「想山著聞奇集 卷の參」 「蟇の怪虫なる事」
蟇の怪虫なる事
蟾蜍(ひきがへる)の怪虫なりとの童蒙もしる事にて、引蛙(ひきがへる)と訓ずる事は物を己(おのれ)のかたへ吸引(すひひく)故の名にて、椽(えん)の上に有(ある)菓子など、己(のづ)と動きいで、椽下(えんのした)へ落(おつ)るは、ひきのなす業(わざ)にて、或は蚨蛉(ぶよ)蚊の類(たぐひ)を引込(ひきこみ)て喰(くら)ふ事は衆人の知(しる)事にて、珍らしからざれども、あまり不思議成(なる)事を聞(きき)たる故、記しぬ。文政元年【戊寅(つちのえとら)】頃の事と覺えし由、所は播州佐用(さよう)郷佐用宿の醴屋(あまざけや)と云(いふ)茶屋の裏庭にて、蟇(ひき)と鼬(いたち)と其間(あま)ひ凡(およそ)二尺餘も隔ちて、良(やや)久敷(ひさしく)にらみ合居(あひをり)たる内に、鼬の口より白き絲(いと)のごとき物出(いで)て、蟇の口へ入(いる)。次第に鼬弱りたる景色にて、遂に鼬は死したりと。不思議なる事也。顏の血を吸(すふ)ならば、赤き色の物なるべきに、白き色の物を吸(すひ)たるは、全く氣を吸取(すひとり)たるかと思はる。是は濱田侯の藩中多田某、佐用宿の近所、平福(ひらふく)といふ所の陣屋詰(ぢんやづめ)の節、現に見請(みうけ)たり迚(とて)、同人より直(ぢき)に聞たる咄しなり。【平福より佐用まで五十丁ありと。】
[やぶちゃん注:「蟇」の生物学的同定については後でも掲げる、「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」の私の注を参照されたい。
「文政元年」一八一八年。
「播州佐用郷佐用宿」現在の兵庫県の南西部にある佐用町(さようちょう)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「濱田侯」石見国浜田藩藩主松平氏。、現在の島根県浜田市周辺(ここ(グーグル・マップ・データ))を領有した。
「平福」現在の兵庫県佐用郡平福。ここ(グーグル・マップ・データ)。佐用の北直近。
「五十丁」五キロメートル半弱。]
或人、此筆記を見て、是と全く同じ話有(あり)、下總の國佐原(さはら)にての事なるが、鼬一疋、材木の上にありて、其下に蟇一疋居て相對(あひたい)しけるに、やがて鼬の身躰すくめるごとくに成(なり)、口より白き絲のごときもの出て、蟇の口へ入(いる)事、良(やや)暫(しばらく)にして、鼬は次第に弱り、夫(それ)なりに斃(をち)たりと。か樣の事、諸國とも、邂逅(たまさか)には有(ある)事と見えたり。珍とするには足ざる歟(か)。
[やぶちゃん注:「下總の國佐原」千葉県北東部にあった旧佐原(さわら)市。現在は合併によって香取市となっている。]
又、狩野伊川院(かのういせんゐん)先生、或時、座右の行燈(あんどん)の油、細く虹のことく成(なり)て發したり。是は如何成(いかなる)事と驚(おどろき)て能(よく)見れば、彼細(かぼそ)き筋(すぢ)と成(なり)たる油、其間(そのあひだ)二間(けん)餘有(あり)し、向(むかふ)の椽の下の蝦蟇(ひきがへる)の口に入(いり)たるを見て、是より、けしからぬ蟇ぎらひと成(なり)たりとの事。現に右先生の咄なり迚、或人の語りし。
[やぶちゃん注:「狩野伊川院」幕府絵所の御用絵師であった狩野栄信(かのう ながのぶ 安永四(一七七五)年~文政一一(一八二八)年)。木挽町(こびきちょう)家狩野派第八代目絵師。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。
「二間」三メートル六十四センチ弱。]
又、備前岡山侯の藩中何某の小兒、年七つ斗りなりけるが、或日、暮合(くれあひ)より熱出て、夢中にてわつと泣出(なきだ)し、泣止(なきやみ)ては又、泣出す。何の病(やまひ)にや辨へ難く、何にもせよ、醫師を呼(よび)に遣(つかは)すべしと云(いひ)て、何某は便所へ行(ゆき)たるに、土藏の礎(いしずゑ)の所より、靑き火、燃出(もえいで)たり。是は怪敷(あやしき)と思ひ、眺め居(を)ると、奧にて小兒わつと泣出(なきだし)たり。頓(やが)て火も夫(それ)なりにきえ、泣(なき)も止(やみ)たれど、如何にも怪敷事なれば、最早、再び火は燃出ざるかとしばし眺め居(を)ると、又、陰々と火燃いでたり。しかすると等しく、又、小兒わつと泣出たり。甚(はなはだ)不審に思ひ、急ぎ燈火を持行(もちゆき)て、火の出(いで)し所を見るに、小兒の戲れにや、石を積み草などを插して、蟇躰(ひきてい)のものを拵へ置(おき)たり。