し、現代中国語では、この「」を、爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ボア科ボアコンストリクター Boa constrictor の漢名に用いており、本種は最大全長が五メートル四〇センチに及ぶ巨大種で、よりもの方が大型になる。参照したウィキの「ボアコンストリクター」によれば、『熱帯雨林やサバンナ、農耕地や民家近くに生息する。幼体は樹上棲の傾向が強いが、成長に伴い地表棲になる』。『食性は動物食で、主に鳥類、哺乳類等の恒温動物を食べる。太い胴は待ち伏せからの素早い飛びつきに適している。胴で絞める力が強く、種小名の constrictor は「絞め殺す者」の意。獲物に噛みついた後、胴体で獲物に巻き付いて絞め殺す。 繁殖形態は卵胎生で、一度に』二〇~六〇匹ほどの幼体を産むとある。なお、本邦ではこの「蛇」でニシキヘビ(有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科 Pythonidae の類)を意味するとネット記載にあり、次の段落でも想山が「本草綱目啓蒙」を引いて述べている。これは以下の「蛇の皮」の記事と図などからも、すこぶる納得がゆく比定であり、そもそもが、ニシキヘビ類はボア科Boidae の亜科とする説もあるぐらいから、生物学的にも何ら、誤りとは言えないのである。]

 

Daijya2

[やぶちゃん注:キャプション部分は底本で以下の通り、活字化されてある(但し、あくまで図に従い、本文の一部の活字を変えてある)。一行字数を合わせて、対照し易くした。その代り、判る読みは施さない。底本の句読点は残したが、一部を変更した。まず、中段部分。]

誠にかた斗(ばか)りなる

圖なれども、色はかく

のごときものにて、

五色の斑(まだら)の色合に

て、彪(ふ)は瑇瑁(たいまい)の如く

なれども、何(なに)となく

見るも氣味わろき

ものにて嫌(けがら)はし

く濁りたるものに

見えたり、長さ

三間にも餘り、巾

中(なか)の所二尺五寸も

あるべし、左右共

少し狹く、首尾

は切取たるものにて

全身にてはなし。

皮はだは蛇の如き

鱗にてはなく、いか

にも細かきしぼにて

尋常(よのつね)の蛇(じや)とは大(おほひ)に

違(たが)へり、鎗(やり)の鞘などの

たゝきぬりの如き

皮はだのもの也。

背腹一樣にて、

俗に云、蛇腹(じやばら)

にてはなかり

    し也。

[やぶちゃん注:「三間にも餘り」約五メートル四十五センチを超え。

「二尺五寸」六十二センチメートル。

 以下、下段。]

此全身の蛇(ぜんじや)は、本

文にも申如く、僅

長(ながさ)一丈ばかり、太さ

火入(ひいれ)の𢌞(まは)り程にて

いかにも幼稚のものなる

か、圖のごとく

尋常(よのつね)の蛇よりは

頭(かしら)小き故に首筋

細からぬ樣に見え、

面躰(めんてい)蛇(じや)とは達ひ、

いかにも柔和(ねうわ)なり、

尾はすつとこけて

上方筋(かみがたすぢ)の大根の

形(なり)に似たり。上に云

置(おく)通り、腹も背も

一樣にて蛇腹はなし。

此(この)蛇、全身なれ共、

肉を拔取て、餘(よ)の物

を詰たるもの故、形ち

彌(いよいよ)愚鈍に成たるもの

とは見ゆれども、元來

小蛇(せうじや)の如き賢きもの

とは見えず、斑(ふ)はうへ

の皮と全く同種ながら、

色淺く薄し、年經ざる

ゆゑと見えたり。

[やぶちゃん注:「一丈」三メートル三センチメートル。

「火入」煙草に火をつけるための火種を入れておく、煙草盆の中に埋め込んだ丸い小さな器。直径十センチ強ほどか。

【2017年5月25日追記:遅蒔きながら、サイト「富山大学学術情報リポジトリ」内のヘルン庫」から、かの小泉八雲旧蔵本である本「想山著聞奇集」の原本全部のPDF版ダウン・ロードが出来ることを知ったが、それを見て驚いたのは、この図版と次の二匹の龍の図版は色彩が施されているのであった。是非、ご覧あれ!】]

 

 又云、世にうはばみと云もの有。是は大ひ成(なる)蛇にて、人をも吞(のむ)と云(いふ)事は、三歳の童子も能(よく)しる事なれども、山邊の住居(すまひ)をせず。又、深山といへども、澤山に居(を)るものならねば、其種、如何成(いかなる)ものと云(いふ)を辨(わきま)へざるに、予、江戶の醫學館[やぶちゃん注:江戸後期に設けられた医学校。幕府が神田佐久間町に設けた漢方医学校で、明和二(一七六五)年に幕府奥医師多紀元孝(安元)が開設した私学「躋寿館(せいじゅかん)」を起源とし、寛政三(一七九一)年に幕府直轄の医官養成校となり、「医学館」と改称した。後の文化三(一八〇六三(一八〇六)年に大火で焼け落ち、浅草向柳原(さくさむこうやなぎはら)に移転再建されているが、ここは神田にあったそれ。以上はウィキの「医学館」に拠った。]にて、(ぜんじや)の皮、又全身の小成(せうなる)ものをも見たり。仍(よつて)、此所に圖して、後人の爲に記し置(おく)。本草綱目啓蒙[やぶちゃん注:既注。]に、蛇ハ和名ニシキヘミ。和產詳ナラズ。嶺南ノ大蛇ニシテ北地ニ產セズ。故ニ南蛇ノ名有。【中略】ウハヾミト訓ズルハ非ナリ。ウハヾミハ一名ヤマカヾチ【和名鈔】ト有テ、本邦大蛇ノ名ニシテ漢名蟒蛇(マウジヤ)ナリ、と云(いへ)り。是を以、見る時は、ウハヾミは蟒蛇にて、蛇はウハヾミと讀(よむ)は違ふやうに見ゆ。然れども、いま蛇と書(かき)、蟒蛇と書(かき)て、いづれもウハヾミと讀來(よみきた)り、多識編(たしきへん)[やぶちゃん注:林羅山著の本草学書。慶安二(一六四九)年刊。]には、蛇をヲホヘミ又シカクイヘミと讀(よみ)、蛇をヲホヲロチと讀てあり。又、事物紺珠(じぶつこんじゆ)[やぶちゃん注:一〇六四年に明の黄一正が編した本草書。]に、大サ二三圍(まはり)、長十餘丈[やぶちゃん注:「十丈」でも三〇メートル三〇センチ弱。]、頷(あご)下有ㇾ鬚(ひげあり)、故(ゆゑに)名ㇾ、牙(きば)長六七寸、辟不祥[やぶちゃん注:最後は「不祥(ふしやう)を辟(さ)く」で、「災いを避ける(お守りとなる)」と謂う意であろう。]と云(いふ)。左(さ)れば眞の鬚の有(ある)は蛇なるか。蛇・蟒蛇(うはばみ)・巴蛇・南蛇(なんじや)・埋頭蛇(まいとうじや)[やぶちゃん注:私の寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蛇」の項の本文及び私の注を参照されたいが、「南蛇」と「埋頭蛇」は同類種としてあり、私は爬虫綱有鱗目ヘビ亜目ムカシヘビ上科ニシキヘビ科ニシキヘビ属インドニシキヘビ Python molurus、及びニシキヘビ属の最大亜種ビルマニシキヘビ Python molurus bivittatus を取り敢えず同定候補とし(特に後者)、「南蛇」については、現在、ヘビ亜目ナミヘビ科ナンダ(ウィップスネーク“whip Snake” Ptyas mucosusの中国名にも当てられているとした(科が異なるが、こちらも最大全長三メートル二〇センチに及ぶ大型種である。]・蝮蛇(ふくじや)[やぶちゃん注:「蝮」は現在、かの本邦の有毒蛇の一種であるクサリヘビ科マムシ亜科マムシ属ニホンマムシGloydius blomhoffii を指すが、本来、この「蝮蛇」は別な本邦の強毒性種群であるマムシ亜科ハブ属 Protobothrops のハブ類を指すものであった。同じく寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」の「蝮蛇」の項の私の注を参照されたい。]、皆(みな)大蛇の名なれども、其種類は別種なるか。又、同種異名なるか。いまだ辨へ兼たり。尤、種類幾通りも有(ある)事ときこえたり。いかにも世に澤山になく、其上、龍蛇の類(たぐひ)は、能(よく)隱るゝ事に妙を得たるものにて、邂逅(たまさか)、樵者(きこり)・杣人(そまびと)の見受(みうけ)たるも、恐敷(おそろしき)ゆゑ、能(よく)見屆けたるも少く、又よく見たり共(とも)、深山の土俗故、何事も分明(ぶんめい)ならず。仍(よつ)て博物といへども、多くは聞傳(ききづた)えを以て論說をなす故、各自にて一致せざる樣におもはる。前にいふ予が見たる皮は、幅二尺五寸長さ三間餘も有て、首尾は連續せず、切取(きりとり)たるものにて、全く蛇のごとき皮なれども、鱗の如き肌細かく、脊通りは黑赤黃の斑文にて、靑白色をもおびたり。又、鼠色もおびて、腹は同じ薄斑(うすまだら)の曇色(くもりいろ)なり。又、同所に全身の小なるものあり。丈(たけ)二間[やぶちゃん注:三メートル六十四センチ弱。]及びもありて、太さ火入(ひいれ)程の𢌞(めぐ)りにて、胴張(どうはり)ながら[やぶちゃん注:キャプションに出る、内臓その他を摘出して詰め物をして張り子としたものながら、の意であろう。]、蛇よりは首小(ちさ)きゆゑ、首筋の所、細からざるやうに見え、頭ちいさくして女の拳(こぶし)程有て、蛇の形相(ぎやうさう)とは大に違ひて、甚(はなはだ)溫順にて、見たる所はおそろしからざる顏色にて、齒は細かく尖りて、上下ともぎつしりとはえ、少し外の方へはえ出たり。猛惡の性(しやう)のものは、多くは齒先鈎(とが)り、内の方へ生(はゆ)るものなれば、この齒の中にもまた、内へ向て二重並にはえ居(を)るも量(はか)られず。干付(ほしつけ)たるもの故、口あかざれば、舌などの樣子もしれざれども、元來、猛惡のものゝ齒とも思はれず。惣躰、鈍優(どんゆう)[やぶちゃん注:見かけない熟語であるが、(生時の動きや姿を想像して見ても)「如何にも動作も鈍そうに見え、猛悪な蛇には聊かも見えず、却って穏和でどっしりとして見えること」を指すか。]に見え、中々小蛇の賢利(けんり)なるものとは、其趣き甚だ違ふ樣に見え、かく鈍優ならずしては、大きくはなられまじきと思はる。尾も、常の蛇のわり合よりは違ひ、先はずつとこけたる[やぶちゃん注:スマートになっている。]ものなり。蛇は和名妙にニシキヘミと訓し、蛇文如連錢錦也[やぶちゃん注:「蛇文は連錢(れんせん)せる錦(にしき)のごとし」と訓読しておく。「連錢」は「れんぜん」とも読め、銭(ぜに)を並べた形の文様を言う。]と有。今、圖する[やぶちゃん注:二枚目の図。]蛇は、色をもつて考ふる時は、全く蛇也。前にも記す蛇は、多識編には、鹿喰蛇(ろくしよくじや)とも有て、漢土にて、蛇は鹿を吞(のむ)と云(いふ)事、諸事に見えたり。前の麻生にて、鹿を追行(おひゆき)たる大蛇も、この蛇にや、又は蟒蛇にや、計りがたし。山海經(せんがいきやう)に、巴蛇呑ㇾ象と云事有。又、正字通[やぶちゃん注:明末の張自烈によって編纂された漢字字典。]に、巴蛇長十尋[やぶちゃん注:前に出した人体スケールの両腕幅で採る。一尋=六尺一・八メートル)で十八メートル。]、備靑黃赤白黑色、今蛇其類[やぶちゃん注:「靑・黃・赤・白・黑色を備へ、今の蛇は其の類なり。」。]と有れは、巴蛇も蛇も其色のよく似たるものか。又、北夢項言(ほくぼうさげん)[やぶちゃん注:唐末から宋初の孫光憲が唐末から五代にかけての著名人の逸話を集めた説話集。]に曰、有一蛇斜谷嶺路、高七八尺、莫ㇾ知其首尾、四面小蛇翼ㇾ之無數、每一拖ㇾ身、卽林木摧折、殆旬半方過、盡阻行放云々。[やぶちゃん注:「一蛇、有り、斜谷・嶺路に橫たはる。高さ七、八尺、其の首尾、知る莫(な)し。四面、小蛇、之れを翼(かば)ひて無數たり。每一(ひとたび)、身を拖(ひきず)れば、卽ち、林木、摧(くだ)け折れり。殆んど、旬(じゆん)半ばにして方(まさ)に過ぐれば、盡(ことど)く、行き放(た)つものを阻(さへぎ)れりと云々。」。「旬半ばにして方に過ぐれば」と強引に読みはしたものの、意味不明(行き過ぎるのに半月もかかるの意かと勝手に思った)。識者の御教授を乞う。]是等は、小象をも吞べきものなり。前に云、志津野村の大蛇の通りたる跡は、林木裂け、麁朶(そだ)[やぶちゃん注:ここは木の枝。]悉く折倒ると云。是等もその類(たぐひ)にや。古よりウハヾミの事を記したる書は多く侍れど、其種類を委敷(くはしく)書記(かきしる)したるものなく、殘り多し。又飛驒・加賀・若狹、其外、西國・九州にも、野槌(のづち)と云もの有て、蛇のことき種にて、甚(はなはだ)短く、世の人、多くは是を見てウハヾミなりと申觸(まうしふ)るゝも有(ある)事と云(いふ)人の有(あれ)ども、是は餘種にして、其上、蛇よりは一入(ひとしほ)希(まれ)なるものと見えたり。又、巴蛇は野槌の事也と云人有ども、巴蛇と野槌とも、中々違ふ事と思はる。南谿が西遊記(せいゆうき)、又は新著聞集などにも、一種、太き短き蛇といふもの有。是、巴蛇の類(たぐひ)かと思はる。其國、其所により、種々の大蛇もある事としられて、迚も表す事能はざる事なり。

[やぶちゃん注:「西遊記」以前の注に出た、京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年が書いた紀行。寛政七(一七九五)年三月刊。ここに言うのは現在の熊本での、「卷一」の「猪(ゐ)の狩倉(かくら)の大蛇」にちょっとだけ触れられてある。「新著聞集」寛延二(一七四九)年に板行された説話集。日本各地の奇談・珍談・旧事・遺聞を集めた八冊十八篇で全三百七十七話から成る。俳諧師椋梨(むくなし)一雪による説話集「続著聞集」という作品を紀州藩士神谷養勇軒が藩主の命によって再編集したものとされる。「古今著聞集」を単に「著聞集」と呼んだことから、「新」を名乗ってたものであるが、それ自体、尊大な感じがする。所持し、複数の大蛇・妖蛇の記載が載るが、ざっと見た限りでは、「太き短き蛇」という記載は見当たらぬ。発見したら、速やかに追記する。

 最後に出る「野槌」は、その叙述を読んでおられるうちに、「ああ! あれか!」と多くの方が思い当たられるであろう。そう「ツチノコ」である。寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に「野槌蛇」として独立項をさえ持つ、古典的怪蛇、未確認生物(ユーマ:UMA:Unidentified Mysterious Animal の頭文字であるがこれは和製英語で外国では「UMA」は通じないので、ご注意あれ)である。リンク先の「野槌蛇」注で私は以下のように記した(一部を書き変えた)。

   *

ツチノコに同定する。木槌の柄を外した槌部分に類似した極めて寸胴(誇張的名辞で良安の直径十五センチメートル・全長九十センチメートルは「長い木枕」といった感じだ)の蛇で、北海道と南西諸島を除く広範な地域で目撃例がある。その標準的特質を多岐に亙る情報ソースの最大公約数として以下に列挙して、想像の楽しみの便(よすが)と致そう。

・学名:未定

・標準和名:ツチノコ(ノヅチの方に優先権があろうが人口に膾炙しているこちらをとる)

・異名:ノヅチ・バチヘビ・ツチ・ドコ・コロ・コロガリ・ワラツチ・ヨコヅチ・キネノコ・キネヘビ・ツチコロ・ツチコロビ・タンコロ・トッテンコロガシ・ドテンコ・スキノトコ・トックリヘビ・ツツ・マムシ・コウガイヒラクチ・イノコヘビ・バチアネコ・トッタリ・ゴスンハッスン・サンズンヘビ・シャクハチヘビ・ゴジュッポヘビ等

・体長:約三十センチメートルから一メートル。

・胴長:約三十センチメートル弱から八十センチメートル。

・胴径:七センチメートルから三十センチメートル。各部の長さから有意にずんぐりむっくりのヘンな蛇であることが判る。

・毒:不明。無毒とも有毒とも強毒ともいわれる。

・出現(目撃)時期:春~秋(四月から十一月)。

・生活相:単独相(複数個体集合的目撃例は皆無)で昼行性。

・食性:肉食性(カエル・ネズミ等)。

・体色・紋:焦茶色又は黒色又は鼠色等、黒いマムシに類似した網目文様と背中に斑点を持つ。

・鱗:通常の蛇に比して有意に大きく、成人男性の小指の爪程の大きさ。

・頭部形状(全体):毒蛇に特有の典型的三角形を呈し、通常の蛇に比して有意に大きく(幅四センチメートル程度はある)、且つ、平板。

・頭部形状(眼):鋭く、瞼があり、瞬きをする(注意されたいが、この情報は異常中の異常である。蛇類にはコンタクト・レンズのような被膜はあっても瞼はないからである)。

・頸部:頭部と胴部の間が明確に短かくくびれ、頸部が明瞭。

・胴部:通常の蛇に比して有意に中央部が膨れ上がって横に張っており、前後に伸縮する。

・尾部:短かく極めて強靭、木への垂下、威嚇行動時に、胴部を緊張させ、尾部のみで身体を立てることが可能。

・運動形態:蛇行せず、胴部を前後に尺取虫のように伸縮させて直進(後退も可能)し、更に胴と尾を用いて跳躍(約一~二メートル)、また、自身の尻尾を咥えたウロボロス状態で円くなり転がって移動することも可能とする。

・その他:「チー!」という鼠に似た啼き声を発し、睡眠時には鼾をかく。

私はツチノコの親衛隊ではないので、学名命名権は遠慮することにした。ちなみに、ナマズ目ロリカリア科ロリカリア亜科ロリカリア族のPseudohemiodon laticepsなる魚ちゃんには、なんと「ツチノコロリカリア」(!)という和名を持っているのは、ご存知かな?

   *] 

 

Daijya3

 追加

 武州橘樹郡川中島【字(あざ)大師河原と云ふ。】。なる平間寺(へいげんじ)[やぶちゃん注:前話で注したが、再掲しておくと、現在の神奈川県川崎市川崎区にある真言宗の「川崎大師」。正しくは 金剛山平間寺(へいけんじ)。当時は附近が多摩川下流の河原であったことから「大師河原」と別称した。ここ(グーグル・マップ・データ)。]、弘法大師の像を、天保十年【己亥(つちのとゐ)】[やぶちゃん注:一八三九年。]の夏、江戶本所回向院(えかういん)[やぶちゃん注:「回」及び「いん」はママ。]にて開帳有し時、龍の見世(みせ)もの有(あれ)ども、是はまさ敷(しく)、蛇なるべしと申す族(やから)も有(ある)ゆゑ、予、態々(わざわざ)行(ゆき)て見るに、大洋にて蠻舶(ばんはく)眞龍(しんりゆう)に出合(であひ)、辛ふじて捕へ來(きた)る樣に口上書も有て、看板にも、龍の雲水を起したるさまを畫きたれども、左(さ)にてはなく、全く蛇なり。二頭有て、二頭とも同じ形に干附(ほしつけ)あり。やゝ大小も有て、雌雄なりといへども、覺束なし[やぶちゃん注:雌雄ならば、大きい方が。]。幕を覆ふて緩々(ゆるゆる)とは見せざる故、篤(とく)と圖し來らず。殘念なれども、暗に其形ちは覺置たるまゝ、左に圖し得たれども、予は繪を學ばざれば、只その形ちを圖し置(おく)まで也。殘り多し。大の方は、頭、大鹿よりも少し大く、頭の骨組もするどにて、胴の大き所は、彼是三尺𢌞りも有べしと見ゆ。小のかたは、頭も少し劣り、太さも四五寸𢌞りも細く見え、色も淺く、頭の骨格もするどからずして、少し柔和也。前に圖したる稚蛇(ちぜんじや)とは大(おほい)に替(かは)り、面躰(めんてい)も、骨立(ほねだち)荒々敷(あらあらしく)て所翁[やぶちゃん注:南宋末の画家陳容(ちんよう 生没年不詳)長楽(福建省)の出身で、字は公儲。所翁は号。一二三五年に進士となり、太守を勤める一方、水墨画を得意とし、特に竜画の名手として高名であった。伝称作に「五龍図巻」(東京国立博物館蔵)や「九龍図巻」(ボストン美術館蔵)などがある。グーグル画像検索「陳容 所翁 龍」をリンクさせておく。]などの書(しよ)に書(かき)たる龍の顏に髣髴たり。去(さり)ながら、きつく恐ろ敷(しき)顏色にはなく、思ひの外、やさしく柔和なるものに見えたり。【十四の卷圖を載(のせ)たる蛇骨は猛惡のものなり、見あはすべし。】前にも追々申(まうし)たる如く、小蛇の尖(せん)なる顏色とは、大に違ひたり。角はなくて髭生出(おひいで)たり。繪に書(かき)たる龍の髭は、頰より生たれども、是は左にあらず。上唇より生出たり。人畜を初(はじめ)、魚類も、髭は皆、上唇より生(はゆ)るものにて、畫に書たる龍のみ、頰より生たるも、珍敷(めづら)事と覺ゆ。眞の龍は如何にや。扨(さて)、前にもいへる通り、小蛇の如く、頭大きく首筋の細きものに非ず。齒は二重にも三重にも生(はへ)て、中へも曲り込(こみ)たり。餘り、性(しやう)の善なるものとは思はれず。然ども、顏は猛惡にあらず。かの大功は拙きが如く、大慾は無慾に似たりなど申(まうし)諺の如きか。蝦夷にて人馬をとり食ふ罷(ひぐま)は、顏色犬の子の如く、いかにもかはゆく、恐敷(おそろし)からぬものなれども、類ひなき强惡の猛獸也と聞及ぶ。蛇も如何成(いかなる)性にや。邑(むら)に住(すむ)ものゝしる事にあらず。深山にても、適(たまたま)見受る者は、逃來りて、其性の善惡を聢(しか)と辨へたるものをきかす[やぶちゃん注:ママ。]。殊に雨日ならでは、先(まづ)は出(いで)ざるよし。琉球より渡りたる蛇皮線(じやびせん)と云もの有。此器物を張(はり)たる皮は、全く此蛇の皮也。尤、年を重ね大なる程、斑(ふ)色濃くなるものとしられたり。こゝに圖する蛇も、大小少々濃淡有(あり)。元來、大蛇の色は眞黑の多く、又、赤色白色等も有て、種々なり。猶、蛇の事は十四の卷にも委敷(くはしく)記し置く。其外、所々に記し置(おき)たり。

[やぶちゃん注:この図の頭部の角状の部分や髭は人工的に細工したものである可能性がすこぶる高いものと思われる。だからこそ興行師は「幕を覆ふて」観客に「緩々(ゆるゆる)」(ゆっくりじっくり)とは「とは見せ」なかったのであろう。細かく観察すればすぐ人の手が加わっていることが判ってしまうほどチャチな細工だったのであろう。

「十四の卷」既に何度も述べた通り、本書は五巻で刊行が終り、残りの四十五巻は散逸して伝わっていない。ああ! 見たかった! 残りがあれば! 僕は余生を総てその電子化と注で楽しめたであろうに!!!]

 

 予、天保九年【戊戌】[やぶちゃん注:一八二八年]の七月廿九日、中山道本山(もとやま)宿[やぶちゃん注:現在の長野県塩尻市。この附近(グーグル・マップ・データ)。]に宿りたり。此夜の咄しに、此頃、雨天續(つづき)のところ、右宿より南のかた、山一つあなた【餘り高からざる山なれども、此邊は名にし負(おふ)木曾山の續にて餘國の山よりは深く、僅(わづか)の打越(うちこし)[やぶちゃん注:低く短い尾根越え。]にて二里ほどもありとなり。】にて、炭を燒(やく)とて、大木を伐出(きりだ)すに、【此邊は樹木澤山成所ゆゑ、炭に燒にも切口尺ばかりの大木をも伐出す事なりと。】二十丈も三十丈[やぶちゃん注:約六十一~九十一メートル。]も上より谷底へ落し置(おき)て、此前々日、右の木を取(とり)に行(ゆき)たるに、大蛇居(ゐ)て、大(おほき)に驚(おどろき)たり。後、又々行て篤(とく)と見るに、此大蛇、頭(かしら)碎けて、自(おの)れと死居(しにゐ)たりと。是は先に伐落(きりおと)す材木の木口(こぐち)、眞直(まつすぐ)に巖上へ落(おち)たるをり、頭を打碎(うちくだ)かれたるものと知られたりと也。其蛇の太さ、二尺五寸[やぶちゃん注:六十二センチメートル。]𢌞りほども有たりと云たる故、色は如何樣(かなるやう)なるぞと尋(たづぬ)るに、しらざれは、猶見て來りし者はなきかと、能(よく)吟味せしに、昨日、炭を附出(つきだ)したる者の咄し故、今日、當宿より態々(わざわざ)見に參りしに、左樣の蛇は、其所に執心殘りて祟りをなすものとて、又、山一つ向ふ二里計(ばか)りも有(ある)所へ捨(すて)たりとの事にて、得(え)見て參り申さずと答(こたへ)て、分り兼たり。扨、此邊にて山稼(やまかせぎ)するものも、一度も此蛇を見たる者はなけれども、蕗・初草(はつくさ)[やぶちゃん注:若草。]などは喰ひ有(ある)故、うはゞみか何か、怪物の居(ゐ)たる事は知り居(をり)し由にて、慥成(たしかなる)事なれども、此夜、此宿に見て來りしものなければ、尋方(たづねかた)もなくて、其儘に翌朝、發足(ほつそく)なしたり。其發足の日に、右宿より雇ひ來りたる人足共の中には、今日は當宿より大勢を催し、かの大蛇をとりに參ると申(まうし)事に御座候。彌(いよいよ)とり來れば見物也とて、とりどりに噂を致し居(をり)候と云(いひ)たり。量(はか)らざる非業(ひがふ)の死をなせしも珍敷(めづらしき)事也。是も、前に圖したる、回向院にて見せし程のならん歟(か)。惣躰(さうたい)、各別の大蛇の通りたる跡は、草木赤く枯(かる)るものときゝ、前に云(いふ)、志津野村の大蛇も、通りたる跡は、草木枯る故、通り道、能々(よくよく)分(わか)る事と聞(きき)たれども、土民の咄し故、受難(うけがた)く思ひ居(をり)たるに、此事を、予が知己、縣道玄[やぶちゃん注:不詳。初めて出る名である。「あがた だうげん」と読むか。]に咄して問ふに、彼、通りたる跡は、必らず草木枯(かれ)申候。私(わたくし)、現に藥草を尋(たづぬ)るとて、戶隱山(とがくしやま)[やぶちゃん注:現在の長野県長野市にある戸隠連峰の一峰。標高一九〇四メートル。ここ(グーグル・マップ・データ)。]の奧へ二三里も行(ゆき)たるに、此所はオヂイの通りたる跡なりとて、其跡を通行して、よく存居申候。此邊にては、うはゞみとは云ず、方言にオヂイオヂイと云(いふ)由[やぶちゃん注:不詳。私は学術的な妖怪及び未確認生物の辞典を複数所持するが、出現しないから、この記載が事実とすれば、戸隠地方での大蛇の古称記録として貴重な記載と思われる。]。其邊は神代(かみよ)よりも斧いらずの所にて、大木の栂(つが)[やぶちゃん注:裸子植物門マツ綱マツ目マツ科ツガ属ツガ Tsuga sieboldii。]多く、丈け九尺より一丈ばかりも有。熊笹、平(ひら)一面に生繁(おひしげ)りたる中を、かの大蛇の通りたる跡、新古幾條も有(ある)中に、是は去年(こぞ)通りたる跡也といふを、數十町[やぶちゃん注:一町は一〇九メートルであるから、六五〇メートル前後か。]通行なしたるに、方六七尺計りも滿圓(まんまる)に、通りたる跡、くり拔(ぬき)たるごとく成居(なりゐ)て、笹は皆、赤黃成(あかぎなる)色に成(なり)て、悉く枯居(かれをり)たり。彼が毒氣にてかれしか。熱氣にて枯しか。油にて枯しにや。枯口、油ぎりて居(をり)たる樣に見え[やぶちゃん注:ここから大蛇は体表から油を流すと信じられていたことが判る。滑らかな鱗の照り具合からの誤認であり、実際の蛇類では乾燥してさらさらしており、そのようなことはあり得ない。]、かの通りし跡は、熊笹左右へ打切(うちき)れ、雜木(ざふき)の類(たぐひ)も摺切(すりきれ)しごとくにて、人の通行するには甚だよく、其通りし跡を、笠を冠りて通るに、少しも支(さは)る事なし、是を以見るときは、彼蛇の大さは、徑(わた)り[やぶちゃん注:胴の直径。]六尺計(ばかり)も有(ある)か。又は笹の類は能(よく)なびくもの故、若(もしく)は徑り九尺も有か、量られず。牛馬は申(まうす)迄なく、隨分、小象(こざう)をも呑(のむ)べくおもはるゝとの事なり。山谷巖樹(さんこくぐわんじゆ)の間を、屈曲自在に歩行(ありき)たるものにて、實に至妙なるもの也と。その來(きた)る時は地響き木客(こだま)に應へ、自然と知るゝ故、杣樵(そまきこり)の類(たぐひ)は勿論、狩人にても、皆逃隱れて出會(であは)ぬ事とぞ。木曾山の内にて、湯舟澤[やぶちゃん注:現在の岐阜県中津川市落合附近の木曽川の支流落合川の部分呼称に「湯船沢川」があるから、を指すか(グーグル・マップ・データ)。]に居るのは大なりときゝ侍れども、いかばかりの大さにや、未だ慥に見たる者に出會(であは)ずして殘念也、呉々(くれぐれ)も深山といへども、格別大成(おほきなる)は、中々多くは居(を)らぬものと見えたり。

南方熊楠 履歴書(その29) 生気説 / 窒素固定法(1)

 

 さて以下はまだ洋人が気づかぬらしいから申すは、小生右の一件より考うるに、どうも世界には生気(せいき)とでも申すべき力があるようなり。すなわち生きた物には、死んだ物になき一種の他物を活かす力があるものと存ぜられ候。よって考うるに、今日の医学大いに進んだと申す割合に薬がきかざるは、薬にこの生気がなきによると存じ候。生きた物に、まわりくどき無機物よりも、準備合成の有機物がよくききまわるは知れたことで(土の汁をのむよりも乳の汁をのむ方が早くきくごとく)、この点より申さばむろんむかしの東西の医者のごとく、自分で薬草を栽(う)え薬木を育てて、その生品を用いるが一番きき申し候。しかるに地代が高くなり生活に暇なくなりてより、むかしの仙人ごとき悠長なことはできず。ここにおいて薬舗が初めてできる。これが営利を主とする以上は、なるべく多く利を得んがために生きた物の使いのこりを乾かし焙(あぶ)りなどして貯えおくことになる。これより薬はさっぱりきかなくなれり。西洋とても同様で、生きた薬を使ったら一番きくぐらいのことは知れきったことながら、生活いそがしくなり、無償で薬を仕上げることもならぬとなったところへ、アラビア人がアルコールで薬を浸出することとランビキで薬精を蒸餾することを発明したるより、遠隔の国土より諸種の薬剤を持ち渡すには、途中で虫や鼠に損ぜらるること多く、生きた物に劣ること万々なるを知りながら、止むにまさるの功ありとの考えより、蒸餾や浸液(チンキ)を専用することとなりたるなり。温泉などその現場にゆきて浴すれば大いにきくが、温泉の湯を汲んで来て冷(さ)めたやつを煮てより、入ったりとてさまできかず。これ温泉の湧くうちはラジオ力に富むが、冷めた上は、その力が竭(つ)きるゆえなり。それと等しく、薬も乾かしたり焙ったり、またいわんや蒸餾や浸出して貯え置くは、すこぶるそのききめを減ずることと知り申し候。

[やぶちゃん注:「ランビキ」兜釜(かぶとがま)式蒸留器。日本で江戸時代に薬油や酒類などを蒸留するのに用いた器具で、「羅牟比岐」「蘭引」「らむびき」とも表記される。この名称はその器具を指すポルトガル語“alambique”とされるが、その原型は九世紀のイスラム帝国の宮廷学者ジャービル・イブン=ハイヤーンが発明したとされる「アランビック蒸留器」(英語:Alembic)でそれが語源と考えるべきではあろう。但し、ウィキの「ランビキによれば(リンク先に実物写真有り)、『ヨーロッパで用いられたアランビック蒸留器』(二つの容器を管で接続した蒸留器。現在のレトルト(retort)の元。ウィキの「アラビックを参照されたい)『とは形状が異なり、三段重ねの構造となっているのが特徴で』、『この蒸留器具の日本への伝達経路や時期については不明な点が多く残っている』。『江戸時代、酒類などの蒸留に用いた器具。陶器製の深なべに溶液を入れ、ふたに水を入れてのせ、下から加熱すると、生じる蒸気がふたの裏面で冷やされて露となり、側面の口から流れ出るもの』である。海水から真水を精製するために、江戸後期には比較的長い航海をした中大型の和船にも装備されていた(私は二十代の頃、嘗て八丈島出身の知人に頼まれ、八丈島の御用船(納税品運搬)の弁才船(べざいせん)慶応二(一八六六)年十月に遭難して漂流、辛くも清国に保護されて香港を経て翌年に日本へ戻る(その間、百余日)という壮大な漂流記録を判読翻刻した経験があるが(これは後、最終的に国立公文書館の厳密校訂を経て製本された)、そこにも『ランビキ』と登場していたのを懐かしく思い出す)。

「蒸餾」蒸留に同じい。

「浸液(チンキ)」チンキ剤。生薬をエタノール(或いはそれに精製水を混合したもの)で浸出させて製した液状薬剤。オランダ語“tinctuur”が語源。「丁幾」と漢字を当てたりもする。

「ラジオ力」“radio”であるが、この場合は「放射」「輻射」(これは電磁波の場合)の意。ある物体や物質が、熱線やある種の粒子線や電磁波を放出する性能。]

 

 そのころ、また欧州に空中より窒素を取る発明ありたりとて、日本で喧伝され、三井、三菱等、人を派してその方法をドイツより買入れに勉むるとの評判高かりし。その前に炭酸曹達(ソーダ)ほど手近く必要おびただしきものはなく、その炭酸曹達は、薬局法などに書いた通りの方法で、一挙していつでも木灰からできることとわれわれ十四、五歳のときより思いおりたり。しかるに、大戦起こりて外国よりの輸入絶えたるに及び、いざ実試となって見ると、これほどのものも日本でできざりし。されば自国で何の練習もせず、あれも珍しこれもほししと、見る物ごとに外国伝習をあてに致しては、まさかの時には絹のふんどしかいて角力に立ち合わんとするごとく、思いのほか早く破れてしまうものなり。たとい窒素を空中より取る法があってからが、高い金を出した相応に本当のことを伝授さるべきや、怪しき限りなり。

[やぶちゃん注:「欧州に空中より窒素を取る発明ありたり」ドイツの、物理学者フリッツ・ハーバー(Fritz Haber 一八六八年~一九三四年)と化学者カール・ボッシュ(Carl Bosch 一八七四年~一九四〇年:後に百五十年の歴史を持つ、かの世界最大の総合化学メーカーBASFの代表となった)が一九〇六年に開発した「ハーバー=ボッシュ法」(Haber–Bosch process)。鉄を主体とした触媒上で水素と窒素を高温・高圧状態に置き、直接反応させてアンモニアを生産する工業法。所謂、大気中の遊離窒素を取入れて窒素化合物を生成させる「空中窒素固定」(fixation of atmospheric nitrogen)の画期的技法。

「炭酸曹達(ソーダ)」NaCO。炭酸ナトリウム(sodium carbonate)。

「木灰」「きばい」或いは「もっかい」と読む。草木を焼いて作った灰。水に溶かすと強いアルカリ性を示し、一般には灰汁(あく)抜きやカリ肥料として用いる。但し、木灰の主成分は炭酸カリウム(KCOPotassium carbonate)である。]

2017/05/09

南方熊楠 履歴書(その28) 我らが発見せる粘菌(変形菌)

 

 小生は田辺にありて、いろいろのむつかしき研究を致し申し候。例せば、粘菌類と申すは動物ながら素人(しろうと)には動物とは見えず、外見菌類(植物)に似たこと多きものなり。明治三十五年夏、小生田辺近傍鉛山温泉にてフィサルム・クラテリフォルムという粘菌を見出だす(これはほとんど同時に英人ペッチがセイロンで見出だし、右の名をつけたり)。その後しばしばこの物を見出だせしに、いずれも生きた木の皮にのみ着きあり。およそこの粘菌類は、もっぱら腐敗せる植物の中に住んでこれを食い、さて成熟に及んでは、近所にありて光線に向かえる物の上にはい上りて結実成熟するなり。しかるに右の一種に限り、いかに光線の工合がよくても、死んだ物にはい上らず、必ず遠くとも生きた物に限りて、その上にはい上り、結実成熟するなり。それより小生このことに注意して不断観察すると、十種ばかりの粘菌はかくのごとく生き物に限りはい上りて成熟するに、一の違例なし。このことを斯学の大権威リスタ一女史(これはむかしメガネ屋主人にして顕微鏡に大改良を加えしリスターという者の後胤にて、初代のリスターはメガネ屋ながら学士会員となれり。その後代々学者輩出し、リスター卿に至りて始めて石炭酸を防腐剤に用いることを明治八、九年ごろ発明し、医学に大功ありし。その弟アーサー・リスターは百万長者にして法律家たり。暇あるごとに生物学に志しついに粘菌図譜を出して斯学の大権威となる。小生は初めこの人に粘菌の鑑定を乞いて、おいおい学問致せし。リスター女史はその娘なり。一生嫁せず粘菌の学問のみ致し、今年あたり亡父の粘菌図譜の第三板を出す。それに小生自宅の庭の柿の樹の生皮より見出だせし世界中唯一の属に、女史が小生の氏名によってミナカテルラ属を立てたる一種の三色板の画が出るはずなり。たぶん昨年出たことと思うが、曽我十郎が言いしごとく、貧は諸道の妨(さまた)げで、近来多事にして文通さえ絶えおり候)に報告せしより、女史が学友どもに通知して気をつけると、欧米その外にも、小生が言う通り、生きた物にかき上りてのみ初めて結実成熟する粘菌また十余程(すなわち日本と外国と合して二十余種)あることが分かり候。

[やぶちゃん注:「粘菌類」既注。現在は「変形菌」(真核生物アメーバ動物門(Amoebozoa:アメーボゾア)コノーサ綱 Conosea変形菌亜綱 Myxogastria)と呼ぶのが一般的。なお、余り認識されているとは思われないので言い添えておくと、確かに南方熊楠は粘菌を自分の研究の一つには位置づけており(但し、彼の自覚的本領研究対象は菌類(茸類)であった)、粘菌研究者であり、新種も発見しているのであるが、生涯ただの一度も、その新種を正式論文として公表したことはなかった。後述する、彼が大正六(一九一七)年に田辺の自邸の庭の柿の木で発見したミナカテルラ・ロンギフォラでさえ、それは後注するグリエルマ・リスターに報告され、彼女によって一九二一年(大正十年)にイギリスの植物学雑誌に新種として発表されたもので南方熊楠に敬意を表して新属名を冠するものの、その学名は Minakatella longifila G. Lister である(私の言を信じない人がいると困るので言っておくと、活字本「南方熊楠を知る事典」の萩原博光氏の「粘菌」の章にも、同様のことが書かれてある)。

「明治三十五年」一九〇二年。那智を研究本拠地としていた頃であるが、同年五月より十二月まで田辺・白浜に遊んでいた。

「鉛山温泉」「かなやまおんせん」と読む。現在の広域の南紀白浜温泉内でも、最も古い温泉地区である瀬戸鉛山村(せとかなやまむら)の温泉で「牟婁の湯」として古くから知られていた(現在の湯崎地区。(グーグル・マップ・データ))。ウィキの「白浜温泉によれば、『今日に見る大規模な温泉街が作られたのは第一次世界大戦後の』大正八(一九一九)年にこの『鉛山地区に対抗して独自の温泉場を作る試みが地元有志の手で始められ』、三年後の大正十一年に『瀬戸と鉛山のほぼ中間の白良浜付近にて源泉を掘り当てることに成功して以降で、このころに「白浜」という温泉名が作られた』とある。

「フィサルム・クラテリフォルム」「南方熊楠コレクション」の注によれば、原文の『「ヂヂルマ・クラテリフォルム」を小畔の注意によってこう改めた』とある。これはコノーサ綱変形菌亜綱モジホコリ目 Physarales モジホコリ科 Physaraceae モジホコリ属キノウエモジホコリPhysarum crateriforme である。海外サイトので画像が見られる。

「ペッチ」イギリスの植物学者トム・ペッチ(Tom Petch 一八七〇年~一九四八年)であろう。「日本変形菌研究会」公式サイト内の変形菌分類学研究者の紹介(国外)によれば、『理科と数学の教師をしていたが、独学で勉強し、ロンドン大学を卒業』、一九〇五年、に『セイロンの王立植物園の職を薦められて、赴任し、ゴムの木の病理学などを研究した。その後、新設された、茶の研究所に勤め、茶の木の病理学などを研究した。同時に、セイロンの菌類、変形菌類、高等植物などを研究した。引退後は英国に帰国して、英国の菌類の研究を続けた。熱帯の菌類と植物病理学の、先駆者の一人である。彼の標本は、大英博物館に収められている』とある。

「リスタ一女史」後に注する父アーサーとともに南方熊楠の粘菌学の師であるとともに、『日本粘菌学の育ての親』とも言うべき(活字本「南方熊楠を知る事典」の萩原博光氏の評言)グリエルマ・リスター(Gulielma Lister 一八六〇年~一九四九年)。先の変形菌分類学研究者の紹介(国外)によれば、『アーサー・リスターの娘で』、十六歳の『時に、一年間、女子大学に通った他は、家庭で教育を受け、一生独身で過ごした。父のアーサーは、『粘菌モノグラフ』初版の序文で、次のように書いている。「私の粘菌の研究、そして図版の準備期間中、ずっと娘グリエルマ・リスターの援助を受けた」』。一九〇三年には『菌学会に入会し』、一九〇四年には『女性にも門戸が開かれた、リンネ協会の会員に選ばれた。父の死後』、一九一一年に『粘菌モノグラフ』第二版を著し、翌年には英国菌学会会長に就任、一九二四年からは『英国菌学会名誉会員に選ばれている』。一九二五年には『粘菌モノグラフ』第三版を『出し、変形菌分類学の、世界的権威となった』。一九二九年から一九三一年まで『リンネ協会副会長を勤め』一九三二年には再び、『英国菌学会会長となっ』ている。彼女の手書きの菌類図譜を見ても判るが、その芸術的才能も『素晴らしかった』。『毎日の通信や、研究は、詳細に記録して、ノートに残したが、現在、このノートは、ロンドンの自然史博物館に保存されている』とある。

「明治八、九年」一八七五、一八七六年。

「アーサー・リスター」(Arthur Lister 一八三〇年~一九〇八年)は先の変形菌分類学研究者の紹介(国外)によれば、『少年時代から、ずっと鳥が好きであった』と言い、十六『歳の時、化学会社に奉公に出た。その後、羊毛商人の共同経営者とな』り、一八五七年『には、酒類を扱う、父の会社を継いだ』。一八七六年から一八七七年に『かけての冬に、森で、木の株に生じた』茸の一種キウロコタケ(菌界担子菌門真正担子菌綱ベニタケ目ウロコタケ科キウロコタケ属キウロコタケ Stereum hirsutum)『の上に広がった、ブドウフウセンホコリ』(変形菌亜綱コホコリ目モジホコリ科フウセンホコリ属ブドウフウセンホコリ Badhamia utricularis。単子囊体が葡萄の実に似、掌状子囊体も葡萄の房に似る)『の変形体を見つけた。それを持ち帰り、菌核を形成させ、キウロコタケを餌にして、数年間培養することができた』。一八七七年、『リンネ協会の席で、この変形体を展示した。この時以来、彼の興味は、変形菌に集中して行った。その後、』複数の碩学から種同定や研究を依頼され、一八九二年には『大英博物館から、博物館の変形菌目録を作成する依頼を受けた。彼と娘はキューに居をかまえて、この仕事に全精力を傾けた。この間にシュトラスブルクにある、ド・バリの標本も調査した。目録は』一八九四年に『『粘菌モノグラフ』として出版された』。一八九八年には王立協会会員、一九〇六年には『英国菌学会会長となった。彼の死後、研究は、娘のグリエルマによって引き継がれた』とある。

「ミナカテルラ属」変形菌亜綱ケホコリ目ケホコリ科ミナカテルラ属Minakatella。この「女史が小生の氏名によってミナカテルラ属を立てたる一種の三色板の画が出るはずなり。たぶん昨年出たことと思ふ」とあるが、本書簡は大正一四(一九二五)年二月の執筆で、グリエルマ・リスターによる「粘菌図譜」の改訂(二回目)はこの年に行われている。後に、彼女から南方熊楠先生へミナカテルラ属ミナカタホコリ(Minakatella longifila)の彩色図と「変形菌類図譜第三巻」が贈呈されている(現在、田辺市の南方熊楠顕彰館所蔵)。]

 

 御承知通り連盟とか平和とか口先ばかりで唱えるものの、従来、またことに大戦以後、国民や人種の我執(がしゅう)はますます深く厚くなりゆき、したがって国名に関することには、いかに寛大篤学の欧人も常に自国人をかばい、なるべく他国人を貶(けな)し申し候。したがってこの、ある粘菌に限り、食うものは腐ったもの死んだものを食いながら、結実成熟には必ず死物を避けて生きた物にとりつくを要すということも、小生と別に英国のクラン Cran という僧が、小生と同時に(もしくは少し早く)気づきおりたるように発表され申し候。まことに苦々(にがにが)しき限りにて、当初この発見を小生がリスタ一女史に告げたときCranなどいう坊主のことは聞きも及ばず、リスタ一女史みずからきわめて小生の報告を疑い、精確に小生が検定せる、生物にのみ身を托して初めて結実し得る諸粘菌の名を求められた状は今に当方にあるなり。しかるに、小生の発見確実と見るや、たちまち右の坊主を撰定して小生とその功を分かちまたは争わしめんと致され候。万事この格(かく)で、日本人が自分の発見を自分で出板して自在に世界中に配布するにあらざれば、到底日本人は欧米人と対等に体面を存することは成らず候。リスタ一女史などは実に小生に好意の厚き人なるに、それすらかくのごとくなればその余は知るべし。

[やぶちゃん注:「クラン Cran という僧」不詳であるが、ネットを調べると、海外サイトの変形菌類のリストのかなりの種の学名に“G. Lister & Cran”と附されることから、修道士でグリエルマ・リスターの共同研究者であったものと推定される。

「この格(かく)で」こうした(卑劣な)やり口が定法で。]

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「死者の影」 附 小泉八雲 “A DEAD SECRET”+同戶川明三譯(正字正仮名)+原拠「新選百物語/紫雲たな引密夫の玉章」原文

 

 死者の影

 

 東晉の董壽が誅せられた夜、壽の妻が燈下にひとり坐つてゐると、自分の傍に夫が立つてゐる。どうして今時分お退(さが)りになつたかと聞いても、彼は一言も答へなかつた。彼がそこを出て鷄籠の周圍を𢌞つて行く時、籠の中の鷄が俄かにけたゝましく騷ぎ立てる。火を照らして見たら、籠の傍には血が流れてゐる。壽の妻は夫の上に凶事のあつたことを直感したが、夜が明けると壽の死が傳へられた。

 かういふ話が「搜神後記」に出てゐる。これはマクベスの前に現れたバンコーの姿のやうなものである。大饗宴の席を外して扉口に出たマクベスが、刺客からの報告を聽取して戾る途端、バンコーがどこからか入つて來て、マクベスの掛けるべき椅子に腰をおろす。マクベスはまだ氣が付かずに、これであのバンコーさへ來てくれられれば、國中の名族は悉く一室內に集まつたわけなのだが、などと云つてゐる。この際バンコーの事で頭が一杯になつてゐるのはマクベス一人なのだから、愈々亡靈と顏を見合せて棒立ちになるのは當然であらう。亡靈は他人には少しも見えず、一度消えてまた現れる。マクベスが取り亂した結果、折角の大饗宴は滅茶滅茶になつてしまふ。董壽の場合と違つて衆人環視の中の出來事であり、バンコーの姿は他の何人にも見えぬだけに、マクベスの言動が餘計に目立つわけである。

[やぶちゃん注:先の「搜神後記」のそれは「第三卷」の「董壽之」。

   *

董壽之被誅、其家尙未知。妻夜坐、忽見壽之居其側、歎息不已。妻問、「夜間何得而歸。」。壽之都不應答。有頃、出門、繞雞籠而行、籠中雞驚叫。妻疑有異、持火出戶視之、見血數升、而壽之失所在。遂以告姑、因與大小號哭、知有變。及晨、果得凶問。

   *

「マクベス」( Macbeth )はウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare 一五六四年~一六一六年)の一六〇六年頃に成立した彼の四台悲劇の一つ。「バンコー」(Banquo:現行では「バンクォー」と音写することが多い)はマクベスの友人であった将軍であるが、疑心暗鬼に陥ったマクベスの放った暗殺者によって殺されてしまう。ここは第三幕第四場のそれで、バンクォー暗殺を何食わぬ顔をして受けるマクベスが、髪を血に染めたバンクォーの亡霊が宴席の自分の席にいるのを幻視する、圧巻のシークエンスである。]

 

 倂しこの二つの話はいづれも血を伴つてゐる。事が行はれて忽ちに亡靈が現れるのもそのためと解せられるが、もつと平凡な場合にも同樣の話がないことはない。鵜殿式部といふ家の召仕ひで、病氣のため暫く宿に歸つてゐた女が、お蔭で永い間養生致しました、と云つて挨拶に來た。見れば顏色もよくないから、もつと養生したらよからうと云ふと、いえ、もうこの分ならば御奉公も出來ますことと存じます、これはうちで拵へた品でございますから、と云つて重箱に入れた團子を差出した。それなら養生旁々勤めたらよからう、といふことになつて、女は次の間へ立つて行つた。鵜殿の老母が勝手へ出てこの話をしたところ、家の者は、おや、いつ參りましたか、一向存じません、と云ふ。方々搜しても更に姿は見えぬ。それにしても慥かに土產があつた筈と、前の重箱を取り出して見たら、重箱に變るところはなかつたが、中に詰めてあるのは全部白い團子であつた。慌てて宿へ人を遭つた結果、はじめてその女が二三日前に亡くなつたといふ消息を知り得た。

「耳囊」に出てゐるこの話は、下女が死後に挨拶に來たといふまでで、怨みも何もある次第ではない。たゞ幻に見えただけでなく、佛前に供へるやうな白い團子を重箱に詰めて持參したといふのが話の山であらう。氣味が惡いには相違ないが、多少卽(つ)き過ぎた嫌ひがあるかも知れぬ。そこへ往くと「怪談登志男」の中の一話は稍々離れ得てゐる。

[やぶちゃん注:以上の「耳囊」の話は「卷之四 女の幽靈主家へ來りし事」である。私の電子化訳注でどうぞ。]

 

 築地の本願寺近くに住む岩崎といふ老人は、閑散なるまゝに謠や仕舞を何よりの樂しみにして居つたが、或日の午後、日も西に傾く頃になつて、小網町に住む彥兵衞といふ町人がこの隱居を訪ねて來た。彦兵衞は岩崎老人の講仲間で、かねてこの人を通じて京都に仕舞の扇が誂へてあつた。一別以來の挨拶が濟むと、彥兵衞は扇の事を云ひ出し、疾くに出來上つてゐたのに、道中の間違ひで遲延したことを詫び、今日漸う到著致しました、と云つて註文の品を差出した。倂し彥兵衞の樣子が何となく元氣がない。岩崎老人は扇の出來をよろこんで、若侍などを呼び集め、一しきり酒を酌み交した果ては、主人は立ち上り今の扇をかざして舞ふ。彥兵衞も御屆出來の御祝儀にと、續いて舞ひ出したが、いつの間にかその姿が見えなくなつた。座に在る者は主人と若侍と小坊主ばかりで、彥兵衞はどこへ行つたものかわからない。八方搜索しても知れぬので、狐でも化けて入り込んだものかなどと話してゐたところ、翌日彥兵衞の倅藤七なる者が扇を屆けて來た。昨日持參の扇と寸分違はぬやうだが、あれはどうしたと尋ねても更に見當らぬ。藤七の話で彥兵衞が昨日亡くなつたことがわかり、末期(まつご)に近い頃、京都からの荷物が到著し、扇を一見して滿足の笑みを漏らし、自分が亡くなつたら佛事供養より前にこれを持參してお詫びを申せと遺言した話を聞いては、皆昨日の幻の偶然ならぬことを感じたのである。

 同じ亡靈の出現にしても、扇をかざして一さし舞ふなどは大分風流で、重詰の白團子の比ではない。

[やぶちゃん注:以上は「卷之二」にある「八 亡魂の舞踏」で、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらから視認出来る。]

 

「怪談登志男」は寬延三年版であるが、それより三十年餘りおくれて出た「諸越の吉野」(天明三年)にも「幽靈芭蕉の舞を奏て實演を告る事」といふのがある。人名その他に相違はあるけれど、全體の筋は同じである。「怪談登志男」の話を蒸し返したまでのものか、當時何かこんな話が行はれてゐたのか、その邊はよくわからない。

[やぶちゃん注:「寬延三年」一七五〇年。

「諸越の吉野」天明三(一七八四)年板行の奇談集「近古奇談 諸越の吉野」。詳細不祥。所持もしないし、国立国会図書館デジタルコレクションにもない。「幽靈芭蕉の舞を奏て實演を告る事」、これ、是非とも中身を知りたいのだが。]

 

 小泉八雲の「葬られたる祕密」は、「新選百物語」にある「紫雲たなびく密夫の玉章」に據つたものださうである。丹波國の富裕な一商人稻村屋源助の娘でお園といふのが、一族の商人に嫁して四年後に亡くなつた。お園の結婚後の生活には何の問題もなかつたのに、葬式の晩から彼女の姿が二階の部屋に現れる。第一にこれを發見したのは、彼女の小さい子供であつた。お園は何も口を利かず、子供を見て微笑したといふ。簞笥の前に立つてゐる彼女の姿は外の人にも見えた。結局これは簞笥の中の物に執著があるためだらうといふ解釋の下に、中の品物は悉く寺に約められた。抽匣(ひきだし)は空虛になつたが、お園は依然として姿を現し、簞笥を凝視することをやめぬ。この話は彼女の姑によつて檀那寺の大玄和尙に告げられた。和尙はお園の部屋にひとり坐つて經を誦することにした。夜半を過ぎてお園の姿は現れたが、無論何も云はぬ。氣がかりな事があるやうに、簞笥を見据ゑてゐるだけである。和尙は立つて簞笥の中を丹念に點檢したが、どの抽匣にも何もなかつた。或は抽匣の中を貼つた紙の下に隱されてゐるかも知れぬといふ氣がしたので、それを剝がして行くと、四番目の抽匣の貼り紙の下から一通の手紙が出て來た。和尙は彼女の影に向つて、あなたの心を惱ましたものはこれかと念を押し、誰にも見せることなしに寺で燒き棄てることを約した。彼女は微笑して消えてしまつた。お園は結婚する前に、藝事を修業するために京都へ出てゐたことがあり、この手紙はその頃貰つた艷書であつた。「新選百物語」では數十通とあるのを、八雲が一通にしたのださうである。

[やぶちゃん注:「葬られたる祕密」は小泉八雲の名作“ Kwaidan : stories and studies of strange things (一九〇四年)の中の一篇A DEAD SECRETである。原文(ネット上で最も信頼出来ると判断したものを選んで加工データとし、例の通り、いつも厄介になっている“Internet
Archive”
原典画像を視認して本文を作製した原注は邦人には不要と考え、除去した)及び戶川(秋骨)明三訳(こちらにある昭和二五(一九五〇)年新潮文庫刊古谷綱武編「小泉八雲集 上巻」の当該訳画像)のものを以下に示す。なお、後者の第一段落の「ながらやと云ふ」は、底本は「ながらや云とふ」であるが、誤植と断じて訂しておいた。また、後者の第六段落目は底本の版組(改頁行頭から始まっており、前頁最終行は空行でない)から詰っているが、シークエンスからも、原典に則り、空行を施した

 

*   *   * 

 

A DEAD

SECRET

 

 A long time ago, in the province of Tamba , there lived a rich merchant named Inamuraya Gensuké. He had a daughter called O-Sono. As she was very clever and pretty, he thought it would be a pity to let her grow up with only such teaching as the country-teachers could give her: so he sent her, in care of some trusty
attendants, to Kyōto, that she might be trained in the polite accomplishments taught to the ladies of the capital. After she had thus been educated, she was married
to a friend of her father's family ― a merchant named Nagaraya;― and she lived happily with him for nearly four years. They had one child, ― a boy. But O-Sono fell ill and died, in the fourth year after her marriage.

   On the night after the funeral of O-Sono, her little son said that his mamma had come back, and was in the room upstairs. She had smiled at him, but would not talk to him: so he became afraid, and ran away. Then some of the family went upstairs to the room which had been O-Sono's; and they were startled to see, by the light of a small lamp which had been kindled before a shrine in that room, the figure of the dead mother. She appeared as if standing in front of a tansu, or chest of drawers, that still contained her ornaments and her wearing-apparel. Her head and shoulders could be very distinctly seen; but from the waist downwards the figure thinned into invisibility;― it was like an imperfect reflection of her, and transparent as a shadow on water.

   Then the folk were afraid, and left the room. Below they consulted together; and the mother of O-Sono's husband said: "A woman is fond of her small things; and O-Sono was much attached to her belongings. Perhaps she has come back to look at them. Many dead persons will do that, ― unless the things be given to the parish-temple. If we present O-Sono's robes and girdles to the temple, her spirit will probably find rest."

   I was agreed that this should be done as soon as possible. So on the following morning the drawers were emptied; and all of O-Sono's ornaments and dresses were taken to the temple. But she came back the next night, and looked at the tansu as before. And she came back also on the night following, and the night after that, and every night; ― and the house became a house of fear. 

   The mother of O-Sono's husband then went to the parish-temple, and told the chief priest all that had happened, and asked for ghostly counsel. The temple was a Zen temple; and the head-priest was a learned old man, known as Daigen Oshō. He said: "There must be something about which she is anxious, in or near that tansu."
― "But we emptied all the drawers," replied the woman; ― "there is nothing in the tansu." ―
"Well," said Daigen Oshō, "to-night I shall go to your house, and keep watch in that room, and see what can be done. You must give orders that no person shall enter the room while I am watching, unless I call."

   After sundown, Daigen Oshō went to the house, and found the room made ready for him. He remained there alone, reading the sutras; and nothing appeared until after the Hour of the Rat.   Then the figure of O-Sono suddenly outlined itself in front of the tansu. Her face had a wistful look; and she kept her eyes fixed upon the tansu.

