ブログ950000アクセス突破記念 火野葦平 煙草の害について
[やぶちゃん注:本作は題名も内容も確信犯のチェーホフの独り芝居の一幕物喜劇「煙草の害について」(Anton Pavlovich Chekhov“O vrede tabaka”1886)のインスパイアである。本来は、このブログ・カテゴリ『火野葦平「河童曼荼羅」』では、底本に従うなら、「新月」と「珊瑚礁」の間に入れるべきものであるが、チェーホフの元の話を電子化するまで待とうと思ったため、かく遅れた。先般、ブログ950000アクセス突破記念として「煙草の害について アントン・チェーホフ作・米川正夫譯」を電子化したので、ここに示すこととした。
太字は底本では傍点「ヽ」。
最初に現われる「當辨論大會出場」の「辨」はママである(以降は「辯」となっている)。
「菊石(あばた)」は二字へのルビ。かつて主に天然痘に罹患して予後、その主に顔面に菊石のような痕が残ったことから、「あばた」のことをかく言った。こう書いて「じゃんこ」などとも読んだようである。
また、作中、主人公は以前に「女の害について」「酒の害について」を弁論したとあるが、実は「河童曼荼羅」には「女の害について」「酒の害について」という題の作品が含まれている(未電子化。近い将来、順次、電子化予定)。ただ、その二つは弁論形式ではなく、本作と形式上で先行するダイレクトなプレ作品としては読めないのでお断りしておく。題名を見ただけで期待されてしまい果てに失望されても困るので(私は別に困らないのだが)それらの電子化より先に事前に述べておく。
なお、本電子化は2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、本ブログが250000アクセスを越えた記念として、チェーホフのそれに次いで公開するものである。【2017年5月26日 藪野直史】]
煙草の害について
滿堂の紳士淑女諸君、
わたくしが、このたび、鼻無沼(はななしぬま)代表といたしまして、當辨論大會出場の光榮に浴しました皿法師と申す者であります。自己紹介いたすまでもなく、每年、侃々諤々(かんかんがくがく)、流麗絢爛(けんらん)、奔流決河の雄辯をもつて、當壇上から、諸君におまみえしてきたものでありまして、諸君には、わたくしの印象は、さぞかし強烈に、消えがたいものとなつて殘つてゐることと信じます。ごらんのとほり、わたくしのこの頭の皿の巨大なことは、近郊近在に稀でありまして、故もなく頭百間といつて誹謗する者もあるにはありますが、實に、まさに、腦髓の巨大、かの世界的大詩人ゲーテの腦味噌のごとく、萬能の力と夢とを、この皿の下に藏して居る證據でありまして、わたくしが、まことに、河童世界において、選ばれたる者としての標識たることは、一點の疑ふ餘地もありません。
鼻無沼、口無沼、臍無沼、耳無沼、眼無沼等、近郊河童界の合同辯論大會が、かく、空靑く澄み、水はつややかに、若葉きらめくこの季節に、大々的にもよほされますことは、まことに當代の盛大事、河童文化界の一大欣快事、かかる機會あればこそ、わたくしも諸君にまみえ、得意中の得意たる辯舌をもつて、諸君の稱讚をかち得ることのできますことは、喜びの第一であります。……どうも、諸君の眼は、冷いですな。どうして、そんな皮肉な眼で、わたくしを見なさる? 諸君の眼にはいやな光、輕侮のまなざしがある。……なるほど、わたくしは、本年までの大會におきまして、遺憾ながら、優勝したことはありません。それはないです。しかし、そんなことがなんですか。昨年は八等、一昨年は十一等、一昨々年は六等、一昨々々年は九等、一昨々々々年は二十二等、一昨々々々々年は四等、といふ具合に、わたくしは名譽ある榮冠をかち得たことは、たしかにただの一度もない。しかしながら、その理由は明瞭です。罪はわたくしの側にあつたのではありません。