柴田宵曲 續妖異博物館 「くさびら」
くさびら
菌(きのこ)といふものは陰濕の地に生ずるせゐか、時に若干の妖意を伴ふことがある。狂言の「くさびら」などもその一つで、庭に異樣な菌が現れたのを、山伏に賴んで祈禱させる。最初は簡單に退散したが、あとからくと同じやうな菌が現れて包圍するので、山伏も閉口頓首に及ぶといふ簡單な筋であるが、何しろ菌に扮するのが悉く人間である。もしあんな大きな菌に包圍されたら、如何なる山伏も珠數を切らざるを得ぬであらう。
[やぶちゃん注:ウィキの「茸(狂言)」によれば、大蔵流では「菌」、和泉流では「茸」と表記する。『細かい部分は流派などで違いが見られるが、基本的な筋立ては変わらない』。『また、山伏が登場する際の台詞は能の』「葵上」の台詞と同じで、「葵上」の山伏はその法力によって調伏を成功させるが、こちらはかくなる結末で『一種のパロディーになっているという』とある。You Tube の茂山家の動画取り放題狂言会での撮影になるsagiokarasu氏の「菌(くうびら)」が、山伏が調伏に滑稽に失敗し、茸が面白く退場するさまをよく伝える。お時間のある方は、「オリキャラの子貫さん」氏のブログ「肯定ペンギンのぶろぐ」の「狂言「くさびら」メモ程度の現代語訳?」に全篇画像(You Tube・洗足学園音楽大学提供・約十六分)とブログ主による全現代語訳が載るのでじっくりと楽しめるのでお薦め!]
相州高座郡田名村の百姓が株(まぐさ)刈りに行つて蛇を殺した。まだ死にきらぬのを繩に縊(くく)り、木の上に吊して置いたが、年を經てその事を忘却した頃、また株刈りに來て見ると、大きな菌が澤山出てゐる。採つて歸つて食膳に上せたところ、俄かに苦しみ出して遂に亡くなつた。一緒に食べた母親や弟は何ともなかつたので不審であつたが、前年株刈りに同行した弟の話で蛇の一條が知れた。「眞佐喜のかつら」にあるこの話などは、菌の陰濕の氣に蛇の恨みが加はつてゐる。尋常の毒菌の類ならば一樣に中(あた)る筈なのに、當人だけといふのが奇怪なる所以である。
[やぶちゃん注:以前に述べた通り、「眞佐喜のかつら」は所持しないので原典は示せぬ。
「高座郡田名村」現在の相模原市田名(たな)。ここ(グーグル・マップ・データ)。]
支那の或家で井戸の水を汲ませたところ、釣瓶(つるべ)が重くなつて、どうしても上らない。數人がかりで漸く引き上げたら人であつた。大きな帽子を被り、井桁(いげた)に上つて呵々大笑するかと思へば、忽ちもとの井戸に飛び込んでしまつた。その後は遂に姿を見せなかつたが、彼の被つてゐた帽子だけは、釣瓶にかゝつて上つて來た。それを庭樹に掛けて置いたら、雨每に雫が落ちて、そこに黃色の菌が生えた。
[やぶちゃん注:次に書かれているように出典は「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下の一条。
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獨孤叔牙、常令家人汲水、重不可轉、數人助出之、乃人也。戴席帽、攀欄大笑、却墜井中。汲者攪得席帽。挂於庭樹、每雨所溜處、輒生黃菌。
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「獨孤叔牙(どくこしゆくが)」はその家の主人の名。この「獨孤」姓は匈奴出自であることを意味する。「席帽」「席」は蒲(がま)の一種であるから、それで編んだ笠か。]
この話は割り切れないところに面白味がある。黃色の菌を食べた者が皆中毒したなどといふ後日譚が加はらぬため、井桁に上つて大笑した者も神仙じみて來て、少し誇張すれば神韻標縹渺たるものがあるが、同じ「諾皐記」所載の次の話になると、さう簡單には片付けられぬ。
京の宜平坊に住む官人が、夜に入つて歸る途中で、驢馬を引いた油賣りに出逢つた。彼は大きな帽子を被つた小男であつたが、官人に對して道を避けようともしない。從者の一人が癇癪を起して撲り付けたら、頭がころりと落ちると同時に、路傍の大邸宅の門内に入つてしまつた。不思議に思つた官人があとについて行くと、彼の姿は大きな槐の木の下で見えなくなつた。それからこの事を邸の人々に告げ、槐の下を掘つて見たところ、根は已に枯れて、疊のやうな蝦蟇(がま)がうづくまつてゐた。蝦蟇の持つた二つの筆筒には、樹からしたゝる汁が溜つてゐる。白い大きな菌が傍に泡を吹いてゐたが、その笠は地に落ちてゐた。油賣りと見えたのは菌、驢馬は大蝦蟇、油桶は筆筒であつたらしい。この油賣りは一月餘りも里に油を賣りに來たので、價の安いところから皆よろこんで買つてゐたが、彼の正體が暴露されるに及び、油を食用に使つた人は悉く病氣になつた。
[やぶちゃん注:「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皋記下」の以下。
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京宣平坊、有官人夜歸入曲、有賣油者張帽驅驢、馱桶不避、導者搏之、頭隨而落、遂遽入一大宅門。官人異之、隨入、至大槐樹下遂滅。因告其家、即掘之。深數尺、其樹根枯、下有大蝦蟆如疊、挾二筆金沓、樹溜津滿其中也。及巨白菌如殿門浮漚釘、其蓋已落。蝦蟆即驢矣、筆金沓乃油桶也、菌即其人也。里有沽其油者、月餘、怪其油好而賤。及怪露、食者悉病嘔洩。
