佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その17)
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闇が彼の身のまはりに犇いて居た。それは赤や綠や、紫やそれらの隙間のない集合のやうでもあつた。重苦しい闇であつた。彼は闇のなかでマツチを手さぐり、枕もとの蠟燭に灯をともすと寢床から起き上つた。さうしてその燭臺を、隣に眠つて居る妻の顏の上へ、ぢつとさしつけた。けれども深い眠に陷入つて居る彼の女は、身じろぎもしなかつた。彼はしばらくその女の無神經な顏を、蠟燭の搖れる光のなかで、ぢつと視つめて見た。彼はこの時、自分の妻の顏を、初めて見る人の顏のやうに物珍らしげにつくづくと見た。
[やぶちゃん注:「寢床から」底本は「寢床らか」。錯字と断じて、訂した。定本も無論、「から」。]
蠟燭の光はものの形を、光の世界と影の世界との二つにくつきりと分けた。その光のなかで見た人間の顏は、强い片光(かたひかり)を浴びて、その赤い光の强い濃淡から生ずる効果は、人間の顏の感じを全く別個のものにして見せた。彼は人間の顏といふものは――ただに自分の妻だけではなく、一般に――かうも醜いものであらうかと、つくづくさう感じた。それは不氣味で陰慘で醜惡な妙な一つのかたまりとして彼の目に映じた。女は枕元に、解きほどいた束髮のかもじを、黑く丸めて置いて居た。奇妙な現象には、彼はそのかもじを見た時にこれが――ここに眠つて居る女が自分の妻だつたのだと始めて氣がついた。
[やぶちゃん注:「かもじ」「髪文字」「髢」などと書き、所謂、添え髪・入れ髪のこと。日本髪を結う際に髪に添え加えて豊かにし結い易くするための人毛の鬘。]
彼は燭臺を高く少し持上げたり、或は女の顏の耳の直ぐわきへくつつけて見たり、暫くその光の與へる効果の變化を實驗して遊ぶかのやうに、それをいろいろと眺めて居た。彼の妻はそんなことには少しも氣がつかずに眠つて居る。寢返りもしない。こんな女は、今若し喉もとへ劔を差しつけられても、それでも平氣で眠つて居るだらうか。いや、そんな場合には、いかに無神經なこの女でも、さすがに人間の本能として當然目を睜くであらう。さうでなければならない。彼はそんなことを考へた。さうして、若しやこの女は今、殺される夢でも見ては居ないだらうかとも思つた‥‥それにしても、こうした光の蠱惑から人間といふものはさまざまなことを思ひ出すものである。こんなことから、實際人を殺さうと決心した男が、昔からなかつただらうか。
[やぶちゃん注:「睜く」従来はこの漢字を「睜(みは)る」と春夫は訓じている。ここは「みひらく」と読んでおく。]
「尤も、俺は今この女を殺さうとして居るわけではないのだが」
彼は思はず小聲でさう言つた。自分自身の愕くべき妄想に對して、慌てゝ言ひわけしたのである。「それにしても俺は今何のためにこんなことをして居るだつけな」彼は氣がついたやうに、急に妻を搖り起した。
[やぶちゃん注:最初の直接話法は行頭から始まっているが、前例と以下のそれに徴して、一字空けを施した。]
夜中である。
妻はやつと目を覺したが、眩しさうに、搖れて居る蠟燭の光を避けて、目をそむけた。さうして半ば口のなかで、
「また戶締りですか、大丈夫よ。」
さう言つて、寢返りをした。
「いゝや。便所へ行くんだ。ちよつとついて行つてくれ。」
厠から出て來た彼は、手を洗はうとして戶を半分ばかり繰つた。すると、今開けた戶の透間から、不意に月の光が流れ込んだ。月はまともに緣側に當つて、歪んで長方形に板の上に光つた。不思議なことには、彼はこれと同じやうに、全く同じやうに月の差込んで居る緣側をちやうど今のさつき夢に見て、目がさめたところであつた。何といふ妙な暗合であらう。彼には先づそれが怪奇でならなかつた。さうして、今、自分達がかうして此處に立つて居ることも、夢のつゞきではないのか、ふとさう疑はれた。
[やぶちゃん注:「戶を半分ばかり繰つた。すると、」底本は「戶を半分ばかり繰つたすると、」。おかしいので、定本に従って句点を間に打った。
なお、以下の会話文二つも前のように行頭から始まっているが、やはり一字下げた。]
「おい、夢ではないんだね。」
「何がです。あなた寢ぼけていらつしやるの。」蠟燭は彼の妻の手に持たれて、月の光を上から浴びせかけられて、ほんのりと赤くそれ自身の光を失うた。光の穗は風に吹かれて消えさうになびいたが、彼の妻の袖屛風の影で、ゆらゆらと大きく搖れた。風は何時の間にかおだやかになつて居たが、雲は凄じい勢で南の方へ押奔つて居た。小雨を降らせて通り過ぎる眞黑な雲のばつくりと開けた巨きな口のフアンタステイツクな裂目から、月は彼等を冷え冷えと照して居た。
[やぶちゃん注:「フアンタステイツク」fantastic。「空想的な・途方もない・法外な・風変わりな・異様な・奇妙な」であるが、ここは「奇体にして夢幻的な」の謂いでとっておく。]