昨年までは、暗愚無能の審査員、眞の言葉をきく耳なく、眞の姿を見る眼なく、眞の偉大を理解する頭腦なく、そして、眞の眞實を語る口なき徒輩が、おこがましくも、審査にあたつて居りましたために、眞に價値あるものはかへりみられず、言語同斷の不公平の結果を將來したものであります。のみならず、審査の事前にあたりまして、眼や耳を掩ひ、唾したき醜陋(しゆうろう)のことが行はれて居りましたことは、はつきり申します。饗應、追從(つゐしよう)、懇願、そして贈賄(ぞうわい)が、こつそり審査員に對してなされましたことは、歷然たる事實でありまして、かくのごとくしては、いかで、神聖なるべき審査に、公平を期し得ませう。中正嚴烈の立場を堅持し、一に技(わざ)を辯口の練達に置き、いやしくも邪(よこしま)に組せぬわたくしが、その辯舌のならびなき優秀さにもかかはらず、審査員諸兄の鼻息をうかがはなかつたといふだけで、一等の榮冠を得ることのできなかつた理由は、ただに、以上の奇怪事にもとづいてゐるのであります。が、既往は問ひますまい。今囘は、その弊があらためられ、もつぱら技術の練能のみを審査基準として、公正の判定が下されますやうになりましたことは、喜びこれに過ぎるはありません。然るうへは、わたくしの眞價も、今囘はあやまりなく認められ、一等優勝の月桂冠をかち得ることを確信して疑はないところであります。理解ふかく達識ある聽衆たる紳士淑女諸君におかせられても、不屈の雄辯に、魅了されることは當然でありまして、擧(こぞ)つてわたくしに人氣投票して下さるものと、これまたふかく確信して居ります。
さて、わたくしの演題は、ここにかかげてありますやうに、「煙草の害について」。昨年は、「女の害について」。一昨年は、「酒の害について」薀蓄(うんちく)をかたむけて、諸君に説きましたことは、なほ、御記憶に新なところであらうと存じます。しかるうへは、殘されたる煙草の害について語るは當然、三部作は世に流行するところであります。年來の河童の知己(ちき)たるあしへいさんも、土・花・麥といふ三部作を書いて居ります。酒と女と煙草、この三者の大害について、一大教訓を垂れますことは、わたくしの救世の宿願といつてもよろしく、すでに、酒と女とについて述べました以上は、今回、最後の煙草について、諸君にわたくしの卑見を開陳いたしますことは自然の順序、否、わたくしの義務、使命なのであります。ロシアのチエホフといふ作家が、嘗て、同問題について、一場の講演をしたことがありますが、わたくしのはさやうな陳腐退屈なものではありません。しばらく御靜聽を煩はしたく存じます。エヘン。
わたくしは、最近、熱烈な戀愛をいたしました。いや、現在、なしつつある、つまり、その眞最中であります。……そのやうに、お笑ひ下きるな。わたくしとて、老いたりといへども、なほ、靑春の血は、五體の隅々にまでたぎつてゐる。わたくしは、この日ごろ、一女人のために、情熱のほむらをたぎらし、わたくしの一生の蓮命を、この戀に賭けて居るのであります。その女人こそは、鼻無、口無、臍無、耳無、眼無、五界にかけてたぐひも並びもなき麗人でありまして、東洋の詩人の言葉を借りますれば、沈魚落雁閉月羞花、實に、暗夜に現出した燦然(さんぜん)たる太陽、虹、その一顰(いつぴん)一笑によりまして、あたかも電燈の明滅するごとく、あたりの光も左右されるほどの、すばらしい婦人なのであります。……どうも、皆さん、よくお笑ひなさる。惚れた眼には、菊石(あばた)もゑくぼ、とおつしやるのですか。よろしい、それなら、それとして置きませう。どうぞ、野次(やじ)らずに聞いて下さい。いづれ、わたくしの言葉の眞實がわかるときが參ります。……ともかく、わたくしは戀をいたしました。いたして居ります。この戀愛の成就によつて、わたくしの生涯は精彩をはなち、幸福の基礎は定まる。わたくしは希望に燃え、胸高鳴らせて、わたくしの全力をこの戀愛に傾注いたしました。いたして居ります。わたくしの戀人たるその女人は、牡丹のやうな美しい皿に、水晶液のやうな水をたたへ、瑪瑙(めなう)の眼と、大理石の嘴と、綠玉の甲羅と、そして、螢石の手と、……もうわかつたとおつしやるのですか。