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2017/05/10

柴田宵曲 續妖異博物館 「離魂病」

 

 離魂病

 

 離魂病といふものは、いつ頃からあるか知らぬが、「搜神後記」に見えてゐる話などが古い方であらう。夫婦のうち妻が先づ起き、次いで夫も起きて出た。暫くして妻が戾つて來ると、夫は寢床の中に眠つてゐる。夫が起き出たことを知らぬ妻は、別に怪しみもせずにゐると、下男が來て鏡をくれといふ夫の意を傳へた。旦那はこゝに寢てゐるではないかと云はれて驚いた下男は、寢床の中の主人を見て、慌てて駈け出した。下男の報告によつて來て見た夫も、自分と全く違はぬ男の眠つてゐるのにびつくりした。夫は皆に騷いではいけないと云ひ、衾の上から靜かに撫でてゐるうちに、寢てゐた男の姿はだんだん薄くなり、遂に消えてしまつた。この夫はその後一種の病氣に罹り、ぼんやりした人間になつたさうである。

[やぶちゃん注:「離魂病」日本でも古くから信じられた、魂(たましい)が肉体から離れて今一人の全く同じ姿の人間になると考えられた病気、「影(かげ)の病い」のこと。西洋の「ドッペルゲンガー」(ドイツ語:Doppelgänger:「自己像幻視」「二重身」)と同じで、死や厄災を受ける凶兆とされたことは言うまでもあるまい。西洋の文学作品では枚挙に暇がないが、私ならまず、エドガー・アラン・ポーの「ウィリアム・ウィルソン」(William Wilson 一八三九年)だ。本邦のものは現象としては古文にも出はするものの、そこに絞って描き切ったものは少ない。近代では私は鎌倉を舞台とした泉鏡花の「星あかり」(明治三一(一八九八)年八月『太陽』に「みだれ橋」)を真っ先に挙げる(サイト「鏡花花鏡」のこちらにあるPDF版をお薦めする)。つい最近電子化注を終わった佐藤春夫の「未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)」(大正七(一九一八)年十一月刊行の作品集「病める薔薇」の第二篇)のここにも、主人公のそれらしいものが出現し、また、佐藤と同時代で盟友でもあった芥川龍之介も晩年、自分自身、実際に自分のドッペルゲンガーを見たと何度か告白しており、小説「二つの手紙」(大正六(一九一七)年九月『黒潮』発表。同作は「青空文庫」のこちらで読める(新字新仮名))でも「ドッペルゲンゲル」を扱っている。

「衾」「ふすま」。掛け布団。

 以上の「搜神後記」のそれは「第三卷」の以下。

   *

宋時有一人、忘其姓氏、與婦同寢。天曉、婦起出。後其夫尋亦出外。婦還、見其夫猶在被中眠。須臾、奴子自外來、云、「郎求鏡。」。婦以奴詐、乃指牀上以示奴。奴云、「適從郎間來。」。於是馳白其夫。夫大愕、便入。與婦共視、被中人高枕安寢、正是其形、了無一異。慮是其神魂、不敢驚動。乃共以手徐徐撫牀、遂冉冉入席而滅。夫婦惋怖不已。少時、夫忽得疾、性理乖錯、終身不癒。

   *] 

 

 起きて鏡をくれと云つた方が本當の夫であるに相違ないが、寢床に寢てゐて邊に消えたのは何者であつたか。妻や下男のみならず、本人の夫にもほつきり見えたのだから、單なる目の迷ひといふわけにも往かぬ。狐狸の化けて來たのでもない。後世の離魂病といふ言葉は、かういふ場合に用ゐられるのだが、その後ぼんやりした人間になつたといふことは、愈々その時に魂が離れたものの如く解せられる。