その中に何か埋(うづ)めある樣子故、掘試(ほりこころみ)るに、蟇を大なる釘にて差貫(さしつらぬ)きたる儘にて埋め有(あり)しが、此蟇、死にもやらず片息(かたいき)にて苦しみ居(ゐ)たり。よつて釘を拔(ぬき)、藥など與へ放ちやりたり。其後、小兒の泣(なく)も止(やみ)、熱も段々凉(さめ)て、常躰(じやうてい)に復したりと。是も前の多田の父、若き時、牧村某と名乘(なのり)て、岡山侯の藩中に有たる時、現に此(この)奇を知居(しりをり)て時々示しに逢(あひ)たりとて、多田の語りしなり。最早、五六十年も以前の事ゆゑ、天明か寛政の初の事也と。是も怪なる事也。
[やぶちゃん注:「天明か寛政の初」「天明」は「寛政」の前で、一七八一年から一七八九年まで。例えば試みに寛政二(一七九〇)年に「六十」を足すと一八五〇年で、これは想山の没年、本書刊行の嘉永三年と一致する。]
扨、蝦䗫(がま)[やぶちゃん注:底本ではルビは「まが」であるが、原本を確認したところ、これは底本の誤植であることが判ったので、特異的に訂した。また、「䗫」の右には『(蟆)』と補正注する。「蟆」ならこれ単独でも「がま」で「蟇」に同じい。]の怪なる事を記したる書は、追々見當りたれども、耳囊と云(いふ)隨筆に記し有(ある)趣は、心得にも成ぬることゆゑ、全文を抄出して、爰に載ぬ。
[やぶちゃん注:以下、底本では、まるで本書の一章のように字配やポイントも組まれてしまってあるのであるが、本文で述べてある通り、あくまで根岸鎭衞の「耳囊」からの抜粋に過ぎない。]
蝦暮の怪の事
附 怪をなす蝦蟇別種成(なる)事
營中にて同寮の語りけるは、狐狸の怪異、昔より今に至りて聞(きく)も見(みる)も多し。ひきも怪をなすもの也。厩にすめば、其馬、心氣衰へ終(つひ)に枯骨となり、人間も又、床下に蟇住(すみ)て、其家の人、欝々と衰へ煩ふ事あり。ある古き家に住める人、何となく煩ひて氣血(きけつ)衰へしに、或日、雀など椽ばたに來りしに、何の事もなく、椽下へ飛入(とびいり)て行衞(ゆくゑ)知(しれ)ず。或は猫・鼬の類(たぐひ)、椽際(えんぎは)に居(をり)しを、われと引入(ひきい)る樣に入(いれ)て行衞知ず。かゝる事、度々有(あり)し故、主(あるじ)、不思議におもひ、床(ゆか)を離し、緣下へ入(いり)、索(さが)しけるに、大きなる蟇、窪める所に住居(すみゐ)たりしが、毛髮枯骨の類(たぐひ)、夥敷(おびただしく)傍(かたはら)に有し故、全(まつたく)ひきの仕業(しわざ)なりと、彼(かの)ものを打殺(うちころ)し捨て、床下を掃除なしければ、彼(かの)病人も、日に增(まし)愈(いえ)けると也。予、壯年の時、西久保の牧野かたに罷(まか)りて、黃昏(たそがれ)のとき、庭面(にはおもて)詠(なが)め居(をり)しに、春の事なるが、通例より大なる毛蟲、石の上を這ひ居(ゐ)たりしに、椽の下より蟇出(いで)て、右毛蟲より三尺餘も隔ちし場所へ這ひ來り、暫く有(あり)て口を明(あく)と見へしが、三尺程先の毛蟲を吸行(すひゆく)と見へて、右毛蟲は蟇の口の内へ入(いり)ける。されば、年經(としへ)し蟇の人氣(じんき)を吸(すは)んも、空言(そらごと)とは思はれず。また、柳生氏の語りしは、上野寺院の庭にて、蟇、鼬をとりしことあり。是も氣を吹懸(ふきかえ)しに、鼬倒れて死せしを、土を懸(かけ)て其上に蟇の登り居(ゐ)し故、翌日、右土を掘(ほり)て見しに鼬の形はとけ失(うせ)しと。右寺院の語りしよし、咄しけるなり。
[やぶちゃん注:以下は底本では全体が二字下げ。]
但、蟇の足手(あして)の指、前へ向きたるは通例也。女の禮をなすごとく、指先を後ろへ向ける蟇は、必(かならず)、怪をなすと老人の語りし由、坂部能州物語りなり。
[やぶちゃん注:以上は、私の「耳囊 卷之四 蝦蟇の怪の事 附怪をなす蝦蟇は別種成事」の電子化訳注をご覧あれかし。]
と云々。此趣に相違有間敷(あるまじき)と思はる。前條の怪をなしたる蟇も、手の指先の後ろ向(むき)なるにや、能(よく)ためし試み心得置度(こころえおきたき)事なり。【大蟾蜍(おほひきがへる)の事等、八の卷に記し置(おき)、又蟇を伏置(ふせおく)と拔失(ぬけうせ)る事は十一の卷に記し置、其餘、蟇の怪靈の事、十七の卷にも記し置たり。】
[やぶちゃん注:以前に述べている通り、本書は五巻しか伝わっていない。この割注のそれら予告も今となっては悲しいばかりである。
偶然だが、昨日と今日の火野正平の「こころ旅」は佐用町。蟇蛙の妖術のように感応した感じで面白!]