どうも、さう、まぜかへされては、話ができませんな。戀人の自慢はもうたくさんだといふのですね。なに? 演題の煙草の害の話は、どうしたのかつて? どうも、せつかちですな。話には順序があります。起承轉結、布置結構、文章と同樣、演説にも、構成、スタイル、山あり、谷あり、ただ、のべつに、がさつに、工夫もなく、話したのでは、味も素氣もありません。拙劣といふものです。わたくしが、「煙草の害について」といふ演題をかかげながら、突如として、主題とは緣もゆかりもなきごとく見ゆるわたくしの戀愛について語りだしましたのも、まつたく、わたくしの練達習熟せる小説的技法にもとづいて居つたのであります。居るのであります。つまり、わたくしの戀愛そのものが、實に、煙草に、煙草の害に直結して居るわけでありまして、わたくしの戀愛を語ることなくしては、絶對に主題たる煙草の害について語ることはできない。春秋の筆法を借りるまでもなく、實に、わたくしをして煙草の害を説かしむるものは、説かざるを得ざらしめたものは、わたくしの戀愛、わたくしの愛人、その女人なのであります。おわかり下さいましたでせうか。お靜まりになつたところを見ると、御理解下さつたものと信じます。感謝いたします。では、話を進めませう。
前述しましたとほり、わたくしは全身の血をたぎらせて、戀に沒頭いたしましたが、幸のことに、その女人も、わたくしの氣持を汲み、受け入れてくれました。くれたらしく、見えました。わたくしはドン・ファンではありません。ウエルテルです。女から女へ蜜蜂が花を漁り、花を變へ、今日は椿に、明日は百合にと、飛びまはるやうな浮氣心はわたくしには微塵もありません。わたくしはかの悲しきウエルテルのごとく、これと定めた戀人ただ一人に、すべてを捧げつくし、死をもいとはぬ誠實の徒なのであります。なるほど、わたくしは、醜男です、お笑ひ下さつてもよろしい。この頭の皿は、前述しましたやうに、大詩人ゲーテに匹敵する才能と夢とを藏してゐるとはいへ、たしかに、ちよつと不恰好です。頭百間といはれて笑はれても仕方がない。ことに、知識とか、才幹とか、人格とかいふやうなものはどうでもよく、ただ、のつペりとした顏形、通常色男と稱せられてゐるやうな男子に、關心を集中する婦人にとつては、わたくしのごときは、對象たる資格はありますまい。しかしながら、河童の眞實は、さやうな、單なる外形上の皮膚や骨格のなかにあるのではない。肉體ではない。精神です。肉體にだけ河童の價値を見るのは、精神の近視眼、色盲、實に、かのミーチャンハーチャン的輕薄の思想にほかなりません。したがつて、眞に精神美を理解し、人格に關心を有する女性は、わたくしのごとき、才幹豐かにして、哲學的な男性に、眞の價値を見いだすものです。わたくしの思ひをかけました女人が、この醜男たるわたくしの氣持を汲んでくれたといふのも、彼女がさういふ良識深き女性であつたからでありませう。わたくしの求愛にこたへてくれた、くれたかに見えた彼女へ、わたくしは深く感謝し、淚をもよほさんばかりの歡びをおぼえました。わたくしの人生は、この戀の成就によつて輝き、才能と力とはいよいよ發揮され、なにごとも今や不可能なることなしとさへ、わたくしは希望に燃えました。
ああ、わたくしは、このことを語るのが、苦痛なのであります。かくも、歡びと希望とに燃えたわたくしの戀が、いかに無殘なる形で、今日(こんにち)、放置されてゐるか。胸が苦しくなります。頭が疼きます。失禮お許し下さい。悲しくなりました。ちよつと淚を拭かきせていただきます。……わたくしは、實に、今、嘗て經驗せぬ最大の勇氣をふるつて、告白して居るのであります。告白と懺悔(ざんげ)とには、非常な苦痛と勇氣を要します。かのジャン・ジャック・ルソオが懺悔錄を書いたとき、彼は萬人の前に血をはく思ひをもつて、すべての眞實を叶露したのだと申しましたが、あの悲壯な書物のなかにも、なほ、隱されてゐる眞實、否、明瞭に虛僞があるといふではありませんか。しかし、わたくしは、なにも隱しません。すべてをここに告白いたします。わたくしが全靈をゆすぶる苦痛をもつて語りますことを、皆さんも眞劍にお聞き下さいますよう。