 これに比べると、「今昔物語」にある雅通中將の乳母が二人になる方は、妖味の度合が大分強い。乳母が二歳ばかりの子を抱いて遊ばせてゐるところへ、見知らぬ女房がどこからか出て來て、それは私の子だ、と云つて奪ひ取らうとしたので、奪ひ取られまいとして引き合ふ。互びに罵り爭ふ聲を聞き付けて、中將が太刀を閃めかして馳せ寄つたものだから、一人の乳母は搔き消すやうに見えなくなつた。同時にもう一人の乳母も抱かれた子も死んだやうになつてゐたが、加持祈禱などして人心地に還つた。これは狐などの化けたのか、何か他の霊であつたか、とにかく太刀の光りに恐れて退散したらしい。「搜神後記」の夫が終始眠つてゐたのとは趣を異にする。

[やぶちゃん注:「雅通中將」村上源氏久我流の公卿源雅通(まさみち 元永元(一一一八)年~承安五(一一七五)年)。天養元(一一四四)年一月に左近衛権中将となり、久安六(一一五〇)年一月に中将から参議となり、後、正二位に進み、内大臣となった。久我(こが)内大臣と呼ばれた。

「太刀を閃めかして」これは実際に斬る目的ではなく、物の怪が光り物を忌避することを考えての抜刀である。

 以上は「今昔物語集 卷第二十七」の「雅通中將家在同形乳母二人語第廿九」(雅通の中將の家に同じ形(かたち)の乳母(めのと)二人(ふたり)在る語(こと)第二十九)である。以下に示す。

   *

 今は昔、源の雅通の中將と云ふ人有りき。丹波中將となむ云ひし。其の家は、四條よりは南、室町よりは西也。

 彼(か)の中將、其の家に住みける時に、二歳許りの兒(ちご)を乳母抱(いだ)きて、南面(みなみおもて)也(なり)ける所に、只獨り離れ居(ゐ)て、兒を遊ばせける程に、俄かに兒の愕(おび)ただしく泣きけるに、乳母も喤(ののし)る音(こゑ)のしければ、中將は北面(きたおもて)に居たりけるが、此れを聞きて、何事とも知らで、大刀(たち)を提(ひさ)げて走り行きて見ければ、同じ形なる乳母二人が、中に此の兒を置きて、左右(さう)の手足を取りて引きしろふ。[やぶちゃん注:引っ張り合っている。]

 中將、奇異(あさま)しく思ひて、吉(よ)く守(まも)れば、共に同じ乳母の形にて有り。何(いづ)れか實(まこと)の乳母ならむと云ふ事を不知(しら)ず。

 然(しか)れば、

「一人は定めて狐などにこそは有(あ)らめ。」

と思ひて、大刀をひらめかして走り懸(かか)りける時に、一人の乳母、搔き消つ樣に失せにけり。

 其の時に、兒も乳母も死にたる樣にて臥したりければ、中將、人共(ひとども)を呼びて、驗有(しるしあ)る僧など呼ばせて、加持せさせなどしければ、暫し許り有りて、乳母、例(れい)の心地に成りて、起き上たりけるに、中將、

「何(いか)なるつる事ぞ。」

と問ひければ、乳母の云く、

「若君を遊ばかし[やぶちゃん注:「遊ばす」の当時の口語表現。]奉つる程に、奧の方(かた)より、不知(しら)ぬ女房の俄かに出で來りて、『此れは我が子也』と云ひて、奪(ば)ひ取りつれば、『不被奪(ばはれ)じ』と引きしろひつるに、殿の御(おは)しまして、大刀をひらめかして走り懸らせ給ひつる時になむ、若君も打ち棄て、其の女房、奧樣(おくざま)へ罷りつる。」

と云ひければ、中將、極(いみ)じく恐れけり。

 然(しか)れば、「人離れたらむ所には、幼き兒共(ちごども)を不遊(あそばす)まじき事也」となむ人云ひける。狐の□□[やぶちゃん注:欠字「すかし」或いは「ばか」か。]たりけるにや。亦、物の靈にや有りけむ。知る事無くて止みにけり、となむ語り傳へたるとや。

   *] 

 

