甲子夜話卷之四 10 享和中、若君樣童相撲上覽の事
4-10 享和中、若君樣童相撲上覽の事
享和の初、西城いまだ御幼き時【御年十】、淺草寺に御成、彼處にて童子の相撲上覽あり。其頃奥毉快菴法眼【吉田氏】、予が病を診に來れる次手に問たれば、懷中より童子の名を出して示せり。
[やぶちゃん注:以下、下線(本文で言う「右點」)は底本では、右傍線であって、しかも頭の部分は有意に左方向に反っている。そのように読み換えて戴きたい。]
東方 福 鼠【年十】 西方 山 彦【年十】
河 鵆【年八】 金 簾【年九】
神樂岡【年八】 預り 隅田川【年八】
待乳山【年十二】 初舞臺【年十】
玉之井【年十】 花 傘【年十】
呉服鳥【年十二】 朝日山【年十】
初瀨山【年九】 喜見城【年十】
汐 衣【年十三】 友 鶴【年十二】
亂獅子【年十四】 赤兎馬【年十四】
關 龍 王【年十四】 虎 王【年十四】
重て上覽のとき
出世奴【年十】 酒中花【年十】
白 瀧【年十】 大酒盛【年十一】
舞 扇【年十二】 水 車【年十一】
玉芙蓉【年九】 無勝負 稻 妻【年十二】
行司 木村源之助【年十三】
呼出 追灘金太郎【年九】
右點あるは勝のしるしなり。其時西城の御目付同姓大膳【今伊勢守】、此事を取扱たり。是より聞けり。いかにも御幼稺の御慰には勇ましき御事なりけり。
■やぶちゃんの呟き
並ぶ四股名は読み方は判らぬ。特異な漢字のみを注した。
「享和」一八〇一年から一八〇四年の三年。
「若君」「享和の初」(はじめ)「西城いまだ御幼き時【御年十】」後の第十二代将軍となる徳川家慶(いえよし 寛政五(一七九三)年~嘉永六(一八五三)年)。数え十歳であるから正確な時制は享和二(一八〇二)年に特定出来る。寛政五(一七九三)年に第十一代将軍徳川家斉の次男として江戸城で生まれたが、長兄竹千代が早世したため、将軍継嗣となった。天保八(一八三七)年、四十五歳になってやっと将軍職が譲られたが、それでも家斉が大御所として強大な発言権を保持し続けた(家斉の死は四年後の天保一二(一八四一)年で、それ以後、老中首座であった水野忠邦を重用、旧家斉派を粛清して「天保の改革」を行なわせたが、知られる通り、厳しい綱紀粛正を伴った緊縮財政政策は世間では支持されなかった。言論統制も行ない、高野長英や渡辺崋山などの開明派の蘭学者を弾圧してもいる(蛮社の獄))。
「彼處」「かしこ」。
「奥毉」「おくい」。「奥醫」に同じい。
「快菴法眼【吉田氏】」吉田快庵。生没年不詳乍ら、ネット上の資料にはその名が散見される。
「次手」「ついで」。
「問たれば」「とひたれば」。
「河鵆」「かはちどり(かわちどり)」であろう。
「預り」引き分けの一種。ウィキの「預り(相撲)」より引く。『文字通り、勝負結果を行司もしくは審判委員が「預かり置く」ことで、物言いのついたきわどい相撲などで、あえて勝敗を決めない場合などに適用された。日本相撲協会発行の星取表には大正までは「△」の記号で記載されたが、戦後痛み分けが「△」の記号で記載されるようになったため近年作成される星取表にはカタカナで「ア」と表記されることもある。ひとつには、江戸時代の幕内力士は多くが有力大名のお抱えであり、その面子を傷つけないための配慮措置でもあった。記録上は引き分けとしながらも、実際の取組で優勢であった側に、番付編成面で優遇を与える「陰星」(完全に』一『勝扱いにする場合を「丸星」』、半勝半負扱いの時は『「半星」と呼んだ)もあった。特に丸星の場合、星取表の右上の、勝ち数を表記するところに「●」を加えた場合もある』。『大正頃まで、大部屋同士の意地の張り合いや、大坂相撲と東京相撲との対抗心から来るいざこざも多く、これらをなだめる方便としても預り制度は存続した。