   The priest uttered the holy formula prescribed in such cases, and then, addressing the figure by the kaimyō of O-Sono, said: ― "I have come here in order to help you. Perhaps in that tansu there is something about which you have reason to feel anxious. Shall I try to find it for you?" The shadow appeared to give assent by a slight motion of the head; and the priest, rising, opened the top drawer. It was empty. Successively he opened the second, the third, and the fourth drawer; ― he searched carefully behind them and beneath them;― he carefully examined the interior of the chest. He found nothing. But the figure remained gazing as wistfully as before. "What can she want?" thought the priest. Suddenly it occurred to him that there might be something hidden under the paper with which the drawers were lined. He removed the lining of the first drawer:― nothing! He removed the lining of the second and third drawers:― still nothing. But under the lining of the lowermost drawer he found ― a letter. "Is this the thing about which you have been troubled?" he asked. The shadow of the woman turned toward him, ― her faint gaze fixed upon the letter. "Shall I burn it for you?" he asked. She bowed before him. "It shall be burned in the temple this very morning," he promised;― "and no one shall read it, except myself." The figure smiled and vanished. 

 

   Dawn was breaking as the priest descended the stairs, to find the family waiting anxiously below. "Do not be anxious," he said to them: "She will not appear again." And she never did.

   The letter was burned. It was a love-letter written to O-Sono in the time of her studies at Kyotō. But the priest alone knew what was in it; and the secret died with him.

*   *   *

 

    葬られたる祕密

 むかし丹波の國に稻村屋源助といふ金持ちの商人が住んで居た。此人にお園といふ一人の娘があつた。お園は非常に怜悧で、また美人であつたので、源助は田舍の先生の敎育だけで育てる事を遺憾に思ひ、信用のある從者をつけて娘を京都にやり、都の婦人達の受ける上品な藝事を修業させるやうにした。かうして教育を受けて後、お園は父の一族の知人――ながらやと云ふ商人に嫁(かたづ)けられ、殆んど四年の間その男と樂しく暮した。二人の仲には一人の子――男の子があつた。然るにお園は結婚後四年目に病氣になり死んでしまつた。

 その葬式のあつた晩にお園の小さい息子は、お母さんが歸つて來て、二階のお部屋に居たよと云つた。お園は子供を見て微笑んだが、口を利きはしなかつた。それで子供は恐はくなつて逃げて來たと云ふのであつた。其處で、一家の內の誰れ彼れが、お園のであつた二階の部屋に行つてみると、驚いたことには、その部屋にある位牌の前に點(とも)された小さい燈明の光りで、死んだ母なる人の姿が見えたのである。お園は簞笥則ち抽斗になつて居る箱の前に立つて居るらしく、其簞笥にはまだお園の飾り道具や衣類が入つて居たのである。お園の頭と肩とは極く瞭然(はつきり)見えたが、腰から下は姿がだんだん薄くなつて見えなくなつて居る――恰もそれが本人の、はつきりしない反影のやうに、又、水面における影の如く透き通つて居た。

 それで人々は、恐れを抱き部屋を出てしまひ、下で一同集つて相談をした處、お園の夫の母の云ふには『女といふものは、自分の小間物が好きなものだが、お園も自分のものに執著して居た。多分、それを見に戾つたのであらう。死人でそんな事をするものも隨分あります――その品物が檀寺にやらずに居ると。お園の著物や帶もお寺へ納めれば、多分魂も安心するであらう』

 で、出來る限り早く、この事を果すといふ事に極められ、翌朝、抽斗を空(から)にし、お園の飾り道具や衣裳はみな寺に運ばれた。しかしお園はつぎの夜も歸つて來て、前の通り簞笥を見て居た。それからそのつぎの晩も、つぎのつぎの晩も、每晩歸つて來た――爲にこの家は恐怖の家となつた。 

 

 お園の夫の母はそこで檀寺に行き、住職に事の一伍一什を話し、幽靈の件について相談を求めた。その寺は禪寺であつて、住職は學識のある老人で、大玄和尙として知られて居た人であつた。和尙の言ふに『それはその簞笥の内か、又はその近くに、何か女の氣にかかるものがあるに相違ない』老婦人は答へた――『それでも私共は抽斗を空(から)にいたしましたので、簞笥にはもう何も御座いませんのです』――大玄和尙は言つた『宜しい、では、今夜拙僧(わたし)が御宅へ上り、その部屋で番をいたし、どうしたらいいか考へて見るで御座らう。どうか、拙僧が呼ばる時の外は、誰れも番を致して居る部屋に、入らぬやう命じて置いて戴き度い』 

 

 日沒後、大玄和尙はその家へ行くと、部屋は自分のために用意が出來て居た。和尙は御經を讀みながら、其處にただ獨り坐つて居た。が、子の刻過ぎまでは、何も顯れては來なかつた。しかし、その刻限が過ぎると、お園の姿が不意に簞笥の前に、何時となく輪廓を顯した。その顏は何か氣になると云つた樣子で、兩眼をじつと簞笥に据ゑて居た。

 和尙はかかる場合に誦するやうに定められてある經文を口にして、さてその姿に向つて、お園の戒名を呼んで話しかけた『拙僧(わたし)は貴女(あなた)のお助けをするために、此處に來たもので御座る。定めしその簞笥の中には、貴女の心配になるのも無理のない何かがあるのであらう。貴女のために私がそれを探し出して差し上げようか』影は少し頭を動かして、承諾したらしい樣子をした。そこで和尙は起ち上り、一番上の抽斗を開けて見た。が、それは空であつた。つづいて和尙は、第二、第三、第四の抽斗を開けた――抽斗の背後(うしろ)や下を氣をつけて探した――箱の內部を氣をつけて調べて見た。が何もない。しかしお園の姿は前と同じやうに、氣にかかると云つたやうにぢつと見つめて居た。『どうして貰ひたいと云ふのかしら?』と和尙は考へた。が、突然かういふ事に氣がついた。抽斗の中を張つてある紙の下に何か隱してあるのかも知れない。と、其處で一番目の抽斗の貼り紙をはがしたが――何もない! 第二、第三の抽斗の貼り紙をはがしたが――それでもまだ何もない。然るに一番下の抽斗の貼り紙の下に何か見つかつた――一通の手紙である。『貴女の心を惱まして居たものはこれかな?』と和尙は訊ねた。女の影は和尙の方に向つた――その力のない凝視は手紙の上に据ゑられて居た。『拙僧がそれを燒き棄てて進ぜようか?』と和尙は訊ねた。お園の姿は和尙の前に頭を下げた。『今朝すぐに寺で燒き棄て、私の外、誰れにもそれを讀ませまい』と和尙は約束した。姿は微笑して消えてしまつた。 

 

 和尙が梯子段を降りて來た時、夜は明けかけて居り、一家の人々は心配して下で待つて居た。『御心配なさるな、もう二度と影は顯れぬから』と和尙は一同に向つて云つた。果してお園の影は遂に顯れなかつた。

 手紙は燒き棄てられた。それはお園が京都で修業して居た時に貰つた艷書であつた。しかしその内に書いてあつた事を知つているものは和尙ばかりであつて、祕密は和尙と共に葬られてしまつた。

         (戶川明三譯)
    
A Dead Secret.Kwaidan.

   *

「新選百物語」「新撰百物語」とも。全五巻合冊。編者・板行年ともに不詳(書肆は大阪の吉文字屋市兵衛。序文及び後付(本文の一部を含む)が欠損しているため)。であるが、江戸後期の明和三(一七六六)年刊と推定される浮世草子。本“A Dead Secret”は「卷三」の第三話目の「紫雲たな引(びく)密夫(みつふ)の玉章(たまづさ)」が原話である。以下にJAIRO(ジャイロ:Japanese Institutional Repositories Onlineで入手した原典(影印)PDF画像(ここで全巻をダウンロード出来る)を視認して電子化した。判読出来ないところや、疑義のある部分は、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲作・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」を参考にした。踊り字「〱」は正字化した。但し、読みは私が振れると判断した一部に留め、読み易くするために句読点を私の判断で打ち、シークエンスごとに改行し、一部を直接話法と成して改行したのも私である。また、本文の誤字や歴史的仮名遣の誤りはママである。なお、本書の「卷二」の「嫉妬にまさる梵字の功力(くりき)」は、やはり、小泉八雲の「骨董」( Kottō )の中の第六話「お龜の話」( The Story of 0-Kame の種本でもある。

   *

 小夜衣(さよごろも)など書(かき)やりしは、嗚呼(あゝ)貴(たつと)むべし、貞女とも節女とも古今(こゝん)に秀(ひいで)し稀者(まれもの)、末世までも、その名を殘せり。かゝる賢女を當世に、不膵(ぶすい)といひ、練(ねれ)ぬといひ、白いといひ、土といふ、これ、皆、西南の蚯蚓(みゝず)[やぶちゃん注:田舎者の蔑称の隠喩か?]にして、惡(にく)むべし。人をして惡に導(みちびく)の罪人なり。かくのごときものをば鼠といふと、その所以(ゆへ)を問ヘば、食ふ事のみを好んで、人前(にんぜん)へ出る事あたはざるがゆへなりと。宜(むべ)なるかな、子は親の心にならふものなれば、假令(かりそめ)にも不義淫亂のことをいはず、女子(によし)は取(とり)わけ、孝を第一にしてつゝしみを敎(おしゆ)べし。芝居の御姬さまの、かちや、はだして出奔(しゆつぼん)なされ後(のち)には、傾城やへ賣(うら)れ給ふのイヤ私夫(まぶ)のといふ名は勿論、聞(きか)すも毒なるに、母親(はゝご)の好(すき)とて、娘子(むすめこ)を鰹汁(だし)にして、一番太鞁(たいこ)のならぬ中(うち)から幼(いとけ)なき子の手を引(ひい)てしこみ給ヘば、曆々(れきれき)の黑き膵(すい)と成(なつ)て、男の子は代々の家(いへ)をもち崩し、辻だちの狂言するやうになり、女子(によし)は密夫(まおとこ)の種(たね)と成(なる)ものぞかし。

 今はむかし、丹波の國に稻村や善助とて吳服商賣する人ありて、お園といふ娘をもちしが、只ひとりの娘といひ、諸人(しよにん)にまされる容色なれば、父母の寵愛すくなからず、

「田舍育(いなかそだち)となさんも惜し。」

と、一年のうち、大かたは京大坂に座敷をかり、乳母(うば)婢(こしもと)を多くつけ置(おき)、

「地下(ぢげ)でも堂上(たうしやう)まさりじや。」

と、名にたつ師をとり、

「和歌を學(まなば)せ茶の湯も少し知(しら)いでは。」

と、利休流の人へたのみ、長板(ながいた)[やぶちゃん注:茶道で風炉・水指などを載せる長方形の板。ここは細かなところまで、という喩えであろう。]までも、たてまへ覺へ𢌞(まは)り、炭(すみ)に心をくだけは、

「お精(せい)がつきやう。」

と、婢とも琴(こと)三絃(さんげん)を取出(とりいだ)し、

「明日は芝居にいたしましよ。」

と、女形の容貌(すがた)に氣をつけ、聲音(こはいろ)をうつし、仕立(したて)あけたる盛(さかり)の年、二九からぬ目もと口もと、田舍にまれなるうつくしさ、引手(ひくて)あまたの其中に、長良(ながら)や淸七とて、これも、をとらぬ身代(しんだい)がら、兩替商賣目利(めきゝ)の嫁子(よめご)白無垢娘、二世かけて夫婦の中(なか)は黃金(わうごん)はだヘ、振手形(ふりてがた)なきむつましさ、はや、其としに懷妊して玉のやうなる和子(わこ)をもふけて、世話にすがたも變らねば、

「下地(したぢ)のよいのは各別。」

と、讚(ほめ)そやされし身なりしが、秋の末にはあらねども、いつともなしにぶらぶらと、さして病氣といふにもあらず、只、何(なに)となく面瘦(おもやせ)て、氣むつかしげに衰へて、物おもはしき氣色なれば、兩親(ふたをや)、舅姑(しうとしうとめ)、聟(むこ)、にはかに驚き、醫者へも見せ、

「藥よ鍼(はり)よ。」

と、騷ぎたち、諸神(じん)諸佛へ立願(りふぐはん)をかけ奉る。御寶前に肝膽(かんたん)をくだき、いのれども、終に此世の緣つきて、會者定離(ゑしやでうり)とは知りながら、戀(こひ)こがれしもあだし野の露と消ゆく花ざかり、鳥(とりべ)部の山に植(うへ)かへて、淚の種となりけらし。

 ふしぎや、野邊(のべ)に送りし夜(よ)より、お園が姿ありありと、影のごとくにあらはれて、物をもいはず、しよんぼりと單笥(たんす)のもとにたゝずめり。みなみな傍に立よりて、

ノフなつかしや。」

と取(とり)すがれと、たゝ、雲雰(くもきり)のごとくにて、手にもとられぬ水の月、

「何ゆへこゝに來りしぞ。」

と尋ぬれども、返事もせず、淚にむせぶ斗(ばかり)にて樣子もしれねバ、詮かたなく、

「可愛(かわい)や、わが子が淸七にこゝろ殘りて迷ひしならん。」

と、さまさまの佛事をなし、跡(あと)ねんごろに吊る(とむら)へども、所も違はす、姿もさらず、

「扨(さて)は單笥の衣類の中(うち)か、手道具などにも執着(しうじやく)せしか。」

と、殘らず、寺へ送れども、猶も姿はしほしほと、はじめにかはらぬ有樣なれば、一門中(もんちう)、ひそかにあつまり、衣類手道具、寺へおくり、かたのごとく、佛事をなせども、すこしもしるしのなき時は、なかなか凡慮の及ばぬ所、

「道得(どうとく)知識のちからならでは、此妖怪は退(しりぞ)くまじ。」

と、其ころ、諸國に名高き禪僧太元(だいげん)和尙に、くはしく語れば、和尙、しばらくかんがへて、

「後ほど參り、やうすを見とゞけ迷ひをはらし得さすべし。」

と、初夜(しよや)[やぶちゃん注:午後八時前後。]すぐる比(ころ)、たゞ一人、長良やに來られしに、見れば、一家(け)の詞(ことば)にちがはず、亡者のすがた、霞のごとく、簞笥のもとにあらはれて、目をもはなさず、簞笥をながめ、淚をながし、かなしむ有さま、和尙、始終をよくよく見て、亡者の躰(てい)を考(かんがふ)るに、

「ひとつの願ひあるゆへなり。暫く、此間(ま)の人をはらひ、障子ふすまをたて切(きる)べし。いかやうの事ありとも一人も來(きた)るべからず。追付(おつつけ)しるしを見せ申さん。」

と其身は亡者のすがたに向ひ、いよいよ窺(うかゞ)ひ居(ゐ)たりしが、立(たち)あがり、簞笥の中、一々に、よくあらため、顧(かへりみ)れとも、始(はしめ)にかはらず、とてもの事に、簞笥の下(した)をと引(ひき)のくれば、不義の玉章(たまづさ)數(す)十通ひとつに封じ、かくしたり。

「これぞ迷ひの種なるべし。」

と幽靈にさしむかひ、

「心やすく成佛すべし。此(この)ふみ共は燒(やき)すてゝ、人目には見せまじ。」

と約束かたき誓ひの言葉。亡者のすがたは、うれしげに合掌するぞと見へけるが、朝日に霜のとくるがごとく、消(きへ)て、かたちは、なかりけり。

 和尙は歡喜あさからず、一門のこらず呼出(よびいだ)し、

「亡者はふたゝび來るまじ。猶、なき跡を吊ふべし。」

と、立歸(たちかへ)り、彼(かの)ふみども、佛前にて燒すつる煙(けふり)の中(うち)にまざまざと亡者は再び姿をあらはし、

「大悟(たいご)知識の引導(いんだう)にて、則(すなはち)、たゞ今、佛果を得たり。」

と、紫雲に乘じて飛(とび)されりと、大元和尙の宗弟(しうてい)の物がたりぞと聞(きゝ)およぶ。

   *

辛気臭い説教風の前後がカットされ、退屈な娘の花嫁修業の前振りも払拭、柴田宵曲も述べている通り、どろどろした濃厚な江戸趣味の生々しさの恋文「數十通」の禍々しい束が、ただ「一通」となって、お園の過ち(過ちであろうか?)がただ一度であったことを暗示させて、まさに小泉八雲の名筆によって、原話が美しく浄化されていると言ってよい。また、最初のお園の霊を見るのを夫から子に変えている辺り、幼少期に生き別れ、永遠に失われた母の思い出に生きた小泉八雲の気持ちがそうさせたのだと、私は思うのである。]

 

「新選百物語」の刊行年代はよくわからぬが、似た話が「耳囊」にも出てゐる。この方は富家の娘といふだけだから、まだ結婚しては居らぬらしい。歿後或座敷の隅に髣髴と現れることは八雲の書いたのと同じである。父母大いに歎き悲しみ、當時飯沼の弘經寺にゐた祐天和尙に成佛得脫の事を賴んだ。和尙はその出る場所は每日變つてゐるかどうかを尋ねた上、必ず退散させようと引き受けた。一間に入つて讀經することは大玄和尙と同じであつたが、簞笥の抽匣を丹念にしらべたりはしない。亡靈の每日佇むところに梯子をかけ、天井の板を放して、そこに澤山あつた艷書を取り出し、火鉢に抛り込んで燃してしまつた。祐天和尙は累(かさね)を濟度した人だから、こんな事には適役であつたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:以上は囊 之三 明德の祈禱其依る所ある事。幾つかの私の語注も含め、以上の私の電子化訳注を参照されたい。]

 

 以上のやうな話も普通に幽靈として取り扱はれてゐる。幽靈には違ひないが、累やお岩の怨靈談にあるやうな魔氣がない。何とか區別した方がよささうな氣がする。

[やぶちゃん注:宵曲は、この手の「魔氣」がないものを、怪談としては格が下がる、と思っているようである(でなければ、最後の不遜めいた一文は、到底、吐けない)。私はこうしたしみじみとした霊譚こそ、極上の怪談と思う人種であることを、ここに表明して終りとする。

2017/05/08

南方熊楠 履歴書(その27) 土宜法龍を再訪

 

 大正十年の冬、小生また高野に上りし。布子(ぬのこ)一枚きて酒を飲み行きて対面(法主は紫の袈裟にて対座)、小生寒さたまらず酔い出でて居眠りし洟(はな)をたらすを、法主「蜂の子が落ちる」と言って紙で拭いてくれたところを、楠本という東京美術学校出身の画師が実写して今に珍重せり。その時、東京か大阪のよほどの豪家の老妻六十歳ばかりなるが、警部に案内されて秀次関白切腹の室を覧るうち、遠く法主と小生が対座せるこの奇観の様子を見、あきれて数珠を取り出し膜拝(ぼはい)し去れり。

  洟たれし(放たれし)次は関白自害の場

と口吟(くぎん)して走り帰り候。古人はアレキサンドル大王が、時としてきわめて質素に、時としてはまた至って豪奢なりしを評して、極端なる二面を兼ねた人と評せしが、小生も左様で、一方常に世を厭い笑うたことすら稀なると同時に、happy disposition が絶えず潜みおり、毎度人を笑わすこと多し。二者兼ね具(そな)えたゆえか、身心常に健勝にて大きな疾(やまい)にかかりしこと稀なり。

[やぶちゃん注:「大正十年の冬」大正一〇(一九二一)年十一月、後に出る楠本秀男を伴って再び高野山に赴いて菌類採集を行い、ここにあるように土宜法龍ともまた面談をしている。

「楠本」楠本秀男(明治二一(一八八八)年~昭和三六(一九六一)年)。サイト「南方熊楠顕彰館」のこちらによれば、西牟婁郡下秋津村(現在の田辺市)生まれで、田辺中学校卒業後、明治三九(一九〇六)年に東京美術学校(現在の東京芸術大学)日本画科に入学、後に西洋画科に転じ、大正三(一九一四)年に卒業、暫くは東京で画業に専念したが、後、郷里に帰って家業である薬屋「壺屋」の商いに『従事するとともに、郷土に画材を求めて作画を続けた。南方熊楠とは帰郷後に親交を結び』、この大正一〇(一九二一)年、『熊楠が再度高野山での植物調査を行った折に同行し、菌類採集や彩画で協力した。戦後は田辺市展審査員などをつとめた。画号』は龍仙を称した、とある。

「警部」これは高野山金剛峯寺の警備担当の警邏部の者といった謂いであろう。

「秀次関白切腹の室」金剛峯寺の「柳の間」。同寺公式サイト内の「寺内のみどころ」の同間を参照されたい。なお、当時は「青巖寺」と称した。

「膜拝(ぼはい)」両手を挙げ、跪(ひざまず)いて拝むこと。通常は「もはい」と読む。

happy disposition」快活で明るい性質(たち)。

「大きな疾(やまい)にかかりしこと稀なり」南方熊楠はその死を除いて、大きな病気や怪我はしていない。彼は昭和一六(一九四一)年十二月二十九日に満七十四歳で自宅で逝去したが、死因は萎縮腎であった。]

 

南方熊楠 履歴書(その26) 土宜法龍との再会

 

 そのころ小畔氏より三千円ばかり送りくれたり。それにて小生は妻子もろとも人間らしく飲食し、また学問をもつづけ得たるなり。大正九年に同氏と和歌山に会し、高野山に上り、土宜法主にロンドン以来二十八年めで面謁せり。この法主は伊勢辺のよほどの貧人の子にて僧侶となりしのち、慶応義塾に入り、洋学をのぞき、僧中の改進家たりし。小生とロンドン正金銀行支店長故中井芳楠氏の宅で初めて面会して、旧識のごとく一生文通を絶たざりし。弘法流の書をよくし、弘法以後の名筆といわれたり。小畔氏と同伴して金剛峰寺にこの法主を訪ねしとき、貴顕等の手蹟で満ちたる帖を出し、小生に何か書けといわれし。再三辞せしも聴(ゆる)さざれば、

 爪の上の土ほど稀(まれ)七身を持ちて法(のり)の主にも廻りあひぬる

 これは阿難が釈尊涅槃(ねはん)前に仏と問答せし故事によりし歌なり。また白紙を出して今一つと望まれたので、女が三味線を弾ずる体を走り書きして、

 高野山仏法僧の声をこそ聞くべき空に響く三味線(この画かきし紙は小畔氏が持ち去れり)

 これは金剛峰寺の直前の、もと新別所とか言いし所に曖昧女(あいまいおんな)の巣窟多く、毎夜そこで大さわぎの音がただちに耳を擘(つんざ)くばかり寺内に聞こえ渡る。いかにも不体裁な至りゆえの諷意なりし。後にその座にありて顔色変わりし高僧どもは、あるいは女に入れあげて山を逐電(ちくでん)し、あるいは女色から始まって住寺を破産しおわれりと承りぬ。年来この法主と問答せし、おびただしき小生の往復文書は、一まとめにして栂尾(とがのお)高山寺に什宝(じゅうほう)のごとくとりおかれし。そしていろいろの人物もあるもので、ひそかに借り出して利用せんとするものありときき、師にことわりて小生方へ送還しもらい、今も封のままにおきあり。今から見れば定めてつまらぬことばかりなるべきも、この往復文書の中には宗教学上欧米人に先立って気づきしことどもも多く載せあるなり。(大乗仏教が決して小乗仏教より後のものにあらざること、小生の説。南北仏教の名をもって小乗と大乗を談(かた)るの不都合、このことはダヴィズなど言い出せり。このことその前に土宜僧正が言いしことなり。その他いろいろとそのころに取っては嶄新なりし説多し。)小生次回に和歌山に上(のぼ)りて談判、事すまずば、多くの蔵書標品を挙げて人に渡しおわるはずなれば、その節この往復文書は封のまま貴下に差上ぐべし、どこかの大学にでも寄付されたく候。ただし小生死なぬうちは、他人をして開き見せしむることを憚(はばか)られたく候。この土宜師は遊んだ金が四万円ばかりありし。小生くれと言うたら、少なくも二万円はくれたるなれど、出家から物を貰うたことなき小生は申し出でざりし。出家の資産などは蟻の尸体(したい)同前で死んだら他の僧どもが寄ってたかって共食いにしおわる。実にはかなきところが出家のやや尊き余風に御座候。

[やぶちゃん注:「そのころ」前段を受けるので大正七(一九一八)年頃。

「大正九年に同氏と和歌山に会し、高野山に上り」大正九(一九二〇)年八月に小畔四郎らと高野山に赴き、菌類等を採集、この土宜法竜(こちらに既注)と「二十八年め」(「め」は「目」で「ぶり」)に再会した。より厳密に言うなら、南方熊楠の主目的は、「南方熊楠コレクション」の注にあるように、『高野山を今のように伐木しては三十年も立ぬ内に対岸の葛城山同様禿山となるから、其の永続法と、今一つは保護植物の事を書上て徳川侯に呈すべき為めと、今一つは菌類譜作製にゆく也」(上松蓊宛書簡)』という目論みであった。リンク先の注に記したが、土宜は明治二六(一八九三)年にシカゴで開催された「万国宗教会議」に日本の真言宗代表として渡米、ニュヨークを経て、ロンドンからパリへ向かい、仏教関係の資料の調査・研究を行ったが、この時にここに出る通り、ロンドンの横浜正金銀行ロンドン支店長中井芳楠の家に於いて、南方熊楠と初めて逢っている。

「もと新別所とか言いし所」別所とは、十一世紀以降、大きな寺院に於いて、一定の区画内に堂宇・僧坊などの施設と、そこに在住寄住する僧侶や聖とその宗教活動を包括した組織構造を指した。高野山の場合、現在の真別処円通律寺辺りがそれらしい。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「曖昧女」売春婦。

「栂尾(とがのお)高山寺」かの名僧明恵(私はブログで「栂尾明恵上人伝記」(電子化注・完結)及び「明恵上人夢記」(電子化訳注・進行中)を手掛けている)を中興の祖とする、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町にある真言宗栂尾山高山寺(こうざんじ/こうさんじ)。当時、真言宗御室派(現在は真言宗単立寺院)であったここに何故、この頃、熊楠と法龍の往復書簡がそのような形で管理されていたのかは私は不詳である。識者の御教授を乞う。

「大乗仏教が決して小乗仏教より後のものにあらざること」「小乗仏教」は現在、「上座部仏教」と呼ばれるのが通例。紀元前三八三年頃に釈迦がなくなって、その弟子がその言葉を書き留めたものが仏教の原始経典とされるが、それから百年前後(経過年数には異説あり)過ぎた頃、その原始経典と奉じる守旧派の「上座部」と革新派の「大衆部」とに分裂、それぞれの中で多様な流派が生じたが、特に後者では、釈迦の教えを広めるべく、文学性に富んだ新教典を編纂が行われた。前者が上座部仏教(小乗仏教)の源流となり、後者が大乗仏教を形成するに至ったともされる。但し、「大衆部」を直接の大乗の濫觴とは考えない見方もあり、南方熊楠の大乗ありきというのは、原始仏教の核心にこそ大乗的法義があるとする立場であろうと思われる。

「南北仏教」不詳。現在も上座部仏教が、タイやミャンマーなどの東「南」アジアで厚く信仰されており、伝来の関係上、中国・朝鮮・日本といったそれらの国から「北」で圧倒的に信仰者を増やした大乗仏教を、単にその南北の地域性や環境ひいてはそこから生じた民族性・文化性等から考察分類することはおかしいと熊楠は主張するのであろう。

「ダヴィズ」イギリスの仏教学者で、上座部仏教の研究で知られるトーマス・ウィリアム・リス・デイヴィッズ(Thomas William Rhys Davids 一八四三年~一九二二年)。裁判官として、当時、イギリス領植民地であったセイロン(スリランカ)に赴任、そこでパーリ語(上座部仏教の経典(パーリ語経典)で主に使用される言語)と南伝(上座部)仏教の研究を重ね、一八八二年からロンドン大学教授としてパーリ語を講じ、一九〇四年~一九一五年にはマンチェスター大学で比較宗教学を講じ、また、パーリ語原典協会を一八八一年に設立して、パーリ語による南伝仏典のローマ字化出版を促進したりもした。

「嶄新」斬新に同じい。

「和歌山に上(のぼ)りて談判」「南方熊楠コレクション」の注によれば、『弟常楠の』南方植物研究所設立のための『寄付金(二万円)未済について話し合うこと』とある。既に募金広告では寄附金筆頭者は南方常楠が二万円と明示されていた。但し、これについて弟常楠は設立発起の際のメンバーの一人であった毛利清雅(『牟婁新報』社主で県会議員)から見せ金として毛利からそう書くように求めたに過ぎないと述べている(この辺りのことはサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「南方植物研究所」や、サイト「南方熊楠記念館」の上京前後も参照されたい)。

「事すまずば」常楠が寄付金を出し惜しんだら。実際に常楠の二万円の寄付はなされず、逆に他所から寄付金が三万円ほどの集まったことを理由に、今まで常楠から送られていた生活費の給付が停止され、二人は決定的に不仲となってしまった。

「ただし小生死なぬうちは、他人をして開き見せしむることを憚(はばか)られたく候」現在、この南方熊楠と土宜法竜往復書簡は総てが刊行され、抄出本も複数出ており、それをもとにした評論集も出ている。私も複数の抄録本と評論を読んだが、実に興味深く、面白いものである。

「くれたるなれど」この「なれ」は推定の助動詞「なり」で、法龍なら熊楠に快く半分の二万円を気軽に「呉れたであろうけれども」。

 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その18) / 佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』~了

 

    *    *    *

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 その翌日――雨月の夜の後の日は、久しぶりに晴やかな天氣であつた。天と地とが今朝甦へつたやうであつた。森羅萬象は、永い雨の間に、何時しかもう深い秋にも化つて居た。稻穗にふりそそぐ日の光も、そよ風も、空も、其處に唯一筋纖絲のやうに浮んだ雲も、それは自づと夏とは變つて居た。すべては透きとほり、色さまざまな色ガラスで仕組んだ風景のやうに、彼には見えた。彼はそれを身體全部で感じた。彼は深い呼吸を呼吸した。冷たい鮮かな空氣が彼の胸に這入つて行くのが、いかなる飮料よりも甘かつた。彼の妻が、この朝は每日のやうに犬どもを繫いで置けなかつたのも無理ではない。それはよい處置であつた‥‥遠い畑の方では、彼の犬が、フラテもレオも飛び廻つて居るのが見られた。百姓の若者がレオの頭を撫でて居た。音無しいレオは、喜んでするに任せて居る――太陽に祝福された野面や、犬や、そこに身を跼めて居る働く農夫などを、彼はしばらく恍惚として眺めた。日は高い。この景色を見るために、何故もう少し早く目が覺めなかつたらうとさへ、彼は思つた。

[やぶちゃん注:「雨月」(うげつ)は名月が雨で見られないことを指す。前章のシークエンスの夜は「全くその日はひどい風であつた。あるかないかの小粒の雨を眞橫に降らせて、雲と風自身とが、吹き飛んで居た」とあるから、前夜は早くに「あるかないかの」小雨だったものの、それは早々にやんでおり、前段で描写されるロケーションでは殆んど完全に雨は降っていない。それどころか、前段では何度かかなり丸い月がはっきりと顔を出し、月光さえも指している。まさにその印象的にその光りに照らされるシーンを「小雨を降らせて通り過ぎる眞黑な雲のばつくりと開けた巨きな口のフアンタステイツクな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た」と描写してさえいる。然るに、この冒頭にその夜を「雨月」と表現するのは私はおかしいと感ずる前章の厠のシーンは確かに既に未明の曉であつたと読める(月令から見ても臥待月・寝待月や宵町月以降であることが明らかであるように読める)。しかし、そう検証してみても、前日の天候状況を「雨月の夜」と表現するのは無理があると私は思うのである(その夜以前が連日の雨であったことは次章で明らかにされるけれども、わざわざ「その翌日――」と冒頭に言ってしまった以上、その以前の連夜の「雨月」と解することはこれ逆立ちしても出来ぬ)。寧ろ、ここにはこの家に入居した当初、妻が「淺茅が宿」と評し、主人公がここを「雨月草舍」と呼ぼうと応じた冒頭の雰囲気を、後付けで連関させ、まさに「雨月物語」的情趣を前章に漂わせんがために行った、かなり強引な処理であるように私には読める

「化つて」「かはつて(かわって)」。

「纖絲」「せんし」。非常に細い糸の一筋。

「跼めて」「かがめて」。]

 緣を下りて、顏をは洗うと庭を通ると白い犬が昨夜咥へて行つた筈の竹片は、萩の根元を轉がつて居た。彼は思はず苦笑した。それは、併し、寧ろ樂しげな笑ひであつた。

[やぶちゃん注:最初の一文は問題が多過ぎる(三箇所)ので逆にママで示した。定本では「緣を下りて、顏をうと庭を通ると白い犬が昨夜咥へて行つた筈の竹片は、萩の根元轉がつて居た。」(異同に私が下線を附した)となっている。]

 井戶端には、こぼれた米を拾はうとして――妻はわざわざ餘計にこぼしてやつたかも知れぬ、と彼は思つた――雀が下りて居た。彼の今までここらで見たこともないほどの澤山で、三四十羽も群れて居た。彼の跫音に愕かされると、それが一時に飛び立つて、そこらの枝の上に逃げて行つた。その柿の枝には雀とは別の名も知らぬ白い顏の小鳥も居た。さうして彼の家の軒端からのぼる朝の煙が、光を透して紫の羅のやうに柿の枝にまつはつた。雨に打ち碎かれて、果は咲かなくなつて居た薔薇が、今朝はまたところどころに咲いて居る。蜘蛛の網は、日光を反射する露でイルミネエトされて居た。薔薇の葉をこぼれた露は、轉びながら輝いて蜘蛛の網にかかると、手にはとる術(すべ)もない瞬間的の寶玉の重みに、網は鷹揚にゆれた。露は絲を傳うて低い方へ走つて行く、ぎらりと光つて、下の草に落ちる。それらの月並の美を、彼は新鮮な感情をもつて見ることが出來るのであつた。

[やぶちゃん注:「羅」定本では「うすもの」とルビする。

「薔薇」再確認しておく。「さうび(そうび)」である。]

 水を汲み上げようと繩つるべを持ち上げたが、ふと底を覗き込むと、其處には涯知らぬ蒼穹を徑三尺の圓に區切つて、底知れぬ瑠璃を靜平にのべて、井戶水はそれ自身が内部から光り透きとほるもののやうにさへ見えた。彼はつるべを落す手を躊躇せずには居られない。それを覗き込んで居るうちに、彼の氣分は井戶水のやうに落着いた。汲み上げた水は、寧ろ、連日の雨に濁つて居たけれども、彼の靜かな氣分はそれ位を恕すには充分であつた。

[やぶちゃん注:「徑」「わたり」と訓じておく。

「恕す」「ゆるす」。]

 妻の用意した食卓についた時には、彼の心は平和であつた。食卓には妻が先日東京から持つて來た變つた食物があつた。火鉢の上には鐡瓶が滾(たぎ)つて居た。さうして、陰氣な氣持は妻の言つたとほり、いやな天候から來たものだつた――と、彼は思つた。彼は箸をとり上げようとして、ふと、さつき井戶端で見た或る薔薇の莟の事を思ひ出した。

 「おい、氣がつかなかつたかい。今朝はなかなかいい花が咲いて居るぜ。俺の花が。二分どおり咲きかかつてね、それに紅い色が今度のは非常に深い落着いた色だぜ。」

 「ええ、見ましたわ。あの眞中のところに高く咲いたあれなの?」

 「然うだよ。一莖獨秀當庭心――奴さ」彼はそれからひとり言に言つた。「新花對白日か。いや、白日は可笑しい。何しろ彼等は季節はづれだ‥‥」

 「やつと九月に咲き出したのですもの。」

 「どうだ。あれをここへ摘んで來ないかい。」

 「ええ、とつて來るわ」

 「さうして、ここへ置くんだね」彼は圓い食卓の眞中を指でとんとんとたたきながら言つた。

 妻は直ぐに立上つたが、先づ白い卓布を持つて現れた。

 「それでは、これを敷きませう。」

 「これはいい。ほう! 洗つてあつたのだね。」

 「汚れると、あの雨では洗濯も出來ないと思つてしまつて置いてあつたの。」

 「これや素的だ! 花を御馳走に饗宴を開くのだ。」

 樂しげな彼の笑ひを聞きながら、妻は花を摘むべく立ち去つた。

[やぶちゃん注:「一莖獨秀當庭心」「新花對白日」前者には定本では「いつけいひとりひいでてていしんにあたる」、後者には「しんくわはくじつにたいす」とルビする(歴史的仮名遣変換した)。この前者は、盛唐の詩人儲光羲(ちょこうぎ 七〇七年~七六〇年?)の「薔薇」の一節。中文ウィキの「全唐詩」の「卷百三十八」を参考に、一部、他のサイトのものと比較し、恣意的に訂正・加工して示す。

   *

  薔薇

 裊裊長數尋

 靑靑不作林

 一莖獨秀當庭心

 數枝分作滿庭陰

 春日遲遲欲將半

 庭影離離正堪玩

 枝上嬌鶯不畏人

 葉底飛蛾自相亂

 秦家女兒愛芳菲

 畫眉相伴采葳蕤

 高處紅鬚欲就手

 低邊綠刺已牽衣

 蒲萄架上朝光滿

 楊柳園中暝鳥飛

 連袂踏歌從此去

 風吹香氣逐人歸

   *

後者は、南北朝時代の南斉の詩人謝朓(しゃちょう 四六四年~四九九年)の「詠薔薇詩」の一節。中文サイト「中國哲學書電子化計劃」の彼の全集より引く(一部の字体を変更した)。

   *

  詠薔薇詩

 低枝詎勝葉

 輕香幸自通

 發萼初攢紫

 余采尙霏紅

 新花對白日

 故蕊逐行風

 參差不俱曜

 誰肯盻薇叢

   *

なお、途中にある「奴さ」は『(って)「奴」(やつ)さ』の謂いであろう。

「それでは、これを敷きませう。」底本では「それでは、これを敷きましせう。」。「し」は衍字と断じて除去した。

「素的」「すてき」。素敵。

 なお、次のパートの直接話法の部分は一箇所(会話の最後)を除いて総て行頭から始まっているが、前例に徴して総て一字下げた。]

 彼の女は花を盛り上げたコツプを持つて、直ぐ歸つて來た。少し芝居がかりと見える不自然な樣子で、彼の女はそれを捧げながらいそいそと入つて來た。それが彼には妙に不愉快であつた。彼自身が、人惡く諷刺されて居たやうに感じられた。彼は氣のない聲で言つた。

 「やあ、澤山とつて來たのだなあ。」

 「ええ、ありつたけよ。皆だわ!」

 さう答えた妻は得意げであつた。彼にはそれが忌々しかつた。言葉の意味の通じないのが。

 「何故?。俺は一つでよかつたんだ。」

 「でもさうは仰言らないのですもの。」

 「澤山とでも言つたのかね‥‥。それ見ろ。俺は一つで澤山だつたのだ。」

 「ぢや外のは捨てて來ましせうか。」

 「いいよ。折角とつて來たものを。まあいい。其處へお置き。‥‥おや、お前は何だね――俺の言つた奴は採つて來なかつたのだね。」

 「あら、言つたの言はないのつて、これ丈しきあ無いんですよ! 彼處には。」

 「然うかなあ。俺は少し、底に斯う空色を帶びたやうな赤い莟があつたと思つたに。それを一つだけ欲しかつたのさ。」

 「あんな事を。底に空色を帶びたなんて、そんな難しいのはないわ。それやきつと空の色でも反射して居たのでせうよ。」

 「成程、それで‥‥?」

 「あら、そんな怖い顏をなさるものぢやない事よ。私が惡かつたなら御免なさいね。私はまた澤山あるほどいいかと思つたものですから‥‥」

 「さう手輕に詫つて貰はずともいい。それより俺の言ふことが解つて貰ひ度たい。‥‥一つさ。その一つの莟を、花になるまで、目の前へ置いて、日向へ置いてやつたりして俺は凝乎と見つめて居たかつたのだ。一つをね! 外のは枝の上にあればいい。」

 「でも、あなたは豐富なものが御好きぢやなかつたの。」

 「つまらぬものがどつさりより、本當にいいものが只一つ。それが本當の豐富さ。」彼は自分の言葉を、自分で味つて居るやうに沁み沁みと言つた。

 「さあ、早く機嫌を直して下さい。折角こんないい朝なのに‥‥」

 「然うだ。だから――折角のいい朝だから、俺はこんな事をされると不愉快なのだ。」

[やぶちゃん注:「いいよ。折角とつて來たものを。」底本は「いいよ。折角とつて來てものを。」。定本で訂した。

「詫つて」「あやまつて」と訓じておく。定本は「謝(あやま)つて」となっている。

「凝乎と」「じつと」。]

 彼は、併し、そんなことを言つて居るうちにも、妻がだんだん可哀想になつて居る。さうして自分で自分の我儘に氣がついて居た。妻の人示指には、薔薇の刺で突いたのであらう、血が吹滲んで居る。それが彼の目についた。しかし、そんな心持を妻に言ひ現す言葉が、彼の性質として、彼の口からは出て來なかつた。寧ろ、その心持を知られまい、知られまいと包んで居る。さうしてどこで不快な言葉を止めていいやら解らない。それが一層彼自身を苛立たせる。彼は强いて口を噤んだ。さて、その花を盛り上げたコツプを手に取上げた。最初は、それを目の高さに持上げて、コツプを透して見た。綠色の葉が水にしたされて一しほに綠だ。葉うらがところどころ銀に光つて居る。そのかげにほの赤い刺も見える。コツプの厚い底が水晶のやうに冷たく光つて居る。小さなコツプの小さな世界は綠と銀との淸麗な秋である。

[やぶちゃん注:「人示指」「ひとさしゆび」。定本「人差指」。

「吹滲んで」「ふきにじんで」。]

 彼はコツプを目の下に置いた。さうして一つ一つの花を、精細に見入つた。其處にある花は花片も花も、不運にも皆蝕んで居る。完全なものは一つもなかつた。それが少し鎭まりかかつた彼の心を搔き亂した。

[やぶちゃん注:「花片」「はなびら」。

「蝕んで」「むしばんで」。]

 「どうだ、この花は! もつと吟味してとつて來ればいいのに。ふ。皆蝕ひだ。」

 彼は思はず吐き出すやうにさう言つて仕舞つたが、又、妻が氣の毒になつた。急に、その中の最も美しい莟を一本拔き出すと、彼は言葉を和げて、

 「ああ、これだよ。俺の言つた莟は。それ、此處にあつた! 此處にあつた!」

 彼の言葉のなかには、妻の機嫌を直させようとする心持があつた。けれども、妻は答へようとはしないで、默つて彼の女自身の御飯を茶碗に盛つて居るのであつた。彼は橫眼でそれを睨みながら、妻の顏を偸視(ぬすみみ)た。このコツプを彼處へ、額の上へたたきつけてやつたなら‥‥。いや、いけない。もともと自分が我が儘なのだ。彼は仕方なく、寂しく切ない心をもつて、その撮み上げた莟を、彼自身の目の前へつきつけて眺めて居た。‥‥。その未だ固い莟には、ふくらんだ橫腹に、針ほどの穴があつた。それは幾重にも幾重にも重なつた莟の赤い葩を、白く、小さく、深く蕋まで貰いて穿たれてあつた。言ふまでもなくそれは蟲の仕業である。彼は厭はしげに眉を寄せながら、尙もその上に莟を觀た。

[やぶちゃん注:「蝕ひ」「むしくひ」。

「彼處」「あそこ」。

「撮み」「つまみ」。「摘」の誤字ではない。「撮」には「つまむ」の意があり、そう訓ずるし、定本でもこの漢字でそうルビしてある。

「葩」「はなびら」。

「蕋」定本では「しべ」とルビする。]

 はつと思ふと、彼はそれをとり落した。

 その手で、す早く、滾つて居る鐵瓶を下したが、再び莟を摘み上げると、直ぐさまそれを火の中へ投げ込んだ。――莟の花片はぢぢぢと焦げる‥‥。そのいこり立つた眞紅の炭を見た瞬間、

 「や?」

 彼は思はず叫びさうになつた。立上りさうになつた。それを彼はやつと耐へた――ここで飛び上つたりすれば、俺はもう狂人だ!さう思ひながら、彼は再び手早に、併しなるべく沈着に、火鉢で燒けて居る花の莟を、火箸の尖で撮み上げるや、傍の炭籠のなかに投込んだ。

[やぶちゃん注:「いこり立つた」火がぼっと燃え立った、の意。定本では「おこり立つた」と書き変えられているが、訂する必要性は、ない。何故なら、関西方言では広く、「火が燃え上がる」という意の動詞は「おこる」ではなく「いこる」であり、佐藤春夫は和歌山出身だからである。

「炭籠」「すみかご」炭を小出しにして室内に置いておく籠(かご)。炭入れ。炭取り。]

 彼はこれだけの事をして置いて、さて、火鉢の灰のなかをおそるおそる覗き込むと、其處には何もない。今あつたやうなものは何もない。愕き叫ぶべきものは何もない。彼は灰の中を搔きまわして見た。底からも何も出ない。水に滴(したた)らした石油よりも一層早く、灰の上一面をぱつと眞靑に擴がつた! と彼の見たのは、それは唯ほんの一瞬間の或る幻であつたのである。

[やぶちゃん注:「或る幻であつた」底本は「或る幻であた」。脱字と断じて底本で「つ」を補った。]

 彼は炭籠の底から、もう一度莟を拾ひ出した。火箸で撮まれた莟は、燒ける火のために色褪せて、それに眞黑な炭の粉にまみれて居た。さて、その莖を彼は再び吟味した。其處には、彼が初めに見たと同じやうに、彼の手の動き方を傳へて慄へて居る莖の上には、花の萼から、蝕んだただ二枚の葉の裏まで、何といふ蟲であらう――莖の色そつくりの靑さで、實に實に細微な蟲が、あのミニアチュアの幻の街の石垣ほどにも細かに積重り合うて、莖の表面を一面に、無數の數が、針の尖ほどの𨻶もなく裹み覆うて居るのであつた。灰の表を一面の靑に、それが擴がつたと見たのは幻であつたが、この莖を包(つつ)みかぶさる蟲の群集は、幻ではなかつた――一面に、眞靑に、無數に、無數に‥‥

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 ふと、その時彼の耳が聞いた。それは彼自身の口から出たのだ。併しそれは彼の耳には、誰か自分以外の聲に聞えた。彼自身ではない何かが、彼の口に言はせたとしか思へなかつた。その句は、誰かの詩の句の一句である。それを誰かが本の扉か何かに引用して居たのを、彼は覺えて居たのであらう。

[やぶちゃん注:「蟲」これは実際の莟に穿孔貫入した多数の蠕虫として描出されているのだが、私は病的幻視のニュアンスも加味されてあると読む。而して、これはしばしば慢性的精神疾患(特にアルコールの慢性中毒によく見られるものでは、蟻・蜘蛛・蟹等が多く、追跡幻想を伴ったりする)に見られる広義の虫類幻覚を直ちに想起させるのである。

「その句は、誰かの詩の句の一句である」イギリスの詩人でロマン派の先駆者として知られ、版画家としても優れていたウィリアム・ブレイク(William Blake 一七五七年~一八二七年)の一七八九年刊の詩集“Songs of Experience”(「無垢の歌」)の中の一篇“The Sick Rose”(「病める薔薇」)。

   *

 The Sick Rose

    O Rose thou art sick.

    The invisible worm,

    That flies in the night

    In the howling storm:

    Has found out thy bed

    Of crimson joy:

    And his dark secret love

    Does thy life destroy.

   *

壺齋散人(引地博信)氏のサイト「ウィリアム・ブレイクの詩とイラストの世界」のこちらで、訳とブレイクの絵附きの原典画像が味わえる。]

 彼は成るべく心を落ちつけようと思ひながら、その手段として、目の前の未だ伏せたままの茶碗をとつて、それを靜かに妻の方へ差し出した。その手を前へ突き延す刹那、

 「おお、薔薇、汝病めり!」

 突然、意味もなく、又その句が口の先に出る。

 彼はやつと一杯だけで朝飯を終へた。

 妻はしくしくと泣いて居た。嗟! また始まつたか、と心のなかで呟きながら。さうして食卓を片付けつつ、その花のコツプをとり上げたが、さてそれをどうしようかと思惑うて居た。あの蝕んだ燒けた莟は、彼が無意識に毮り碎いたのであらう――火鉢の猫板の上に、粉粉(こなごな)に刻まれて赤くちらばつて居た。彼はそれらのものを見ぬふりをして見ながら、庭へ下りようと片足を緣側から踏み下す。と、その刹那に、

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

[やぶちゃん注:「思惑うて」「おもひまどうて」。

「猫板」長火鉢の端の引き出しの部分に載せた板。名は、そこに猫が好んで蹲ることに由来する。]

 「フエアリイ・ランド」の丘は、今日は紺碧の空に、女の橫腹のやうな線を一しほくつきりと浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に小さく聳えて末廣に茂つた木の梢のところから、いとも輕々と浮いて出る。黃ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。何日か一日のうちに紫に變つた地の色は、あの綠の縱縞を一層引立てる。そのうへ、今日は縞には黑い影の絲が織り込まれて居る。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける。

[やぶちゃん注:「末廣」底本は「未廣」。定本から、誤植と断じて訂した。

「何日か」「いつか」。]

 「俺は、仕舞ひには彼處で首を縊りはしないかな? 彼處では、何かが俺を招いて居る。」

 「馬鹿な。物好きからそんなつまらぬ暗示をするな。」

 「陰氣にお果てなさらねばいいが。」

 彼の空想は、彼の片手をひよつくりと擧げさせる。今、その丘の上の目に見えぬ枝の上に、目に見えぬ帶をでも投げ懸けようとでもするかのやうに‥‥

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 井戶のなかの水は、朝のとほりに、靜かに圓く漾へられて居る。それに彼の顏がうつる。柹の病葉が一枚、ひらひらと舞ひ落ちて、ぽつりとそこに浮ぶ。其の輕い一點から圓い波紋が一面に靜にひろがつて、井戶水が搖らめく。さうしてまたもとの平靜に歸る。それは靜で、靜である。涯しなく靜である。

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 薔薇の叢には、今は、花は一つもない。ただ葉ばかりである。それさへ皆蝕ひだ。ふと、目につくので見るともなしに見れば、妻は今朝の花を盛つたコツプを臺所の暗い片隅へ、ちよこんと淋しく、赤く、置いてある。それが彼の目を射る。「お前はなぜつまらない事に腹を立てるのだ。お前は人生を玩具にして居る。怖ろしい事だ。お前は忍耐を知らない。」

[やぶちゃん注:「漾へられて」「たたへられて」。

「病葉」「わくらば」。

「怖ろしい事だ。お前は忍耐を知らない。」底本は「怖ろしい事だお前は忍耐を知らない。」。脱字と断じて、定本で句点を補った。]

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 裏の竹藪の或る竹の或る枝に、葛の葉がからんで、別に風とてもないのに、それの唯一枚だけが、不思議なほど盛んに、ゆらゆらと左右に搖れて居る。さうしてその都度、葉裏が白く光る――それを凝と見つめて居ても‥‥。彼を見つけた犬どもが、いそいそ野面から飛んで歸つて、兩方から彼に飛び縋る。それを避けようと身をかわしても‥‥。どこかの樹のどこかの枝で、百舌が、刺すやうにきりきり鳴き出しても‥‥、渡鳥の群が降りちらばるやうに、まぶしい入日の空を亂れ飛ぶのを見上げても‥‥明るい夕空の紺靑を仰いでも‥‥何側の丘の麓の家から、細々と夕餉の煙がゆれもせず靜に立昇るのを見ても‥‥

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 言葉がいつまでも彼を追つかける。それは彼の口で言ふのだが、彼の聲ではない。その誰かの聲を彼の耳が聞く。それでなければ、彼の耳が聞いた誰かの聲を、彼の口が卽座に眞似るのだ。――彼は一日、何も口を利かなかつた筈だつたのに。

[やぶちゃん注:ここまでで朝から夕暮れまでが、主人公の意識の中で、瞬く間に経過している妙を味わいたい

「どこかの樹のどこかの枝で」底本は「どこかの樹のこかの枝で」。脱字と断じて定本で補った。]

 犬どもは聲を揃へて吠えて居る。その自分の山彥に怯えて、犬どもは一層吠える。山彥は一層に激しくなる。犬は一層に吠え立てる‥‥彼の心持が犬の聲になり、犬の聲が彼の心持になる。暗い臺所には、妻が竃へ火を焚きつける。また何處かから歸つて來た猫が、夕飯の催促をしてしきりと鳴く。はつと火が燃え立つと、妻の顏は半面だけ、眞赤に浮び出す。その臺所の片隅では、蝕ひの薔薇の花が、暗のなかで、ぽつかりと浮き出して居る。薔薇は煙がつて居る!

[やぶちゃん注:「犬の聲が彼の心持になる。」底本は最後の句点がなく、一字空け。脱字と断じて、定本で句点を補った。

「はつ」(傍点「ヽ」)は底本では傍点「ヽ」で「ぱつ」。

「暗」「くらやみ」と訓じておく。

「煙がつて」「けむたがつて」。]

 彼はランプへ火をともさうと、マツチを擦る。ぱつと、手元が明るくなつた刹那に、

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 彼はランプの心へマッチを持つて行くことを忘れて、その聲に耳を傾ける。マツチの細い軸が燃えつくすと、一旦赤い筋になつて、直ぐと味氣なく消え失せる。黑くなつたマツチの頭が、ぽつりと疊へ落ちて行く。この家の空氣は陰氣になつて、しめつぽくなつて、腐つてしまつて、ランプヘも火がともらなくなつたのではあるまいか。彼は再びマツチを擦る。

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 何本擦つても、何本擦つても。

 「おゝ、薔薇、汝病めり!」

 その聲は一體どこから來るのだらう。天啓であらうか。預言であらうか。兎も角も、言葉が彼を追つかける。何處まででも何處まででも‥‥‥‥

 

2017/05/07

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その17)

 

    *    *    *

      *    *    *

 闇が彼の身のまはりに犇いて居た。それは赤や綠や、紫やそれらの隙間のない集合のやうでもあつた。重苦しい闇であつた。彼は闇のなかでマツチを手さぐり、枕もとの蠟燭に灯をともすと寢床から起き上つた。さうしてその燭臺を、隣に眠つて居る妻の顏の上へ、ぢつとさしつけた。けれども深い眠に陷入つて居る彼の女は、身じろぎもしなかつた。彼はしばらくその女の無神經な顏を、蠟燭の搖れる光のなかで、ぢつと視つめて見た。彼はこの時、自分の妻の顏を、初めて見る人の顏のやうに物珍らしげにつくづくと見た。

[やぶちゃん注:「寢床から」底本は「寢床らか」。錯字と断じて、訂した。定本も無論、「から」。]

 蠟燭の光はものの形を、光の世界と影の世界との二つにくつきりと分けた。その光のなかで見た人間の顏は、强い片光(かたひかり)を浴びて、その赤い光の强い濃淡から生ずる効果は、人間の顏の感じを全く別個のものにして見せた。彼は人間の顏といふものは――ただに自分の妻だけではなく、一般に――かうも醜いものであらうかと、つくづくさう感じた。それは不氣味で陰慘で醜惡な妙な一つのかたまりとして彼の目に映じた。女は枕元に、解きほどいた束髮のかもじを、黑く丸めて置いて居た。奇妙な現象には、彼はそのかもじを見た時にこれが――ここに眠つて居る女が自分の妻だつたのだと始めて氣がついた。

[やぶちゃん注:「かもじ」「髪文字」「髢」などと書き、所謂、添え髪・入れ髪のこと。日本髪を結う際に髪に添え加えて豊かにし結い易くするための人毛の鬘。]

 彼は燭臺を高く少し持上げたり、或は女の顏の耳の直ぐわきへくつつけて見たり、暫くその光の與へる効果の變化を實驗して遊ぶかのやうに、それをいろいろと眺めて居た。彼の妻はそんなことには少しも氣がつかずに眠つて居る。寢返りもしない。こんな女は、今若し喉もとへ劔を差しつけられても、それでも平氣で眠つて居るだらうか。いや、そんな場合には、いかに無神經なこの女でも、さすがに人間の本能として當然目を睜くであらう。さうでなければならない。彼はそんなことを考へた。さうして、若しやこの女は今、殺される夢でも見ては居ないだらうかとも思つた‥‥それにしても、こうした光の蠱惑から人間といふものはさまざまなことを思ひ出すものである。こんなことから、實際人を殺さうと決心した男が、昔からなかつただらうか。

[やぶちゃん注:「睜く」従来はこの漢字を「睜(みは)る」と春夫は訓じている。ここは「みひらく」と読んでおく。]

 「尤も、俺は今この女を殺さうとして居るわけではないのだが」

 彼は思はず小聲でさう言つた。自分自身の愕くべき妄想に對して、慌てゝ言ひわけしたのである。「それにしても俺は今何のためにこんなことをして居るだつけな」彼は氣がついたやうに、急に妻を搖り起した。

[やぶちゃん注:最初の直接話法は行頭から始まっているが、前例と以下のそれに徴して、一字空けを施した。]

 夜中である。

 妻はやつと目を覺したが、眩しさうに、搖れて居る蠟燭の光を避けて、目をそむけた。さうして半ば口のなかで、

 「また戶締りですか、大丈夫よ。」

 さう言つて、寢返りをした。

 「いゝや。便所へ行くんだ。ちよつとついて行つてくれ。」

 厠から出て來た彼は、手を洗はうとして戶を半分ばかり繰つた。すると、今開けた戶の透間から、不意に月の光が流れ込んだ。月はまともに緣側に當つて、歪んで長方形に板の上に光つた。不思議なことには、彼はこれと同じやうに、全く同じやうに月の差込んで居る緣側をちやうど今のさつき夢に見て、目がさめたところであつた。何といふ妙な暗合であらう。彼には先づそれが怪奇でならなかつた。さうして、今、自分達がかうして此處に立つて居ることも、夢のつゞきではないのか、ふとさう疑はれた。

[やぶちゃん注:「戶を半分ばかり繰つた。すると、」底本は「戶を半分ばかり繰つたすると、」。おかしいので、定本に従って句点を間に打った。

 なお、以下の会話文二つも前のように行頭から始まっているが、やはり一字下げた。]

 「おい、夢ではないんだね。」

 「何がです。あなた寢ぼけていらつしやるの。」蠟燭は彼の妻の手に持たれて、月の光を上から浴びせかけられて、ほんのりと赤くそれ自身の光を失うた。光の穗は風に吹かれて消えさうになびいたが、彼の妻の袖屛風の影で、ゆらゆらと大きく搖れた。風は何時の間にかおだやかになつて居たが、雲は凄じい勢で南の方へ押奔つて居た。小雨を降らせて通り過ぎる眞黑な雲のばつくりと開けた巨きな口のフアンタステイツクな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た。

[やぶちゃん注:「フアンタステイツク」fantastic。「空想的な・途方もない・法外な・風変わりな・異様な・奇妙な」であるが、ここは「奇体にして夢幻的な」の謂いでとっておく。]

 彼は手を洗ふことを忘れて、珍らしいその月を見上げた。それは奇妙な月であつた。幾日の月であるか、圓いけれども下の方が半分だけ淡くかすれて消え失せさうになつて居た。併し、上半は、黑雲と黑雲との間の深い空の中底に、硏ぎすましたやうに冴え冴えとして、くつきりと浮び出して居た。その上半のくつきりした圓さが、何かにひどく似て居ると、彼は思つた。然うだ。それは頭蓋骨の臚頂のまるさに似て居る。さう言へば、その月の全體の形も頭蓋骨に似て居る。白銀の頭蓋骨だ。彼の聯想の作用は、ふと海賊船といふやうなものの事を思ひ出させた。彼はその月を飽かずに眺めた。ああ、これと同じ事が、全く同じことが、その時も俺はここにかうして立つて居た。雲の形も、月の形もこれとそつくりだつた。どこからどこまで寸分も違はない。そればかりかその時にもかう思つたのだつた。今と同じ事を思つたのだつた。遠い微かな穴の奧底のやうな昔にも、現在と全然同一な出來事が曾てもあつた‥‥茫然として、彼は瞬間的にさう考へた‥‥何時の日のことだつたらう‥‥何處でであつたらう‥‥

[やぶちゃん注:「幾日」定本では「いくか」とルビする。

「臚頂」「ろちやう(ろちょう)」で「頭の天辺(てっぺん)・頭頂」の謂いであるが、「臚」は「丸く膨らんだ腹」の意で、普通は「顱頂」と書き、定本ではそう書き直されてある。]

 空一面を飛び奔る雲はもう少しで月を呑まうとして居る。

 「もう、閉めてもいい?」

 妻は、寒さうにさう言つた。

 彼はその言葉で初めて我に歸つたのか、手を洗はうと身を乘り出した。その瞬間であつた。

 「や、大變!」

 「え?」

 「犬だ!」

 「犬?」

 彼は卽座に、手早く、戶締りに用ゐた竹の棒を引つつかむと、力任せに、それを庭の入口の方へ投げ飛した。彼の目には、もんどりを打つ竹ぎれからす早く身をかわして、いきなりそれを目がけて飛びかかると、その竹片を咥へたまま、眞しぐらに逃げて行く白犬が、はつきりと見えた。尾を股の間へしつかりと挾んで、耳を後へ引きつけ、その竹片に嚙みつ居た口からは、白い牙を露して、涎をたらたらと流しながら、彼の家の前の道をひた走りに走つて行く。月光を浴びて、房々した毛の大きな銀色の犬は、その織るやうな早足、それが目まぐるしく彼の目に見える。

[やぶちゃん注:「投げ飛した」「なげとばした」。

「露して」「あらはして」。

「涎」「よだれ」。]

 それは王禪寺といふ山のなかの一軒の寺の犬だつた。その形は明確に細密に、一瞬間のうちに彼には看取出來た。

 「狂犬だよ!」

 彼は自分の犬どもの名を慌ただしく呼んだ。呼びつづけた。其處らには居ないのか、犬どもは彼の聲には應じなかつた。妻には何事が起つたのか、少しも解らなかつた。併し、彼のさうするまゝに、彼の妻も聲を合せて犬の名を呼んだ。その甲高い聲が丘に谺した。七八度も呼ばれると、重い鎖の音がして、犬どもは、二疋とも同時に、いかにものつそりと現はれた。さうして鎖をぢやらんぢやらんと言はせながら身振ひして、主人の不意な召集を訝しく思ひながらも、彼等は尾をちぎれるほどはげしく振り、鼻をくんとならした。

[やぶちゃん注:「王禪寺」実在する。現在の神奈川県川崎市麻生区王禅寺(おうぜんじ)にある真言宗星宿山蓮華蔵院王禅寺である。(グーグル・マップ・データ)。市外であるが、春夫の居宅から直線で北北西二・六キロメートルしか離れていない(丘陵の中にあり、「山のなかの一軒の寺」に一致する)。但し、ここまで犬が来るためには丘陵を回り込んだ場合は倍近くにはなる。しかし、中型犬では往復五キロ程度は散歩のレベルである。]

 月は雲のなかに呑まれてしまつた。

 彼は妻の手から燭臺を受け取るや否や、それを、犬どもの方へ差し出したが、一時に風に吹き消された。直ぐに、別にランプに灯をともし見たが、彼の犬には別に何の變事もないらしかつた。

 「ああ、愕いた、俺はうちの犬が狂犬に嚙まれたかと思つた。」

 彼は寢床へ這入つたが、妻にむかつて、今見たところのものを仔細に說明した。彼の妻は最初からそれを否定した。いかに明るくとも月の光で、そんなにはつきりと見える筈はない。それに王禪寺の犬は、成程、狂犬になつたのだ、けれども、もう一週間も十日も前に、そのために屠殺された。その時、村の人が、お絹が、

 「だから、お宅の犬もお氣をおつけなさい」

 とさう言つた。その事は、その時彼の女自身の口から彼に話した筈だつた。――妻は事を分けて、宥めるやうに彼に說明するのであつた。しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ。

 「犬の幽靈が野原をああして馳けまわつて居たのだ。さうして、さういふ靈的なものは俺にばかりしか見えないのだ‥‥」憂鬱の世界‥‥呻吟の世界‥‥靈が彷徨する世界‥‥。俺の目はそんな世界のためにつくられたのか。憂鬱な目には憂鬱の世界より外には見へない‥‥

[やぶちゃん注:「村の人が、」の箇所は底本では後に『村の人が、」』と鍵括弧がある。除去した。なお、定本では「村の人」ではなく、例の最初に案内人として登場し、よく話に来る『お絹が、』となっている。その方が自然である。

「事を分けて」条理を尽くして、筋道を立てて。

「しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ」ここまで、遠い過去の記憶が細かに異常なまでに鮮明に思い出せるのに、短期記憶が完全に失われていることが判る。病的な逆行性健忘症の特徴である。]

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その16)

 

    *    *    *

      *    *    *

 「決して熱なんかは無くつてよ、反つて冷たい位だわ。」

 彼の額へ手を翳して居た彼の妻は、さう言つて、手を其處からのけて、自分の額へ手を當ててみて居た。

 「私の方がよつぽど熱い。」

 それが彼には、反つて甚だ不滿であつた。試みに測つて見ようと、驗溫器を出させてみると、それは度度の遠い引越しのために、折れて居た。

 若し熱のためでないとすれば、それはこの天氣のせいだ、このひどい風のせいだ。と彼は思つた。全くその日はひどい風であつた。あるかないかの小粒の雨を眞橫に降らせて、雲と風自身とが、吹き飛んで居た。そのくせ非常に蒸暑かつた。こんな日には、彼は昔から地震に對する恐怖で怯えねばならなかつたのだけれども、今日はこの激しい風のためにその點だけは安心であつた。併し、風の日は風の日で、又その異常な天候からくる苛立たしい不安な心持が、彼を胸騷ぎさせたほどびくびくさせた。

  猫よ、猫よ。あとへあとへついて來い!

