柴田宵曲 續妖異博物館 「吐き出された美女」
吐き出された美女
泉鏡花はこの話を書くに嘗り、殊更に「知つたふり」と題し、「舊雜譬喩經」や「アラビアン・ナイト」を引合ひに出した。已に比較濟みの材料を繰り返したところで始まらぬから、こゝは「續齊諧記」だけで往くことにする。この書物は見たことがないので、「酉陽雜俎」で間に合すより仕方がない。
[やぶちゃん注:「泉鏡花」の「知つたふり」は明治四〇(一九〇七)年発表。(サイト「鏡花花鏡」のこちらにあるPDF版で読めるが、一部の表記がやや読み難くなっているのが難点ではある)。
「舊雜譬喩經」「くぞうひゆきょう」(現代仮名遣)と読み、呉の康僧会(こそうえ)が漢訳した物語性の高い経典であるが、原経典は現存しない、明らかに「アラビアン・ナイト」と同源の説話が中に含まれている。
「續齊諧記」南朝梁の官僚で文人呉均(四六九年~五二〇年)が六朝時代の宋の東陽无疑
(むぎ)の書いた志怪小説集「斉諧記」(せいかいき)に擬えて書いた志怪小説集。]
許彦といふ男が綏安山を通りかゝると、路傍に寢ころんでゐた年の頃二十歳ばかりの書生が聲をかけて、どうも足が痛くて堪らない、君の擔いでゐる鵞鳥の籠の中に入れて貰へぬか、と云つた。彦も笑談半分によろしいと答へたら、書生は直ぐ乘り込んで來た。籠には鵞鳥が二羽入れてあつたのだが、そこへ書生が加はつても一向に狹くならず、擔ぐ彦に取つて重くもならぬのである。やがて一本の木の下に來た時、書生は籠から出て、この邊で晝飯にしようと云ひ、大きな銅の盤を吐き出した。盤の中には山海の珍味がある。酒數獻𢌞つたところで、書生が彦に向ひ、實は婦人を一人連れてゐるのだが、こゝへ呼び出して差支へあるまいか、と云ふ。彦は異議の唱へやうがない。忽ち口から吐き出したのは、十五六ぐらゐの絶世の美人であつた。そのうちに書生は醉拂つて眠つてしまふ。今度はその美人が、實は男を一人連れて居りますので、ちょつとこゝへ呼びたいのです、どうか何も仰しやらないで下さい、と云ひ出した。女の吐き出したのは似合ひの美少年で、先づ彦に一應の挨拶をした後、盃を擧げてしきりに飮む。たまたま書生が目を覺ましさうな樣子を見せたので、女は錦の帳(とばり)を吐いて隔てたが、愈々本當に起きさうになるに及んで、先づ美少年を呑却し、何事もなかつたやうに彦に對坐してゐる。書生はおもむろに起きて、大分お暇を取らせて濟まなかつた、そろそろ夕方になるからお別れしよう、と云ひ、忽ち女を呑み、大銅盤を彦に贈つて別れ去つた。
[やぶちゃん注:「許彦」「きよげん(きょげん)」。
「綏安山」「すいあんざん」。現在の江蘇省無錫市宜興市の西南にある、と「酉陽雜俎」の東洋文庫の注にはあるが、地図上では発見出来なかった。
宵曲は「續齊諧記」「は見たことがない」とするが、幸い、中文の「維基文庫」のこちらに原文があったので、他の中文サイトの同話と校合し、加工して引いておく。