「閲徴草堂筆記」にある繡鸞の話も大體同じやうなものであるが、時間的にはこれが一番短い。繡鸞といふのは張太夫人の婢の名である。或月夜に、夫人が堂階に立つて名を呼ぶと、東の廊からも西の廊からも、繡鸞が駈け出して來た。その形や衣服に變りがないのみならず、右の襟が折れ返つたり、左の袖が半分捲れてゐるところまで全く同じであつた。夫人は駭きの餘り倒れさうになつたが、再び見直したら、もう一人しかゐない。その繡鸞に向つて、東の廊の人を見たかと尋ねても、いゝえ何も見ませんでしたと答へる。この月夜は七月の事で、夫人は十一月に世を去つた。命已に盡きんとして、かういふ不思議が起つたものかと云はれてゐる。

[やぶちゃん注:以上は「閲徴草堂筆記」の「卷三」にある以下。

   *

前母張太夫人、有婢曰繡鸞。嘗月夜坐堂階、呼之、則東西廊皆有一繡鸞趨出。形狀衣服無少異、乃至右襟反摺其角、左袖半卷亦相同。大駭幾仆、再視之、惟存其一。問之、乃從西廊來。又問、「見東廊人否。」。云、「未見也。」。此七月間事、至十一月卽謝世。殆祿已將盡、故魅敢現形歟。

   *] 

 

「奧州波奈志」に「影の病」として書いてあるのは明かに離魂病である。北勇治といふ人が外から歸つて來て、自分の居間の戸を明けたところ、机に倚りかゝつてゐる者がある。自分の留守に居間に入つて、かういふ馴れ馴れしい振舞ひをするのは何者かと、暫く見守つてゐるのに、髮の結びぶりから衣類や常に至るまで、まさに自分のものである。自分のうしろ姿といふものは、誰も見た事がないからわからぬが、寸分違ふまいと思はれた。不思議で堪らぬので、つかつかと步み寄つて顏を見ようとしたら、向うむきのまゝ障子の細目に明いたところから緣側に出た。倂し追駈けて障子を開いた時は、もう何も見えなかつた。この話を聞いて母親は何も云はず眉を顰めたが、勇治はその頃からわづらひ出し、年を越さずに亡くなつた。北の家ではこれまで三代、自分の姿を見て亡くなつてゐる。租父も父もこの病ひであつたことを、母や家來は知つてゐるけれども、主人には話さなかつたのである。繡鸞の場合は見た人が亡くなり、これは本人が亡くなるので、その點だけは一致せぬが、凶兆である點に變りはない。

[やぶちゃん注:以上は宵曲の言う通り、「奧州波奈志」の「影の病」(かげのやまひ)。例の国書刊行会「叢書江戸文庫」版の「只野真葛集」を参考底本として、例の仕儀で示す。踊り字「〱」は正字化した。オリジナルに歴史的仮名遣で読み(推定)を附した。但し、「俗(よ)」は底本のルビである。【 】は原典の頭注で、そこに出る「解」とは作者只野真葛が一時期、親しく文通し、本書を筆写した滝沢馬琴の本名である。

   *

     影の病

 北勇治と云し人、外よりかへりて、我居間の戸をひらきてみれば、机におしかゝりて人有(あり)。誰(たれ)ならん、わが留守にしも、かくたてこめて、なれがほにふるまふは、あやしきことゝ、しばし見ゐたるに、髮の結(むすび)やう、衣類帶にゐたるまで、我常に著(ちやく)しものにて、わがうしろ影を見しことはなけれど、寸分たがはじと思はれたり。餘りふしぎに思はるゝ故、おもてを見ばやと、つかつかとあゆみよりしに、あなたをむきたるまゝにて、障子の細く明(あ)けたる所より、緣先にはしり出しが、おひかけて障子をひらきみしに、いづちか行けん、かたちみえず成(なり)たり。家内にその由をかたりしかば、母は物をもいはず、ひそめるていなりしが、それより勇治病氣つきて、其年の内に死たり。是迄三代、其身の姿を見てより、病(やみ)つきて死(しに)たり。これや、いはゆる影の病(やまひ)なるべし。祖父・父の此病(やまひ)にて死せしこと、母や家來はしるといヘども、餘り忌(い)みじきこと故、主(あるじ)にはかたらで有(あり)し故、しらざりしなり。勇治妻も又、二才の男子をいだきて後家と成(なり)たり。只野家遠き親類の娘なりし。

