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2017/05/02

南方熊楠 履歴書(その23) 田辺定住と結婚

 

 かくて二年余那智にありてのち、当地にもと和歌山中学にありし日の旧友喜多幅(きたはば)と申す人、医術をもって全盛すときき、むかしの話をせんと当田辺町へ来たり、それより至って人気よろしく物価安く静かにあり、風景気候はよし、そのまま当町にすみ二十年の久しき夏と冬をおくりぬ。独身にては不自由ゆえ、右喜多幅の媒介にて妻を娶(めと)る。小生四十歳、妻は二十八歳、いずれもその歳まで女と男を知らざりしなり。妻は当地の闘鶏(とりあはせ)神社とて、むかし源平の合戦に熊野別当堪増(たんぞう)がこの社で神楽を奏し、赤白の鶏を闘わせしに、白ことごとく勝ちしゆえ、源氏に味方して壇の浦に平氏を殄滅(てんめつ)せしと申す、その社の維新後初めての神主の第四女なり。裁縫、生花などを教え、貧乏なる父に孝行し嫁するひまもなかりしなり。この妻が小生近年足不自由になりてより、もっぱら小生のために菌類を採集し発見するところ多し。本邦で婦人の植物発見の最も多きはこの者ならん。この道に取っては海外までも聞こえたものなり。その父は如法の漢学者なりしゆえ、この女は『女今川』育ちの賢妻良母風の女なり。琴などもよくひくが、小生貧乏ゆえ左様のひまもなく、筒袖をきて洗濯耕作など致しおり、十八になる男子と十五になる女子あり、いずれも行く末知れざるものどもなり。

[やぶちゃん注:「二年余那智にありてのち、「田辺町へ来たり、それより」「そのまま当町にすみ二十年の久しき夏と冬をおくりぬ」南方熊楠が南紀植物類等の調査を終えて田辺の落ち着いたのは明治三七(一九〇四)年十月。勝浦に向かったのは明治三四(一九〇一)年十月末であるから、単純に言えば三年となるが、この間、勝浦から那智へと移り、また間の明治三十五年の五月から十二月までの約半年は、以下の喜多幅が主に世話をして田辺・白浜で過ごしているから、「二年余」というのは思いの外(というより流石は超人的記憶力の持ち主である彼にして当然とも言える)、正確な謂いと言える。本書簡の当段落は大正一四(一九二五)年二月に書かれたものであるから、「二十年」も正確である。「南方熊楠コレクション」の注によれば、熊楠が古い学友であった『喜多幅を訪ねたのは明治三十五年五月二十二日のことである』とある。

「喜多幅(きたはば)」喜多幅武三郎(たけさぶろう 慶応二(一八六八)年~昭和一六(一九四一)年)は産科婦人科を本来の専門とした開業医。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、『明治十六年(一八八三)四月、和歌山中学校卒業後、京都府立医学校(現・京都府立医大)を経て東京帝大医科大学で産科婦人科撰科を卒業、明治二十六年四月から田辺町大字今福町三十八番地で医院を開業した』。『田辺中学の名物校医として』も『生徒に慕われた』。『熊楠との出会いは、和歌山中学に進んでからで、熊楠によれば「和歌山中学校開業の二日ばかり前、おのおの受験中、中井秀弥、貴兄、小生三人、怪物しばいなせしこと有之」というようなことがあったようで、そのため「和歌山市を離れて小生の知友にて一番古きは貴君に御座候。小生こと身の幸ありて帰国するを得ば、何卒見捨てぬように願い奉り候」(喜多幅宛書簡、明治二十四年八月十三日付)』(アメリカ発書簡)『と記すまでの親密な間柄となった』。先に注した通り、明治三十五年の彼の田辺での歓待の際、『喜多幅を介して知った田辺の飲み友達が忘れられず』、『田辺を目指して落ち着き先を求めた』と中瀬氏は言う。また、ここで自身が述べるように、『喜多幅は熊楠に結婚を勧め、田辺・闘鶏神社宮司の娘田村まつゑを紹介、自ら仲人をつとめて長かった熊楠の漂泊にピリオドを打たせた。熊楠の長女文枝によると、二人は実の兄弟のようで、わがままな熊楠をたしなめ、喜多幅のいうことなら熊楠は何でも聞き入れるので、松枝は口ぐせのように「もしも先生のほうが早く亡くなられたら、すぐ迎えに来て下さいよ。こんな気むつかしい人残されたらかなわんから」と頼んでいたという。それかあらぬか、喜多幅没後、後を追うように熊楠も亡くなっている。喜多幅の葬儀の日、熊楠は書斎にこもって経をあげ「今日一日は喜多幅君の冥福を祈るのだから誰もそばに来るな」と目をつむって静座していたという』とある。熊楠逝去は昭和一六(一九四一)年十二月二九日で、喜多幅はその十一ヶ月前の同年三月十日に亡くなっている