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陽羡許彦、於綏安山行、遇一書生、年十七八、臥路側、云腳痛、求寄鵝籠中。彦以爲戲言。書生便入籠、籠亦不更廣、書生亦不更小、宛然與雙鵝並坐、鵝亦不驚。彦負籠而去、都不覺重。前行息樹下、書生乃出籠、謂彦曰、「欲爲君薄設。」。彦曰、「善。」。乃口中吐出一銅奩子、奩子中具諸餚饌、珍饈方丈。其器皿皆銅物、氣味香旨、世所罕見。酒數行、謂彦曰、「向將一婦人自隨、今欲暫邀之。」。彦曰、「善。」。又於口中吐一女子、年可十五六、衣服綺麗、容貌殊絶、共坐宴。俄而書生醉臥、此女謂彦曰、「雖與書生結妻、而實懷怨。向亦窃得一男子同行、書生既眠、暫喚之、君幸勿言。」。彦曰、「善。」。女子於口中吐出一男子、年可二十三四、亦穎悟可愛、乃與彦敘寒溫。書生臥欲覺、女子口吐一錦行障、遮書生。書生乃留女子共臥。男子謂彦曰、「此女子雖有心、情亦不甚、向復窃得一女人同行、今欲暫見之、願君勿洩。」。彦曰、「善。」。男子又於口中吐一婦人、年可二十許、共酌、戲談甚久。聞書生動声、男子曰、「二人眠已覺。」。因取所吐女人、還納口中。須臾、書生處女乃出、謂彦曰、「書生欲起。」。乃吞向男子、獨對彦坐。然後書生起、謂彦曰、「暫眠遂久、君獨坐、當悒悒邪。日又晚、當與君別。」。遂吞其女子、諸器皿悉納口中。留大銅盤、可二尺廣、與彦別曰、「无以藉君、與君相憶也。」。彦大元中爲蘭台令史、以盤餉侍中張散。散看其銘題、云是永平三年作。
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原話は宵曲の引いた「酉陽雜俎」よりも入子構造がより複雑で描写も艶で遙かによい。最後の部分は太元年間(三七六年~三九六年)に許彦が蘭台の太史に昇った時、嘗て貰ったその銅盤を侍中の張散に贈ったが、張がその銘を調べて見たら、漢の永平三年(紀元六〇年)作とあったとある。比較に供するため、「酉陽雜俎」版も示しておく。それは「酉陽難俎續集」の「卷四 貶誤」に「續齊諧記」よりとして出る。
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許彦於綏安山行、遇一書生、年二十餘、臥路側、雲足痛、求寄鵝籠中。彦戲言許之、書生便入籠中。籠亦不廣、書生與雙鵝並坐、負之不覺重。至一樹下、書生乃出籠、謂彦曰、「欲薄設饌。」。彦曰、「甚善。」。乃於口中吐一銅盤、盤中海陸珍羞、方丈盈前。酒數行、謂彦曰、「向將一婦人相隨、今欲召之。」。彦曰、「甚善。」。遂吐一女子、年十五六、容貌絶倫、接膝而坐。俄書生醉臥、女謂彦曰、「向竊一男子同來、欲暫呼、願君勿言。」。又吐一男子、年二十餘、明恪可愛、與彦敘寒溫、揮觴共飮。書生似欲覺、女復吐錦行障障書生。久而書生將覺、女又吞男子、獨對彦坐。書生徐起、謂彦曰、「暫眠遂久留君、日已晩、當與君別。」。還復吞此女子及諸銅盤、悉納口中、留大銅盤與彦、曰、「無以籍意、與君相憶也。」。釋氏「譬喩經」云、『昔梵志作術、吐出一壺、中有女、與屛處作家室。梵志少息、女復作術、吐出一壺、中有男子、復與共臥。梵志覺、次第互吞之、柱杖而去。』。餘以呉均嘗覽此事、訝其説、以爲至怪也。
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最後の引用中の「梵志」はバラモン。この話は、実は私が殊の外、偏愛する話である(いっとう最初は、高校二年の時、蟹谷徹先生の漢文の授業で面白く聞いた。変化(へんげ)を見せるのが仙人風の老人であったこと、吐き出す中には大きな屋敷が含まれていたことなどを覚えているが、どうもそのへんは蟹谷先生お得意のオリジナル・アレンジであったのかも知れない)。この入れ子が、口から出、口へと戻り、まさに虚実空間がクライン管のようになってゆく眩暈がことさらによいではないか!]
