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2017/05/21

柴田宵曲 續妖異博物館 「樹怪」

 

 樹怪

 

 上總(かづさ)國大久保といふところには樹の化物が出る。山の裾野で片側は田に續いた道のほとりに、大木が澤山生えて居るが、夜おそくこゝを通りかゝると、大きな木がいくつともなく道に橫たはつて、容易に通りがたいことがある。さういふ時には心得てあとへ下り、暫くしてから行きさへすれば、前の木は皆消え失せ、常の道になつて何の障害もない。木の倒れてゐる時に無理に通らうとすると、必ずよくない事があると「譚海」に見えてゐる。昔のやうに照明の乏しい時代には、夜道を步いて行く場合に、急に目の前に川が出來たり、垣根が道を遮つたりすることがある。平生ある筈のないところにそんなものが出來たら、暫時瞑目して心をしづめ、それから步き出した方がいゝと老輩から聞かされた。大久保の樹怪も多分その類であらう。

[やぶちゃん注:以上は「譚海 卷之八」に出る「上總國大久保に樹の化物出る事」。□は欠字。

   *

上總國大久保と云所には、樹の化物出るなり。山のすそのにて、かたそばは田につゞきたる道のほとりに大木あまた生て有、此道を深夜に人過る時、大なる木いくらともなく道に橫たはりふして、一向通りがたき事每年有。是に行あふ人は、いつも心得て跡へしりぞき、しばらく有てゆく時は、先の木ども皆々うせて、常の道の如く成て往還にさはる事なし。木のたふれふしたる時、無理にこえ過んとすれば、必あしき事有といひつたへたり。又同国□□といふ所にもあやしき事ありて、夜行には時々人のなげらるる事あり、狐狸の所爲にや、こゝろえぬ事なり。

   *]

 

 樹自身に靈があるのか、他の妖が樹を動かすのかわからぬが、老樹の怪をなす話は屢々ある。上元中、臨淮の諸將が夜集まつて宴を張り、猪肉羊肉を炙り、香ばしい匂ひを四邊に漲らせて居ると、突然大きな手が窓から差込まれた。肉を一片貰ひたいといふのである。誰も與へずにゐたところ、頻りに同じ要求を繰り返すので、ひそかに繩を以て輪を作り、手を差込む穴のところにあてがつて置いて、それぢや肉をやらうと云つた。再び差込まれた手はこの繩に括られ、どうしても脱けることが出來ぬ。夜が明けてからよく見たら、大きな楊の枝であつた。乃ちこれを切り、その樹を求めて近い河畔に發見し、根本から伐り倒してしまつたが、その際多少の血を見たさうである(廣異記)。

[やぶちゃん注:「臨淮」(りんわい)は現在の江蘇省宿遷市泗洪(しこう)県の南東部に相当する。唐朝(七〇四年)に県として設置された。の辺り(グーグル・マップ・データ)。

 以上は「廣異記」の「卷七」の「臨淮將」。

   *

上元中、臨淮諸將等乘夜宴集、燔炙豬羊、芬馥備至。有一巨手從窗中入、言乞一臠、眾皆不與。頻乞數四、終亦不與。乃潛結繩作彄、施於孔所、紿云、「與肉。」。手復入。因而繫其臂、牽挽甚至、而不能。欲明、乃仆然而斷、視之、是一楊枝。持以求樹、近至河上、以碎斷、往往有血。

   *]

 

 郭代公の常山の居で、夜中に忽然として見知らぬ人が現れた。盤のやうに平たい顏で、燈下に出たせゐか、大きな目をぱちぱちさせてゐる。公は少しも恐れず、おもむろに筆を染めて「久戍人偏老。長征馬不肥」の十字をその廣い頰に題し、自らこれを吟じてゐると、怪しい男の姿は自然に消えてしまつた。四五日たつて公が山中を步いてゐた時、巨木の上に大きな白い耳のやうなものがあつて、そこに例の題句が記されてゐるのを發見した。先夜の妖はこの木だつたのである。盤のやうに廣い顏の謎もこれで解けた(諾皐記)。

