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2017/05/23

柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 橋姫(3) 産女(うぶめ)

 

 近年の國玉の橋姫が乳呑兒を抱いて來て、之を通行人に抱かせようとした話にも亦傳統がある。此類の妖恠は日本では古くからウブメと呼んで居た。ウブメは普通には産女と書いて、今でも小兒の衣類や襁褓たどを夜分に外に出して置くと、ウブメが血を掛けて其子供が夜啼をするなどゝ云ふ地方が多く、大抵は鳥の形をして深夜に空を飛んであるくものと云ふが、別に又兒を抱いた婦人の形に姿などにも描き、つい賴まれて抱いてやゝ重いと思つたら石地藏であつたと云ふやうな話もある。是も今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に産女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話を載せ、「此ノ産女ト云フハ狐ノ人謀ラムトテ爲ルト云フ人モ有リ、亦女ノ子産ムトテ死タルガ靈ニ成タルト云フ人モ有リトナム」と書いて居る。元より妖恠の事であれば隨分怖く、先づ之に遭へば喰はれぬ迄もおびえて死ぬ程に畏れられて居たにも拘らず、面白いことには産女にも往々にして好意があつた。例へば和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の産女塔の由來は、昔此寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より産女の幽魂現れ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女の爲に囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。此寶塔は卽ち其金を費して建つたものである。夷堂橋の北の此寺の門前に、産女の出た池と橋柱との跡が後までも有つたと云ふ。加藤咄堂氏の日本宗教風俗志には又こんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産(うぶ)の玉と稱する物は、是も此寺の昔の仕持で日行と云ふ上人、或時途上で頗る憔悴した婦人の赤兒を抱いて居る者が立つて居て、此子を抱いてくれと云ふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは水のやうであつた。上人は名僧なる故に少しも騷がす御經を讀んで居ると、暫くして女の言ふには御蔭を以て苦艱を免れました。是は御禮と申して呉れたのが此寶物の玉であつた。今でも安産に驗ありと云ふのは、多分産婦が借用して戴けば産が輕いといふことであらう。此例などを考へて見ると、謝禮とは言ふけれども實は之を呉れる爲に出て來たやうたもので、佛法の功德と云ふ點を後に僧徒が附添へたものと見れば、其他は著しく赤沼黑沼の姫神の話などに似て居り、少なくも産女が平民を氣絶させる事のみを能として居なかつたことがわかる。さうして橋の神に安産と嬰兒の成長を祈る説話は隨分諸國にあるから、國玉の橋姫が後に子持ちと成つて現れたのも、自分には意外とは思はれぬ。