西鶴はこの話を「諸國はなし」に取り入れる時、舞臺を畿内にした。通りかゝるのは平野の里へ歸る木綿買ひだから、鵞鳥入りの籠などといふ厄介なものは擔いでゐない。折ふし時雨の空で、聲をかけるのも二十歳ばかりの書生とは緣の遠い、八十餘りの老人である。老足の山道がまことに難儀である、暫く負うて貰ひたい、と云ふ。木綿買ひは重荷があるから引受けられぬと斷つたが、いたはりの心さへあればさう重くもなるまい、と都合のいゝ事を云つて、鳥のやうに飛び乘つた。一里ばかり來た松原のところで、丁度天氣になつたのを見て、さぞお草臥(くたび)れでしたらう、酒でも一つと云ふなり、吹き出す息の中から手樽が現れ、次いで黃金の鍋が現れる。とてもの馳走に酒の相手をと云つて吹き出したのは、十四五の美女であつた。これが琴を彈じ酒をすゝめる。いゝ加減醉ひの𢌞つたところで時ならぬ瓜が出る。そのうちに老人は美人の膝を枕に寢てしまつた。美女は小聲になつて、隱し男に逢ふことを見許して下されと云ひ、十五六の若衆を吹き出し、手を引き合つてその邊を歌ひ步きなどしてゐたが、二人でどこかへ姿を消した。この間に老人が目を覺ましたらと冷々するほどに、いつの間にか歸つて來て、女は若衆を呑み、老人が起きて女を呑む順序は別に變りもない。先ほどの金の鍋一つを商人にくれ、老人は住吉の方へ飛び去る。商人は假寢の夢さめて、「殘る物とて鍋ひとつ」といふことになつてゐる。その頃生馬(しやうば)仙人なる者が毎日住吉より生駒に通ふといふ話であつたから、多分その老人であつたらうといふのが結末である。
[やぶちゃん注:「平野」(ひらの)は固有地名。現在の大阪市東区住吉区の内で、当時は平野村。綿や木綿の集散地として知られた。
「手樽」(てだる)は携帯出来るように弦(つる)のついた小さな酒樽。
「生馬(しやうば)仙人」明治書院の「決定版 対訳西鶴全集 5」(麻生磯次・富士昭雄訳注)の注によれば、『摂津国住吉の人で、河内国高安(大阪府八尾市内)の東山の麓、生馬(いこま)谷に住んだ。寛平九』(八九七)『年行脚の僧明達(みょうたつ)が、生馬谷でこの仙人にあい、瓜五個を馳走されたという(本朝列仙伝、二)本文挿絵』(後掲。右下)『にも瓜を描いてある』とある。
以上は西鶴の「近年諸國咄 大下馬 卷二」の「四 殘る物とて金(きん)の鍋(なべ)」である。以下に原典を示す。底本は平成四(一九九二)年明治書院刊の「決定版 対訳西鶴全集 5」の原文部分を用いたが(一部の略漢字を正字化した)、読み易く改行や記号を加え、読みは最小限に留めた。踊り字「〱」「〲」は正字化した。歴史的仮名遣の誤りや特異な読みもママである。挿絵は底本が薄いので、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの鮮明な画像をトリミング・合成処理して添えた。
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殘る物とて金の鍋
俄に時雨(しぐれ)て、生駒の山も見えず、日は暮におよび、平野の里へ歸る、木綿買(もめんがい)、道をいそぎ、むかし業平(なりひら)の、高安(たかやす)がよひの、息つぎの水といふ所迄、やうやうはしりつきしに、跡より八十あまりの、老人きたつて賴むは、
「ちかごろの[やぶちゃん注:「甚だなる・大変な・非常な」の意。]無心なれども、老足(らうそく)の山道、さりとては難義なり。しばらく負(あふ)てたまはれ。」
といふ。
「やすき事ながら、かゝる重荷の折ふしなれば、叶はじ。」
と申(まうす)。
「いたはりのこゝろざしあらば、おもくはかゝらじ。」
と、鳥のごとく飛乘(とびのり)て行(ゆく)に、一里ばかりも過(すぎ)て、松原の陰にて、日和(ひより)もあがれば[やぶちゃん注:「雨が止んだので」。]、老人ひらりとをりて、
「草臥(くたぶれ)の程も、おもひやられたり。せめては、酒ひとつ、もるべし。是へ。」