また、東西制の導入で優勝争いが勝ち星の合計で争われるようになると、自分の側に優位になるようにと控え力士が物言いをつけるケースも多くなり、その対処としての「預り」も増えた』。『昭和の東西合併に伴う規則改正で大正末期に取り直しの制度が設けられたことにより、『勝負預り』は制度としては廃止されたが、昭和以後』、二『度だけ預りが記録されている』。『祭りでの素人相撲大会などでは、決勝戦や結びの一番は、どちらが勝っても必ず「預り」でしめる慣例になっているものも多い。神事としての相撲に豊作凶作を占う意味もあるため、幸不幸が地域内で偏らないようにするためである』とある。
「待乳山」「まつちやま(まっちやま)」。
「喜見城」「きけんじやう(きけんじょう)」であろう。これは須弥山(しゅみせん)の頂上の忉利天(とうりてん)にある帝釈天の居城の名である。七宝で飾られており、庭園では諸天人が遊び戯れるとされる。
「赤兎馬」「せきとば」であろう。「三国志」「三国志演義」などに登場する、名将の騎した名馬、一日に千里を走る駿馬(しゅんめ)の類を指す。「赤」は「汗血馬」の血の色とも、「赤い毛色を持ち、兎のように素早い馬」の意ともされる。
「關」大関。相撲では明治中期まで大関が最高位であった。
「無勝負」引き分けの一種。ウィキの「無勝負」より引く。『無勝負(むしょうぶ)は、相撲で廃止された制度の一つで、文字通り「勝負無し」とする裁定。記録上は引き分けの一種の様に扱われる』。『現在の大相撲ではどんなにもつれた勝負でも、行司は“必ずどちらかに軍配をあげなければならない”ことになっているが、江戸時代には、勝負の判定がつけられそうもない微妙な取組の場合、行司が「ただいまの勝負、無勝負」と宣言して軍配を真上にあげて、そのあと袴の中にいれてしまうことで、勝敗の裁定をなしにすることができた。この場合は、星取表に「ム」とカタカナで記入することとなっていた。その点で、物言いがついたあとに勝敗を決めない『預り』(星取表にはカタカナで「ア」)や、水が入って動かない『引分』(星取表には「×」)、一方が負傷して勝負続行が不可能な場合の『痛み分け』(星取表には「△」)とは異なる』。『この制度は江戸相撲では江戸末期に廃止されたらしく』、元治二(一八六五)年二月『場所での記録を最後に登場しない。明治期にはすでに行司は必ずどちらかに軍配をあげなければならないように定められた。一方で大坂相撲では明治時代にはまだ存続しており、当時の成績表にも記録が残る。大坂で廃止されたのは大正初期であった』とある。
「行司 木村源之助」ウィキの「行司」の「引退した主な行司」の「十両格」に二代目『木村源之助』の名を見出せる。
「呼出 追灘金太郎」坪田敦緒氏の優れたサイト「相撲評論家之頁」の「大相撲東風西雅」の十三話『「呼出」のはなし』の中で、この条が取り上げられており、そこで『「呼出 追灘金太郎 年九」』『という記述があり、これが「呼出」が出てくる最古の例のようです。
「甲子夜話」そのものは著者が』六十『歳を過ぎた』文政四(一八二一)年『から書き始められたものですが、それより』二十『年も前の記録ですから、恐らくはもとになる資料があったと思われます』とある。なおそこで坪田氏は、この浅草寺での父家斉と子家慶の童子相撲上覧を享和二 (一八〇二) 年九月十八日と特定しておられる。
「御目付」幕府のそれは江戸城本丸及び西の丸に置かれ、定員十名、役高は千石で、若年寄支配。
「同姓大膳【今伊勢守】」同姓とあるからには松浦であろうが、不詳。
「取扱たり」「とりあつかひたり」。
「幼稺」「えうち」。幼稚に同じい。