【解(とく)云(いふ)、離魂病は、そのものに見えて人には見えず。「本草綱目」の説、及(および)羅貫中が書(かけ)るもの[やぶちゃん注:「三国志」のこと。]などにあるも、みなこれなり。俗(よ)には、その人のかたちのふたりに見ゆるを、かたへの人の見るといへり。そは、「搜神記」にしるせしが如し。ちかごろ飯田町なる鳥屋の主の、姿のふたりに見えしなどいへれど、そはまことの離魂病にはあらずかし。】【只野大膳、千石を領す。この作者の良人なり。解云。】

   *

馬琴は「搜神記」と言っているが、先の「搜神後記」といっしょくたにしてかく言っているように思われる。「搜神後記」は「搜神記」の体裁を真似た別書であるが、名前からかく言ったとしても江戸時代にはおかしくはなく、また、それほど、先に挙げられた「搜神後記」の短い話は、離魂譚として古くから人口に膾炙していた。] 

 

 併し右に擧げた諸例だけを見て、離魂病なるものは必ず不祥事の前提として現れると斷ずるのは早計である。題名からして「離魂記」といふ書に記された話の如きは、大分樣子が違ふ。衡州の役人であつた張鎰に二人の娘があつて、長女は早く亡くなつたが、下の娘の倩といふのは端姸絶倫であつた。鎰の外甥に王宙なる者があり、これがまた聰悟なる美少年であつたから、鎰も折りに觸れては、今に倩娘(せんぢやう)をお前の妻にしよう、などと云つて居つた。二人とも無事に成長し、お互ひの志は自ら通ふやうになつたが、家人はこれを知らず、鎰は賓僚から緣談を持ち込まれて、倩をくれることを承知してしまつた。女はその話を聞いて鬱々となり、宙は憤慨の餘り京へ出る。先づは平凡な戀物語である。然るに宙は船に乘つてからも、悲愁に鎖されて眠り得ずに居ると、夜半の岸上を追つて來る者がある。遂に追ひ付いたのを見れば、倩娘が跣足であとから駈けて來たのであつた。兩者は手を執り合つて泣き、宙は倩娘を船に匿して遁れ去ることにした。數月にして蜀に到り、五年の月日を送るうちに、子供が二人生れた。鎰とはそのまゝ音信不通になつてゐたのであるが、さすがに女の情で、倩娘は頻りに父母に逢ひたくなつた。宙もその心をあはれみ、久しぶりに手を携へて衡州に歸る。宙だけが鎰の家を訪れて、一部始終を打ち明け、既往の罪を謝したところ、鎰は更に腑に落ちぬ樣子で、倩娘は久しいこと病氣で寢てゐる、何でそんなでたらめを云ふか、と頭から受け付けない。宙は宙で、そんな筈はありません、健かに船の中に居ります、と云ふ。鎰が大いに驚いて、人を見せに遣ると、船中の倩娘は至極のんびりした顏で、いろいろ父母の安否を尋ねたりする。使者が飛んで歸つてこの旨を報告したら、病牀の娘は俄かに起き上り、化粧をしたり、著物を著替へたりしたが、笑つてゐるだけで何も云はない。奇蹟はこゝに起るので、船から迎へられた倩娘と、病牀から起き上つた倩娘とは、完全に合して一體となり、著てゐた著物まで全く同じになつてしまつた。張家では一切を祕してゐたけれど、親戚に内情を知つた者があり、這間の消息はほのかに傳へられた。その後四十年の星霜が經過して、父親の鎰は勿論、宙倩娘も亡くなり、二人の間に生れた子供は役人になつて出世したといふのだから、この話に不祥な點は少しもない。神仙の徒が人を修行に誘ふ場合、靑竹をその人の丈に切つて殘して置くと、家人などは本人の居らぬのに氣が付かぬといふ話がある。倩娘の本質は宙のあとを追つて去り、形骸だけが病牀に橫はつてゐたものであらう。倩娘歸ると聞いて病牀を出で、衣を更め粧ひを凝らした女が、笑つて語らなかつたといふところに、容易に解きがたい謎が含まれてゐる。この成行きは離魂病者に類がないのみならず、普通の戀物語にも稀に見るめでたい大團圓であつた。

