佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その7)
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空の夕燒けが每日つづいた。けれどもそれはつい二三週間前までのやうな灼け爛れた眞赤な空ではなかつた。底には深く快活な黃色を匿してうはべだけが紅であつた。明日の暑さで威嚇する夕燒ではなく、明日の快晴を約束する夕榮であつた。西北の空にあたつて、ごく近くの或る丘の凹みの間から、富士山がその眞白な頭だけを現して、夕映のなかでくつきり光つて居た。俗惡なまで有名なこの山は、ただそのごく小部分しか見えないといふことに依つて、それの本來の美を保ち得て居た。この間うちまでは重なり合つた夕雲のかげになつて、それらの雲の一部か或は山かと怪しまれた西方の地平に連る灰黑色な一列は、今見れば、何處か遠くの連山であることが確かになつた。今日もまた無駄に費したといふ平凡な悔恨が、每日この夕映を仰ぐ度ごとに、彼にははげしく瞬間的に湧き上るのであつた。多分色彩から來る病的な感激を心がそれの意味に飜譯したのであつたらう。地の上の足もとを見ると、その足場である土橋の下を、渠の水が空を反映して太い朱線になつて光り、流れて居た。
[やぶちゃん注:「夕榮」「ゆふえい」。夕映え。定本では「夕映」に変えられているが、変える必要はないと私は思う。国立国会図書館の本書を読んだ馬鹿は落書きして(底本は落書きが酷い)これをわざわざ鉛筆で〈訂して〉いる。ここはより総体より感覚的な「明日の暑さで威嚇する夕燒ではな」い、「明日の快晴を約束する夕榮」を意味しているからである。
「多分色彩から來る病的な感激を心がそれの意味に飜譯したのであつたらう。」ややこなれの悪い表現で、佐藤も定本では「多分、色彩といふものが誘ふ感激が、彼の病的になつて居る心をさういふ風に刺戟したのであつたらう。」(「居る」は「ゐる」であるが、「ゐ」を底本では殆んど出さない佐藤を慮って恣意的に「居る」にした)となってすんなりと読める。]
田の面には、風が自分の姿を、そこに渚のやうな曲線で描き出しながら、ゆるやかに蠕動して進んで居た。それは凉しい夕風であつた。稻田はまだ黃ばむといふほどではなかつたけれども、花は既に實になつて居た。さうして蝗がそれらの少しうな垂れた穗の間で、少しずつ生れ初めて居た。蛇莓といふ赤い丸い草の實のころがつて居る田の畦には、彼の足もとから蝗が時折飛び跳ねた。すると彼の散步の供をして居る二疋の犬は、より早くそれを見出すや否や、彼等の前足でそれを押し壓へると、其處に半死半生で橫はつて居る蝗を甘さうに食つてしまつた。彼等の一疋はそれを見出す點で、他の一疋よりも敏捷であつた。しかし、前足を用いて捉へる段になると、別の一疋の方が反つて機敏であつた。又一疋の方はとり逃がした奴を直ぐあきらめるらしかつたけれども、他の一疋はなかなか執拗に稻田のなかまで足を泥にふみ込んで追ひ込む。彼等にもよく觀れば各違つた性質を具へて居るのが彼を面白がらせ、且つ一層彼等を愛させた。稻の穗がだんだん頭を垂れてゆくにつれて、蝗の數は一時に非常に殖えて居た。犬は自分からさきに立つて彼を導くやうにしながら田の方へ每日彼を誘ひ出した。彼の目の前の蝗を見ると、時々、それを捉へて犬どもに食はせてやりたくなつた。それで指を廣げた手で、その蟲をおさへやうとした。犬どもは彼等の主人がその身構へをすると主人の意志がわかるやうになつたと見えて、自分の捉へかかつて居るのを途中でやめて、主人の手つきを目で追うて、主人の獲物が與へられるのを待つて居るのであつた。けれども彼は大てい五度に一度ぐらゐよりそれを捉へることが出來なかつた。ただ揉ぎとれた足だけを握つて居たりした。彼は蟲を捉へるには、それに巧でない方の犬にくらべてもずつと下手であつた。それにも拘はらず、犬どもはそんな事にまで主人の優越を信じて、主人を信賴して居るらしかつた。