佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その15)
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一度かういふ事もあった‥‥
夜ふけになってから、ランプの傍へ蛾が一疋慕ひ寄つた。彼はこの蟲を最も嫌つて居た。この蟲の、絹のやうな滑らかな毛が一面に生えた小さな顏。その灰黑色の頭の上に不氣味に底深く光つて居る小さな目。それからいくら追ひ拂つても平然として、厚顏に執念深さうに灯のまわりを戲れる有樣。それがホヤの直ぐ近くで死の舞踏のやうな歡喜の身もだえをする時には、白つぽくぼやけた茶色の壁の上をそのグロテスクな物影が、壁の半分以上を占めて、音こそは立てないけれども、物凄く叫び立てて居さうに狂ひまわつた。彼の追い拂ふのを避けて、この蟲が障子の上の方へ逃げてしまふと、今度はその黑い翅でもつて、ちやうど亂舞の足音のやうに、ばたばた、ばたばた、ばたばたと障子紙を打ち鳴した。
彼は、蛾の靜かになつたのを見すまして、新聞紙の一片それを取り押へた。さうして、その不氣味な蟲を、戶を繰って外へ投げ捨てた。
けれどもものの十分とは經たないうちに、その蛾は(それとも別の蛾であるか)再び何處からか彼のランプへ忍び寄った。さうして再び不氣味な黒い重苦しい翅の亂舞を初めた。彼はもう一度、その蛾を紙片で取り押へた。さうして、今度は、その紙片を蟲の上からしつかりと疊みつけて、さて再び戶を繰つて窓の外へ投げ捨てた。
けれども、又ものの十分とは經たないうちに、蛾は三度び何處かから忍び寄つた。それは以前に二度まで彼をおびやかしたと同一のものであるか、別のものであるかは知らないが、さつきあれほどしつかりと紙のなかにつつみ込んで握りつぶしたものが出て來ることは愚か、生きて居る筈もないのだから、これは全く別の蛾だつたのであらう。兎に角、三度、四度まで彼のランプを襲うた。
[やぶちゃん注:「四度まで」は底本では「四度まだ」。誤植と断じて、定本で訂した。]
この小さな飛ぶ蟲のなかには何か惡靈があるのである。彼はさう考へずには居られなかつた。さうして、わざわざ妻を呼び起して、この蟲を捕へさせた。それから一枚の大きな新聞紙で、この小さな蟲を、幾重にも幾重にも卷き込んで、折り疊んで、今度は戶の外へは捨てずに、彼の机の上へ乘せて置いた。
かうして、やつと安堵して、寢床に入つた。
しばらくして、眠れないままに、燭臺へ灯をともすと、ひらひらと飛んで來て、嘲るやうに灯をかすめたものがある。それも蛾であった!
[やぶちゃん注:これは精神変調病態の一種である追跡妄想の変形型と思われる。]
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