「想山著聞奇集 卷の貮」 「神物の靈驗にて車に曳れて怪我なかりし事」
神物の靈驗にて車に曳れて怪我なかりし事
[やぶちゃん注:絵馬の左キャプションを電子化してみるが、大学時分、図書館学の古文書読解の資料特論をよくサボった罰か、一部は自信がなく(本文五行目は二人の教え子の助言を得てやっと確定出来たが、本文六行目は彼らもお手上げで、今の判読にはどうも自信がない)、最後の奉納次第の添書きには判読出来ない箇所がある(これは字が小さくしかも潰れていて物理的に判読がし難い。それでもかなり強引に判読して判読不能字(□)を一字まで減らしてはある)。判読の誤りや判読不能箇所の読みがお判りになる方の御教授を切に乞うものである。
元祿五年申八月十四日
祭禮之節七町目にて
五郎左衞門悴八三郎七才之者
九町目吹貫の車ニひかれ足
さきよりあばらをかけひかれ
候後に頭赤く惟にそけてその
かをすりむかれ候得共けがなく
たすかり申候義
八幡宮御利生ひとへニ難有奉存候
依之則爲御禮此繪馬拵江九月朔日ニ
かくたてまつる者也
元祿五年申九月朔日
八町目
九郎衞門悴
五郎左衞門
左右衞門
此御神事にあたりて御利生ありし
志なし年を經直廢せむ事を惜此處
に於乃御入爲寄進を奉候ものなり
天保十一庚子年
小網町□
八月
駿河屋平兵衞
原復
「元錄五年」は壬申(みずのえさる)で「八月十四日」はグレゴリオ暦一六九二年九月二十四日。これが事件の起こった正確な日付である。
「吹貫」は「ふきぬき」と読み、江戸の祭礼の山車(だし)の古形の一形態。本来は竹などを曲げて弓のような形にした竿の先に長い布を旗のように付けた馬印、所謂、戦旗の一種であったものが祭りの練り物に転じたもの。ウィキの「江戸型山車」によれば、『二輪の台車に立てて据え付け、牛に引かせるようにした』山車で、『外観は車の上に一本の柱が立ち、その柱の上のほうに大きな吹貫を付け、柱の先端には人形等の飾り物を』が飾られたとあり、この図のそれとよく一致する。但し、『この形式の山車は後に江戸で用いられることはほとんどなくなってしまったが、江戸で古くからある町といわれる大伝馬町と南伝馬町は、明治に至るも同じ内容の吹貫型の山車を山王祭と神田祭の双方に出していた』とある。
「足」「さきよりあばらをかけひかれ」
――「足」「前」(あしさき)「より」〔:から。〕「あばら」【肋(あばら)】「を」「かけ」【驅(か)け:或いは「掛け」「懸け」で車輪にひっ「かけ」ともとれなくもない。】)「ひかれ」【轢(ひか)かれ】」――
この「足」は、前行末で断定の助動詞「たり」として切って読むことも可能だが、そうすると次行の「さきより」が語として落ち着かなくなる。
「かけひかれ」「候後に頭赤く惟にそけてその」「かを」
――【驅け轢かれ】「候後に」(さふらふのちに)《その》「頭」(かしら)「赤く」「惟に」(ただに:無暗に。かなり広く。)「そけて」【削(そ)げて】「その」「かを」【顏】――
困った。「惟にそけてその」の部分が実は全く自信がない。全く違う文字列かも知れぬ。当初、私も教え子らも「帷子」(からびら)と読んだのであるが、それではしかし、直下の文字列がどう読み換えて見ても続かないように思われるので、以上を敢えて掲げた。「帷子」で続いた方がシチュエーションの解説としては豊かになるのであるが……。
「かをすりむかれ候得共けがなく」
――「かを」【顏】《を牛車或いは地面に》「すりむかれ」【擦り剝かれ】「候得共」(さふらえども:歴史的仮名遣でも多くの字下文書がこのように訓じている。)「けがなく」【怪我無く】――
「志なし」苦しいが――「利生」(りしやう(りしょう)」を「神」さまが「志(こころざし)成し」呉れたこと――という名詞節で読んだ。
「年を經直廢せむ事を惜」「としをへ」、「直」(ぢき)《に》「廢」(はい)「せむ事」(こと)「を惜」(をしみ)。
「於乃」「おいてすなはち」と読んだ。但し、この「に於乃御入爲」の文字列全体がトンデモ判読かも知れぬ(実は、自分で最終的に「御入爲」と当てながら、文字列自体がこれでは読めない。「御入用」かとも思ったが、どうも崩し方が「用」のとは思われない)。平に識者の御教授を乞う。
「小網町□」最後は「中」か「内」かも知れぬ。下部の左右の広がり方からは「内」か?