[やぶちゃん注:「離魂記」ドッペルゲンガー譚として恐らく最も知られると言ってよい、陳玄祐(ちんげんゆう)の撰になる唐代伝奇の名品。私はそれを二〇〇九年四月の「無門關 三十五 倩女離魂」のオリジナルな注で、原文・訓読・現代語訳を行っている。以上の本文の漢字の読みなども含め、そちらを是非、参照されたい。それはサイトの一括版「無門関 全 淵藪野狐禅師訳注版」にも載せてある。そちらの方がフォントも大きく、より読み易くはあると思う。

「這間」は「しやかん(しゃかん)」と読み、「この間(かん)」の意。但し、「這」には「この」という指示語の意はなく、誤読の慣用法である。宋代、「この」「これ」の意で「遮個」「適箇」と書いたが、この「遮」や「適」の草書体が「這」と誤判読されたことに由来するものである。] 

 

「靈怪錄」の鄭生も結末は似てゐるが、發足點は大分違ふ。天寶末年に科擧に應ずるため、京に出ようとして西郊に宿を取つたところ、その家の老母から結婚の話を持ち出された。自分の外孫女がこゝに居るが、この父親は柳氏で、目下准陰(わいいん)の縣令になつてゐる、あなたとは似合ひの夫婦のやうに思ふから、結婚してはどうかといふのである。鄭生は敢て辭せず、その夕べ直ちに式を擧げたといふのは、現代にもまたあるまじきスピードであつた。數箇月たつと、今度は二人で柳家へ行つておいでと老母が云ふ。鄭生はその命に從ひ、新婦同道で准陰に赴いたが、愈々柳氏の許に辿り著いて、この趣を申し入れた時、全家の人々は驚愕した。殊に柳の細君は、自分に隱して餘所に儲けた娘がたづねて來たものと推したから、心中甚だ穩かでない。怨望の色は自ら顏に現れざるを得ぬ。倂し門内で車を下り、しづかに庭を步いて來る姿は、まがふ方なき自分の娘である。娘もこの話を聞くや否や、笑つて出て來たが、兩方から步み寄つて顏を見合せたかと思ふと、今まで二人ゐた娘は合體して一人になつてしまつた。この顚末は柳氏としても容易に解釋が付かなかつたが、結局已に亡くなつてゐた細君の母親が、外孫女のために良緣を結んだものであらう、といふところに落ち著かざるを得なかつた。鄭生は更に五里霧中で、もう一度結婚の舊跡を尋ねたら、そこには何もなかつた。

[やぶちゃん注:「靈怪錄」五代の牛嶠(ぎゅうきょう)の撰になる伝奇小説集。

「鄭生」「ていせい」。

「天寶」唐の玄宗の治世の後半に用られた元号。十五年まででユリウス暦七四二年から七五六年まで。天宝一四(七五五)年には安史の乱勃発し、洛陽が安禄山によって占領され、翌十五年六月、粛宗の即位に伴い、至徳と改元されている。