「闘鶏(とりあはせ)神社」和歌山県田辺市東陽にある。主祭神は伊邪那美命。「和歌山県神社庁」公式サイト内の同神社のページによれば、現行では「闘鶏」は「とうけい」と音読みしている。社伝によれば。允恭天皇八(四二四)年に熊野坐(くまのにます)神社(熊野三山の一つである、現在の和歌山県東牟婁郡本宮町本宮にある熊野本宮大社のこと。旧社地は熊野川の中州にあったが、明治二二(一八八九)年の大洪水で流失、現在地に遷座した)より『勧請したという』。『又、白河法皇の頃、熊野路に強盗多く行幸を悩ますため、熊野三所権現をこの地に勧請し、三山参詣に替えたという伝承がある』。「紀伊続風土記」には『「熊野別当湛快のとき、熊野三所権現を勧請し、新熊野と称す」とある』。「平家物語」や「源平盛衰記」によると、元暦元(一一八四)年の『源平合戦の時、熊野水軍が紅白の鶏合』(とりあわ)『せにより源氏に味方をした故事により、合権現』(あわせごんげん)『の呼称が生れ、明治維新まで新熊野合権現と称し、後、鬪鶏神社と改称された』とある。『本殿裏の神山を仮庵山(かりおやま)といい、古代祭祀跡指定地』。『社伝によると竜神信仰があり、又、経塚も発見されている』。『仮庵山は、うっそうとした自然林で、巨大な楠が大きく枝を広げていたというが、明治の頃にその森の楠の一部が伐採された時、これ以上の伐採を中止させようと南方熊楠氏は、関係者を厳しく批判し』、『抗議している』。『南方熊楠氏は植物・民俗学者で、白然保護を世にうったえ、神社合祀政策に反対運動をされた方で、鬪鶏神社宮司田村宗造氏の』四『女松枝と結婚している』と、神社庁の辛気臭い記載の中では、なかなか粋なことに、南方熊楠の事蹟まで書かれてある。『境内には社伝によると樹齢』千二百『年の大楠(市天然記念物)があり、延命長寿・無病息災の信仰があり、又、楠の葉を歯痛の患部につけ念ずると平癒するという、歯病治癒の信仰がある』。『境内地には楠の大木も多く、忠魂慰霊碑側には』樹齢八百『年の大楠(市天然記念物)がある』とも記す。「楠」絡みが面白い。