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「宣平坊」は長安の坊里の名。「筆金沓」筆を収める(携帯用?)銅で出来た筒状の入れ物。蝦蟇は二本のそれを両手脇にそれぞれ挟んでいたのであろう。]
別に因縁纏綿しては居らぬが、如何に支那らしい話である。菌が人になつて、蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步くなどは、日本人の思ひもよらぬ奇想であらう。この話を讀んでから見直すと、前の井桁に上つて大笑した先生も、どうやら菌の化身らしく感ぜられて來る。殊にあとから釣瓶にかゝつて來た帽子が曲者で、それが菌の笠であつたとしたら、その雫から黃色の菌を生じても、何等不思議はないわけである。
[やぶちゃん注:「蝦蟇の驢馬につけた油を賣りに步く」「蝦蟇の、驢馬につけた、油を賣りに步く」。まあ、「驢馬につけた蝦蟇の油を賣りに步く」の方がすんなり読めると思います、宵曲先生。]
徽州の城外三里ばかりのところに、汪朝議の家祖の墳墓があつた。紹興年間に惠洪といふ僧を招き、附近の小庵の住持たらしめたが、毎日腹一杯食べて安坐するのみで、讀經念佛三昧に日を送るといふ風もなく、佛事の方は簡略を極めてゐる。たゞ循々として自ら守り、これといふ過失もなしに經過した。庵住二十年、乾道二年に病氣で亡くなつたので、汪氏では遺骸を近くの山原に葬つた。そのほとりに大きな楮(かうぞ)の木があつて、鬱蒼と茂つてゐたのに、惠洪を葬つてから間もなく枯れてしまつた。そのあとに菌が生える。たまたま牛を牽いて通りかゝつた汪氏の僕がこれを見出し、採つて歸つて主人に見せた。料理して食べると非常な美味で、殆ど肉に勝るほどである。今日全部採り盡したかと思つても、明日はまた新しいのが生えてゐて、容易になくなりさうもない。この評判が四方に聞えた爲、錢を持つて買ひに來る者もあつたが、汪氏では拒絶して與へず、人の盜みに來るのを恐れて周圍に低い垣を作り、菌を保護するやうにした。これを見た鄰人が憤慨して、夜ひそかに垣を越えて入つたら、楮の枯木は突如として人語を發した。これはお前達の食べるものではない、強ひて取れば必ず災ひを受ける、わしは昔の庵主であるが、徒らに布施を受けるのみで、慙(は)づるところがなかつたので、身歿するの後、冥官の罰を受け、菌となつて生前の償ひをせねばならなくなつた、この菌が美味なのは、わしの精血の化するところだからである、倂しその罰も已に了つたので、もうこゝを立ち去るつもりだ、といふのである。隣人は驚いてこの話を汪氏に告げた。汪氏は直ちにその事を信じなかつたが、自分で行つて見ると、成程菌は一つもなくなつてゐる。楮の木は伐つて薪にした(寃債志)。
[やぶちゃん注:「徽州」現在安徽省の黄山市歙(きゅう)県附近。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「紹興年間」南宋の高宗の治世で用いられた元号。一一三一年から一一六二年。
「汪朝議」不詳。「朝議」は名ではなく、文官の名誉職である朝議大夫のこと。
「乾道二年」「乾道」南宋の孝宗の治世で用いられた元号で、「乾道二年」は一一六六年。先の「紹興」との間には「隆興」(二年間)が入る。「庵住二十年」と言っているから、逆算すると、三十年前は一一三六年で、その紹興六年或いはその前の年に「惠洪」(えこう)を招いたことになる。
「精血」純粋にして新鮮な血液。
「寃債志」(えんさいし)は晩唐(八三六年頃から九〇七年)の呉融の撰になる伝奇集であるが、「紹興年間」はおかしい。原典も次の最終段落の後に示すように宋代のものしか私には見当たらなかったし、それなら「紹興」は合う。]
この菌は蛇の恨みから成つた類ではないから、毒にならぬのは當然である。けれども一たび僧の精血の化するところと聞いた上は、如何に肉に勝る美味であつたにせよ、汪氏も平氣で食ふことは出來なかつたらう。恰も自分の責任を果して立ち去るに臨み、はじめて鄰人の口を藉りて菌の由來を明かにしたものと思はれる。
[やぶちゃん注:以上の話は、宋の洪邁(一一二三年~一二〇二年)の撰になる「夷堅志丙卷八」の「支景色卷八」に「汪氏菴僧」として出るのを見つけた。
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徽州城外三里、汪朝議家祖父墳庵在焉。紹興間、招僧恵洪住持。僧但飽食安坐、未嘗誦經課念、於供事香火亦極簡畧。僅能循循自守、不爲他過。主家皆安之。凡歷歳二十、乾道二年病終。汪氏塟之於近山。元有大楮樹、鬱茂扶疏。數月後、頓以枯死、經雨生菌。汪僕牧羊過之、見其肥白光粲、采而獻之主人。用常法煠治、味殊香甘、殆勝於肉。今夕摘盡、明旦復然、源源不窮、至於三秋。浸浸聞於外、或持錢來求、求輟買、悉拒弗與。又畏人盜取、乃設短牆闌護之。鄰人嫉憤、夜半踰牆入、將斧其根枿、楮忽作人言曰、「此非爾所得食、強取之必受殃災。我卽昔時菴主也。坐虛受供施、不知慚愧。身没之後、冥司罰爲菌蕈以償。所以肥美者、吾精血所化也。今謫數已足、從此去矣。」。鄰人駭而退、以告汪。汪猶不信、自往驗之、不復有菌、遂伐以爲薪。
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「根枿」(コンガツ)は枯れた木の根元の部分に芽生えた枿(ひこばえ)のこと。原話ではそこを斧で掘り起こして茸を探ろうとしている。]