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2017/05/17

南方熊楠 履歴書(その35) 南方植物研究所募金に纏わる弟への恨み節

 

 さて研究所の首唱者は舎弟常楠と田中長三郎氏二人なりしが、田中氏は大正十年仲春、洋行を文部省より命ぜられ米国へ渡り、何となく退いてしまわれし。これは今より察するに、舎弟が我慾強き吝嗇漢(りんしょくかん)で、小生の名前で金を募り集め、それを自分方に預かりて利にまわさんとでも心がけて、小生に慫慂(しょうよう)したることらしく分かったので、田中氏はのいてしまいしことと察し申し候。小生は世俗のことに聞きゆえ、そんなことと知らず、すでに研究所の趣意書までまきちらしたことゆえ、また東京では数万金が集まったことゆえ、今に鋭意して集金しおり、基本金には手をつくることならぬゆえ、いろいろと寄書、通信、教授また標本を売りなどして、わずかに糊口しおり候。舎弟は、小生意外に多く金あつまり銀行へ預けた上はそれで自活すれば可なりと、研究所の寄付金と小生一家の糊口費を混視し、従来送り来たりし活計費を送らざることすでに二年、よってさし当たりこの住宅なくては研究安定せざるゆえ、前年買いしときの約束に基づき四千五百円で譲与を望むも、今の時価ならでは(少なくとも一万円)譲らずと主張し、またその代りに小生亡父より譲られたる田地を渡し交換せんというに、大正三年小生の望みにより名前を舎弟のものに切り換えありという。これはそのころ当町の税務署より突然小生に所得税を徴せられしことあり。小生、一向所得税を払うべき物なしと言いしに、田地二町二反余あるを知らずやという。小生そんなことは末弟らより聞きしことあるも、自分は金銭のことに疎(うと)ければ知らずと言いて、舎弟へ書面を出し、右様のこと申し来たりては面倒ゆえ従前ごとく小生に代わりこれを預かりおるその方より納税しおきくれと、代納委任状をおくれり。実印は舎弟に預けあり。よってその代納税の委任状の小生の記名を何とかして譲与証書を作り、自分の物にしてしまいしことと存じ候。小生の月々の費用は、米が居多(きょた)にて年に六石ほど食う。右の二町二反余より三十石ばかり上がるなり。それに小生は迂闊(うかつ)にして、右二町二反余の地価の九百九十円とあるを明治二十年ごろの価と知らず、わずかなことなれば介意するに足らずとして、このごろまで過ぎおりたるなり。酒屋というものは毎年納税期に四苦八苦して納税する、そのためにはずいぶん兄弟や親戚の財産を書き替えることもありと聞くゆえ、骨肉の情としていつでも間にあわせ用が済まばまた小生に復(かえ)すことと心得、実印までも預けおきたるなり。しかるに、小生ごとき金銭にかけては小児同様のものをかようになしおわるとは、骨肉しかも同父母の弟としては非人道の至りなり。例年代納し来たりしに、この歳に限り小生依然金銭に迂なりや否を試し見んため代納を拒み、突然小生に徴税せしめたると分かる。このかけあいに前日上りしも、寒気烈しくして帰り来たり、さらに妻と妻の妹を遣わし、五時間もかけ合いしも埒(らち)明かず、春暖になれば小生またみずから上らんと思う。しかして談判のかたわら、生れ故郷のことなれば今も知人や知人の子弟は多くあり、それらの人々に訴えて集金せんと思う。今のような不景気な時節に集金は難事ながら、只今とても時々小生の篤志を感じ寄付金をおくらるる人なきにあらず。小生一度企てた以上は、たとい自身の生涯に事成らずとも、西洋の多くの例のごとく、基礎さえ建ておけば、また後継者あって大成しくるることと思う。

[やぶちゃん注:「大正十年仲春」一九二一年の仲春(春三ヶ月の中の月で正確には陰暦二月の異名であるが、ここは新暦二月の意)。南方植物研究所構想はこの二月頃に始められ、六月に田中長二郎の設立趣意書が発表されている。

「糊口費」「ここうひ」。生活費。

「混視」混同して認識することであるが、要は、同一のものと勝手に見做したことのを意味する。

「居多(きょた)」大部分を占めること。

「六石」米の場合、九百キログラム相当。南方熊楠一家は夫婦と長女・長男の四人家族で、月割りで七十キログラムになり、これは現行の消費量から考えると異様に多いが、今のように米以外のものを主食としていない点、熊楠邸には女中や使用人などもいることなどを考慮すれば、驚くべき量とは言えないと私は思う。

「明治二十年」一八八七年。本書簡は大正一四(一九二五)年のもの。

「迂」音で「ウ」と読んでいよう。疎いこと・鈍いこと。

 

「前日上りしも」「南方熊楠コレクション」の注によれば、上松蓊宛書簡から大正一四(一九二五)年一月のこととある。]

 

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