  猫よ、猫よ。おくへおくへすつこめ!

 ふと、劇しく吹き荒れる大風の底から一つの童謠の合唱が、ちぎれちぎれに飛んで來た。それらは風のかたまりに送り運ばれて、吐絕え勝ちに、彼の耳もとへ傳つて來たやうに思はれた。けれども、それもやはり幻聽であつたのであらう。それは長い間忘れて居た彼の故鄕の方の童謠であつたからである。風の劇しい日(然うだ、こんな風の劇しい日に)子供たちが、特に女の子たちが、驅けまわりながら互に前の子の帶の後へつかまり合つたり、或は前の子の羽織の下へ首を突込んだりしながら、こんな謠を今のやうな節で合唱して、繰り返して、彼等は風のためにはしやぎながら、彼の故鄕の家の門前の廣場をぐるぐると環になつてめぐつて居たものであつた‥‥それはモノトナスな、けれどもなつかしいリヅムをもつた疊句のある童謠で、また謠の心持にしつくりとはまつた遊戲であつた。それを見惚れて、砂埃の風のなかで立つて居る子供の彼自身が、彼の頭にはつきりと浮んで來た。それが思ひ出の緖口になつた。‥‥城跡のうしろの黑い杉林のなかで、或る夕方、大きな黑色の百合の花を見出した事、そのそばへ近よつてそれを折らうとして、よくよく見て居るうちに、急に或る怪奇な傳說風の恐怖に打たれて、轉げるやうに山路を驅け下りた。次の日、下男をつれて、そのあたりを隈なく搜したけれども、其處には何ものもなかつた。それは彼には、奇怪に思へる自然現象の最初の現れであつた。それは子供の彼自身の幻覺であつたか、それとも自然そのものの幻覺とも言へる眞實の珍奇な種類の花であつたか、それは今思ひ出しても解らない。ただその時の風にゆらゆらゆれて居るその花の美しさは、永く心に殘つた。その珍らしい花が、彼の「靑い花」の象徴ででもあつたやうに。彼はその頃からそんな風な淋しい子供であつた。さうして彼の家の後である城跡の山や、その裏側の川に沿うた森のなかなどばかりを、よく一人で步いたものであつた。「鍋わり」と人人の呼んで居た淵は、わけても彼の氣に入つて居た。そこには石灰を燒く小屋があつた。石灰石、方解石の結晶が、彼の小さな頭に自然の神祕を敎へた。又、その淵には、時々四疊半位な大きな碧瑠璃の渦が幾つも幾つも渦卷いたのを、彼はよく夢心地で眺め入つた。さうしてそれを夢のなかでも時々見た。その頃は八つか九つででもあつたらう‥‥。何か噓をつくと、其の夜はきつと夜半に目が覺めた。さうしてそれが氣にかかつどうしても眠れなかつた。母を搖り起して、その切ない懺悔をした上で、恕を乞ふとやつと再び眠れた。‥‥それから、然う、然う、夜半に機を織る筬の音を每夜聞いたこともあつた。あの頃、俺は五つか六つ位であつたらう。俺は昔から幻聽の癖があつたものと見える――彼はさう思ひ出して愕いた。それ等幼年時代の些細な出來事が、昨日のことよりももつとありありと(その頃の彼には昨日のことは漠然として居た)思ひ出された。然もそれ等は今日まで殆んど跡方もなく忘却し盡して居たことばかりだつたのに。さうして、彼はその思ひ出のなかのその子供のやうに、彼の母や兄弟や父を戀しく懷しく思ひ浮べた。この時ほど切なくそれらの人人を思ひ出したことは、今までに決してない。その母へも、父へも、どの兄弟へも、彼はもう半年の上も便りさへせずに居た。彼は第一に母の顏を思ひ出さうと努めて見た。それは、半年ばかり前に逢つて居ながら、決して印象を喚び起せなかつた。奇妙にも、無理に思ひ出さうとすると、十七八年も昔の或る母の奇怪な顏が浮び出た――母は丹毒に罷つて居た。黑い藥を顏一面に塗抹して、黑い假面のやうに、さうして落窪んだ眼ばかり光らせて、その病床の傍へ來てはならないと言ひながら、物憂げに手を振つた怪物のやうな母の顏である。さうして、その時子供の彼はしくしくと庭に出て一人で泣いた。その泣いた目で見た、ぼやけた山茶花の枝ぶりと、簇つた花とが、不思議とその母のその顏よりもずつと明瞭に目に浮び出る‥‥‥‥

[やぶちゃん注:「幻聽であつたのであらう。」底本は「幻聽であたのであらう。」。脱字と断じて、定本に依って補った。

「モノトナス」monotonous。「単調な・変化がなくて同じ調子の音が連続する・抑揚の殆んどない」の意。

「疊句のある童謠で、」底本は「疊句のあるの童謠で、」。衍字と断じて、定本に依って除去した。

「緖口」「いとぐち」。定本にもかくルビする。

「黑色の百合の花」狭義の高山性(北海道では平地にも植生する)の単子葉植物綱ユリ亜綱ユリ目ユリ科バイモ属クロユリ(Fritillaria camschatcensis は、佐藤春夫の生地で少年期を過ごした和歌山県新宮市には分布しない。バイモ属 Fritillaria には、褐色系のものや花に黒斑を有するもの(例えば、近畿地方を中心に分布するコバイモ(ミノコバイモ)Fritillaria japonica)があるが、これらは逆立ちしても「黒百合」には見えない。当初、私は、先だってまで家の裏山に沢山咲いていた、単子葉植物綱オモダカ亜綱オモダカ目サトイモ科テンナンショウ属ウラシマソウ Arisaema urashima の肉穂花序を包む大型の濃紫色の仏炎苞(ぶつえんほう)の誤認ではないか(遠目には私には黒く見え、筒状のそれは百合に似ていないとは言えぬと私は感ずる)と疑ったが、植物に詳しい佐藤春夫が幾ら少年期の記憶とは言え、誤認するとは思われぬから、ここはやはり〈幻花〉であったととるべきである。

「或る怪奇な傳說風の恐怖」「風」とあるから、特段に具体的な黒百合の不吉な具体伝承を示す必要はないと思われるが、参考までに言っておくと、まず、私は山岳部で何度もクロユリを見たが、見た目が山では特に目立ち、可愛い(と私は思う)ものの、蠅(じょう)媒花であるため、嗅ぐと、生ゴミの饐えたような変な匂いがする花である。黒百合の花言葉は「恋」と「呪い」「復讐」で、前者はアイヌの伝承に於いて、好きな人への思ひを込めた黒百合を相手の近くに置き、相手がそれを誰が置いたかを知らずに手にとれば、その二人はいつか必ず結ばれるとされることに由来するとされるが、後者の不吉なそれは、佐々(さっさ)成政が寵愛した側室早百合を正室の讒言から惨殺、その際に早百合が「立山にクロユリの花が咲いたら、佐々家は滅亡する」と呪いの言葉を吐き、後に事実、成政は切腹なって佐々家も断絶したという伝承に基づくものとされる(詳しくは、例えば占いサイトのこちらの記事がよく書けている)。これはかなり有名な黒百合伝説であるから、或いは春夫の念頭にはこの残酷譚があったのかも知れぬ。アイヌのそれは相手に知られないようにというところがミソであり、孰れにしても黒百合は人に贈るのはすこぶるまずいことが判る。

「下男」佐藤家は代々、下里村(現在の那智勝浦町の内)で医師を生業としてきた家系で、春夫の父豊太郎も医者で九代目に当たった。

「靑い花」ドイツ・ロマン派初期の代表的詩人で小説家であったノヴァーリス(Novalis:本名:ゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク:Georg Philipp Friedrich von Hardenberg 一七七二年~一八〇一年:ペン・ネームの「ノヴァーリス」はラテン語で「新開墾地」の意)の未完の教養小説で、ロマン派文学の代表作の一つとされる“Heinrich von Ofterdingen(「ハインリヒ・フォン・オフタァディンゲン」の邦訳題が意識されていよう。原題の主人公の名で訳されることはまずなく、「青い花」と言う語は、この翻案邦題によって、本邦では特に、思春期の若者が心に抱くところの理想的恋愛像としての文学的シンボルとなった。なお、作中主人公ハインリヒが夢の中で見、恋い焦がれた「青い花」は、一般にはヤグルマギク(キク目キク科ヤグルマギク属ヤグルマギク Centaurea cyanus の主調色である青い花)がモデルであるという説が有力であるらしい。

「城跡」現在の和歌山県新宮市にある新宮(しんぐう)城跡。丹鶴(たんかく)城跡とも呼ばれ、熊野川(新宮川)に臨む河口沿いの右岸丘陵部にある。ここ。そこは、佐藤春夫の生誕地の東直近に当たる(グーグル・マップ・データ)。因みに、佐藤家は江戸時代から医師の家系であった。

「鍋わり」この淵の呼称は少なくとも現在の同所附近には残っていない模様である。

「碧瑠璃」「へきるり」。定本でもそうルビする。

「恕」「ゆるし」。定本でもそうルビする。

「機を織る筬」「はたををるをさ」。「筬」は機(はた:織機(おりき))の付属用具の一つで、竹の薄片を櫛の歯のように並べて枠を附けたもの。織物の幅と経(たて)糸を整え、杼(ひ)で打ち込まれた緯(よこ)糸を押さえて、織り目の密度を決める道具。

「半年の上も」半年以上も。

「丹毒」(たんどく)は化膿菌の一種である化膿連鎖球菌(フィルミクテス門バシラス綱ラクトバシラス目ストレプトコッカス科連鎖球菌属化膿連鎖球菌 Streptococcus pyogenes)が皮膚に感染し、真皮内に化膿性炎症を起す疾患。小さな外傷や火傷及び湿疹などが細菌の侵入経路となり、顔及び手足に好発する。悪寒・発熱を伴って皮、膚に、境界のはっきりした発赤と腫れが生じ、触れると硬く、灼熱感と圧痛があり、リンパ節も腫脹して痛む。病変は高熱とともに周囲に拡大する。粘膜の侵されたケースや小児・高齢者に生じた場合は重症化することが多く、治癒したと思われても、かなりの頻度で再発する。現行の治療では安静にさせて抗生物質の全身投与を行い、病変部には湿布を行う。なお、母は主人公に感染するからと近寄らせないが、丹毒は通常の接触では感染することは、まず、ない。私はALS(筋萎縮性側索硬化症)に冒されて動けなくなった母にキスをしたとき、母が「病気がうつる」と呟いたのを忘れられない

「ぼやけた山茶花」底本では「ぼやけは山茶花」。誤植と断じて定本で訂した。]

 決して思ひ出したことのないやうな事柄ばかりが後へ後へ一列に並んで思ひ浮んで來た。その心持がふと、彼に死のことを考へさせた。こんな心持は確に死を前にした病人の心持に相違ない。してみれば、自分は遠からず死ぬのではなからうか‥‥それにしても知つた人もないこんな山里で、自分は、今斯うして死んで行くのであらうか‥‥死んで行くのであるとしたならば。彼の空想は谷川の水が海に入るやうに死を思ひ初めるのであつた。彼は今まで未だ一度も死に就て直接に考へたことはなかつた。さうして彼はこの時、最初には、多少好奇的に彼の特有の空想の樣式で、彼自身の死を知つた知人の人々のその時の有樣を一つ一つ描いて見た。

[やぶちゃん注:「知人の人人のその時の」底本は「知人の人人?その時の」。誤植と断じて、定本で訂した。]

 すさまじい風のなかに、この騷々しい世界から獨立した靜寂へ、人の靈を誘ひ入れるやうに彼の牀(とこ)の下ではげしく啼きしきるこほろぎの聲に耳を澄した。

 彼は手をさし延べて、枕のずつと上の方にある書棚から、何か書物を手任せに抽かうとした。さうして手を書棚にかけた瞬間に、がちやん! と物の壞れる音がした。彼は自分自身が、何かをとり落したやうに、びくつと驚いて、あたりを見まわした。それは彼の妻が臺所の方で、ものを壞した音が、風に吹きとばされて聞えて來たのだつた。

[やぶちゃん注:「抽かう」定本では「抽」に『ぬ』とルビする。

「さうして手を」底本では「うして手を」であるが読めない。定本ではこの語自体がカットされて「手を書棚に」に続いているため、訂正根拠はない。しかし、ここは私の判断で脱字と断じ、特異的に「さ」を挿入した。但し、或いは「そして」の誤植ともとれなくもない。しかし、「そして」より「そうして」の方が朗読した際にはより自然であると私は判断した

「それは彼の妻が臺所の方で、ものを壞した音が、風に吹きとばされて聞えて來たのだつた。」ここの部分、底本では、「それは彼の妻が臺所の方で    」(で行末)「壞した音が、風に吹きとばされて聞えて來たのだつた。」と五字相当分が空欄になっている定本に従ってかく訂しはしたが、疑問がある。何故なら、空欄は五字分であるのに、補填したそれは四字しかないからである。或いは「、なにかを」「皿か何かを」等が候補とはなるが、今の私には未定稿原稿を確認出来ない以上、定本での以上の補填で我慢するしかない。]

 彼の書棚も今は哀れなさまであつた。其處には僅かばかりの古びた書物が、塵のなかで、互に支へ合ひながら橫倒しになりかかつて立つて居た。あまり金目にならないやうなものばかりが自然と殘つて、それは兩三年來、どれもこれも見飽きた本ばかりであつた。彼が今抽き出したのは譯本のフアウストであつた。彼は自分の無益な、あまりに好奇的な自分自身の死といふやうな空想から逃れた居ために、何の興味をも起さないその本をなりと讀まうとしたけれども、風の首は斷えず耳もとを掠めた。臺所の流し元に唯一枚嵌められて居るガラス戶が、がちやがちやと搖れどほしに搖れて、彼の耳と心とを疳立せた。

[やぶちゃん注:「癇立せた」「かんだたせた」。]

 彼は腹這ひになつて、披げた頁へ目を曝して行つた。

[やぶちゃん注:「披げた」「ひろげた」。]

     現世以上の快樂ですね。

     闇と露との間に山深くねて、

     天地を好い氣持に懷に抱いて、

     自分の努力で天地の髓を搔き撈り、

     六日の神業を自分の胸に體驗し、

     傲る力を感じつつ、何やら知らぬ物を味ひ、

     時としては又溢るる愛を萬物に及ぼし、

     下界の人の子たる處が消えて無くなつて‥‥

[やぶちゃん注:「撈り」「すなどり」。定本では『毮(むし)り』と変えられているが、以下に示すように、引用元はこの「撈り」であり、この字を「むしり」と訓ずることは出来ない。せいぜい可能だとすれば「かきとり」ぐらいであるが、それでは屋上屋になってしまうからあり得ない。

「傲る」「おごる」。

 以上はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe 一七四九年~一八三二年)の戯曲「ファウスト」(“Faust”)の、一八〇八年に発表された「第一部」(「ファウスト」第二部はゲーテの死の翌年に発表)の第十三場“Wald und Höhle”(「森と洞窟」)の、三二八三行から始まるメフィストの台詞であるが三二九〇行目で切ってあって、ここの台詞まるまるではない(以下参照。台詞としては最後の部分がカットされている)。序でに言うと内容も、一部が改変されていて、正確なものではない。ともかくも、以上の訳文と、場の題を「森と洞(ほら)」とする点で、これはもう、森鷗外訳の「フアウスト」(第一部は大正二(一九一三)年一月、第二部は同三月に冨山房刊)のそれである。但し、一部異なる箇所があること、次のシーンで主人公は「森と洞」の最初のファウストのモノローグから読み直していることから、やや長くなるが、昭和三(一九二八)年岩波文庫版から、「森と洞」に初めから、この台詞を含み、さらに後に引かれる部分の直後までソリッドに引いておく。春夫の引いている箇所に相当する部分には傍線を引いておいた。なお、「己」は鷗外は本作の初めの方の「主」(しゅ)の台詞で「己(おれ)」と振っている。老婆心乍ら、「傍杖」は「そばづゑ」、「宥める」は「なだめる」。「差し升つて」は「さしのぼつて」(さし昇って)、「噓き掛けた」は恐らく「うそぶきかけた」、「お負にそれを」は「おまけにそれを」と読む。

   *

 森と洞

         フアウスト一人。

フアウスト 崇高なる地の。お前は己に授けた。己の求めたものを

 皆授けた。燄の中でお前の顏を

 己に向けてくれたのも、徒事(いたづらごと)ではなかつた。

 美しい自然を領地として己にくれた。

 それを感じ、受用する力をくれた。只冷かに

 境に對して驚歎の目を睜ることを

 許してくれたばかりでなく、友達の胸のやうに

 自然の深い胸を覗いて見させてくれた。

 お前は活動しているものの列(れつ)を、己の前を

 連れて通つて、森や虛空や水に棲む

 兄弟どもを己に引き合せてくれた。

 それから暴風(あらし)が森をざわつかせ、きしめかして、

 折れた樅の大木が隣の梢、

 鄰の枝に傍杖を食(く)わせて落ち、

 その音が鈍く、うつろに丘陵に谺響(こだま)する時、

 お前は己を靜かな洞穴に連れ込んで、己に己を

 自ら省みさせた。その時己の胸の底の

 祕密な、深い奇蹟が暴露する。

 そして己の目の前に淸い月影が己を宥めるやうに

 差し升つて來る時、岩の壁から、

 濕つた草叢から、前世界の

 白金(しろかね)の形等が浮び出て、

 己の觀念の辛辣な興味を柔らげる。

 あゝ。人間には一つも全き物の與へられぬことを

 己は今感ずる。お前は己を神々に

 近く、近くするこの喜(よろこび)を授けると同時に、

 己に道連(みちづれ)をくれた。それがもう手放されぬ

 道連で、そいつが冷刻に、不遠慮に

 己を自ら陋(いや)しく思はせ、切角お前のくれた物を、

 噓き掛けたただの一息で、無(む)にするのを忍ばねばならぬ。

 そいつが己の胸に、いつかあの鏡の姿を見た時から、

 烈しい火を忙しげに吹き起した。

 そこで己は欲望から受用へよろめいて行つて、

 受用の央(なかば)に又欲望にあこがれるのだ。

         メフイストフエレス登場。

メフイスト もう今までの生活は此位で澤山でせう。

 さう長引いてはあなたに面白いはずがありませんから。

 それは一度はためして見るのも好いのです。

 これからは又何か新しい事を始めなくては。

フアウスト ふん。己の氣分の好いのに、來て己を責めるよりは、

 君にだつてもつと澤山用事があるだらうが。

メフイスト いゝえ。御休息のお邪魔はしません。

 そんな事をわたしに眞面目で言つては困ります。

 あなたのやうな荒々しい、不愛想な、氣違染みた

 友達は無くても惜しくはありません。

 晝間中手一ぱいの用がある。

 何をして好(い)いか廢(よ)して好いか、

 いつも顏を見てゐても知れないのですから。

フアウスト それが己に物を言ふ、丁度好い調子だらう。己を

 退屈させて、お負にそれを難有がらせようと云ふのか。

メフイスト わたしがゐなかつたら、あなたのやうな

 此世界の人間はどんな生活をしたのですか。

 人間の想像のしどろもどろを

 わたしが當分起らぬようにして上げた。

 それにわたしがいなかったら、あなたはもう

 疾(と)つくにこの地球にお暇乞をしてゐなさる。

 なんの爲にあなたは木兎(みゝづく)のやうに

 洞穴や岩の隙間にもぐつてゐるのです。

 なぜ陰氣な苔や雫の垂る石に附いた餌(ゑさ)を

 蟾蜍(ひきかへる)のやうに啜つてゐるのです。

 結構な、甘つたるい暇の潰しやうだ。

 あなたの體からはまだ學者先生が拔けませんね。

フアウスト うん。かうして人里離れた所に來てゐると、

 生活の力が養はれるが、君には分かるまい。

 もしそれが分かつてゐたら、そんな幸福を己に享けさせまいと、

 惡魔根性を出して邪魔をするだらう。

メフイスト 現世以上の快樂ですね。

 闇と露との間に、山深く寢て、

 天地を好(い)い氣持に懷に抱いて、

 身分のやうにふくらませて、

 推思の努力で大地の髓を搔き撈り、

 六日の神業(かみわざ)を自分の胸に體驗し、

 傲る力を感じつつ、何やら知らぬ物を味ひ、

 時としては又溢れる愛を萬物に及ぼし、

 下界の人の子たる處が消えて無くなつて、

 そこでその高尚な、理窟を離れた觀察の尻を、

 一寸口では申し兼ねるが、

      (猥褻なる身振。)

            これで結ばうと云ふのですね。

フアウスト ふん。怪しからん。

メフイスト         お氣に召しませんかな。

 御上品に「怪しからん」呼(よば)はりをなさるが宜しい。

 潔白な胸の棄て難いものも、

 潔白な耳に聞せてはならないのですから。

 手短に申せば、折々は自ら欺く快さを

 お味ひなさるのも妨なしです。

 だが長くは我慢が出來ますまいよ。

 もう大ぶお疲(つかれ)が見えてゐる。

 これがもっと續くと、陽氣にお氣が狂ふか、

 陰氣に臆病になってお果(はて)になる。

 もう澤山だ。あの子は内にすくんでゐて、

 何をかをも狹苦しく物哀しく見てゐますよ。

 あなたの事がどうしても忘れられない。

 あなたが無法に可哀いのですね。

 あなたの烈しい戀愛が、最初雪解(ゆきどけ)のした跡で、

 小川(こがは)が溢れるやうに溢れて、そいつをあなたは

 あの子の胸に流し込んだ。

 そこであなたの川は淺くなつたのですね。

 わたくし共の考では、檀那樣が森の中の

 玉座に据わつてお出(いで)になるより、

 あの赤ん坊のような好い子に、惚れてくれた

 御褒美をお遣(やり)になるのが宜しいやうだ。

 あの子は日が溜まらない程長いと見えて、

 窓に立つて、煤けた町の廓の上を、

 雲の飛ぶのを見てゐます。

 「わしが小鳥であつたなら。」 こんな小歌を

 晝はひねもす夜(よ)はよもすがら歌つてゐます。

 どうかするとはしやいでゐる。大抵は萎(しを)れてゐる。

 ひどく泣き腫れてゐるかと思へば、

 又諦めてゐるらしい時もあります。

 だが思つてゐることはのべつですよ。 

 

   *

 佐藤春夫が御大鷗外のそれを改変したのは、訳語が難解であると考えたからであろう。私はドイツ語は解せないので、以上の引用箇所を私が別に持つ高橋義孝訳(昭和四二(一九六七)年新潮文庫版)のそれも並べて見てみよう。

《佐藤春夫の本文引用》

   *

 現世以上の快樂ですね。

 闇と露との間に山深くねて、

 天地を好い氣持に懷に抱いて、

 自分の努力で天地の髓を搔き撈り、

 六日の神業を自分の胸に體驗し、

 傲る力を感じつつ、何やら知らぬ物を味ひ、

 時としては又溢るる愛を萬物に及ぼし、

 下界の人の子たる處が消えて無くなつて‥‥

   *

《鷗外訳》

   *

 現世以上の快樂ですね。

 闇と露との間に、山深く寢て、

 天地を好(い)い氣持に懷に抱いて、

 身分のやうにふくらませて、

 推思の努力で大地の髓を搔き撈り、

 六日の神業(かみわざ)を自分の胸に體驗し、

 傲る力を感じつつ、何やら知らぬ物を味ひ、

 時としては又溢れる愛を萬物に及ぼし、

 下界の人の子たる處が消えて無くなつて、

   *

《高橋義孝訳》

   【引用開始】

 超俗的快楽というやつですな。

 夜露を浴びて山に寝て、

 恍惚(こうこつ)として天地を胸に抱き、

 思い上がって、神さま気取りさ。

 予感の力を働かせて地の髄を搔き回し、

 神の六日間の仕事を自分の心のうちで繰返して、

 他愛もなく胸を張って何やら訳のわからぬものを味わい、

 そうかと思うと愛情をすべてのものに頒(わか)ち与え、

 下界の子たる趣をすつかりなくしてしまい、

   【引用終了】

まあ、春夫の改変も判らぬではないな。]

 偶然、それは「森と洞」との章のメフイストの白(せりふ)であつた。この言葉の意味は、彼にははつきりと解つた。これこそ彼が初めてこの田舍に來たその當座の心持ではなかつたか。

 彼は床の中からよろけて立ち上つた、机の上から赤インキとペンとを取るために。さうして今讀んだ句からもつと遡つて、洞の中のフアウストの獨自から讀み初めた。彼はペンに赤いインキを含ませて讀んで行くところの句の肩に一々アンダアラインをした。その線を、活字には少しも觸れないやうに、又少しも歪まないやうに、彼は細い極く神經質な直線を引いて行つた。それがぶるぶるとふるへる彼の指さきには非常な努力を要求した。

    手短かに申せば、折々は自ら欺く快さを

    お味ひなさるも妨げなしです。

    だが長くは我慢が出來ますまいよ。

    もう大ぶお疲れが見えて居る。

    これがもつと續くと、陽氣にお氣が狂ふか、

    陰氣に臆病になつてお果てになる。

    もう澤山だ‥‥

 アンダアラインをするのに氣をとられて、句の意味はもう一度讀みかへした時に、初めてはつと解つた。メフイストは、今、この本のなかから俺にものを言ひかけて居るのだ。おゝ、惡い豫言だ! 陰氣に臆病になつてお果てになる。それは本當か、これほど今の彼にとつて適切な言葉が、たとひどれほど浩瀚な書物の一行一行を片つぱしから、一生懸命に搜してみても、決してもう二度とはこゝへ啓示されさうもない。それほどこの言葉は彼の今の生活の批評として適切だ。適切すぎるその活字の字面を見て居ると、彼は少しづゝ怖ろしいやうな心にさへなつた。

[やぶちゃん注:「もう二度とは」は底本は「一」で印刷してあり、その下に誰かが手書きで長い横棒を書き込んでいるように見える。「二」にしては上の第一画が明らかに「一」の活字と同じに見えるからである。但し、拡大して見ても、下の二画目が手書きであるところまでは確認出来なかった。一応記しておく。定本は無論、「二」である。]

「まあ、何といふひどい風なのでせう。裏の藪のなかの木を御覽なさい。細い癖にひよろひよろと高いものだから、そのひよろひよろへ風のあたること! 怖ろしいほどに搖れてよ。ねえ折れやしないでせうか」彼の妻の聲は、風の音に半かき消されて遠くから來たやうに、さうして何事か重大な事件か寓意かを含んで居るらしく、彼の耳に傳はつた。

[やぶちゃん注:「半」「なかば」。]

 氣がついてみると、彼の妻は彼の枕もとに立つて居た。彼の女はさつきから立つて居たのであつた。妻は彼に食事のことを聞いて居た。彼は答へようともしないで、いかにも太儀らしく寢返りをして、妻の方から意地惡く顏をそむけた。けれども再び直ぐ妻の方へ向き直つた。

 「おい! さつき何か壞したね。」

 「ええ、十錢で買つた西洋皿。」

 「ふむ。十錢で買つた西洋皿? 十錢の西洋皿だから壞してもいゝと思つて居るのぢやないだらうね。十錢だの十圓だのと、それは人間が假りに、勝手につけた値段だ。それにあれは十錢以上に私には用立つた。皿一枚だつて貴重なものだ。まあ言はゞあれだつて生きて居るやうなものだ。まあ、其處へ御坐り。お前はこの頃、月に五つ位はものを壞すね。皿を手に持つて居て、皿の事は考へずに、ぼんやり外のことを考へて居る。それだから、その間に皿は腹を立てゝお前の手からすべり落ちるんだ。一體、お前は東京のことばかり考へて居るからよくない。お前はここのさびしい田舍にある豐富な生活の鍵を知らないのだ。ここだつてどんなに賑やかだかよく氣をつけて御覽。つまらぬとお前の思つて居る臺所道具の一つ一つだつて、お前が聞くつもりなら、面白い話をいくらでもしてくれるのだ‥‥」彼は囈言のやうに小言を言ひつゞけた。しかしいくら言はうとしても彼の言はうとして居る事は一言も言へなかつた。彼は人間の言葉では言へない事を言はうとして居るのだ。と自分で思つた。さうして遂に口を噤んだ。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「彼は答へようともしないで、」底本は「彼は答へようともしなで、」。脱字と断じ、定本に従って訂した。

「太儀」ママ。

「囈言」「うはごと(うわごと)」。]

 二人は默つて荒れ𢌞る嵐の音を聞いた。暫くして妻は、思ひきつて言つた。

 「あなた、三月にお父さんから頂いた三百圓はもう十圓ぼつちよりなくなつたのですよ。」

 彼はそれには答へようともせずに、突然口のなかで呟くやうにひとり言を言つた。

 「俺には天分もなければ、もう何の自信もない‥‥」

  

2017/05/06

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅹ」パート / 改版「風は草木にささやいた」異同検証~了

 

   Ⅹ

 

[やぶちゃん注:生みのくるしみの頌榮は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:あかんぼは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:風景は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:疾風の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:友におくる詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:自分はいまこそ言はうは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:家族は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:薄暮の祈りは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:初版でここに配されてある、土田杏村のあの長々とした五月蠅い跋文は改版には存在しない。]

 

 

 

   後より來る者におくる

 

子ども等よ

鐵のやうに頑丈であれ

やがて君達のお父さんがお爺さんのやうになる時

其時、君等はお父さんのやうな大人になるのだ

此の時代と世界とを

そして立派にうけ繼ぐのだ

その君達のことを思へば

此の胸はうれしさで一ぱいになるぞ

おお勇敢な小獅子よ

お爺さんよりお父さんより

君等はもつとどんなに強くなることか

こつちをみろ

 

子ども等よ

いまは頭も白髮となり

骨が皮をかぶつたやうな體軀を

漸く杖でささへて

消えかかつた火のやうに生きてゐるお前達のお爺さんを見な

あれでも昔は若くつて大膽で

君等のお父さん達が

いま鍬鎌を振りまはして田圃や畑でたたかつてゐるやうに

弓矢銃丸(やだま)の間をくぐりむぐつて

いさましいはたらきをしたもんだ

 

[やぶちゃん注:後詩後より來る者におくる驚くべき変更が施されてある。初版の後半部と前半部を完全に入れ替え、しかも一連構成を二連構成へと改稿しているのである。なお、その他、三箇所に施されてあったルビが除去されてもいる。個人的にはしかし、この順序ではコーダを感じさせない。敢えてコーダを外したのは山村暮鳥の確信犯なのだろうが、残念ながら、私は改版の、この改稿は全く支持出来ない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:初版では最後の最後にこの以下に献辞があるが(後より來る者におくるの最後に附加してある)、改版にはない。]





以上を以って私は私の「山村暮鳥全詩」を私なりに納得行く形で完成し得たと考えている。

――この仕儀総てを亡き母聖子テレジアに捧げる――

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅸ」パート

 

   Ⅸ

 

[やぶちゃん注:「そこの梢のてつぺんで一はの鶸がないてゐる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:雨は一粒一粒ものがたる初版の「うすぐらい電燈の下で」が「うすぐらいランプの下で」に変更されてある。]

 

[やぶちゃん注:麥畑は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:人間苦は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:わたしたちの小さな畑のことは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:一日のはじめに於ては異同なし。]

 

[やぶちゃん注:自分達の仕事は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:消息は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:感謝は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「勞働者の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:老漁夫の詩初版第二連(二行構成)の「いまも此の生きてゐる海を‥‥」のリーダが除去されてある。初版の「ああ此の憂鬱な額」の「鬱」は「欝」となっている。]

 

[やぶちゃん注:驟雨の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:苦惱者は、初版の第七連第一行の「だがこんなことが一體、世界にあり得るものか」が、「だがこんなことが、一體世界にあり得るものか」と読点が移動している。誤植でないとすれば、これは改悪である。]

 

[やぶちゃん注:あけは、初版にあった二箇所のダッシュ後の空隙は改版では存在しない。]

 

「想山著聞奇集 卷の參」 「油を嘗る女の事」

 

 油を嘗(なめ)る女の事

 

Aburawonameruonnna

 予がしれる板木(ばんぎ)師の何某、油を嘗(なめ)る女に出會(であひ)て、大(おほき)に驚きたるとの事故、能(よく)聞(きき)て書記(かきしる)しぬ。文政[やぶちゃん注:文政は一八一八年から一八三〇年。]の中頃の事のよし、或日、此男、連(つれ)壹人もなく、遲くより大師河原の大師[やぶちゃん注:現在の神奈川県川崎市川崎区にある真言宗の「川崎大師」。正しくは 金剛山平間寺(へいけんじ)。当時は附近が多摩川下流の河原であったことから「大師河原」と別称した。ここ(グーグル・マップ・データ)。]へ参詣をなせしに、歸るに隨ひて、天気惡敷(あしく)、鈴が森[やぶちゃん注:東京都品川区南大井。ここ(グーグル・マップ・データ)。]邊(あたり)より、一雫下づゝ雨降出して日暮と成(なり)、物すごく、道を急ぎて歸りしが、観音前[やぶちゃん注:位置的に見て、江戸三十三観音霊場三十一番霊場である、現在の品川区南品川にある真言宗海照山普門院品川寺であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。]よりは眞(しん)の闇となり、漸(やうやく)たどりて品川の宿も越懸(こしかか)りける時には、雨も頻(しきり)に降来(ふりきた)り、いかんともせんすべなきまゝ、據(よんどころ)なく、品川の宿の入口、新宿と云(いふ)【江戸より[やぶちゃん注:「寄り」。]の入口、少しの坂の有(ある)所なり】所の紅屋と云旗籠屋へ上りて息をつぎしに、若きものなど、彼是取持(とりもち)て、緣の下なる【此邊は海のかた坂故、緣の下にも座敷有なり。】奥の一間へ連行(つれゆき)、顔形ちもよき飯盛女を出(いだ)しければ、酒なども快(こころよく)呑(のみ)て、時もうつり、やがて雲雨の契りをもなしたり。然るに、此日は俄雨(にはかあめ)にて、客も多き故、女は外の客のかたへ行(ゆき)、蒲團(ふとん)被(ふすま)も薄く、殊に此座敷は海中へ造り出せし廣き座敷にて、次第に雨風も強(つよま)り、床(ゆか)の下へ汐の滿來(みちきた)りて打入(うちい)る音などすさまじく、段々夜も更るに隨ひ外の座敷の騷ぎもいつか静(しづま)り、物の音も絶果(たえは)て、一入(ひとしほ)、物すごくなりたる故、臥(ふし)もやらず、たゞ女の來るを待居(まちゐ)たる。其内に、彼(かの)女はいか成(なる)事にや、上は草履もなく[やぶちゃん注:意味不明。識者の御教授を乞う。]、かけ來れり、やれ嬉しやと心の内には思ひなから、空知らぬ顏して居ると、此女、側へ居(ゐ)よりて寢るかと思ふに、左にはあらず、寢息をかぐ[やぶちゃん注:探る。]樣子ゆゑ、是は何か癖の有(ある)女ならんと、彌(いよいよ)、空寢して居たるに、彼女、又、能(よく)寢たる樣子をためして、行燈(あんどん)を隅の方へよせ、能(よく)搔立(かきた)て、しばし考へ、又、側へそつと來りて、能(よく)寢息を嗅(かぎ)て、夫より又、行燈の所へ至り、又々掻立る故、これは大事の客の方へ遣す文(ふみ)などを書くものかとおもふに、左はなくて火口(ほぐち)を向ふになしたり。何か合點(がてん)の行(いか)ぬことゝ、目もはなさず、竊(ひそか)にながめ居たるに、さしもうつくしき顏に、ゑみを含(ふくみ)て、其まゝ行燈の中へ顏を差入(さしい)れ、油を吸(すひ)たれば、忽ち首筋より水をつぎ入らるゝごとくぞつとして、魂(たま)も消える斗(ばかり)恐ろ敷(しく)、如何(いかが)はせまじと思ふうちに、びたびたと舌打(したうち)をして甞(なめ)る有さま、こはきとも恐ろ敷(しき)とも、譬(たとふ)るに物なく、音羽屋【音羽屋と云(いふ)は尾上菊五郎と云劇場俳優にて妖物(えうぶつ)の眞似をなす事は古今獨步の名人、世擧(あげ)て知る所也。[やぶちゃん注:話柄内の時期と、この条件に最も合うのは三代目尾上菊五郎(天明四(一七八四)年~嘉永二(一八四九)年)。生世話物や「東海道四谷怪談」などの怪談物のケレンに長じ、「尾上菊五郎」の名跡を一代で江戸歌舞伎を代表する大看板の一つにのし上げた名優。]】妖猫(えうびやう)に成(なり)て油をなめしは、戲場の狂言にてさへ恐ろ敷(しく)思ひしに、是は夢にてもなく、斯(かく)眼前、妖物に出會(であふ)とはいか成(なる)事にや、猫俣(ねこまた)[やぶちゃん注:猫又・猫股。猫の妖怪。]にもせよ、古狸にもせよ、斯(かく)人遠(ひととほ)き奧座敷にて聲を立(たつ)るもいかゞ、今暫くこらへんと、轟く胸を落付(おちつけ)て見居たるに、やがて顏を出し口などを拭ふ風情(ふぜい)。心のまよひにや、初(はじめ)の美麗に引替(ひきかは)り、變なる顏と成(なり)たる樣(やう)の心持して、彌(いよいよ)、氣味惡く、ぞつと立(たつ)る身の毛もよだつ心地して、齒の根も合兼(あひかね)、此上はいかゞなすやと、猶、息をころして臥し居るに、何くはぬ顏して、やがて側へ來り、被(ふすま)をまくりて共に床に入(いら)んとせし故、其拍子にずつと起(おき)て、廊下へ駈出(かけだ)すと、女も直(ぢき)に付來(つききた)り、手水(てうづ)に行(ゆき)給ふのかといへども、聞(きき)もいれず、階子(はしご)を上らんとすると、先にても歸るのかと思ひしにや、かけ來りて、階子の下にて引留(ひきとめ)られたるときは、更に生(いき)たる心地もなく、力に任せてもぎはなち、階子を上ると、女も共に付來る。勝手には、寢ず番の男も居て、いか成(なる)事と云(いひ)、女もいか成事といへども耳にもいれず、我等は八つ時[やぶちゃん注:午前二時頃。]には歸らねば、宅の都合惡敷(あしき)に、寢過(ねすご)したり、歸る也と云(いふ)と、若き者もとめ、女も留(とどむ)れども、ぜひに歸り度(たし)と云故、若き者、女を叱り、おまへの勤めかたが惡敷(あしき)故ならんと云へば、女も困りたる顏色にて、何卒、堪忍して、朝迄居て下されと淚ぐみたる顏付を、大行燈の前にて能(よく)見ると、ぞつとする程うつくしく、この位の安見世(やすみせ)に、かばかりの美人は又有べきとも思はねば、彌(いよいよ)もつて油斷はならず、慥(たしか)に妖物なりと云(いひ)たらば、喰付(くひつく)るゝも量り難し、何にもせよ、此家を無事に遁(のが)れ出(いづ)るより外にてだてなしと、色々と詫(わび)て歸ることゝなり、扨(さて)、夫(それ)より此女、紙入や上着も取來(とりきた)りて取?し呉(くる)る風情、容貌のみならず、すなほにして氣高き有樣は、我目にのみ、か樣にうつくしく見するのかと、不審に思ひつゝ逃出(にげいで)たれど、雨は益(ますます)降り、暗さはくらし、今の妖物が目の前に來る心地して恐ろ敷(しく)、夫より直(ぢき)其隣をあわたゞしく叩くと、何事也と答ふ。遊ばせ呉(くれ)よと云に、最早、今晩は能(よき)女もこざらねばおことはり[やぶちゃん注:ママ。]申(まうす)と云故、雨に逢(あひ)、難儀也、女は有(あり)てもなくてもよし、兎も角も先(まづ)あけて呉(くれ)よと段々賴みて、むりに内に入り、漸(やうやう)ほつと息をつぎ、茶などたべても中々動氣(どうき)[やぶちゃん注:動悸。]も靜(しづま)りかね、夫より相談して、又、酌女(しやくをんな)も出し呉れ、盃など出して後、漸(やうやう)人心地(ひとごこち)と成(なり)たれども、先(さき)にても不審に思ひしか、どふなされしや、唇の色迄替り、只ならぬ顏色也と申(まうす)故、何をか隱さん、今迄、隣に居たるが、我(われ)買(かひ)し女は妖物と見え、そろそろと起出(おきいで)ると云(いふ)うちに[やぶちゃん注:隣りの家での怪異を語るうちに。]、女も笑ひ出し、若き者もゑみを含みし故、笑ひ所にてはなきはと云(いふ)に、女が云には、油を甞(なめ)ましたかへと云故、其通りなり、知(しり)て居(を)るかと問ふと、其位のことは存(ぞんじ)て居(をり)まする、あれは妖物ではこざりませぬ、あゝいふ癖の女にて、皆さま御驚きなさるゝ故、大かた其樣(そのやう)なる事ならんとて、兩人ながら笑へども、まだ動氣も治りかねたれど、氣分も取直(とりなほ)し、少し心も落付、夫よりその譯を尋(たづね)しかども、どふ云(いふ)譯と云(いふ)事は存ぜねども、あゝ云(いふ)女は、たまたまには有(ある)ものと承りまする。舌が荒(ある)る性(しやう)故、油をぬるとしのぎよく、つひつひたべ馴(なれ)てすきに成(なる)と承り、藥にたべるなら、猪口などにてたべればよく候得共、燈火(ともしび)にて暖(あたたま)りたるを皿よりたべるがむまき[やぶちゃん注:底本では「む」の右に『(う)』と訂正注する。]と申(まうす)事也と咄すを聞(きき)て、又ほつとして、やれやれこわき目にあひたり、大笑ひなる事也と、始(はじめ)て心もとけ、夫より又、能(よく)きくに、元來、右女は生れも能(よく)、容儀も至(いたつ)て能(よく)、中々此邊の飯盛女となるべき者にはなけれども、あのきづにて、此安見世に成下(なりさが)り居(を)るとの咄しなれば、やうやう成程(なるほど)と合點行(ゆき)たれども、中々、唯今咄せばおかしくも思召(おぼしめす)べく候得ども、其時は活(いき)たる心地もなく、命拾ひをなせし程に恐敷(おそろしく)、もふ[やぶちゃん注:もう。]あのやうなるこわき事には、生涯、遭申間數(あひまうすまじき)と、その男、具(つぶさ)に咄したり。去(さり)ながら、夫(それ)切(せち)に逃歸(にげかへ)りなば[やぶちゃん注:この隣りの家に入らずに、自宅へ一散に帰ってしまっていたとしたならば。]、眞(まこと)の妖物となるべし。世にはか樣の間違(まちがひ)にて、妖物に逢(あひ)たりと云(いふ)事、いくらも有(ある)らん。心得置(こころえおく)べし。予が友、内藤何某の咄しには、或方の奧方に此病(やまひ)有(あり)との噂、聞置(ききおき)たる事も有(あり)との話も有れば、さして珍敷(めづらしく)もなき事にや。物には餘り驚ぬこそ宜(よろし)きか。しかし、驚かずして災(わざはひ)に逢(あふ)もまゝ有(あり)。その甚敷(はなはだしき)に至りては、妖魔の類に出會(であひ)して、命を失ふも、いくらも有(ある)事なれば、何とも申難(まうしがた)き事也。

[やぶちゃん注:所謂、病的症状としての「異食(いしょく)症・異味(いみ)症」(pica(パイカ):基本的には栄養価の殆んど全く無いものや非食用物質を無暗に食べたくなり、実際に食べる症状を指す。妊婦などで見られることがある。「pica」はラテン語で鵲(かささぎ)(鳥綱スズメ目カラス科カササギ属カササギ Pica pica)を意味し、カササギは何でも口に入れることに由来する)であるが、彼女の場合、嘗める理由が舌が荒れるのが緩和される、或いは守られるという、相応に納得出来る理由があり、或いは、先天的な遺伝子疾患によって油を嘗めないと体長不良が起こるの特異体質である可能性も考慮せねばなるまい。孰れにせよ、そうした習癖によって賤しい飯盛り女にまで身を落さねばならなかった彼女は、何とも可哀想である。]

南方熊楠 履歴書(その25) 大正七(一九一八)年の米騒動

 

 過ぐる大正七年、米一揆諸処に蜂起せしおり、和歌山の舎弟宅も襲われたるの新聞に接し、兄弟はかかる時の力となるものなればと妻がいうので、倉皇和歌山に趣きしに舎弟一人宅に止まり、その妻も子も子婦(よめ)もことごとくいずれへ逃走せしか分からず。かかる際に臨んでは兄弟の外に力となるものなしと悟り候。しかるにその米高の前後、小生は米に飽くこと能わず、自宅に維新のころの前住人が騎馬の師範で、そのころの風(ふう)とて士族はみな蓼(たで)を多く植えてもつぱら飯の飣(さい)としたり(松平伊豆守信綱も武士の宅には蓼を多く栽(う)ゆべしと訓えしという)。その種子が今も多くのこり、また莧(ひゆ)といいて七月の聖霊祭に仏前に供うる、うまくも何ともなき芽あり、この二物が小生宅の後園におびただしく生える。この二物を米に多く雑えて炊ぎ餓えを凌ぎ、腹がへるごとに柔術の稽古するごとく幾回ともなく帯をしめ直してこれを抑えたり。それに舎弟は、小生が父より譲り受けたる田地二町余を預かりながら(三十石は少なくもとれる)、ろくに満足な送金もせず。しかして、その子に妻を迎えしときの新婦の装束は、多額を費やしたものと見えて、三越の衣裳模様の新報告をする雑誌の巻頭に彩色写真が出でおりし由承る。戦国時代また外国の史籍に兄弟相殺害し、封土を奪い合いしとや、兄弟の子孫を全滅したことを多く読んで驚きしが、実は小生の同父母の兄弟も、配偶者の如何(いかん)によりては、かかる無残の者に変わりしということを、後日にようやく知るに及び候。

[やぶちゃん注:「大正七年」一九一八年。

「米一揆」同年七月中旬以降に米の価格急騰に伴って発生した全国規模の米騒動、暴動事件を指す。ウィキの「1918年米騒動に詳しいが、それによれば、『米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが、一部民衆を扇動したとして、和歌山県で』は『二名が死刑の判決を受けて』いるとある。また、この『米騒動での刑事処分者は』八千百八十五人に及んだが、その内の一割を超える処分者は『被差別部落』出身者で、その『和歌山県伊都郡岸上村(現・橋本市)の』二人の男性、『中西岩四郎(当時』十九『歳)ならびに同村の堂浦岩松(堂浦松吉とする資料もある。当時』四十五『歳)も被差別部落民であった』とある。「子婦(よめ)」は二字へのルビ。常楠の男子の嫁。

「米に飽くこと能わず」米を碌に食うことが出来なかった。

「蓼」ナデシコ目タデ科 Persicarieae 連イヌタデ属サナエタデ節ヤナギタデ(柳蓼)Persicaria hydropiper。マタデ(真蓼)・ホンタデ(本蓼)とも言う。現行も薬味として利用され、所謂、「蓼食う虫も好きずき」の語源も本種。

「飣」音「テイ・チョウ」で、原義は「食物を蓄える」であるから、「蓄えとした食物」の謂いとなるが、蓼だけでは主食には到底ならぬから、ここで熊楠が振っている「さい」は「菜」の謂いで、乏しい主食の「おかず」の意味であろう。

「松平伊豆守信綱」(慶長元(一五九六)年~寛文二(一六六二)年)は安土桃山から江戸前期の大名で武蔵国忍藩主・同川越藩初代藩主。老中。俗に「知恵伊豆」と呼ばれ、第四代三将軍家光と次代の家綱に仕え、島原の乱・由井正雪の乱を鎮圧、明暦の大火を処理し、幕府体制の確立に功があった。「武士の宅には蓼を多く栽ゆべし」の出典は未詳。

「訓えし」「おしえし」。

「莧(ひゆ)」ナデシコ目ヒユ科 Amaranthaceae、或いは同科 Amaranthoideae亜科のヒユ類の総称で、同類は若芽や果実(種子)を食用とする種を多く含むが、私は恐らくはヒユ属イヌビユ Amaranthus blitum 辺りを指しているのではないかと思う。

「聖霊祭」「しょうりょうまつり」。精霊祭り。盂蘭盆のこと。

「二町」二十反(たん)=六千坪二ヘクタール。現在の通常の小学校の敷地規模の二倍ほど。

「三十石」八十六俵弱。

「衣裳模様の新報告をする雑誌の巻頭」「彩色写真」最新ファッション雑誌の巻頭グラビア。]

 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その15)

 

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 一度かういふ事もあった‥‥

 夜ふけになってから、ランプの傍へ蛾が一疋慕ひ寄つた。彼はこの蟲を最も嫌つて居た。この蟲の、絹のやうな滑らかな毛が一面に生えた小さな顏。その灰黑色の頭の上に不氣味に底深く光つて居る小さな目。それからいくら追ひ拂つても平然として、厚顏に執念深さうに灯のまわりを戲れる有樣。それがホヤの直ぐ近くで死の舞踏のやうな歡喜の身もだえをする時には、白つぽくぼやけた茶色の壁の上をそのグロテスクな物影が、壁の半分以上を占めて、音こそは立てないけれども、物凄く叫び立てて居さうに狂ひまわつた。彼の追い拂ふのを避けて、この蟲が障子の上の方へ逃げてしまふと、今度はその黑い翅でもつて、ちやうど亂舞の足音のやうに、ばたばた、ばたばた、ばたばたと障子紙を打ち鳴した。

 彼は、蛾の靜かになつたのを見すまして、新聞紙の一片それを取り押へた。さうして、その不氣味な蟲を、戶を繰って外へ投げ捨てた。

 けれどもものの十分とは經たないうちに、その蛾は(それとも別の蛾であるか)再び何處からか彼のランプへ忍び寄った。さうして再び不氣味な黒い重苦しい翅の亂舞を初めた。彼はもう一度、その蛾を紙片で取り押へた。さうして、今度は、その紙片を蟲の上からしつかりと疊みつけて、さて再び戶を繰つて窓の外へ投げ捨てた。

 けれども、又ものの十分とは經たないうちに、蛾は三度び何處かから忍び寄つた。それは以前に二度まで彼をおびやかしたと同一のものであるか、別のものであるかは知らないが、さつきあれほどしつかりと紙のなかにつつみ込んで握りつぶしたものが出て來ることは愚か、生きて居る筈もないのだから、これは全く別の蛾だつたのであらう。兎に角、三度、四度まで彼のランプを襲うた。

[やぶちゃん注:「四度まで」は底本では「四度まだ」。誤植と断じて、定本で訂した。]

 この小さな飛ぶ蟲のなかには何か惡靈があるのである。彼はさう考へずには居られなかつた。さうして、わざわざ妻を呼び起して、この蟲を捕へさせた。それから一枚の大きな新聞紙で、この小さな蟲を、幾重にも幾重にも卷き込んで、折り疊んで、今度は戶の外へは捨てずに、彼の机の上へ乘せて置いた。

 かうして、やつと安堵して、寢床に入つた。

 しばらくして、眠れないままに、燭臺へ灯をともすと、ひらひらと飛んで來て、嘲るやうに灯をかすめたものがある。それも蛾であった!