[やぶちゃん注:「ウブメ」一つの属性として怪鳥(けちょう)の一種で「姑獲鳥(うぶめ)」などとも表記された妖怪「産女(うぶめ)」。やや内容がダブる箇所があるが、ウィキの「産女」を引いておく。『産女、姑獲鳥(うぶめ)は日本の妊婦の妖怪である。憂婦女鳥とも表記する』。『死んだ妊婦をそのまま埋葬すると、「産女」になるという概念は古くから存在し、多くの地方で子供が産まれないまま妊婦が産褥で死亡した際は、腹を裂いて胎児を取り出し、母親に抱かせたり負わせたりして葬るべきと伝えられている。胎児を取り出せない場合には、人形を添えて棺に入れる地方もある』。先の高田氏の「江戸怪談集 下」の注に本「産女」の異称として「唐土鳥(とうどのとり)」を挙げるが、事実、唐代の「酉陽雑俎」の「前集卷十六」及び北宋の叢書「太平広記」の「卷四百六十二」に載る「夜行遊女」では、『人の赤子を奪うという夜行性の妖鳥で』「或言産死者所化(或いは産死者の化(くわ)せる所なりと言ふ)」『とされる。日本では、多くは血に染まった腰巻きを纏い、子供を抱いて、連れ立って歩く人を追いかけるとされる。『百物語評判』(「産の上にて身まかりたりし女、その執心このものとなれり。その形、腰より下は血に染みて、その声、をばれう、をばれうと鳴くと申しならはせり」)、『奇異雑談集』(「産婦の分娩せずして胎児になほ生命あらば、母の妄執は為に残つて、変化のものとなり、子を抱きて夜行く。その赤子の泣くを、うぶめ啼くといふ」)、『本草綱目』、『和漢三才図絵』などでも扱われる。産女が血染めの姿なのは、かつて封建社会では家の存続が重要視されていたため、死んだ妊婦は血の池地獄に堕ちると信じられていたことが由来とされる』。『福島県南会津郡檜枝岐村や大沼郡金山町では産女の類をオボと呼ぶ。人に会うと赤子を抱かせ、自分は成仏して消え去り、抱いた者は赤子に喉を噛まれるという。オボに遭ったときは、男は鉈に付けている紐、女は御高僧(女性用頭巾の一種)や手拭や湯巻(腰に巻いた裳)など、身に付けている布切れを投げつけると、オボがそれに気をとられるので、その隙に逃げることができるという。また赤子を抱かされてしまった場合、赤子の顔を反対側へ向けて抱くと噛まれずに済むという』。『なお「オボ」とはウブメの「ウブ」と同様、本来は新生児を指す方言である』。『河沼郡柳津町に「オボ」にまつわる「おぼ抱き観音」伝説が残る』(以下、その伝承)。『時は元禄時代のはじめ、会津は高田の里袖山(会津美里町旭字袖山)に五代目馬場久左衛門という信心深い人がおり、ある時、柳津円蔵寺福満虚空蔵尊に願をかけ丑の刻参り(当時は満願成就のため)をしていた。さて満願をむかえるその夜は羽織袴に身を整えて、いつものように旧柳津街道(田澤通り)を進んだが、なぜか早坂峠付近にさしかかると、にわかに周辺がぼーっと明るくなり赤子を抱いた一人の女に会う。なにせ』平地二里、山道三里の『道中で、ましてやこの刻、透き通るような白い顔に乱し髪、さては産女かと息を呑んだが、女が言うには「これ旅の方、すまないが、わたしが髪を結う間、この子を抱いていてくださらんか」とのこと。久左衛門は、赤子を泣かせたら命がないことを悟ったが、古老から聞いていたことが頭に浮かんで機転をきかし、赤子を外向きに抱きながら羽織の紐で暫しあやしていたという。一刻一刻が非常に長く感じたが、やがて女の髪結いが終わり「大変お世話になりました」と赤子を受け取ると、ひきかえに金の重ね餅を手渡してどこかに消えたという。その後も久左衛門の家では良いことが続いて大分限者(長者)になり、のちにこの地におぼ抱き観音をまつった』)(以上で河沼郡柳津町の「おぼ抱き観音」伝承は終り)。『佐賀県西松浦郡や熊本県阿蘇市一の宮町宮地でも「ウグメ」といって夜に現れ、人に子供を抱かせて姿を消すが、夜が明けると抱いているものは大抵、石、石塔、藁打ち棒であるという』(同じ九州でも長崎県、御所浦島などでは船幽霊の類をウグメという』)。『長崎県壱岐地方では「ウンメ」「ウーメ」といい、若い人が死ぬ、または難産で女が死ぬとなるとも伝えられ、宙をぶらぶらしたり消えたりする、不気味な青い光として出現する』。『茨城県では「ウバメトリ」と呼ばれる妖怪が伝えられ、夜に子供の服を干していると、このウバメトリがそれを自分の子供のものと思い、目印として有毒の乳をつけるという。これについては、中国に類似伝承の類似した姑獲鳥という鬼神があり、現在の専門家たちの間では、茨城のウバメトリはこの姑獲鳥と同じものと推測されており』、『姑獲鳥は産婦の霊が化けたものとの説があるために、この怪鳥が産女と同一視されたといわれる』。『また日本の伝承における姑獲鳥は、姿・鳴き声ともにカモメに似た鳥で、地上に降りて赤子を連れた女性に化け、人に遭うと「子供を負ってくれ」と頼み、逃げる者は祟りによって悪寒と高熱に侵され、死に至ることもあるという』。『磐城国(現・福島県、宮城県)では、海岸から龍燈(龍神が灯すといわれる怪火)が現れて陸地に上がるというが、これは姑獲鳥が龍燈を陸へ運んでいるものといわれる』。