「原復」当初、「原振」と判じたが、これでは判じ物になってしまい、だめだ。本文によれば、古びた絵馬の廃絶を歎いて、「駿河屋平兵衞」が修復したものなのだから、これは「原復」(原(もと)に復(ふく)す)と書いてあるのではなかろうか、と勝手に推理して判読した。大方の御叱正を俟つものではある。
「天保十一庚子年」一八四〇年。同年は庚子(かのえね)で正しい。]
江戸芝(しば)三田(みた)の八幡宮は田町七町目に在(ましまし)て、近邊の土産神(うぶすな)なり。社傳に云(いふ)。祭神は應神天皇御長一尺三寸六分、弘法大師の作、仲哀天皇御長一尺一寸五分、傳教大師の作、神功皇后御長一尺四寸五分、同作、並(ならび)に天児屋根命(あめのこやねのみこと)[やぶちゃん注:「児」は底本のママ。]・武内宿禰(たけのうちのすくね)との五座にして、人皇四十三代元明天皇の御宇、此地に鎭座ましくて、其頃は勅願の大社にて、奉幣使なども度々下向有(あり)し社地にて、延喜式内の薭田(ひえだ)の神社なりといへり。元祿年中、祭禮の節、五郎左衞門といふ者の子、過ちて祭禮の牛車(ぎつしや)に曳(ひか)れたれども、怪我もなかりしとて、靈驗の事を繪馬となし、かの八幡の社に掲(かかげ)て在(あり)しが、近頃は堂内にも見えざるまゝ、如何成(いかになり)しぞと別當所にて【別當は天台宗にして眺海山無量院といふ。】懇(ねんごろ)に尋ね索(さぐ)りければ、其繪馬は古く成(なり)て損ぜし故、仕舞置(しまいおき)たりとの事故、乞(こひ)て其圖を寫來(うつしきた)り、縮寫(しゆくしや)してこゝに載す。此繪馬に有(ある)七町目とは、芝田町の七町目の事にて、則ち、八幡の社ある町内にて、九町目は高輪(たかなは)へ出(いづ)る所の町也。今に始めぬ事なれども、惣(すべ)て神佛の靈驗は人智の及ぶ事に非ず。仰(おほす)も愚(おろか)なる事也。此繪馬、今に廢絶して、神德の諸人へ傳(つたは)らざらんことを歎きて、同所九町目に住(すめ)る駿河屋平兵衞【程なく小網町へ轉宅す。】と云者に語りしに、同人驚(おどろき)て、忽(たちまち)、修復を加へ、今は又、拜殿に掲て數百年に傳ふる基(もとい)とはなりぬ。呉々(くれぐれ)も神德の靈妙、恐入(おそれいり)たる事也。【此御神の靈驗の事、廿五の卷にも記し置(おき)ぬ。】
[やぶちゃん注:この絵馬……もう……ないんやろうか?……あったら見たいなあ……
「江戸芝三田の八幡宮は田町七町目に在(ましまし)て、近邊の土産神(うぶすな)なり」現在の東京都港区三田三丁目七番にある御田(みた)八幡神社。ここ(グーグル・マップ・データ。但し、地図上には神社名はない)。公式サイトはこちら。縁起や祭神の確認はこちらでどうぞ。ウィキの「御田八幡神社」もリンクさせておく。
「一尺三寸六分」四十二・七センチメートル。
「一尺一寸五分」三十四・八センチメートル。
「一尺四寸五分」四十八・七センチメートル。
「天児屋根命」春日権現・春日大明神と同じい。登場するポピュラーなシークエンスとしては、天照大神の「岩戸隠れ」の時、岩戸の前で祝詞(のりと)を唱え、大神が岩戸を少し開いた際に太玉命(ふとだまのみこと)とともに鏡を差し出している。また、天孫降臨の際には瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴しており、「古事記」では中臣連(なかおみのむらじ)の祖となったと記す。名前の「こやね」は「小さな屋根の建物」の意で、託宣神の居所のことと考えられている。
