甲子夜話卷之四 9 秀賴の異事
4-9 秀賴の異事
[やぶちゃん注:以下の漢文部分は送り仮名(カタカナ)を含めた訓点が附されてあるが、返り点のみを再現し、書き下し文(一部に読点と読みを追加して読み易くした)を( )で示した。]
大阪落城の時、豐臣秀賴は潛に薩摩に行れたりと云一説あり。此こと異域にも聞へたると見えて「涌瞳小品」に【第三十に見ゆ。明の朱國禎著す】、賴兵敗走入二和泉一焚ㇾ城而死。又有下言三逃入二薩摩一者上(賴(らい)か兵、敗走して和泉に入り、城を焚(やき)て死す。又、逃(にげ)て薩摩に入(いる)と言ふ者、有り)と。入二和泉一(和泉に入る)とは誤聽なり。又何にてか見たりし、落城のとき、神祖天守に火かゝりたるを御覽ありて、早や御動坐あるべしと仰出さるゝ故、左右より未だ秀賴の否知れ不ㇾ申と言上せしに、天守に火かゝれば落城なりとの御諚にて、卽御動坐ありしと。又或人曰。秀賴薩摩に行し後、大酒にて處々にてこまりたり。酒の負債多くありしと。因みに云ふ、今高崎侯の居間、襖に秀賴の畫とてあり。金地に老松を繪き、其上へ總體明間もなく簾を繪く。簾外に見たる體なり。尤着色なり。其筆雅樂助、山樂などゝ見ゆ。
■やぶちゃんの呟き
豊臣秀頼(文禄二(一五九三)年~慶長二〇年五月八日(一六一五年六月四日))の生存説については、ウィキの「豊臣秀頼」の「生存説」から引いておく(注記号を省略した)。『大阪が落城した際、秀頼達が絶命する瞬間を目撃した者がおらず、死体も発見されなかったことから生存説がある』。「日本伝奇伝説大辞典」の『星野昌三による「豊臣秀頼」の項などで』、『以下のとおり記述されているが、どれも伝説的な逸話である』。『平戸にいたリチャード・コックスの東インド会社への手紙(日記にも記述あり)では薩摩・琉球に逃げた、『日本西教史』(ジャン・クラッセ)では「一説には母と妻とを伴なひ辺遇の一大諸侯に寄寓し、兵を募り再挙を謀ると云ひて一定せず」とあり、当時の京に流行した「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたよ鹿児島へ」という童謡が真田信之のいた松代でも聞こえたと『幸村君伝記』にも記載されており、生存の噂が流布していた』。『『採要録』には薩摩国谷山に元和はじめ浪士が住み着き、国主からの家に住んでいたが酒好きでいつも酔ってあちこち寝転がることから「谷山の酔喰(えいぐら)」とよばれていた。国主から手出し禁止を命じられ、住民はひそかに秀頼公ではないかと噂していたという。末に「右ハ分明ナラザレドモ、土民ノ伝フ言ヲ記シ置クモノナリ。信ズルニモアラズ。捨ツルニモ非ズ。後人ノ考モアルベシ」と記述されている』。『鹿児島市下福元町に伝秀頼墓と伝わる塔があり、付近の木之下川に伝家臣墓』二『基もあるという』。昭和四二(一九六七年)から翌年にかけて、『鹿児島県の郷土史家・後藤武夫は、秀頼は大坂城落城後、国松と共に九州に逃れて日出藩主・木下延俊の庇護を受け、宗連と号し』、四十五『歳まで生き、国松は延俊の養子(表向きは実子(次男)扱い)となり』、『長じて立石領初代領主・木下延由となったとする説を唱えた』。旧日出藩主木下家第十八世当主木下俊煕氏はその著「秀頼は薩摩で生きていた」(昭和四三(一九六八)年新峰社刊)で、『秀頼は宗連といい、日出藩木下家が落ち延びた秀頼と国松を密かに庇護したこと、それを疑った幕府が松平忠直を隠密として配流したという内容の生存説を出し』ている。豊臣正統第十四世を自称する木場貞幹は『歴史と旅』(昭和五八(一九八三)年八月臨時増刊号)で『「太閤の後裔は亡びず」と題した記事で口伝の秀頼薩摩亡命とその後を発表している』。江戸時代の小説「真田三代記」(幕末近くに成立した実録体小説。後に同名の長編講談となり、明治まで大いに流行ったようで、そこからまた、「真田十勇士」「猿飛佐助」の派生長編講談が生まれた)の第百七十八節の『「真田幸村、秀頼公を伴ひ薩州へ落る事並びに島津家由緒の事」では、幸村主導で大助、長宗我部盛親、後藤又平衞ら』百五十『名が夜丑の時抜け穴から誉田に出、島津家の伊集院刑部、猿沢監物と兵庫の浦から海路薩摩へ逃げたことになっている』とある。
