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2017/05/09

南方熊楠 履歴書(その28) 我らが発見せる粘菌(変形菌)

 

 小生は田辺にありて、いろいろのむつかしき研究を致し申し候。例せば、粘菌類と申すは動物ながら素人(しろうと)には動物とは見えず、外見菌類(植物)に似たこと多きものなり。明治三十五年夏、小生田辺近傍鉛山温泉にてフィサルム・クラテリフォルムという粘菌を見出だす(これはほとんど同時に英人ペッチがセイロンで見出だし、右の名をつけたり)。その後しばしばこの物を見出だせしに、いずれも生きた木の皮にのみ着きあり。およそこの粘菌類は、もっぱら腐敗せる植物の中に住んでこれを食い、さて成熟に及んでは、近所にありて光線に向かえる物の上にはい上りて結実成熟するなり。しかるに右の一種に限り、いかに光線の工合がよくても、死んだ物にはい上らず、必ず遠くとも生きた物に限りて、その上にはい上り、結実成熟するなり。それより小生このことに注意して不断観察すると、十種ばかりの粘菌はかくのごとく生き物に限りはい上りて成熟するに、一の違例なし。このことを斯学の大権威リスタ一女史(これはむかしメガネ屋主人にして顕微鏡に大改良を加えしリスターという者の後胤にて、初代のリスターはメガネ屋ながら学士会員となれり。その後代々学者輩出し、リスター卿に至りて始めて石炭酸を防腐剤に用いることを明治八、九年ごろ発明し、医学に大功ありし。その弟アーサー・リスターは百万長者にして法律家たり。暇あるごとに生物学に志しついに粘菌図譜を出して斯学の大権威となる。小生は初めこの人に粘菌の鑑定を乞いて、おいおい学問致せし。リスター女史はその娘なり。一生嫁せず粘菌の学問のみ致し、今年あたり亡父の粘菌図譜の第三板を出す。それに小生自宅の庭の柿の樹の生皮より見出だせし世界中唯一の属に、女史が小生の氏名によってミナカテルラ属を立てたる一種の三色板の画が出るはずなり。たぶん昨年出たことと思うが、曽我十郎が言いしごとく、貧は諸道の妨(さまた)げで、近来多事にして文通さえ絶えおり候)に報告せしより、女史が学友どもに通知して気をつけると、欧米その外にも、小生が言う通り、生きた物にかき上りてのみ初めて結実成熟する粘菌また十余程(すなわち日本と外国と合して二十余種)あることが分かり候。

[やぶちゃん注:「粘菌類」既注。現在は「変形菌」(真核生物アメーバ動物門(Amoebozoa:アメーボゾア)コノーサ綱 Conosea変形菌亜綱 Myxogastria)と呼ぶのが一般的。なお、余り認識されているとは思われないので言い添えておくと、確かに南方熊楠は粘菌を自分の研究の一つには位置づけており(但し、彼の自覚的本領研究対象は菌類(茸類)であった)、粘菌研究者であり、新種も発見しているのであるが、生涯ただの一度も、その新種を正式論文として公表したことはなかった。後述する、彼が大正六(一九一七)年に田辺の自邸の庭の柿の木で発見したミナカテルラ・ロンギフォラでさえ、それは後注するグリエルマ・リスターに報告され、彼女によって一九二一年(大正十年)にイギリスの植物学雑誌に新種として発表されたもので南方熊楠に敬意を表して新属名を冠するものの、その学名は Minakatella longifila G. Lister である(私の言を信じない人がいると困るので言っておくと、活字本「南方熊楠を知る事典」の萩原博光氏の「粘菌」の章にも、同様のことが書かれてある)。

「明治三十五年」一九〇二年。那智を研究本拠地としていた頃であるが、同年五月より十二月まで田辺・白浜に遊んでいた。

「鉛山温泉」「かなやまおんせん」と読む。現在の広域の南紀白浜温泉内でも、最も古い温泉地区である瀬戸鉛山村(せとかなやまむら)の温泉で「牟婁の湯」として古くから知られていた(現在の湯崎地区。(グーグル・マップ・データ))。ウィキの「白浜温泉によれば、『今日に見る大規模な温泉街が作られたのは第一次世界大戦後の』大正八(一九一九)年にこの『鉛山地区に対抗して独自の温泉場を作る試みが地元有志の手で始められ』、三年後の大正十一年に『瀬戸と鉛山のほぼ中間の白良浜付近にて源泉を掘り当てることに成功して以降で、このころに「白浜」という温泉名が作られた』とある。