さうして、彼が蟲をとり逃がした空しい手をひらいて見せると、犬どもは訝しげに、主人の手の中と主人の顏とをかはるがはる見くらべて、彼等は一樣にその頭をかしげ、その可憐に輝く眼で彼の顏を見上げた。それがさも主人のその失敗に驚き失望して居る樣であつた。彼等犬には、實に豐な表情があつた!彼等は幾度もその徒らな期待の經驗をしながらも、矢張り自分達よりも主人の方が蟲を捉へるにでも偉い筈だといふ信念を、決して失はぬしかつた。彼の蝗を捉へようとする身構と手つきとを見る每に、彼等は彼等自身が既に成功して居るも同然な蟲を放擲して、主人の手つきを見つめたまま、何時までも其の惠みを待ちうけて居るのであつた。彼は空しくひろげた掌で、失望して居る犬どもの頭を愛撫して居た。犬はそれにでも滿足して尾を振つた。彼には、それが――犬どもの無智な信賴が、またそれに報ゆることの出來ない事が、妙に切なかつた。彼が人間同士の幾多の信賴に反いて居ることよりも、この純一な自分の歸依者に對しての申譯なさは、彼には寧ろ數層倍も以上に感じられた。彼は、彼等のあの特有な澄みきつた眼つきで見上げられるのが切なさに、遂には目の前の蝗を捉へようとする一種反射運動的な動作を試みないやうに、細心に努力するのであつた。
[やぶちゃん注:「田の面には、風が自分の姿を、そこに渚のやうな曲線で描き出しながら、ゆるやかに蠕動して進んで居た」火野正平はNHKの「こころ旅」でこれを『風のあしあと』と呼んでいる。謂い得て妙だ。
「蝗」「いなご」。直翅(バッタ)目バッタ亜目イナゴ科 Catantopidae のイナゴ亜科 Oxyinae・ツチイナゴ亜科 Cyrtacanthacridinae・フキバッタ亜科 Melanoplinae に属するイナゴ類の総称。但し、バッタ科 Acrididaeni に属させ、イナゴ亜科 Catantopinae とする場合もある。
「蛇莓」「へびいちご」。バラ目バラ科バラ亜科キジムシロ属ヘビイチゴ Potentilla hebiichigo。本書刊行当時はヘビイチゴ属に分類され、Duchesnea chrysanthaとされていたはずである。
「甘さうに」「うまさうに(うまそうに)」。
「各」「おのおの」。
「揉ぎとれた」「もぎとれた」。但し、「揉」は「揉(も)む」であって、この「もぎとる」に当てるのは誤りである。定本では「毮(も)ぎとれた」とするが、この「毮」は「毮(むし)る」で動作意義としてはやはりおよそ当該しない漢字と思う。厳密にはやはり「捥ぎとれた」が正しい。
「巧」「たくみ」。
「徒らな」「いたづらな」。
「身構」「みがまへ」。]
何日か、彼自身で手入れをしてやつた日かげの薔薇の木は、それに覆ひかぶさつて居た木木の枝葉を彼が刈り去つて、その上には日の光が浴びられるやうになつた後、一週間ばかり經つと、今では日かげの薔薇ではないその枝には、初めて、ほの紅い芽がところどころに見え出した。さうして更に、その兩三日の後には、太陽の驚くべき力が、早くもその芽を若々しい葉に仕立てて居た。しかし、彼は顏を洗ふために井戶端へは每朝來ながら、何時しか、それらの薔薇の木のことは忘れるともなくもう全く忘れ果てて居た。
[やぶちゃん注:「何日か」「いつか」。
「日かげの薔薇の木は」定本ではこの「薔薇」にわざわざ『さうび』(新潮文庫原本は『そうび』)とルビしてある。これは即ち、我々は基本、本作の「薔薇」を常に「さうび」と音読みすることを原則とすることを佐藤はここで再確認していると言わねばならない。現在、本作の定本を黙読している恐らく九十九%の読者は知らず知らずのうちに心内で「薔薇」を「ばら」と読んでしまっていると私は推定する。それは現に慎まねばならぬということである。]