『長野県北安曇郡では姑獲鳥をヤゴメドリといい、夜に干してある衣服に止まるといわれ、その服を着ると夫に先立たれるという』。『『古今百物語評判』の著者、江戸時代の知識人・山岡元隣は「もろこしの文にもくわしくかきつけたるうへは、思ふにこのものなきにあらじ(其はじめ妊婦の死せし体より、こものふと生じて、後には其の類をもって生ずるなるべし)」と語る。腐った鳥や魚から虫が湧いたりすることは実際に目にしているところであり、妊婦の死体から鳥が湧くのもありうることであるとしている。妊婦の死体から生じたゆえに鳥になっても人の乳飲み子を取る行動をするのであろうといっている。人の死とともに気は散失するが戦や刑などで死んだものは散じず妖をなすことは、朱子の書などでも記されていることである』。『清浄な火や場所が、女性を忌避する傾向は全国的に見られるが、殊に妊娠に対する穢れの思想は強く、鍛冶火や竈火は妊婦を嫌う。関東では、出産時に俗に鬼子と呼ばれる産怪の一種、「ケッカイ(血塊と書くが、結界の意とも)」が現れると伝えられ、出産には屏風をめぐらせ、ケッカイが縁の下に駆け込むのを防ぐ。駆け込まれると産婦の命が危ないという』。『岡山県でも同様に、形は亀に似て背中に蓑毛がある「オケツ」なるものが存在し、胎内から出るとすぐやはり縁の下に駆け込もうとする。これを殺し損ねると産婦が死ぬと伝えられる。長野県下伊那郡では、「ケッケ」という異常妊娠によって生まれる怪獣が信じられた』。『愛媛県越智郡清水村(現・今治市)でいうウブメは、死んだ赤子を包みに入れて捨てたといわれる川から赤子の声が聞こえて夜道を行く人の足がもつれるものをいい、「これがお前の親だ」と言って、履いている草履を投げると声がやむという』。『佐渡島の「ウブ」は、嬰児の死んだ者や、堕ろした子を山野に捨てたものがなるとされ、大きな蜘蛛の形で赤子のように泣き、人に追いすがって命をとる。履いている草履の片方をぬいで肩越しに投げ、「お前の母はこれだ」と言えば害を逃れられるという』。『波間から乳飲み児を抱えて出、「念仏を百遍唱えている間、この子を抱いていてください」と、通りかかった郷士に懇願する山形大蔵村の産女の話では、女の念仏が進むにつれて赤子は重くなったが、それでも必死に耐え抜いた武士は、以来、怪力に恵まれたと伝えられている。この話の姑獲女は波間から出てくるため、「濡女」としての側面も保持している。鳥山石燕の『画図百鬼夜行』では、両者は異なる妖怪とされ、現在でも一般的にそう考えられてはいるが、両者はほぼ同じ存在であると言える』。『説話での初見とされる『今昔物語集』にも源頼光の四天王である平季武が肝試しの最中に川中で産女から赤ん坊を受け取るというくだりがあるので、古くから言われていることなのだろう。 産女の赤ん坊を受け取ることにより、大力を授かる伝承について、長崎県島原半島では、この大力は代々女子に受け継がれていくといわれ、秋田県では、こうして授かった力をオボウジカラなどと呼び、ほかの人が見ると、手足が各』四『本ずつあるように見えるという』。『ウブメより授かった怪力についても、赤ん坊を抱いた翌日、顔を洗って手拭をしぼったら、手拭が二つに切れ、驚いてまたしぼったら四つに切れ、そこではじめて異常な力をウブメから授かったということが分かった、という話が伝わっている。この男はやがて、大力を持った力士として大変に出世したといわれる。大関や横綱になる由来となる大力をウブメから授かった言い伝えになっている。民俗学者・宮田登は語る。ウブメの正体である死んだ母親が、子供を強くこの世に戻したい、という強い怨念があり、そこでこの世に戻る際の異常な大力、つまり出産に伴う大きな力の体現を男に代償として与えることにより、再び赤ん坊がこの世に再生する、と考えられている』。『民俗学者・柳田國男が語るように、ウブメは道の傍らの怪物であり少なくとも気に入った人間だけには大きな幸福を授ける。深夜の畔に出現し子を抱かせようとするが、驚き逃げるようでは話にならぬが、産女が抱かせる子もよく見ると石地蔵や石であったとか、抱き手が名僧であり念仏または題目の力で幽霊ウブメの苦艱を救った、無事委託を果たした折には非常に礼をいって十分な報謝をしたなど仏道の縁起に利用されたり、それ以外ではウブメの礼物は黄金の袋であり、またはとれども尽きぬ宝であるという。時としてその代わりに』五十人力や百人力の『力量を授けられたという例が多かったことが佐々木喜善著『東奥異聞』などにはある、と柳田は述べる。ある者はウブメに逢い命を危くし、ある者はその因縁から幸運を捉えたということになっている。ウブメの抱かせる子に見られるように、つまりは子を授けられることは優れた子を得る事を意味し、子を得ることは子のない親だけの願いではなく、世を捨て山に入った山姥のような境遇になった者でも、なお金太郎のごとき子をほしがる社会が古い時代にはあったと語る』。『柳田はここでウブメの抱かせる子供の怪異譚を通して、古来社会における子宝の重要性について語っている』とある。

