「想山著聞奇集 卷の參」 「元三大師誕生水、籾の不思議の事」
想山著聞奇集 卷の參
元三大師誕生水、籾の不思議の事
江州淺井(あざい)郡三河村なる玉泉寺といふは、天台宗にて、近年、色衣(しきえ)の列と成る。此所は元三大師誕生の地なり。本堂は二重造(にぢゆうづくり)にて、則(すなはち)、元三大師(ぐわんざんだいし)の像を安置せり。堂の前に井(ゐ)あり。是、元三大師の誕生水也。常の井の如く、丸くして深さ六尺あまり、水は四尺ばかり湛えて、まことに淸潔なり。此井、昔より例として毎年七月七日に水を洽へけるに、水の盡(つく)るとき、井底(ゐのそこ)より籾(もみ)五六粒、かならず出(いづ)る也。年によりて、十粒あまり出る時もあり。其籾の出るを期(ご)として洽へ止むことなりとぞ。江戸市谷自證院の常偏阿闍梨【文政年間住職の院家(ゐんげ)なり。】比叡山に居(を)られし頃は、法緣により、をりをり彼(かの)寺へおはして、此事、委しく見聞(みきき)たりとて語られし故、若(もし)、其籾、古くより井に沈居(しづみをり)し物の出るのにてはなかりしにやと問試(とひこころみ)るに、決(けつし)て年經たる物にはあらず。いかにも新敷(あたらしき)籾なり。此籾の多少によりて、其年の豐凶を知るとて、近郷の農民は、此籾占(もみうら)を待(まつ)こと也とぞ。土民の云(いふ)には、昔、淺井備前守長政の兵板倉、この山奧に有(あり)て、【長政兵粮倉(ひやうらうぐら)の跡とて、今も三里程山奥に在る也。】其倉の籾、地中をくゞり來て、此所へ出る也といへども、おぼつかなし。又、此籾に不思議の事あり。年々の籾、此寺に貯へ置(おく)には替(かは)る事なきを、もし、人のもらひ得て他所(よそ)へ移せば、三日のうちに、かならず消失(きえうせ)る也。これは度々ためしみたる事にて、凡身(ぼんしん)にては、何共(なんとも)、量り知(しる)べき事に非ずと語られたり。一奇事なり。
[やぶちゃん注:「江州淺井(あざい)郡三河村」旧近江国浅井郡は現在の滋賀県の東北部にあった。今の長浜市の一部と米原市の一部に相当する。「三河村」は現在の長浜市三川町。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「玉泉寺」長浜市三川町にある天台宗栄光山玉泉寺。本尊はズバリ、慈恵(じえ)大師(良源・元三大師)。天元年間(九七八年~九八三年)に良源の開山により創建されたとされる。戦国時代に兵火により焼失し、現在の堂宇は江戸時代以降に再建されたもの。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「色衣」墨染めの衣以外の法衣(ほうえ)。紫・緋・黄・青などの色があり、これらは総て高位の僧が着る。ここはそこの住持がそれを着ることに就いて勅許された寺院のこと。
「元三大師」天台僧元三大師(がんざんだいし)慈恵良源(延喜一二(九一二)年~永観三(九八五)年)。第十八代天台座主として比叡山延暦寺中興の祖とされる。中世以降は、民間に於いて厄除けの「角(つの)大師」として知られる。自ら疫病流行の折り、二本の角を生やした木乃伊のような鬼に変じて、疫病神を追い払ったという伝承に基づくもので、私の数少ない仏教アイテムの一つとして、長女マリア(シモン&ハルビック社製ビスクドール/ヘッド・ナンバー1909)の足元に飾ってある。
「洽へ」不審。この字は「うるほふ・あふ」ぐらいしか読めない。当初、「たたえる」と当て読みするのかと思ったが、シチュエーションからその読みでは繫がらない。後でもう一度、この字が使われていることから、原典がこの字を用いていることは疑いがないが、編者はルビも訂正注もしていない。これは以下の叙述から、水を汲み出すこと、「さらふ」(浚ふ)と読む以外にはないと思う。
「期として」それで完全に「終り・止め」の合図として。一期(いちご)として。]
「自證院」「白蛇靈異を顯したる事」など、前にも出た新宿区富久町にある天台宗鎮護山自證院圓融寺のことであろう。「常偏阿闍梨」も同じところに出た人物である。
「文政年間」一八一八年から一八三〇年。
「院家」皇族及び貴族身分出身の僧侶が居住する寺のこと。
「淺井備前守長政」浅井長政(あざいながまさ 天文一四(一五四五)年~天正元(一五七三)年)は北近江の戦国大名。浅井氏第三代にして最後の当主。浅井氏を北近江の戦国大名として成長させて北東部に勢力を持っていた。妻の兄織田信長と同盟を結ぶなどして浅井家全盛時代を築いたが、後に信長と決裂、織田軍との戦いに敗れて自害した。
「長政兵粮倉」不詳。]
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