彼は手を洗ふことを忘れて、珍らしいその月を見上げた。それは奇妙な月であつた。幾日の月であるか、圓いけれども下の方が半分だけ淡くかすれて消え失せさうになつて居た。併し、上半は、黑雲と黑雲との間の深い空の中底に、硏ぎすましたやうに冴え冴えとして、くつきりと浮び出して居た。その上半のくつきりした圓さが、何かにひどく似て居ると、彼は思つた。然うだ。それは頭蓋骨の臚頂のまるさに似て居る。さう言へば、その月の全體の形も頭蓋骨に似て居る。白銀の頭蓋骨だ。彼の聯想の作用は、ふと海賊船といふやうなものの事を思ひ出させた。彼はその月を飽かずに眺めた。ああ、これと同じ事が、全く同じことが、その時も俺はここにかうして立つて居た。雲の形も、月の形もこれとそつくりだつた。どこからどこまで寸分も違はない。そればかりかその時にもかう思つたのだつた。今と同じ事を思つたのだつた。遠い微かな穴の奧底のやうな昔にも、現在と全然同一な出來事が曾てもあつた‥‥茫然として、彼は瞬間的にさう考へた‥‥何時の日のことだつたらう‥‥何處でであつたらう‥‥
[やぶちゃん注:「幾日」定本では「いくか」とルビする。
「臚頂」「ろちやう(ろちょう)」で「頭の天辺(てっぺん)・頭頂」の謂いであるが、「臚」は「丸く膨らんだ腹」の意で、普通は「顱頂」と書き、定本ではそう書き直されてある。]
空一面を飛び奔る雲はもう少しで月を呑まうとして居る。
「もう、閉めてもいい?」
妻は、寒さうにさう言つた。
彼はその言葉で初めて我に歸つたのか、手を洗はうと身を乘り出した。その瞬間であつた。
「や、大變!」
「え?」
「犬だ!」
「犬?」
彼は卽座に、手早く、戶締りに用ゐた竹の棒を引つつかむと、力任せに、それを庭の入口の方へ投げ飛した。彼の目には、もんどりを打つ竹ぎれからす早く身をかわして、いきなりそれを目がけて飛びかかると、その竹片を咥へたまま、眞しぐらに逃げて行く白犬が、はつきりと見えた。尾を股の間へしつかりと挾んで、耳を後へ引きつけ、その竹片に嚙みつ居た口からは、白い牙を露して、涎をたらたらと流しながら、彼の家の前の道をひた走りに走つて行く。月光を浴びて、房々した毛の大きな銀色の犬は、その織るやうな早足、それが目まぐるしく彼の目に見える。
[やぶちゃん注:「投げ飛した」「なげとばした」。
「露して」「あらはして」。
「涎」「よだれ」。]
それは王禪寺といふ山のなかの一軒の寺の犬だつた。その形は明確に細密に、一瞬間のうちに彼には看取出來た。
「狂犬だよ!」
彼は自分の犬どもの名を慌ただしく呼んだ。呼びつづけた。其處らには居ないのか、犬どもは彼の聲には應じなかつた。妻には何事が起つたのか、少しも解らなかつた。併し、彼のさうするまゝに、彼の妻も聲を合せて犬の名を呼んだ。その甲高い聲が丘に谺した。七八度も呼ばれると、重い鎖の音がして、犬どもは、二疋とも同時に、いかにものつそりと現はれた。さうして鎖をぢやらんぢやらんと言はせながら身振ひして、主人の不意な召集を訝しく思ひながらも、彼等は尾をちぎれるほどはげしく振り、鼻をくんとならした。
[やぶちゃん注:「王禪寺」実在する。現在の神奈川県川崎市麻生区王禅寺(おうぜんじ)にある真言宗星宿山蓮華蔵院王禅寺である。ここ(グーグル・マップ・データ)。市外であるが、春夫の居宅から直線で北北西二・六キロメートルしか離れていない(丘陵の中にあり、「山のなかの一軒の寺」に一致する)。但し、ここまで犬が来るためには丘陵を回り込んだ場合は倍近くにはなる。しかし、中型犬では往復五キロ程度は散歩のレベルである。]
月は雲のなかに呑まれてしまつた。
彼は妻の手から燭臺を受け取るや否や、それを、犬どもの方へ差し出したが、一時に風に吹き消された。直ぐに、別にランプに灯をともし見たが、彼の犬には別に何の變事もないらしかつた。
「ああ、愕いた、俺はうちの犬が狂犬に嚙まれたかと思つた。」
彼は寢床へ這入つたが、妻にむかつて、今見たところのものを仔細に說明した。彼の妻は最初からそれを否定した。いかに明るくとも月の光で、そんなにはつきりと見える筈はない。それに王禪寺の犬は、成程、狂犬になつたのだ、けれども、もう一週間も十日も前に、そのために屠殺された。その時、村の人が、お絹が、
「だから、お宅の犬もお氣をおつけなさい」
とさう言つた。その事は、その時彼の女自身の口から彼に話した筈だつた。――妻は事を分けて、宥めるやうに彼に說明するのであつた。しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ。
「犬の幽靈が野原をああして馳けまわつて居たのだ。さうして、さういふ靈的なものは俺にばかりしか見えないのだ‥‥」憂鬱の世界‥‥呻吟の世界‥‥靈が彷徨する世界‥‥。俺の目はそんな世界のためにつくられたのか。憂鬱な目には憂鬱の世界より外には見へない‥‥
[やぶちゃん注:「村の人が、」の箇所は底本では後に『村の人が、」』と鍵括弧がある。除去した。なお、定本では「村の人」ではなく、例の最初に案内人として登場し、よく話に来る『お絹が、』となっている。その方が自然である。
「事を分けて」条理を尽くして、筋道を立てて。
「しかし彼は王禪寺の犬が氣違ひになつた話などは聞いたこともないと思ふ」ここまで、遠い過去の記憶が細かに異常なまでに鮮明に思い出せるのに、短期記憶が完全に失われていることが判る。病的な逆行性健忘症の特徴である。]
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