南方熊楠 履歴書(その40) ハドリアヌスタケ
小生山本氏をしてこの出迎いに間に合わざらしめやらんと思いつき、いろいろの標品を見せるうち、よい時分を計(はか)り、惚れ薬になる菌(きのこ)一をとり出す。これはインド諸島より綿を輸入したるが久しく紀州の内海(うつみ)という地の紡績会社の倉庫に置かれ腐りしに生えた物で、図のごとくまるで男根形、茎に癇癪(かんしゃく)筋あり、また頭より粘汁を出すまで、その物そっくりなり。六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人あるも、実際その物を見しは小生初めてなり。牛芳(ごぼう)のような臭気がする。それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す。それを見せていろいろ面白くしゃべると、山本問うていわく、それはしごく結構だがいっそ処女を悦ばす妙薬はないものかね。小生かねて政教社の連中より、山本の亡妻はとても夫の勇勢に堪えきれず、進んで処女を撰み下女におき、二人ずつ毎夜夫の両側に臥せしむ、それが孕めば出入りの町人に景物を添えて払い下げ、また処女を置く、しかるに前年夫人死し、その弔いにこれも払い下げられた夫ある女が来たりしを、花橘(かきつ)の昔のにおい床しくしてまた引き留め宿らせしが、情(なさけ)が凝って腹に宿り、夫の前を恥じて自殺したということを聞きおったので、それこそお出でたなと、いよいよ声を張り挙げ、それはあるともあるとも大ありだが、寄付金をどっしりくれないと啻(ただ)きかす訳には行かぬというと、それは出すからとくる。
[やぶちゃん注:この奇態なキノコ(同一個体)について、南方熊楠は後の昭和六(一九三一)年十月十八日附今井三子(いまいさんし 明治三三(1900)年~昭和五一(一九七六)年:北海道帝国大学農業生物学科助手(当時)であった菌類学者)宛書簡でも挿絵入りで解説しているので是非、私の古い電子テクスト「(Phalloideae の一品)」を参照されたい。思うにこれは、
菌界 Fungi 担子菌門 Basidiomycota 菌蕈亜門 Hymenomycotina 真正担子菌綱 Agaricomycetes スッポンタケ目 Phallales スッポンタケ科 Phallaceae スッポンタケ属 Phallus アカダマスッポンタケ Phallus hadriani
或いは
同スッポンダケ属スッポンダケ Phallus impudicus
或いは
その近縁種
ではないかと推測される。私も南紀白浜の南方熊楠記念館で二〇〇六年九月に当該個体の液浸標本の実物を拝観し、感無量であった。ウィキの「スッポンダケ」では本個体をスッポンダケ Phallus impudicus に同定しており(そのように読めるように書かれてある。但し、乾燥した腐敗個体でしかも西インド諸島のものとなると、私はこの断定同定にやや疑問を持つ)、『スッポンタケ(鼈茸)とは、スッポンタケ科スッポンタケ属の食用キノコ』で『英語名はstinkhorn』(「悪臭を放つ角」の意)。『悪臭がするが』、食用は可能である。『初夏から秋にかけて林地などで発生。形は陰茎に似ている。学名もこれにちなむ』(属名 Phallus (ファルス)は「男根」の意。ギリシャ語の「脹らむもの」の意に由来)。『和名は傘の形がスッポンの頭部に似ること』に由来する。『キノコ本体はごく柔らかい。幼菌は卵のような形状で、内部には半透明のゼリー状の物質につつまれた柄と暗緑色の傘がある。この時点では悪臭はしない。しかし、成熟すると柄と傘が展開し、傘の表面に悪臭のする粘液質のものが一面に現れ、悪臭がするようになる。これはグレバで形成された胞子を含むもので、その悪臭は、ハエなどを誘引し、胞子を運ばせるためである。キノコ本体は一日でとろけるように消滅する』。『色については幼菌も含め』、『白だが、傘はグレバ』(gleba:基本体。所謂、通常、我々が「傘(かさ)」と呼称している部分で、子実体の内部に胞子を形成するキノコの胞子形成部分を、菌類学では、かく呼称する)『の色で暗緑色に見える』。『』なお、高級食材として有名な』同じくスッポンタケ科キヌガサタケ属 Phallus キヌガサタケ Phallus