と、見へわたりて吸筒(すいづゝ)[やぶちゃん注:水や酒を入れる携帯用の竹筒。]もなく、不思議ながら、ちかふよれば、ふき出す息につれて、うつくしき手樽ひとつ、あらはれける。
「何ぞ肴(さかな)も。」
と、こがねの小鍋いくつか出しける。是さへ合點のゆかぬに、
「とてもの馳走に、酒のあいてを。」
と吹(ふけ)ば、十四、五の美女、びわ・琴出して、是をかきならし、後には付(つけ)ざし[やぶちゃん注:自分が口をつけた盃を相手に差し出すこと。酒席での親愛を示す行為。]さまざま、我を覺(おぼへ)ず、醉(ゑい)出ければ、
「ひやし物。」
とて、時ならぬ瓜(ふり)を出しぬ。
此自由極樂(しゆふごくらく)のこゝちして、たのしみけるに、彼(かの)老人、女のひざ枕をして、鼾(いびき)出し時、女、小聲になつて申は、
「自(おのづから)、是なる御かたの、手掛者(てがけもの)[やぶちゃん注:妾(めかけ)。]なるが、明暮(あけくれ)つきそひて、氣づくし、やむ事なし。御目の明(あか)ぬうちのたのしみに、かくし妻(つま)[やぶちゃん注:密夫。]にあふ事、見ゆるして給はれ。」
と申。言葉のしたより、是も息(いき)ふけば、十五、六なる若衆(わかしゆ)を出し、
「最前申せしは、此かた。」
と手を引合(ひきあい)、そのあたりを、つれ哥(うた)うとふてありきしが、後(のち)にはひさしく、行方(ゆきかた)のしれず。『老人、目覺(さめ)たらば』と、寐(ね)がへりのたびたびに、彼女を待兼(まちかね)つるに、いつとなく立歸り、若衆を、女、呑込(のみこみ)ければ、老人、目覺して、此女を呑こみ、はじめ出せし道具を、かたはしから呑仕舞(のみしまい)、金(きん)のこなべをひとつ殘して、是を商人(あきびと)にとらし、兩方[やぶちゃん注:老人と商人。]ともに、どれ[やぶちゃん注:酔いどれ。]になつて、色色の物語つきて、既に日も那古(なご)[やぶちゃん注:大坂住吉の沖の海の呼称。]の海に入れば、相生(あいおひ)の松風うたひ立に、老人は住吉のかたへ飛(とび)さりぬ。
商人はしばし枕して、夢見しに、花がちれば、餠をつき、蚊屋[やぶちゃん注:蚊帳。]をたゝめば、月が出、門松(かどまつ)もあれば、大踊(をどり)[やぶちゃん注:盆踊り。]あり、盆も正月も一度に、晝とも夜ともしれず、すこしの間に、よいなぐさみをして、殘る物とて鍋ひとつ、里にかへりて、此事を語れば、
「生馬(しやうば)仙人といふ者、毎日すみよしより、生駒にかよふと申傳へし、それなるべし」。
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さすがに原話の筋を失はず、隨所に變化を見せてゐる。生馬仙人は生駒を利かせたのかと思つたが、「元亨釋書」の中に生馬仙の名が見える。沙門明達が出逢つた時、五瓜を與へた話などもあるから、こゝの瓜も存外それが利かしてあるのかも知れぬ。無論昔の人ではあるが、神仙である以上、いつ姿を現しても不思議はないのであらう。
[やぶちゃん注:「元亨釋書」(げんこうしゃくしょ(現代仮名遣))は歴史書で、鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史。著者は臨済僧虎関師錬(一二七八年~一三四六年)。全三十巻。元亨二(一三二二)年に朝廷に上呈された。「釋書」は釋迦牟尼佛の書の意。収録年代は仏教初伝から鎌倉後期までの七百余年に及び、僧の伝記や仏教史を記す。南北朝時代に「大蔵経」に所収された。鎌倉時代史の資料としても評価が高い。]
「諸國はなし」は貞享二年版であるが、寶永三年に出た「御伽百物語」にも「雲濱の妖怪」としてこの話が出てゐる。鏡花が綏安山を能登國に持つて行つたところに少からぬ妙があると云ひ、彦を鵜飼にしたのも何となく因縁があるやうだと覺めてゐるのは、この「御伽百物語」の事である。鵞鳥を鵜に變へた外は、原話の筋を逐うて日本の話にしたもので、特に作者の働きと見るべきところはない。最後に鵜飼にくれたのは銀の足打とあるが、足打といふのは三方とか折敷とかの類に足の付いたものらしい。