かの女人は、わたくしの求愛にこたへ、誘はれるままに、一日、鼻無沼の靑草萠える土堤に出ました。五月の太陽は、わたくしたちの戀愛を祝福するかのごとく、さんさんとあたたかい光をそそぎかけます。わたくしは美しい彼女の姿がまぶしく、さうです、實に、彼女は、沈魚落雁閉月羞花、虹、色硝子、プリズム、太陽の光線をはねかへして、わたくしの眼をくらませるのです。わたくしは滿足と幸福とで、有頂天でした。
わたくしたちは、ならんで、草のうへに腰を下しました。今や、わたくしは諸君のまへに、かの、ラヴ・シーンといふものを展開しようとしてゐるのであります。しかしながら、それがのろけでも自慢でもないことは、諸君のよく賢察されることでありませう。これこそは、わたくしの破綻(はたん)の、悲しき除幕式であつたのであります。とはいへ、なほ、その破滅までの數分はわたくしたちにとつて、えもいへぬ甘美と陶醉の悦樂境でした。心臟の高鳴りを押へ、つとめて平靜を裝つてゐましたけれども、わたくしは若干の聲のふるへを如何ともすることができませんでした。彼女の方はいかがだつたでせうか。それはわたくしの知るところではない。いたづらに高貴な女人の心境を忖度(そんたく)することは、失禮にあたりますので、わたくしは遠慮いたしますけれども、彼女とて、その妙(たへ)なる胸の琴線になにか觸るるものを感じて居つたのではないでせうか。心の窓たる眼は一切の祕密を語る。わたくしはうぬぼれませぬけれども、それどころか、自己の醜さを知つてゐるわたくしは、女人の前でいかなる場合でも謙虛、といふより、臆病、おどおど、ひやひや、ほとんど萎縮してゐるのが常でありましたけれど、そのときは、わたくしは、明瞭に、彼女のわたくしに對する好意を、その二つの涼しい瑪瑙の眼のなかに感じとりました。感じとつたと信じました。さすれば、もはや相思、心通ひあふ戀人同志、この五月の土堤のあひびき、ラヴ・シーンは完璧で、この幸福と前途に、なんの暗い影もあるわけではなかつたのです。にもかかはらず、この事痛が無殘にも崩れたのは?
あれです! ああ、あれです! 實に、煙草です! 煙草、聞くだに恐しい言葉!
幸福感に、痴呆のごとく醉ひ痴(し)れてゐましたわたくしは、瞬間、はつと凝結して、息をのんでしまひました。驚愕と、失望と、悲しみと、怒りと、さまざまの感情が、坩堝(るつぼ)に、いちどきに、千種類の金屬を投げこんだやうに、こんぐらかり、煮えかへり、騷ぎはじめました。わたくしは阿呆のごとくひらいた眼を女人の動作に釘づけにして、もう膝頭がふるへ、背の甲羅のつぎ目がぎしぎしと鳴り軋(きし)むのをおぼえました。
煙草です。彼女が煙草を吸ひはじめたのです。蓮葉の小筥から、金口のシガレットをとりだした彼女は、いかにも馴れた手つきで、ライターの火を點じ、あの大理石の嘴にもつてゆくと、いかにもおいしさうに、くゆらしはじめました。彼女がその行動をもつとも通常のことと考へ、わたくしの思惑などをいささかも氣にかけてゐないことは、その安らかな自然の行動で明瞭でした。それは、さうでせう。煙草をのむことが、惡事でも、破廉恥でもなく、今やひとつのエチケットにさへなつてゐるものとすれば、彼女がそのことを、なんのわたくしの前に遠慮したり、恥ぢたりするわけがありませう。道德も、倫理も、法則すらも、強力な習慣の作用にもとづいてゐることは、歷史が證明してゐます。常人の法則は、その萬人の最大多數の認識によつて肯定される。さういふ法則には、一切、羞恥はともなはない。されば、彼女が悠々とわたくしの前で煙草をのみはじめたことは、自然の理で、なんら咎むべきところはないのでありました。
然らば、その彼女のなにげない行爲に對して、わたくしが何故にそのやうに驚愕し、混亂したか? それは實に、わたくしの生理的本能、あのどうにもかうにもやりきれぬ、煙草嫌ひといふ氣質にもとづいてゐるのです。これは、もはや、道德でも、理論でもない。無論、法則でもない。仕樣のないわたくしの天性、生來の潔癖、宿命ですらあるのです。