「人皇四十三代元明天皇の御宇」女帝。在位は慶雲四(七〇七)年~和銅八(七一五)年。
「薭田(ひえだ)の神社」公式サイトの由緒に和銅二(七〇九)年『牟佐志国牧岡(むさしのくにまきおか)というところに、東国鎮護の神様として鎮祀され、延喜式内稗田神社と伝えられた』とある。但し、同名の神社については東京都大田区蒲田に薭田(ひえた)神社が現存し、ウィキの「稗田神社」の記載では「延喜式」の同じものを引いてある。話の本筋とは無縁であり、興味もないので、どちらが本物かは考証しない。悪しからず。
「別當は天台宗にして眺海山無量院」不詳。但し、いつもお世話になっている松長哲聖氏のサイト「猫のあしあと」の「御田八幡神社」(はっきり言って上の公式サイトやウィキなんぞよりも遙かに知見するところが多い)を見ると、別当寺としてあったことが判る。しかし現存しない模様である。
「小網町」現在の東京都中央区日本橋小網町(こあみちょう)か。商売で成功したものか。
「廿五の卷にも記し置ぬ」以前に述べた通り、本書は五巻で板行は終り、残りは散逸して今に伝わらない。惜しむべし。後の「十四の卷」「八の卷」もみな同じ。]
又、是と同談有(あり)。上總國武射(むさ)郡芝山(しばやま)觀音寺は、往古は各別の佛閣にて、今も猶、衆人しり尊(たつと)む靈場にて、本尊觀世音菩薩幷二王尊は、靈驗新(あらた)なる事、世に勝れ給ひ、是又、衆人の能(よく)知(しる)所なり。此寺に三層の塔を建立するとて、享和元年【癸亥(みづのとゐ)】の春の事なりしが、遠近(をちこち)の男女(なんによ)、競(きそひ)て材木を曳集(ひきあつ)む。此時、就中(なかんづく)、大材を伐出(きりいだ)し、數人(すにん)蟻の如くに囲繞(ゐねう)して、曳々聲(えいえいごゑ)を出して引來(ひききた)りたり。元來、此木は天狗の惜みたる由來の有(あり)て、その天狗、腹立(はらだち)してなせし怪(くわい)にや、此(この)車、俄(にはか)に群集の中を馳出(かけだ)して止まらず。人々驚きて迯除(にげのき)たれども、同國高田と云(いふ)所の金兵衞父子、小池郷の藤藏(たうざう)の母、中澤村の茂惣次(もさうじ)と云もの都合四人迄倒れて、車(くるま)其上を引割(ひきわり)たり。四人共、身躰(からだ)悉く粉(こ)のごとく成(なる)べきに、不思議や、衣服のみ斷々(だんだん)と破裂して、其身は何(いづ)れも怪我もなく、少しの痛(いたみ)もなくて恙なかりしと也。金兵衞にや、茂惣次にや、博多縞の帶を〆(しめ)て居(をり)たりしに、其帶は引(ひき)きれたりとの事も、追(おつ)て誰(たね)にか慥(たしか)に聞(きき)たり。是は江戸赤坂中通りの質屋與兵衞と云(いふ)者、かの近郷の生れのものにて、其時の形勢(けいせい)よくしり居(をり)て語りしを前の八幡宮の靈驗と全く同樣と思ひ、能(よく)聞取置(ききとりおき)しなり。此事、かの寺の略緣起にも記しあれども、今少し、事(こと)麁(そ)なる[やぶちゃん注:雑な感じである。]樣に思ふ故、具(つぶさ)に記し置ぬ。且、緣起には二王尊の擁護にやとあれども、予は觀音の妙智力とは此(この)事かと思ふなり。【本尊は十一面觀音にして慈覺大師の作。祕佛、又、前立(まへだち)も同作の觀音にて、三十三年目に一度づゝ開扉(かいひ)有(あり)となり。】しかれども、此二王尊は怪變奇異なる靈驗をなし給ふ事、少なからず。猶、十四の卷にも、此二王尊の靈驗の事を記し置(おく)。八の卷、太宰府の飛梅、不思議を顯す條にも、此二王尊靈驗の事、記し置たり。左すれば二王尊の擁護にや、何にもせよ、現妙感(かんじ)奉るも中々あまり有(ある)事也。
