「想山著聞奇集 卷の四」 「大名の眞似をして卽罰の當りたる事」
大名の眞似をして卽罰(そくばち)の當りたる事
東海道新居宿本陣疋田八郎兵衞が家にて、或時、西國筋の四五萬石の諸侯、晝休濟(すみ)て立(たゝ)れしに、直(ぢき)其跡へ、本陣の男ども五六人、手每(てごと)にはたき箒(はうき)の類(るゐ)を持(もち)て奧へ這入(はいり)、上段の掃除をするとて、或男、戲(たはむれ)ていふ、我、大名に成(なる)べし、皆、目通りへ來れ、今迄、此所(このところ)に居給ふと見えて、まだ疊(たゝみ)が暖か也とて、上疊(あげだゝみ)の上の彼(かの)大名の着座有し跡へすはり、しばし大名の眞似をなすよと見えしが、忽に面躰(めんてい)變り、そのまゝ身躰(しんたい)もすくみたれど、側(そば)に居(ゐ)る者ども、初は、戲にて變なる樣子をすると思ひ居たるに、左にあらず、立所(たちどころ)に罸(ばち)の當り、まのあたり樣子の替りて、變なる事と成(なり)たるの也。是は恐入(おそれいり)たる眞似を成(なし)たる故、かやうの卽罸あたりたり。外にしよふは有べからずとて、かの侯を追駈(おつかけ)、壹里餘り先にて追付奉りて、段々の始末を申述(のべ)、御侘(わび)申上たるに、かの侯の、免遣(ゆるしてつかは)すと云へと宣ふまゝ、馳歸(はせかへ)りて、是を力に其通りを申聞(きけ)ると、狂變(きやうへん)は卽座に直(なを)り、常躰(つねてい)と成たりと。是は水野何某なるもの、以前、市谷御屋形(おやかた)の道中七里(しちり)のもの【七里の者とは宿々へ在住なさしめ置(おか)るゝ所の者なり】在勤中、現に其席に居合(ゐあはせ)て、見請置(みうけおき)たる事なりとて語りき。其時は、その諸侯の名も覺え居(ゐ)しに、早十年餘りの昔と成り、今は其名も髣髴として、慥(たしか)には申兼たりといへり。【天保元年の咄なり。】。殘(のこ)り多し。此何某は決(けつし)て虛言など云ものには非ず。尊卑の譯は能(よく)心得置べし。
[やぶちゃん注:この諸侯の名を話者が忘れてしまっていたのは実に「殘り多し」、残念である! 或いは、この大名の血には、ある種の呪術者の持つ呪力のような何かが流れているのかも知れない。或いはある種の憑き物の家系とも考えられる。本人も知らないうちに、感応して、相手に憑依したり、人事不省や命を奪うような危険な目に遇わせてしまう呪われた系譜の持ち主かも知れぬからである。シチュエーションでは「かの侯を追駈、壹里餘り先にて追付奉りて、段々の始末を申述(のべ)、御侘(わび)申上た」ところが、そうした現象に驚くこともなく、ただ一言、「免遣(ゆるしてつかは)すと云へ」と仰せられたというのは、実はそうした現象をこの人物は常に経験してきたからこその謂いではないか、と私は思うからなのである。
「新居宿」現在の静岡県湖西市新居町(あらいちょう)新居。浜名湖西岸の遠州灘に面した突出部。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「市谷御屋形(おやかた)」ウィキの「屋形」によれば、狭義のそれは、江戸幕府が尾張藩・紀州藩・水戸藩などの御三家並びに有力な親藩、並びに、室町時代の守護の格式にあった旧族大名(薩摩藩島津氏・秋田藩佐竹氏・米沢藩上杉氏)及び交代寄合の山名氏・最上氏などに免許した「屋形号」であるとする。ここは「市谷」とあり、ここには尾張藩徳川家上屋敷があったので尾張藩と見てよかろう。次の「七里の者」とも合致するからでもある。
「七里の者」大名飛脚のこと。大名が国元と江戸藩邸との通信連絡のために設けた私設の飛脚。尾張・紀伊の両家は東海道七里ごとに人馬継ぎ立ての小屋を設けたので、七里飛脚とも呼ばれた。
「天保元年」一八三〇年。]
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