わたくしは他人の趣味、嗜好に對して、誹謗を加へたり、排擊はしない。それは、自由です。しかし、わたくしは萬人の最大多數が煙草をたしなみ、その醍醐味を説き、紫煙の幻術、エクスタシイ、そして、その偉大なる價値を説かうとも、わたくし自身は、頑として、その宣傳に乘らぬ、誑(たぶら)かされぬ。そして、あの、いやなニコチンの匂ひ、毒に染まぬと決心してゐました。わたくしは煙草のみを輕蔑しはしませんが、これを賞揚する氣のないのは勿論、煙草のみの客がきて、あの無遠慮無感覺に、煙草の灰を散らす、これまでのんでゐたコーヒーの皿にでも、食べてゐた茄子や胡瓜の椀にでも、灰を落す、あの無神經、その不快さに辟易することは、一再ではありません。男子はまだよい。婦人が煙草を吸ふ姿を見ると、誇張ではなく、慄然と身ぶるひがしてくる思ひなのです。好意をよせてゐた女人が、煙草をのむと知つて、たちまち嫌ひになる、その經驗はたぴたびなのでした。宿命となれば、致しかたありません。かくしてわたくしは恐しい煙草から遠ざかり、今日まで、一度も、手に取つたことすらなかつたのです。[やぶちゃん字注:「煙草の灰を散らす」底本では「煙草の灰を敢らす」であるが、読めないので、誤植と断じて、特異的にかく訂した。]
なんといふ皮肉でせうか。さういふ天性の煙草嫌ひ、ほとんど煙草恐怖症といつてもよいわたくしが、全精神と全生活とを賭けて惚れました女人が、なんとしたことか、またしても、煙草のみ、煙草好きであらうとは! わたくしが、五月の土堤で心地よげに煙草をのみだした戀人の姿に、愕然とし、失望し、悲しみ、そして、絶望的な氣特になつて行つたことは、諸君の充分に明察されるところであらうと信じます。
わたくしは苦しみ、迷ひました。わたくしのその女人に對する思慕の情は、これまで經驗したやうな淺薄のものではなく、いかなる困難、迫害があらうとも、かならず突破して、成就しなければならぬといふ鞏固(きようこ)な勇氣をわたくしの身内にふるひおこし、ほとんどわたくしを英雄的興奮に追ひあげてゐたほどのものであつたのです。親が反對するか、周圍が反對するか、或ひは彼女へ思ひをかける戀敵(ライバル)が、わたくしへ決鬪を申しこむか、火でも、矢でも、嵐でも、來らば來れと、決意してゐたのでした。ところが、それが、なんと! あらはれた敵といふのが、煙草であらうとは!
ああ、戀か? 煙草か? わたくしの戀人が煙草のみであるといふことは、到底わたくしの耐へ得るところではない。然らば、彼女を思ひ切るか。ああ、それができるくらゐなら、なんでこれほど苦しみませう? わたくしは混亂し、悶え、天を仰いで、慟哭(どうこく)しました。彼女が煙草をやめてくれれば、これに越したことはないのでありますけれども、彼女の煙草を吸ふ樣子といふものは、彼女の煙草への愛好がいかに深いかといふことを、如實に語つてゐます。彼女はわたくしに、一本いかがといつて、小筥のケースをさしだしました。わたくしが、のまないと申しますと、ちよつと怪訝(けげん)な顏はしましたが、そんなにわたくしが、極端な煙草嫌ひ、煙草恐怖症といふことを、もとから知るわけはありませんから、默つてケースをしまふと、なほも、煙草をくゆらし、さもおいしげに、心地よげに、空にむかつて、紫色の輪を吹くのでした。それが五月の風にたなびいて、消えてゆく。見た目にはきれいなのですが、わたくしの方は、そのにほひのいやらしさに、悶絶せんばかりでしつかりと鼻をふさいでゐるのでした。わたくしが彼女を失ひたくなければ、この煙草への嫌惡を我慢するほかはない。この忍耐と克己がはたして可能か。わたくしの宿命を變へ得るか。いかなる暴力的な施療をもつてすれば、この變貌を遂げ得るか。わたくしに自信も意見もあらうわけはなく、戀か? 煙草か? 不可能を可能にし得ぬ弱少の資質に、ほとんど泣きたいばかりでありました。