[やぶちゃん注:これは精神変調病態の一種である追跡妄想の変形型と思われる。]

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その14)

 

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[やぶちゃん注:アスタリスク位置はママ。]

 今まで手に持つて居たものが、たとへばペンだとか、煙管だとか、そんなものが不意にどこかへ見えなくなることはよくあることだ。さうして一時姿を匿して居たそれらの品物は、後になつて、思ひもよらないやうな場所から、或は馬鹿ばかしいやうな場所から、出て來る。しかし搜す時には、決して現はれない。さういふことは誰にもよくある。併し、そのころ彼に起つた程そんなに屢々は決して誰にもあるものではない。彼には、その頃、そんな事が一日に少なくとも二三度は必ずあつた。そのふとしたことが、彼にはどんなに重大に見えたであらう。彼はそれを、寧ろフェイタルな出來事のやうにさへ感じた。そうして、彼の持ちものが斯うして、每日二三品づつひよつくり消え失せでもするやうに彼には感じられた‥‥‥‥

[やぶちゃん注:★本章は、定本では全面改稿やカットというのではなく、全く別の新しい一章に吸収されてある。★

「フェイタル」fatal。「致命的な・破滅的な・極めて重大な・運命を決するような・宿命的な・免れ難い」の意。]

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その13)

 

[やぶちゃん注:★定本ではここに、本書では次の次の章としてある蛾の話が移行されてある。★]

 

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 彼は眠ることが出來なくなつた。

 最初には、時計の音がやかましく耳についた。彼は枕時計も柱時計も、二つともとめてしまつた。全く、彼等の今の生活には、時計は何の用もな居いただやかましいだけのものにしか過ぎなかつた。それでも、彼の妻は、每朝起きると、いい加減な時間にして、時計の振子を動かした。彼の女は、せめて家のなかに時計の音ぐらゐでもして居なければ、心もとない、あまり淋しいといふのであつた。それには彼も全く同感である。何かの都合で、隣家の聲も、犬の聲も、鷄の聲も、風の聲も、妻の聲も、彼自身の聲も、その外の何物の聲も、音も、ぴつたりと止まつて居る瞬間を、彼は屢經驗して居た。その一瞬間は、彼にとつては非常に寂しく、切なく、寧ろ怖ろしいものであつた。そんな時には、何かが聲か音かをたててくれればいいがと思つて、待遠しい心持になつた。それでも何の物音もないやうな時には、彼は妻にむかつて無意味に、何ごとでも話しかけた。でなければ、ひとりごとを言つたりした。

 けれども夜の時計の音は、あまりやかましくて、どうしても眠つかれなかつた。それの一刻みの音每にそそられて、彼の心持は一段一段とせり上つて昂奮して來た。それ故、彼は寢牀に入る時には、必ず時計の針をとめることにした。さうして每朝、妻は、夫のとめた時計を動かす。時計を動かすことと、止めることと、それが每朝每夜の彼等の各の日課になつた。

[やぶちゃん注:「各」「おのおの」。]

 時計の音をとめると、今度は庭の前を流れる渠のせせらぎが、彼には氣になり初めた。さうして今度はそれが彼の就眠を妨げるやうに感じられた。每日の雨で水の音は、平常よりは幾分激しかつたであらう。或る日、彼はその渠のなかを覗いて見た。其處には幾日か以前に――彼がこの家へ轉居して來たてに、この家の廢園の手入れをした時に、渠の土手にある猫楊から剪り落したその太い枝が、今でも、その渠のなかに、流れ去らずに沈んで居て、それが笧のやうに、水上からの木の葉やら新聞のきれのやうなものなどを堰きとめて、水はその笧を跳り越すために、湧上り湧上りして騷いで居た。あの騷々しい夜每の水の音は、成程この爲めであつた。彼はひとりでさう合點して、雨に濡れながら、渠のなかに這入つて、その枝を水の底から引き出した。澤山の小枝のあるその太い枝の上には、ぬるぬるとした靑い水草が一面に絡んで上つて來た。彼はそれを一先づ路傍へひろひ上げた。さてもう一度、水のなかを覗くと、今まで猫楊の枝の笧にからんで居た木の葉やら、紙片やら、藁くづやら、女の髮の毛やらの流れて行く間に雜つて、其處から五六間の川下を浮きつ沈みつして流れて行く長いものに、ふと目をとめた。

[やぶちゃん注:「笧」「しがらみ」。柵(しがらみ)。

「五六間」約九~十一メートル。] 

 見れば、それはこの間の晩、犬を打つてから水のなかへたたきつけたあの銀の握のある杖であつた。

 彼は不思議な緣で、再びそれが自分の手もとにかへつたことを非常に喜んだ。何といふことなく恥しく、馬鹿ばかしくつて、それを無くしたことを妻にも隱して居たのに、つひうつかり話してしまつたほどであつた。さうして彼は考へた――あの騷々しい水音は、きつと、この杖のさせた聲であらう。杖はさうすることに依つて、それを搜し求めて居る彼に、杖自身の在處を告げたのであらうと。

[やぶちゃん注:「在處」「ありか」。定本でもかくルビする。] 

 彼はその杖を片手に持つて、とどこほりなく押し流れて行く水の面をぢつと見た。これならば、今夜はもう靜かだ、安心だと思つた。併し、それは間違ひであつた。その夜も、前夜よりは騷がしいかと言つても、決して靜かではないせせらぎの音が、それはもともと極く微かなものであるのに、彼にはひどく耳ざわりで、それが彼の睡眠を妨げたことは、前夜と同じことであつた。

 けれども、そのせせらぎの音は、もうそれ以上どうすることも出來なかつた。その外に、もう一つ別に、彼の耳を訪れる音があつた。それは可なり夜が更けてから聞える、南の丘の向側を走る終列車の音であつた。然も、それはよほどの夜中なので――時計は動いて居ないから時間は明確には解らないけれども、事實の十時六分?にT驛を發して、直ぐ、彼の家の向側を、一里ほど遠くに、丘越しに通り過ぎる筈の終列車にしてはそれは時間があまりに晩すぎた。そればかりかそれは一夜中に一度ではなく、最初にそれほどの夜更けに聞いてから、また一時間ばかり經過するうちに、又汽車の走る音がする。どうしてもそれは事實上の列車の時間とは、すべて違つて居る‥‥たとひ、それが眞黑な貨物列車であつても、こんな田舍鐵道が、こんな夜更けに、それほど度々貨物列車を出す筈はない。さうして、それほどはつきり聞かれる汽車の音を、彼の妻は決して聞えないと言ふ。

[やぶちゃん注:こうした聴覚過敏や幻聴或いは聴覚認識及び同短期記憶の錯誤は、神経過敏や強迫神経症或いは精神疾患の初期症状として教科書的に典型的で、またそのようにかなり正確に叙述されてもある。しかも、そうした粘着的叙述自体が、そうした精神疾患等の予後に見られる特徴でもある。

T驛」不詳。当時の横浜線の駅名にイニシャル「T」の駅名はない。

「一里」モデル・ロケーションに非常に正確である。佐藤春夫が住んだ位置から地図上で測ると、現在の横浜線の最短位置の距離は三・九キロメートル強である。] 

 時計のセコンドの音。渠のせせらぎ。汽車の進行するひびき、そんな順序で、遂に彼は、その外のいろいろな物音を夜每に聞くやうになつた。その重なるものの一つは、彼が都會で夜更けによく聞いた、電車がカアブする時に發する遠くの甲高な軋る音である。それが時々、劇しく耳の底を襲うた。或る夜には、うとうと眠つて居て、ふと目がさめると、直き一丁ほどのかみにある村の小學校から、朗らかなオルガンの音が聞え出して來た。もう朝も遲くなつて、唱歌の授業でも始つて居るのかと、あたりを見ると、妻は未だ睡入つて居る。戶の𨻶間からも光もささない。何の物音も無い‥‥そのオルガンの音の外には。深夜である。睡呆けて居るのではないかと疑ひながら一層に耳を確めた。オルガンの音は、正にそれの特有の音色(ねいろ)をもつて、よく聞きなれた何かの進行曲を、風のまにまに漂はせて來るではないか‥‥彼は恍惚としてその樂の音に聞き惚れて居た。或る夜にはまた、活動寫眞館でよく聞く樂隊の或る節が‥‥これもやはり何かの進行曲であるが‥‥何處からとしもなく洩れ聞えて來た。其等の樂の音を感ずるやうになつてからは、水のせせらぎは、一向彼の耳につかなくなつた。さうして彼はもう眠らうといふ努力をしない代りに、眠れないといふことも、それほどに苦しくはなかつた。それ等のもの音は、電車のカアブする奴だけは別として、その外のは皆、快活な朗らかなそれぞれの快感をともなうて居て、彼はそれらの現象を訝しく感ずるよりも前に、それを聽き入つて居ることが、寧ろ言ひ知れない心地よさであつた。就中、オルガンの音が最もよかつた。次には樂隊のひびきであつた。樂隊は殆んど每夜缺かさずに洩れ聞えた。彼はそれを聽き入りながら、ついそれの口眞似をして、その上、臥て居る自分の體を少し浮上がらせる心持にして、體全體で拍子をとつて居た。それは一種性慾的とも言へるやうな、卽ち官能の上の、同時に精神的ででもある快樂の一つであるかのやうであつた。若しこれが修道院のなかで起つたのであつたならば、人々はそれを法悅と呼んだかも知れない。

[やぶちゃん注:この最後の部分は精神医学的にも文学的にもすこぶる興味深い。

「甲高な軋る音」「かんだかなきしるおと」。

「直き一丁ほどのかみにある村の小學校」「かみ」は川上ととれ、実際に佐藤の住んだ位置から谷本(やもと)川(鶴見川の上流域名)の川上方向に、現在も横浜市立鉄(くろがね)小学校がある。但し、現在の地図上ではその距離は四百メートルはある(一町は百九メートル)。しかし、昭和初期の地図を見ると、現在の鉄小学校の位置は完全に水田であり、「文」のマークは、もっと佐藤の住居寄り、現在の交番のある東北直近に打たれてある。ここだと、百メートル強となり、一致する

「進行曲」二箇所ともママ。定本では二箇所とも「行進曲」となっている。

「臥て」定本では「臥(ね)て」とルビする。] 

 幻聽は、幻影をも連れて來た。或は幻聽の前觸れがなしに一人でも來た。その一つは極く微細な、併し極く明瞭な市街である。これの一部分である。ミニアチュアの大きさと細かさとで、仰臥して居る彼の目の前へ、ちようど鼻の上あたりへ、そのミニアチュアの街が築かれて、ありありと浮び出るのであつた。それは現實にはないやうな立派な街なので、けれども、彼はそれを未だ見たことはないけれども、東京の何處かにきつとこれと同じ場所がありさうに想像され、信じられた。それは灯のある夜景であつた。五層樓位の洋館の高さが、僅に五分とは無いであらう。それで居て、その家にも、それよりももつと小さい ――それの半分も三分の一の高さもない小さな家にも、皆それぞれに、入口も、灯のきらびやかに洩れて來る窓もあつた。家は大抵眞白であつた。その窓掛けの靑い色までが、人間の物尺(ものさし)にはもとより、普通の人の想像そのもののなかにもちよつとはありさうもないほどの細かさで、而も實に明確に、彼の目の前に建て列ねられた。いやいや、未だそればかりではない。それらの家屋の塔の上の避雷針の傍に星が一つ、唯一つ、きつぱりと黑天鵞絨(くろびらうど)のなかの銀絲の點のやうに、鮮かに煌いて居る‥‥不思議なことには、立派な街の夜でありながら、どんな種類にもせよ車は勿論、人通り一人もない‥‥柳であらう街樹の並木がある。‥‥しんとした、その癖、何處にとも言へぬ騷々しさを湛へて居ることは、その明るい窓から感じられる‥‥その家はどういふ理由からか、彼には支那料理の店だと直覺出來る‥‥‥‥それをよくよく凝視して居ると、その街全體が、一旦だんだんと彼の鼻の上から遠ざかつて、いやが上に微小になり、もう消えると見るうちに、非常な急速度で景色は擴大され、前のとその儘の街が、非常な大きさに、殆んど自然大に、それでもまだやまずにとめどなく巨大に、まるで大世界一面になつて‥‥それをぼんやり見て居ると、その街はまた靜かに縮小して、もとのミニアチュアの街になつて、それとともに再び彼の鼻の上のもとの座に歸つて來た。彼はかうして數分間か、それとも數秒間に、メルヘンにある、小人國と、巨人國とへ、一翔りして往復して居る心地がした。何かの拍子に、その幻の街が自然大位の巨大さで、ぱつたり動かなくなる時がある。彼は、突然、實際そんな街へでも自分は來て居るのではなからうかと、慌てて手さぐりでマツチを擦つて、闇のなかで自分のすすけた家の天井を見わたした事があつた。

[やぶちゃん注:「五分」一・五センチメートル。

「煌いて」「きらめいて」。

「一翔り」「ひとかけり」。] 

 それらの風景は、屢々彼の目に現れた。それの現はれる都度、それは前度のものとは決して寸毫も變つたところはなかつた。それもこの現象に伴ふところの一つの不思議であつた。

 ある時には、稀に、その風景の代りに自分自身の頭であることがあつた。自分の頭が豆粒ほどに感じられる‥‥見る見るうちに擴大される‥‥家一杯に‥‥地球ほどに‥‥無限大‥‥どうしてそんな大きな頭がこの宇宙のなかに這入りきるのであらう。と、やがてまたそれが非常な急速度で、豆粒ほどに縮小される。彼はあまりの心配に、思はず自分の手で自分の頭を撫ぜ𢌞して見る。さうしてやつと安心する。滑稽に感じて笑ひ度くなる。その刹那にキイイイと電車のカアブする音が、眉の間を刺し徹す。

 これらの幻視や、幻感は、しかし、幻聽とはさほど必然的な密接な關係をもつて現はれるものではないらしかつた。一體に幻聽の方は、彼にとつて愉快であつたに拘はらず、こんな風に無限大から無限小へ、一足飛びに伸縮する幻影は、彼にさへ不氣味で、また惱ましかつた。

 これらの怪異な病的現象は、每夜一層はげしくなつて行くのを彼は感じた。彼はそれ等の現象を、彼の妻から傳はつて來るものだと考へ始めた。汽車のひびき、電車の軋る音、活動寫眞の囃子、見知らぬ併し東京の何處かである街。それ等の幻影は、すべて彼の妻の都會に對する思ひつめたノスタルヂアが、恐らく彼の女の無意識のうちに、或る妖術的な作用をもつて、眠れない彼の眼や耳に形となり聲となつて現はれるのではなからうか、彼はさう假想して見た。それは最初には、ほんの假想であつたけれども、何時とはなく、それが彼には眞實のやうに感ぜられ出して來た。彼自身のやうに、殆んど無いと言つてもいい程に意志の力の衰えて居るものの上に、意志の力のより强い他の人間の、或はこの空間に犇き合つて居るといふ不可見世界のスピリツト達の意志が、自分自身のもの以上に、力强く働きかけるといふことはあり得べき事として、彼は認めざるを得なかつた。生命といふものは、すべての周圍を刻々に征服し、食つて、その力を自分のなかに吸集し、それを統一するところの力である。さうして、今や、その力は彼からだんだんと衰えて行きつつあつた。

[やぶちゃん注:「不可見世界」「ふかけんせかい」見ることが出来ない時空間。

「吸集」ママ。] 

 彼が、闇といふものは何か隙間なく犇き合ふものの集りだ、それには重量があると氣附付たのもこの時である。

[やぶちゃん注:「集りだ、」底本は「集りだ。」と句点であるが、特異的に訂した。定本も読点になっている。] 

 彼は、若し自分が今、修道院に居るとしたならば‥‥と或る時考へた。若し彼が彼の妻と一緖にこんな生活をして居るのではなく、永貞童女である美しいマリアの畫像を拜しながら、この日頃のやうな心身の狀態に居るならば、夜の幻影は、それは多分天國のものであつたらう。その不快なものは地獄のものであつたらう。さうして畫像のマリアは生きて彼にものを言ひかけたのであらう。さうして怖ろしいものはすべて畫家アンドレアス・タフィイが描いたといふ惡魔の釀さと怖ろしさをもつて、彼に現はれたであらう。修道院では生活や思想がすべて、そんな風な幻影を呼び起すやうに、呼び起さなければならないやうないろいろの仕掛で出來て居るのだから。

[やぶちゃん注:「畫家アンドレアス・タフィイ」不詳。識者の御教授を乞う。定本では「スピネロオ・スヒネリイ」に変わっているが、それはルネッサンス初期のトスカーナの画家パッリ・ディ・スピネッロ・スピネッリ(Parri Di Spinello Spinelli 一三八七年~一四五三年)のことであろう。] 

 彼はそんな事をも考へた。併しこの考へは、この當座よりも、ずつと後になつて纏つた。

 

2017/05/05

ブログ940000アクセス突破記念 煙草の害について   アントン・チェーホフ作・米川正夫譯

[やぶちゃん注:これはアントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ(Антон Павлович Чехов/ラテン文字転写 Anton Pavlovich Chekhov 一八六〇年~一九〇四年)が一八八六年に「アントーシャ・チェーホンテ」(Антоша Чехонте)のペン・ネームで発表した独り芝居の一幕物喜劇O vrede tabakaの全訳である。

 底本は昭和一四(一九三九)年岩波文庫刊の米川正夫譯「チェーホフ一幕物全集」(正字正仮名)を用いた。訳者米川正夫は昭和四〇(一九六五)年十二月二十九日逝去でパブリック・ドメインである。

 底本のポイント違い(ト書き丸括弧挿入部全体がポイント落ち等)は無視し、また台詞の二行目以降の一字下げは行わなかった。本作は独り芝居であるため、この処理は特に読むのに違和感はないはずである。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

 一箇所、「南京蟲を退治したり」の箇所は、底本では「南京蟲を退治たり」となっている。私が朗読するなら、「やつつけたり」と訓ずるところだが、特にルビを振っておらず、直後に「鼠を退治したり」がある以上、「り」の脱字と断じて、特異的に補った

 本作は実に二十八歳の時、高校三年の現代文の教科書に載っていた。私は教材として選ばなかったのだが、ある女生徒から『最後の授業でどうしても演じて下さい』と懇望され、その一クラスだけで、一度だけ、表現読みをしたことがある、遠い、懐かしい思い出である。私はしかし、本作を、あれ一度きりとはいえ、「公演」しただけよかったと思う(以下、モノローグ)……私は嘗てどうしても演じたかった今一つの独り芝居があった……サミュエル・ベケットの「クラップ最後のテープ」だ……あの芝居も誰かが徹底的にインスパイアしないと、最早、リール・テープではレーゼ・ドラマとしてしか読まれんだろうなぁ……でも、私はあれは「カラカラ」と回るリール・テープだからこそ――いい――だからこそ、絶妙の小道具となると思っているのだ……あれはしかし……高校生相手ではとても表現読み出来る内容ではなかったからなぁ……まあ……仕方……ないか…………

 底本が戦前の刊行物であることから、若い読者には読み難いと思われる語句が思いの外、見受けられるので、ごく簡単に先に注しておくこととする。杞憂だと思われる方は、以下は飛ばして本文をお読みあれ。

   *

「孜孜」は「しし」と読み、熱心に努め励むさまを意味する。

「我關せず焉ですよ」「焉」は「えん」と読む。「焉」は漢文で断定の意を表す助辞で通常は置字として読まないが、この「我れ関せず焉」とした場合のみかく音読みする。自分には何ら関係がないという主張で、対象の状況などから超然としている様子指す。

「耳をお藉しにならなくても」「お藉し」は「おかし」。「お貸し」。

「溢す」「みたす」。

「一哥」「いちカペイカ」(ロシア語:копейка/ラテン文字転写:kopek/copeck)。「カペイカ」(「哥」は当て字)はロシアの通貨単位であるルーブル(ルーブリ/ロシア語:рубль/同前:rouble/ruble)の補助通貨単位。一ルーブルは百カペイカ。

「鐚錢一枚ない」「びたせんいちまい」。やはり日本風の解説になるが、最低の粗悪貨幣の「一文たりとても持ってない」の意。

「狆」犬の犬種の「ちん」。

「薄餅(プリン)」はロシア語で“блин”(ブリン:ラテン文字転写:blin)のこと。これは我々がそのルビから想像する「プリン」でも「プティング」でもない。ホットケーキ風の焼き菓子、というか、より薄いパン・ケーキやクレープのようなものを想起した方がよろしいか。これだけ言ってもイメージ出来ない方は、雪こぐま氏のサイト「本嫌いさんの読書感想文~カラマーゾフの兄弟はいつも貸出中?!」の「アリョーシャと一緒にプリンを食べよう」を見て戴ければ、一目瞭然。

「吩咐ましたが」「いひつけましたが」。言いつけましたが。

「頓痴奇」「とんちき」。一般には「頓痴氣」と書くが当て字。頓馬(とんま)・間抜けなどの蔑称語の一つ。

「彼奴ら」「きやつら(きゃつら)」。卑称三人称複数。

「くそ食へ」「くそくらへ」。糞喰らえ。

「薩張りない」「さつぱりない」。さっぱり無い。

「大祭日」イエス・キリストの復活を記憶する正教会に於いて最も重要な祭日である「パスハ」、「復活大祭日」のことであろう。日付は年によって異なるが、四月四日から五月九日までの孰れかの日曜日となる。

「自分の頰を指でぽんと彈く」ロシアでは一般には指で首を弾くと「酒」を意味する。

「脱れさへ」「のがれさへ」。逃れさえ。

「老い耄れ」「おいぼれ」。

「案山子」「かかし」。

「搔き毟りたい」「かきむしりたい」。

Dixi et animan levavi」ラテン語。意味は米川氏の割注でどうぞ。

「濶然」闊然や豁然に同じい。からりと開ける様子。転じて疑いや迷いが消えて心が明るくひらけるさま。

   *

 なお、本電子化はある邦人作家のある作品の電子化のための参考作品としてプレ公開するものであり、また、2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが940000アクセスを越えた記念ともすることとする。【2017年5月5日 藪野直史】]

 

 

 

    煙草の害について

 

          ――獨白劇一幕――

 

 

 

    人物

 

 イヷン・イヷーノヸッチ・ニューヒン  音樂教授および女子寄宿舍を經營する女流教育家の夫。

 

 

  無は或る田舍倶樂部の演壇。

 

ニューヒン (鼻髭を剃り落し、長い頰髯を蓄へてゐる。大分くたびれた古い燕尾服を着て、堂々と登場。會繹して胴衣を正す)淑女及び少數の紳士諸君。(頬髯を搔き分ける)えゝ實は妻(さい)の方へ他から勸誘がありまして、わたくしに慈善の目的をもつて、こゝで何か通俗講話をするやうにとのことでした。よろしい、講話とあれば講話も結構――わたくしはそんなことなぞどつちだつて、一向構やしないんですからな。わたしは、無論、大學教授でもなければ、學位などといふものにも凡そ緣のない人間ですが、しかしそれでも、かうして既に二十年の間、殆ど自分の健康を害する迄に、孜々として純科學的な問題の研究と思索を續け、時としては、えゝその、論文の執筆さへもいたします。と申して、全然論文と言ふ譯でもありませんが、まづ言つて見れば、つまり論文風のものなのであります。就中、最近數日間に、わたしは『ある昆蟲の事に就いて』と題する堂々たる大論文を脱稿致しました。娘達は大變氣に入つた風でした。殊に南京蟲に關する條(くだり)の如きは、格別歡迎されたやうですが、しかしわたしは朗讀後直ちに破棄してしまひました。實際幾ら書いて見たところで、詮ずるところ蚤取粉なしには濟まない譯ぢやあませんか。何しろわたしの家では、ピアノの中にまで南京蟲がゐるんですからなあ‥‥さて今日の演題としてわたくしは、その、喫煙が人類に及ぼす害といふのを選びました。わたくし自身も煙草を用ひてをりますが、實は妻が今日煙草の害に就いて講演しろと命令いたしますので、從つてそれ以上、兎や角爭ふ餘地はありません。煙草の害なら煙草の害でよろしい――わたしはどつちだつて我關せず焉ですよ。とは云へ紳士淑女諸君、どうかこのわたくしのこの演説に對して、充分眞劍な態度をおとり下さるやうお願ひいたします。さもないと、何か面倒なことが起らんとも限りませんからね。もし無味乾燥な學術的講演に恐れを抱かれる方や、又さう言ふものをお好みにならない方は、耳をお藉しにならなくても差支へありませんし、或がご隨意に退場なさつても構ひません。(胴衣を正す)特にご來場の醫師諸君には、格別のご注意を促したいと思ふのであります。なぜならば、煙草はその有害なる作用のほかに、なほ醫藥としても使用されてゐますから、醫師諸君はわたくしの講演から、いろいろ有益な知識を汲み取ることがお出來になると思ひます。例へば、もし蠅を煙草入の中に閉ぢ込めて置きますと、必ず死んでしまひます。それは恐らく神經衰弱のためと想像せられます。煙草は主として植物でありまして‥‥えゝ、わたくしが講演をやります時、よく右の眼をぱちぱちさせますが、どうかそんなことに氣をお留めなさらんやう、お願ひいたします。これは興奮のためなのであります。わたくしは概して頗る神經質な人間でありますが、この瞬きをするやうになつたのは、千八百八十九年九月十三日、卽ちわたくしの妻が、そのう、四番目の娘のヷルヷーラを分娩した當日のことであります。宅の娘はみんな十三日に出産したのであります。尤も(時計な見る)時間の餘裕が充分ありませんから、本題から離れるのは止めにいたしませう。ちよつとお斷りして置きますが、妻は音樂學校と女子寄宿舍を經營してをります。なに、寄宿舍といふ程でもありませんが、ま、ま、さう言つた風なものであります。大きな聲では申されませんけれど、妻は收入不足を溢すのが十八番ですが、しかし少し許り臍繰りを隱してをります。左樣、四萬か五萬くらゐはありませう。ところが、わたしと來たら、一哥も持つてやしません――それこそ鐚錢一枚ないんですからな――いや、こんなことを言つたつて始りませんよ! わたしは寄宿舍で會計係を受け持つてゐます。つまり食料品を買つたり、雇人の監督をしたり、支出をつけたり、生徒の手帖を綴ぢたり、南京蟲を退治したり、妻の狆を散步につれて出たり、鼠を退治したりするのです‥‥現に昨日の晩などは、炊事の女に麥粉とバタを出してやるのが、わたくしの役目になつてゐました。薄餅(プリン)を拵へなければならなかつたからです。そこで、手つとり早く申しますと、今日薄餅(プリン)がもうすつかり燒けた時、妻が臺所へ來て申しますには、寄宿生のうち三人は、扁桃腺を腫らしてゐるから、薄餅を食べさせてはならない、とかう言ふんです。そこで、つまり幾つか餘計な薄餅(プリン)が燒上がつた譯です。一體そいつをどうしたらいゝんでせう? 妻は初め穴藏へ持つて行くやうに吩咐ましたが、その後さんざん首を捻つた擧句、『えゝこの薄餅(プリン)を自分で食つてしまふがいゝ、間拔野郎!』と言ひました。妻はいつも機嫌の惡い時、わたしのことを間拔野郎とか、頓痴奇とか、鬼とか言つて呼ぶんです。ねえ一體わたしが鬼と見えますか? 妻はいつも機嫌が惡いのですよ。そこで、わたしは食べてしまつた、と云はうより碌々嚙みもしないで、丸呑みにして了ひました。何しろ、いつも腹が滅つてゐるもんですからね。現に昨日なんかも、妻はわたしに飯を食はしてくれないんです。『この間拔野郎、お前のやうな者を養つてやる譯がない。』と言ひましてな‥‥しかし(時計を見る)わたしは少し饒舌を弄しすぎて、少し本題を離れたやうです。さつきの續きを申し上げませう。尤も、無論あなた方はこんな講話よりも、何かの小唄か、洒落たシンフォニイか、それともこんな風な小歌曲(アリヤ)でも聞きたいとお思ひになるでせうな‥‥(唄ふ)『われ等は激しき戰ひの、そのさ中にも瞬きもせじ‥‥』えゝと、これは何の曲にあつたのか、はつきり覺えてゐませんな‥‥時に、申し忘れてをりましたが、妻の經營してゐる音樂學校では、わたしは會計係のほかに、なほ數學、物理、化學、地理、歷史、唱歌練習書(ソルフエージオ)、文學、その他の教授を擔當してをります。ダンスと唱歌と圖畫に對しては特別の料金が要ります。但しダンスと唱歌も、これ亦わたしが教授してゐるのですがね。わが音樂學校は五犬橫町(ピヤサパーチイ)の十三番屋敷にあります。つまり、恐らくそのために、わたしの生涯はかく失敗に終つたのでせう。つまり、わたし達が十三番屋敷に住んでゐるからですな。それに娘達もみんな十三日に生れるし、家の窓の數も十三と來てる‥‥いや、今更愚痴を言つたつて始まりませんて! もし、何かご相談でしたら、妻(さい)はいつでも宅にをります。また學校の規則書も、ご希望でしたら、玄關番が一部三十哥で賣つてをります。(衣囊から幾册かのパンフレットを取り出す)わたくしも、ご希望とあれば、お頒けしてよろしいです。一部三十哥! どなたかご希望の方はありませんか? (間)どなたもございません? ぢや二十哥! (間)いやはや殘念千萬な。左樣、十三番屋敷‥‥全くわたしは何一つ成功しないで、老い込んで老練してしまひました‥‥かうして講演をしてをりますと、見掛けは如何にも愉快さうですが、内心實は、ありつたけの声を出して呶鳴りつけた擧句、どこか世界の果へでも飛んで行きたいやうな氣がするんです‥‥でもお前には娘があるぢやないか、とかう仰つしやるかも知れません‥‥へん娘なんか何でせう? 彼奴らはわたしが何か話をしても、たゞせゝら笑つてるんですからね‥‥妻には娘が七人あります‥‥いや、失禮、どうやら六人らしいです‥‥(勢ひ込んで)七人です!一番頭はアンナと言つて、今年二十七です。一番下は十七になります。諸君!(後ろを振り返る)わたしは不幸な人間で、根つからやくざな馬鹿者になつてしまひましたが、しかし、實のところ、あなた方の前に立つてゐるのは、世間の父親の中でも一等幸福な人間です。實際それはさもあるべきで、わたしもそれ以外に申し上げる言葉がありません。全く皆さんにこの心もちが分つて頂けましたらなあ! わたしは妻と三十三年間一しよに暮しましたが、それはわたしの生涯中もつとも幸福な時代であつたと、かう申し上げることが出來ます。いや、幸福といふ譯でもありませんが、まあ一段にさう言つた風なんです。一口に言へば、この三十三年間は、まるで幸福な一瞬間のやうに流れ去つてしまひましたが、その實くそ食へとでも言ひたいんですよ。(後ろを振り返る)尤も妻はまだ來ないやうです。幸ひあれがこゝにゐないから、何でも好きなことを言つて構ひません‥‥わたしは實に恐ろしいんです‥‥妻が睨みつけると怖くて堪らない。そこでわたしはかう申し上げたいのです、娘達があんなに長く嫁入り出來ないでゐるのは、多分當人達が内氣なせゐだらうと思ひますが、しかし何よりも若い男の目に觸れないのが、一番の原因らしいのです。妻は決して夜會なんかしようとしません。食事にお客を呼ぶことも薩張りないです。何しろ恐ろしく吝嗇(けち)で、怒りつぽくて、やかましい女だもんですから、誰一人うちへ遊びに來る者なんかありやしません。しかし‥‥内緒でお知らせいたしますが、(舞臺端に近寄る)‥‥わたしの妻(さい)の娘は、大祭日の時に叔母さんのナタリヤ・セミョーノヴナの所でご覽になることが出來ます。これは例のレウマチスを病んでゐる婦人で、いつも黃色い著物を著て步いとりますが、その著物は一面に黑いぽつぽつがついてゐて、まるで油蟲でもぶち撒けたやうな風なんです。この叔母さんの家では、ちよいとした料理も出ます。妻がゐない時には、こいつも飮(や)ることが出來ます‥‥(自分の頰を指でぽんと彈く)ちよつとお斷りしておきますが、わたしは杯一ぱいだけで醉つ拂ひます。そしてそのために、何とも言へないほどいゝ心持でもあり、また同時に淋しくて堪らなくもあるのです。なぜか若い時のことが思ひ出されて、なぜか逃げだしたくなるんです。あゝ、それがどんなに切ない心持か、迚もあなた方にはお分りにならんでせうなあ! (夢中になつて)逃げだすんです、何もかもうつちやらかして、後をも見ずに逃げだすんです‥‥どこへ? どこだつて構やしません‥‥たゞこのやくざな、安つぽい、俗な生活から脱れさへすればいゝ、わたしをみじめな、老い耄れの馬鹿者にしてしまつた生活から逃げだすんです。三十三年間わたしをいじめ拔いた、あの低能で淺薄な、意地の惡い、惡い、惡い、慾張婆の妻の傍から逃げだすんです。音樂や、臺所や、妻の臍くりや、さうした一切の俗な下らない事から脱れるんです‥‥そしてどこか遠い野中に立ち止つて、廣い大空の下で木か、柱か、それとも大きな案山子にでもなつて、自分の頭の上に明るい月が靜かに懸かつてゐるのを、一晩中じいつと眺めつくしながら、何もかも忘れたいんです、すつかり忘れたいんです‥‥あゝ、わたしは本當に何一つ覺えてゐたくない! 三十年前、結婚式の時に使つた、この俗な古ぼけた燕尾服を、どんなに自分の體から搔き毟りたいと思つてゐるか、所詮あなた方にやお分りにならんでせう‥‥(燕尾服を引き毟る)わたしはいつもこいつを著て、慈善の目的で講演をやつたもんだが‥‥かうしてくれる! (燕尾服を踏みにじる)かうしてくれる! わたしは老い耄れて、みじめな憐むべき人間だ、丁度背のすり切れた著古したこの胴衣と同じやうに‥‥(背を向けて見せる)わたしはもう何もいりません! わたしはこんなものよりずつと純潔で、ずつと高尚なんです。わたしも曾て以前は若々しくつて、大學で勉強したこともあります。空想したこともあります。自分を人間だと思つたこともあります‥‥しかし今は、もう何も要りません! 休息よりほか‥‥休息よりほかには何も要りません! (脇の方をちらと見て急いで燕尾服を著る)しかし樂屋の方に妻が立つてゐます‥‥今やつて來て、あすこでわたしを待つてゐるんです‥‥(時計を見る)もう時間が來ました‥‥もし妻が訊いたら、どうかお願ひですから、さう言つて下さい‥‥講演は中々面白かつた、そして‥‥案山子、ではない、わたしの態度は堂々たるものであつたとね。(脇を向いて咳拂ひする)妻はこちらを見てゐます…(聲を高めて)只今わたしの申し上げました通り、煙草は恐るべき毒素を含有してをりますので、その點から出發いたしまして、如何なる場合にも喫煙を許すわけにはゆかんといふ、結論に到達するのであります。右の次第でありまして、『煙草の害に就いて』と題するわたしの講演も、何等かの益を世に齎すであらうことを、敢て自負する次第であります。これでわたくしの言はんと欲するところは盡きました。Dixi et animan levavi(言ふべきことを言ひ終つて心濶然たり)

  會釋して堂々と退場。

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「雨夜の怪」

 

 雨夜の怪

 平忠盛の遭遇した兩夜の怪は「平家物語」祇園女御の事の條に出てゐる。五月雨の夜の御堂のほとりから現れた怪物は、頭は白銀の針を磨き立てたやうにきらめき、片手には槌のやうなものを持ち、片手には光るものを持つてゐた。これはまことの鬼と思はれる、手に持つたのは打出の小槌であらうといふことになつて、昔時北面の下﨟であつた忠盛に退治することを命ぜられた。忠盛がその樣子を見るのに、さして恐ろしいものとも思はれぬ。多分狐か狸の仕業であらう。これを射殺したり斬つたりしたところで仕方がない。同じ事なら生け捕りにしようと考へて步み寄るほどに、怪物は或間隔を置いてさつと光り、またさつと光ること二三度であつた。走り寄つてむづと組んだ時、こはいかにと騷いだので、變化(へんげ)のものでないことが明かになつた。灯をともして見れば六十ばかりの法師で、佛にみあかしを奉るため、片手には油を入れた手瓶(てがめ)を持ち、片手には土器に火を入れて持つてゐた。雨が頻りに降るので、麥藁を編んだものを被つてゐたのが、土器(かはらけ)の火にかがやいて白銀の針の如く見えたのであつた。

[やぶちゃん注:以上は、「平家物語」の「卷六」の「祇園(ぎをん)の女御(にようご)」の冒頭で、かの、清盛白河上皇落胤説を語る枕として出る話である。

   *

 ふるき人の申しけるは、淸盛公は忠盛が子にはあらず、まことは白河の院の御子なり。そのゆゑは、去(さん)ぬる永久のころ、「祇園の女御」と聞えて、さいはひの人おはしき。くだんの女房み給ひける所は、東山のふもと、祇園(ぎをん)の邊にてぞありける。白河の院、つねは御幸(ごかう)ありけり。あるとき、殿上人一兩人、北面少々召具して、しのびの御幸ありしに、ころは五月二十日あまりの夕空のことなれば、目ざせども知らぬ闇にてあり、五月雨(さみだれ)さへかきくもり、まことに申すばかりなく暗かりけるに、この女房の宿所ちかく御堂あり。御堂のそばに、大きなる光りもの出で來たる。かしらは銀(しろかね)の針をみがきたてたるやうにきらめき、左右(さう)の手とおぼしきをさし上げたるが、片手には槌(つち)の樣(やう)なるものを持ち、片手には光るものをぞ持ちたりける。君(きみ)、も臣(しん)も、

「あなおそろしや。まことの鬼(おに)とおぼゆるなり。持ちたるものは、聞ゆる打出(うちで)の小槌(こづち)なるべし。こは、いかがせん。」

とさわがせましますところに、忠盛、そのころ、北面の下﨟(げらふ)にて供奉(ぐぶ)したりけるを、召して、

「このうちに、なんぢぞあるらん。あの光りもの、行きむかひて、射も殺し、切りも殺しなんや。」

と仰せければ、かしこまつて承り、行きてむかふ。

 内々(ないない)思ひけるは、

「このもの、さしもたけきものとは見えず。狐・狸なんどにてぞあらん。これを射もとどめ、切りもとどめたらんは、世に念(ねん)なかるべし。[やぶちゃん注:全く以って思慮がなく、やり過ぎである。]生捕(いけどり)にせん。」

と思ひて步み寄る。とばかりあつては[やぶちゃん注:暫く間を置いては。]、ざつとは光り、とばかりあつては、ざつと光り、二、三度したるを、忠盛、走り寄りて、むず、と、組む。組まれて、このもの、

「いかに。」

と、さわぐ。変化(へんげ)のものにてはなかりけり。はや、人にてぞありける。そのとき、上下(じやうげ)、手々(てんで)に火をともし、御覽あるに、齡(よはひ)六十ばかりの法師なり。たとへば、御堂の承仕(じようじ)法師[やぶちゃん注:寺院の堂舎の清掃や灯火・香華及び一般仏具の管理等の雑用を勤めた下級僧。]にてありけるが、御(み)あかし參らせんとて、手瓶(てびやう)[やぶちゃん注:携帯用の取っ手のついた瓶(びん)。]といふものに油(あぶら)を入れて持ち、片手には土器(かはらけ)に火(ひ)を入れてぞ持ちたりける。

「雨は降る、濡れじ。」

とて、頭(かしら)には小麥(こむぎ)のわらをひき結び、かつぎたり。土器の火に、小麥のわらが、かがやきて、銀(しろがね)の針の樣(やう)には見えけるなり。事(こと)の體(てい)、いちいちにあらはれぬ。

 君、御感(ぎよかん)、なのめならず、

「これを射も殺し、切りも殺したらんには、いかに念(ねん)なからん[やぶちゃん注:どんなにか、非情なる仕打ちであったろうに。]。忠盛がふるまひこそ、思慮、ふかけれ。弓矢とる身は、やさしかりけり。」

とて、その勸賞(くわんしやう)に、さしも[やぶちゃん注:あれほどまで。]御最愛と聞えし祇園の女御を、忠盛にこそ、賜はりけれ。

 されば、この女房、院の御子(みこ)をはらみたてまつりしかば、「生(う)めらん子(こ)、女子(によし)ならば朕(ちん)が子にせん、もし、男子(なんし)ならば忠盛が子にして弓矢とる身にしたてよ。」

と仰せけるに、すなはち、男(なんし)を生めり。[やぶちゃん注:以下、略。]

   *] 

 

「夷堅志」にある雨夜の怪は蔡州の學堂の寄宿舍にゐる學生達で、夜どこかへ遊びに行つて、夜中に歸らうとすると驟雨が降り出した。當時の草堂の制度は極めて嚴重で、外泊などは決して許されぬ。雨具を持たぬ彼等は酒屋まで引返して、單(ひとへ)への衾(ふすま)を借り出した。その衾の四隅を竹で支へ、大勢が下に入つて駈けて來たところ、草堂の近くになつて夜𢌞りが松明(たいまつ)を持つて來るのに出遇つた。學生達は見付けられては大變だから皆立ちすくむ。兩者の距離は二十餘步ぐらゐのものであつたが、夜𢌞りの方が急に步を囘して、あとをも見ずに走り去つた。學生達はその間に牆を乘り越えて草堂に歸り、内心びくびくものでゐると、翌日夜𢌞りの邏卒が府廰に出てかういふ申し立てをした。昨夜大雨の最中にこれこれのところで、北の方から怪物が現れた、上は四角で平たい筵のやうではつきりわからぬが、その下に凡そ二三十の足の如きものがあり、人のやうにぞろぞろ步いて來て、草堂の牆のあたりで消えた、といふのである。役人達には如何なる怪物か想像も付かなかつたが、この時はぱつとひろがつて、大きな怪物が出現する風説が高くなり、町々では厄拂ひの祈禱を行つたり、怪物の繪姿を畫いて神社の前で磔(はりつけ)にしたりするに至つた。

[やぶちゃん注:「囘して」「めぐらして」。

「牆」「かきね」。

「邏卒」「らそつ」。警備兵。

 以上は「夷堅志」の「夷堅丙志」にある以下。

   *

呂安老尚書、少時入蔡州學、同舍生七八人。黃昏潛出游。中夕乃還。忽驟雨傾注。而無雨具。是時學制崇嚴。又未嘗謁告。不敢外宿。旋於酒家假單布衾。以竹揭其四角。負之而趨。將及學墻。東望巡邏者。持火炬傳呼而來。大恐。相距二十餘步。未敢前。邏卒忽反走。不復回顧。於是得踰墻而入。終昔惴惴。以為必彰露。且獲譴屏斥矣。明日兵官申府雲、昨二更後大雨正作。出巡至某處。忽異物從北來。其上四平如席。模糊不可辯。其下謖謖如人行。約有三二十只。漸近學墻乃不見。郡守以下。莫能測爲何物。邦人口相傳。皆以爲巨怪。講於官。每坊各建禳災道場三晝夜。繪其狀。祠而磔之。然則前史所謂席帽行籌之妖。也殆此類也。尚書之子虛己説。

   * 

 

 この二つの話はいづれも疑心暗鬼を生じたものであるが、實際かういふものに遭遇したら、驚く方が當然であらう。「化物の正體見たり枯尾花」などと云つて澄ましてゐるのは局外の批評家で、彼等は怪に直面せぬから、えらさうなことを云ふのである。吾々としてはこの場合、雨夜といふものが怪を助けてゐる點を看過しがたい。

 江戸時代の番町といふと、何か怪談に緣のある土地のやうな氣がするが、秋雨の降りしきる夜、相番から急用を申し來つたので、供を一人連れた武士が番町馬場の近所を通りかゝつた。折から雨は愈愈大降りになつて、前後の往來も全く絶えてゐる。提燈を消されまいとして、桐油(とうゆ)の陰にして歩いて行つたが、道端に一人の女のうづくまつてゐるのが見える。傘も笠も持たず、合羽のやうなものを著てゐるので、慥かに女と見極めたわけでもない。如何にも不審な樣子であるから、供の者が、あれは何でせう、よく見屆けませうか、と云つたほどであつた。そんな必要はない、と答へて行き過ぎようとした時、提燈を待つた足輕體の者が二人、脇道から現れた、そのあとについて、もと來た道を引返し、女のうづくまつてゐたところを見たが、もう何もゐなかつた。四方打開けた場所なので、何方へ行く筈もないと云ひながら、そのまゝ用事を濟ませ、歸つて自宅の門を入らうとする頃になつて、頻りに惡寒(をかん)を覺える。翌日から瘧(おこり)のやうな症狀になつて二十日ほど苦しんだ。供に連れた者も同樣であつたから、雨中に妖魅の氣に冒されたものかと「耳囊」に出てゐる。

[やぶちゃん注:以上は「耳囊 卷之四 番町にて奇物に逢ふ事」である。リンク先の私の電子化訳注で、どうぞ。]

 

 兵しこの話は雨夜の道にうづくまる怪しい女を見たといふだけで、それが直ちに瘧の原因をなしたかどうかは斷定しにくいところがある。「平家物語」や「夷堅志」の話に比べれば、一步怪に近付いてゐることは慥かであるが、眞の怪には多少の距離があると見なければならぬ。それが「怪談老の杖」の一話になると、純然たる妖異譚である。麹町十二丁目に住む大黑屋長助の下人に、權助といふ十七八の男があつた。或時大久保百人町まで手紙を持つて行き、返事を取つて歸る頃は、もう暮方になつて強い雨が降つてゐる。傘をさして歩いて來る前を、一人の女がずぶ濡れになつて行くので、傘へお入りなさいと聲をかけたまではよかつたが、その女の顏を見れば、口は耳まで裂け、髮をかつ捌いた化物である。權助はあつと云つて倒れたのを、そのうちに人が見付け、土地の者が立ち合つて吟味したら、懷ろに一通の手紙を持つてゐる。先づその宛名の百人町の人のところへ知らせ、氣付け藥を飮ませたりして、漸く正氣に復した。どうして氣を失つたのかと尋ねると、右の顚末を話したので、駕籠に乘せて迭り歸したが、よくよく恐ろしかつたと見えて、上下の齒が悉く缺けてしまつた。それから阿呆のやうになり、間もなく死んださうである。大久保新田近所には狐が居つて、夜に入れば人をたぶらかすといふ話であつた。

[やぶちゃん注:「怪談老の杖」のそれは「卷二」の「狐鬼女に化し話」である。以下に示す。所持する「新燕石十種 第五巻」に載るものを、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像を視認して以下に正字化して示す。踊り字「〱」「〲」は正字化した。

   *

麹町十二丁目大黑屋長助といふ者の下人に、權助とて十七八の小僕あり、或時大窪百人町の御組まで手紙をもちて行、返事を取りて歸りけり、はや暮に及び、しかも雨つよくふりければ、傘をさし來りけるに、先へ立て女のづぶぬれにて行ありければ、傘へはいりて御出被ㇾ成よ、と聲をかけて立より、其女の顏をみれば、口耳のきわまでさけて、髮かつさばきたるばけ物なり、あつといふて、卽座にたふれ絶入けり、その内に人見つけて、たをれものありとて、所のものなど立合ひ吟味しければ、手紙あり、まづ百人町のあて名の處へ人を遣はしければ、さきの人、近所など出合ひて、氣つけを用ひ、なにゆへ氣を失ひし、と尋ねければ、右のあらましを語りしを、駕にのせ、麹町へおくり返しぬ、よくよく恐ろしかりしとみへて、上下の齒ことごとくかけけり、夫よりあほうの樣になりて、間もなく死にたり、大久保新田近所にはきつねありて、夜に入れば、人をあやなすといへり、

   *] 

 

 この話はいつ頃の事かわからぬが、「文化祕筆」に從へば、文政二年四月二十七日の夜、水戸侯の大鼓打山本勝之助が酒井若狹守の上屋敷前で化物に逢つたことになつてゐる。勝之助は女房に禁ぜられてゐた酒を出先きで飮み過し、雨の中を歸る途中、酒井家の門前でころんで泥だらけになつたので、女房の手前工合が惡く、化物に逢つて命からがら歸つたと話した。女房はそれを眞に受けて、翌朝稽古に來た弟子に話す。今更譃とも云はれなくなつて、まことしやかに話し、圖まで畫いて見せた。「文化祕筆」にあるのは、その寫しらしいが、傘の中に大きな口をあいた、異形な女の姿が畫いてある。髮も捌き髮であるし、「怪談老の杖」の記載と相通ずる點が多い。けれども場所も違ひ、出逢つた人物も違ふ。或は前にこんな話が傳はつてゐたのを、當座の譃に用ゐたのかもわからぬ。

[やぶちゃん注:「文化祕筆」著者不詳。所持しないので提示出来ない。

「文政二年」一八一九年。

 この章、総体の怪異性が低空飛行で、つまらぬ。]

 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その12)

 

[やぶちゃん注:★定本ではここにかなり長い一章(所持する新潮文庫版で十頁相当分に及ぶ)が加筆挿入されている。★以下の、アスタリスク欠損はママ。]

    *    *

      *    *    *

 その晩ではなかつたが、或る雨の晴れた晩であった。大きな圓い月が、あの丘の上から、舞臺の背景のせり出しのやうにのつそり昇つて來たことがあつた。

 その晩は犬が二疋ともはげしく吠えた。

 彼は、それらの犬どもを遊ばせるつもりで庭へ出た。庭からまた外へ出た。

 月は殆んど中天に昇つて居た。遠い水車の音が、コットン、コットン、コットン、と野面を渡つてひびいて來た。彼は彼の家の前の道を、幾度も幾度も往つたり來たりして步いた。二疋の犬は彼の影について、二疋で互にふざけ合ひながら、嬉々として戲れて居た。彼は立ちどまつた。水のせせらぎに耳をかたむけた。路の傍に、彼の立つて居る足の下に、細い水が月の光を碎きながら流れて居る。ふと、南の丘の向う側の方を、KからHへ行く十時何分かの終列車が、月夜の世界の一角をとどろかせ、搖がせて通り過ぎた。その音が暫く聞かれた。この時、もの音が懷しかつた。月の光で晝間のやうに明るい、野面を越えて、彼は南の丘の方へ目を向けた。‥‥今、物音の聞えたところ、丘の向う側には素晴らしく賑やかな大都會がある……其處には、家家の窓から灯が、きらきらと簇つて輝いて居る‥‥、彼は不意に何の連絡もなく、遠い汽車のひびきを聞いただけで、突然、そんな空想が湧き上つた。そういへば、一瞬間、ほんの一瞬間、その丘のうしろの空が、一面に、無數の灯の餘映か何かのやうに、ぽつと赤くなつた‥‥かと思うと、すぐに消えた。それは實際神祕な瞬間であつた。

[やぶちゃん注:「KからH」当時の横浜線の東神奈川駅と八王子駅であろう。孰れも「Hとなることから「東」を省略してイニシャルとしたものであろう。

「簇つて」「むらがつて」。

「丘の向う側には素晴らしく賑やかな大都會」横浜。]

 「俺は都會に對するノスタルジアを起して居るな?」

 彼は、さう思ひながら、その丘から目をそらした。見ると彼の立つ居る一筋の路の向ふから、黑い人影が彼の方へ步いて來た。その人影が、一聲高く口笛を吹いた。すると彼の犬は二疋とも、疾風のやうな勢で、その人影の方へ驅け出した。それが彼には非常に不愉快であつた。これらの犬は彼、卽ち犬どもの主人の呼ぶ時より外には、今まで決して他の人の方へは行かうとはしなかつたからである。それがその夜に限つて、この一聲の口笛を聞くと、飛ぶやうに馳け出す。

 彼は或る狼狽をもつて、口笛を吹いた。犬をよび返すためである。彼の口笛を聞くと、犬も氣がついたらしく慌てて彼の方へ引き返した。

 「フラテ!」

 人影はそう言つて、犬の名を呼んだ。

 「フラテ!」

 彼も慌てて、同じく犬の名を呼んだ。彼の叫んだ聲は、ちやうどあの人影の聲とそつくりであつた。さうして直ぐに同し言葉を呼び返したために、彼の聲は、ちやうど人影の聲の山彥のやうに響いた。二つの聲は、この言ひ現し難い類似をもつて全く同一なものだと感じさした。それを犬でさへもさう聞いたに相違ない。一旦、馳け出した犬は、人影を慕うて行つて歸つて來なかつた。

[やぶちゃん注:「同し」ママ。定本は「同じ」であるが、訂さない。

「感じさした」ママ。訂さない。]

 彼は呆然と路の上に立つて、その人影を確めやうと眼を睜つた、人影は、路から野面の方へ田の畔をでも傳うらしく、石地藏のあるあたりから折れ曲つた。さうして!

[やぶちゃん注:「睜つた」「みはつた」。]

 何といふ不思議であらう! その人影は、明るい月夜のなかで、目を遮るものもない野原のなかで、忽然と形が見えなくなつた!

 「あつ」と叫び聲を、口のなかに嚙み殺して、彼は家の門へ、家のなかへ、一散に驅け込んだ。「‥‥この村では誰も俺の犬の名を覺えて居る筈はないのだ。たとひ、名を呼ばれても、俺の犬は俺以外の人間の方へ行く筈はないのだ。たとひ、行くとしても、俺が呼び返せばきつと俺の方へ歸つてくる筈なのだ。今までこんなことは一度もない」彼は一人でさう考へた「‥‥それにあの人影は何だつて、不意にかき消すやうに見えなくなつたのであらう? ‥‥若しや、あの時俺が、この俺自身の同一人が二人の人間に別れたのではなからうか? 離魂病といふ病氣はほんとうにある事であらうか? 若しさうだとすると、俺は、若しや離魂病にかかつて居るのではなからうか? 犬といふものは物音をききわけるのには微妙な能力を持つて居なければならない筈だ、わけて主人の聲はちやんと聞き別ける筈だ‥‥」

[やぶちゃん注:段落の頭は底本でも定本でも一字下げとなってない。しかし、このここまでの底本の前例に徴するならば、ここは一字下げであるべきである。特異的に私の判断で一字空けた。序でに言っておくと、その後の『‥‥この村では』で始まる「 」部分は底本では、やはり、行頭にある。これは前の行が目一杯でそうなっているのであるが、私は当初、ここも改行なのではないかと疑った。しかし定本でも偶然同じ現象によって、やはり行頭にある。従ってここを改行するのは如何なる正当的理由もないことになる。しかもこの以下の心内語が、前の「あつ」という感嘆詞からダイレクトに繫がる心理的連続体であることを考えれば、改行によってその流れを崩してしまうのは上手くないと考えて連続させた。

「離魂病」ここでは、古くから信じられた、魂(たましい)が肉体から離れて今一人の全く同じ姿の人間になると考えられた病気、「影(かげ)の病い」のこと。西洋の「ドッペルゲンガー」(ドイツ語:Doppelgänger:「自己像幻視」「二重身」)と同じで、死や厄災を受ける凶兆とされたことは言うまでもあるまい。西洋の文学作品では枚挙に暇がないが、私ならまず、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(William Wilson 一八三九年)だ。本邦のものは現象としては古文にも出はするものの、そこに絞って描き切ったものは少ない。近代では私は鎌倉を舞台とした泉鏡花の「星あかり」(明治三一(一八九八)年八月『太陽』に「みだれ橋」)を真っ先に挙げる(サイト鏡花鏡」にあるPDF版をお薦めする)。佐藤春夫と同時代で盟友でもあった芥川龍之介は晩年、自分自身、実際に自分のドッペルゲンガーを見たと何度か告白しており、小説「二つの手紙」(同作は「青空文庫」ので読める(新字新仮名))でも「ドッペルゲンゲル」を扱っている。面白いのは、芥川龍之介の「二つの手紙」は

大正六(一九一七)年九月に『黒潮』に発表したもの

であり、この『黒潮』という雑誌は奇しくも、現行の「田園の憂鬱」として知られる作品の冒頭五節四十枚相当が

「病める薔薇」と題して発表された雑誌(大正六(一九一七)年六月)

であり、しかも、

その「病める薔薇」続稿五十枚の掲載を拒否した雑誌

である点である。さらに、佐藤春夫は、破棄された後半と同じ題材を含む、

「田園の憂鬱」を完成させて大正七年九月に『中外』に発表

している。そうして、先の「病める薔薇」をさらに改作して、この「田園の憂鬱」と繫ぎ合わせ、

『病める薔薇 或いは「田園の憂鬱」』と題し、天佑社から大正七(一九一八)年十一月二十八日に刊行した作品集「病める薔薇」の第二篇として本作を出版

したのである。佐藤春夫が芥川龍之介と親しくなったのは大正六(一九一七)年で、この発表経緯を見ると、まさに佐藤春夫と芥川龍之介が極めて共時的にドッペルゲンガーを素材としていることが判るのである。実に面白い!]