想山著聞奇集卷の貮 終
[やぶちゃん注:「上總國武射郡芝山」現在の千葉県山武(さんぶ)郡芝山町(しばやままち)。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「觀音寺」現在の山武市松尾町山室に真言宗の観音寺があり(ここ(グーグル・マップ・データ))、また、近くの山武郡横芝町横芝にも同じ真言宗の観音寺があるが(ここ(グーグル・マップ・データ))、現在の芝山町には二つとも近いものの、ちょっと違う感じがした。そこで再度、調べ直したところ、千葉県山武郡芝山町芝山に天台宗の通称で「芝山仁王尊」と称する天應山観音教寺福聚院なる寺が見出された(ここ(グーグル・マップ・データ))。同寺公式サイトの解説によれば、この寺は本尊が十一面観世音大菩薩で、その脇士(脇侍芝に同じ)芝山仁王尊とし、関東天台旧制伴頭拝領寺院とある。由緒ある寺(本文「往古は各別の佛閣」。公式サイト解説には、『徳川幕府の庇護の下、十万石の格式を持つ伴頭拝領寺として関東天台の中核をなす寺院となりました。特に火事泥棒除け・厄除けの仁王尊天として大江戸の庶民の信仰を集め、いろは「四十八組」の町火消が纏を先頭に競って参詣したと伝えられます』。『現在でも有名な新門辰五郎の旧「を組」の記念碑が境内に建っており、その信仰が今日迄連綿として伝えられている事が分ります』とある)で仁王(本文「二王」)で完全に一致する。「觀音寺」と「観音教寺」の違いはあるが、三重塔も現存するから間違いなく、ここである。同公式サイトによれば、観音教寺の前史は、創建が天応元(七八一)年とされ、それが山号の由来とし、「日本年代記」によれば光仁天皇の宝亀一一(七八〇)年の正月、『平城京が雷火に襲われ、皇室擁護の寺院が多く焼失したので、諸国に命じて新たに仏寺を建立せしめたとあり』、『丁度その時、征東大使として蝦夷平定の任にあった中納言藤原継縄』(つぐただ 神亀四(七二七)年~延暦一五(七九六)年)『がこの布令の下に当地に寺院を建立し、御本尊として奉持して来た十一面観世音大菩薩を奉安したのが、当寺の始まりであると伝えられて』いるとする。その後、天長二(八二五)年に、『後に第三代天台座主となった慈覚大師円仁により中興され、次第に甍の数を増やし、近隣に八十余宇の子院を置くに至ったと伝え』その後の治承年間(一一七七年~一一八一年)には『千葉介平常胤の崇敬を受け』て、多くの寄進がなされ、『永く祈願所として栄え』たが、『秀吉の小田原攻めの影響を受け、当山も全山灰土と化したと伝えられ』るとある。
「三層の塔」公式サイトの境内案内を見られたい。公式サイトでは、『軒廻りは、初重・二重共並行垂木ですが、三重は扇垂木で、屋根を大きく見せる工夫が為されております』とあり、『三間四方、軒高は、初重』が四・六〇メートル、二重目が九・〇五メートル、三重目が十三・二八メートルで、『総高(側柱礎石より相輪宝珠上端まで)』二十四・九八メートルとあり、写真を見てもなかなかな荘厳(しょうごん)である。