[やぶちゃん注:「貞享二年」一六八五年。
「寶永三年」一七〇六年。
「御伽百物語」京都の青木鷺水著。題名は浅井了意の「伽婢子」を意識しつつ、百物語怪談集に仕立てようとした意図であろう。青木が初めて手掛けた怪異小説(集)である。
「足打」「あしうち」と読む。宵曲の言っているように食器や杯などを載せる、細い幅の板で囲って縁とした木製の方形をした盆である「折敷」(をしき(おしき))の脚のついたものを言う。
以上は「卷之四」の「雲濱(くものはま)の妖怪」。「叢書江戸文庫」版を例の仕儀で処理し、読み易く手を加えて以下に示す(読みは一部に限った)。歴史的仮名遣の誤りはママ。踊り字「〱」「〲」は正字化した。挿絵も添えた。
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雲濱の妖怪
能登の國の一宮(いつぐう)氣多(けた)の神社[やぶちゃん注:石川県羽咋(はくい)市寺家町(じけまち)気多大社。大己貴命(おおむなちのみこと)を主祭神とする北陸の古社。]は能登の大國玉[やぶちゃん注:「おほくにたま」。ここは所謂、古来からの産土神を指す。]にして羽咋郡(はくひのこほり)に鎭座の神なり。祭祀おほくある中に毎年十一月中の午(むま)の日は鵜(う)まつりと號して丑の刻にいたりて是れをつとむるに、十一里を隔てて鵜の浦といふ所より、いつも此神事のため鵜をとらへ籠にして捧(さゝ)げ來たる役人あり。彼が名を鵜取兵衞と號して代々おなじ名を呼びつたえて故實とせり。去(い)ぬる元祿のころかとよ、この鵜取兵衞いつものごとく神事のためとて、鵜の浦にたち出でまねきけるに、餘多(あまた)ある鵜の中に神事を勤むべき鵜はたゞ一羽のみ。鵜取兵衞が前に來たる事なるを、今宵は珍しく二羽寄り來たりしを、何こゝろなく只一同とらんとしけるに、二羽ながら手にいりければ不思議の事に思ひて、放ちかへせども猶(なを)立ちかへりける程に、やうこそあらめとおもひて籠におさめ、一宮のかたへと急ぎける所に、年の程廿ばかりとも見えたる男の惣髮(さうかう)にて、何さま學問などに通ひける人にやと見えて、書物をふところに入れたるが此鵜取兵衞に行きあひて、道づれとなりしばらく物がたりなど仕かけうちつれたるに、何とかしたりけん、俄に腰をひき出(い)でたる程に、
「いかにしけるや。」
と問ひければ、彼の人いふやう、
「殊の外、疝氣(せんき)の發(おこ)りたれば、今は、足も引きがたし。あはれ、その鵜籠にしばし乘せて給ひてんや。」
といひけるを、鵜とり兵衞、たはぶれぞとおもひ、
「安き事、乘せ申さん。」
といふに、かの人、立ちあがり、
「さらば乘り申さん。ゆるし給へ。」
と、いふかとおもへば、たちまち鵜籠の中にあり。されど、さのみ重しともおぼえず。然(しか)も鵜と雙(なら)び居たりければ、いとあやしとおもへど、さのみとがむる迄にもおよばず。なを、道すがらはなしうちして行くほどに、一宮までは今二里ばかりもやあるらんとおもふ折ふし、彼の書生、鵜籠より出でていふやう、
「さてさて、今宵はよき御つれをまふけ侍るゆへ、足をさへやすめ給はりぬるうれしさよ。いでや、此御はうしに振舞ふべき物あり、しばらくやすみ給へ。」
と、ありけるほどに、鵜取兵衞も不敵ものにて、
「さらば休み申すべし。」
と、荷をおろしける時、書生、口をあきて、何やらん、物をはき出だすよ、と見えしが、大きなる銅(あかゞね)の茶辨當(ちやべんたう)壱つ、高蒔繪(たかまきゑ)したる大提重(おほさげぢう)壱組をはき出しぬ。此中にはさまざまの珍しく奇(あや)しき食物(くひもの)をしたゝめ、魚類野菜、あらゆる肴(さかな)、みちみちて、鵜取兵衞にくはせ、酒も數盃(すはい)におよびける時、彼(か)の書生、かたりけるは、