「淮陰」現在の江蘇省中部にある淮安市附近。古くから水運上の重要拠点として栄え、秦・漢初の名将韓信の故郷として知られる。

 以上は「太平廣記」の「神魂一」に「靈怪錄」からとして載る、「鄭生」である。以下に示す。

   *

鄭生者、天寶末、應舉之京。至鄭西郊、日暮、投宿主人。主人問其姓、鄭以實對。忽使婢出云。娘子合是從姑。須臾、見一老母、自堂而下。鄭拜見、坐語久之、問其婚姻、乃曰。姑有一外孫女在此、姓柳氏、其父見任淮陰縣令、與兒門地相埒。今欲將配君子、以爲何如。鄭不敢辭、其夕成禮、極人世之樂。遂居之數月、姑爲鄭生、可將婦歸柳家。鄭如其言、攜其妻至淮陰。先報柳氏、柳舉家驚愕。柳妻意疑令有外婦生女、怨望形言。俄頃、女家人往視之、乃與家女無異。既入門下車、冉冉行庭中。女聞之笑、出視、相于庭中、兩女忽合、遂爲一體。令卽窮其事、乃是妻之母先亡、而嫁外孫女之魂焉。生復尋舊跡、都無所有。

   *]

 

 これは支那の話の一つの型で、家のあつたと思ふところには古塚の存するばかりといふやうなのが多いが、この話にはそれもなかつた。こゝで注意すべき點は、當の娘が別に怪しまず、笑つて出て來る一條なので、倩娘の場合も全く同じであつた。二人の娘が合體して一人になるのは、奇怪ではあつても悲しむべき現象でないから、笑ひが伴ふことになるのかも知れぬ。

 貞元の初め、河南少尹の李則が亡くなつて、まだ棺に納めずにあるうちに、蘇郎中と稱する人が弔問に來た。室内に入つて哀働すること最も甚しかつたが、突然屍が立ち上つて撲り合ひをはじめた。家の人達がびつくりして逃げ出した跡、二人は門を鎖して執拗に撲り合ひ、夕方に至つて漸くしづかになつた。李の子が中に入つて見ると、二人の屍は共に牀上に橫はつて居り、それが背の高さから形から、容貌、鬚髯、衣服に至るまで、寸分の違ひもない。親族達も皆集まつて二人を見較べたけれど、どうしても見分けが付かなかつた。已むを得ず同じ棺に入れて葬つたと「奇鬼傳」にある。これは今までの例と違ひ、一方は已に死んでゐるのだから、魂は早く天外に去つた筈である。弔間者の蘇郎中といふのは何者か、二人が撲り合つたのは何故か、一切わからぬ。死骸になつてまで寸分變らぬとしたら、最初來た時にわかりさうなものだと思ふが、まことに「奇鬼傳」の名に愧じぬ離魂病の例外である。

[やぶちゃん注:「貞元」(ていげん)は唐の徳宗の治世で用られた元号。七八五年から八〇五年。

「少尹」「せうゐん」は次官級官職。

「鬚髯」「しゆぜん(しゅぜん)」顎鬚(あごひげ)と頰髯(ほおひげ)。

「奇鬼傳」不詳。次注を参照。

 以上は「太平廣記」の「鬼二十四」の「李則」と同話であるが、そこでは出典は「獨異志」である。それを以下に示す。

   *

貞元初、河南少尹李則卒、未歛、有一朱衣人來、投刺申弔、自稱蘇郎中。既入、哀慟尤甚。俄頃屍起、與之相搏。家人子驚走出堂、二人閉門毆擊、及暮方息、孝子乃敢入。見二尸共臥在牀。長短形狀、姿貌鬚髯衣服、一無差異。於是聚族不能識、遂同棺葬之。

   *]

 