「妻」南方松枝(まつゑ)。既注

「源平の合戦に熊野別当堪増(たんぞう)がこの社で神楽を奏し、赤白の鶏を闘わせしに、白ことごとく勝ちしゆえ、源氏に味方して壇の浦に平氏を殄滅(てんめつ)せしと申す」ウィキの「闘鶏神社」には、『平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る』。『田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた』とある。「平家物語」等に『よれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地の鶏を紅白』二『色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め』、『熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという』とある。この「湛増」(たんぞう 大治五(一一三〇)年)~建久九(一一九八)年)は、ウィキの「湛増」によれば、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧(法体(ほったい)で二十一代熊野別当であった。そこでは彼は第十八代別当湛快の次子とする。『源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる』(「延慶本平家物語」に基づく)。平治元(一一五九)年の「平治の乱」では、父湛快が清盛方につき(「愚管抄」による)、『平氏から多大の恩顧を受けつつ、平氏政権のもと、熊野別当家内部における田辺別当家の政治的立場をより強固なものにし、その勢力範囲を牟婁郡西部から日高郡へと拡大していった。湛増もまた平氏から多大の恩顧を受けつつ、若い頃から京都と熊野を盛んに行き来し』、承安二(一一七二)年頃には『京都の祇陀林寺周辺に屋敷を構え、日頃から隅田俊村などの武士を従者として養い』『つつ、当時の政治情勢に関する色々な情報を集め、以前から交流のあった多くの貴族や平氏たちと頻繁に交わっていた』。承安四年、『新宮別当家出身の範智が』二十代『別当に補任されるとともに、湛増が権別当に就任し、範智を補佐』した。治承四(一一八〇)年五月、『湛増は、新宮生まれの源行家の動きに気づき、平氏方に味方して配下の田辺勢・本宮勢を率い、新宮で行家の甥に当たる範誉・行快・範命らが率いる源氏方の新宮勢や那智勢と戦ったが、敗退した』(「覚一本平家物語」)。『この後、すぐさま』、『源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた。しかし』、同年十月に源頼朝が挙兵したことを知ると、それ以後は『新宮・那智と宥和を図るとともに、熊野三山支配領域からの新宮別当家出身の行命や自分の弟湛覚の追放を策し、源氏方に味方』(「玉葉」)。翌治承五年一月には『源氏方が南海(紀伊半島沖合)を周り、京都に入ろうとしたため、平家方の伊豆江四郎が志摩国を警護。これを熊野山の衆徒が撃破し、伊豆江四郎を伊勢方面に敗走させたが、大将を傷つけられたため退却した』(「吾妻鏡」)。元暦元(一一八四)年十月、湛増は第二十一代『熊野別当に補任された(「僧綱補任宮内庁書陵本」・「僧綱補任岩瀬文庫蔵本」』ほかに拠る)。『源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかの最終決断を揺れ動く熊野の人々に促すため、新熊野十二所神社(現闘雞神社、和歌山県田辺市)で紅白の闘鶏をおこない神慮を占ったとされる』(「平家物語」)。『学者の中にはこれを否定する人もいる』『が、長い時間の経過とめまぐるしく変転する政局をめぐり、湛増を中心とした関係者側に改めてこのような儀式をおこなう事情がありえたことを考慮すべきであろう』。元暦二(一一八五)年、源義経の引汲(いんぎゅう/いんきゅう:訴訟の際に弁護して支援すること。又は特定の対象の肩を持つこと。)に『よって平氏追討使に任命された熊野別当湛増は』、二百余艘(一説に三百艘)の軍船に乗った熊野水軍勢二千名(一説に三千人)を『率いて平氏と戦い、当初から源氏方として壇ノ浦の戦いに参加し、河野水軍・三浦水軍らとともに、平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い、源氏の勝利に貢献した』(諸「平家物語」伝本)。『これらの功績により』、文治二(一一八六)年には『熊野別当知行の上総国畔蒜庄地頭職を源頼朝から改めて認められた』(「吾妻鏡」)。また、文治三(一一八七)年、『湛増は、法印に叙せられ』(「吾妻鏡」)、『改めて熊野別当に補任された(「熊野別当代々次第」)』。建久六(一一九五)年、『上京していた鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と対面し、頼朝の嫡男源頼家に』兜『を献じ、積年の罪を赦された』。先に引いたウィキの「闘鶏神社」では弁慶を湛増の子とする伝承が紹介されているが、同ウィキの注に、「義経記」によればこの『湛増は武蔵坊弁慶の父とされるが、文学的伝承のみで確証はない』と記す。