[やぶちゃん注:「郭代公」東洋文庫版「酉陽雑俎」の今村与志雄氏の割注によれば、郭元振とある。これは郭震(六五六年~七一三年)で盛唐の詩人で政治家。

「常山」これは柴田の「嘗」(かつて:以前に)の判読の誤り

「久戍人偏老。長征馬不肥」訓読すれば、

 久しく戍人たり 偏へに老ゆ

 長征の馬 肥えず

で今村氏は『ながき守りに人老いて』『厭世の馬やせにけり』と訳しておられる。

「大きな白い耳のやうなもの」今村氏の「白耳」の注には『きのこの一種。あるいは木耳(きくらげ)の一種か』とある。

 以上は「酉陽雜俎」の「卷十四」の「諾皐記」にある以下。

   *

郭代公嘗山居、中夜有人面如盤、寅目出於燈下。公了無懼色、徐染翰題其頰曰、「久戍人偏老、長征馬不肥。」公之警句也。題畢吟之、其物遂滅。數日、公隨樵閒步、見巨木上有白耳、大如數斗、所題句在焉。]

 

 深夜に異樣なものが窓から手を差出す話は他にもある。少保の馬亮公が若い時分、燈下に書を讀んでゐると、突然扇のやうな大きな手が窓から出た。公が問題にせぬので、手はいつか見えなくなつたが、次の晩も同じやうな手が出た。今度は朱筆を執つてその手に自分の書き判をしるしたところ、手の持ち主は引込めることが出來ぬらしく、大きな聲で脅かすやうに洗つてくれと叫び出した。公が寢てしまつてからも、叫ぶ聲は續いてゐたが、明方近くなつてはさすがに聲が弱り、歎願の調子に變つて來た。何だか可哀さうになつて、水で洗つてやつたら、手は次第に縮んで遂に見えなくなつた。

 

「異聞總錄」にあるこの手なども、前の例を以て推せば、やはり樹怪の惡戲らしく思はれる。倂し馬亮公は肝腎の花押(かきはん)を洗ひ去つたのだから、後にこの木にめぐり合つても、それと斷定することは困難だつたかも知れぬ。

[やぶちゃん注:以上は「異聞總錄」(宋代の作者未詳の志怪小説集)の「卷之三」の以下。

   *

馬少保公亮少時、臨窗燭下書、忽有大手如扇、自窗欞穿入。次夜又至、公以筆濡雄黃水、大書花押、窗外大呼、「速爲我滌去、不然、禍及於汝。」。公不聽而寢。有頃、怒甚、求爲滌去愈急、公不之顧。將曉、哀鳴、而手不能縮、且曰、「公將大貴、姑以試公、何忍致我極地耶。公獨不見溫嶠然犀事乎。」。公大悟、以水滌去花押、手方縮去、視之一無所見。

   *]

 

 臨瀨の西北に寺があつて、智通といふ僧が常に法華經を讀誦してゐた。寒林靜寂の地で人の來るやうな事はないのに、智通が住んで何年かたつた或晩、その院をめぐつて智通の名を呼ぶ者がある。曉に至ればおのづから聞えなくなるが、夜になるとまた呼ぶ。さういふことが三晩も續いたので、智通もたうとう我慢しきれなくなり、わしを呼ぶのは何用だ、用があるなら入つて來て言へ、と云つた。やがて入つて來たのは、六尺餘りの靑い顏をした男で、黑い着物を着てゐる。目も口も異常に大きいが、智通に向つて神妙に手を合せてゐる。その顏をぢつと見て、お前は寒いのか、それならこゝへ來て火にあたれ、と云つたら、しづかに燵のほとりに座を占めた。智通はまた誦經三昧に入る。五更に至つて顧みると、靑い男は爐の火に醉つたらしく、目を閉ぢ口をあいて、鼾をかきながら睡つてゐた。これを見た途端に智通は惡戲氣分になり、香匙(きやうじ)で爐の灰を掬つて、あいてゐる口の中に入れた。男は大いに驚いて、何か叫びながら駈け出した。閾のところで躓くやうな音がしたが、その姿は寺の裏山に消えた。夜が明けてから閾のところを見れば、一片の木の皮が落ちてゐる。智通はこれを袖に入れて裏山へ行つて見た。何里か行つたところに靑桐の大木があつて、その根に近い邊に新たに缺けたやうな跡が目に付いたから、例の皮をあてがつたらぴたりと合つた。幹の半ばぐらゐのところに深い疵のあるのが昨夜の男の口で、香匙で掬ひ入れた次が一杯になつて居り、火はなほ餘煙を保つてゐた。智通はこの木を伐り燒き棄てたので、それきり怪は絶えた(支諾皐)。