 彼の心臟の劇しい鼓動は、二十分間の以上もつづいた。彼は時計の針を見守りながら、離魂病のさまざまな文學的記錄や、或は犬のことなどを考へつづけて、心臟の鎭まる時間を待つて居た。

 翌日の朝になつて、彼は妻に向つて、昨夜の出來事を話した。彼はその夜のうちはそれを人に話すだけの餘裕もないほど怖ろしかつたからである。この話を聞いた彼の妻は、可笑しがつて笑つた。突然、人影が見えなくなつたといふのは、犬が足もとまで懷いて來たために、誰かその人が、犬の頭を撫でてやるので、身を屈めたに相違ない。そのためにその人は稻の穗にかくれて形が見えなかつたのであらう、と彼の妻は、その事を然う解釋した。成程、それが適當な解釋らしい、と彼も考へた。併し、その瞬間に感じた奇異な恐怖は、その說明によつて消されはしなかつた。

[やぶちゃん注:「然う」「さう(そう)」。]

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その11)

 

    *    *    * 

      *    *    *

 ここに一つの丘があつた。

 彼の家の緣側から見るとき、庭の松の枝と櫻の枝とは互に兩方から突き出して交り合ひ、そこに穹窿形の空間が出來て、その樹々の枝と葉とが作るアアチ形の曲線は、生垣の頭の眞直ぐな直線で下から受け支へられて居た。言はばそれらが綠の枠をつくつて居た。額緣であつた。それの空間の底から、その丘は、程遠くの方に見えるのであつた。

[やぶちゃん注:「穹窿形」「きゆうりゆう(きゅうりゅう)けい」弓形・半球状のもの、円みをつけた天井のようなものを指す語で、後の「アアチ形」という形容は、いらぬ屋上屋の表現である。]

 彼は何時、初めてこの丘を見出したのであらう。兎に角、この丘が彼の目をひいた。さうして彼はこの丘を非常に好きになつて居た。長い陰氣な雨の日の每日每日、彼の沈んだ瞳を人生の憂悶からそむけて度每に、彼の瞳にうつうのは、その丘であつた。

 その丘は、わけても、彼の庭の樹々の枝と葉とが形作つたあの穹窿形の額緣をとほして見る時に、自づと一つの別天地のやうな趣があつた。丁度いい位に程遠くで、さうして現實よりは夢幻的で、夢幻よりは現實的で、また雨の濃淡によつて、或る時にはやや近く、或る時にはやや遠くに感じられた。或る時にはすりガラスを透して見るやうにほのかであつた。

 丘はどこか女の脇腹の感じに似て居た。のんびりとした感情をもつてうねつて居る優雅な、思ひ思ひな方向へ走つて居る無數の曲線の集合から出來上つた一つの立體形であつた。さうして、あの綠色の額緣のなかへきちんと收まつて、譬へば、最も發端と大團圓とがしつくりと照應できる物語のやうに、その景色は美しくも、少しの無理もなくまとまつて居た。それはどこかに古代希臘風な彫刻のやうに、沈靜な美をゆつたりと湛へて居た。丘の頂には雜木林があつて、その木は何れも、彼の立つて居る場所からは一寸か五寸位かに見える。それらの林の空と接する凹凸には、言ふべからざるリヅムがあつて、それの少しばかり不足して居るかと思へるところには、家の草屋根が一つ、それの單調を補うて居る。さうして、その豐にもち上つた綠の天鵞絨のやうな橫腹には、數百本の縱の筋が、互に規則的な距離をへだてて、平行に、その丘の斜面の上を、上から下の方へ弓形に走りおりて、くつきりとした縞を描き出して居た。綠色の縞瑪瑙の切斷面である。それは多分杉か檜か何かの苗畑であるからであらう。この丘をかくまでに繪畫的に、裝飾風に見せて居るには、この自然のなかの些細な人工性が、期せずして、それのために最も著しい効果を示して居るのであつた、それは見て居て優しく懷しかつた。

[やぶちゃん注:「裝飾風に見せて居るには、」ここは定本では「裝飾風に見せて居るのには、」と「の」が入っている。脱字の可能性が疑われるが、ママとした。]

 「何をそんなに見つめて居らつしやるの?」

 彼の妻が彼に尋ねる。

 「うん。あの丘だよ。あの丘なのだがね。」

 「あれがどうしたの?」

 「どうもしない‥‥綺麗ぢやないか。何とも言へない‥‥」

 「さうね。何だか着物のやうだわ。」

 この丘は澁い好みの御召の着物を着て居ると、彼の妻は思つて居る。

 それは綠色ばかりで描かれた單色畫であつた。しかしこのモノクロオムは、すべての優秀なそれと全く同じやうに、殆んど無限な色彩をその單色のなかに含ませて居た。さうして見て居れば見て居るほど、それの豐富が湧き出した。一見ただ綠色の一かたまりであつて、併もそれは部分部分に應じて千差萬別の綠色であつた。そうしてそれが動かし難い三の色調を織り出して居た。譬へば、一つの綠玉が、ただそれ自身の綠色を基調にして、併し、それの磨かれた一つ一つの面に應じて、各々相異つた色と効果とを生み出して居る有樣にも似て居た。

 彼の瞳は、常に喜んで其の丘の上で休息をして居る。

 「透明な心を! 透明な心を!」

 その丘は、彼の瞳にむかつて、さうものを言ひかけた。

 或る日。その日は前夜からぱつたり雨が止んで、その日も朝からうすぐもりであつた。やがて正午前には、雲に滲んで太陽の形さへ、かすかながら空の奧底から卵色に見え出した。

 彼の妻は、秋の着物の用意に言寄せて、東京へ行つて來ようと言ひ出した。彼の女は空の天氣を案ずるよりも、夫の天氣の變らないうちにと、早い晝飯をすませると、每夜の憧れである東京へ、あたふたと出かけた。心は恐らく體よりも三時間も早く東京へ着いたに相違ない。

 彼は、唯ひとりぼんやりと、緣側に立つて、見るともなしに、日頃の目のやり場であるあの丘を眺めて居た。その時その丘は、何となく全體の趣が常とは違つて居ることに、彼は氣づいた。それはどうもただ天氣の光だけではないのである。けれどもその原因は少しも解らなかつた。と見こう見して居るうちに、彼はやつと思ひ出して、机のひき出しから眼鏡を搜し出した。彼は可なりひどい近眼でありながら、近頃は折々、眼鏡をかけることさへ忘れて居るのであつた。何ごともしない近頃の彼には眼鏡も殆んど用がなくなつて居たから。さうして、つひ眼鏡をかけずに居ることが、彼を一層神經衰弱にさせて居ることにも氣づかずに。

[やぶちゃん注:「と見こう見」「とみこうみ」但し、歴史的仮名遣としては「とみかうみ」が正しい「左見右見」と漢字を当てたりもする。あっちを見たり、こっちを見たりすること、あちこち様子を窺うこと。]

 眼鏡をかけて見ると、天地は全く別個のものに見え出した。今日は天地の間に何かよろこびのやうなものを見ることが出來た。空が明るいからである。丘ははつきりと見えた。成程、丘はいつもと違つて見える――丘の雜木林の上には鳥が群れて居た。うすれ日を上から浴びて、丘の橫腹は、その凹凸が研ぎ出されたやうな丸味を見せて、滑らかに綠金に光つて居る。苗木の畑である數百本の立縞――成程、違つて居るのは其處だ、その立縞の縞と縞との間の地面をよく見ると、その左の方の一角を要(かなめ)にして、上に開いた扇形に、三角に、何時もの地面の綠色が、どういふわけか、黑い紫色に變つて居るのである。はて!何時の間にこんなに變つたのであらう?何のために變つたのであらう?彼は、實に不思議でならない氣持がした。彼は世にも珍らしい大事が突發したかのやうに、しばらくその丘の上を凝視した。その丘は、彼には或るフエアリイ・ランドのやうに思はれた。美しく、小さく、さうして今日はその上にも不可思議をさへ持つて居る。

[やぶちゃん注:「フエアリイ・ランド」fairyland。妖精の国。]

 かうして暫く見つづけて居ると、その丘の表面の紫色と綠色との境目のところが、ひとりでにむくむくと持ち上つて、その紫色の領分が、自然と少しづつ延び擴がつて行くのであつた。尙も瞳を見据えると――さうすると眉と眉との間が少し痛かつたが――其處には、小さな小さな一寸法師が居て、腰をかがめては蠢動しながら、せつせとその綠色(みどりいろ)を收穫して居るのであつた。あの苗木と苗木とのの列の間に、農夫が何かを作つて置いて居たのであらう。併し、見た目には、その農作物が刈りとられて居るといふよりも、紫色の土が今むくむくと持ち上つてくるとしか、彼の目には感じられなかつた。

[やぶちゃん注:「蠢動」「しゆんどう(しゅんどう)」虫などがうごめくこと。また、物がもぞもぞと動くこと。

「あの苗木と苗木とのの列の間に」の「の」のダブりはママ。ママとする。定本は「あの苗木と苗木との列の間に」。]

 彼は不可思議な遠眼鏡の底を覗いて、其の中にフエアリイ・ランドのフエアリイが仕事をして居るのをでも見るやうに、この小さな丘に或る超越的な心持を起しながら、ちやうど子供が百色目鏡を覗き込んだやうに、目じろぎもせず眺め入つた。彼は煙草盆と座布團とを緣側まで持ち出して、このひとりでに持ち上る土の紫色を飽かず凝視した。紫色の土は湧くやうに持ち上る。あとから、あとからと持ち上る。紫色の領土が、綠色の領土を見る見る片はじから侵略して行く。

[やぶちゃん注:「百色目鏡」「まんげきやう(まんげきょう)」と読みたくなるが、ここはルビを振らない以上、「ひやくいろめがね」である。意味は万華鏡である。そんな読み方が不審な方は、国立国会図書館デジタルコレクションの明治二一(一八八八)年刊の刑部真琴(桜東小史)著「手工遊戲」のをご覧あれ。]

 うすれ日は段々、と明るくなつて空が晴れて來る。不意に夕日の光が、雲の細い隙間から流れ出て、その丘の上へ色彩のあるフツトライトを投げたかのやうに、丘が一面に可が輝き出す。丘の上ではフエアリイも、雜木林も、永い濃い影を地に曳いた。今もち上つたばかりの紫色の土は、何か一齊に叫び出しでもしさうに見える。丘の頂の雜木林のなかに見える草屋根からは、濃い白い煙が、縷々と、ちやうど香爐の煙のやうに立ち昇つて居た。さうして彼は今、うつとりとなつて、フエアリイ・ランドの王であつた。

[やぶちゃん注:「フツトライト」footlights。舞台の床の前縁に取り付けて演技者を足元から照らす照明。]

 その天地の榮光は、一瞬時の夢のやうに、夕日は雲にかくれて、次には遠い連山と一層黑い雲とのなかへ落ちて行つた。

 氣がついてみると、丘は全部紫色に變つて居る‥‥見とれて居るうちに、あたりは何時しかとつぷりと暗くなつて居た。フエアリイ・ランドの丘だけが、依然として、闇のなかにくつきりと見えるやうに思ふ。

 やがて、その丘も見えなくなつた‥‥‥‥

[やぶちゃん注:前段落の「とつぷり」の傍点は底本では「とつぷ」にしか振られていないが、おかしいので、定本に従った。同じく前段落の「フエアリイ・ランド」は底本では「フエアリイ・ライド」であるが、誤植と断じて、訂した。無論、定本も「フエアリイ・ランド」となっている。]

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その10)

 

    *    *    * 

      *    *    *

 雨は、一日小降りになつたかと思へば、その次の日には前よりももう一層ひどく降る。さて、その次の日にはまた小降りになる。併し、その次の次の日にはまた降りしきる‥‥けれども、間歇的な雨は何日まででも降る……。幾日でも、幾日でも降る。彼の心身を腐らせやうとして降る‥‥世界そのものを腐らせやうとして降る……

[やぶちゃん注:底本はこれで終わっているが、定本ではここ以下に続いて(行空けは無し)二字下げ分かち書きの、

  何もかも腐れ……、

      腐るなら腐れ……、

  勝手に腐れ……、

      腐れ腐れ……、

  お前の頭が……、

      まつさきに腐れ……、

  …………………………、

      …………………………、

   …………………………、

      …………………………、

   …………………………、

      …………………………、

という韻文めいた特異な十二行が続いた上、やはり行空け無しで三文からなる独立段落の散文部分が、その後附されて、終わっている。] 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その9)

 

    *    *    * 

      *    *    *

 こんな日頃に、ただ深夜ばかりが、彼に慰安と落着きとを與へた。雞の居ない夜だけ、鎖から放して置くことにした犬が、今ごろ、田の畦をでも元氣よく跳びまはつて居るかと想像することが、寢床のなかで彼をのびのびした氣持にした。併し或る夜であつた。家の外から彼の家を喚ぶものがあつた。未だ机の前に坐りこんで、考へに壓えつけられて居た彼は、緣側の戶を開けて見ると、一人の黑い男が、生垣と渠との向ふの道の上に立つて居た。さうしてその何者かが彼に向つて、橫柄に呼びかけた。巡査かも知れない、と彼は思つた。

 「これやあ君の家の犬だらう。」

 「さうだ。何故だい。」

 「これやあ、怖くつて通れんわい。」

 その村位、犬を恐怖する村は、先づ世界中にないと、彼は思つた。この附近には、狂犬が非常に多いからだと村の一人が說明して居た。それに彼の犬の一疋は純粹の日本犬であつた。

 「大丈夫だよ。形は怖いが、おとなしい犬だから。」

 「何が大丈夫だい。怖くつて通れもしない。」

 「狂犬ぢやないよ。吠えもしないぢやないか。」

 「飼つて居る者はさうでも、飼はんものにはおつかない。ちょつと出て來て、繫いだらどうだい。」

 この何者かの非常に橫柄な口調は、其奴が闇で覆面して居るからだと思ふと、彼は非常に憤ろしかつた。彼はいきなり其處にあつた杖をとると、傘もささずに道の方へ飛び出した。雨は糠ほどより降つていない。その知らない男は、何かまだぐづぐづ言つて居た。さうしてどうしてもこの犬を繫げ、それでなければ俺は通れぬ、と言ひ張つた。可笑しいほど犬を恐れながら、可笑しいほど一人で威張つて居た。「これは優しい犬だ、未だ子供だから人懷しがつて通る人の傍へ行くのだ」と彼は犬のために辯護した。彼にとつては、今、犬は無辜の民である。その男は暴君である。彼自身は義民であつた。その男の言ふことが一々理不盡に思へた彼は、果は大聲でその男を罵つた。彼の妻は何事かと緣側へ出て來たが、この樣子を見ると、暗のなかの通行人に向つてしきりに詫びて居た。彼にはそれが又腹立しかつた。

 「默つていろ。卑屈な奴だ、謝る事はない。犬が惡いのぢやないぞ。この男が臆病なんだ。子供や泥棒ぢやあるまいし‥‥」

 「何、泥棒だと。」

 「お前を泥棒だと言やしないよ。音無しく尾を振つて居る犬をそんなに怖がる奴は泥棒見たいだと言つただけだ。」

 彼は、しまひには、その男を毆りつけるつもりであつた。彼等は五六間を距てて口爭ひして居た。其處へ、見知らない男の後から一つの提灯が來た。それがその男に向つて何か言つて居たが、提灯は彼の方へ近づいて來た。奴等は棒組だな、と彼は卽座にさう思つた。若し傍へ來て何か言つたら、と彼は杖をとり直して身構へした。

 「どうぞ堪忍してやつて下さいましよ。親爺やお酒をくらつて居るんでさ。」

 その提灯の男は、反つて彼に謝つて居たのだ。彼は相手が醉つぱらいであつたと知れると、急に自分が馬鹿げて來た。併し、彼は笑へもしなかつた。その時或る說明しがたい心持で、彼は身構へて把つて居た自分の杖をふり上げると、自分の前で何事も知らずに尾を振つて居る自分の犬を、彼は强(した)たかに打ち下した。犬は不意を打たれて、けん、けん、と叫びながら家のなかへ逃げ込む。打たれない犬もつづいて逃込む。彼は呆然とそこに立つて居たが、舌打をして、その杖を渠のなかへたたきつけると、すたすたと家へ這入つて行つた。犬は床下深く身を匿して居た。杖を捨てても未だ握つて居た彼の掌は、ねちこちと汗ばんで居た。

 「今に見ろ。村の者を集めてあの犬を打殺してやらあ!」醉漢はそんな事を言ひながら、提灯をもつた若い男に連れられて通り去つた。

[やぶちゃん注:「雞の居ない夜だけ、鎖から放して置くことにした犬」このシークエンスは現在の読者諸君は想像も及ばぬであろうし、犬好きの私でさえ、この主人公の反論は当時としても絶対的に理不尽であるとは思う(但し、その異様な主人公の偏頗性は作者が主人公に賦与した厭世性・厭人癖の確信犯でもある)。しかし、私は小学校低学年の頃(昭和三九(一九六四)年から翌年)、今いる場所で、エルという柴犬の雑種を飼っていたが、母は夜になると、鎖を外して放してやっていた。朝になると小屋に自ずと戻って来ていた。当時の牛乳屋さんの話では、大船の町まで下りて、そこの野犬を配下としたボスとなってハバを利かせていたらしい。エルは一度として人に咬みついたことのない優しい雄犬だったが、「大船の夜の帝王」の別な顔を持っていたものと見える。この子である。

「狂犬」無論、これは単に、「人に咬みつく粗暴な野良犬」の謂いであるが、本作発表時(大正七(一九一八)年十一月)、現在でも最も致死率の高い病気の一つとして後天性免疫不全症候群(エイズ)と並称される、恐るべき狂犬病が未だ国内に有意に存在していた。本邦の狂犬病史をウィキの「狂犬病」で見ておくと(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)、『記録が残る最初の流行は、江戸時代の一七三二年(享保十七年)に長崎で発生した狂犬病が九州、山陽道、東海道、本州東部、東北と日本全国に伝播していったことによる。東北最北端の下北半島まで狂犬病が到着したのが一七六一年(宝暦十一年)のことである』。『一八七三年(明治六年)に長野県で流行したのを最後にしばらく狂犬病被害は途絶えたが、一八八六年(明治十九年)頃から再び狂犬病被害が発生するようになった。一八九二年(明治二十五年)には獣疫豫防法が制定され、狂犬病が法定伝染病に指定されるとともに狂犬の処分に関する費用の国庫負担と飼い主への手当金交付が定められた。しかし狂犬病は一九〇六年(明治三十九年)頃から徐々に全国規模に広がり、特に関東大震災があった一九二三年(大正十二年)から一九二五年(大正十四年)にかけての三年間に大流行し、全国で九千頭以上の犬の感染が確認された』。『一九二二年(大正十一年)には狂犬病になりやすい浮浪犬を駆除すべく家畜傳染病豫防法が制定され』、狂犬病撲滅のための諸『運動が推進された結果、一九二八年(昭和三年)から狂犬病は激減した。しかし』、『大戦末の一九四四年(昭和十九年)から戦後にかけての社会的混乱期に再び大流行しはじめた』。『戦後混乱期には牛、馬、羊、豚など、野犬のみならず家畜にまで狂犬病が拡大した。この危機的状況に対して占領軍は日本政府に狂犬病単独の法律の制定を命じ』、『一九五〇年(昭和二十五年)に狂犬病予防法を制定させた』。『同法の施行により、飼い犬の登録とワクチン接種の義務化、徹底した野犬の駆除によって一九五六年(昭和三十一年)犬、ヒトの感染報告と一九五七年のネコ感染報告後は、狂犬病の発生は確認されていない』とある。狂犬病は『ワクチン接種を受けずに発病した場合は』、殆んど『確実に死に至り、確立した治療法はない』。『南極を除く全ての大陸で感染が確認されて』おり、『流行地域はアジア、南米、アフリカで、全世界では毎年五万人以上が死亡している』。

「大丈夫だよ。形は怖いが、おとなしい犬だから。」自分勝手な愛犬家に限って必ずこう言うものである。三年前、私の三女のアリス(ビーグル。この子)は、飼い主が「うちの子は優しいから咬みません。」と宣うているそばからその連れている柴犬に耳をしたたか嚙まれ、中央の動脈には穴があいて出血が止まらなくなった。急いで連れて行った動物病院では三箇所も縫われ、エリザベス・カラーを装着させられて全治二週間だった。治療費は二万五千円近くになった。しかし、飼い主からはお詫びも見舞いもなかった。その柴犬を連れた散歩者は、今でも、私とアリスの姿を見ると、そそくさと横道にそれるばかりである。

「おつかない」「おっかない」「恐(おっか)ない」である。

「お前を泥棒だと言やしないよ」底本は「お前だ泥棒だと言やしないよ」であるが、誤植と断じて、定本で訂した。

「音無しく」「おとなしく」。

「五六間」九~十一メートル弱。

「棒組」「ぼうぐみ」。相棒・仲間の意。

「反つて彼に謝つて居たのだ」底本は「反つて彼に誤つて居たのだ」である。読み換えるに苦はないが、視認上で躓いてしまうので、定本で訂した。

「打ち下した」「うちおろした」と訓じておく。]

 醉漢のその捨白が、その晩から、彼には非常な心配であつた。村の者が、實際、彼の犬を打殺しはしないかと考へられ出すと、身の上話で泣いて居たあの太つちよの女が、何日か彼に告げた言葉も思ひ出された――「この村では冬になると犬を殺して食ひますよ。御用心なさい、御宅のは若くつて太つて居るから丁度いいなんて、冗談でしせうがそんな事をいつて居ましたよ」

[やぶちゃん注:「捨白」「すてぜりふ」。

「丁度いいなんて」底本は「丁度いいなんで」。誤植と判断して定本で訂した。]

 捨てて仕舞つた杖は、思へば思ふほど、彼には非常に惜しいものであつた。それは唐草模樣の花の彫刻をした銀の握のある杖であつた。別段それほど惜しむに足りるものではないのに、それが彼には不思議なほど惜しまれた。その翌日は、彼は犬を運動させるやうなふりをして、その杖を搜す爲めに、渠の流れに沿うた道を十町以上も下つて見た。あの淸らかであつた渠の水は、每日の雨で徒らに濁り立つて居た。杖は何處にも見出されなかつた。彼は杖を無くした事を、妻にも内緖にして居るのであつた。

[やぶちゃん注:「握」「にぎり」。

「十町以上」一キロメートル以上。]

 杖と醉漢の拾白とが、彼自身でさへ時々は可笑しいばかり氣にかかる。一層、あの時、あの男を撲りつけてやればよかつたに――彼は寢床のなかで、口惜しくてならぬこともあつた‥‥若しや犬がいぢめられて居はしないかと、それを夜中放して置くことが苦勞になり出した。氣を苛立てながら聞耳をそば立てると、犬の悲鳴がする。大急ぎで緣側へ出て戶を開けながら口笛を吹くと、犬は直ぐ何處かから歸つて來る。さうして鳴いて居るのは外の犬であつた。併し、口笛を吹いても名を呼んでも容易に歸つて來ない事がある。さうして一層けたたましく吠えつづける。そんな時には居ても立つても居られない。彼の妻は、あれは家の犬ではないとか、犬は別に何處でも鳴いては居ないとか言つて、初めは彼を相手にはしなかつたけれども、彼があまりやかましくいふので、この妄想は、何時しか妻の方にまで感染した。彼等は呪われて居る者のやうに戰々兢々として居た。その上に、ランプがどうした具合か、每夜、ぼっぼっと小止みなく搖れて、どこをどう直して見ても直らなかつた。彼は自分の不安な心を見るやうにランプの搖れる芯(しん)を凝視して、癇を苛立てて居た。或る夜、ただ事でない鳴き聲がするので、庭に出て見ると、レオはさも急を告げるらしい樣子で彼を見て吠え立てる。遠くの方ではフラテ?の悲鳴が切なく聞えて來る。彼はレオの後に從ひ乍ら、悲鳴をたよりに、フラテ! フラテ! と叫びながら、それの居所を搜し求めるのであつた。やがて歸つて來たフラテを見ると、顏の半面と體とが泥だらけであつた。フラテは泥の上にすりつけられて折檻されて居たのであらう。何處からか凱歌のやうに人の笑聲が聞えて來る‥‥。その夜以來、犬は夜中のただ一二時間だけ放して置いてから、又再び繫ぐことにした。且又、それの鎖の場所を玄關の土間のなかへ變へた――素通りの出來る庭の隅では、たとひ繫いで置いても不用心だからである。しかし繫がれるために呼ばれるのだと知ると、犬は呼んでもなかなか歸つて來なかつた。食物を與へても鎖の傍へならば寄りつかなかつた。鬪犬の子のフラテは、或る夜自分の鎖を眞中から食切つて、四邊の壁から脱けるためには床下の土に大きな穴を開け、鎖の半分は頸にぶらさげて地上を曳きながら、夜中樂しく遊びまはつて居た。それを主人に知らせるために、さうして自分も解放されたいために、レオは激しく鳴き叫んだ。

[やぶちゃん注:「戰々兢々」底本は「戰々競々」。誤字と断じて訂した。

ぼっぼっ」拗音表記は底本のママである。なお、定本では「ぽっぽっ」(同じく傍点「ヽ」附き)である。底本は刊行年が古く、国立国会図書館デジタルコレクションの初期のものでモノクローム画像の粗いものであるため、半濁音か濁音かの区別が難しい。それでも同書の他の箇所の「ぽ」と「ぼ」を拡大して検鏡してみたところ、印影から見て、これは濁音「ぼ」ではなく半濁音「ぽ」であると鑑定した。何故、拘るかと言えば、わたしは「ぼっぼっ」ではなく「ぽっぽっ」のオノマトペイアの方が、このランプの炎の不調なシーンに相応しいと思うからである。

「鎖の傍へならば」「傍へ」「かたへ(かたえ)」。食い物を置いたのが、鎖の傍らへ、であった場合には、の意。

「鬪犬の子のフラテ」先に「彼の犬の一疋は純粹の日本犬であつた」とあった。この場合、ここまでの叙述ではフラテとレオの孰れが「日本犬」なのか判別出来なかったのであるが、「純粹の日本犬」の「鬪犬」だと、土佐犬や秋田犬でかなり大型種で、実際に闘争心も強く、夜間の放し飼いは憚られ、しかも、多勢に無勢とはいえ、犬嫌いの者が意識的に攻撃目的で近寄れば激しく応戦するはずであるから、ここはレオが柴犬などの中型の純粋な日本犬であって、フラテがやや大きな、洋犬でも闘犬に用いる品種の血の濃い雑種(「純粹の日本犬」という謂いは対する一匹が「純粹」種でないことを強く暗示させるから)であると考えた方がよいように思われる。その場合に一つに参考となるのが、底本の冒頭に配された幻想小説西班牙犬の家である。実はこの小説には主人公の飼い犬としてまさに「フラテ」が登場するのであるが、その犬自体は詳述されず、犬種は不明である。しかし、その小説には題名通り、不思議な家に住む西班牙(スペイン)犬が登場する。私はそのスペイン犬を取り敢えず、「スパニッシュ・マスティフ」(Spanish Mastiff)種ではないかと推理した(リンク先の私の冒頭注を参照されたい)。このマスティフ種は西洋に於いて闘犬競技に用いられる代表種である。私は「フラテ」という名からも(既注。キリシタン用語でイタリア語の「兄弟」に由来する)、本作の方のフラテは洋犬のマスティフ種の雑種なのではないかと感じている。但し、マスティフ種では例えばボクサーが知られるが、実は土佐犬も和犬の四国犬にマスティフ種を掛け合わせて作られたものであるから、マスティフ種の強い土佐犬系の血を引く「フラテ」であっても問題はない。]

 彼は、犬に對する夜中の心配を晝間に考へ直すことがあつたが、これはどうも一種の强迫觀念だと氣づかずには居られなかつた。犬だつて自分の力で自分を保護することは知つて居るだらう‥‥。さうして、犬のことなどをばかり考へて居る自分が、恥しくも情けなかつた。けれども夜になると、矢張り「俺の犬は盜まれる、殺される!きつとだ!」今では、犬は彼にとつてただ犬ではなかつた――何か或る象徴であつた。愛するといふ事はそれで苦しむといふ事であつた。杖のこともなかなか忘れられなかつた。大の心配のない時には、銀金具の把りのある杖が、頭の方だけ少し沈みながら、濁つた渠のなかを、流れのまにまに、何處かを、さうして涯しのない遠いところへ持つて行かれるために流れて行くところを、彼は屢々寢床のなかで空想して居た。

[やぶちゃん注:「强迫觀念」ある特定の論理的には不合理性が高いと自己認識している考えや無意味な理念が、自分の意志に反して繰り返し絶えず浮かび、否定して除去しようとしても取り除くことが出来ない心理状態。不安感を伴い、概ね自覚的にも病的と感じられるような見当識があることが多い(ない場合は強度の強迫神経症や統合失調症などの初期症状である可能性も出てくる)。なお、現行の定本ではここが「脅迫觀念」となっているが、これはとんでもない誤りである。この未定稿の方が正しい。] 

2017/05/04

南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅

 

 また那智にありし厳冬の一日、小生単衣(ひとえ)に繩の帯して一の滝の下に岩を砕き地衣(こけ)を集むるところへ、背広服をきたる船のボーイごときもの来たり、怪しみ何をするかと問う。それよりいろいろ話すに、この人は蘭を集めることを好み、外国通いの船にのり諸国に通うに、到る所下宿に蘭類を集めありという。奇なことに思い、小生の宿へつれゆき一時間ばかり話せり。それが小畔四郎氏にて、そのころようやく船の事務長になりしほどなり。同氏勝浦港へ去つてのち、小生面白き人と思い、せめて一、二日留めて話さんと、走り追うて井関という所より人力車にのり、勝浦に着せしときはちょうど出船後なりし。そのとき、小畔氏すでに立ちしか否を船会場へ小生のために見にゆきし中野才二郎(今年三十八歳)という和歌浦生れのものが、このごろ強盗となりて大阪辺を荒らし数日前捕われし由、昨日の『大毎』紙に見えるも奇事なり。それよりのち、時々中絶せしことなきにあらざるも、小畔氏が海外航路から内地駐在に落ち着いてのちは絶えず通信し、その同郷の友、上松蓊(うえまつしげる)氏も、小畔氏の紹介で文通の友となり、種々この二氏の芳情により学問を進め得たること多し。

[やぶちゃん注:「小畔四郎」南方熊楠の粘菌研究の高弟。既出既注。まさにこのシーンこそがその邂逅の瞬間。

「井関」現在の和歌山県東牟婁郡那智勝浦町井関。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「船会場」読みも意味も不詳。「ふなかいば」か。現在の港湾管理事務所のようなものか。識者の御教授を乞う。

「中野才二郎」不詳。

「上松蓊」(明治八(一八七五)年~昭和三三(一九五八)年)については、サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説が詳しい、というか、他に事蹟資料が少ないので、こちらから大々的に引用させて戴く。彼の『経歴は、熊楠の手記によれば新潟県長岡出身で、初期の衆議院副議長を務めた安部井磐根の猶子で、立教大学卒業後、古河鉱業に入社、四十歳前で門司支店長で退職し、東京で製紙会社を経営していたが関東大震災で焼失したという』。『薬草や香道に詳しく、書を能くし、一九二六年、熊楠一門の摂政宮への粘菌標本献上にあたっては、その表啓文(邦字)を上松が浄書した』。『上松が熊楠の名を知ったのは、少年期に雑誌掲載の熊楠のものを読んだことにあるようで、没後間もなく紀伊新報社での座談会「南方先生を偲ぶ」では』、『南方先生が偉くなられたので人に知られるやうになりましたが、私はあまり偉くないころから知ってゐた。私が十三の時南方先生は二十一歳でしたろうか、その頃北隆館から少年苑(園?)といふ雑誌が出ていた。これを読んでいると南方先生が「紀州のある地方ではシャボテンを培養してゐるが、これに臙脂(えんじ)虫を養ふことが出来る。あれは国益になる。元来メキシコとかブラジルとかいふところでないと養へないとされてゐるのだが紀州でもやれる筈だ。大倉喜八郎はお上のお蔭で巨富を積むことが出来た。お上のためなら全財産を使ってもよいといってゐるので、これの国益になることを説明し、緋ラシャなどといふ高いものを買はずとも日本でも十分この虫から染料を取って染めることが出来るのだから、四、五万円出さぬか、と云ってやったところ、大倉はその金を出さない。あれはくちほどにないつまらぬ奴だ」といふ意味の事を書いていた。これを読んだ私は、何といふ素晴らしいことだ、と思ってゐた』。『と話している』。但し、実際には『直接の交流は同郷の友人である小畔四郎の紹介によるもので、現存の上松宛熊楠書簡の最初が一九一四年(大正三)十二月九日付であることから、上松四十歳、東京で会社の経営を始めた時期からであろう。この頃の上松宛熊楠書簡に「ラオーンは売れ行き如何に候や。薬剤にして奇効あるもの小生も心当り少なからぬが、ただ心当りのみでみずからこれを製出するひまなきには困り入り候」(大正六年十月二十七日付)と見えるので、本草を応用した薬品会社を経営した時期があったのかもしれぬ』。上松宛熊楠書簡を『読むと、交際のはじめから、上松は熊楠の手足となってよく尽くしている。筆記具、顕微鏡、書籍の購入、それに十二支に関する原稿の売り込み』にまで及んでおり、『こうした上松の世話に対し』、『熊楠は、「小生貴下と面識もなきに、多年いろいろと御世話下され候ことは感佩(かんぱい)に余りあり。何とも御礼の致し方なし」(大正八年九月十六日付)として、以後書簡のたびに一章一句でも思いついたことを書きつけて差し上げるから、小生生存中は秘翫し、死後はいかようにも利用しても結構だ、と認めている』とあり、『上松はまた、熊楠との交流を通じて植物学、ことに菌・粘菌に関心を深め、コッコデルマ・ウエマツイなど新種の粘菌を採集し、小畔四郎、平沼大三郎らと共に熊楠門の三羽烏と称せられた』とある。]

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅷ」パート

 

   Ⅷ

 

[やぶちゃん注:「世界の黎明をみる者におくる詩」は二行目の「からす」への傍点「ヽ」がない。]

 

[やぶちゃん注:「自分は此の黎明を感じてゐる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「偉大なもの」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:強者の詩は「からすや雀も一しよであるのか」の傍点「ヽ」がない。]

 

 

[やぶちゃん注:病める者へ贈物としての詩は異同なし。]

 

 

[やぶちゃん注:或る日曜日の詩は異同なし。]

 

 

 

 朝の詩

 

しののめのお濠端に立ち

お濠に張りつめた

氷をみつめる此の氣持

此のすがすがしさよ

硝子(がらす)のやうな手でひつつかんだ

石ころ一つ

その石ころに全身の力をこめて

なげつけた氷の上

石ころはきよろきよろと

小鳥のやうにさえずつてすべつた

おお太陽!

此の氣持で

人間の街へ飛びこまう

 

[やぶちゃん注:朝の詩初版の三行目の「硝子(ぐらす)」のルビが「硝子(がらす)」に変わっている。また、初版の「小鳥のやうにさへずつてすべつた」が「小鳥のやうにさえずつてすべつた」になっており、歴史的仮名遣は「さへづつて」が正しいから、改版は誤りを増やしてしまっている。更に初版の「(おお太陽!)」の丸括弧は改版では存在しないし、次行の「おお此の氣持で」の頭の「おお」も除去されている。決定打は最終行「あの石ころのやうに」がカットされていることである。歴史的仮名遣の誤りの増加は痛いが、詩篇全体としては整理されて、氷のようにキン引き締まった響きがあり、太陽の温もりを持って「街へ飛びこ」もうとする詩人の魂が直喩の煩わしさから解放されていると私は感じる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:大風の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:農夫の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:人間の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:姙婦を頌する詩は初版の第一連と第二連が連続して一連になっている。個人的には、朗読しても、流れの内在律から言っても、繋げるのはいただけない。初版がよい。]

 

[やぶちゃん注:妹におくるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:十字架は初版の最終行「主よ、人間のこの強さを‥‥」のリーダが除去されている。ここは毅然として終わらねばならぬと私は思うので、リーダがない改版版を支持する。]

 

[やぶちゃん注:鞴祭の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:鴉祭の詩は「ほぢくる」が「ほじくる」に正されてある。]

 

[やぶちゃん注:初版でここにある貧者の詩改版ではカットされている。]

 

[やぶちゃん注:「單純な朝餐」は異同なし。初版の第三連三行目の「みろ」(独立二字一行)が「みよ」に変えられある。また、「ひもじさをじつと耐えて」の「じつと」が「ぢつと」に表記変更されている。なお、歴史的仮名遣をとる過去の有名な作家の中には、しばしば確かに「ぢつと」「凝(ぢ)つと」「(凝(ぢつ)と」表記する者が有意にいるのであるが、ここは「ぢ」ではなく「じ」で正しい。また、初版で独立した連(一行)となっている「此の食卓に祝福あれ!」が第三連の末行になってしまい、全体が三連構成に変更されてしまっている。この最後の変更については、私は断然、初版を支持する。]

 

甲子夜話卷之四 12 白熊

 

4-12 白熊

下野を領する御旗本衆の村長、白熊の子を捕て養置しが、今年三歳なりとて、その地頭の屋敷に持來れるを見し人の物語に、大さは狗の大ぶりなるほどなり。總體純白にて、月の輪計黑毛なりとなり。

■やぶちゃんの呟き

 食肉目イヌ型亜目クマ下目クマ小目クマ科クマ属ツキノワグマ Ursus thibetanus のアルビノと考えてよいと思うが、その場合、胸部の三日月形或いはV字形の白い斑紋部(正常個体でもこれがない個体もいる)だけが逆に黒いというのは嘘臭いというか、嘘である。或いは飼い主が墨塗りしたんではあるまいか? なお、ツキノワグマのアルビノは実際に本邦にいる!。例えば、個人ブログ「クマにあいたい☆」の「ミナシロ」によれば、『ミナシロとは、全身真っ白なツキノワグマでミナグロ(全身真っ黒)と一緒で胸に月の輪がなく、マタギの間では 神の使いとして伝えられていて、絶対に獲ってはならないとされている』とあり、『実際、ミナシロはツキノワグマのアルビノ個体らしいのだ』が、『全国的にも珍しいこのクマが、岩手県の北上山系では』百年以上前から『ちょくちょく目撃されて』いると記す。実際に、その剥製が「遠野市民センター」に現存するとあって、ブログ主はそれに逢いに行った。現在は『傷みがひどいので』十年ほど『前から展示してないらし』いが(当該記事は二〇〇七年八月二十四日投稿のもの)、学芸員の案内で特別に『収蔵室に連れて行って』貰い、現物を見た(記事中に写真有り!)。記されたデータによれば、このアルビノ個体は昭和四五(一九八〇)年五月二十八日に『遠野市の国道で捕獲』されたもので、♀で推定三歳、捕獲時の体重は五十五キログラムとある。『当時の関係者はこれをツキノワグマだと思わなかったそうで、剥製業者も北極グマのように仕立ててしまったらし』いという(学芸員の談話)。『日焼けして毛が黄色くなってしまったけれど、月の輪は確かに無い。ツメも真っ白。目と鼻はピンクだった』と観察を記しておられる。また学芸員によれば、『岩手県内にあと』二体の『ミナシロの剥製があるらしく』、『一つは住田町の公民館という噂で』、『もう一つは県立博物館に保管されているらしい』とある。しかし、『これまでちょくちょく目撃例のあったミナシロ君』も『最近は目撃されてない』らしいともある。さらに、『アルビノ個体は遺伝子異常によるものとされている』が、『なぜ北上山系に多いのかという理由』として、『奥羽山系と隔絶された立地条件により個体群の近親交配などによるものではないかと言われて』いたと記し、「『それが、近頃目撃されないってコトは』『生態系が回復しているってこと?』『だったらいいんだけど』……」と期待を述べられた上、平成一二(二〇〇〇)年の『農林水産省の調査では』『奥羽山系と北上山系のツキノワグマでは骨格の作りが違うことがわかって』おり、『分析の結果によると奥羽のクマは北上に比べて①上あごや鼻骨が長くて②上あごの幅や両目の感覚は短いという傾向があるらしい』という情報も与えて呉れた。感謝!

 しかし、嬉しいことに! 今も「ミナシロ」はいるらしいぞ! サイト「信州ツキノワグマ研究会」このサイト自体が必読!)の中の、岩手大学大学院連合農学研究科の斉藤正恵氏の「白いけもの考(3)~<特別寄稿>しろいツキノワグマ「パンダ」のご紹介~」(リンク先に茨城県自然博物館の「クマの企画展(熊~森のアンブレラ種~)」に展示された剥製写真有り!)によると(二〇〇八年十二月十八日の記事)、冒頭から、『岩手県の北上高地で行動追跡を行なっているアルビノのツキノワグマについてご紹介します』と始まるからだ! そこで語られているアルビノ個体は二〇〇二年『生まれのようです。それからクマ関係者による捕獲作戦が始まり』、二〇〇四年『の夏にようやく捕獲されました。捕獲してくれたハンターの菊地さんは、パンチメタル式の捕獲ワナのなかにいる背中は黒く腹が白い動物を見て、思わず「パンダだ!」と叫んだそうです。そんなことからこの白いクマは「パンダ」と名づけられました。パンダはメスで』、体重は三十五キログラムほどで、『この個体はとてもおっとりとした性格のようで、人が近づいてもそれほど威嚇もせず、ワナの中で仰向けになって寝たり、でんぐり返しをしていました。そのせいで背中だけ真っ黒になっていたのでしょうか。パンダの目は赤く、鼻や肌のほか肉球はピンク色で、典型的なアルビノ個体の特徴を有していました。あの特有のクマ臭さもなく、ダニなどもほとんどついていませんでした』とあり、『電波発信機をつけて放獣し、パンダの行動追跡が始まりました。私が以前追跡していたメス個体と同様に、パンダは捕獲された集落付近のいわゆる里山で一年中生活していました』。そうして、二年後の二〇〇六年の初夏に再びこの「パンダ」が再捕獲された、とあるのである。『あの得意のでんぐり返しで私たちを出迎えてくれました。パンダの体重は』四十二キログラム『になっており、この年に出産した形跡が見受けられたものの』、『すでに乳は出ませんでした。子供はどうしてしまったのでしょうか・・。現在、この個体の追跡は後輩が行なっていますが、パンダは今も北上高地の里山で暮らしています』とあるのである! また、『ところで余談ですが、北上高地ではこれまで数頭のアルビノ個体が確認されています。過去の新聞をみると、狩猟された白いツキノワグマとその黒いコグマの写真が掲載されています。また、県内の博物館にはアルビノ個体の剥製も所蔵されています。ところが』、『剥製職人さんがホッキョクグマと勘違いしたらしく、ちょっとツキノワグマらしからぬ姿になっています』とある。以下、二〇〇三年五月十日附『岩手日報』朝刊の『岩手の白いクマが遺伝子調査』という記事が示されてある。以下、その記事。『岩手県内の北上山地では過去約』四十年間で六例も『白いクマが確認され、非常に頻度が高い。これらのツキノワグマは、色素を作ることができない遺伝子を両親から受け継いだアルビノ固体(白子体)と考えられる。同じ岩手県内でも奥羽山系では白いクマは確認されておらず、全国的にもほとんど例がない。岩手県内のツキノワグマの推定生息数は約』千『頭にすぎないので、北上山地でのアルビノ固体の頻度は非常に高い。盛岡市厨川の独立行政法人森林総合研究所東北支所は、「生息地が分断されている」、「奥羽山地など他のクマとの交流が無くなった」等によって、近親交配の可能性があると推測、遺伝子調査を始めることになった。県内各地で保存されている「白いクマ」の剥製の体毛や頭骨などからデオキシリボ核酸(DNA)を抽出し、アルビノ個体の確認、近親交配の有無などを分析する予定』とある(下線やぶちゃん)。「ミナシロ」よ! 永遠なれ!!!

「村長」「むらをさ」。

「捕て」「とりて」。

「養置しが」「やしなひおきしが」。

「今年三歳なり」捕獲から三年であるから三歳以上と考えるべきである。なお、ネット上の情報では、ツキノワグマの平均寿命は野生状態で二十四年、飼育下では三十三年生きた個体もいるとする。

「狗」「いぬ」。

「總體」「さうたい」。全身。

「計」「ばかり」。

 

柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2) /「難病治癒」~了



 この話は名醫の異疾治療譚ではあるが、奇譚の中に分類すべきものかどうか疑問である。妖氣などは少しもない。倂し「異疾志」の中の「王布女」になると、同じく鼻の病ひでありながら、明かに奇譚の領域に入つて來る。或は神異譚と云つた方がいゝかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「異疾志」唐の段成式の撰の、一応、医学書(として本邦では読まれた)。しかし私の調べた限りでは、「王布女」は同じ段の「酉陽雜俎」の「卷一 天咫」の以下である。「酉陽雜俎」は彼の著作の寄せ集めでもあるから問題はないか。

   *

永貞年、東市百姓王布、知書、藏鏹千萬、商旅多賓之。有女年十四五、艷麗聰晤、鼻兩孔各垂息肉、如皂莢子、其根如麻線、長寸許、觸之痛入心髓。其父破錢數百萬治之、不差。忽一日、有梵僧乞食、因問布、「知君女有異疾、可一見、吾能止之。」。布被問大喜、卽見其女。僧乃取藥、色正白、吹其鼻中。少頃、摘去之、出少黃水、都無所苦。布賞之白金、梵僧曰、「吾修道之人、不受厚施、唯乞此息肉。」。遂珍重而去、行疾如飛、布亦意其賢聖也。計僧去五六坊、復有一少年、美如冠玉、騎白馬、遂扣門曰、「適有胡僧到無。」。布遽延入、具述胡僧事。其人吁嗟不悅、曰、「馬小踠足、竟後此僧。」。布驚異、詰其故、曰、「上帝失藥神二人、近知藏於君女鼻中。我天人也、奉帝命來取、不意此僧先取之、吾當獲譴矣。」。布方作禮、舉首而失。

   *

以下の梗概にも出る「皂莢子」(現代仮名遣音「ソウキョウシ」)で「皂莢」は和訓で「さいかち」であるから「皂莢子」は当て訓するなら「さいかちのみ」である(但し、柴田は恐らくは以下の本文では、ただ「さいかち」と読ませるつもりであろうと私は思う)。マメ目マメ科ジャケツイバラ(蛇結茨)亜科サイカチ属サイカチ Gleditsia japonica の種子で、これは生薬として去痰・利尿薬として用い、また、また、サポニンを多く含むことから、古えより洗剤として使われてきた歴史がある。また豆はオハジキとして子供の玩具にも用いられた。]

 

 王布といふのもやはり富豪で、病人は娘ではあるが、年の頃十四五とある。二つの鼻孔に肉が垂れて阜莢子のやうになり、その根が麻紐の如きもの一寸ばかり、これに觸れると痛みが心髓に入るといふのだから、前の病人と似たものであらう。父親は數百萬銀を治療に贊したが、少しも癒えぬ。然るに或日一飯を乞ひに來た僧があつて、お宅のお孃樣が不思議な病氣にかゝつて居らるゝさうなが、わしに見せて下されば、きつと癒して進ぜる、と云ひ出した。閭丘胤を訪れた豐干と同じ申分である。王布は大いによろこんで、早速診察を乞ふ。僧は眞白な藥を取り出して鼻の中に吹き込み、暫くしてから阜莢子の如き鼻孔の肉を簡單に摘出し去つた。中からは黃色の水が少し出たばかりで、何の苦痛も殘らぬ。王布は歡喜に堪へず、百金を以て酬いようとしたが、僧はかぶりを振つて受け取らぬ。自分は道を修める者であるから、左樣な多額の謝禮は受けられない、たゞこの摘出した肉がいただければ、それで十分です、と云つたかと思ふと、飛ぶが如くにどこかへ行つてしまつた。話はこゝで神異譚に近づくのである。

[やぶちゃん注:「閭丘胤を訪れた豐干」閭丘胤(りょきゅういん(現代仮名遣))は唐の玄宗の頃の政治家で「寒山子詩集序」の作者とされる。「豐干」(ぶかん 経歴未詳)は唐の禅僧で天台山国清寺に住し、奇行の多い僧として知られ、虎に乗って寺内を巡ったという。かの寒山拾得は彼らの弟子である(「拾得」の名は彼に拾われたことに由来する)。ここのシークエンスは持病の頭痛に悩まされる丘胤を乞食坊主の豊干が清浄な水一杯で快癒させるエピソードで、まんず、森鷗外の「寒山拾得」を読むに若くはない(リンク先は「青空文庫」版。但し、正字正仮名)鷗外は嫌いだが、この掌篇は、いい。特にエンディングが。]

 

 僧がもう五六里は行つたらうかと思はれる頃、一人の美少年が白馬を飛ばしてやつて來た。只今此方にかういふ僧が來なかつたか、といふのである。王布が慌てて内に招じ、僧の事を說明したところ、甚だ悅ばぬ顏色で幾度か嗟嘆し、この馬が蹶いたばかりに、たうとうあの坊主におくれてしまつた、と云ふ。王布にはさつぱりわけがわからぬので、その理由を尋ねたら、上帝が失はれた樂神がそなたの娘の鼻の中に隱れてゐることを近頃知つた、自分は天人で、上帝の命を奉じて取りに來たのだが、あの坊主に先取りされようとは息はなかつた、上帝からどのやうなお叱りを受けるかわからぬ、といふのであつた。王布が叩頭して陳謝の意を表し、首を擧げた時はもう誰もゐなかつた。

[やぶちゃん注:「蹶いた」「つまづいた」であるが、私は「けつまづいた」と訓じたい。]

 

 上帝の失つた藥神とは何者か、それがどうして王布の女の鼻に隱れたか、さういふ事は原本に書いてないのだから一切わからない。卽座に難病を治療して、樂神を拉し去つた坊主なる者も、何か曰くがありさうだが、その邊もすべて不明である。畢竟「集異記」の話は難病治癒譚に了つたのた、「異疾志」の方は治療したあとに大きな問題が殘つてゐる。この話の神異性は擧げて消息不明の點に在ると云はなければならぬ。

 永平年間に司勳張員外なる者があつた。早くより名をあらはし、言論の雄であつたので、同輩には畏憚されて居つたが、その割りに出世は出來なかつた。この人平生あまり舌を揮ひ過ぎた爲か、七十歲になつてから舌腫の病ひにかゝつた。その大なること斗の如しといふのは、支那一流の誇張であらうが、とにかく口の外にはみ出したといふのだから、その大きさは想像に難くない。病ひ甚だ篤く、命旦夕に迫つたので、子弟は額を鳩(あつ)めて評議したけれど、この病ひは古法に錄されて居らず、人の知識の外に在る。特別な術を心得た人を探して治療を乞ふ外はないといふところから、子弟はいろいろな形に變裝し、佛寺道觀等に行つて諸人に病狀を語り、未見の識者に遭遇しようとした。たまたま一人の老僧より、それは業報といふものである。員外を何かに載せて町中の最も人の多い場所へ行き、現狀を示して博く衆智に訴へたら、療法を心得た者がないとも限るまい、と云はれ、直ちにこの方法を執るに一決した。狄梁公の一針を受けた富家の子と同一手段である。司勳を輿に載せて市中に出た時、白髮皓眉(かうび)にして童顏の老叟がこれを見て、自分はこの療法を心得てゐると云つた。子弟等三拜九拜して、何卒よろしくお願ひ申します、と歎願すると、叟は洒然としてこんな事を云つた。わしは宜平門外にある一小宅を欲しいと思ふが、財貨に乏しくて買ふことが出來ぬ、諸君の力であれを買つて貰へまいか、持ち主も久しく賣りたがつてゐる家だから、さう高い事はない、新宅に必要な諸道具を備へ付けても、三十萬ぐらゐあれば足りるだらう、といふのである。子弟は卽座に宜平門外の家を探して買ひ入れる。叟の妻は黑絹を以て頭をつゝみ、紅絹を以て腰を束ね、少しも粉黛を施して居らぬが、光彩人を照らすが如く、年頃十八九ぐらゐにしか見えない。夫妻は新宅に赴いて翌朝司勳の來るのを待つ。諸道具の飾り付けも悉く整つたので、叟もよろこんでゐるうちに、明方近く司勳はこゝに運ばれて來た。叟は妻をして薪を燃し、鹽酪の用意をさせ、子弟等に向つて、あなた方は少し離れて見てゐて貰ひたい、心配して騷がれては困る、と云つた。それから司勳の舌を檢するに、肉腫が舌の根に懸つてゐる。直ちに金刀を以てこれを斷ち、紅い囊から粉藥を出して振りかけた。「その舌重きこと五六斤、叟その妻をして臠(きりて肉を炙(あぶ)らしめ、これを膏滴中に灼かしむ」とあるから、タン料理を連想すればよからう。肉の燒けるに從ひ、香ばしい匂ひが室内に滿ち渡る。その匂ひが司勳の鼻にしみ入つた時、彼ははじめて目を開き、唾を呑み込んだ。老里夫妻は透かさず肉の燒けたのを食べろと云ふ。空腹の彼は立ちどころに全部平げてしまつた。子弟等狂喜して狀を問へば、ここへ連れて來られたことはおぼえてゐるが、その後の事は何もわからぬ、氣が付いた途端にいい匂ひがしたので、急に何か食べたくなつたら、もう今までの苦痛は去つてゐた、と云ひ、今度は餠が食べたいなどと云ふ。病ひは全く癒えたのである。もうこれでよろしい、諸君は司勳に侍してお宅へお歸りなさい、と叟が云ふ。司勳は叟の恩を感謝して、永久に忘れませんと繰り返し禮を述べたが、叟はたゞ、自分の志はこの病ひを治するに在つた、幸ひに平生の願ひを果し得たのだから、何も云ふことはない、と云つたきりであつた。翌朝金帛奴馬の類を叟に獻ずるつもりで皆が來た時は、小宅の門は悉く鎖され、諸道具はそのまゝに置かれてありながら、老叟夫妻の姿はそこに見えなかつた。子弟等歸つてこの事を司勳に告げたところ、擧家號泣して香を焚き、神仙の來つて病ひを治したものと悟つた。「識者曰く、司勳の疾ひは詞多きの咎たらざるを得んや、而もこの疾ひはこれを後の人に誡むるものなり、豈に愼まざらんや」といふのは、この話を傳へた「搜神記」の著者の評語と見るべきであらう。

 

[やぶちゃん注:「洒然」(しやぜん)は、あっさりしていて物事に拘らないさまを言う。

「鹽酪」調味用の塩と、牛馬などの乳を発酵させて作った酸味のある飲み物と解しておく。

「奴馬」「どば」であるが、この「奴」は「日常の乗用や使役に用いるもの」の謂いであろう。

 それにしても、この話、所持する「搜神記」の中には見出せない。個人ブログ「志怪を気まぐれに紹介するブログ」の「舌病の話」に、まさにこの話の現代語訳が載る(最後の評はない)が、そこには出典を「異疾志」とする。不審。識者の御教授を乞う。]

 

「瘡取り」の話は誰も知つた通りの筋であるが、この原話は「宇治拾遺物語」に「鬼にこぶとらるゝ事」として出てゐる。話の主人公である翁の右の頰の瘡は、禪珍内供の鼻に近いものであらう。從つて難病治癒譚に直接關係はないけれど、「打出の小槌」の條に引いた新羅の話と一轉相通ずるところがある。あの話の中で金錐を得て幸福を打ち出したのは兄の方で、それを學んで出かけた弟は、嘗て金錐を盜んだ者と見られて鬼の捕虜になる。汝は我が爲に糠三版を築かんと欲するか、汝の鼻の長さ一丈ならんを欲するか、と鬼のいふうちの糠三版は塘三版だともあるが、いづれにしてもはつきりわからない。弟はその業をなし遂げることが出來ず、象のやうな鼻を付けられて歸つて來た。こゝのところは瘡を取つて貰ふつもりで瘤二つになつた翁にちょつと似てゐる。象のやうな鼻は禪珍内供以上であるが、鼻長譚の中に加へて置いてもよからう。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」「鬼にこぶとらるゝ事」同書の第三話「鬼ニ瘤被取事」である。以下に示す。

   *

 これも今はむかし、右の顏に大なるこぶある翁(おきな)ありけり。大柑子(だいかうじ)の程なり。人に交るに及ばねば[やぶちゃん注:恥ずかしくて人と親しく付き合うことが出来ないでいたので。]、薪をとりて世を過ぐる程に、山へ行きぬ。雨風はしたなくて、歸るにことよはりて、山の中に、心にもあらず泊まりぬ。又[やぶちゃん注:他に。]、木こりもなかりけり。恐ろしさ、すべきかたなし。

 木のうつほのありけるに、這ひ入りて、目もあはず[やぶちゃん注:恐ろしさに目を閉じることも出来ず。]、屈(かが)まりて居(ゐ)たるほどに、はるかより人の音、多くして、とどめき來(きた)る音す。いかにも、山の中に、ただ一人(ひとり)ゐたるに、人のけはひのしければ、少し生き出づる心ちして、見出だしければ、おほかた、やうやう、さまざまなるものども、赤き色には靑き物を着(き)、黑き色には赤き物を褌(たふさぎ)にかき、おほかた、目一つある者あり、口なき者など、おほかた、いかにも言ふべきにもあらぬ者ども、百人ばかり、ひしめき集まりて、火を天の目のごとくに燈して、わが居たるうつほ木の前に居囘りぬ。おほかた、いとどもの思えず。

 むねとあると見ゆる鬼、橫座に居たり。うらうへに二竝びに居なみたる鬼、數を知らず。その姿、おのおの言ひ盡しがたし。酒參らせ、遊ぶありさま、この世の人のする定(ぢやう)なり。たびたび土器(かはらけ)始まりて、むねとの鬼、ことのほかに醉(ゑ)ひたるさまなり。末(すゑ)より若き鬼、一人立ちて、折敷(をしき)をかざして、何と言ふにか、口說きくせせることを言ひて、橫座の鬼の前にねり出でて、口說くめり。橫座の鬼、盃を左の手に持ちて、笑みこだれたるさま、ただこの世の人のごとし。舞ひて入りぬ。次第に下より舞ふ。惡しく、良く舞ふもあり。

『あさまし。』

と見るほどに、この橫座に居たる鬼の言ふやう、

「今宵の御遊びこそ、いつにもすぐれたれ。ただし、さもめづらしからん奏でを見ばや。」

など言ふに、この翁、物の付きたりけるにや、また、しかるべく神佛の思はせ給ひけるにや、

『あはれ、走り出でて舞はばや。』

と思ふを、一度(いちど)は思返しつ。それに、何となく、鬼どもが打ち上げたる拍子の、良げに聞こえければ、

『さもあれ、ただ走り出でて舞ひてん。死なば、さてありなん。』

と思ひ取りて、木のうつほより、烏帽子は鼻に垂れかけたる翁の、腰に斧(よき)といふ木切る物差して、橫座の鬼の居たる前に踊り出でたり。

 この鬼ども、踊り上りて、

「こは、何(なに)ぞ。」

と騷ぎあへり。

 翁、伸び上り、屈まりて、舞ふべきかぎり、すじりもじり、えい聲を出だして、一庭を走り囘り舞ふ。

 橫座の鬼より始めて、集り居たる鬼ども、あさみ、興ず。

 橫座の鬼のいはく、

「多くの年ごろ、この遊びをしつれども、いまだかかるものにこそ會はざりつれ。今よりこの翁、かやうの御遊びに必ず參れ」と言ふ。翁、申すやう、「沙汰に及び候はず。參り候ふべし。このたびは俄(にはか)にて、納めの手も忘れ候ひにたり。かやうに御覽にかなひ候はば、靜かにつかうまつり候はん」と言ふ。橫座の鬼、「いみじく申したり。必ず參るべきなり」と言ふ。

奧の座の三番に居たる鬼、

「この翁は、かくは申し候へども、參らぬことも候はむずらんと思え候ふに、質をや、取らるべく候ふらむ。」

と言ふ。

 橫座の鬼、

「しかるべし、しかるべし。」

と言ひて、

「何をかとるべき。」

と、おのおの言ひ沙汰するに、橫座の鬼の言ふやう、

「かの翁がつらにある、瘤をや取るべき。瘤は福の物なれば、それをぞ、惜しみ思ふらむ。」

と言ふに、翁が言ふやう、

「ただ、目鼻をば召すとも、この瘤は、許し給ひ候はむ。年ごろ、持ちて候ふ物を、ゆゑなく召されむ、ずちなきことに候ひなん。」

と言へば、橫座の鬼、

「かう惜しみ申す物なり。ただ、それを取るべし。」

と言へば、鬼、寄りて、

「さは、取るぞ。」

とて、ねじて引くに、おほかた、痛きことなし。

 さて、

「必ず、このたびの御遊びに參るべし。」

とて、曉に。鳥など鳴きぬれば、鬼ども、歸りぬ。

 翁、顏を探るに、年ごろありし瘤、蹟形(あとかた)もなく、かいのごひたるやうに、つやつやなかりければ、木こらんことも忘れて、家に歸りぬ。

 妻の姥(うば)、

「こは、いかなりつることぞ。」

と問へば、

「しかじか。」

と語る。

「あさましきことかな。」

と言ふ。

 隣にある翁、左の顏に大なる瘤ありけるが、この翁、瘤の失せたるを見て

「こは、いかにして、瘤は失せさせ給ひたるぞ。いづこなる醫師(くすし)の取り申したるぞ。われに傳へ給へ。この瘤、取らん。」

と言ひければ、

「これは、醫師の取りたるにもあらず。しかじかのことありて、鬼の取りたるなり。」

と言ひければ、

「われ、その定(ぢやう)にして、取らん。」

とて、事の次第を細かに問ひければ、敎へつ。

 この翁、言ふままにして、その木のうつほに入りて、待ちければ、まことに聞くやうにして、鬼ども、出で來たり。

 居囘りて、酒、飮み、遊びて、

「いづら、翁は參りたるか。」

と言ひければ、この翁、

『恐し。』

と思ひながら、ゆるぎ出でたれば、鬼ども、

「ここに、翁、參りて候ふ。」

と申せば、橫座の鬼、

「こち、參れ。とく、舞へ。」

と言へば、前(さき)の翁よりは、天骨(てんこつ)もなく、おろおろ、奏でたりければ、橫座の鬼、

「このたびは、惡(わろ)く舞ひたり。かへすがへす、惡し。その取りたりし質(しち)の瘤、返し賜(た)べ。」

と言ひければ、末つ方より、鬼、出で來て、

「質の瘤、返し賜ぶぞ。」

とて、いま片々(かたがた)の顏に投げ付けたりければ、うらうへ[やぶちゃん注:頰の左右両方に。]に、瘤、付きたる翁にこそ、なりたりけれ。

 ものうらやみは、すまじきことなりとぞ。

甲子夜話卷之四 11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事

 

4-11 農夫八彌、夢中に瘤を取らるゝ事

「著聞集」に鬼に瘤を取られたると云こと見ゆ。是は寓言かと思ふに予が領内に正しく斯事あり。肥前國彼杵郡佐世保といふ處に、八彌と云農夫あり。左の腕に瘤あり。大さ橘實の如し。又名切谷と云る山半に小堂あり。觀音の像を置く。坐體にして長一尺許。土人夏夜には必ず相誘てこの堂に納涼す。一夕八彌彼處にいたる。餘人來らず。八彌獨り假睡す。少くして其像を視るに、其長稍のびて、遂に人の立が如し。起て趺坐を離る。八彌が前に來て曰。我汝が病患を銷せん迚、八彌が手を執て、かの瘤をひく。八彌その痛に堪ず、忽驚ざむ。夢なるを知て、見るに瘤なし。人疑ふ、八彌常に大士を信ずるにあらず。亦患を除の願ありしに非ず。然るにこの靈驗あること不可思議なり。かゝれば、昔鬼に瘤を取られしこと寓言とも言がたし。

■やぶちゃんの呟き

「著聞集」「古今著聞集」であるが、知られた〈瘤(こぶ)取り譚〉は該当する話柄がないので、これは先行する「宇治拾遺物語」の誤認と思われる。それは既に『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』そこでは「甲子夜話」の本話も紹介されてある)の私の注で電子化してあるので参照されたい。

「寓言」「ぐうげん」実際には起った事実ではない、創作されたたとえばなし。

「彼杵郡」「そのぎぐん」。

「佐世保」現在の長崎県佐世保市内。

「八彌」「はちや」と読んでおく。

「大さ」「おほきさ」。

「橘實」「たちばなのみ」。バラ亜綱ムクロジ目ミカン科ミカン亜科ミカン属タチバナ Citrus tachibana の果実。現在では酸味が強く、生食には向かないため、砂糖漬けやマーマレードなどの加工品にされる。

「名切谷」「なきりだに」。佐世保市名切ちょう)附近(グーグル・マップ・データ)。同地区のバス停名として現存する。

「云る」「いへる」。

「山半」「やまなかば」と訓じておく。

「小堂あり」「觀音の像を置く」不詳。佐世保市内には静山が再建した福石観音堂なるものが現存するが、位置が違うし、由来にもそれらしい話は出ない((グーグル・マップ・データ))。