「我、もとより、一人の女をつれ來たりぬれども、君が心を如何(いかゞ)と議(はか)りがたくて、今に及べり。くるしかるまじくば、呼び出だして、酒をもらんと思ふなり。」
と語りけるを、
「何のくるしき事か候はん。」
と、鵜取兵衞がいひければ、又、口より女を吐き出だしけるに、年のころ十五、六ばかりと見えたるが、容顏美麗にして愛しつべし。書生もいよいよ興をもよほし、酒をのみける程に、事の外、醉ひてしばらく臥したるに、また女、鵜取兵衞にむかひていふやう、
「我は、もと、此おのこと夫婦のかたらひをなしける折ふし、兄弟もなきものなりといつはりて身を任せ侍るゆへ、心やすくおもひとりて、我ひとりは何方(いづかた)迄も召(めし)ぐして、いたはり、やしなふべきちかひを立て、こゝまでもいつくしみ惠み給ふ也。しかれども誠(まこと)は我に一人の弟(おとゝ)ありて、我また此夫に隱して養ひ侍る也。今此妻(つま)の醉ひふしたる隙(ひま)に呼び出だして、物くはせ、酒なんどもてなさんとおもふ也。かまへてかまへて我が夫の眠さめたりとも此事もらし給ふな。」
と、口かためして此女もまた一人の男と金屛風壱雙(いつさう)とを吐きいだし、夫のかたに此屛風をはしらかして隔(へだて)とし、彼のおのこと、うち物かたらひて、酒をのみける内、はや夜も七つ[やぶちゃん注:言い方がちょっとおかしいが、午前四時頃か。]に過ぎぬらんとおもふころ、彼の醉ひふしたるおのこ呵欠(あくび)して起きんとする氣色(けしき)ありければ、是れにおどろきて女は最前(さいぜん)吐き出だしつる男と屛風とを呑みて、何の氣もなきさまにてかたはらにあり。書生はやうやうとおきあがり鵜取兵衞にむかひて、
「扨(さて)も宵よりさまざまと御世話に預り、道を同じくしてこゝまで來たり。ゆるやかに興を催し侍る事、身にあまりて忝(かたじけ)なし。」
などゝ一禮し、さて彼(か)の女をはじめ辨當、敷物、悉くのみつくして、たゞ一つの銀(しろかね)の足打(あしうち)一具をのこして、鵜取兵衞にあたへて、是れより、わかれぬ。鵜取兵衞、此足打を得て宿にかへり、先づ此あやしき咄(はなし)を妻にもかたり、終(つい)に人にも見せて什物(じうもつ)となしけるが、はじめ慥(たしか)に二羽とりたりし鵜のたゞ一羽ありて籠に入りてありけるも、又あやしかりける事とぞ。
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因みに、ウィキの「気多大社」によれば、気多大社では現在も古式の祭りである「鵜祭(うまつり)」が十二月八日から十六日に行われており、これは『大己貴命が高志の北島から鹿島郡の新門島に着いた時、この地の御門主比古神が鵜を献上したのが始まりとされる。祭で鵜を献上する人々は』「鵜捕部(うっとりべ)」と呼ばれ、鹿島(かしま)郡の鹿渡島(かどしま)という所に先祖代々、『住み、その役に仕えていた』(「七尾市観光協会公式サイト」の「鵜祭り」によれば、『七尾市鵜浦町の観音岬、通称「鵜捕崖」で小西家に代々受け継がれた一子相伝の技法で捕えられた「鵜」を』二十一『人の鵜捕部に渡し、その年の当番である』三人が三日がかりで『羽咋市の気多大社へ奉納する』とある)。十二月八日に『鵜崖という場所に神酒・米・花などを供えた後、麻糸を付けた竹竿で鵜を捕らえるが手法には一子相伝の秘訣があるという。献上された鵜は社殿の階上に放され、宮司がそれを内陣に行くよう図るが』、『その時の鵜の進み具合によって翌年の作物の豊凶を占う。進み方が芳しくない時は神楽や御祓いを行う。鵜が内陣の机の上にとまったら』、『神官はそれを捕まえて、浜で放す』とある。]
この話などは最も支那的な題材で、日本に移すには困難な點が少くないと思はれるのに、貞享より寶永に至る二十年餘の間に於て、二つの作品に用ゐられてゐるのは、やはりそれだけ作者の興味を刺激したに相違ない。