「女今川」(おんないまがわ)沢田きちの著になる江戸前期の貞享四(一六八七)年刊の往来物(寺子屋などで用いられた各種教科書様のもの)。絵入り仮名書き。今川貞世(さだよ:了俊(りょうしゅん) 嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年?:南北朝時代の武将で歌学者で遠江今川氏の祖とされる。)の「今川状」(貞世が養子で弟の今川仲秋に与えた指南書。主内容は書の手本書であるが、人生教訓・治世方針・君主論などを含む一種の「帝王学」であったが、同時に道徳の手引きとして後世、広く親しまれ、江戸時代には学問所や寺子屋などで多くの者に愛読された。)を真似たもの。教訓書としてだけでなく、女性の習字手本としても使用された。

「十八になる男子」長男南方熊弥(くまや 明治四〇(一九〇七)年~昭和三五(一九六〇)年)。サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、幼少期よりの熊楠の溺愛と過度の彼への将来の期待が窺える。『熊弥が田辺小学校(現・田辺第一小学校)三年の時、校外での上級生の粗暴といじめに対し、憤激した熊弥が憤りを露わにした投書が『牟婁新報』に出ている。題して「田辺小学児童の校外行動に就いて」。要旨は、“団長”である上級生が恣意的に“行軍”や遊びに下級生を呼び出し、従わなかったら翌日学校でいじめるという。そのため、せっかく帰宅後教えようにも遊びに行かねばといって、子どもは上級生と父母との板ばさみで困っている。教師はそうした実態を把握して校外指導に気を配れ。そして今後再び拙家の小児に迫害を加えたなら、暴をもって暴に代えるのも止むを得ないわけで、私がその団長を打ちのめしてやるからそのつもりでおれ、というものである。熊楠も世の父親と変わりなく、熊弥の家庭教育に気を遣い、いじめに悩んでいたのである』。『田辺中学校に入学してから熊弥の学力が一時不振に陥ったことがある。「拙児中学二年生にて小学では優等なりしに中学では一向劣等なり」として、その理由に今日の中学校教育が一日に七科目も八科目も断片的に詰め込む「ごもく」教育で、独習がいちばんと思うがそんな機関も、適当な新聞・雑誌もなく、仕方なく悪事をしないだけでもよいと思って学校へやっている、と述べ「学校というものあるが為に天賦が平凡になり了り申候」と嘆いている』。『中学卒業後、熊弥は高知高校(現・高知大学)へ進学の道を選んだ。その年(大正十四年)三月、二人の学友とともに高知に向かった熊弥は上陸後』、『発作に襲われ、受験をすることなく帰宅、そのまま長い療養生活に入った。病状は一進一退を続け、昭和三年から十二年まで京都・岩倉病院で治療、その後、海南市藤白に家を借り、転地養生につとめた』。『熊楠は』『好転を期して動物図鑑等を取り寄せては熊弥に与えたが、ついに健康な顔をみることなく』、『熊楠は逝った。熊楠没後、熊弥は田辺に帰り、自宅療養等を続け』、『五十三歳の生涯を閉じた』。熊楠逝去(昭和一六(一九四一)年十二月二九日)時は満三十七歳であった。

「十五になる女子」長女南方文枝(明治四四(一九一一)年~平成一二(二〇〇〇)年)サイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の解説によれば、『昭和三(一九二八)年に田辺高女を卒業した文枝はしばらく家事を手伝』い、『昭和十年頃から』は『父の菌類写生の助手をつとめるようになった。「小生は昨今菌類の写生を娘に行はしめ、自身その記載をなすも、娘が日に四五品の写生をするに、ただ文字をならべ、筆するだけの記載が毎度おくるるなり」とその共同作業を告げた書簡もある。晩年の熊楠は、菌類図譜の完成に渾身(こんしん)の力で取り組み、その助手として文枝の存在は何よりも熊楠には大きな励みとなったのである』と記す。熊楠逝去時は満三十歳であった。]

 

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