「相誘て」「あひさそひて」。

「彼處」「かしこ」。

「假睡」「かりね」と訓じておく。

「少くして」「すこしくして」。

「其長稍のびて」「その丈(たけ)、稍(やや)伸びて」。

「人の立が如し」「ひとのたつがごとし」。

「起て」「おきて」。

「趺坐を離る」「ふざをはなる」。結跏趺坐していた位置から離れて歩いてくる。

「銷せん」「しやうせん」。「消せん」で「治してやろう」の意。

「執て」「とりて」。

「痛」「いたみ」。

「堪ず」「たへず」。

「忽驚ざむ」「たちまちめざむ」。瞬時に目覚めた。

「知て」「しりて」。

「大士」「だいし」。菩薩の意訳。ここはここの観音菩薩のこと。

「患を除」「わづらひをのぞく」。

「願」「ぐわん」。

甲子夜話卷之四 10 享和中、若君樣童相撲上覽の事

 

4-10 享和中、若君樣童相撲上覽の事

享和の初、西城いまだ御幼き時【御年十】、淺草寺に御成、彼處にて童子の相撲上覽あり。其頃奥毉快菴法眼【吉田氏】、予が病を診に來れる次手に問たれば、懷中より童子の名を出して示せり。

[やぶちゃん注:以下、下線(本文で言う「右點」)は底本では、右傍線であって、しかも頭の部分は有意に左方向に反っている。そのように読み換えて戴きたい。]

東方 福 鼠【年十】  西方 山 彦【年十】

   河 鵆【年八】     金 簾【年九】

   神樂岡【年八】 預り  隅田川【年八】

   待乳山【年十二】    初舞臺【年十】

   玉之井【年十】     花 傘【年十】

   呉服鳥【年十二】    朝日山【年十】

   初瀨山【年九】     喜見城【年十】

   汐 衣【年十三】    友 鶴【年十二】

   亂獅子【年十四】    赤兎馬【年十四】

關  龍 王【年十四】    虎 王【年十四】

     重て上覽のとき

   出世奴【年十】     酒中花【年十】

   白 瀧【年十】     大酒盛【年十一】

   舞 扇【年十二】    水 車【年十一】

   玉芙蓉【年九】 無勝負 稻 妻【年十二】

          行司 木村源之助【年十三】

          呼出 追灘金太郎【年九】

右點あるは勝のしるしなり。其時西城の御目付同姓大膳【今伊勢守】、此事を取扱たり。是より聞けり。いかにも御幼稺の御慰には勇ましき御事なりけり。

■やぶちゃんの呟き

 並ぶ四股名は読み方は判らぬ。特異な漢字のみを注した。

「享和」一八〇一年から一八〇四年の三年。

「若君」「享和の初」(はじめ)「西城いまだ御幼き時【御年十】」後の第十二代将軍となる徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)。数え十歳であるから正確な時制は享和二(一八〇二)年に特定出来る。寛政五(一七九三)年に第十一代将軍徳川家斉の次男として江戸城で生まれたが、長兄竹千代が早世したため、将軍継嗣となった。天保八(一八三七)年、四十五歳になってやっと将軍職が譲られたが、それでも家斉が大御所として強大な発言権を保持し続けた(家斉の死は四年後の天保一二(一八四一)年で、それ以後、老中首座であった水野忠邦を重用、旧家斉派を粛清して「天保の改革」を行なわせたが、知られる通り、厳しい綱紀粛正を伴った緊縮財政政策は世間では支持されなかった。言論統制も行ない、高野長英や渡辺崋山などの開明派の蘭学者を弾圧してもいる(蛮社の獄))。

「彼處」「かしこ」。

「奥毉」「おくい」。「奥醫」に同じい。

「快菴法眼【吉田氏】」吉田快庵。生没年不詳乍ら、ネット上の資料にはその名が散見される。

「次手」「ついで」。

「問たれば」「とひたれば」。

「河鵆」「かはちどり(かわちどり)」であろう。

「預り」引き分けの一種ウィキの「相撲)より引く。『文字通り、勝負結果を行司もしくは審判委員が「預かり置く」ことで、物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めない場合などに適用された。日本相撲協会発行の星取表には大正までは「△」の記号で記載されたが、戦後痛み分けが「△」の記号で記載されるようになったため近年作成される星取表にはカタカナで「ア」と表記されることもある。ひとつには、江戸時代の幕内力士は多くが有力大名のお抱えであり、その面子を傷つけないための配慮措置でもあった。記録上は引き分けとしながらも、実際の取組で優勢であった側に、番付編成面で優遇を与える「陰星」(完全に』一『勝扱いにする場合を「丸星」』、半勝半負扱いの時は『「半星」と呼んだ)もあった。特に丸星の場合、星取表の右上の、勝ち数を表記するところに「●」を加えた場合もある』。『大正頃まで、大部屋同士の意地の張り合いや、大坂相撲と東京相撲との対抗心から来るいざこざも多く、これらをなだめる方便としても預り制度は存続した。また、東西制の導入で優勝争いが勝ち星の合計で争われるようになると、自分の側に優位になるようにと控え力士が物言いをつけるケースも多くなり、その対処としての「預り」も増えた』。『昭和の東西合併に伴う規則改正で大正末期に取り直しの制度が設けられたことにより、『勝負預り』は制度としては廃止されたが、昭和以後』、二『度だけ預りが記録されている』。『祭りでの素人相撲大会などでは、決勝戦や結びの一番は、どちらが勝っても必ず「預り」でしめる慣例になっているものも多い。神事としての相撲に豊作凶作を占う意味もあるため、幸不幸が地域内で偏らないようにするためである』とある。

「待乳山」「まつちやま(まっちやま)」。

「喜見城」「きけんじやう(きけんじょう)」であろう。これは須弥山(しゅみせん)の頂上の忉利天(とうりてん)にある帝釈天の居城の名である。七宝で飾られており、庭園では諸天人が遊び戯れるとされる。

「赤兎馬」「せきとば」であろう。「三国志」「三国志演義」などに登場する、名将の騎した名馬、一日に千里を走る駿馬(しゅんめ)の類を指す。「赤」は「汗血馬」の血の色とも、「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意ともされる

「關」大関。相撲では明治中期まで大関が最高位であった。

「無勝負」引き分けの一種ウィキの「勝負より引く。『無勝負(むしょうぶ)は、相撲で廃止された制度の一つで、文字通り「勝負無し」とする裁定。記録上は引き分けの一種の様に扱われる』。『現在の大相撲ではどんなにもつれた勝負でも、行司は“必ずどちらかに軍配をあげなければならない”ことになっているが、江戸時代には、勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司が「ただいまの勝負、無勝負」と宣言して軍配を真上にあげて、そのあと袴の中にいれてしまうことで、勝敗の裁定をなしにすることができた。この場合は、星取表に「ム」とカタカナで記入することとなっていた。その点で、物言いがついたあとに勝敗を決めない『預り』(星取表にはカタカナで「ア」)や、水が入って動かない『引分』(星取表には「×」)、一方が負傷して勝負続行が不可能な場合の『痛み分け』(星取表には「△」)とは異なる』。『この制度は江戸相撲では江戸末期に廃止されたらしく』、元治二(一八六五)年二月『場所での記録を最後に登場しない。明治期にはすでに行司は必ずどちらかに軍配をあげなければならないように定められた。一方で大坂相撲では明治時代にはまだ存続しており、当時の成績表にも記録が残る。大坂で廃止されたのは大正初期であった』とある。

「行司 木村源之助」ウィキの「行司の「引退した主な行司」の「十両格」に二代目『木村源之助』の名を見出せる。

「呼出 追灘金太郎」坪田敦緒氏の優れたサイト「相撲評論家之頁」の「大相撲東風西雅」の十三話『「呼出」のはなし』の中で、この条が取り上げられており、そこで『「呼出 追灘金太郎 年九」』『という記述があり、これが「呼出」が出てくる最古の例のようです。 「甲子夜話」そのものは著者が』六十『歳を過ぎた』文政四(一八二一)年『から書き始められたものですが、それより』二十『年も前の記録ですから、恐らくはもとになる資料があったと思われます』とある。なおそこで坪田氏は、この浅草寺での父家斉と子家慶の童子相撲上覧を享和二 (一八〇二) 年九月十八日と特定しておられる

「御目付」幕府のそれは江戸城本丸及び西の丸に置かれ、定員十名、役高は千石で、若年寄支配。

「同姓大膳【今伊勢守】」同姓とあるからには松浦であろうが、不詳。

「取扱たり」「とりあつかひたり」。

「幼稺」「えうち」。幼稚に同じい。

 

甲子夜話卷之四 9 秀賴の異事

 

4-9 秀賴の異事

[やぶちゃん注:以下の漢文部分は送り仮名(カタカナ)を含めた訓点が附されてあるが、返り点のみを再現し、書き下し文(一部に読点と読みを追加して読み易くした)を( )で示した。]

大阪落城の時、豐臣秀賴は潛に薩摩に行れたりと云一説あり。此こと異域にも聞へたると見えて「涌瞳小品」に【第三十に見ゆ。明の朱國禎著す】、賴兵敗走入和泉焚ㇾ城而死。又有逃入薩摩(賴(らい)か兵、敗走して和泉に入り、城を焚(やき)て死す。又、逃(にげ)て薩摩に入(いる)と言ふ者、有り)と。入和泉(和泉に入る)とは誤聽なり。又何にてか見たりし、落城のとき、神祖天守に火かゝりたるを御覽ありて、早や御動坐あるべしと仰出さるゝ故、左右より未だ秀賴の否知れ不ㇾ申と言上せしに、天守に火かゝれば落城なりとの御諚にて、卽御動坐ありしと。又或人曰。秀賴薩摩に行し後、大酒にて處々にてこまりたり。酒の負債多くありしと。因みに云ふ、今高崎侯の居間、襖に秀賴の畫とてあり。金地に老松を繪き、其上へ總體明間もなく簾を繪く。簾外に見たる體なり。尤着色なり。其筆雅樂助、山樂などゝ見ゆ。

■やぶちゃんの呟き

 豊臣秀頼(文禄二(一五九三)年~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))の生存説については、ウィキの「豊臣秀頼の「生存説」から引いておく(注記号を省略した)。『大阪が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから生存説がある』。「日本伝奇伝説大辞典」の『星野昌三による「豊臣秀頼」の項などで』、『以下のとおり記述されているが、どれも伝説的な逸話である』。『平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙(日記にも記述あり)では薩摩・琉球に逃げた、『日本西教史』(ジャン・クラッセ)では「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とあり、当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されており、生存の噂が流布していた』。『『採要録』には薩摩国谷山に元和はじめ浪士が住み着き、国主からの家に住んでいたが酒好きでいつも酔ってあちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」とよばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民はひそかに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている』。『鹿児島市下福元町に伝秀頼墓と伝わる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓』二『基もあるという』。昭和四二(一九六七年)から翌年にかけて、『鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号し』、四十五『歳まで生き、国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり』、『長じて立石領初代領主・木下延由となったとする説を唱えた』。旧日出藩主木下家第十八世当主木下俊煕氏はその著「秀頼は薩摩で生きていた」(昭和四三(一九六八)年新峰社刊)で、『秀頼は宗連といい、日出藩木下家が落ち延びた秀頼と国松を密かに庇護したこと、それを疑った幕府が松平忠直を隠密として配流したという内容の生存説を出し』ている。豊臣正統十四世を自称する木場貞幹は『歴史と旅』(昭和五八(一九八三)年八月臨時増刊号)で『「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表している』。江戸時代の小説「真田三代記」(幕末近くに成立した実録体小説。後に同名の長編講談となり、明治まで大いに流行ったようで、そこからまた、「真田十勇士」「猿飛佐助」の派生長編講談が生まれた)の第百七十八節の『「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら』百五十『名が夜丑の時抜け穴から誉田に出、島津家の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている』とある。

「潛に」「ひそかに」。

「涌瞳小品」(ゆうどうしようひん)は「明の」内閣首輔を勤めた「朱國禎」(しゅこくてい 一五五七年~一六三二年)の著。同書の「卷三十」の「倭官倭島」の条に以下のようにある(中文の「維基文庫」のものを加工した)。

   *

關白、倭之官號、如中國兵部尚書之類。平秀吉者、始以販魚、醉臥樹下、別酋信長爲關白、出山畋獵、遇吉衝突、欲殺之。吉有口辯、自詭曾遇異人、得免。收令養馬、名曰木下人。吉又善登高樹、稱曰猴精。信長漸委用、合計奪二十餘州。後信長爲奇支所殺、吉討平之、遂居其位。丙戌年擅政、盡並六十六州。其主山城君、懦弱無爲。壬辰破高麗、改天正二十年爲文祿元年、自號大閣王、以所養子孫七郎爲關白。

日本原六十八島、各據其地、至平秀吉、始統攝之。及老且病、子秀賴尚幼、托於婦父家康代攝其位。吉死、家康止以和泉、河二島歸賴。賴既成立、索其位於家康。不與、忿還其女、致爭鬥。賴兵敗、走入和泉、焚城而死。又有言逃入薩摩者。其位遂歸於家康、傳其子爲武藏將軍。倭俗簡易、寸土屬王。倭民住屋一編、闊七尺。歳輸銀三錢。耕田者、粟盡入官、只得枯稿。故其貧者、甚於中國、往往爲通倭人買為爲賊、每名只得八錢。其人輕生決死、飲食甚陋、多用湯、日只二餐、以苦蓼搗入米汁爲醋。其地多大風、夏秋間風發、瓦屋皆震、人立欲飛。乍寒乍暖、氣候不常。其暑甚酷、一冷即挾纊。九月以後卽大雪、至春止矣。大小終日圍爐、婦人齒盡染黑、閨女亦然。以雪、孩子穿紅繡紗、踐於雪中、不惜。其酋長喜中國古書、不能讀、不識文理、但多蓄以相尚而已。亦用銅錢、只鑄洪武通寶、永樂通寶、若自鑄其國年號、則不能成。法有斬殺、無決配。倭人傷明人者斬。倭王見明人、卽引入座。我奸民常假官、詐其金。留倭不歸者、往往作非、爭鬥、賭盜、無賴。有劉鳳岐者、言自三十六年至長崎島、明商不上二十人、今不及十年、且二三千人矣。合諸島計之、約有二三萬人。此輩亦無法取歸、歸亦爲盜、只講求安民之策可也。

   *

「賴か」送り仮名は「」でママ。秀「賴が」。

「御動坐あるべし」「ごどうざあるべし」「御」は自敬表現(或いは記者の尊敬語)で、「戰は終わったから陣屋へ戻ろう」の謂いであろう。

「仰出さるゝ」「おほせいださるる」。

「否」「いなや」。

「不ㇾ申」「まうさず」。

「言上」「ごんじやう」。

「御諚」「ごじやう」。きっぱりとした仰せ。

「卽」「すなはち」。

「高崎侯」上野群馬郡(現在の群馬県高崎市)周辺を了した高崎藩主。江戸後期は大河内松平家。

「總體明間もなく」「さうたいすきまもなく」主対象の松以外の空間全面、殆んど隙間もなく。

「簾」「すだれ」。

「簾外」「れんぐわい」。

「見たる體なり」「(松を)見たる體(てい)なり」。

「尤」「もつとも」。着色画であることから、秀頼などの素人絵ではないという判断からか。

「雅樂助」室町後期の狩野派絵師狩野雅楽助(かのううたのすけ 文亀年間(一五〇一年~一五〇三年)?~天文八~一〇(一五三九~一五四一)年)?)。

「山樂」安土桃山から江戸初期の狩野派絵師狩野山楽(さんらく 永禄二(一五五九)年~寛永一二(一六三五)年)。

 

「想山著聞奇集 卷の參」 「天色火の如く成たる事」

 

 天色火の如く成たる事

 

 明和七年【庚寅】七月廿八日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七七〇年九月十七日。]の事成(なる)が、我國名古屋は、其日は別(べつし)て暑氣つよくしのぎ兼しが、日暮(ひぎれ)て後、北の方の空赤く成たる故、初(はじめ)は犬山(いぬやま)出火なりとは【犬山は六里離れて城下也。】云罵(いひののし)りたれども、段々天(てん)色(いろ)赤く成ぬ。是はいか成事ぞと不審をなす内に、其赤色、間もなく名古屋の方へ蔽ひ懸りて、後には滿天殘る所もなく、平一面に火のごとく赤くなりて、其中に松魚(かつを)の腹のごとく薄白き長き條ありて、自然と太く成、細く成て、螢の光の如く息をなして、何とも分り兼たれども、甚だ不氣味なる氣色(けしき)也。此上、如何成行(いかになりゆく)事ぞと恐敷(おそろしく)、人々奇異の思ひをなしゝに、一二刻[やぶちゃん注:一刻は現在の約三十分。]過(すぎ)て漸々(やうやく)に薄く成、九つ頃[やぶちゃん注:午前零時頃。]に至りては皆消失(きえうせ)たりと。勿論、何の故ともわきまへず、唯、珍敷(めすらしく)氣味わるく、恐敷(おそろし)かりし事にて有(あり)しと每々(たびたび)父母の咄を聞置(ききおき)しが、又、此程、羽鳥松迻[やぶちゃん注:「はとりしやうい(しょうい)」と読んでおく。人物不詳。]翁にも能々(よくよく)聞正(ききただ)したるまゝ、書付置(かきつけおき)ぬ。其節、竹腰(たけのこし)某は、宵より臥し居(ゐ)たる故、天が一面に赤く成たり、出(いで)て見給へと、家内の者ども申せしに、何、天が赤くなりたるとや、又、重(かさね)て赤く成たる時に起(おき)て見るべしと云捨(いふすて)て臥居(ふしゐ)たり。扨(さて)、夫(それ)より能々聞(きく)に、前代未曾有(ぜんだいみぞう)の事にて、最早、其(その)如く再び赤く成事は、後代にも有まじ。まだ年若(としわか)のをりの事ながら、生涯の不覺と成たり。兎角、物每(ものごと)は、その時を失ふまじき事也と、右某の常々云出(いひいだ)して殘(ざん)ねんがりし事も、松迻翁の咄にて聞(きき)たり。心得置べき事也。此日、京地(きやうち)にては、戊の時頃[やぶちゃん注:午後八時前後。]より、北の方の空一面に赤く成て、村里の火事にはあらず、高山(かうざん)の樹木に火付(ひつき)て一時(いつとき)に燃登(もえのぼ)る勢ひに見えければ、山火事出來(いでき)たりと騷ぎ出し、所は何國(いづくに)ならん、鞍馬の山かと見ればすこし遠く、又、若狹路(ぢ)の山には近しと、とりどりに罵りて居(を)る内に、忽ち耀(かかや)く光りの幾條も立登(たちのぼ)り、天のあらん限り、南を差(さし)て靉靆(たなびき)渡りて、恐敷(おそろしく)、因(よつ)て人々も東西に馳せ違ひて騷ぎ立(たて)、又は如何成(いかなる)天變ぞと、辻々へ出(いで)て立(たち)湊(つど)ひ居(をり)て驚く族(やから)も多く、時移りても樣子分らざれば、寢る人とては壹人(いちにん)もなく、見居(みをり)たるほどに、赤氣(しやくき)は東の空に巡(めぐ)る樣(やう)に見えて、彼(かの)光りし條(すじ)[やぶちゃん注:「じ」はママ。]も段々に薄くなり、子の刻過(すぎ)[やぶちゃん注:午前零時前後。]には消失(きえうせ)しとなり。若狹の國にては、其日の暮合(くれあひ)より、薄紅(うすくれな)ひなる氣の北の方(かた)に見ゆるまゝ、夕日の名殘(なふごり)かと云居(いひをり)たる内に、段々赤く耀き出(いづ)る條(すぢ)も增りて海上は血を灌(そそ)ぎたる樣に成しと。又、加賀の國にては、其日の黃昏(たそがれ)に、黑き雲一(ひと)むら、海上に靉靆(たなびき)て、赤光(しやくくわう)ほのぼのと見えわたりければ、是も夕日の輝(かかや)きにやと、人々出(いで)て見る中に、日も暮(くれ)て、光り、彌(いよいよ)、盛(さかん)に出(いで)て、忽ち滿天、火のごとく成(なり)て、驚きたりとかや。又、或記には、此日、申の刻[やぶちゃん注:午後四時前後。]、北方の空より赤氣現れ出(いで)、次第に東へ巡り、夜に至りて、右の赤氣、甚敷(はなはだしく)、諸州を照(てら)すといふ。又、此日、海上に火柱(ひばしら)の如き氣、天を突出(つきだ)し、後に分れて、空中に遍滿(へんまん)せりとも云(いふ)。何にもせよ、氣は松前の人の語るも、西は長崎の人の語るも、同し趣にて、南都にては、初(はじめ)は大(おほ)かた京の大火ならん、其中に赤く立登(たちのぼ)るは、大佛の堂[やぶちゃん注:現在の京都府京都市東山区にある天台宗方広寺の大仏殿を指す。]の火炎也などゝ云たるよし。又、大和國には、土(つち)の室(むろ)とて、石にて圍み、出入の便(たよ)りよく、水など流入間敷(ながれいりまじき)やうに造りたる室穴(むろあな)、所々に有(あり)て、古へは人の住(すみ)ける所とみえたるよし。依(よつ)てそれを土俗の口碑に、昔、火の雨の降(ふり)たる時に、人皆、此穴にかくれて命を全(まつた)ふ[やぶちゃん注:「ふ」はママ。]せし由にて、日來(ひごろ)、恐敷事に云傳(いひつたは)る故、是ぞ誠(まこと)の火の雨の降來(ふりきた)りて、世の滅する期(ご)の来りし成べし、今こそ室穴に隱るゝぞよきとて、騷ぎ立(たつ)族(うから)も多かりしと也。格別珍敷(めづらしき)天變ながら、是ぞと思ふ程の凶兆もなくて濟(すみ)しとや。去(さり)ながら、此年は五月より八月迄、百有餘日、雨なく、諸國、大旱魃にて難儀せしとぞ。夫等の標示にや。吳々(くれぐれ)も未曾有の事と也。

[やぶちゃん注:以上で観察された天体現象は、まさにこの一七七〇年六月十四日にフランスの天文学者シャルル・メシエCharles Messier 一七三〇年~一八一七年:星雲・星団・銀河に番号を振り、「メシエ・カタログ」を作ったことで知られる)によって発見された大彗星「レクセル彗星」Lexell's Comet:名称はこの彗星の軌道を計算したのスウェーデン系フィンランド人の天文学者アンダース・レクセル(Anders Johan Lexell 一七四〇年~一七八四年:後にロシア帝国に帰化してロシアで活躍した(ロシア語名:Андрей Иванович ЛексельAndrei Ivanovich Leksel)。このレクセル彗星や天王星の軌道計算をしたことで知られる)に因む)の記録である。ウィキの「レクセル彗星によれば、『レクセル彗星は歴史上のどの彗星よりも地球の近くを通り過ぎたことで有名で』、この時、同彗星は地球から0.015 AUAU:天文単位(astronomical unit)の略)=約二十四万キロメートル地点まで接近したとされる。但し、レクセル彗星はこの一七七一年以降は観察されておらず、『失われた彗星』と見なされている、とある。『メシエがレクセル彗星を発見したときの彗星の大きさは小さかったが、その後の数日間でレクセル彗星は急速に大きさを増していった』。『レクセル彗星はメシエ以外の天文学者にも観察され』、『レクセル彗星は日本でも観察されており、この天文的・歴史的現象の記録が残っている』(後に掲げた柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」のリンク先(私の電子テクスト注)などを参照されたい)。一七七〇年七月一日、『レクセル彗星は地球から0.015 AUの地点を通り過ぎ』ているが、『これは地球と月の距離の約』六倍しかない。メシエが測定した彗星のコマの直径数値から割り出すと、当時、地球上から見た場合の同彗星の大きさは『月の見かけの約』四倍のサイズに当たる。『当時のイギリスの天文学者は』、同彗星は二十四時間以内で四十二度『も空を移動したと指摘した。この天文学者は彗星の核が木星と同じ大きさに見えたと指摘し、「銀色に輝くコマに囲まれ、彗星の最も明るい部分は月の明るさと同じであった」と述べている』。その後、メシエは一七七〇年十月三日、『太陽から離れていくレクセル彗星を観測し』ているが、この時の『観測が、レクセル彗星の最後の観測となった』。『レクセル彗星は最も早くに発見された木星族の彗星かつ地球近傍天体でもある』が、『二度と観察されることはな』く、『レクセルはピエール=シモン・ラプラス』(Pierre-Simon Laplace 一七四九年~一八二七年:フランスの数学者・物理学者・天文学者)『と協力してその後の調査を行ったところ』、一七七九年に『木星との相互作用によって軌道が摂動し、地球から観測できないほど遠くに遠ざかったか、太陽系から完全に脱出したかのどちらかだと主張した。現在、レクセル彗星は失われた彗星であると考えられている』。『軌道計算におけるレクセルの研究は、近代的な軌道決定法』『の始まりだと考えられている』。一八四〇年代にはフランスの数学者で天文学者もあったユルバン・ルヴェリエ(Urbain Jean Joseph Le Verrier 一八一一年~一八七七年:彼は当時、未発見であった海王星の位置を計算によって予言した人物としてとみに知られる)は『彗星軌道のさらなる研究を行い、木星の中心から木星の半径の』三・五『倍の距離まで彗星が近づいたにもかかわらず、レクセル彗星は木星の衛星にはなったことがないことを示した』とある。

 以下は底本では全体が二字下げ。] 

 

或書に、能登の國珠洲(すず)郡珠洲の御崎(みさき)[やぶちゃん注:現在の石川県珠洲市三崎町(みさきまち)。(グーグル・マップ・データ)。]は、佐渡の國へ向ひて名高き湊なるが、享保十四年の十二月廿八日[やぶちゃん注:グレゴリオ暦一七三〇年二月十五日。]、海上十四五里四方、一面に赤く成(なり)、夜に入(いり)て、五時(いつつどき)よりは別(べつし)て强く、赤氣天に至り、國中、白晝のごとくに成、諸人の恐怖、大形(おほかた)ならず。同夜八時より赤氣薄く成懸(なりかか)り、翌廿九日の朝に至りて漸(やうやく)消失(きえうせ)たれども、海邊の砂赤く染り、加賀・越中邊も以(もつて)の外(ほか)騷ぎ、若狹・越前・近江・美濃・尾張・伊勢・其外、上方筋國々よりは、右赤氣、大火と見えたるよし記し有(あり)。先(まづ)、同樣の事と見えたり。天變地妖は別て量りがたきものなり。

[やぶちゃん注:幾つか調べて見たが、地球規模で観察された巨大彗星としてはないようである(私は実は天文学や星には興味があまりないので、自分持ちの資料自体が少なく素人調べでしかない)。或いは、本邦周辺域に落下した相応の大きさの隕石ででもあったものか。識者の御教授を乞う。

 なお、前のレクセル彗星の記録も含め、柴田宵曲 妖異博物館 「赤氣」の本文(本「想山著聞奇集」の本章の紹介もある)及び私の注も是非、参照されたい。] 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その8)

 

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 或る夜、庭の樹立がざわめいて、見ると、靜かな雨が野面を、丘を、樹をほの白く煙らせて、それらの上にふりそそいで居た。しつとりと降りそそぐ初秋の雨は、草屋根の下では、その跫音も雫も聞えなかつた。ただ家のなかの空氣を、ランプの光をしめかなものにした。さうして、それ等の間に住んで居る彼に、或る心持ち、旅愁のやうな心持を抱かせた。さうして、その秋の雨自らも、遠くへ行く淋しい旅人のやうに、この村の上を通り過ぎて行くのであつた。彼は夜の雨戶をくりながらその白い雨の姿を見入つた。

[やぶちゃん注:「跫音」「あしおと」。近づいてくる雨足(あまあし)の音の気配。]

 そんな雨が二度三度と村を通り過ぎると、夕方の風を寒がつて、猫は彼の主人にすり寄つた。身のまわりには單衣ものより持ち合せていない彼もふるへた。

[やぶちゃん注:「單衣もの」「ひとへもの(ひとえもの)」。裏を付けずに仕立てた長着。]

 或る夕方から降りだした雨は、一晩明けても、二日經つても、三日經つても、なかなかやまなかつた。始めの内こそ、これらの雨に或る心持を寄せて樂しんで居た彼も、もうこの陰氣な天候には飽き飽きした。

 それでも雨は未だやまない。

[やぶちゃん注:以前にも注したが、先行する読みでは「未だ」は「いまだ」ではなく「まだ」と訓じている。向後はこの注は略す。]

 犬の體には蚤がわいた。二疋の犬はいぢらしくも、互に、相手の背や尾のさきなどの蚤をとり合つて居た。彼は彼等のこの動作を優しい心情をもつてながめた。併し、それ等の犬の蚤が何時の間にか、彼にもうつつた。さうして每晩蚤に苦しめられ出した。蚤は彼の體中をのそのそと無數の細い線になつて這ひまわつた。

 それに運動の不足のために、暫く忘れて居た慢性の胃病が、彼を先づ體から陰鬱にした。それがやがて心を陰鬱にした。每日每日の全く同じ食卓が、彼の食慾を不振にした。その每日同一の食物が彼の血液を腐らせさうにして居ると、感じないでは居られなかつた。犬でさへももうそれには飽きて居た。ちよつと鼻のさきを彼等の皿の上に押しつけただけで、彼等さへ再び見向きもしなかつた。けれどもこれに就て、彼は彼の妻には何も言ふべきではなかつた。この村にある食ひ物とては、これきりだからである。

 その蚤の巢のやうに感じられる體を洗つて、さつぱりするために、風呂に入りたいと思つても、彼の家には風呂桶はなかつた。近所の農家では、天氣の日には每日風呂を沸かしたけれども、野良仕事をしないこの頃の雨の日には、わざわざ水を汲んだりしてまで、風呂へ入る必要はないと、彼等は言つて居た。さうして農家では、朝から何にもせずに、何にも食はずに寢て居るといふ家族もあつた。

 猫は、每日每日外へ出て步いて、濡れた體と泥だらけの足とで家中を橫行した。そればかりか、この猫は或る日、蛙を咥へて家のなかへ運び込んでからは、寒さで動作ののろくなつて居る蛙を、每日每日、幾つも幾つも咥へて來た。妻はおおぎように叫び立てて逃げまはつた。いかに叱つても、猫はそれを運ぶことをやめなかつた。妻も叫び立てることをやめなかつた。生白い腹を見せて、蛙は座敷のなかで、よく死んで居た。

[やぶちゃん注:「咥へて」「くはへて(くわえて)」。

「おおぎよう」大仰。但し、歴史的仮名遣は誤り。表記「大仰」(或いは「大形」)ならば「おほぎやう」であり、同義の別表記「大業」ならば「おほげふ」であって、孰れであっても正しくない。]

 或る日。彼の二疋の犬は、隣家の雞を捕へて食つて居るところを、その家の作代に見つかつて、散々打たれて歸つて來た。その隣家へ、彼の妻がそれの詫びに行つたところが、圓滑な言葉といふものを學ばなかつた田舍大盡の老妻君は、案外な不氣嫌であつた。犬は以後一切繫いで置いて貰いたい。運動させなければならぬならば、どうせ遊んで居られる方ばかりだから自分達で連れて步けばよい。庭のなかへ這入つては糞をしちらかす、田や畑は荒す。夜は吠えてやかましい。そのために子供が目をさます。その上につい一週間ほど前から卵產み始めたばかりのいい雞などを食はれてたまるものではない。まるで狼のやうな犬だ。若し以後、庭のなかへ這入るやうな事があつたならば、遠慮はして居られないから打ちのめす、家には外にも澤山の雞があるのだから。と何か別の事で非常に激昂して居るらしい心を、彼の犬の方へうつして、ヒステリカルな聲で散々に吐鳴り立てた。その聲が自分の家のなかで坐つて居る彼の耳にまで聞えて來た。この中老の婦人はこの犬どもの主人が、他の村人のやうに彼の女に對して尊敬を拂はぬといつて、兼々非常に不愉快に思つて居たからであつた。最も奇妙なことは、彼の女は彼等夫婦が何も野良仕事をしないといふ事實の彼の女自身の單純な解釋から、彼の女の新らしい隣人が何か非常に贅澤な生活でもして居るものと推察して居たものとみえる。かういふわけで、發育盛りの若い二匹の犬は、每日鎖で繫がれねばならなかつた。彼は初めの數日は自分で自分の犬を運動に連て行つた。二匹の犬を一人で牽くのは仲々むづかしかつた。それに傘をささねばならなかつた。道は非常に糠つて居た。どうせ遊んで居る閑人だ、運動なら自分で連れて步けと言つたといふ言葉を思ひ出すと、彼は步きながら悲しげに苦笑を洩した。若い大きな犬どもは五町や六町位の運動では、到底滿足しなかつた。それに彼等は普通の道路を厭うて、そのなかへ足を踏み込むと露で股まで濡れる畦道の方へ橫溢した活氣でもつて、その鎖を强く引つ張りながら、よろめく彼を引き込んで行つた。わけても鬪犬の性質を持つた一疋は非常な力であつた。それらの樣子を、隣家の老妻君は家のなかから見て居さうに、彼は思つた。實際そんな時もあつた。運動不足で癇癪を起して居る犬どもは、繫がれながら、夕方になると、與へた飯を一口だけで見むきもせずに、ものに怯えて、淋しい長い聲で何かを訴へて吠え立てた。その聲が、雨のためにほの白く煙つた空間を傳うて、家の向側の丘の方へ傳つて行くと、その丘からはその聲が山彥になつて吠え返して來る。犬はそれを自分たち自身の聲とは知らずに、再びより激しくそれへ吠え返した。かうして夕方每に一しきり物凄く長鳴きした。猫の方は猫で、相變らず蛙を咥へて來て、のつそりと泥だらけの足で夕闇の座敷をうろついて居た。彼は時にはそれらの猫を强く蹴り飛した。連日の雨にしめつて燃えなくなつて居る薪が、風の具合で、意地わるく每日座敷の方へばかり這入り込んで來た。

[やぶちゃん注:本段落の「匹」と「疋」の混用はママ。

「雞」「にはとり(にわとり)」。鷄。次の段落では「鷄」で出る。

「作代」「さくだい」。主家に雇われて野良仕事をしている作男(さくおとこ)。

「五町や六町」五百四十六~六百五十四メートル。]

 晝間の犬の音なしい時には、例の隣家の大盡の家では、卵を生んだ鷄が何羽も何羽も、人の癇をそそり盡さねば措かないやうな聲で、けけけけと一時間もそれ以上も鳴きつづけた。或る日、それらの一羽が、彼の家へ紛れ込んで來たが、犬どもの繫がれて居るのを見ると、したりげに後から後から群をなして彼の庭へ闖入した。さうして犬の食ひちらした飯粒を悠然と拾ひ初めた。犬は腹を立てて追ふ。鷄はちよつと身を引く。腹を立てた犬は吠え立てたけれども鷄の一群は別に愕かなかつた。その一群の闖入者を追ひ拂はうとして走り出した犬には、鎖が頸玉をしつかりとおさへて居た。あせればあせるだけ彼自身の喉が締めつけられるだけであつた。遂には彼等同士の二つの鎖が互の身動きも出來ぬ程に絡み合つて居たりする。鷄は平氣で緣側へさへ上つて來て、そこへ汚水のやうな糞をしたりした。手を擴げて追ふと、彼等はさも業々しく叫び立てた。彼等は丁度、あの女主人に言附かつて、彼を揶揄するために來たかとさへ思はれた。その女主人は、垣根の向ふから、それらの光景を見て居ながら、わざと氣のつかぬふりをして居る。彼の妻はそれを見ると、何かあてつけらしく鷄を罵りさうにするのを、彼は制止した。彼はそんな事をしては惡いと思て居るよりも、臆病と卑屈とから、それすらも出來ないのであつた。さうして内心は妻よりもより以上に憤慨して居るのである。別の隣家の小汚い女の子が二人、別に嬰兒まで負うて、雨で遊び場がないので、猫よりももつと汚い足と着物とで彼の家へ押込んで來た。背中の嬰兒が泣く。さうして三人ともそれぞれに何を見ても欲しがる。十三になるといふ一番上の兒は、もうすでに女特有の性質を發揮して、彼の妻を相手に、隣の大盡の家の惡口やら、いろいろの世間話を口やかましく聞かせて居た。それ等の兒は時時彼等が風呂を貰つて這入る家の子なので、その子を追ひ立てることは出來にくいと妻は言つた。その實、彼の妻はそんな子供をでも話相手にほしかつたのである。犬や猫ばかりでない、確にこの子供達が一層澤山に蚤を負うて來るに違ひない、と彼は考へた。彼はいらいらしながらも、よその人とさへ言へばこんな子供にまで小さくなつて、小言一つ言へない性質であつた。さうしてそんなことには無神經なほど無頓着な彼の妻が、その子供達に雨降りのなかを、あまりしげしげ用事に使ふのを見ると、彼は反つてはらはらして、妻を叱り飛ばした。その子供達の家へ風呂を貰ひに行くと、七十位の盲目で耳の遠い老婆が、風呂釜の下を燃してくれながら、いろいろと東京の話を聞きたがつた。東京の話ではない江戶の話である。この老婆は「煙のやうな昔」(とそのツルゲニエフのやうな言葉をその老婆自身が言つた)娘のころに、江戸の某樣の御屋敷で御奉公したとかで、殿樣の話やら、まだ眼の見えた昔に見た江戶の質問を彼にするのであつた。維新で田舍へ歸つたと言ひながら、その維新とはどんなものであるかは知らないと見えて、電車が通つて居たり、公園があつたりする東京といふものの槪念は何一つ持つて居なかつた。さうして彼には答へる術もないその江戶の質問を、くどくどと尋ねるのであつた。さて彼が「江戶」の事は不案内だと氣がつくと、彼の女の娘時代のその家の全盛今の主人である息子の馬鹿さ、實に實に平凡なことどもを長々と聞かせて、それでなくてさへ口不調法な彼には、返事の仕方が解らなかつたほどである。それにこの老婆は答へても何も聞えぬだらうほど耳が遠かつた。「俺にはそんな話は面白くないのだ! ひとのことなどはどうでもいいのだ!」彼はさう叫んでやりたくなつた。この老婆のくどい話は結局、何のことであるかは解らなかつたけれども、彼の氣持をじめじめさせるには、何しろ充分すぎた。しかもそれの相手になつてくれと懇願する表情をもつて、この老婆は五十六の時に全く失明したと、今のさつきも物語つたその兩眼で、彼を見上げた。見つめた。風呂釜の火が一しきり燃え上つて、ふと、この腰の全く曲つて居る老婆を照すと、片手に長い新を持つた老婆は、廣い農家の大きな物置場の暗闇の背景からくつきり浮き上つて、何か呪を呟く妖婆のやうにも見えた。

[やぶちゃん注:「業々しく」ママ。定本では「仰仰しく」となっている。

「言附かつて」「いひつかつて(いいつかって)」。謂い遣って。

「惡いと思て居るよりも」ママ。定本は「思て」の箇所は「思つて」となっている。

「某樣」「なにがしさま」。]

 その風呂場を脫れ出てくると、さすがに夜風がさわやかに、彼の湯上りの肌をなでた。併し家へ歸つて見ると、彼の妻はホヤのすすけた吊りランプの影で、里の母からでも來たらしい手紙を讀んで居たが、彼には見せたくないらしく、遽にそれを長長と捲き納めると、不興極まる顏をして、その吐息を彼に吹きかけでもするかのやうに、淚で光らせた瞳で彼を見上げた。それは何か威嚇するやうにも見え、哀願するやうにも見えた。その手紙を、彼は讀まずとも知つて居る。彼にはつまらぬことであつて、彼の女達には重大な何事かであろう。彼の女等は互に彼の女等の苦しい困窮を訴へ合つて居るのであらう‥‥‥‥‥

[やぶちゃん注:「遽に」「にはかに(にわかに)」。俄かに。]

 彼の家には、もう一人泣きに來る女があつた。それはお絹といふ名の四十近い女であつた――彼等がこの家へ引越して來る時に、この家へ案内し、引越しの手傳ひをしたのが因緣で、その後、彼の家庭へ時々出入りするやうになつた女である。彼の女は身の上ばなしを初めては泣いた。最初たつた一度、珍らしさうにこ女の身の上ばなしに耳を傾けたのが原因で、お絹はその後いつもいつも一つの話を繰返した。彼はしまひにはお絹の顏を見ると腹立しくなつた。最も不思議なことには、彼はお絹の顏さへ見れば胃のあたりが鈍痛し初めた‥‥‥‥

 床の下では、犬が蚤にせめ立てられて、それを追ふために身を搖すぶると、その度にゆれる鎖の音が、がちやがちやと彼に聞えて來た。彼はお絹の身の上ばなしよりも、蚤に惱まされて居る犬の方に、より多くの同情を持つた。さうして彼は自分自身の背中にも、脇腹にも、襟首にも、頭の髮の毛のなかにも、蚤が無數にうごめき出すのを感じた‥‥‥‥

 些細な單調な出來事のコンビネエシヨンや、パアミテエシヨンが、每日單調に繰り返された。それらがひと度彼の體や心の具合に結びつくと、それは悉く憂鬱な厭世的なものに化つた。雨は何時まででも降りやまない。それは今日でもう幾日になるか、五日であるか、十日であるか、二週間であるか、それとも一週間であるか、彼はそれを知らない。唯もうどの日も、どの日も、區別の無い、單調な、重苦しい、長長しい幾日かであつた。牢獄のなかのやうな幾日かであつた。おお!然うだ。日蔭になつて、五月になつても、八月の中ごろになつても靑い葉一枚とてはなく、ただ莖ばかりが蔓草のやうに徒らによろめいて延びて居た、この家の井戶端のあの薔薇の木の生涯だ。彼は再び薔薇のことを考へた。考へたばかりではない。あの日かげの薔薇の鬱悶を今は生活そのものをもつて考へるのである。

[やぶちゃん注:「コンビネエシヨン」combination。ここは「観念的連合」の謂いである。「complex」(心的結合)と同義である。

「パアミテエシヨン」permutation置換。並べ換え。これも観念上に恣意的なもので、コンプレクスの精神状態を指しており、「コンビネエシヨン」とともに、観念的連合及び置換というのは、まさに関係妄想を産み出す状態であり、それが「憂鬱な厭世的なもの」へと変化したというのは、典型的な抑鬱的気分への精神変調の前触れである。

「化つた」「かはつた(かわつた)」。]

 薔薇といえば、その薔薇は、何時かあの淚ぐましい――事實、彼に淚を流させた畸形な花を一つ咲かせてから、日ましによい花を咲かせて、咲きほこらせて居たのに、花はまたこの頃の長い長い雨に、花片はことごとく紙片のやうによれよれになつて、濡れ碎けて居た。

2017/05/03

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅶ」パート

 

   Ⅶ

 

[やぶちゃん注:「自分はさみしく考へてゐる」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「蝗」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「愛の力」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「人間の神」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「秋のよろこびの詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「草の葉つぱの詩」は異同なし。]

 

 

 

 或る風景

 

みろ

大暴風の蹶ちらした世界を

此のさつぱりした慘酷(むごた)らしさを

骸骨のやうになつた木のてつぺんにとまつて

きりきり百舌鳥(もず)がさけんでゐる

けろりとした小春日和

けろりとはれた此の蒼空よ

此のひろびろとした蒼空をあふいで耻ぢろ

大暴風が汝等のあたまの上を過ぐる時

汝等は何をしてゐた

その大暴風が汝等に呼びさまさうとしたのは何か

汝等はしらない

汝等の中にふかく睡つてゐるものを

そして汝等はおそれおののき兩手で耳をおさへてゐた

なんといふみぐるしさだ

人間であることをわすれてあつたか

人間であるからに恥ぢよと

けろりとはれ

あたらしく痛痛しいほどさつぱりとした蒼空

その下で汝等はもうあらしも何も打ちわすれて

ごろごろと地上に落ちて轉つてゐる果實(きのみ)

泥だらけの靑い果實をひろつてゐる

 

[やぶちゃん注:太字「あらし」は原典では傍点「ヽ」。初版或る風景の注で例外的に述べているが、ご覧の通り、初版の最終行「おお此の蒼空!」がカットされている私はアオリのコーダを欠いたこの改版版をよしとしない気持ちは今も変わらない。]

 

 

 

[やぶちゃん注:雪ふり蟲は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:冬近くは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:蟋蟀は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:或る日の詩は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「或る日の詩」(前篇とは同名異篇)は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:記憶の樹木は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:は異同なし。]

 

 

 

 初冬の詩

 

そろそろ都會がうつくしくなる

人間の目が險しくなる

初冬

お前の手は熱く

やがで火のやうになるのだ

 

[やぶちゃん注:初冬の詩は、初版二行目の冒頭の「そして」がカットされ、四行目の冒頭の「いまに」がカットされ、最終行冒頭の「まるで」が「やがて」に変更されいる。この短い一篇の詩篇中でこれだけ改稿するというのは、山村暮鳥の、かなりの覚悟を持った確信犯と見なければならぬ。これについては私も、改版の方がモンタージュがくっきりとしてよくなっていると感ずる。]

 

 

 

[やぶちゃん注:路上所見は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:友におくるは異同なし。]

 

[やぶちゃん注:惡い風は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「雪の詩」は十二行目の「子ども等はうれしさに獅子のやうだ」の「獅子」が「けもの」となり、傍点「ヽ」が附されてある。]

 

「想山著聞奇集 卷の參」 「七足の蛸、死人を掘取事」

 

  七足(しちそく)の蛸、死人を掘取事

 

Sitaiwokurautako

 

 勢州飯野郡多屋村・藤原村邊に【此邊は津領と御旗本領と入變(いれかは)りの所にて、松坂よりは二里東、山田よりは壹里より二三里も北西にて勢州の東方の濱手なり。】七足の蛸(たこ)有(あり)て、力あく迄(まで)強く、甚だ智(ち)有て、大膽不敵の惡行(あくぎやう)をなして惡餌(あくじ)を喰(くら)ふ故、土人、是を食せずと也。此蛸の大成(なる)物、陸(おか)へ上り、野三昧(のざんまい)へ【野三昧とは野墓(のばか)の方言なり】行(ゆき)て新葬の死人を掘(ほり)うがち、取行(とりゆく)事、折節は有(ある)事故、人又、夫(それ)を知りて打殺(うちころ)す事も有(ある)となり。人を取行(とりゆく)蛸と聞(きく)ときは、北國筋、又は出羽松前邊の東北海に居(を)る如き、一丈も二丈も有蛸かと思ふに、左に非ずして、漸(やうやう)立(たち)たるところ三尺斗(ばかり)の蛸(たこ)にて、尤(もつとも)尋常の蛸よりは大(おほき)ひなれども、五尺六尺にも成(なる)たるものは見當らずと云(いへ)り。此蛸、夜更(よふく)るを待(まち)て、二更過(すぎ)より出(いで)て、野墓へ來り、新葬有(あら)ば葬所に建(たて)し喪假(もがり)竹を足に卷付(まきつけ)て、苦もなく引拔(ひきぬき)、夫より大地へひれふし、五つの足にて土をしつかりと掫(つか)み[やぶちゃん注:本来、「掫」は「支える・守る・打つ」であるが、かく当て訓しておいた。]、殘り二本の足にて自由に立歩行(たちあり)き、其土を側へ運び捨(すて)、又、元の如く土を抓(つまみ)ては取除(とりのけ)、もとより海邊の事なれば、砂地にて、地面も柔らか成(なる)よしなれども、暫時に掘穿(ほりうが)ち、棺(ひつぎ)を如何して破りぬるにや、遂に死骸を取出(とりいだ)し、何の苦もなく海中へ持行(もちゆく)事とぞ。山邊(やまべ)の土地にて、豺(やまいぬ)狼(おほかみ)の、新葬を掘拔(ほりぬき)て死人を取行(とりゆく)事は常々の事なれど、それさへめづらしきに【豺狼の埋葬を掘取(ほりとる)穴、わづかに方尺[やぶちゃん注:一尺四方。]にたらぬ狭き穴を掘(ほり)て死人を拔取(ぬきとる)事にて、そのわざ、人間の及ばぬ事也、山邊にては此災(わざわひ)を厭(いと)ひきらふ事なれども、所によりては過半掘取(ほりと)らるゝ事なり、取(とり)て後は、肩に引懸(ひつ)かつき行(ゆく)事なりときけり】是は僅(わづか)の中蛸(ちうだこ)、十五貫目[やぶちゃん注:五十六・二五キログラム。]も廿貫目[やぶちゃん注:七十五キログラム。]もある死人を取行(とりゆく)事は珍敷(めづらしき)事也。依(より)て此地にては、蛸の掘(ほる)事を甚(はなはだ)厭ひて、專(もつぱら)防ぐ事といへり。扨(さて)、此蛸は至(いたつ)て足早く、其上、鼠のごとくに人の隱れ忍ぶを能(よく)知(しり)て來らず。中々尋常にては打殺す事は出來ずとなり。去(さり)ながら、爰(ここ)に一つの術(てだて)有。此蛸は、必ず、來りし道ならでは歸らぬ故、人又、夫を知り居(をり)て、兼て蛸砂あがり來りし道を考へ、其跡に籾糠(もみぬか)を蒔置く(まきおき)て、後、彼(かの)三昧より蛸を追出(おひだす)と、蛸は眞一文字に元來(き)し道を駈戾(かけもど)るとて、彼(かの)糠(ぬか)の中へ駈込(かけこみ)、爰に至りて進退自由を得ず、惱む所を、枇杷の木の棒にて打殺す事とぞ。枇杷は蛸には別(べつし)て毒成(なる)よし。【人にも毒なれども蛸程には卽毒(そくどく)なし】今、三都[やぶちゃん注:江戸・京・大坂。]のごとき市中に住(すみ)ては、かゝる憂(うれひ)有(ある)事は夢にも知ぬ人も多し。尤(もつとも)、前にも云(いふ)通り、此蛸は惡餌を食ふゆゑ、若(もし)、漁人ども自然に獵せし事有(ある)時は、竊(ひそか)に遠方へ賣遣(うりつかは)す事といへり。能登・越前にて蛇の化したる蛸は七足なりとて是もくはず。又、蛇の化したるは九足有(ある)ともいへり。所によりて違ひある事にや。【蛇の蛸に化する談も粗(ほぼ)聞置(ききおき)たり、重(かさね)て別に記すべし。[やぶちゃん注:現存する後の二巻にはないと思われる。]】

[やぶちゃん注:本章に就いては、蛸が陸上に上がってくること自体を、全く問題視というより疑問詞していないところがすこぶる面白い。谷の響 二の卷 一 大章魚屍を攫ふの本文及び私の注も、そうさ、この注を最後まで読み終わった後で是非、参照されることを望む。その辺のこと(蛸が積極的に陸に上がって摂餌をした後に再び海へ帰るという事実があるかどうか等)についての私の見解も、総て、そこで述べているからである。なお、ここで言っている「蛸」は大きさから見ても、一般的な「蛸」が指す種、即ち、頭足綱八腕形上目八腕(タコ)目マダコ亜目マダコ科マダコ亜科マダコ属マダコ亜属マダコ Octopus vulgaris 同定してよかろう。

「七足の蛸」必ずしも珍しくもない。奇形個体として七碗の個体もあり、タコは天敵のウツボや大型肉食魚類等に腕足を捥ぎ取られることは珍しくない。更に言えば、タコ類のは交尾した際、雌の体内に精子を入れた精莢を封入した生殖腕の先端部(Hectocotylus(ヘクトコチルス):吸盤がなく、精莢を装填するための溝だけしかない)を切断して交尾を確かなものとすることも知られている。Hectocotylus については話し出すとキリがなくなる。生物學講話 丘淺次郎 第十一章 雌雄の別 三 局部の別 (5) ヘクトコチルスの本文・挿絵及び私の注を是非、参照されたい。

「勢州飯野郡多屋村・藤原村」三重県の旧飯野(いいの)郡現在の松阪市の海辺域の一部。各村は不明であるが、「多屋」が現在の松坂市の海辺で接する「多気」郡の似ること、松坂城から「二里東」に行くと多気郡内であること、多気郡は伊勢山田地区からは「北西」に当たること(但し、現在の距離はここに書かれたものよりももっとある。しかし当時の伊勢山田が、現在よりもより広範であったならば腑に落ちる)、多気郡内の旧村名に「北藤原村」「南藤原村」と二村あることから、この附近と考えてよいように私には思われる(グーグル・マップ・データ)。

「惡餌」後に出るように、人間の死体。通常は水死体。これは現在でも常識で、例えば東京湾の場合、タコの外、アナゴやシャコなどが遺体を摂餌し、収容遺体からもぞろぞろ出てくる。その収容に公的職務として当たっておられた方の著書に書いてあるのだから、本当である。

「野三昧」「三昧場(さんまいば)」は墓地・火葬場の古称である。

「一丈」「二丈」三・〇三~六・〇六メートル。

「三尺」九十一センチメートル弱。

「五尺六尺」一メートル五十二~一メートル八十二センチメートル弱。

「二更過」現在の午後九時又は午後十時過ぎ。

「喪假(もがり)竹」漢字では「虎落竹」と書く。この場合は死者を埋葬した「穢れ」としての位置を示して人が侵入しないように、竹で画した柵・垣根を指す。

「枇杷」「人にも毒」ナシ亜科ビワ属ビワ Eriobotrya japonica の幹材が人体に有毒であると言うのは聴いたことがない。但し、ウィキの「ビワによれば、しばしば「枇杷茶」として見かける『葉はアミグダリンやクエン酸などを多く含み、乾燥させてビワ茶とされる他、直接患部に貼るなど生薬(枇杷葉(びわよう))として用いられる。葉の上にお灸を乗せる(温圧療法)とアミグダリンの鎮痛作用により神経痛に効果があるとされる』。但し、アミグダリン(amygdalin:青酸配糖体の一種で「レートリル」(laetrile)とも呼ばれ、主にウメ・アンズ・モモ・ビワなどのバラ科植物の未成熟な果実や種子及び葉などに含まれ、加水分解されるとシアン化水素を発生する)は『胃腸で分解されると猛毒である青酸を発生する。そのため、葉などアミグダリンが多く含まれる部位を経口摂取する際は、取り扱いを間違えると健康を害し、最悪の場合は命を落とす危険性がある』とある(下線やぶちゃん)。しかし、ここの「枇杷の棒」の「毒」が、「卽」死を招く有「毒」物質である青酸を指しているとはちょっと思われないな。]

「想山著聞奇集 卷の參」 「狩人異女に逢たる事」

 

 狩人異女(いぢよ)に逢たる事

 

Kariudoijyoniahu


 市谷(いちがや)自證院[やぶちゃん注:既出。新宿区富久町にある天台宗鎮護山自證院圓融寺。]に西應房(さいわうばう)と云(いふ)道心坊主有(あり)て、老年なれども筋骨健(すこやか)にして、朝飯後、直(ぢき)に股引(ももひき)草鞋(わらぢ)にて、山内の草を取(とり)、木をきり、或は木の葉を拾ひよせ、働く事、若き男どもよりは遙かに增(まさ)りて、終日働き居(をり)て、遂に右院にて沒したり。【臨終に來迎往生(らいがうわうじやう)をなしたり此事次の卷に記し置ぬ。[やぶちゃん注:これは次の「卷四」に「西應房、彌陀如來の来迎(らいがう)を拜して往生をなす事」として載る。但し、面白いのは、彼が来迎往生したことと、ここに語られるマタギ時代の本体験を直接に繫げていない点にあり、この本地垂迹を否定しつつも、殺生の悪しきを諭す女神に対し、殺生をやめるだけではなくて出家してしまい、しかも弥陀の来迎を目出度く迎えて往生したとする猟師の後日談の展開が私にはすこぶる面白いと感じられる。]】此西應房は、尾張の國中嶋(なかしま)郡一の宮[やぶちゃん注:現在の愛知県北西部にあるの一宮(いちのみや)市と稲沢市の一部。ここ(グーグル・マップ・データ)。但し、旧中嶋郡はその北西の、木曽川を挟んだ現在の岐阜県内の羽島市の一部も含ままれるのでそちらも範囲内となる。]の產なれども、少年より狩を好み、飛驒の國に行て狩人と成、信州は勿論、美濃・加賀・越前・越中等までも、山續きに渡り步行(ありき)て、狩暮(かりくら)したれども、怖しかりしと思ひし事もなかりしに、或時、打續き餘り獲物(えもの)なき故、里へも歸らずして、御嶽山(おんたけさん)[やぶちゃん注:現在の長野県木曽郡木曽町及び王滝村と、岐阜県下呂市及び高山市に跨る標高三〇六七メートルの大きな裾野を広げる独立峰。]の麓の方へ深くわけ入(いり)、其所に夜を明(あか)し、朝の歸り猪[やぶちゃん注:「歸り猪」で一語。哺乳綱鯨偶蹄目イノシシ亜目イノシシ科イノシシ属イノシシ Sus scrofa は基本は昼日性であるが、人間との関わりの中で二次的に夜行性をも獲得しており、夜間に食を求めて里まで降り、朝方になって山へ帰ると言う習性を持つに至った。その朝帰りの猪を指す。
]にても躵(ねら)はん[やぶちゃん注:「狙はん」。]と曉を待居(まちゐ)て、夜も明方に成(なり)、東も少ししらみ懸(かか)る頃、小高き峯へ上り、獸や來ると四方を見𢌞し、明(あけ)るを遲しと待居たるに、遙向(はるかむかひ)の御嶽山の方より、篠竹を分(わけ)て來る者あり。其樣子、何とも見極めかね、甚だ不審に思ひて能々(よくよく)見れば、女にて、段々此方(こなた)を目懸(めがけ)て來れり。此深山に、假令(たとひ)晝にても、女の行(ゆき)かふべき理(ことわり)なし。まして、斯(かく)明方などに、女の來(きたる)る道理、絕(たえ)てなき筈也。今迄は、運能く斯(かく)のごときの變化(へんげ)に遭(あは)ざりしに、今來(く)るものこそ尋常のものに非ず。川だち川にて果(はつ)る[やぶちゃん注:「川だち」は川辺に生まれ育つことから転じて「水練の達人」の意。川に育った者はそおの得意に油断して結局は川で死ぬ(ことが多い)。「得意な技術であっても油断すればそれで身を滅ぼす」という譬え。]の諺は此事にて、我運命も是までにて、今を限りと成(なり)たることと知られたり。去(さり)ながら、天魔にもせよ、鬼神(きじん)にもせよ、手を束(つか)ねて取殺(とりころ)さるゝは拙(つたな)し、運は天に任せて一勝負なし、假令(たとひ)、如何成(いかなる)天魔鬼神にても、一打にうち殺さんと、一大事の時に用(もちふ)る鐡の鍊(きた)ひ玉[やぶちゃん注:活用は厳密にはおかしいが、「鍛ふ弾」「鍛へる弾」の語呂をよくした慣用表現であろう。]を出して鐡砲に込直(こめなほ)し、矢比[やぶちゃん注:「やごろ」。打ち放つに最もよい距離。言わずもがな、弓の用語を鉄砲に援用したのである。]に成(なる)を待居たるに、【此錬ひ玉と云は、一玉(ひとたま)に壹萬遍念佛を唱へながら鍊ひ揚げたる玉也、此玉を持居て身の守りとし、一所懸命の危急の時にもちゆる玉なりと。】かの女は、次第に篠を分(わけ)、近より來(きた)るまゝ、はや打留(うちとめ)んとせし所にいたりて、彼(かの)女、聲を懸ていひけるは、先(まづ)、鐡砲を止(やめ)られよ、我(われ)は申(まうす)事有て來(きた)る者也、努(ゆめ)々災ひをなすものに非ず、そこ迄參るべし、其樣に躵(ねら)ひ給ふては、我(わが)申事も聞えがたかるべしと云。其聲もしとやかにて、常の人にかはらねば、狩人(かりうど)も少しは心も弛(ゆる)みて、女の云よしをもきかばやと思ひて、近づく儘に、能(よく)見れば、容貌美麗なる十六七斗(ばかり)の少女也。然(しかれ)ども、此少女、かくは云居(いひをり)ながら、油斷させ、如何成(いかなる)目をか見せん手段(てだて)にや。何にもせよ、實(まこと)の人間の來(きた)る所に非ず、殊にかく斗り美敷(うつくしき)人間の有(ある)事をしらず。旁(よりて)[やぶちゃん注:傍に寄って。]、こなたよりも方便(たばかり)て打取(うちとる)べしと、心に油斷なく思ひ込居(こめを)る故、彼(かの)女、又云やう、兎角、我を打(うた)んと思はるれども、假令(たちほ)、如何成手練(てだれ)にても、我は錢砲などにて打るゝものに非されば[やぶちゃん注:「さ」はママ。]、心を靜(しづめ)て聞(きき)給はれと云故、勇氣もたゆみ、且は何れにも譯(わけ)を聞(きく)べしと、漸(やうや)く打留(うちとむ)る心を止(やみ)たり。其時、少女のいひけるは、我は飯田領[やぶちゃん注:御嶽山の南東にある現在の飯田市。(グーグル・マップ・データ)。江戸時代は信濃飯田藩領。]なる何村の何某の娘也、今より十三年已前の七月の事なりしが、近きわたりの川へ物洗ひに行しに、遁(のが)れぬ因緣の有て、其儘、山に入(いり)て山の神と成たり。然ども、故鄕に告(つぐ)るよしなければ、父母は是を知らず、其日を我(わが)忌日として、常々懇(ねんごろ)に吊(とむら)ひ、供養などなし給ふて、甚だ忝(かたじけな)き事ながら、わが爲には、却(かへつ)て夫(それ)が障碍(しやうがい)と成(なる)なり、我(われ)既に此所に在(あり)て、年ごろ功を積(つみ)たれば、來年は鈴鹿山(すずかやま)の神と成て、一級の昇進をも得る事と成れり。然るに、此七月は十三囘忌に當れば、又、故鄕にて佛事供養をもなし、我跡を吊ひ給ふべし、左すれば、夫が障りと成て、來年、鈴鹿の神と成(なる)事、叶ひ難し。此ことを父母に告知(つげし)らせ度(たく)思へども、告(つぐ)る事叶はず。又、誰(たれ)有(あり)て賴むべき人もなし。是を父母に告貰(つげもらは)んは、其許(そこもと)ならではなしと、日頃心に込置(こめおき)たり。依(より)て偏(ひとへ)に賴み參らするまゝ、何卒、故郷へ行(ゆき)、父母に對面して、懇に此事を告て、以來は我(わが)爲に、佛事はさら也、佛供一つ備へ吳(くれ)給はぬ樣に傳へくれられよとて、女は失去(うせさり)たり。誠に奇異の思(おもひ)をなして、夫(それ)より早々宅へ歸り、狩裝束をぬぎ捨て、信州へ趣き、かの父母を尋(たづね)て、此事を具(つぶさ)に告るに、今に存命成(なる)事かと、父母も初(はじめ)て知りて、且は驚き、且は怪(あやし)みたりとぞ。此女、家を出たるは十六歲の時にて、西應房の逢(あひ)しは十八年經(へ)ての事なれども、矢張(やはり)十六斗の少女に見え、其容貌のあでやかなる事は人間とは思へざりしといへり。これを考ふるに、仙女の容貌の美麗なる、或は女躰の御神(おんかみ)の艷色無量に渡らせ給ふなどゝ同じ事と見えたり。扨、此少女の申(まうす)には、纔(わづか)の露命を繫ぐとて、我一命に懸て、朝暮(てうぼ)、猛獸と勇(ゆう)を爭ひ、晝夜、物の命を取るを業(わざ)となすは、己(おのれ)の罪業(ざいがふ)を己(おのづ)と增(ます)わざ也、渡世は是のみにも限るまじ、餘事をなして世を渡り給へと示せし由。此事、能々(よくよく)心魂に徹せしにや、是より發心して、狩人をやめて名古屋へ出(いで)て、武家奉公などをなし、夫より江戶へも來り、後に自證院へ入(いり)て道心房と成(なり)て身まかりたり。予、以前、彼寺へ常々親敷(したしく)行し時、此僧に逢て、篤(とく)と此事を尋置(たづねおく)べしと思ひつゝ打過(うちすぎ)て、其内に、なき人となりしは殘り多し。同院の隱居念阿院【此册の初ケ條(はじめがじやう)に云置(いひおき)たる常偏阿闍梨の事也。[やぶちゃん注:この「卷の參」の巻頭の「元三大師誕生水、の不思議の事」に登場しており、この自證院の『文政年間の院家なり』という割注が附されてあることを指す。]】抔(など)も、此話は能(よく)知居(しりをり)給へども、年月、村鄕の名などは忘れたりと申されき。外に寺内に誰(たれ)も覺え居(を)るものなく、殘り多し。何(いづ)れ彼(かの)僧の若き時の事故、寛政か享和ころ[やぶちゃん注:一七八九年から一八〇四年。]の事と知れたり。 

