改版「風は草木にささやいた」異同検証 「Ⅵ」パート
Ⅵ
[やぶちゃん注:「秋ぐち TO K.TŌYAMA.」は異同なし。「Ō」の長音符はこちらは現行通りの普通のフラットなもの。]
[やぶちゃん注:「此の世界のはじめもこんなであつたか」は異同なし。]
[やぶちゃん注:「ひとりごと」は異同なし。]
[やぶちゃん注:「新聞紙の詩」は「世界のことなどは何も知らず」の部分が、改版では「世界のことなどは何んにも知らず」に書き変えられてある。改版の口語的強調形の方がよい。]
[やぶちゃん注:「汽車の詩」は「その中の一本の線をえらんで」の部分が、改版では「その一本の線をえらんで」と変わっている。改版の方がより現前的事実を示すリアルな描写と思う。]
[やぶちゃん注:「都會の詩」は異同なし。]
[やぶちゃん注:「都會の詩」(前と同題の別篇)は異同なし。]
[やぶちゃん注:「握手」は「もぢもぢするのは耻づべき行爲だ」の「もぢもぢ」が改版では「もじもじ」と変えられている。但し、歴史的仮名遣は「もぢもぢ」の方が正しい。]
[やぶちゃん注:初版でここに配されてあった「故郷にかへつた時」は既に述べた通り、前の「Ⅴ」の終りに配されてある。詩篇内容の異同はない。]
[やぶちゃん注:「太陽はいま蜀黍畑にはいつたところだ」は最終行のリフレイン「何もかも明日のことだ」が存在しない。これはある種の悪意めいた邪推であるが、この詩篇の後半は右ページで、最終行が本来リフレインされている最初の「何もかも明日(あした)のことだ」である(初版はルビは一行目にのみ附されてある)。本改版はパート表示の挿絵とローマ数字の打たれたページが総て左ページに統一されており、そのパート表示ページの裏は白紙であるから、この一行があると、一行のみを記した左ページとなり、その裏は特異的に白紙として「Ⅶ」の標題ページを拵えなくてはならなくなる。その一ページ増による白紙ページを山村暮鳥自身が避けたためではあるまいか?]