[やぶちゃん注:「臨瀨」原典の一本は「臨湍」とし、現在の河南省南陽市鄧州(とうしゅう)市。(グーグル・マップ・データ)。

「智通」未詳。

「五更」午前四時頃。

「香匙」香(こう)を掬う匙(さじ)。

「何里」原典の「酉陽雜俎」は唐代の作品であるから、当時の一里は五百五十九・八メートルであるから、三キロメートル前後。

 以上は「酉陽雜俎」の「續集卷一 支諾皋上」の第二話である。

   *

臨瀨西北有寺、寺僧智通、常持「法華經」入禪。每晏坐、必求寒林靜境、殆非人所至。經數年、忽夜有人環其院呼智通、至曉聲方息。歷三夜、聲侵戸、智通不耐、應曰、「汝呼我何事。可人來言也。」。有物長六尺餘、皂衣靑面、張目巨吻、見僧初亦合手。智通熟視良久、謂曰、「爾寒乎。就是向火。」。物亦就坐、智通但念經。至五更、物爲火所醉、因閉目開口、據爐而鼾。智通睹之、乃以香匙舉灰火置其口中。物大呼起走、至閫若蹶聲。其寺背山、智通及明視蹶處、得木皮一片。登山尋之、數裏、見大靑桐、樹稍已童矣、其下凹根若新缺然。僧以木皮附之、合無蹤隙。其半有薪者創成一蹬、深六寸餘、蓋魅之口、灰火滿其中、火猶熒熒。智通以焚之、其怪自絶。

   *]

 

 この話は石濤に附合されたりしてゐるが、何にしても石濤の時代は明末清初であるし、唐代の書に出てゐる以上、智通に讓るべきであらう。「廣異記」より「支諾皐」に至る一連の話は、山魈木魅(さんせうぼくみ)に類する怪である。山中蕭散の地に置かなければその妙を發揮しにくいけれど、彼等が人間に近付かうとした迹に、共通性のあるのが吾々には面白い。

[やぶちゃん注:「石濤」(せきとう 一六四二年~一七〇七年)は清初に活躍した遺民画人。俗称は朱若極、石濤は字で、後に道号とした。明王室の末裔に当たる靖江王府(今の広西チワン族自治区桂林市)に靖江王家末裔として生まれた。高僧で名画僧として知られる。黄山派の巨匠とされ、その絵画芸術の豊かな創造性と独特の個性の表現により、清朝第一の傑出した画家に挙げられる人物(以上はウィキの「石濤に拠った)。

「山魈木魅(さんせうぼくみ)」山中の妖怪・精霊である魑魅魍魎の一群の別称。「山魈」(現代仮名遣「さんしょう」)は狭義には一本足で、足首の附き方が人間とは反対に後ろ前になっており、手足の指は三本ずつとする。男は「山公」、女は「山姑」と称し、人間に会うと山公は銭を、山姑は紅・白粉を要求する。嶺南山中の大木の枝の上に住み、木で作った囲いに食料を貯え、虎を操り、要求物を呉れた人間は虎が襲わないようにしたりするという。「木魅」は所謂、「木霊(こだま)」の妖怪化である。

「蕭散」静かでもの淋しいこと。]

 