「想山著聞奇集 卷の參」 「戲に大陰囊を賣て其病氣の移り替りたる事   附 大陰囊の事」

 

 戲に大陰囊(おほぎんたま)を賣て其病氣の移り替りたる事

  附 大陰囊の事

 

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 市谷田町(いちがやたまち)四丁目【字牛小屋といふ。】[やぶちゃん注:現在の東京都新宿区市谷田町。ここ(グーグル・マップ・データ)。元湿地を埋め立てた場所。]に、海野景山(うんのけいざん[やぶちゃん注:推定読み。])と云(いふ)周易觀相に秀(ひいで)たる賣卜者(ばいぼくしや)有(あり)。此者、生所(しやうしよ)は甲州にて、中年に至り、伊豆浦[やぶちゃん注:伊豆の海辺。]に久敷(ひさしく)住居たり。此時、景山の隣家に、疝氣(せんき)[やぶちゃん注:下腹部の痛む病気を指す。ここはその病毒の謂い。]陰囊(きんたま)に入(いり)て、段々大く成(なり)、其大さ米五斗(と)[やぶちゃん注:江戸時代の「一斗」は一定せず、幕府は一俵を三斗五升としたが、加賀藩の一俵は五斗であったとウィキの「俵」にはある。本文の描写(座った際に身体が隠れるとある)及び図の大きさから見ると、前者の大きさの一俵半弱程の量をイメージしてよかろう。]を囊に入(いれ)たる程にて、形ち丸くして、足を前の方へ組み座し居ると、頭より睾丸の方少し高く、前より見ると身躰は陰囊に隱れて見えざる程なりと。依(より)て外の手業(てわざ)は行屆(ゆきとど)かざるゆゑ、陰囊と胴との間より手を伸(のべ)て脇腹へやりて自由に草履(ざうり)・草鞋(わらぢ)を造りて商ひ、可也(かなり)に烟(けぶ)りを立て居(ゐ)たるとなり[やぶちゃん注:「思いの外、それなりの暮らしを立てておったとのことである」。]。或年十一月二日の夜の事なるが、此大陰囊の裏の方に相應の身柄(みがら)成(なる)者有て、髮置(かみおき)の祝ひ[やぶちゃん注:女児の通過儀礼の一つで「七五三」の「三」に当り、数え三歳のこの日に行った綿で出来た白髪の鬘を頭に被せてその頂きに白粉(おしろい)をつけ、櫛で左右に梳いて祝った。「髪が白くなるまで長生きするように」という願いが込められている。一般には十一月十五日に祝った。これはこの日が二十八宿の鬼宿日(きしゅくにち)に当たっており、婚礼以外ならば総ての祝い事に吉とされていたからである。]とて、名主初め大勢寄集(よりあつま)り、馳走と成(なり)、皆々、夜更(よふけ)迄、酒宴し、大酩酊と成て歸るとて、彼が門より音づれて、大玉は未(いまだ)寢ぬかと問(とふ)に、内よりへ皆樣よき御機嫌なり、ちと御立寄なされませと云(いふ)故、名主初(はじめ)五人、大生醉(おほなまゑひ)のみ込み入(いり)て騷が敷(しく)、かの景山も上戸(じやうご)なれば、此人數(にんず)に加はり、大玉の所へ立寄(たちより)たり。扨(さて)、醉のあまりに、名主戲れて申樣(まうすやう)、其玉は餘り見事也、ナント我等に、五百兩に賣(うり)ては呉(くれ)まじきやと云。彼(かの)者、聞(きき)て云樣、私の玉は、伊豆の國中にての名物なり、五百兩や千兩にてはうれませぬ、三千兩ならば賣て進ぜませうと答ふ。イヤ夫(それ)は高し、負(まけ)て置(おけ)よと云へば、イヤイヤ中々負けじといふ故、彼景山、又、戲(たはむれ)に詞を添(そへ)て申やう、成程、此玉は名物、五百兩には賣まじ、夫か迚(とて)、三千兩には誰(たれ)も買(かふ)まじ、中を取(とり)て千兩にて御賣なされませ。千兩ならば安きもの、又、賣人も千兩ならば思ひ切(きり)て放すも宜(よろ)しからんといふを玉主(たまぬし)の聞て、祕藏には候へども達(たつ)ての御所望、殊に名主樣の儀、かたがた負て上げ候べし。一ツ〆(しめ)ませうとて大勢一緒に手を打(うち)、賣買(ばいばい)の約をなして後、皆散々に歸宅なしたり。然るに其後、名主の睾丸少々痛み出し、其内に段々大(おほき)く成(なり)、後には大茶釜程に成て、難儀せしとぞ。又、玉主は、夫よりは日々夜々に玉小く成て、三年程すぎて、平人の通りに成しかば、飛脚を活計(たつき)として遠近(をちこち)へ上下せし由。されども、かの名主の玉も大きくは成たれども大玉の僅三ケ一(さんがいち)程の玉となりたるのみにて、殘り三ケ二程の分は、移る節に消滅せしものにや、いぶかしきとなり。世に忌(いみ)べきと云事あり、笑ふぺき事に非ず。兎角、惡敷(あしき)事、又嫌ふべき事などは戲れにもせぬがよく、又、善事と能(よき)眞似とは、勤(つとめ)てもするが宜しき歟(か)。名前も所もよく聞置(ききおき)たれど、今は忘れたり。景山も、俄(にはか)に母の病氣にて、國へ行(ゆき)て、再び江戸へは來らずして尋(たづぬ)るかたなく殘り多し。是を以見る時は、かの宇治拾遺に、右の顏に大ひなる瘤(こぶ)有(ある)翁、山に入(いり)て、木のうつぽにかくれて宿りけるに、多くの鬼どもの來りて舞遊(まひあそ)ぶ座に出(いで)て舞たるが、鬼どもの興となり、又必(かならず)來(きた)るべしと云て、質(しち)に預り置(おく)べしとて、鬼に瘤を拔(ぬき)とられて、常の顏となりたり。扨、隣の翁の左りの顏に大なる瘤ありけるが、この事を羨み、重(かさね)て[やぶちゃん注:再び。]先の翁に替りて、かの所に行て、鬼どもに逢(あひ)て舞つれど、下手にて興にもならず。よつて、とり置し質の瘤は返(かへ)せとて[やぶちゃん注:鬼の首魁から部下の鬼への命令形。]、やがて投付(なげつけ)ければ、又、瘤を一つ增(まし)たりとの事も[やぶちゃん注:「宇治拾遺物語」の第三話「鬼ニ瘤被取事」。『柴田宵曲 續妖異博物館 「難病治癒」(その2)』の私の注で原文を示してあるので参照されたい。]、噓とは云難し。又、戸塚の大睾丸と云事有て、昔、元祿年間[やぶちゃん注:一六八八年~一七〇四年。]の事にや、東海道戸塚宿に、大睾丸の乞食有しと云。然るに又、此宿に、明和・安永の頃[やぶちゃん注:一七六四年から一七八〇年頃。]よりにや、二代目の大玉有て、享和[やぶちゃん注:一八〇一年~一八〇四年。]頃迄も存命にて有たりと。予、子供心に、亡父の咄にて能(よく)聞置(ききおき)、又、べらべらつんだせ戸塚の金玉とて、流行唄(はやりうた)にもうたひ、名高き玉にて有たり。猶よくよく聞糺(ききただす)に、此玉も大きけれども、米の二三斗ほども入(いる)べき囊にて、前の伊豆の玉には中々及びもなき事と思はる。然れども、此玉にも一つの不思議あり。朝の四つ比(ごろ)[やぶちゃん注:不定時法で九時半頃から十時過ぎぐらい。]より八つ半比[やぶちゃん注:十時半頃から十一時頃。]

迄は、甚だ大きく、夫より夕刻前に成(なり)ては、段々と玉を操込(もみこみ)て半分程となし、囊にいれ首に懸て住所(すみどころ)へ歸り、又、朝出來りて段々揉出(もみいだ)し、四つ頃には十分に太(おほ)きくなせし由。或年、紅毛人(おらんだ)通行の時、此玉を見懸(みかけ)て申樣、彼(かれ)は實に不便(びん)の事也、水を取(とり)て治療を成遣度(なしやりたし)と、通辭を以ていはせければ、かの乞食、答(こたへ)て申樣、御志しは有がたけれども私は何の藝もなく、幸にして、今は陰囊のおかげにて、澤山に施(ほどこし)を受(うけ)、口腹(こうふく)[やぶちゃん注:飲食。]を安穩(あんのん)に養ひ候へば、治療の事は免(ゆる)し給はれと斷れりと聞傳(ききつた)へたり。海内(かいだい)第一の海道に居(を)る事ゆゑ、此玉の事は、日本國中の小童(こわらべ)迄も聞知(ききし)らぬことなかりしも妙成(なる)事也。此玉、色は黑紫にて、ぷつぶつとしたるはだにして、大痣(おほあざ)の如き色にて、陰囊の所は凹なる穴となりてあり。側に鉦を置、是を打ならして錢を乞ひ居(ゐ)たりと。又、予、文政二年[やぶちゃん注:一八一九年。]と覺えし。江戸九段坂の上にて、疝氣の足に入たる乞食を只一度見受(みうけ)たり。是の玉は、米貮斗入程の大さなれども、疝氣、陰囊より溢れて右の足に入、此足、股の所の大(ふと)さ、凡(およそ)並の人の腹の𢌞(めぐり)り程もあるべく、足首に至り、少しは細けれども、足のゆび迄も肥大となり、爪は埋め込(こみ)たる樣に成居(なりをり)たり。尤(もつとも)、色合肌合は、前に云戸塚の玉と同じ事也。此者は聢(しか)と見て、能(よく)覺え置たるまゝ、其躰(そのてい)をかたばかり、左に圖となし置ぬ。其外、大陰囊の乞食は、江戸にても、邂逅(たまさか)見當りし事も有れども、是は珍とするにたらず。又、予が友山崎美成[やぶちゃん注:(やまざきよししげ 寛政八(一七九六)年~安政三(一八五六)年):随筆家で雑学者。江戸下谷長者町の薬種商長崎屋の子で家業を継いだものの、学問に没頭して破産、国学者小山田与清(ともきよ)に師事、文政三(一八二〇)年からは随筆「海錄」(全二十巻・天保八(一八三七)年完成)に着手している。その間。文政・天保期には主として曲亭馬琴・柳亭種彦・屋代弘賢といった考証収集家と交流し、当時流行の江戸風俗考証に勤しんだ。自身が主宰した史料展観合評会とも言うべき「耽奇会」や同様の馬琴の「兎園会」に関わった。江戸市井では一目おかれた雑学者として著名であった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]、文化十二年【乙亥(きのとゐ)】[やぶちゃん注:一八一五年。]二月、戸塚宿通行せし時、往來に席を敷(しき)て、陰囊の上に鉦を置て、打ならして、錢を乞居たるを見受たり。是は三代目の大睾丸と見えたりといへり。

 

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[やぶちゃん注:左右はキャプションではなく、この前後の本文の一部。]

 

 又云、今嘉永年[やぶちゃん注:「嘉永」は一八四八年から一八五四年。]に至りて、大玉の乞食、江戸に出來(いでき)たり。玉の大(おほき)さ、米二斗入程も有て、是又、珍敷(めづらしき)玉也。是は疝氣の玉に入たるにてはなく、肉瘡(にくさう)にて、元、睾丸の脇に、纔(わづか)梅の實程成(なる)瘡(かさ)出來しを、人の云に任せ、灸をすへし故、其瘡、段々大きく成出(なりだ)し、遂にあのごときものと成(なり)、難儀せし由。全く睾丸は別にして、肉瘡の中に混(こん)じ有あり)と、或醫家の咄(はなし)ぬ。種々の異病も有ものなり。

[やぶちゃん注:以上に出た、「大陰囊」(おおぎんたま:大金玉)は、病態として「陰嚢水腫」と呼ぶが、どうもここに出るそれは三タイプを考慮する必要があるように見受けられる。

 まず、最初に出た伊豆の最も巨大な症例は、まずは(1)フィラリア症による陰嚢水腫と思われる(但し、激しい鼠径ヘルニアなどの可能性も考慮しておく必要はあるが、この大きさが事実なら、この男の生活状況から考えてもちょっとあり得ない気はする)。この場合のフィラリア症はヒトのみに寄生する線形動物門双腺綱旋尾線虫亜綱旋尾線虫(センビセンチュウ)目旋尾線虫亜糸状虫上科オンコセルカ科 Wuchereria 属バンクロフトシジョウチュウ(バンクロフト糸状虫)Wuchereria Bancroft に感染(イエカ属やハマダラカ属などの蚊の吸血の際に感染)することによって、顕在的な主症状としてはこの陰嚢水腫と主に下肢が異様に膨満変形する象皮症状で知られる。「はっとり皮膚科医院」の服部瑛氏の錦小路家本『異本病草紙』について-その5 フィラリア症(★クリック注意!★)の「図5 巨大な陰嚢水腫の臨床」の写真を参照されると、ある程度は納得がいかれるであろう(★但し、強烈なカラー画像であるのでくれぐれも自己責任でクリックされたい★)。なお、私はもっと大きな症例写真を見たことがあるのでこの想山の事例は誇張とは思われない。現在の日本では見られないが、ウィキの「フィラリア★ここにも象皮症の症例写真が載るのでクリック注意★)によれば、『アフリカ大陸、アラビア半島南部、インド亜大陸、東南アジアや東アジアの沿岸域、オセアニア、中南米と世界の熱帯、亜熱帯を中心に広く分布し、日本でもかつては』、『九州全域や南西諸島を中心に、北は青森県まで広く患者が見られた。西郷隆盛が罹患していたことが知られている』とある(下線やぶちゃん)。

 後に出る戸塚の事例は、もし、これらの症例者が血縁者であった場合は、やはり上記のフィラリアの世代感染が疑われるものの、たまたま大金玉を売り物にして乞食で知られた元祖がおり、それを聴いた者が流れて来て二代目・三代目を名乗っただけのケースであったとするならば、或いは(2)通常の陰嚢水腫(但し、これは成人でも見られるが、多くは小児、特に乳幼児に見られる)や、腸が体外方向へ大きくはみ出した嵌頓(かんとん)ヘルニアや鼠径ヘルニアであった可能性がある。しかも二十四時間で膨満と収縮を規則的に繰り返すというのはフィラリアのそれではない。或いは一代目以下の二代目や三代目もそうであったとするなら、これは寧ろ、詐病を疑うべきかもしれぬ。但し、嵌頓ヘルニアは普通は激しい痛みを伴うので、どうもこれらの孰れもそれには当たらぬように思われる。しかし、一代目のそれは、オランダ人が見て、あまりに不憫に思い、治療を慫慂したところを見ると(このオランダ人はまず医師の資格を有するのであろうから、インドやアジアで実際のフィラリア症の臨床例を見て来ており、作り物で騙される可能性は頗る低いと考え得る)、真正のフィラリアによる水腫であったとも考えられる

 最後に出るものは、それこそ初期の症状は鼠径ヘルニア・常習性の嵌頓ヘルニアにも見え、或いは有意に大きくなってしまったところからは(3)良性の腫瘤か癌性腫瘍の肥大化したものとも見られる。

 なお、「戸塚の大金玉」は、サイト「日本大道芸・大道芸の会」の大道芸通信 第172号に、『当時の大ベストセラー『東海道中膝栗毛』が刊行されたのは享和二年』(一八〇二)年で、まさにこの「大金玉」を『宿を断られた弥次さん喜多さんが戸塚で見』かけて『次の狂歌を詠んだのは二代目の大睾丸である』とあり、同書の狂歌が引かれてある(引用は後に示した国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した)。

 

 泊(と)めざるは宿(やど)を疝氣(せんき)としられたり

   大金玉(おほぎんたま)の名(な)ある戸塚(とつか)に

 

お分かりとは思うが、ブログ記者の注を引くと、『大金玉で知られた戸塚宿なのに泊めてくれないのは、宿をせん気(=しない気)だからであろう。「せん気」と「疝気」』の掛詞の洒落である。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」、持っているはずなのだが、見当たらぬ。国立国会図書館デジタルコレクションの画像当該箇所をリンクさせておく。]

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その7)

 

    *    *    * 

      *    *    *

 空の夕燒けが每日つづいた。けれどもそれはつい二三週間前までのやうな灼け爛れた眞赤な空ではなかつた。底には深く快活な黃色を匿してうはべだけが紅であつた。明日の暑さで威嚇する夕燒ではなく、明日の快晴を約束する夕榮であつた。西北の空にあたつて、ごく近くの或る丘の凹みの間から、富士山がその眞白な頭だけを現して、夕映のなかでくつきり光つて居た。俗惡なまで有名なこの山は、ただそのごく小部分しか見えないといふことに依つて、それの本來の美を保ち得て居た。この間うちまでは重なり合つた夕雲のかげになつて、それらの雲の一部か或は山かと怪しまれた西方の地平に連る灰黑色な一列は、今見れば、何處か遠くの連山であることが確かになつた。今日もまた無駄に費したといふ平凡な悔恨が、每日この夕映を仰ぐ度ごとに、彼にははげしく瞬間的に湧き上るのであつた。多分色彩から來る病的な感激を心がそれの意味に飜譯したのであつたらう。地の上の足もとを見ると、その足場である土橋の下を、渠の水が空を反映して太い朱線になつて光り、流れて居た。

[やぶちゃん注:「夕榮」「ゆふえい」。夕映え。定本では「夕映」に変えられているが、変える必要はないと私は思う。国立国会図書館の本書を読んだ馬鹿は落書きして(底本は落書きが酷い)これをわざわざ鉛筆で〈訂して〉いる。ここはより総体より感覚的な「明日の暑さで威嚇する夕燒ではな」い、「明日の快晴を約束する夕榮」を意味しているからである。

「多分色彩から來る病的な感激を心がそれの意味に飜譯したのであつたらう。」ややこなれの悪い表現で、佐藤も定本では「多分、色彩といふものが誘ふ感激が、彼の病的になつて居る心をさういふ風に刺戟したのであつたらう。」(「居る」は「ゐる」であるが、「ゐ」を底本では殆んど出さない佐藤を慮って恣意的に「居る」にした)となってすんなりと読める。]

 田の面には、風が自分の姿を、そこに渚のやうな曲線で描き出しながら、ゆるやかに蠕動して進んで居た。それは凉しい夕風であつた。稻田はまだ黃ばむといふほどではなかつたけれども、花は既に實になつて居た。さうして蝗がそれらの少しうな垂れた穗の間で、少しずつ生れ初めて居た。蛇莓といふ赤い丸い草の實のころがつて居る田の畦には、彼の足もとから蝗が時折飛び跳ねた。すると彼の散步の供をして居る二疋の犬は、より早くそれを見出すや否や、彼等の前足でそれを押し壓へると、其處に半死半生で橫はつて居る蝗を甘さうに食つてしまつた。彼等の一疋はそれを見出す點で、他の一疋よりも敏捷であつた。しかし、前足を用いて捉へる段になると、別の一疋の方が反つて機敏であつた。又一疋の方はとり逃がした奴を直ぐあきらめるらしかつたけれども、他の一疋はなかなか執拗に稻田のなかまで足を泥にふみ込んで追ひ込む。彼等にもよく觀れば各違つた性質を具へて居るのが彼を面白がらせ、且つ一層彼等を愛させた。稻の穗がだんだん頭を垂れてゆくにつれて、蝗の數は一時に非常に殖えて居た。犬は自分からさきに立つて彼を導くやうにしながら田の方へ每日彼を誘ひ出した。彼の目の前の蝗を見ると、時々、それを捉へて犬どもに食はせてやりたくなつた。それで指を廣げた手で、その蟲をおさへやうとした。犬どもは彼等の主人がその身構へをすると主人の意志がわかるやうになつたと見えて、自分の捉へかかつて居るのを途中でやめて、主人の手つきを目で追うて、主人の獲物が與へられるのを待つて居るのであつた。けれども彼は大てい五度に一度ぐらゐよりそれを捉へることが出來なかつた。ただ揉ぎとれた足だけを握つて居たりした。彼は蟲を捉へるには、それに巧でない方の犬にくらべてもずつと下手であつた。それにも拘はらず、犬どもはそんな事にまで主人の優越を信じて、主人を信賴して居るらしかつた。さうして、彼が蟲をとり逃がした空しい手をひらいて見せると、犬どもは訝しげに、主人の手の中と主人の顏とをかはるがはる見くらべて、彼等は一樣にその頭をかしげ、その可憐に輝く眼で彼の顏を見上げた。それがさも主人のその失敗に驚き失望して居る樣であつた。彼等犬には、實に豐な表情があつた!彼等は幾度もその徒らな期待の經驗をしながらも、矢張り自分達よりも主人の方が蟲を捉へるにでも偉い筈だといふ信念を、決して失はぬしかつた。彼の蝗を捉へようとする身構と手つきとを見る每に、彼等は彼等自身が既に成功して居るも同然な蟲を放擲して、主人の手つきを見つめたまま、何時までも其の惠みを待ちうけて居るのであつた。彼は空しくひろげた掌で、失望して居る犬どもの頭を愛撫して居た。犬はそれにでも滿足して尾を振つた。彼には、それが――犬どもの無智な信賴が、またそれに報ゆることの出來ない事が、妙に切なかつた。彼が人間同士の幾多の信賴に反いて居ることよりも、この純一な自分の歸依者に對しての申譯なさは、彼には寧ろ數層倍も以上に感じられた。彼は、彼等のあの特有な澄みきつた眼つきで見上げられるのが切なさに、遂には目の前の蝗を捉へようとする一種反射運動的な動作を試みないやうに、細心に努力するのであつた。

[やぶちゃん注:「田の面には、風が自分の姿を、そこに渚のやうな曲線で描き出しながら、ゆるやかに蠕動して進んで居た」火野正平はNHKの「こころ旅」でこれを『風のあしあと』と呼んでいる。謂い得て妙だ。

「蝗」「いなご」。直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae に属するイナゴ類の総称。但し、バッタ科 Acrididaeni に属させ、イナゴ亜科 Catantopinae とする場合もある。

「蛇莓」「へびいちご」。バラ目バラ科バラ亜科キジムシロ属ヘビイチゴ Potentilla hebiichigo。本書刊行当時はヘビイチゴ属に分類され、Duchesnea chrysanthaとされていたはずである。

「甘さうに」「うまさうに(うまそうに)」。

「各」「おのおの」。

「揉ぎとれた」「もぎとれた」。但し、「揉」は「揉(も)む」であって、この「もぎとる」に当てるのは誤りである。定本では「毮(も)ぎとれた」とするが、この「毮」は「毮(むし)る」で動作意義としてはやはりおよそ当該しない漢字と思う。厳密にはやはり「捥ぎとれた」が正しい

「巧」「たくみ」。

「徒らな」「いたづらな」。

「身構」「みがまへ」。]

 何日か、彼自身で手入れをしてやつた日かげの薔薇の木は、それに覆ひかぶさつて居た木木の枝葉を彼が刈り去つて、その上には日の光が浴びられるやうになつた後、一週間ばかり經つと、今では日かげの薔薇ではないその枝には、初めて、ほの紅い芽がところどころに見え出した。さうして更に、その兩三日の後には、太陽の驚くべき力が、早くもその芽を若々しい葉に仕立てて居た。しかし、彼は顏を洗ふために井戶端へは每朝來ながら、何時しか、それらの薔薇の木のことは忘れるともなくもう全く忘れ果てて居た。

[やぶちゃん注:「何日か」「いつか」。

「日かげの薔薇の木は」定本ではこの「薔薇」にわざわざ『さうび』(新潮文庫原本は『そうび』)とルビしてあるこれは即ち、我々は基本、本作の「薔薇」を常に「さうび」と音読みすることを原則とすることを佐藤はここで再確認していると言わねばならない。現在、本作の定本を黙読している恐らく九十九%の読者は知らず知らずのうちに心内で「薔薇」を「ばら」と読んでしまっていると私は推定する。それは現に慎まねばならぬということである。

 圖らずも、ある朝――それは彼がそれの手入れをしてやつてから二十日足らずの後である。彼は偶然、それ等の木の或る綠あざやかな莖の新らしい枝の上に花が咲いて居るのを見出した。赤く、高く、ただ一つ。――「永い永い牢獄のなかでのやうな一年の後に、今やつと、また五月が來たのであろうか!」その枯れかかつて居た木の季節外れな花は、歡喜の深い吐息を吐き出しながら、さう言ひたげに、今四邊を見まはして居るのであつた。秋近い日の光はそれに向つて注集して居た。おお、薔薇の花。彼自身の花。「薔薇ならば花開かん」彼は思はず再び、その手入れをした日の心持が激しく思ひ出された。彼は高く手を延べてその枝を捉へた。そこには嬰兒の爪ほど色あざやかな石竹色の軟かい刺があつて、輕く枝を捉へた彼の手を輕く刺した。それは、甘える愛猫が彼の指を優しく嚙む時ほどの痒さを彼に感じさせた。彼は枝をたわめてそれを彼の身近くひき寄せた。その唯一の花は、嗟! 丁度アネモネの花ほど大きかつた。さうしてそれの八重の花びらは山櫻のそれよりももつと小さかつた。それは庭前の花といふよりも、寧ろ路傍の花の如くであつた。然もその小さな、哀れな、畸形の花が、少年の唇よりも赤く、さうして矢張り薔薇特有の可憐な風情と氣品とを具へ、鼻を近づけるとそれが香さへ帶びて居るのを知つた時彼は言ひ知れぬ感に打たれた。悲しみにも似、喜びにも似て何れとも分ち難い感情が、切なく彼にこみ上げたのである。そは丁度、あの主人に信賴しきつて居る無智な、犬の澄み耀いた眼でぢつと見上げられた時の氣持に似て、もつともつと激しかつた。譬へば、それはふとした好奇な出來心から親切を盡してやつて、今は既に全く忘れて居た小娘に、後に端なくめぐり逢うて「わたしはあの時このかた、あなたの事ばかりを思ひつめて來ました」とでも言はれたやうな心持であつた。彼は一種不可思議な感激に身ぶるひさへ出て、思はず目をしばたたくと、目の前の赤い小さな薔薇は急にぼやけて、夏の眼がしらからは、淚がわれ知らずにじみ出て居た。

[やぶちゃん注:「石竹色」「せきちくいろ」。石竹(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensi)の花のような淡い赤い色の色名。

「嗟!」「ああ!」。感嘆符の下の一字空けはママ。底本では疑問符や感嘆符の後の字空けがなかったりあったりして統一がとられていない。

「アネモネ」キンポウゲ目キンポウゲ科イチリンソウ属アネモネ Anemone coronaria。一般的なアネモネの花径は六~十センチメートルである。

「端なく」副詞で「何のきっかけもなく事が起こるさまを指し、「思いがけなく・偶然に」の意。]

 涙が出てしまふと感激は直ぐ過去つた。併し、彼はまだ花の枝を手にしたまま呆然と立ちつくし、心のなかの自分での會話を、他人ごとのやうに聞いて居た。

 「馬鹿な、俺はいい氣持に詩人のやうに泣けて居る。花にか? 自分の空想にか?」

 「ふふ。若い御隱居がこんな田舍の人間性に饑えて御座る!」

 「これあ、俺はひどいヒポコンデリヤだわい。」

[やぶちゃん注:「田舍の人間性」底本では「田舍人間性」で、絶対のおかしいとは言えぬものの、まず脱字と勘ぐる。定本では「の」が入っている。読者の躓きを排するために敢えて定本に従って挿入した

「ヒポコンデリヤ」hypochondriaヒポコンデリー(但し、英語をカタカナ音写するなら「ハァィパァカァンドゥリィア」で全然、異なる。私はこれは「ヒステリー」と似た発音に強引にした和製英語で、中にはこれは男性の「ヒステリー」を示す用語だと真顔で誤認講釈する者もいるから性質(たち)が悪い語である)。心気(しんき)症。(医学用語としては正確には“hypochondriasis”心気症とは、身体の徴候や自覚症状の誤った解釈などによって、病気に罹患しかけている或いは罹患してしまったという思い込みと不安が持続し、それが著しい精神的苦痛や器官機能の見かけ上の不全や障碍症状を呈しているかのように見える精神障害を指す。所謂、心身症(psychosomatic disease)はその対義的疾患と言ってよい。即ち、心身症の方は、精神の持続的緊張や強いストレスを主要因として、器質的身体的な具体的疾患や障碍が実際に発生・発現する、身体疾患様病態を呈する心因原性の身体疾患を呈する障碍疾患を指す。]

夢二題

一昨日の夢――

H高校の体育館で独り「ゴルトベルグ変奏曲」を弾いているグレン・グールドが、アリアを弾き終わると、振りかえって、たった独りで聴いている僕を呼んだ。

「第一変奏を弾くのだ。」

と彼は僕に言う。

「それから最終変奏もね。それが君の『運命』さ。」

と言い添える。そうして夢の中で僕はグールドと二人で全曲を弾き上げた。聴衆は誰もいない…………

   *

今朝方の夢――

夕暮れである。M高校の小さな方の職員室の中央の大きな机に僕は蒲団を敷いて氷囊を乗せて寝ている。僕は何か重い熱病に罹っているようだ。

大きな職員室から母が入って来て、

「直史――土筆を採ってきて。土筆ご飯を作るから――」

と言う。

『アリスを散歩させながら採りに行こう……でも、もう今は土筆は終わってしまってるし……』

と、ぼぅとした頭で考えていると、6時のチャイムが聴こえた。

「……母さん……学校はもうじき、自動警備に入るから帰らなくてはいけないんだよ……」

母は

「土筆ご飯……作れないわねぇ……」

と淋しそうに言った。

僕も淋しかった…………


 

2017/05/02

「想山著聞奇集 卷の參」 「蟇の怪虫なる事」

 

 蟇の怪虫なる事


Hikivsitati

 

 蟾蜍(ひきがへる)の怪虫なりとの童蒙もしる事にて、引蛙(ひきがへる)と訓ずる事は物を己(おのれ)のかたへ吸引(すひひく)故の名にて、椽(えん)の上に有(ある)菓子など、己(のづ)と動きいで、椽下(えんのした)へ落(おつ)るは、ひきのなす業(わざ)にて、或は蚨蛉(ぶよ)蚊の類(たぐひ)を引込(ひきこみ)て喰(くら)ふ事は衆人の知(しる)事にて、珍らしからざれども、あまり不思議成(なる)事を聞(きき)たる故、記しぬ。文政元年【戊寅(つちのえとら)】頃の事と覺えし由、所は播州佐用(さよう)郷佐用宿の醴屋(あまざけや)と云(いふ)茶屋の裏庭にて、蟇(ひき)と鼬(いたち)と其間(あま)ひ凡(およそ)二尺餘も隔ちて、良(やや)久敷(ひさしく)にらみ合居(あひをり)たる内に、鼬の口より白き絲(いと)のごとき物出(いで)て、蟇の口へ入(いる)。次第に鼬弱りたる景色にて、遂に鼬は死したりと。不思議なる事也。顏の血を吸(すふ)ならば、赤き色の物なるべきに、白き色の物を吸(すひ)たるは、全く氣を吸取(すひとり)たるかと思はる。是は濱田侯の藩中多田某、佐用宿の近所、平福(ひらふく)といふ所の陣屋詰(ぢんやづめ)の節、現に見請(みうけ)たり迚(とて)、同人より直(ぢき)に聞たる咄しなり。【平福より佐用まで五十丁ありと。】

[やぶちゃん注:「蟇」の生物学的同定については後でも掲げる、「耳 之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事の私の注を参照されたい。

「文政元年」一八一八年。

「播州佐用郷佐用宿」現在の兵庫県の南西部にある佐用町(さようちょう)。(グーグル・マップ・データ)。

「濱田侯」石見国浜田藩藩主松平氏。、現在の島根県浜田市周辺((グーグル・マップ・データ))を領有した。

「平福」現在の兵庫県佐用郡平福。(グーグル・マップ・データ)。佐用の北直近。

「五十丁」五キロメートル半弱。]

 或人、此筆記を見て、是と全く同じ話有(あり)、下總の國佐原(さはら)にての事なるが、鼬一疋、材木の上にありて、其下に蟇一疋居て相對(あひたい)しけるに、やがて鼬の身躰すくめるごとくに成(なり)、口より白き絲のごときもの出て、蟇の口へ入(いる)事、良(やや)暫(しばらく)にして、鼬は次第に弱り、夫(それ)なりに斃(をち)たりと。か樣の事、諸國とも、邂逅(たまさか)には有(ある)事と見えたり。珍とするには足ざる歟(か)。

[やぶちゃん注:「下總の國佐原」千葉県北東部にあった旧佐原(さわら)市。現在は合併によって香取市となっている。]

 又、狩野伊川院(かのういせんゐん)先生、或時、座右の行燈(あんどん)の油、細く虹のことく成(なり)て發したり。是は如何成(いかなる)事と驚(おどろき)て能(よく)見れば、彼細(かぼそ)き筋(すぢ)と成(なり)たる油、其間(そのあひだ)二間(けん)餘有(あり)し、向(むかふ)の椽の下の蝦蟇(ひきがへる)の口に入(いり)たるを見て、是より、けしからぬ蟇ぎらひと成(なり)たりとの事。現に右先生の咄なり迚、或人の語りし。

[やぶちゃん注:「狩野伊川院」幕府絵所の御用絵師であった狩野栄信(かのう ながのぶ 安永四(一七七五)年~文政一一(一八二八)年)。木挽町(こびきちょう)家狩野派第八代目絵師。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。

「二間」三メートル六十四センチ弱。]

 又、備前岡山侯の藩中何某の小兒、年七つ斗りなりけるが、或日、暮合(くれあひ)より熱出て、夢中にてわつと泣出(なきだ)し、泣止(なきやみ)ては又、泣出す。何の病(やまひ)にや辨へ難く、何にもせよ、醫師を呼(よび)に遣(つかは)すべしと云(いひ)て、何某は便所へ行(ゆき)たるに、土藏の礎(いしずゑ)の所より、靑き火、燃出(もえいで)たり。是は怪敷(あやしき)と思ひ、眺め居(を)ると、奧にて小兒わつと泣出(なきだし)たり。頓(やが)て火も夫(それ)なりにきえ、泣(なき)も止(やみ)たれど、如何にも怪敷事なれば、最早、再び火は燃出ざるかとしばし眺め居(を)ると、又、陰々と火燃いでたり。しかすると等しく、又、小兒わつと泣出たり。甚(はなはだ)不審に思ひ、急ぎ燈火を持行(もちゆき)て、火の出(いで)し所を見るに、小兒の戲れにや、石を積み草などを插して、蟇躰(ひきてい)のものを拵へ置(おき)たり。その中に何か埋(うづ)めある樣子故、掘試(ほりこころみ)るに、蟇を大なる釘にて差貫(さしつらぬ)きたる儘にて埋め有(あり)しが、此蟇、死にもやらず片息(かたいき)にて苦しみ居(ゐ)たり。よつて釘を拔(ぬき)、藥など與へ放ちやりたり。其後、小兒の泣(なく)も止(やみ)、熱も段々凉(さめ)て、常躰(じやうてい)に復したりと。是も前の多田の父、若き時、牧村某と名乘(なのり)て、岡山侯の藩中に有たる時、現に此(この)奇を知居(しりをり)て時々示しに逢(あひ)たりとて、多田の語りしなり。最早、五六十年も以前の事ゆゑ、天明か寛政の初の事也と。是も怪なる事也。

[やぶちゃん注:「天明か寛政の初」「天明」は「寛政」の前で、一七八一年から一七八九年まで。例えば試みに寛政二(一七九〇)年に「六十」を足すと一八五〇年で、これは想山の没年、本書刊行の嘉永三年と一致する。]

 扨、蝦ま)[やぶちゃん注:底本ではルビは「まが」であるが、原本を確認したところ、これは底本の誤植であることが判ったので、特異的に訂した。また、「」の右には『(蟆)』と補正注する。「蟆」ならこれ単独でも「がま」で「蟇」に同じい。]の怪なる事を記したる書は、追々見當りたれども、耳囊と云(いふ)隨筆に記し有(ある)趣は、心得にも成ぬることゆゑ、全文を抄出して、爰に載ぬ。

[やぶちゃん注:以下、底本では、まるで本書の一章のように字配やポイントも組まれてしまってあるのであるが、本文で述べてある通り、あくまで根岸鎭衞の「耳囊」からの抜粋に過ぎない。]

 

 蝦暮の怪の事

   附 怪をなす蝦蟇別種成(なる)事

 營中にて同寮の語りけるは、狐狸の怪異、昔より今に至りて聞(きく)も見(みる)も多し。ひきも怪をなすもの也。厩にすめば、其馬、心氣衰へ終(つひ)に枯骨となり、人間も又、床下に蟇住(すみ)て、其家の人、欝々と衰へ煩ふ事あり。ある古き家に住める人、何となく煩ひて氣血(きけつ)衰へしに、或日、雀など椽ばたに來りしに、何の事もなく、椽下へ飛入(とびいり)て行衞(ゆくゑ)知(しれ)ず。或は猫・鼬の類(たぐひ)、椽際(えんぎは)に居(をり)しを、われと引入(ひきい)る樣に入(いれ)て行衞知ず。かゝる事、度々有(あり)し故、主(あるじ)、不思議におもひ、床(ゆか)を離し、緣下へ入(いり)、索(さが)しけるに、大きなる蟇、窪める所に住居(すみゐ)たりしが、毛髮枯骨の類(たぐひ)、夥敷(おびただしく)傍(かたはら)に有し故、全(まつたく)ひきの仕業(しわざ)なりと、彼(かの)ものを打殺(うちころ)し捨て、床下を掃除なしければ、彼(かの)病人も、日に增(まし)愈(いえ)けると也。予、壯年の時、西久保の牧野かたに罷(まか)りて、黃昏(たそがれ)のとき、庭面(にはおもて)詠(なが)め居(をり)しに、春の事なるが、通例より大なる毛蟲、石の上を這ひ居(ゐ)たりしに、椽の下より蟇出(いで)て、右毛蟲より三尺餘も隔ちし場所へ這ひ來り、暫く有(あり)て口を明(あく)と見へしが、三尺程先の毛蟲を吸行(すひゆく)と見へて、右毛蟲は蟇の口の内へ入(いり)ける。されば、年經(としへ)し蟇の人氣(じんき)を吸(すは)んも、空言(そらごと)とは思はれず。また、柳生氏の語りしは、上野寺院の庭にて、蟇、鼬をとりしことあり。是も氣を吹懸(ふきかえ)しに、鼬倒れて死せしを、土を懸(かけ)て其上に蟇の登り居(ゐ)し故、翌日、右土を掘(ほり)て見しに鼬の形はとけ失(うせ)しと。右寺院の語りしよし、咄しけるなり。

[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]

但、蟇の足手(あして)の指、前へ向きたるは通例也。女の禮をなすごとく、指先を後ろへ向ける蟇は、必(かならず)、怪をなすと老人の語りし由、坂部能州物語りなり。

[やぶちゃん注:以上は、私の「耳 之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事の電子化訳注をご覧あれかし。]

と云々。此趣に相違有間敷(あるまじき)と思はる。前條の怪をなしたる蟇も、手の指先の後ろ向(むき)なるにや、能(よく)ためし試み心得置度(こころえおきたき)事なり。【大蟾蜍(おほひきがへる)の事等、八の卷に記し置(おき)、又蟇を伏置(ふせおく)と拔失(ぬけうせ)る事は十一の卷に記し置、其餘、蟇の怪靈の事、十七の卷にも記し置たり。】

[やぶちゃん注:以前に述べている通り、本書は五巻しか伝わっていない。この割注のそれら予告も今となっては悲しいばかりである。
 
 偶然だが、
昨日と今日の火野正平の「こころ旅」は佐用町。蟇蛙の妖術のように感応した感じで面白! 

「想山著聞奇集 卷の參」 「元三大師誕生水、籾の不思議の事」

 

 想山著聞奇集 卷の參

 

 

 

 元三大師誕生水、籾の不思議の事

 

 江州淺井(あざい)郡三河村なる玉泉寺といふは、天台宗にて、近年、色衣(しきえ)の列と成る。此所は元三大師誕生の地なり。本堂は二重造(にぢゆうづくり)にて、則(すなはち)、元三大師(ぐわんざんだいし)の像を安置せり。堂の前に井(ゐ)あり。是、元三大師の誕生水也。常の井の如く、丸くして深さ六尺あまり、水は四尺ばかり湛えて、まことに淸潔なり。此井、昔より例として毎年七月七日に水を洽へけるに、水の盡(つく)るとき、井底(ゐのそこ)より籾(もみ)五六粒、かならず出(いづ)る也。年によりて、十粒あまり出る時もあり。其籾の出るを期(ご)として洽へ止むことなりとぞ。江戸市谷自證院の常偏阿闍梨【文政年間住職の院家(ゐんげ)なり。】比叡山に居(を)られし頃は、法緣により、をりをり彼(かの)寺へおはして、此事、委しく見聞(みきき)たりとて語られし故、若(もし)、其籾、古くより井に沈居(しづみをり)し物の出るのにてはなかりしにやと問試(とひこころみ)るに、決(けつし)て年經たる物にはあらず。いかにも新敷(あたらしき)籾なり。此籾の多少によりて、其年の豐凶を知るとて、近郷の農民は、此籾占(もみうら)を待(まつ)こと也とぞ。土民の云(いふ)には、昔、淺井備前守長政の兵板倉、この山奧に有(あり)て、【長政兵粮倉(ひやうらうぐら)の跡とて、今も三里程山奥に在る也。】其倉の籾、地中をくゞり來て、此所へ出る也といへども、おぼつかなし。又、此籾に不思議の事あり。年々の籾、此寺に貯へ置(おく)には替(かは)る事なきを、もし、人のもらひ得て他所(よそ)へ移せば、三日のうちに、かならず消失(きえうせ)る也。これは度々ためしみたる事にて、凡身(ぼんしん)にては、何共(なんとも)、量り知(しる)べき事に非ずと語られたり。一奇事なり。

[やぶちゃん注:「江州淺井(あざい)郡三河村」旧近江国浅井郡は現在の滋賀県の東北部にあった。今の長浜市の一部と米原市の一部に相当する。「三河村」は現在の長浜市三川町。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「玉泉寺」長浜市三川町にある天台宗栄光山玉泉寺。本尊はズバリ、慈恵(じえ)大師(良源・元三大師)。天元年間(九七八年~九八三年)に良源の開山により創建されたとされる。戦国時代に兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代以降に再建されたもの。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「色衣」墨染めの衣以外の法衣(ほうえ)。紫・緋・黄・青などの色があり、これらは総て高位の僧が着る。ここはそこの住持がそれを着ることに就いて勅許された寺院のこと。

「元三大師」天台僧元三大師(がんざんだいし)慈恵良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)。第十八代天台座主として比叡山延暦寺中興の祖とされる。中世以降は、民間に於いて厄除けの「角(つの)大師」として知られる。自ら疫病流行の折り、二本の角を生やした木乃伊のような鬼に変じて、疫病神を追い払ったという伝承に基づくもので、私の数少ない仏教アイテムの一つとして、長女マリア(シモン&ハルビック社製ビスクドール/ヘッド・ナンバー1909)の足元に飾ってある。

「洽へ」不審。この字は「うるほふ・あふ」ぐらいしか読めない。当初、「たたえる」と当て読みするのかと思ったが、シチュエーションからその読みでは繫がらない。後でもう一度、この字が使われていることから、原典がこの字を用いていることは疑いがないが、編者はルビも訂正注もしていない。これは以下の叙述から、水を汲み出すこと、「さらふ」(浚ふ)と読む以外にはないと思う。

「期として」それで完全に「終り・止め」の合図として。一期(いちご)として。]

「自證院」白蛇靈異を顯したる事など、前にも出た新宿区富久町にある天台宗鎮護山自證院圓融寺のことであろう。「常偏阿闍梨」も同じところに出た人物である。

「文政年間」一八一八年から一八三〇年。

「院家」皇族及び貴族身分出身の僧侶が居住する寺のこと。

「淺井備前守長政」浅井長政(あざいながまさ 天文一四(一五四五)年~天正元(一五七三)年)は北近江の戦国大名。浅井氏第三代にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させて北東部に勢力を持っていた。妻の兄織田信長と同盟を結ぶなどして浅井家全盛時代を築いたが、後に信長と決裂、織田軍との戦いに敗れて自害した。

「長政兵粮倉」不詳。]

 

南方熊楠 履歴書(その23) 田辺定住と結婚

 

 かくて二年余那智にありてのち、当地にもと和歌山中学にありし日の旧友喜多幅(きたはば)と申す人、医術をもって全盛すときき、むかしの話をせんと当田辺町へ来たり、それより至って人気よろしく物価安く静かにあり、風景気候はよし、そのまま当町にすみ二十年の久しき夏と冬をおくりぬ。独身にては不自由ゆえ、右喜多幅の媒介にて妻を娶(めと)る。小生四十歳、妻は二十八歳、いずれもその歳まで女と男を知らざりしなり。妻は当地の闘鶏(とりあはせ)神社とて、むかし源平の合戦に熊野別当堪増(たんぞう)がこの社で神楽を奏し、赤白の鶏を闘わせしに、白ことごとく勝ちしゆえ、源氏に味方して壇の浦に平氏を殄滅(てんめつ)せしと申す、その社の維新後初めての神主の第四女なり。裁縫、生花などを教え、貧乏なる父に孝行し嫁するひまもなかりしなり。この妻が小生近年足不自由になりてより、もっぱら小生のために菌類を採集し発見するところ多し。本邦で婦人の植物発見の最も多きはこの者ならん。この道に取っては海外までも聞こえたものなり。その父は如法の漢学者なりしゆえ、この女は『女今川』育ちの賢妻良母風の女なり。琴などもよくひくが、小生貧乏ゆえ左様のひまもなく、筒袖をきて洗濯耕作など致しおり、十八になる男子と十五になる女子あり、いずれも行く末知れざるものどもなり。

[やぶちゃん注:「二年余那智にありてのち、「田辺町へ来たり、それより」「そのまま当町にすみ二十年の久しき夏と冬をおくりぬ」南方熊楠が南紀植物類等の調査を終えて田辺の落ち着いたのは明治三七(一九〇四)年十月。勝浦に向かったのは明治三四(一九〇一)年十月末であるから、単純に言えば三年となるが、この間、勝浦から那智へと移り、また間の明治三十五年の五月から十二月までの約半年は、以下の喜多幅が主に世話をして田辺・白浜で過ごしているから、「二年余」というのは思いの外(というより流石は超人的記憶力の持ち主である彼にして当然とも言える)、正確な謂いと言える。本書簡の当段落は大正一四(一九二五)年二月に書かれたものであるから、「二十年」も正確である。「南方熊楠コレクション」の注によれば、熊楠が古い学友であった『喜多幅を訪ねたのは明治三十五年五月二十二日のことである』とある。

「喜多幅(きたはば)」喜多幅武三郎(たけさぶろう 慶応二(一八六八)年~昭和一六(一九四一)年)は産科婦人科を本来の専門とした開業医。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、『明治十六年(一八八三)四月、和歌山中学校卒業後、京都府立医学校(現・京都府立医大)を経て東京帝大医科大学で産科婦人科撰科を卒業、明治二十六年四月から田辺町大字今福町三十八番地で医院を開業した』。『田辺中学の名物校医として』も『生徒に慕われた』。『熊楠との出会いは、和歌山中学に進んでからで、熊楠によれば「和歌山中学校開業の二日ばかり前、おのおの受験中、中井秀弥、貴兄、小生三人、怪物しばいなせしこと有之」というようなことがあったようで、そのため「和歌山市を離れて小生の知友にて一番古きは貴君に御座候。小生こと身の幸ありて帰国するを得ば、何卒見捨てぬように願い奉り候」(喜多幅宛書簡、明治二十四年八月十三日付)』(アメリカ発書簡)『と記すまでの親密な間柄となった』。先に注した通り、明治三十五年の彼の田辺での歓待の際、『喜多幅を介して知った田辺の飲み友達が忘れられず』、『田辺を目指して落ち着き先を求めた』と中瀬氏は言う。また、ここで自身が述べるように、『喜多幅は熊楠に結婚を勧め、田辺・闘鶏神社宮司の娘田村まつゑを紹介、自ら仲人をつとめて長かった熊楠の漂泊にピリオドを打たせた。熊楠の長女文枝によると、二人は実の兄弟のようで、わがままな熊楠をたしなめ、喜多幅のいうことなら熊楠は何でも聞き入れるので、松枝は口ぐせのように「もしも先生のほうが早く亡くなられたら、すぐ迎えに来て下さいよ。こんな気むつかしい人残されたらかなわんから」と頼んでいたという。それかあらぬか、喜多幅没後、後を追うように熊楠も亡くなっている。喜多幅の葬儀の日、熊楠は書斎にこもって経をあげ「今日一日は喜多幅君の冥福を祈るのだから誰もそばに来るな」と目をつむって静座していたという』とある。熊楠逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二九日で、喜多幅はその十一ヶ月前の同年三月十日に亡くなっている

「闘鶏(とりあはせ)神社」和歌山県田辺市東陽にある。主祭神は伊邪那美命。「和歌山県神社庁」公式サイト内の同神社のページによれば、現行では「闘鶏」は「とうけい」と音読みしている。社伝によれば。允恭天皇八(四二四)年に熊野坐(くまのにます)神社(熊野三山の一つである、現在の和歌山県東牟婁郡本宮町本宮にある熊野本宮大社のこと。旧社地は熊野川の中州にあったが、明治二二(一八八九)年の大洪水で流失、現在地に遷座した)より『勧請したという』。『又、白河法皇の頃、熊野路に強盗多く行幸を悩ますため、熊野三所権現をこの地に勧請し、三山参詣に替えたという伝承がある』。「紀伊続風土記」には『「熊野別当湛快のとき、熊野三所権現を勧請し、新熊野と称す」とある』。「平家物語」や「源平盛衰記」によると、元暦元(一一八四)年の『源平合戦の時、熊野水軍が紅白の鶏合』(とりあわ)『せにより源氏に味方をした故事により、合権現』(あわせごんげん)『の呼称が生れ、明治維新まで新熊野合権現と称し、後、鬪鶏神社と改称された』とある。『本殿裏の神山を仮庵山(かりおやま)といい、古代祭祀跡指定地』。『社伝によると竜神信仰があり、又、経塚も発見されている』。『仮庵山は、うっそうとした自然林で、巨大な楠が大きく枝を広げていたというが、明治の頃にその森の楠の一部が伐採された時、これ以上の伐採を中止させようと南方熊楠氏は、関係者を厳しく批判し』、『抗議している』。『南方熊楠氏は植物・民俗学者で、白然保護を世にうったえ、神社合祀政策に反対運動をされた方で、鬪鶏神社宮司田村宗造氏の』四『女松枝と結婚している』と、神社庁の辛気臭い記載の中では、なかなか粋なことに、南方熊楠の事蹟まで書かれてある。『境内には社伝によると樹齢』千二百『年の大楠(市天然記念物)があり、延命長寿・無病息災の信仰があり、又、楠の葉を歯痛の患部につけ念ずると平癒するという、歯病治癒の信仰がある』。『境内地には楠の大木も多く、忠魂慰霊碑側には』樹齢八百『年の大楠(市天然記念物)がある』とも記す。「楠」絡みが面白い。

「妻」南方松枝(まつゑ)。既注

「源平の合戦に熊野別当堪増(たんぞう)がこの社で神楽を奏し、赤白の鶏を闘わせしに、白ことごとく勝ちしゆえ、源氏に味方して壇の浦に平氏を殄滅(てんめつ)せしと申す」ウィキの「闘鶏神社」には、『平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る』。『田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた』とある。「平家物語」等に『よれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地の鶏を紅白』二『色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め』、『熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという』とある。この「湛増」(たんぞう 大治五(一一三〇)年)~建久九(一一九八)年)は、ウィキの「湛増」によれば、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法体(ほったい)で二十一代熊野別当であった。そこでは彼は第十八代別当湛快の次子とする。『源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる』(「延慶本平家物語」に基づく)。平治元(一一五九)年の「平治の乱」では、父湛快が清盛方につき(「愚管抄」による)、『平氏から多大の恩顧を受けつつ、平氏政権のもと、熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにし、その勢力範囲を牟婁郡西部から日高郡へと拡大していった。湛増もまた平氏から多大の恩顧を受けつつ、若い頃から京都と熊野を盛んに行き来し』、承安二(一一七二)年頃には『京都の祇陀林寺周辺に屋敷を構え、日頃から隅田俊村などの武士を従者として養い』『つつ、当時の政治情勢に関する色々な情報を集め、以前から交流のあった多くの貴族や平氏たちと頻繁に交わっていた』。承安四年、『新宮別当家出身の範智が』二十代『別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐』した。治承四(一一八〇)年五月、『湛増は、新宮生まれの源行家の動きに気づき、平氏方に味方して配下の田辺勢・本宮勢を率い、新宮で行家の甥に当たる範誉・行快・範命らが率いる源氏方の新宮勢や那智勢と戦ったが、敗退した』(「覚一本平家物語」)。『この後、すぐさま』、『源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた。しかし』、同年十月に源頼朝が挙兵したことを知ると、それ以後は『新宮・那智と宥和を図るとともに、熊野三山支配領域からの新宮別当家出身の行命や自分の弟湛覚の追放を策し、源氏方に味方』(「玉葉」)。翌治承五年一月には『源氏方が南海(紀伊半島沖合)を周り、京都に入ろうとしたため、平家方の伊豆江四郎が志摩国を警護。これを熊野山の衆徒が撃破し、伊豆江四郎を伊勢方面に敗走させたが、大将を傷つけられたため退却した』(「吾妻鏡」)。元暦元(一一八四)年十月、湛増は第二十一代『熊野別当に補任された(「僧綱補任宮内庁書陵本」・「僧綱補任岩瀬文庫蔵本」』ほかに拠る)。『源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかの最終決断を揺れ動く熊野の人々に促すため、新熊野十二所神社(現闘雞神社、和歌山県田辺市)で紅白の闘鶏をおこない神慮を占ったとされる』(「平家物語」)。『学者の中にはこれを否定する人もいる』『が、長い時間の経過とめまぐるしく変転する政局をめぐり、湛増を中心とした関係者側に改めてこのような儀式をおこなう事情がありえたことを考慮すべきであろう』。元暦二(一一八五)年、源義経の引汲(いんぎゅう/いんきゅう:訴訟の際に弁護して支援すること。又は特定の対象の肩を持つこと。)に『よって平氏追討使に任命された熊野別当湛増は』、二百余艘(一説に三百艘)の軍船に乗った熊野水軍勢二千名(一説に三千人)を『率いて平氏と戦い、当初から源氏方として壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した』(諸「平家物語」伝本)。『これらの功績により』、文治二(一一八六)年には『熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた』(「吾妻鏡」)。また、文治三(一一八七)年、『湛増は、法印に叙せられ』(「吾妻鏡」)、『改めて熊野別当に補任された(「熊野別当代々次第」)』。建久六(一一九五)年、『上京していた鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と対面し、頼朝の嫡男源頼家に』兜『を献じ、積年の罪を赦された』。先に引いたウィキの「闘鶏神社」では弁慶を湛増の子とする伝承が紹介されているが、同ウィキの注に、「義経記」によればこの『湛増は武蔵坊弁慶の父とされるが、文学的伝承のみで確証はない』と記す。

