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2017/05/30

「想山著聞奇集 卷の四」 「大ひ成蛇の尾を截て祟られたる事 幷、强勇を以、右祟を鎭たる事」

 

 大(おほ)ひ成(なる)蛇の尾を截(きり)て祟られたる事

  幷、强勇を以、右祟を鎭(しづめ)たる事

Soemonnooohebi

 信州小縣郡(ちひさがたごほり)東上田村【上田の城下のつゞきなり、】に、曾(そ)右衞門と云百姓あり。農事の間には、蠶(かひこ)の繭を買集(かひあつめ)て、上州上田高崎邊(へん)へ送り、絹布(きんふ)の類と交易して渡世とするものとぞ。此宅(このいへ)の裏は山續きにて、其山の麓に池有(あり)て、昔より其池の邊(へん)に、大なる蛇一疋住居(すまゐ)たる故、代々夫(それ)を辨財天と崇め、池の中嶋(なかじま)にちいさき祠(ほこら)を建(たて)て、月々米壹升づゝをめしに焚(たき)、かの祠に供(くふ)ずるに、件(くだん)の大蛇出(いで)て、夫を食(くふ)事にて、かくする事、また久敷(ひさしき)事也。然(しか)るに寬政十年【戊午】[やぶちゃん注:一七九八年。]頃の事なりしが、曾右衞門は商ひにて、右、上州高崎の元町(もとまち)へ行(ゆき)て逗留なし居(ゐ)たる留守に、倅豐吉、花檀[やぶちゃん注:「檀」はママ。]の植替(うゑかへ)をするとて、誤(あやまり)て彼(かの)蛇の尾の所、貮尺餘り截落したり。【其尾先(をさき)、大摺木(おほすりこぎ)ほど有しといふ。】然るに、其夕暮より、豐吉、傷寒(しやうかん)のごとき大熱(だいねつ)して、大成(おほひなる)丸太の如き蛇、身躰(しんたい)を卷(まき)からみ〆(しめ)らるゝとて、玉のごとき汗を流し、苦しがりたり。尤(もつとも)、其蛇、餘人(よじん)の目には見えねども、豐吉の目には見えて、堪兼(たえかね)る故、祈禱すれども驗(しるし)もなく、醫師も集り、藥など用ひ試れども、少しの功もなく、豐吉は四五日の内に段々やせ衰へ苦しみければ、此姿にては、何はともあれ、其内に躰(たい)勞(つか)れ、死に至るより外なしと醫師も申聞(まうしきけ)、何(なに)にもせよ、父曾右衞門に告(つげ)しらせ、兎も角もなすべしとて、達者成(たつしやなる)、急飛脚(きうびきやく)を立(たて)て、かの元町へしらせ遣したり。扨(さて)、曾右衞門、その病氣の樣子を具(つぶさ)に聞て申樣、夫ならば、くるしみても死には至るまじ、我等すべき樣(やう)有、殘りの荷は、明日の市(いち)に賣拂(うりはらひ)、替りの反物(たんもの)は、懇意の方(かた)より買(かひ)て𢌞(まは)し貰べきまゝ、わが歸る迄、驚かずに待居(まちゐ)よとて、飛脚を先へ返し、夫より大躰(たいてい)に用事を片付て、早々歸宅なして申樣、祖父以來、我方(わがかた)の鎭守として、汝等ごとき蟲類を辨天などゝ祭り置て、月々、飯まで喰(くは)せ置(おき)たるに、己(おの)が淺々敷(あさあさしき)所に出居(いでゐ)て、誤(あやまり)てきられたる事をはぢもせで、祟ると云は惡(にく)き事なり。先(まづ)、祠(やしろ)より打崩(うちくづ)して、助け置べきものかはとて、夫より、其邊の潛み居(ゐ)そふ成(なる)所を、そこ爰(こゝ))となく掘穿(ほりうが)ち、遂に件(くだん)の蛇を掘出(ほりいだ)し、何のぞうさもなく打殺し、直(ぢき)に皮を剝(はぎ)、先、二くだ計(ばかり)切(きり)て、酒の肴(さかな)となしてうちくらひ、人にすゝめ、殘りは段々食盡(くひつく)すべしとて、鹽(しほ)に漬置(つけおき)て日々(にちにち)食(くひ)たるに、夫より病人は次第に快く、纔(わづか)二日計も過(すぐ)ると、速(すみかや)に全快なしたり。曾右衞門は、かの切捨(きりすて)たる尾先(をさき)を尋出(たづねいだ)して、此(この)皮をもはぎ、胴の方(かた)の皮と繼合(つぎあは)せ、はなしの種の證據に、子孫へ殘し置(おく)がよろしきとて、能(よく)干堅(ほしかた)め、長押(なげし)に懸置(かけおき)たりと。扨、彼(かの)醢(ししびしほ)は、廿日程も懸りて、悉く食盡(くひつく)せし由。此蛇の大(おほき)さ、火入(ひいれ)の𢌞(まは)り程有て、色は赤黑なるへびにて有しと云。夫より雲野宿(くものじゆく)【直(ぢき)東(ひがし)の並びの宿なり。】光禪寺の寺中(じちう)の僧、此咄を聞、蛇を殺したるは道理至極の事なれども、先祖より久々(ひさびさ)祭り置たる辨財天の祠を毀(こぼ)ち捨(すつ)るは宜(よろ)しからず。夫(それ)か迚(とて)、足下(そつか)の宅(いへ)には、最早、元の如くは祭り給ふまじ。我は出家の事、わが地内(ぢない)に祭り置は子細なし、かの打毀(うちこぼ)ちたる祠を修(しゆ)すべしとて、可成(かなり)に元の如くになして、右、光禪寺に祭り置たりといへり。曾右衞門の勇氣は、感ずるにも餘り有(ある)事なり。是は縣(あがた)道玄、曾右衞門父子と各別の知己にて、彼(かの)皮も常々見受居(みうけゐ)、至(いたつ)て能(よく)しり居(ゐ)ての話なり。

[やぶちゃん注:「信州小縣郡東上田村」信濃国小県郡(ちいさがたぐん)東上田村。当時は旗本領と上田藩領が混在していた。現在は長野県東御市(とうみし)和(かのう)。(グーグル・マップ・データ)。

「高崎の元町」現在の群馬県高崎市本町であろう。(グーグル・マップ・データ)。東上田からは直線でも五十キロメートルはある。

「淺々敷(あさあさしき)所に出居(いでゐ)て」浅はかにして軽率にもそのようなところにしゃしゃり出でて。

「二くだ」「管」であろう。大蛇の胴体を幾つかに寸胴切りにした、その二本。

「雲野宿(くものじゆく)」とルビするが、これは北国街道の宿場として栄えた海野(うんの)宿、現在の長野県東御市本海野(うんの)であろう。先の和(かのう)の千曲川沿いの東南に隣接する地区である。(グーグル・マップ・データ)。

「光禪寺」不詳。しかし、長野県東御市和の海野に近い位置に曹洞宗の興善寺という寺がある。であろう(グーグル・マップ・データ)。

「可成(かなり)に」それお相応に。しっかりと。]

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