彼女とて、かういふわたくしをも愛し、この戀愛を遂げんとすれば、煙草をやめなければ、あの、黑白一致の完全な合體はできない。戀か? 煙草か? とりもなほさず、それは彼女自身の悲痛な課題でもあつたでありませう。
紳士淑女諸君、
かくのごとく、煙草の害たるや、恐るべきものであります。わたくしは觀念しました。今さら、わたくしが最大の鬼門であり、なにより、先天的習性による宿敵といつてよい煙草へ屈服することは、いかにしてもできない。何度でもいひます。わたくしは煙草は嫌ひです。どうしても好きになれません。煙のにほひを嗅ぐと、卒倒しさうになります。これまで一度も、手にしたことすらありませんが、もし、手にしたら、その瞬間に、わたくしは癲癇(てんかん)的發作をおこすかも知れません。煙草はわたくしの敵です。そして、煙草は、……おや! 皆さん、これは、なんとしたこと! 皆さんは、わたくしをなぶるつもりですか。人が惡いにもほどがある。誰もかれもが、煙草をのみはじめた。五六人かと思つたら、七人、十人、二十人、四十人、百人、……ああ、みんなだ。全部の方が、煙草を吸ひだした。煙がもうもうと場内を埋める。わたくしの方へくる。たまらない。いやなにほひだ。皆さんは、わたくしを燻(いぶ)し殺すつもりですか。ああ、やめて下さい! やめて下さい!
おや、わたくしの眼のあやまりではないか? 全部が煙草を吸つてゐるのに、たつた一人、吸はない人がある。あの人だ! あなただ! あなたが、今夜の辯論大會にきてゐることをはじめから、僕は知つてゐたんです。僕は、あなたのことを念頭において、はじめから喋舌(しやべ)つてゐたんです。いや、あなた一人に向かつて、話、いや、僕の告白、願望を述べてゐたんだ。ああ、あなたは煙草を吸つてゐない。あんなに、好きだつた煙草を。戀か? 煙草か? あなたの考へはきまつたんですか?
滿堂の紳士淑女諸君、
諸君は意地わるく、わたくしを嘲弄しようとなさる。わたしを煙攻めにする。わたくしを癲癇で卒倒させようといふ魂膽にちがひない。たしかにわたくしは眼が舞ひさうだ。氣が狂ひさうだ。しかしながら、わたくしは諸君に負けたのではない。勝利者はわたくしです。わたくしが勝つたのだ。わたくしの戀人がわたくしをうけ入れたのだ。……皆さん、その中央の座席にゐる女人、さつきから、わたくしが縷(る)々として述べたすばらしき美人、それこそ、彼女です。ああ、煙草の海のなかで、たつた一人、煙草を吸はずにゐる。すてきだ! 僕は勝つた!……おや、あなたはどなた? 演説の最中に、演壇に土足であがるとは、なにごとです? なに、警察官? 警官が、小生になんの用があるのです? 用があるなら、あとで承ります。いまは、大切な辯論の最中だ。小生の一生の輝ける瞬間です。殺風景な警官の闖入(ちんにふ)で、妨げられたくはありません。小生の辯論に忌諱(きゐ)にふれる個所はない筈です。檢閲にひつかかるやうなことは、なにひとついつてゐないぢやありませんか。……なに? 全然、別の用だつて? なんです、それは? 逮捕状! 小生を逮捕するのですか? 冗談ぢやないですよ。僕はそんなことはなにもしてゐないよ。……えつ? 僕がヤミ煙草を製造した? ここで皆が吸つてゐる煙草は、全部、僕の祕密工場から出たものだつて? やめて下さい。冤罪(ゑんざい)を着せるにも、ほどがある。さつきからの僕の辯説を聞かなかつたんですか。僕は生來煙草嫌ひ、煙は勿論、煙草を手にとつただけでも卒倒する。そんな僕が、なんで、煙草なんか作るもんですか。とんでもない濡衣です。……あつ! それは!……うむ、……そんな證據があがつてゐるのか。……さうか。……そんなに引つぱらなくてもよろしい。もうかうなつたら、惡びれはしません。行きます。待つて下さい。一服してから行きます。……どうです、あなたがたも一服されたら? これ、最上等の葉卷ですよ。
[やぶちゃん後注:正直、惨めな恐妻家を痙攣的に露呈してゆく原話に比すと、格落ちは否めず、落ちもイマイチである。演じて見たい気はあまりしない。]