「女今川」(おんないまがわ)沢田きちの著になる江戸前期の貞享四(一六八七)年刊の往来物(寺子屋などで用いられた各種教科書様のもの)。絵入り仮名書き。今川貞世(さだよ:了俊(りょうしゅん) 嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年?:南北朝時代の武将で歌学者で遠江今川氏の祖とされる。)の「今川状」(貞世が養子で弟の今川仲秋に与えた指南書。主内容は書の手本書であるが、人生教訓・治世方針・君主論などを含む一種の「帝王学」であったが、同時に道徳の手引きとして後世、広く親しまれ、江戸時代には学問所や寺子屋などで多くの者に愛読された。)を真似たもの。教訓書としてだけでなく、女性の習字手本としても使用された。

「十八になる男子」長男南方熊弥(くまや 明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、幼少期よりの熊楠の溺愛と過度の彼への将来の期待が窺える。『熊弥が田辺小学校(現・田辺第一小学校)三年の時、校外での上級生の粗暴といじめに対し、憤激した熊弥が憤りを露わにした投書が『牟婁新報』に出ている。題して「田辺小学児童の校外行動に就いて」。要旨は、“団長”である上級生が恣意的に“行軍”や遊びに下級生を呼び出し、従わなかったら翌日学校でいじめるという。そのため、せっかく帰宅後教えようにも遊びに行かねばといって、子どもは上級生と父母との板ばさみで困っている。教師はそうした実態を把握して校外指導に気を配れ。そして今後再び拙家の小児に迫害を加えたなら、暴をもって暴に代えるのも止むを得ないわけで、私がその団長を打ちのめしてやるからそのつもりでおれ、というものである。熊楠も世の父親と変わりなく、熊弥の家庭教育に気を遣い、いじめに悩んでいたのである』。『田辺中学校に入学してから熊弥の学力が一時不振に陥ったことがある。「拙児中学二年生にて小学では優等なりしに中学では一向劣等なり」として、その理由に今日の中学校教育が一日に七科目も八科目も断片的に詰め込む「ごもく」教育で、独習がいちばんと思うがそんな機関も、適当な新聞・雑誌もなく、仕方なく悪事をしないだけでもよいと思って学校へやっている、と述べ「学校というものあるが為に天賦が平凡になり了り申候」と嘆いている』。『中学卒業後、熊弥は高知高校(現・高知大学)へ進学の道を選んだ。その年(大正十四年)三月、二人の学友とともに高知に向かった熊弥は上陸後』、『発作に襲われ、受験をすることなく帰宅、そのまま長い療養生活に入った。病状は一進一退を続け、昭和三年から十二年まで京都・岩倉病院で治療、その後、海南市藤白に家を借り、転地養生につとめた』。『熊楠は』『好転を期して動物図鑑等を取り寄せては熊弥に与えたが、ついに健康な顔をみることなく』、『熊楠は逝った。熊楠没後、熊弥は田辺に帰り、自宅療養等を続け』、『五十三歳の生涯を閉じた』。熊楠逝去(昭和一六(一九四一)年十二月二九日)時は満三十七歳であった。

「十五になる女子」長女南方文枝(明治四四(一九一一)年~平成一二(二〇〇〇)年)サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、『昭和三(一九二八)年に田辺高女を卒業した文枝はしばらく家事を手伝』い、『昭和十年頃から』は『父の菌類写生の助手をつとめるようになった。「小生は昨今菌類の写生を娘に行はしめ、自身その記載をなすも、娘が日に四五品の写生をするに、ただ文字をならべ、筆するだけの記載が毎度おくるるなり」とその共同作業を告げた書簡もある。晩年の熊楠は、菌類図譜の完成に渾身(こんしん)の力で取り組み、その助手として文枝の存在は何よりも熊楠には大きな励みとなったのである』と記す。熊楠逝去時は満三十歳であった。]

 

佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その6)

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[やぶちゃん注:以上の最初行のアスタリスクが二つしかないのはママ。]

 或る夜、彼のランプの、紙で出來た笠へ、がさと音を立てて飛んで來たものがあつた。

 見るとそれは一疋の馬追ひである。その靑いすつきりとした蟲は、その緣(ふち)を紅くぼかして染め出したランプの笠の上へとまつて、それらの紅と靑との對照が先づ彼の目を引いたが、その姿と動作とが、更におもむろに彼の興味を呼んだ。その蟲は、長い觸角をゆるやかに動しながら、ランプの圓い笠の紅いところを、ぐるぐると廻り出して、靑く動いて行つた。さうして、時々には、壁や、障子や、取り散した書棚や、或は夜更しをしすぎて何時になれば寢るものともきまらない夫を勝手にさせて自分だけ先づ眠つて居る彼の妻の蚊帳の上などへ、身輕に飛び渡つては、鳴いて見せた。「人間に生れることばかりが、必ずしも幸福ではない」と或る詩人が言つた「今度生れ變る時にはこんな蟲になるのもいい」或る時、彼はそれと同じやうなことを考へながらその蟲を見て居るうちに、ふと、シルクハツト上へ薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)のとまつて居る小さな世界の場面を空想した。あの透明な羽を背負うた靑い小娘の息のやうにふわふわした小さな蟲が、漆黑なぴかぴかした多少怪奇な形を具へた帽子の眞角なかどの上へ、賴りなげに然しはつきりととまつて、その角の表面をそれの線に沿うてのろのろと這つて行く‥‥。それを明るい電燈が默つて上から照して居た‥‥。彼は突

[やぶちゃん注:この段落は冒頭の一字下げない。かといって、前の一文と繋がっているのかと言えば、底本は前の行の最後が一字分、空欄になっている。定本では改行となっているから、ここは字下げをしなかった校正ミスととり、独立段落として、冒頭を一字下げて示した。なお、ここの「廻」の字はママで、本書では「𢌞」と「廻」の活字が混用されている。

「馬追ひ」直翅(バッタ)目キリギリス亜目キリギリス科ウマオイ属ハヤシノウマオイHexacentrus japonicus か、ハタケノウマオイ Hexacentrus unicolorウィキの「ウマオイ」によれば、両種は『外見上の違いはほとんどないが、鳴き声が異な』り、ハヤシノウマオイは最も耳にすることが多く、私などは専ら「スイッチョン」と異名で呼んでいるところのあの鳴き声、『「スィーーーッ・チョン」と長くのばして鳴』くのに対し、ハタケノウマオイの方は『「シッチョン・シッチョン……」と短く鳴く』。『前者は下草の多い林に棲むが、林といっても屋敷の庭程度の量の樹木さえあれば』、『生息条件を満足する。後者は名の通り畑の片隅や小河川沿いの草原によく見られる』とあり、主人公の家屋周辺の環境から見ると、孰れともとれる。

「動しながら」「うごかしながら」。

『「人間に生れることばかりが、必ずしも幸福ではない」と或る詩人が言つた』この箇所は定本では、『「人間に生れることばかりが、必ずしも幸福ではない」と草雲雀(くさひばり)に就てそんなことを或る詩人が言つた』と書き変えられてある。

「薄羽蜉蝣(うすばかげろふ)」佐藤の観察と知見が正確であるとするならば、昆虫綱有翅昆虫亜綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類を指すが、よほどの昆虫フリークでない限りは、これを確信犯として名指すことは普通は出来ないと思われる。何を言いたいかと言えば、佐藤が真正のカゲロウ類(蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraに属する昆虫の総称)と区別して、これを「薄羽蜉蝣」と認識しているとは私には思われないからである。カゲロウと十把一絡げに名指しているものの中には、形状が酷似しながらも、真正のカゲロウではない、全く異なった種であるところの、このウスバカゲロウや、脈翅(アミメカゲロウ)目脈翅亜(アミメカゲロウ)亜目クサカゲロウ科 Chrysopidae に属するクサカゲロウなどが「カゲロウ」として現在でも混同され、誤認されているからである。より詳しくは「生物學講話 丘淺次郎 第八章 団体生活 一 群集」の私の「かげろふ」の注を参照されたい。

「ぴかぴかした」底本は「ぴかかした」。脱字と断じて、定本で訂した。

「眞角」定本では「まつかく」とルビする。]

 何故に彼がシルクハツトと薄羽蜉蝣といふやうな對照をひよつくり思ひ出したか、それは彼自身でも解らなかつた。唯、さういふ風な、奇妙な、纖細な、無駄なほど微小な形の美の世界が、何となく今の彼の神經には親しみが多かつた。

 馬追ひは、夜、彼のランプを訪問した。彼は、最初には、この蟲が何んのためにランプの光を慕うて來るのか、さてその笠をぐるぐると𢌞るのか、それらの意味を知らなかつた。併し、見て居るうちに直ぐに解つた。それは決してその蟲の趣味や道樂ではなかつたのである。この蟲は、其處へ跳んで來て、その上にたかつて居るところのもう一層小さい外の蟲どもを食ふためであつた。それらの蟲どもは、夏の自然の端(はし)くれを粉にしたとも言ひたいほどに極く微細な、たゞ靑いだけの蟲であつた。馬追ひは彼の小さな足でもつてそれらの蟲を搔き込むやうに捉へて、それを自分の口のなかへ持つて行つた。馬追ひの口は、何か鋼鐵で出來た精巧な機械にでもありさうな仕掛に、ぱつくりと開いては、直ぐ四方から一度に閉ぢられた。一層小さな蟲どもはもぐもぐと、この强者の行くに任せて食はれた。食はれる蟲は、それの食はれるのを見て居ても、別に何の感情をも誘はれないほど小さく、また親みのないものばかりであつた。指さきでそれを輕く壓へると、それらの小さな蟲は、靑茶色の斑點をそこに遺して消去せてしまう[やぶちゃん注:ママ。]ほどである。

[やぶちゃん注:「この蟲は、其處へ跳んで來て、その上にたかつて居るところのもう一層小さい外の蟲どもを食ふ」ウィキの「ウマオイ」によれば、ウマオイは『華奢な姿に似合わず肉食性が大変強く、他の小昆虫を捕らえて食べる。複数の個体を同じ容器に入れると共食いが頻発する』。『キリギリスやヤブキリ、各種コオロギと異なり、人工飼料にあまり餌付かない。与えても少し口を付ける程度である。一方、生きた昆虫や死んで間もない新鮮な死骸を与えると喜んで食べる』とある。

「親み」「したしみ」。

「消去せてしまう」「きえうせてしまう」。「う」はママ。]

 馬追ひは、或る夜、どこでどうしたのであるか、長い跳ねる脚の片方を失つて飛んで來た。

[やぶちゃん注:なお、定本では最後に『長い觸角の一本も短く折れてしまつて居た。』と附す(「居た」は本書に合わせて私が「いた」(ゐた)を書き変えて示した)が、これはあざとい仕儀と言わざるを得ない。事実、そうであったなら、この未定稿でもそう書くはずであると私は思うからである。]

 遂には或る夜、彼の制止をも聞かなかつた猫が、書棚の上で、彼の主人の夜ごとのこの不幸な友人を捉へた。さんざんに弄んだ上で、その馬追ひを食つて仕舞つた。彼は今度生れ變る時にはこんな蟲もいいと思つたことを思ひ出すと、こんな蟲とてもなかなか氣樂ではないかも知れないと小さな蟲の生活を考へて見た。

 彼がそんな風な童話めいた空想に耽り、醉ひ、弄んで居る間に、彼の妻は寢牀の下で鳴くこほろぎの聲を沁み沁みと聞きつつ、別の童話に思ひ耽つて居るのであつた。こほろぎの歌から、冬の衣類の用意を思うて猫が飛び乘つても搖れるところの、空つぽになつた彼女の簞笥の事を考へ、それから今は手もとにない彼の女のいろいろな晴着のことを考へた。さうしてそれ等の着物の縞や模樣や色合ひなどが、一つ一つ仔細に瞭然と思ひ浮ばれた。又それにつれてそれ等の一かさね一かさねが持つて居る各々の歷史を追想した。深い吐息がそれ等の考へのなかに雜り、さてはそれが淚ともなつた。彼の女は、女特有の主觀によつて、彼の女の玩具の人生苦を人生最大の受難にして考へることが出來た。さうして其悲嘆は、然も訴ふるところがなかつた――これ等のことを今更に告げて見たところで、それをどうしようとも思はぬらしく「何ものも無きに似たれどもすべてのものを持てり」といふやうな句を、ただ聞かせるだけで、一人勝手に生きて居る夫を、象牙の塔に夢みながら、見えもしない人生を俯瞰した積りで生きて居る夫を、その妻が賴み少く思ふことは是非ない事である。彼の女は、時々こんな山里へ來るやうになつた自分を、その短い過去を、運命を、夢のやうに思ひめぐらしても見た。さて、今でもまだ舞臺生活をして居る彼の女の技藝上の競爭者達を、(彼の女はもと女優であつた)今の自分にひきくらべて華やかに想望することもあつた。‥‥‥‥Nといふ山の中の小さな停車場まで二里、馬車のあるところまで一里半、その何れに依つても、それから再び鐵道院の電車を一時間。眞直ぐの里程にすれば六七里でも、その東京までは半日がゝりだ‥‥‥‥それにしても、どんな大理想があるかは知らないが、こんな田舍へ住むと言ひ出した夫を、又それをうかうかと賛成した彼の女自身を、わけても前者を彼の女は最も非難せずには居られなかつた。遠い東京‥‥‥‥近い東京‥‥‥‥近い東京‥‥‥‥遠い東京‥‥‥‥その東京の街々が、アアクライトや、シヨウヰンドウや、眠らうとして居る彼の女の目の前をゆつくり通り過ぎた。

[やぶちゃん注:「彼の女の玩具の人生苦」隠喩。「彼の女の」誰かに弄ばれては飽きられる「玩具の」ような「人生苦」。

「何ものも無きに似たれどもすべてのものを持てり」禪語で、蘇軾の詩句の一節ともされる「無一物(もつ)中(ちう)無盡藏」の和文語訳であろう。

「俯瞰」底本は「腑※」(「※」「瞰」の中央部を「享」に変えた字体)であるが、読めない。定本で訂した。

Nといふ山の中の小さな停車場」現在の横浜線長津田駅のことであろう。ウィキの「横浜線によれば、同鉄道線は明治四一(一九〇八)年九月に『八王子や甲信地方で生産された生糸を横浜へ輸送することを目的として、横浜鉄道によって東神奈川駅 - 八王子駅間』『が開業。東神奈川駅・小机駅・中山駅・長津田駅・原町田駅(現在の町田駅)・淵野辺駅・橋本駅・相原駅・八王子駅が開業。相原駅 - 八王子駅間に北野聯絡所が開業』したが、明治四三(一九一〇)年四月に『内閣鉄道院が借り上げ、八浜線(はっぴんせん)とな』り、大正六(一九一七)年十月一日に『国有化され、鉄道院横浜線とな』っている(下線やぶちゃん)。佐藤春夫が元芸術座の女優川路歌子(本名・遠藤幸子)とともにこの神奈川県都筑郡中里村字鉄(現在の横浜市青葉区鉄町)に移った時期や、本未定稿の発表は実際の国有化の直前であるが、下線の通りであり、叙述自体に何らの齟齬はない

「アアクライト」アーク灯のこと。アーク放電(electric arc)に伴う発光を利用した電灯で、特に炭素電極によるアーク放電灯のこと。明治初期に街路灯に用いられた。]

「想山著聞奇集 卷の貮」 「神物の靈驗にて車に曳れて怪我なかりし事」

 

 神物の靈驗にて車に曳れて怪我なかりし事

 

Mitahatimanema

 

[やぶちゃん注:絵馬の左キャプションを電子化してみるが、大学時分、図書館学の古文書読解の資料特論をよくサボった罰か、一部は自信がなく(本文五行目は二人の教え子の助言を得てやっと確定出来たが、本文六行目は彼らもお手上げで、今の判読にはどうも自信がない)、最後の奉納次第の添書きには判読出来ない箇所がある(これは字が小さくしかも潰れていて物理的に判読がし難い。それでもかなり強引に判読して判読不能字(□)を一字まで減らしてはある)。判読の誤りや判読不能箇所の読みがお判りになる方の御教授を切に乞うものである。

 

元祿五年八月十四日

祭禮之節七町目にて

五郎左衞門悴八三郎七才之者

九町目吹貫の車ひかれ足

さきよりあばらをかけひかれ

候後に頭赤く惟にそけてその

かをすりむかれ候得共けがなく

たすかり申候義

八幡宮御利生ひとへ難有奉存候

依之則爲御禮此繪馬拵江九月朔日

かくたてまつる者也

  元祿五年九月朔日

 

            八町目

              九郎衞門悴

              五郎左衞門

              左右衞門

 

     此御神事にあたりて御利生ありし

     志なし年を經直廢せむ事を惜此處

     に於乃御入爲寄進を奉候ものなり

      天保十一庚子年

        小網町□

         八月

             駿河屋平兵衞

                  原復

 

「元錄五年」は壬申(みずのえさる)で「八月十四日」はグレゴリオ暦一六九二年九月二十四日。これが事件の起こった正確な日付である。

「吹貫」は「ふきぬき」と読み、江戸の祭礼の山車(だし)の古形の一形態。本来は竹などを曲げて弓のような形にした竿の先に長い布を旗のように付けた馬印、所謂、戦旗の一種であったものが祭りの練り物に転じたもの。ウィキの「江戸型山車」によれば、『二輪の台車に立てて据え付け、牛に引かせるようにした』山車で、『外観は車の上に一本の柱が立ち、その柱の上のほうに大きな吹貫を付け、柱の先端には人形等の飾り物を』が飾られたとあり、この図のそれとよく一致する。但し、『この形式の山車は後に江戸で用いられることはほとんどなくなってしまったが、江戸で古くからある町といわれる大伝馬町と南伝馬町は、明治に至るも同じ内容の吹貫型の山車を山王祭と神田祭の双方に出していた』とある。

「足」「さきよりあばらをかけひかれ」

――「足」「前」(あしさき)「より」〔:から。〕「あばら」【肋(あばら)】「を」「かけ」【驅(か)け:或いは「掛け」「懸け」で車輪にひっ「かけ」ともとれなくもない。】)「ひかれ」【轢(ひか)かれ】」――

この「足」は、前行末で断定の助動詞「たり」として切って読むことも可能だが、そうすると次行の「さきより」が語として落ち着かなくなる。

「かけひかれ」「候後に頭赤く惟にそけてその」「かを」

――【驅け轢かれ】「候後に」(さふらふのちに)《その》「頭」(かしら)「赤く」「惟に」(ただに:無暗に。かなり広く。)「そけて」【削(そ)げて】「その」「かを」【顏】――

困った。「惟にそけてその」の部分が実は全く自信がない。全く違う文字列かも知れぬ。当初、私も教え子らも「帷子」(からびら)と読んだのであるが、それではしかし、直下の文字列がどう読み換えて見ても続かないように思われるので、以上を敢えて掲げた。「帷子」で続いた方がシチュエーションの解説としては豊かになるのであるが……。

「かをすりむかれ候得共けがなく」

――「かを」【顏】《を牛車或いは地面に》「すりむかれ」【擦り剝かれ】「候得共」(さふらえども:歴史的仮名遣でも多くの字下文書がこのように訓じている。)「けがなく」【怪我無く】――

「志なし」苦しいが――「利生」(りしやう(りしょう)」を「神」さまが「志(こころざし)成し」呉れたこと――という名詞節で読んだ。

「年を經直廢せむ事を惜」「としをへ」、「直」(ぢき)《に》「廢」(はい)「せむ事」(こと)「を惜」(をしみ)。

「於乃」「おいてすなはち」と読んだ。但し、この「に於乃御入爲」の文字列全体がトンデモ判読かも知れぬ(実は、自分で最終的に「御入爲」と当てながら、文字列自体がこれでは読めない。「御入用」かとも思ったが、どうも崩し方が「用」のとは思われない)。平に識者の御教授を乞う。

「小網町□」最後は「中」か「内」かも知れぬ。下部の左右の広がり方からは「内」か?

「原復」当初、「原振」と判じたが、これでは判じ物になってしまい、だめだ。本文によれば、古びた絵馬の廃絶を歎いて、「駿河屋平兵衞」が修復したものなのだから、これは「原復」(原(もと)に復(ふく)す)と書いてあるのではなかろうか、と勝手に推理して判読した。大方の御叱正を俟つものではある。

「天保十一庚子年」一八四〇年。同年は庚子(かのえね)で正しい。]

 

 江戸芝(しば)三田(みた)の八幡宮は田町七町目に在(ましまし)て、近邊の土産神(うぶすな)なり。社傳に云(いふ)。祭神は應神天皇御長一尺三寸六分、弘法大師の作、仲哀天皇御長一尺一寸五分、傳教大師の作、神功皇后御長一尺四寸五分、同作、並(ならび)に天児屋根命(あめのこやねのみこと)[やぶちゃん注:「児」は底本のママ。]・武内宿禰(たけのうちのすくね)との五座にして、人皇四十三代元明天皇の御宇、此地に鎭座ましくて、其頃は勅願の大社にて、奉幣使なども度々下向有(あり)し社地にて、延喜式内の薭田(ひえだ)の神社なりといへり。元祿年中、祭禮の節、五郎左衞門といふ者の子、過ちて祭禮の牛車(ぎつしや)に曳(ひか)れたれども、怪我もなかりしとて、靈驗の事を繪馬となし、かの八幡の社に掲(かかげ)て在(あり)しが、近頃は堂内にも見えざるまゝ、如何成(いかになり)しぞと別當所にて【別當は天台宗にして眺海山無量院といふ。】懇(ねんごろ)に尋ね索(さぐ)りければ、其繪馬は古く成(なり)て損ぜし故、仕舞置(しまいおき)たりとの事故、乞(こひ)て其圖を寫來(うつしきた)り、縮寫(しゆくしや)してこゝに載す。此繪馬に有(ある)七町目とは、芝田町の七町目の事にて、則ち、八幡の社ある町内にて、九町目は高輪(たかなは)へ出(いづ)る所の町也。今に始めぬ事なれども、惣(すべ)て神佛の靈驗は人智の及ぶ事に非ず。仰(おほす)も愚(おろか)なる事也。此繪馬、今に廢絶して、神德の諸人へ傳(つたは)らざらんことを歎きて、同所九町目に住(すめ)る駿河屋平兵衞【程なく小網町へ轉宅す。】と云者に語りしに、同人驚(おどろき)て、忽(たちまち)、修復を加へ、今は又、拜殿に掲て數百年に傳ふる基(もとい)とはなりぬ。呉々(くれぐれ)も神德の靈妙、恐入(おそれいり)たる事也。【此御神の靈驗の事、廿五の卷にも記し置(おき)ぬ。】

[やぶちゃん注:この絵馬……もう……ないんやろうか?……あったら見たいなあ……

「江戸芝三田の八幡宮は田町七町目に在(ましまし)て、近邊の土産神(うぶすな)なり」現在の東京都港区三田三丁目七番にある御田(みた)八幡神社。ここ(グーグル・マップ・データ。但し、地図上には神社名はない)。公式サイトはこちら。縁起や祭神の確認はこちらでどうぞ。ウィキの「御田八幡神社」もリンクさせておく。

「一尺三寸六分」四十二・七センチメートル。

「一尺一寸五分」三十四・八センチメートル。

「一尺四寸五分」四十八・七センチメートル。

「天児屋根命」春日権現・春日大明神と同じい。登場するポピュラーなシークエンスとしては、天照大神の「岩戸隠れ」の時、岩戸の前で祝詞(のりと)を唱え、大神が岩戸を少し開いた際に太玉命(ふとだまのみこと)とともに鏡を差し出している。また、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴しており、「古事記」では中臣連(なかおみのむらじ)の祖となったと記す。名前の「こやね」は「小さな屋根の建物」の意で、託宣神の居所のことと考えられている。

「人皇四十三代元明天皇の御宇」女帝。在位は慶雲四(七〇七)年~和銅八(七一五)年。

「薭田(ひえだ)の神社」公式サイトの由緒に和銅二(七〇九)年『牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた』とある。但し、同名の神社については東京都大田区蒲田に薭田(ひえた)神社が現存し、ウィキの「稗田神社の記載では「延喜式」の同じものを引いてある。話の本筋とは無縁であり、興味もないので、どちらが本物かは考証しない。悪しからず。

「別當は天台宗にして眺海山無量院」不詳。但し、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の「御田八幡神社」(はっきり言って上の公式サイトやウィキなんぞよりも遙かに知見するところが多い)を見ると、別当寺としてあったことが判る。しかし現存しない模様である。

「小網町」現在の東京都中央区日本橋小網町(こあみちょう)か。商売で成功したものか。

「廿五の卷にも記し置ぬ」以前に述べた通り、本書は五巻で板行は終り、残りは散逸して今に伝わらない。惜しむべし。後の「十四の卷」「八の卷」もみな同じ。]

 

 又、是と同談有(あり)。上總國武射(むさ)郡芝山(しばやま)觀音寺は、往古は各別の佛閣にて、今も猶、衆人しり尊(たつと)む靈場にて、本尊觀世音菩薩幷二王尊は、靈驗新(あらた)なる事、世に勝れ給ひ、是又、衆人の能(よく)知(しる)所なり。此寺に三層の塔を建立するとて、享和元年【癸亥(みづのとゐ)】の春の事なりしが、遠近(をちこち)の男女(なんによ)、競(きそひ)て材木を曳集(ひきあつ)む。此時、就中(なかんづく)、大材を伐出(きりいだ)し、數人(すにん)蟻の如くに囲繞(ゐねう)して、曳々聲(えいえいごゑ)を出して引來(ひききた)りたり。元來、此木は天狗の惜みたる由來の有(あり)て、その天狗、腹立(はらだち)してなせし怪(くわい)にや、此(この)車、俄(にはか)に群集の中を馳出(かけだ)して止まらず。人々驚きて迯除(にげのき)たれども、同國高田と云(いふ)所の金兵衞父子、小池郷の藤藏(たうざう)の母、中澤村の茂惣次(もさうじ)と云もの都合四人迄倒れて、車(くるま)其上を引割(ひきわり)たり。四人共、身躰(からだ)悉く粉(こ)のごとく成(なる)べきに、不思議や、衣服のみ斷々(だんだん)と破裂して、其身は何(いづ)れも怪我もなく、少しの痛(いたみ)もなくて恙なかりしと也。金兵衞にや、茂惣次にや、博多縞の帶を〆(しめ)て居(をり)たりしに、其帶は引(ひき)きれたりとの事も、追(おつ)て誰(たね)にか慥(たしか)に聞(きき)たり。是は江戸赤坂中通りの質屋與兵衞と云(いふ)者、かの近郷の生れのものにて、其時の形勢(けいせい)よくしり居(をり)て語りしを前の八幡宮の靈驗と全く同樣と思ひ、能(よく)聞取置(ききとりおき)しなり。此事、かの寺の略緣起にも記しあれども、今少し、事(こと)麁(そ)なる[やぶちゃん注:雑な感じである。]樣に思ふ故、具(つぶさ)に記し置ぬ。且、緣起には二王尊の擁護にやとあれども、予は觀音の妙智力とは此(この)事かと思ふなり。【本尊は十一面觀音にして慈覺大師の作。祕佛、又、前立(まへだち)も同作の觀音にて、三十三年目に一度づゝ開扉(かいひ)有(あり)となり。】しかれども、此二王尊は怪變奇異なる靈驗をなし給ふ事、少なからず。猶、十四の卷にも、此二王尊の靈驗の事を記し置(おく)。八の卷、太宰府の飛梅、不思議を顯す條にも、此二王尊靈驗の事、記し置たり。左すれば二王尊の擁護にや、何にもせよ、現妙感(かんじ)奉るも中々あまり有(ある)事也。

 

 想山著聞奇集卷の貮 終

 

[やぶちゃん注:「上總國武射郡芝山」現在の千葉県山武(さんぶ)郡芝山町(しばやままち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「觀音寺」現在の山武市松尾町山室に真言宗の観音寺があり(ここ(グーグル・マップ・データ))、また、近くの山武郡横芝町横芝にも同じ真言宗の観音寺があるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、現在の芝山町には二つとも近いものの、ちょっと違う感じがした。そこで再度、調べ直したところ、千葉県山武郡芝山町芝山に天台宗の通称で「芝山仁王尊」と称する天應山観音教寺福聚院なる寺が見出された(ここ(グーグル・マップ・データ))。同寺公式サイトの解説によれば、この寺は本尊が十一面観世音大菩薩で、その脇士(脇侍芝に同じ)芝山仁王尊とし、関東天台旧制伴頭拝領寺院とある。由緒ある寺(本文「往古は各別の佛閣」。公式サイト解説には、『徳川幕府の庇護の下、十万石の格式を持つ伴頭拝領寺として関東天台の中核をなす寺院となりました。特に火事泥棒除け・厄除けの仁王尊天として大江戸の庶民の信仰を集め、いろは「四十八組」の町火消が纏を先頭に競って参詣したと伝えられます』。『現在でも有名な新門辰五郎の旧「を組」の記念碑が境内に建っており、その信仰が今日迄連綿として伝えられている事が分ります』とある)で仁王(本文「二王」)で完全に一致する。「觀音寺」と「観音教寺」の違いはあるが、三重塔も現存するから間違いなく、ここである。同公式サイトによれば、観音教寺の前史は、創建が天応元(七八一)年とされ、それが山号の由来とし、「日本年代記」によれば光仁天皇の宝亀一一(七八〇)年の正月、『平城京が雷火に襲われ、皇室擁護の寺院が多く焼失したので、諸国に命じて新たに仏寺を建立せしめたとあり』、『丁度その時、征東大使として蝦夷平定の任にあった中納言藤原継縄』(つぐただ 神亀四(七二七)年~延暦一五(七九六)年)『がこの布令の下に当地に寺院を建立し、御本尊として奉持して来た十一面観世音大菩薩を奉安したのが、当寺の始まりであると伝えられて』いるとする。その後、天長二(八二五)年に、『後に第三代天台座主となった慈覚大師円仁により中興され、次第に甍の数を増やし、近隣に八十余宇の子院を置くに至ったと伝え』その後の治承年間(一一七七年~一一八一年)には『千葉介平常胤の崇敬を受け』て、多くの寄進がなされ、『永く祈願所として栄え』たが、『秀吉の小田原攻めの影響を受け、当山も全山灰土と化したと伝えられ』るとある。

「三層の塔」公式サイトの境内案内を見られたい。公式サイトでは、『軒廻りは、初重・二重共並行垂木ですが、三重は扇垂木で、屋根を大きく見せる工夫が為されております』とあり、『三間四方、軒高は、初重』が四・六〇メートル、二重目が九・〇五メートル、三重目が十三・二八メートルで、『総高(側柱礎石より相輪宝珠上端まで)』二十四・九八メートルとあり、写真を見てもなかなかな荘厳(しょうごん)である。

「享和元年【癸亥】」誤り。「享和元年」(一八〇一年で寛政十三年から改元)は辛酉(かのととり)で違う。「癸亥」なのは享和三(一八〇三)年である。「元」は「三」の誤記ではないか? 但し、公式サイトの解説によると、この塔、そう簡単に完成していないことが判る。まず、もともと原三重塔があったらしいが、それはなくなり(原因は書かれていないので不明。焼亡か)、寛政九 (一七九七)年にその再建を当時の第四十二世住持が発願し、文化一一(一八一四)年の第四十四世の代に素建され、天保七(一八三六)年の第四十六世の代に『九輪完成と、実に五代の住職』四十『年に亘る大事業で』あったとあるから、ここに出るそれはまさにこの塔の再建事業の初期の出来事であることが判る。

「曳々聲(えいえいごゑ)」「ひきびきこゑ」では何となくしょぼい。但し、ここでの意味は「エンヤコラ! エイ! エイ!」という「力を込めて曳(ひ)くためのかけ声」ではあろう。「曳曳(えいえい)」と言う熟語自体は存在するが、この意味は声などを「長くひくさま・のびやかなさま」であって、これでは、またしても「曳く」力が一向に入らず、しょぼいように思われる。

「同國高田」観音寺からは近いところでは、現在、同じ山武郡に芝山町に高田がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「小池郷」現在の山武郡芝山町小池であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「中澤村」不詳。

「本尊は十一面觀音にして慈覺大師の作。祕佛、又、前立も同作の觀音にて、三十三年目に一度づゝ開扉有となり」「前立」(まへだち)は厨子などの中の本尊の前に安置される仏像のこと。秘仏などで公開が禁じられていたりする場合、参拝者が拝することのできるように代わりに据えたものである。公式サイトには「慈覺大師の作」とはなく、前に引いたように彼は中興であり、本尊はそれ以前からあったように読める。前立の観音も公式サイトにはない。

「此二王尊」公式サイトの境内案内によれば、現在、この仁王像は参道にある大きな仁王門(明治一五(一八八二)年完成)にある。通常の仁王は観音の門番として山門を通る際に拝むものであるが、この寺のそれは『畳の敷かれた堂内、内陣須弥壇の上にお祀りされている非常に珍しい』もので、『この理由は、お仁王様の霊験があまりにもあらたかであるので、観音様の化身と考えられ、仏様と同じように須弥壇の上お厨子の中にお祀りされるようになったと言い伝えられてい』るとある。ウィキの「観音教寺によれば、平成一九(二〇〇七)年から二年に亙った仁王尊像の解体修理の際、この仁王像は嘉慶二(一三八八)年七月に建立されたもので仏師は備前阿闍梨阿闍梨幸信であり、応仁二(一四六六)年八月の大風で仁王尊像及び鐘楼門が被害を被ったこと、文明二(一四七〇)年に阿形像の方のみが解体修理され、永正一七(一五二〇)年には阿吽両像ともに解体修理がなされたことが判ったとある。]

 

2017/05/01

譚海 卷之二 江戸三傳馬町天王由來の事

 

江戸三傳馬町天王由來の事

○江戸大傳馬町は、むかし寶田村と云(いふ)所也。小傳馬町は千代田村と云所にして、いづれも六本木と云(いひ)、奧州へ往來の馬繼(うまつぎ)也。さるに因(より)て傳馬の公役にあてられ、今も是をつとむる事也。常磐橋の内に千代田稻荷とてあるは、傳馬町より移し祀りたる也。又藤田明神社地に牛頭(ごづ)天王三所まします、則ち大傳馬町・小傳馬町・南傳馬町三所の天王なりしを、正德中疫病流行せし夏、小傳馬町の天王御旅所(おたびしよ)に御出ありし神輿(しんよ)を、小船町へかり行(ゆき)疫氣(えきき)を壓(あつ)せしより、御輿(みこし)を返し奉らず、永く小船町御旅所に成(なり)たる事也。又加藤善三郎と云者、國初より傳馬町に住(ぢゆう)し、その居所北側の地は拜領屋敷也。東照宮御杖(おんつえ)にて畫(かく)し賜りける由をいふ。

[やぶちゃん注:「三傳馬町」「さんでんまちやう」と読んでおく。ウィキの「伝馬町」てんまちょう)によれば、『江戸幕府の本拠地であった江戸の場合、江戸城の大手門にほど近い日本橋を中心に五街道が整備され、日本橋の周辺に五街道向けの伝馬を担う大伝馬町・南伝馬町と江戸内部の伝馬を担う小伝馬町が設けられた(南伝馬町は現在は京橋の一部となっているが、大伝馬町と小伝馬町は現在も日本橋大伝馬町』(現行読みは「にほんばしおおでんまちょう」。(グーグル・マップ・データ)。西北に小伝馬町が、図の下方中央が京橋地区)『・日本橋小伝馬町』(現行読みは「こでんまちょう」)『として地名が残る)』(孰れも中央区)。以下は江戸に限らぬ各地の伝馬町の属性であるが、興味深いので引いておく。『時代とともに、伝馬町の住人で実際に伝馬に関わるのは伝馬役所が置かれた町名主の家などに限定され、多くの地主や家持は金銭などの形で伝馬役を負担した。伝馬町は伝馬役の負担によって城下町の他の地域よりも過重な負担を強いられたが、反面において交通網の整備に伴って商店や問屋などが進出して商業地域として発展する場合もあった。また、地域によっては特定商品の専売権を与えられることで負担に対する見返りが享受される場合もあった』。

「寶田村」「たからだむら」と読んでおく。ブログ「神社と御朱印」の中央区日本橋大伝馬町にある寶田恵比寿神社宝田神社)」についての記事の中で、この『宝田神社は元々江戸城外にあった旧豊島郡宝田村(呉服橋御門付近)の鎮守であった』が(東京駅東北直近の附近(グーグル・マップ・データ))、『江戸城拡張により宝田・祝田・千代田の三村が移転を命ぜられ、宝田村の名主・伝馬役であった馬込勘解由は住民を引率して大伝馬町へ移住し、同町の名主を務めた』。『ちなみに馬込勘解由とは日本橋大伝馬町二丁目で代々伝馬役・名主役を務めた馬込家当主が名乗った名称である』とあるから、この場所が、ここで津村が言うように、ここが古くはもともと「寶田村」「千代田村」と言ったわけではない(但し、元の居住村の名をここに移って初期には再度、旧村名を用いた可能性は極めて高い)

「六本木」位置的に見ても離れているのでお分かりと思うが、これは現在の「六本木」(東京都港区六本木)とは無関係である。nsawc_nfws記事六本木地名由来の真相は?によれば、『古くは日本橋の伝馬町あたりが六本木と呼ばれていたそうで』、これは『馬をつなぐ木が横にならべてあったので、四つ木とか六本木とか呼んだらしい』とある。

「常磐橋の内に千代田稻荷とてある」橋としての常盤橋(ときわばし)は現在の東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川に架かるが、この周辺の地名と考えて良かろう((グーグル・マップ・データ))。「千代田稲荷」神社は現在、元の小伝馬町に戻っているようである。(グーグル・マップ・データ)。渋谷百軒店商店街HP管理チームによるブログ「渋谷百軒店コラム」のもう一つの千代田稲荷:小伝馬町の千代田稲荷神社によれば、この稲荷の鎮座地は、最初が江戸城で小伝馬町(A)から『不詳』の地へ移り、次に小伝馬町(A)に戻るも、その後、小伝馬町(B:現在地)に遷座したと推定されているから、まさに、このブログ記事の『不詳』とする場所こそがこの「常磐橋の内」と考えてよいように思われる。ブログ記者は既にそう推測されているのであるが、残念なことに、その常盤橋のどこであったかが判らないようである。同リンク先の神社由来の電子化資料によって(『是後奉仕せる社人窮困して他に社地を讓る 時に屢々異變あり 神慮なりと畏れ 天明年間 旧地に建立し 現在に至る』(恣意的に漢字を正字化し、読み易くするために字空けを増してある))、元の小伝馬町に戻ったのは天明年間(一七八一年~一七八九年)であることが判り、「譚海」は、まさに安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)の見聞内容に基づくのだから、この記事は、その検分閉区間の前半期の記録であることが判明するのである。

「藤田明神社」「牛頭(ごづ)天王」「三所」「大傳馬町・小傳馬町・南傳馬町三所の天王なりしを、正德中疫病流行せし夏、小傳馬町の天王御旅所(おたびしよ)に御出ありし神輿(しんよ)を、小船町へかり行(ゆき)疫氣(えきき)を壓(あつ)せしより、御輿(みこし)を返し奉らず、永く小船町御旅所に成(なり)たる事也」「藤田神社」なる呼称は現存しないが、これは現在の神田明神の牛頭天王三社のことで、ウィキの「江戸祭礼氏子町一覧に、現在では旧南伝馬町の『江戸神社(天王一之宮)、大伝馬町八雲神社(天王二之宮)、小舟町』(こぶなちょう:日本橋小舟町。(グーグル・マップ・データ))『八雲神社(天王三之宮)とそれぞれ呼ばれ』ているとある。「正德」は一七一一年から一七一五年。面白いのは、この小伝馬町の牛頭天王(インドの祇園精舎の守護神。本地垂迹説では素戔嗚命の本地仏とされ、特に除疫神として信仰された。京都の八坂神社が有名)が、貸し出されたまま、戻って来ず、現在に至るまで小舟町にあることである。実に面白い。牛頭天王が怒らず、変事もないというのは、牛頭天王は小伝馬町を見限って、小舟町の方が永劫、居心地がよいということなんだろうか? そもそもが、何で小伝馬町の町人らは怒らなかったんだろう? 誰か、納得のゆく真相をお教え願えると嬉しい。

「加藤善三郎」不詳。

「國初」「くにはじめ」。徳川家康の江戸入府前後の武蔵国の初期から。

「杖にて畫し賜りける」家康公御自ら、自分の杖を以って地引きをし、加藤に屋敷地を下賜された。]

甲子夜話卷之四 8 佐州金山の奇事

 

4-8 佐州金山の奇事

或人曰。佐渡金堀の穴の水かひ人足に往くは、皆微罪ある者どもなり。其中歸府して今當地に居ものあり。其語しとて聞く。佐渡の金穴、地中に堀下ること凡十四五里程なり。其間縱橫に岐路ありて、其下に一道を通ず。其行くこと數里なるべしと。計るに海底に入ること尤深く、又其奧は、越後の地方の地底に堀及ぶべき里程なりと。

■やぶちゃんの呟き

 本文の三箇所の「堀」は佐総てママ。なお、佐渡金山の坑道の総延長は現在、約四百キロメートルに及ぶが、海底下までは掘られていないし、無論、本土まで届いてなどはいない。ただ、この最後の「越後の地方の地底に堀及ぶべき里程なり」というのは延べの採掘総延長距離を指していようだから、佐渡と本土は三十キロメートルほどしか離れていないから、実はおかしくはないと言える。

「金堀」底本では編者により『かなほり』とある。しかし標題は明らかに「金山(きんざん)」であろう。後の「金穴」は「かなあな」と読むのか? 私は「きんざん」「きんほり」「きんけつ」の方がしっくりくるのだが。

「水かひ」坑道に湧き出る地下水を掻き出す労役であろう。

「其中」「そのうち」。

「居もの」「をるもの」。

「語し」「かたりし」。

「十四五里」五十五~五十九キロメートル弱。この深さは誇大に過ぎる。現在の調査では約八百メートルである。

 

甲子夜話卷之四 7 加州の家風は儉遜なる事

 

4-7 加州の家風は儉遜なる事

加州の家風はさまざま他と殊なることある内に、大家の威に誇らずして、官家を敬する意の感ずべき事あり。火事あるとき、途中にて御使番衆橫道より出ることあれば、行列をいづれと云場所も無く橫に切らせて通すことの速なるは、他に無きことと云。たとへば、駕籠の前にても跡にても、その外先徒の間、挾箱の間、跡供などは云までもなし、何にても御使番衆の馳來る所へ、押足輕兩人走り來り立て、その中を通す作法なり。或人途中にて見しが、誠に見事なることなりしと云。一日、池の端の中町にて、林祭酒と行遇ふ。此處は通り殊に狹くして、大名の行列にては通難き程なり。此時加州の先箱を雁行にして、徒士皆雁行に供を立て直ほし、道を半分讓りて行たり。祭酒は小勢なれども、少しもさはらず其半分を通れりとぞ。いかにも公平なることにて、大より小へ屈する作法、却て大家の體を得、見事に有しと林氏話れり。又四品以上しぢら熨斗目を着る中に、加侯は平織の熨斗目にてしぢらに非ず。登營のときも如ㇾ此。これは極貴ゆへ、却て五位と紛れぬ故もあるか。御三家もしぢらになきのしめ折折着せらる。

■やぶちゃんの呟き

「加州」加賀国の加賀藩前田家。「甲子夜話」の起筆は文政四(一八二一)年十一月で、当時の藩主は加賀前田家十二代の第十一代藩主前田斉広(なりなが)。

「儉遜」倹素(倹約)にして謙遜の謂いか。或いは単に「謙遜」の謂いか。

「官家」「くわんけ(かんけ)」で、ここは幕府やその官僚・関係者を指していよう。

「御使番」元来は戦場での伝令・監察・敵軍への使者などを務めた役職。ウィキの「使番」によれば、江戸幕府では若年寄の支配に属し、布衣(ほい)格(六位叙位相当)と見なされた。で菊之間南際襖際詰。元和三(一六一七)年に定制化されたものの、その後は島原の乱以外に『大規模な戦乱は発生せず、目付とともに遠国奉行や代官などの遠方において職務を行う幕府官吏に対する監察業務を担当する』ようになった。『以後は国目付・諸国巡見使としての派遣、二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督、江戸市中火災時における大名火消・定火消の監督などを行った』とある。

「速なる」「すみやかなる」。

「跡にても」後にても。

「先徒」「さきかち」。

「挾箱」「はさみばこ」。

「跡供」「あととも」。

「押足輕」(おしあしがる)は中間・小者を指揮する役目の足軽。

「池の端の中町」池之端仲町。現在の東京都台東区池之端(いけのはた)一丁目の旧称。不忍池の西方から南方向一帯。(グーグル・マップ・データ)。

「林祭酒」何度も出た静山の友人で林家第八代林大学頭(だいがくのかみ)述斎。「祭酒」は大学頭(幕府直轄の昌平坂学問所を管理した役職)の唐名。

「行遇ふ」「ゆきあふ」。

「通難き程なり」「とほりがたきほどなり」。

「雁行」空を飛ぶ雁の列から、斜めに並んで行くこと。ここは二列縦隊の行列を少し斜めにずらした形で間に入れ、幅を短くしたことを指す。

「話れり」「かたれり」。

「四品」「しほん」は「四位」と同義で、官位が四位以上の位階であること。

「しぢら熨斗目」「しぢらのしめ」は「しじら」は「縬」と書き、経(たて)糸の張り方を不均衡にしたり、太さの事成る糸や、織り方の違う組織を混ぜて織ることで、表面に「しぼ」(細かいちぢれた感じの様態)を作った織物を言う。「熨斗目」は熨斗目小袖で、練貫(ねりぬき:生糸を経糸,練糸を緯(よこ)糸にした絹織物)の一種で、普通は経糸をやや粗く織ったものを指す)で仕立てた小袖(本来は厚い装束の下に下着として着用されたものを言う)で、江戸時代には武家の礼装の裃(かみしも)や素襖(すおう)の下に着た。

「平織」「ひらをり」。経糸と緯糸を交互に交差させて織る最も単純な織り方で製した織物。

「登營」江戸城への登城。

「極貴ゆへ」「ごくたふときゆへ」と訓じておく。

「却て」「かへつて」。

「しぢらになきのしめ」縬織りではないシンプルな熨斗目。

「折折」「をりをり」。

「着せらる」「ちやくせらる」。

南方熊楠 履歴書(その22) 熊楠の霊の見え方とその効能

 

 前状の続き

 かくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をなし、昼は動植物を観察し図記して、夜は心理学を研究す。さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊と幻(うつつ)の区別を識りしごとき、このときのことなり。

 

 幽霊が現わるるときは、見るものの身体の位置の如何(いかん)に関せず、地平に垂直にあらわれ申し候。しかるに、うつつは見るものの顔面に並行してあらわれ候。

[やぶちゃん注:これを説明した附図が描かれてある。キャプションは

最上段目――「幽㚑」(「㚑」は「霊」の異体字)/「垂直」/「直角」/「地平」/「小生眠レ為ル、」(「眠りたる」或いは「眠れるなる」の誤記か)

第二段目――「垂直」/「直角」/「地平」/「幽㚑」/「小生フトンニモタレ半バ眠ル、」

第三段目――「地平」/「幻像(ウツヽ)」/「並行」

最下段目――「幻」/「並行」/「小生」/「地平」

である。]

 

Kumagusureiwomiru

 

 この他発見せしこと多し。ナギランというものなどは(またstephanosphara(ステファノスヘーラ)と申す、欧州にて稀(まれ)にアルプスの絶頂の岩窪の水に生ずる微生物など、とても那智ごとき低き山になきものも)幽霊があらわれて知らせしままに、その所に行きてたちまち見出だし申し候。(植物学者にかかること多きは従前書物に見ゆ。)また、小生フロリダにありしとき見出だせし、ピトフォラ・ヴァウシェリオイデスという藻も、明治三十五年ちょっと和歌山へ帰りし際、白昼に幽霊が教えしままにその所にゆきて発見致し候。今日の多くの人間は利慾我執(がしゅう)事に惑(まど)うのあまり、脳力くもりてかかること一切なきが、全く閑寂の地におり、心に世の煩いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出すものに候。

[やぶちゃん注:「ナギラン」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科パンダ亜科シンビジウム連 Cymbidiinae 族シュンラン属ナギランCymbidium nagifolium。サイト「四国の野生ラン」の解説ページが写真もあり、よい。

stephanosphara(ステファノスヘーラ)と申す、欧州にて稀(まれ)にアルプスの絶頂の岩窪の水に生ずる微生物」現在の緑藻植物門緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科パンドリナ属 Pandorina に属する藻類か? 外国サイトでは Stephanosphara pluvialis という種名を見出せるが、記載がごく少なく、学名は変更されているのかも知れない。

「従前」現代に至るまでの。

「小生フロリダにありしとき」南方熊楠は一八九一年(明治二十四年)五月(二十四歳)にフロリダ州ジャクソンヴィルに赴き、菌類・地衣類・藻類を採集している。この後キューバに渡って曲馬団に加わって巡業し、浴翌年の一月にジャクソンヴィルに帰って、八月にニュヨークへ向かい、翌九月に渡英しているが、これはます一八九一年の体験であろう。

「ピトフォラ・ヴァウシェリオイデスという藻」アオサ藻綱ミドリゲ目シオグサ科Pithophora 属の一種であろうが、この学名(カタカナ音写)にぴったりくる学名は藻類の学術英文サイトを検索しても見出し得ない。やはり変更された可能性が強い。

「明治三十五年」一九〇二年。年譜(現在、私は一九九三年河出書房新社刊の「新文芸読本 南方熊楠」のそれを使用している)によれば、この年の一月(前年十月末に勝浦着)に勝浦から那智村の大阪屋(旅館と思われる)に宿替えし、その三月に『歯の治療のため和歌山へ帰る』とあり、また五月には『田辺に行き、半年ほど田辺・白浜に遊ぶ』とある。「ちょっと和歌山へ帰」ったと明記する以上、前者、三月のそれであろう。

 以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]

 

小生旅行して帰宅する夜は、別に電信等出さざるに妻はその用意をする。これはrapport(ラッポール)と申し、特別に連絡の厚き者にこちらの思いが通ずるので、帰宅する前、妻の枕頭に小生が現われ呼び起こすなり。東京にありし日、末広一雄など今夜来ればよいと思い詰めると何となく小生方へ来たくなりて来たりしことしばしばあり。

[やぶちゃん注:「rapport(ラッポール)」臨床心理学用語で現行では「ラポール」と音写する。狭義には臨床心理士(セラピスト)や精神科医と、クライエント(自己の心理療法を依頼した者或いは精神疾患に罹患した患者)との間の心的状態を表わす語で、「相互が信頼し合っていて、自由に振る舞ったり、感情の交流を行える関係が成立している状態」を指す。因みに、通常はそうした良好な関係を指すが、これが過度に進むと、クライアントがセラピストや精神科医に過度の好意や恋愛感情を抱いてしまい、症状が治ってしまうと医師に逢えなくなることから、治療が停滞したり、逆に悪化したりすることがままある。但し、ここは一種の超感覚的或いは霊的な広義の精神遠隔感応、所謂、「テレパシー(Telepathy)」のことを指している。

「末広一雄」「十二支考」の「鶏に関する伝説」の「2」に「末広一雄君の『人生百不思議』」と出る人物であるが、不詳。南方熊楠顕彰館所蔵資料・蔵書一覧(PDF)によって他に「男爵近藤廉平伝」「抉眼録」「雁来紅」「前知術と易道」などの著作があることは判る。識者の御教授を乞う。]

 

f佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その5)

 

    *    *    * 

      *    *    *

 自然の景物は、夏から秋へ、靜かに變つて行つた。それを、彼ははつきりと見ることが出來た。

 夜は逸早くも秋になつて居た。轡蟲だの、蛼だの、秋の先驅であるさまざまの蟲が、或は草原で、或は床の下で鳴き初めた。樂しい田園の新秋の豫感が、村人の心を浮き立たせた。村の若者達は娘を搜すために、二里三里を凉しい夜風に吹かれながら、その逞しい步みで步いた。或る者は、又、村祭の用意に太鼓の稽古をして居た。その單純な鳴りものゝ一生懸命なひゞきが、夜更けまで、野面を傳うて彼の窓へ傳はつて來た。

[やぶちゃん注:「轡蟲」「くつわむし」。

「蛼」「こほろぎ(こおろぎ)」。]

 彼の狂暴ないら立たしい心持は、この家へ移って來て後は、漸く、彼から去つたやうであつた。さうして秋近くなつた今日では、彼の氣分も自ら平靜であつた。彼は、ちやうど草や木や風や雲のやうに、それほど敏感に、自然の影響を身に感得して居ることを知るのが、一種の愉快で誇りかにさへ思はれた。この夜ごろの燈は懷しいものの一つである。それは心身ともに疲れた彼のやうな人人の目には、柔かな床しい光を與へるランプの光であつた。そのランプのガラスの壺は、石油を透して琥珀の塊のやうに美しかつた。或る時には、薄い紫になつて、紫水晶のことを思はせた。その燈の下で、彼は、最初、聖フランシスの傳記を愛讀しようとした。けれども彼は直ぐに飽きた。根氣というものは、彼の體には、今は寸毫も殘されては居なかつた。さうしてどの本を讀みかけても、一切の書物はどれもこれも、皆、一樣に彼にはつまらなく感じられた。そればかりか、そんな退屈な書物が、世の中で立派に滿足されて居るかと思ふと、それが非常に不思議でさへあつた。何か――人間を、彼自身を、別世界へ引きづり上げて行くやうな、或はこの古い世界を全然別のものにして見せるやうな、或は全く根底から覆すやうな、非常な、素晴らしい何ものかが何處かにありさうなものだ、と彼はしばしば漫然とそんなことを攷へて見た。さうして、この重苦しい退屈が、彼の心に巢喰うて居る以上、その心の持主の目の見る世界萬物は、何時も、すべて、何處まででも、退屈なものであるのが當然であることを、彼が知らないのではなかつた。但、さういふ狀態の己自身を、どうして新鮮なものにすることが出來るか、人人が大勇猛心と呼で居るものは、どんなものか。それを何處から彼の心へ齎すべきか、それらのすべては彼には全然知り得べくもなかつた。さうして田舍にも、都會にも、地上には彼を安らかにする樂園はどこにもない。

 「ただ萬有の造り主なる神のみ心のままに‥‥」

 と、言つて見ようか‥‥。彼の心は太鼓のひゞきに耳を傾けて、その音の源の周圍をとり圍んで居るであらう元氣のいい若者達を、羨しく想像した。

[やぶちゃん注:「聖フランシス」中世イタリアで最も知られた聖人の一人で、フランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者として知られるアッシジのフランチェスコ(イタリア語:Francesco d'Assisi/ラテン語:Franciscus Assisiensis:本名:ジョヴァンニ・ディ・ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ Giovanni di Pietro di Bernardone 一一八二年~一二二六年)。「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いた。よく知られることであるが、参照したウィキの「アッシジのフランチェスコによれば、彼は『ウサギ、セミ、キジ、ハト、ロバ、オオカミに話しかけて心がよく通じ合ったといわれ』、『魚に説教を試み、オオカミを回心させた伝説が知られ、とくに小鳥に説教した話は有名である』。

「呼で」「よんで」。]

 彼の机の上には、讀みもしない、又、讀めもしないやうな書物の頁が、時々彼の目の前に曝されてあつた。彼はその文字をたゞ無意味に拾つた。彼は、又、時々大きな辭書を持ち出した。そのなかから、成可く珍らしいやうな文字を搜し出すためであつた。言葉と言葉とが集つて一つの有機物になつて居る文章といふものを、彼の疲れた心身は讀むことが出來なくなつて居たけれども、その代りには一つ一つの言葉に就てはいろいろ空想を呼び起すことが出來た。それの靈を、所謂言靈(ことだま)ありありと見るやうにさへ思ふこともあつた。その時、言葉に倦きた時には、彼はその辭書のなかにある細かな插畫を見ることに依つて、未だ見たことも空想したこともない魚や、獸や、草や、木や、蟲や、魚類や、或は家庭的ないろいろの器具や、武器や、古代から罪人の所刑に用ひられたさまざまな刑具や、船や建築物の部分などを知ることを喜んだ。それらの器物の形や言葉の言靈のなかには、人類の思想や、生活や、空想などが充ち滿ちて居るのを感じた――それは極く斷片的にではあつたけれども。さうして、彼の心の生活はその時ちやうどそれらの斷片を考へるに相應しただけの力しか無いのであつた。

[やぶちゃん注:「成可く」「なるべく」。]

 彼は、時々、夜更けになつてから、詩のやうなものを書くこともあつた。それはその夜中、彼自身には非常に優秀な詩句であるもののやうに信ぜられた。併し、翌日になつて目を覺して最先きにその紙片を見ると、それは全く無意味な文字が羅列されてあつた。

 彼は家の圖面を引くことを、再び始めた。彼は非常に複雜な迷宮のやうな構へを想像することがあつた。さうかと思ふと、コルシカの家のやうに、客間としても臺所としても唯大きな一室より無い家を考へることもあつた。

[やぶちゃん注:「コルシカ」地中海西部、イタリア半島の西に位置するフランス領のコルシカ島(コルシカ語: Corsica/フランス語:Corse(コルス))。フランス皇帝ナポレオン一世の出身地として知られるが、ウィキの「コルシカ島によれば、『コルシカ島は面積の割に急峻な山岳地帯が大半を占め、それほど大規模の農業・産業が展開できない土地であるため』、『居住人口は少なく、沿岸部および山岳部には手付かずの自然が残されている』とある。]

 かうして又しても生氣のない無聊が來た。さうしてそれが幾日もつづいた。 

改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅵ」パート

 

   Ⅵ

 

[やぶちゃん注:「秋ぐち TO K.TŌYAMA.は異同なし。Ō」の長音符はこちらは現行通りの普通のフラットなもの。

 

[やぶちゃん注:「此の世界のはじめもこんなであつたか」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「ひとりごと」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「新聞紙の詩」は「世界のことなどは何も知らず」の部分が、改版では「世界のことなどは何んにも知らず」に書き変えられてある。改版の口語的強調形の方がよい。]

 

[やぶちゃん注:「汽車の詩」は「その中の一本の線をえらんで」の部分が、改版では「その一本の線をえらんで」と変わっている。改版の方がより現前的事実を示すリアルな描写と思う。]

 

[やぶちゃん注:「都會の詩」は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「都會の詩」(前と同題の別篇)は異同なし。]

 

[やぶちゃん注:「握手」は「もぢもぢするのは耻づべき行爲だ」の「もぢもぢ」が改版では「もじもじ」と変えられている。但し、歴史的仮名遣は「もぢもぢ」の方が正しい。]

 

[やぶちゃん注:初版でここに配されてあった「故郷にかへつた時」は既に述べた通り、前の「Ⅴ」の終りに配されてある。詩篇内容の異同はない。]

 

[やぶちゃん注:太陽はいま蜀黍畑にはいつたところだ最終行のリフレイン「何もかも明日のことだ」が存在しない。これはある種の悪意めいた邪推であるが、この詩篇の後半は右ページで、最終行が本来リフレインされている最初の「何もかも明日(あした)のことだ」である(初版はルビは一行目にのみ附されてある)。本改版はパート表示の挿絵とローマ数字の打たれたページが総て左ページに統一されており、そのパート表示ページの裏は白紙であるから、この一行があると、一行のみを記した左ページとなり、その裏は特異的に白紙として「Ⅶ」の標題ページを拵えなくてはならなくなる。その一ページ増による白紙ページを山村暮鳥自身が避けたためではあるまいか?

 

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