「享和元年【癸亥】」誤り。「享和元年」(一八〇一年で寛政十三年から改元)は辛酉(かのととり)で違う。「癸亥」なのは享和三(一八〇三)年である。「元」は「三」の誤記ではないか? 但し、公式サイトの解説によると、この塔、そう簡単に完成していないことが判る。まず、もともと原三重塔があったらしいが、それはなくなり(原因は書かれていないので不明。焼亡か)、寛政九
(一七九七)年にその再建を当時の第四十二世住持が発願し、文化一一(一八一四)年の第四十四世の代に素建され、天保七(一八三六)年の第四十六世の代に『九輪完成と、実に五代の住職』四十『年に亘る大事業で』あったとあるから、ここに出るそれはまさにこの塔の再建事業の初期の出来事であることが判る。
「曳々聲(えいえいごゑ)」「ひきびきこゑ」では何となくしょぼい。但し、ここでの意味は「エンヤコラ! エイ! エイ!」という「力を込めて曳(ひ)くためのかけ声」ではあろう。「曳曳(えいえい)」と言う熟語自体は存在するが、この意味は声などを「長くひくさま・のびやかなさま」であって、これでは、またしても「曳く」力が一向に入らず、しょぼいように思われる。
「同國高田」観音寺からは近いところでは、現在、同じ山武郡に芝山町に高田がある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「小池郷」現在の山武郡芝山町小池であろう。ここ(グーグル・マップ・データ)。
「中澤村」不詳。
「本尊は十一面觀音にして慈覺大師の作。祕佛、又、前立も同作の觀音にて、三十三年目に一度づゝ開扉有となり」「前立」(まへだち)は厨子などの中の本尊の前に安置される仏像のこと。秘仏などで公開が禁じられていたりする場合、参拝者が拝することのできるように代わりに据えたものである。公式サイトには「慈覺大師の作」とはなく、前に引いたように彼は中興であり、本尊はそれ以前からあったように読める。前立の観音も公式サイトにはない。
「此二王尊」公式サイトの境内案内によれば、現在、この仁王像は参道にある大きな仁王門(明治一五(一八八二)年完成)にある。通常の仁王は観音の門番として山門を通る際に拝むものであるが、この寺のそれは『畳の敷かれた堂内、内陣須弥壇の上にお祀りされている非常に珍しい』もので、『この理由は、お仁王様の霊験があまりにもあらたかであるので、観音様の化身と考えられ、仏様と同じように須弥壇の上お厨子の中にお祀りされるようになったと言い伝えられてい』るとある。ウィキの「観音教寺」によれば、平成一九(二〇〇七)年から二年に亙った仁王尊像の解体修理の際、この仁王像は嘉慶二(一三八八)年七月に建立されたもので仏師は備前阿闍梨阿闍梨幸信であり、応仁二(一四六六)年八月の大風で仁王尊像及び鐘楼門が被害を被ったこと、文明二(一四七〇)年に阿形像の方のみが解体修理され、永正一七(一五二〇)年には阿吽両像ともに解体修理がなされたことが判ったとある。]
« 譚海 卷之二 江戸三傳馬町天王由來の事 | トップページ | 佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その6) »