「今昔物語の廿七に、源賴光の家臣に平の季武と云ふ勇士、美濃國渡と云ふ地に産女出ると聞き、人と賭をして夜中にわざわざ其處を通つて産女の子を抱いてやり、返してくれと云ふをも顧みず携へて歸つて來たが、よく見れば少しばかりの木葉であつたと云ふ話」これは産女伝承の現存する最古ののもので、「今昔物語集」「卷第二十七」の「賴光郎等平季武値産女語第四十三」(賴光(よりみつ)の郎等(らうそど)平季武(たひらのすゑたけ)産女(うぶめ)に値ふ語(こと)第四十三)である。以下に示す。小学館の日本文学全集版を参考にしつつ、恣意的に漢字を正字化し、しかも読み易く追加(送り仮名など)を加えたオリジナルのものである。□は欠字。■は脱文が想定される箇所。

   *

 今は昔、源の賴光の朝臣(あそむ)の美濃の守にて有りける時に、□□の郡(こほり)に入りて有りけるに、夜(よ)る侍(さぶらひ)[やぶちゃん注:侍所。警固の武士の詰所。]に數(あまた)の兵(つはもの)共集まり居て、萬(よろづ)の物語りなどしけるに、

「其の國に渡(わたり)[やぶちゃん注:比定地は確定的ではないが、参考にした小学館版の注では『飛騨川と木曽川の合流地付近』の「今渡(いまわたり)の渡し場」ではないかと推定している。ここ(グーグル・マップ・データ)。]と云ふ所に、産女有りけり。夜に成りて、其の渡り爲(す)る人有れば、産女、兒を哭(な)かせて、『此れ、抱(いだ)け抱け』と云ふなる。」

など云ふ事を云ひ出でたりけるに、一人有りて、

「只今、其の渡に行きて、渡りなむや。」

と云ひければ、平の季武と云ふ者(も)の有りて云く、

「己(おのれ)はしも、只今(なり)也とも、行きて渡りなむかし。」

と云ひければ、異者共(ことどももの)有りて、

「千人の軍(いくさ)に一人懸け合ひて、射給ふ事は有りとも、只今、其の渡をば、否(え)や渡り給はざらむ。」

と云ければ、季武、

「糸(いと)安く行きて渡りなむ。」

と云ひければ、此く云ふ者共、

「極(いみ)じき事侍りとも、否(え)不渡給(わたりたま)はじ。」

と云ひ立ちにけり。

 季武も、然許(さばか)り云ひ立ちにければ、固く諍(あらそ)ひける程に、此の諍ふ者共は十人許り有りければ、

「只にては否不諍(えあらそ)はじ。」

と云ひて、鎧・甲・弓・胡錄(やなぐひ)[やぶちゃん注:矢を入れて背負う筒或いは箱状の武具。箙(えびら)。]、吉(よ)き馬(むま)に鞍置きて、打ち出での大刀(たち)[やぶちゃん注:近年、新たに鍛えたばかりの新しい太刀。]などを、各々取り出ださむと、懸けてけり。亦、季武も、