圖らずも、ある朝――それは彼がそれの手入れをしてやつてから二十日足らずの後である。彼は偶然、それ等の木の或る綠あざやかな莖の新らしい枝の上に花が咲いて居るのを見出した。赤く、高く、ただ一つ。――「永い永い牢獄のなかでのやうな一年の後に、今やつと、また五月が來たのであろうか!」その枯れかかつて居た木の季節外れな花は、歡喜の深い吐息を吐き出しながら、さう言ひたげに、今四邊を見まはして居るのであつた。秋近い日の光はそれに向つて注集して居た。おお、薔薇の花。彼自身の花。「薔薇ならば花開かん」彼は思はず再び、その手入れをした日の心持が激しく思ひ出された。彼は高く手を延べてその枝を捉へた。そこには嬰兒の爪ほど色あざやかな石竹色の軟かい刺があつて、輕く枝を捉へた彼の手を輕く刺した。それは、甘える愛猫が彼の指を優しく嚙む時ほどの痒さを彼に感じさせた。彼は枝をたわめてそれを彼の身近くひき寄せた。その唯一の花は、嗟! 丁度アネモネの花ほど大きかつた。さうしてそれの八重の花びらは山櫻のそれよりももつと小さかつた。それは庭前の花といふよりも、寧ろ路傍の花の如くであつた。然もその小さな、哀れな、畸形の花が、少年の唇よりも赤く、さうして矢張り薔薇特有の可憐な風情と氣品とを具へ、鼻を近づけるとそれが香さへ帶びて居るのを知つた時彼は言ひ知れぬ感に打たれた。悲しみにも似、喜びにも似て何れとも分ち難い感情が、切なく彼にこみ上げたのである。そは丁度、あの主人に信賴しきつて居る無智な、犬の澄み耀いた眼でぢつと見上げられた時の氣持に似て、もつともつと激しかつた。譬へば、それはふとした好奇な出來心から親切を盡してやつて、今は既に全く忘れて居た小娘に、後に端なくめぐり逢うて「わたしはあの時このかた、あなたの事ばかりを思ひつめて來ました」とでも言はれたやうな心持であつた。彼は一種不可思議な感激に身ぶるひさへ出て、思はず目をしばたたくと、目の前の赤い小さな薔薇は急にぼやけて、夏の眼がしらからは、淚がわれ知らずにじみ出て居た。
[やぶちゃん注:「石竹色」「せきちくいろ」。石竹(ナデシコ目ナデシコ科ナデシコ属セキチク Dianthus chinensi)の花のような淡い赤い色の色名。
「嗟!」「ああ!」。感嘆符の下の一字空けはママ。底本では疑問符や感嘆符の後の字空けがなかったりあったりして統一がとられていない。
「アネモネ」キンポウゲ目キンポウゲ科イチリンソウ属アネモネ Anemone coronaria。一般的なアネモネの花径は六~十センチメートルである。
「端なく」副詞で「何のきっかけもなく事が起こるさまを指し、「思いがけなく・偶然に」の意。]
涙が出てしまふと感激は直ぐ過去つた。併し、彼はまだ花の枝を手にしたまま呆然と立ちつくし、心のなかの自分での會話を、他人ごとのやうに聞いて居た。
「馬鹿な、俺はいい氣持に詩人のやうに泣けて居る。花にか? 自分の空想にか?」
「ふふ。若い御隱居がこんな田舍の人間性に饑えて御座る!」
「これあ、俺はひどいヒポコンデリヤだわい。」
[やぶちゃん注:「田舍の人間性」底本では「田舍人間性」で、絶対のおかしいとは言えぬものの、まず脱字と勘ぐる。定本では「の」が入っている。読者の躓きを排するために敢えて定本に従って挿入した。
「ヒポコンデリヤ」hypochondria。ヒポコンデリー(但し、英語をカタカナ音写するなら「ハァィパァカァンドゥリィア」で全然、異なる。私はこれは「ヒステリー」と似た発音に強引にした和製英語で、中にはこれは男性の「ヒステリー」を示す用語だと真顔で誤認講釈する者もいるから性質(たち)が悪い語である)。心気(しんき)症。(医学用語としては正確には“hypochondriasis”)心気症とは、身体の徴候や自覚症状の誤った解釈などによって、病気に罹患しかけている或いは罹患してしまったという思い込みと不安が持続し、それが著しい精神的苦痛や器官機能の見かけ上の不全や障碍症状を呈しているかのように見える精神障害を指す。所謂、心身症(psychosomatic disease)はその対義的疾患と言ってよい。即ち、心身症の方は、精神の持続的緊張や強いストレスを主要因として、器質的身体的な具体的疾患や障碍が実際に発生・発現する、身体疾患様病態を呈する心因原性の身体疾患を呈する障碍疾患を指す。]
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