 かういふ樹怪の存在は山中に限つたわけでもない。元和中、崇賢里の北街の大門外に大きな槐の樹があり、黃昏にこれを望めば、恰も外を窺ふ婦人のやうに見えた。孤犬老烏の類が屢々樹中に飛び入るのを怪しみ、伐り倒して見たところが、中から嬰兒の死體が發見されたと「諾皐記」にある。これなどは市中の大樹であるだけに、山魅木魅よりも却つて氣持が惡い。何でその槐が婦人のやうに見えたかわからぬが、似たやうな事はあるものらしく、江戸時代にも京都の御靈社内の椋の木が十八九の娘の形に見えるといふので、「文化祕筆」などにはその畫を入れ、側へ寄れば常の木の姿である、夜分に東へ三町ほど行つて見れば、顏の樣子、髷や髱の工合、帶の風までうるはしく、凄いほどに見える、大坂から夕涼みがてら見物に來る人が多いとあつて、その連中の詠んだ狂歌まで載せてゐる。一方は黃昏、一方は夜分で、こんもり茂つた木の形が女のやうに見えるのであらう。「諾皐記」の方はまだ若干の妖味があるが、「文化祕筆」の方は物數寄な納涼者を驅り出した外、格別の話もなかつたやうである。

[やぶちゃん注:これも次の段も、所謂、心霊写真の多くを占める単なるシミュラクラ(Simulacra)現象に過ぎぬ。

「元和」八〇六年~八二〇年。

「崇賢里」長安城内の坊里の一つ。

「京都の御靈社」現在の京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪(たてまち)町にある上御霊(かみごりょう)神社か。下御霊神社ならば京都府京都市中京区寺町通丸太町下ル下御霊前町。

「髱」は「たぼ」或いは「つと」と読む。襟足に沿って背中の方に張り出した後ろ髪の部分。たぼがみ。たぶ。関西では「つと」と称するのでここはその方が正しいであろう。

 前述のそれは「酉陽雜俎」の「卷十五 諾皐記下」の以下。

   *

有陳朴、元和中、住崇賢里北街。大門外有大槐樹、朴常黃昏徙倚窺外、見若婦人及狐大老烏之類、飛入樹中、遂伐視之。樹三槎、一槎空中、一槎有獨頭慄一百二十、一槎中襁一死兒、長尺餘。

   *

「文化祕筆」は以前に述べた通り、所持しないので提示出来ない。]

 

 晉の劉曜の時、西明大の内の大樹が吹き折れて、一晩たつたら人の形に變じた。髮の長さが一尺、鬚眉の長さが三寸もあつて、それが皆黃白色である。兩手を歛(をさ)めたやうな形で、兩脚は裙のある著物を著た形であつた。たゞ目鼻だけがない。毎夜異樣な聲を發してゐたが、十日ばかりで枝を生じ、遂に大樹になつて繁茂したと「集異志」に見えてゐる。これは人の形に變じただけで、これといふ妖はなさなかつたらしい。「諾皐記」の槐も「文化祕筆」の椋も茂つたところが人に見えたのに、「集異志」の例は風に吹き折れた後の形であるのが變つてゐる。風に音を立てるのは樹木の常だから、毎夜聲ありといふだけでは、妖といふほどのことはないかも知れぬ。

[やぶちゃん注:「劉曜」(りゅうよう 二七五年頃~三二九年)五胡十六国時代の前趙(漢)の第五代皇帝。司馬炎によって建てられた王朝「西晉」(二六五年~三一六年)を漢の皇族として長安を攻略、西晋を滅ぼした。従ってこの「晉の劉曜の時」という言い方は誤りである。

「西明大」洛陽城南の西明門付近か。

「裙」「もすそ」。裳裾。

 以上の出典とする「集異志」は「集異記」か? しかし同書には見当たらない。「三國志」のサイトのにある以下が一致する内容である。「晉書」や清の劉於義の「陝西通志」に載る。

   *

西明門大樹風吹折、經一宿、樹撥變爲人形、發長一尺、鬚眉長三寸、皆黃白色、有斂手之狀、亦有兩著裙之形、惟無目鼻、每夜有聲、十日而生柯條、遂成大樹、枝葉甚茂。

   *

 