「若し否不渡(えわたら)ずは、然許(さばか)りの物を取り出ださむ。」

と契りて後(のち)、季武、

「然は一定(いちぢやう)か。」[やぶちゃん注:「先の約束に間違いないな?」。]

と云ひければ、此く云ふ者共、

「然(さ)ら也。遲し。」

と勵ましければ、季武、鎧・甲を着、弓・胡錄を負ひて、從者も■■■。■■■、

「■■■何でか知るべき。」[やぶちゃん注:従者は現場には従っていないから、「連れざりけり」辺りか? なおも、この台詞は「確かにそこに行って、確かにそこを渡って、そうして戻ってきたということをどのように我々が知り得よう。何をその証拠するのか?」と賭けをした同僚らのある者が不満と疑義を述べているのであるから、「ある者」が主語で、「渡れるを何でか知るべき」辺りか?]

と。季武が云く、

「此の負ひたる胡錄の上差(うはざし)の箭(や)[やぶちゃん注:胡錄の上に突き出すように目立って装飾的に差した実戦用の単純な征矢(そや)でない鏃部分が特殊な矢。鏑(かぶら)矢や雁股(かりまた)の矢。]を一筋、河より彼方に渡りて、土に立てて返へらむ。朝、行きて見るべし。」

と云ひて行きぬ。

 其の後、此の諍ふ者共の中に、若く勇みたる、三人許り、

「季武が渡らむ一定を見む。」

と思ひて、竊(ひそ)かに走り出でて、

「季武が馬の尻に不送(おく)れじ。」

と走り行きけるに、既に季武、其の渡に行き着きぬ。

 九月の下(しも)つ暗(やみ)の比(ころほひ)なれば、つつ暗(くら)[やぶちゃん注:真っ暗闇。]なるに、季武、河を、ざぶりざぶり、と渡るなり。既に彼方に渡り着きぬ。此れ等[やぶちゃん注:こっそりつけて来た三人。]は、河より彼方の薄(すすき)の中に隱れ居て聞けば、季武、彼方に渡り着きて、行縢(むかばき)[やぶちゃん注:「向か脛(はぎ)に穿(は)く」の意で、旅や狩猟などの際に足を被った布また革。平安末期頃から武士は狩猟・騎乗などの際には腰から足先までの、有意な長さを持った鹿皮のそれを着用したが、ここはそれ。]走り打ちて、箭(や)拔きて[やぶちゃん注:地面に。]差すにや有(あ)らむ。

 暫し許り有りて、亦、取りて返して、渡り來(く)るなり。其の度(たび)聞けば、河の中程にて、女(をむな)の音(こゑ)にて、季武に現(あら)はに、

「此れ、抱(いだ)け、抱け。」

と云ふなり。亦、兒ちご)の音(こゑ)にて、

「いがいが。」[やぶちゃん注:赤ん坊の泣き声のオノマトペイア。]

と哭(な)くなり。其の間、生臭き香(か)、河より此方(こなた)まで薰(くん)じたり。

 三人有るだにも、頭(かしら)の毛太りて怖しき事、限り無し。何(いか)に況んや、渡らむ人を思ふに、我が身乍らも、半(なか)ばは死ぬる心地す。

 然(さ)て、季武が云ふなる樣、

「いで抱かむ。己(おのれ)。」[やぶちゃん注:「己」は相手を見下した卑称の二人称。]