「潛に」「ひそかに」。
「涌瞳小品」(ゆうどうしようひん)は「明の」内閣首輔を勤めた「朱國禎」(しゅこくてい 一五五七年~一六三二年)の著。同書の「卷三十」の「倭官倭島」の条に以下のようにある(中文の「維基文庫」のものを加工した)。
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關白、倭之官號、如中國兵部尚書之類。平秀吉者、始以販魚、醉臥樹下、別酋信長爲關白、出山畋獵、遇吉衝突、欲殺之。吉有口辯、自詭曾遇異人、得免。收令養馬、名曰木下人。吉又善登高樹、稱曰猴精。信長漸委用、合計奪二十餘州。後信長爲嗬奇支所殺、吉討平之、遂居其位。丙戌年擅政、盡並六十六州。其主山城君、懦弱無爲。壬辰破高麗、改天正二十年爲文祿元年、自號大閣王、以所養子孫七郎爲關白。
日本原六十八島、各據其地、至平秀吉、始統攝之。及老且病、子秀賴尚幼、托於婦父家康代攝其位。吉死、家康止以和泉、河內二島歸賴。賴既成立、索其位於家康。不與、忿還其女、致爭鬥。賴兵敗、走入和泉、焚城而死。又有言逃入薩摩者。其位遂歸於家康、傳其子爲武藏將軍。倭俗簡易、寸土屬王。倭民住屋一編、闊七尺。歳輸銀三錢。耕田者、粟盡入官、只得枯稿。故其貧者、甚於中國、往往爲通倭人買為爲賊、每名只得八錢。其人輕生決死、飲食甚陋、多用湯、日只二餐、以苦蓼搗入米汁爲醋。其地多大風、夏秋間風發、瓦屋皆震、人立欲飛。乍寒乍暖、氣候不常。其暑甚酷、一冷即挾纊。九月以後卽大雪、至春止矣。大小終日圍爐、婦人齒盡染黑、閨女亦然。以雪拋擲、孩子穿紅繡紗、踐於雪中、不惜。其酋長喜中國古書、不能讀、不識文理、但多蓄以相尚而已。亦用銅錢、只鑄洪武通寶、永樂通寶、若自鑄其國年號、則不能成。法有斬殺、無決配。倭人傷明人者斬。倭王見明人、卽引入座。我奸民常假官、詐其金。留倭不歸者、往往作非、爭鬥、賭盜、無賴。有劉鳳岐者、言自三十六年至長崎島、明商不上二十人、今不及十年、且二三千人矣。合諸島計之、約有二三萬人。此輩亦無法取歸、歸亦爲盜、只講求安民之策可也。
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「賴か」送り仮名は「カ」でママ。秀「賴が」。
「御動坐あるべし」「ごどうざあるべし」「御」は自敬表現(或いは記者の尊敬語)で、「戰は終わったから陣屋へ戻ろう」の謂いであろう。
「仰出さるゝ」「おほせいださるる」。
「否」「いなや」。
「不ㇾ申」「まうさず」。
「言上」「ごんじやう」。
「御諚」「ごじやう」。きっぱりとした仰せ。
「卽」「すなはち」。
「高崎侯」上野群馬郡(現在の群馬県高崎市)周辺を了した高崎藩主。江戸後期は大河内松平家。
「總體明間もなく」「さうたいすきまもなく」主対象の松以外の空間全面、殆んど隙間もなく。
「簾」「すだれ」。
「簾外」「れんぐわい」。
「見たる體なり」「(松を)見たる體(てい)なり」。
「尤」「もつとも」。着色画であることから、秀頼などの素人絵ではないという判断からか。
「雅樂助」室町後期の狩野派絵師狩野雅楽助(かのううたのすけ 文亀年間(一五〇一年~一五〇三年)?~天文八~一〇(一五三九~一五四一)年)?)。
「山樂」安土桃山から江戸初期の狩野派絵師狩野山楽(さんらく 永禄二(一五五九)年~寛永一二(一六三五)年)。
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