 大原佛寺に居る董觀といふ僧が、從弟の王生と共に南に遊び、山館に一宿した時、王生は已に眠り、董觀はまだ寢ずに居ると、燈下に何者か現れて燭を掩つた。その樣子は人の手のやうであるが指がない。注意して見れば燭影の外に何か居るやうなので、急に王を呼び起した。王が起きるとその手は見えなくなつたが、寢てはいかん、怪しい者がまた來るかも知れぬ、と云はれ、杖を持つて待ち構へた。暫くたつて何も現れぬので、王は怪しいものなんぞゐやしない、下らぬことを云つておどかしてはいけませんよ、と云つてまた寢てしまつた。漸くうとうとする時分に現れたのは、身の丈(たけ)五尺餘りの怪しい者、燭を掩ふやうにして立つたが、手もなければ目鼻もない。董は益々恐怖して王を呼び起したけれど、一度も怪しい影を見ない王は、腹を立てて起きようともせぬ。董は已むを得ず杖を揮つて一撃を食はせた。倂し先方の身體はまるで草のやうで、杖はずぶずぶ中に入つてしまふから、力の入れやうがない。とにかくこの一擊により、怪しい姿は見えなくなつたやうなものの、董はまた來ることを恐れ、明方まで一睡も出來なかつた。翌日になつて山館の役人を訪ひ、委細を話したところ、これから西數里のところに古い杉があつて、それが常に怪をなすといふことである、疑はしければ行つて御覽になつたら如何です、と云ふ。董と王は役人に案内して貰つて、そこまで出かけて見た。成程古い杉の木があつて、董の杖はその枝葉の間を貫いてゐる。役人は二人を顧みて、こいつが怪しいといふことは前から聞いてゐたのですが、これで譃でないことがよくわかりました、と云つた。三人はその場を去らず直ちに斧を執り、怪しい杉の木を伐り倒してしまつた。「宣室志」にあるこの話が今までと違ふのは、手を以て燭を蔽ふ點に在る。もし二人とも知らずにゐたら、更に第二段の惡戲に移ることは疑ひを容れぬ。

[やぶちゃん注:以上は「太平廣記」の「草木十一」に「董觀」として「宣室志」からとして載る以下。

   *

有董觀者嘗爲僧、居於太原佛寺。太和七年夏、與其表弟王生南遊荊楚、後將入長安。道至商於。一夕。舍山舘中。王生既寐、觀獨未寢。忽見一物出燭下、既而掩其燭。狀類人手而無指。細視、燭影外若有物、觀急呼王生。生起、其手遂去。觀謂王曰、「慎無寢、魅當再來。」因持挺而坐伺之。良久、王生曰、「魅安在。兄妄矣。既就寢。頃之。有一物長五尺餘。蔽燭而立、無手及面目。觀益恐、又呼王生。生怒不起。觀因以挺椹其首、其軀若草所穿。挺亦隨入其中、而力取不可得。俄乃退去。觀慮又來、迨曉不敢寢。明日。訪舘吏。吏曰、「此西數里有古杉、常爲魅、疑即所見也。」。卽與觀及王生徑尋、果見古杉、有挺貫其柯葉間。吏曰、「人言此爲妖且久、未嘗見其眞。今則信矣。」。急取斧、盡伐去之。

   *]

 

 以上の樹怪は種々の形を執つて居るが、いづれにしても人を驚かす程度で、人を害するやうなことはない。馬亮公にしろ、智通にしろ、反對に怪を苦しめてゐるくらゐである。然るに「子不語」に至つて、はじめて人を害する怪が出て來た。西蜀に出征した兵士が或木の下を通りかゝると、三人まで倒れて死んだ。その木は枯枝ばかりで、花も葉もなかつたが、下枝が鳥の爪のやうな形をしてゐて、下を通る者があると摑むのである。これを見屆けてから劍を拔いて切つたら、枝から血が流れて、その後は無事であつた。かうなると動物だか、植物だか、俄かに判斷が付かぬやうである。

[やぶちゃん注:以上は「子不語」の「第十九卷」に載る以下。

   *

費此度從征西蜀、到三峽澗、有樹孑立、存枯枝而無花葉、兵過其下輒死、死者三人。費怒、自往視之、其樹枝如鳥爪、見有人過、便來攫拿。費以利劍斲之、株落血流。此後行人無恙。

   *]

 

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