と。然れば、女、

「此(こ)れば、くは。」「くは」は当時の口語で「そら!」「さあ!」という相手に注意を促させる感動詞。

とて、取らすなり。季武、袖の上に子を受けて取りければ、亦、女、追々(おふお)ふ、

「いで、其の子、返し得しめよ。」

と云ふなり。季武、

「今は返すまじ。己。」

と云ひて、河より此方の陸(くむが)に打ち上(あが)りぬ。

 然て、館(たち)に返りぬれば、此れ等も尻に走り返りぬ。

 季武、馬より下(お)りて、内に入りて、此の諍ひつる者共に向ひて、

「其達(そこたち)、極じく云ひけれども、此(か)くぞ□□の渡(わたり)に行きて、河を渡りて行きて、子をさへ取りて來たる。」

と云ひて、右の袖を披(ひら)きたれば、木(こ)の葉なむ、少し有りける。

 其の後(のち)、此の竊かに行たりつる三人の者共、渡の有樣を語りけるに、不行(ゆか)ぬ者共、半(なかば)は死ぬる心地なむ、しける。然て、約束のままに懸けたりける物共、皆、取り出だしたりけれども、季武、取らずして、

「然云(さい)ふ許り也。然許りの事、不爲(せ)ぬ者やは有る。」

と云ひてなむ、懸け物は皆、返し取らせける。

 然れば、此れを聞く人、皆、季武をぞ讃めける。

 此の産女と云ふは、「狐の、『人謀らむ』とて爲(す)る」と云ふ人も有り。亦、「女(をむな)の、子、産むとて死(しに)たるが、靈(りやう)に成りたる」と云ふ人も有り、となむ語り傳へたるとや。

   *

「和漢三才圖會六十七、又は新編錬倉志卷七に出て居る錬倉小町の大巧寺の産女塔の由來」寺島良安の百科事典「和漢三才圖會」は私も所持するが、「卷第六十七」の「相模」国の地誌に載るそれはごく短く、次に掲げる「新編錬倉志」のそれと比しても、電子化する価値を認めないので省略する。「新編錬倉志卷七」の「大巧寺(ダイギヤウジ)」の条にある「産女(ウブメ)の寶塔(ホウタフ)」を引いておく(リンク先は私の完全電子化注)。なお、本文に出る「夷堂橋」などもリンク先を参照されたい。お望みとあらば、案内し、語りもしよう。

   *

産女の寶塔 堂の内に、一間四面の二重の塔あり。是を産女の寶塔と云ふ事は、相ひ傳ふ、當寺第五世日棟と云僧、道念至誠にして、毎夜妙本寺の祖師堂に詣す。或夜、夷堂橋(えびすだうばし)の脇より、産女の幽魂出て、日棟に逢ひ、𢌞向に預つて苦患(くげん)を免れ度き由を云ふ。日棟これが爲に𢌞向す。産女、金(しんきん)一包(ひとつつみ)を捧げて謝す。日棟これを受て其の爲に造立すと云ふ。寺の前に産女幽魂の出たる池、橋柱(はしばしら)の跡と云て今尚存す。夷堂橋の少し北なり。

金」は「施しのための金」を指す。ここでは、自身の廻向のための布施。この一連の説話については、「お大功寺」(現在安産祈願る。祖母結核名古屋後、間借いわ因縁であ公式サイトの「沿革」に詳細な現代語のPDFファイル「産女霊神縁起」がある。一読をお薦めする。

「苦艱」「くげん・くかん」。つらい目に遇って苦しみ悩むこと。艱難(かんなん)。苦患。

「加藤咄堂氏の日本宗教風俗志」仏教学者(但し、僧籍は持たなかった)で作家の加藤咄堂(とつどう 明治三(一八七〇)年~昭和二四(一九四九)年)が明治三五(一九〇二)年に森江書店から刊行した書で、以上の記載は「第二篇 地方志」の「第二章 東海道志」の「第六節 安房、上總」の(国立国会図書館デジタルコレクション画像。左端の最後から四行目以降から次頁にかけて)に書かれている。

「上總山武郡大和村法光寺」千葉県東金(とうがねし)市田中にある日蓮宗宝珠山法光寺。現在も寺宝の水晶玉が「ふぶすな(産)の玉」と称されて安産のお守りとして崇められていることがネット情報から確認出来た。(グーグル・マップ・データ)。

「能として居なかつた」「能」は「よし」と訓ずる。]

 

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