 離魂病の例とは少々違ふやうだが、泉鏡花が「春著」といふ隨筆に書いた話をもう一つ附け加へる。村山鳥逕の父親である攝津守有鎭が、秋の夕暮に門へ出て、何心なく町を見てゐると、人足の途絶えた道を、二人の士が何か話しながら、矢來の方から通寺町の方へすつと通つた。二人の姿は郵便局の坂を下りて見えなくなつたが、攝津守は三十何年前――明治維新前後に、同じ時、同じ節、同じ門で、同じ景色に、同じ二人の士を見たことを思ひ出して、ぞつとしたといふのである。これは一人の人間が二人になるのでもない。自分の姿を自分が見るのでもない。時移り世の變つた同じ場所で、同じやうに四十ぐらゐの士と二十歳ぐらゐの若侍を見るといふのは、鏡花も書いてゐる通り、慥かに物凄い。それが攝津守に取つて凶兆であつたかどうか、そこまでは書いてないからわからない。

[やぶちゃん注:「泉鏡花」の「春著」(はるぎ)「といふ隨筆』は大正一三(一九二四)年一月発表の、鏡花満五十一歳の折りの小品「春着」。「青空文庫」ので正しく正字正仮名で読める。当該箇所は以下。底本は所持する岩波の「鏡花全集」の、「卷廿七」(昭和一七(一九四二)年刊)を使用したが、読みは一部に限った。

   *

その攝津守が、私(わたし)の知つてる頃は、五十七八の年配、人品(ひとがら)なものであつた。つい、その頃、門(もん)へ出(で)て――秋の夕暮である……何心(なにごころ)もなく町通(まちどほ)りを視(なが)めて立つと、箒目(はゝきめ)の立つた町に、ふと前後(あとさき)に人足(ひとあし)が途絶えた。その時、矢來(やらい)の方から武士(ぶし)が二人きて、二人で話しながら、通寺町(とほりてらまち)の方へ、すつと通つた……四十(しじふ)ぐらゐのと二十(はたち)ぐらゐの若侍とで。――唯(と)見るうちに、郵便局の坂を下(さが)りに見えなくなつた。あゝ不思議な事がと思ひ出(だ)すと、三十幾年の、維新前後に、おなじ時、おなじ節(せつ)、おなじ門(もん)で、おなじ景色に、おなじ二人の侍を見た事がある、と思ふと、悚然(ぞつ)としたと言ふのである。

 此(これ)は少しくもの凄い。……

   *

「村山鳥逕」(ちょうけい 明治一〇(一八七七)年~?)は牧師で小説家。本名は村山敏雄。親戚に尾崎紅葉と親しい医者がおり、紅葉の「硯友社」の同人であった広津柳浪の家とも親しく、しかも紅葉門下の柳川春葉と幼友達という環境の中、「硯友社」作家としてデビューした。明治三八(一九〇五)年頃からは『明星』にも投稿した。一方で角筈教会の牧師でもあった。西大久保時代の島崎藤村とも親交があり、村山の宗教小説「ささにごり」には藤村が序を書いている(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠る)。「春著」では『いま座敷うけの新講談で評判の鳥逕子(てうけいし)』と茶化し、『鳥逕とは私たち懇意だつた。渾名を鳶(とび)の鳥逕と言つたが、厚眉(こうび)隆鼻(りうび)ハイカラのクリスチヤンで、そのころ拂方町(はらひかたまち)の教會を背負(しよ)つて立つた色男で』と紹介してある。

「有鎭」「ありしづ(ありしず)」。「春着」には『鳥逕子のお父さんは、千石取(せんごくどり)の旗下(はたもと)で、攝津守(せつつのかみ)、有鎭(いうちん)とかいて有鎭(ありしづ)とよ』み、『やしきは矢來の郵便局の近所にあつ』たとある。

「矢來」現在の東京都新宿区矢来町(やらいちょう)。

「通寺町」旧牛込通寺町。現在の新宿区神楽坂。

「三十何年前――明治維新前後」明治元・慶応四年は一八六八年であるから、例えば、その三十年後なら明治三一(一八九八)年に当たる。なお、泉鏡花が牛込の紅葉宅を訪ねて入門を快諾され、その日から尾崎家での書生生活を始めたのは明治二四(一八九一)年十月十九日のことであった。]

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