indusiaus『はこれにレース状の飾りが付いただけ、と言っていいものである』。『グレバを取り除いた柄の部分や、幼菌は食用である。油で揚げると魚のような味になる。ドイツのいくつかの地域やフランスで食用とされ、中華料理にも利用される』。『その形が勃起した陰茎に非常に似ていることで古くから注目された。学名Phallus
impudicusは、phallus(男根)、im-(否定接頭辞)+pudicus「恥じらう」で「恥知らずな男根」という意味である。根もとにはふくらんだツボがあり、これは陰嚢に似ているとも言える。イギリスのビクトリア時代など性に関する規範が厳格だった時期には、このキノコの図は、それを見る人にショックをあたえないように、上下さかさまに描かれることがよくあった。南方熊楠が描いたスッポンタケの絵が残されているが、実際にはない血管状のすじや毛が描きくわえられており、わざと男性器に似せて描いたように見える』(下線やぶちゃん)とあって、熊楠の、少なくとも、本「履歴書」中の本図は手が加えられていると断言してある。確かに、海外サイトの“California
Fungi—Phallus hadriani”にリンクされている多数の生態写真を見ると、少なくとも生体には「癇癪(かんしゃく)筋」(陰茎の血管)のようなものは見られない)。
「紀州の内海(うつみ)」ここ(グーグル・マップ・データ)。
「六、七十年前に聞いたままでこれを図したる蘭人ある」原資料未詳。識者の御教授を乞う。
「それを女にかがしむると眼を細くし、歯をくいしばり、髣髴(ほうふつ)として誰でもわが夫と見え、大ぼれにほれ出す」こんな媚薬効果は甚だ怪しい。漁色家の山本の気を引いて寄付金を出させるための嘘であろう。これに山本が膝をすり寄せたのは、熊楠のしめしたやや怪しげな図によって、即ち、まさにフレーザーの言う類感呪術的熊楠術数に完全にハマった結果、である。
「政教社」明治中期から大正期の主に国粋主義者が創始した思想・文化団体。明治二一(一八八八)年志賀重昂(しげたか:南進論を唱え、西欧帝国主義による植民地収奪を批判した地理学者)・三宅雪嶺(哲学者)・井上円了ら十三名によって創設され、機関誌『日本人』(後継誌『亞細亞』『日本及(および)日本人』)を発刊、欧米文化の無批判的な模倣に反対し、大同団結運動に参加して立憲主義的政治論を主張した。政府の欧化路線・条約改正に関しては、その欧米屈従の態度に反対して対外独立の国粋主義の立場をとり、日清戦争の開戦世論の喚起に努めた。陸羯南(くがかつなん)主宰の新聞『日本』のグループとは同傾向の思想を持っていて同志的関係にあり、明治四〇(一九〇七)年にこのグループを吸収し、機関誌を『日本及日本人』と改題した。大正一二(一九二三)年、関東大震災直後に三宅が離脱、その後は次第に右傾化、戦争協力体制の翼賛雑誌に堕した(主に小学館「日本大百科全書」に拠ったが、最後の箇所はウィキの「政教社」でしめた)。
「払い下げられた夫ある女」前の、山本が「処女を撰」んでおいた「下女」で添い寝させ、その結果として「孕」んでしまい、「出入りの町人に景物」(添え金(がね))をつけて「払い下げ」た中の一人。
「花橘(かきつ)の昔のにおい床しくして」「古今和歌集」の「卷第三」の「夏歌」の「よみ人しらず」(但し、本歌は「伊勢物語」の第六十段にも載る)で載る第一三九番歌。
題しらず
さつき待つ花橘(はなたちばな)の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
を洒落たもの。
「情(なさけ)が凝って腹に宿り」精神的懊悩ではなく、妊娠してしまったことの比喩である。]