「フィサルム・クラテリフォルム」「南方熊楠コレクション」の注によれば、原文の『「ヂヂルマ・クラテリフォルム」を小畔の注意によってこう改めた』とある。これはコノーサ綱変形菌亜綱モジホコリ目 Physarales モジホコリ科 Physaraceae モジホコリ属キノウエモジホコリPhysarum crateriforme である。海外サイトので画像が見られる。

「ペッチ」イギリスの植物学者トム・ペッチ(Tom Petch 一八七〇年~一九四八年)であろう。「日本変形菌研究会」公式サイト内の変形菌分類学研究者の紹介(国外)によれば、『理科と数学の教師をしていたが、独学で勉強し、ロンドン大学を卒業』、一九〇五年、に『セイロンの王立植物園の職を薦められて、赴任し、ゴムの木の病理学などを研究した。その後、新設された、茶の研究所に勤め、茶の木の病理学などを研究した。同時に、セイロンの菌類、変形菌類、高等植物などを研究した。引退後は英国に帰国して、英国の菌類の研究を続けた。熱帯の菌類と植物病理学の、先駆者の一人である。彼の標本は、大英博物館に収められている』とある。

「リスタ一女史」後に注する父アーサーとともに南方熊楠の粘菌学の師であるとともに、『日本粘菌学の育ての親』とも言うべき(活字本「南方熊楠を知る事典」の萩原博光氏の評言)グリエルマ・リスター(Gulielma Lister 一八六〇年~一九四九年)。先の変形菌分類学研究者の紹介(国外)によれば、『アーサー・リスターの娘で』、十六歳の『時に、一年間、女子大学に通った他は、家庭で教育を受け、一生独身で過ごした。父のアーサーは、『粘菌モノグラフ』初版の序文で、次のように書いている。「私の粘菌の研究、そして図版の準備期間中、ずっと娘グリエルマ・リスターの援助を受けた」』。一九〇三年には『菌学会に入会し』、一九〇四年には『女性にも門戸が開かれた、リンネ協会の会員に選ばれた。父の死後』、一九一一年に『粘菌モノグラフ』第二版を著し、翌年には英国菌学会会長に就任、一九二四年からは『英国菌学会名誉会員に選ばれている』。一九二五年には『粘菌モノグラフ』第三版を『出し、変形菌分類学の、世界的権威となった』。一九二九年から一九三一年まで『リンネ協会副会長を勤め』一九三二年には再び、『英国菌学会会長となっ』ている。彼女の手書きの菌類図譜を見ても判るが、その芸術的才能も『素晴らしかった』。『毎日の通信や、研究は、詳細に記録して、ノートに残したが、現在、このノートは、ロンドンの自然史博物館に保存されている』とある。

「明治八、九年」一八七五、一八七六年。

「アーサー・リスター」(Arthur Lister 一八三〇年~一九〇八年)は先の変形菌分類学研究者の紹介(国外)によれば、『少年時代から、ずっと鳥が好きであった』と言い、十六『歳の時、化学会社に奉公に出た。その後、羊毛商人の共同経営者とな』り、一八五七年『には、酒類を扱う、父の会社を継いだ』。一八七六年から一八七七年に『かけての冬に、森で、木の株に生じた』茸の一種キウロコタケ(菌界担子菌門真正担子菌綱ベニタケ目ウロコタケ科キウロコタケ属キウロコタケ Stereum hirsutum)『の上に広がった、ブドウフウセンホコリ』(変形菌亜綱コホコリ目モジホコリ科フウセンホコリ属ブドウフウセンホコリ Badhamia utricularis。単子囊体が葡萄の実に似、掌状子囊体も葡萄の房に似る)『の変形体を見つけた。それを持ち帰り、菌核を形成させ、キウロコタケを餌にして、数年間培養することができた』。一八七七年、『リンネ協会の席で、この変形体を展示した。この時以来、彼の興味は、変形菌に集中して行った。その後、』複数の碩学から種同定や研究を依頼され、一八九二年には『大英博物館から、博物館の変形菌目録を作成する依頼を受けた。彼と娘はキューに居をかまえて、この仕事に全精力を傾けた。この間にシュトラスブルクにある、ド・バリの標本も調査した。目録は』一八九四年に『『粘菌モノグラフ』として出版された』。一八九八年には王立協会会員、一九〇六年には『英国菌学会会長となった。彼の死後、研究は、娘のグリエルマによって引き継がれた』とある。

「ミナカテルラ属」変形菌亜綱ケホコリ目ケホコリ科ミナカテルラ属Minakatella。この「女史が小生の氏名によってミナカテルラ属を立てたる一種の三色板の画が出るはずなり。たぶん昨年出たことと思ふ」とあるが、本書簡は大正一四(一九二五)年二月の執筆で、グリエルマ・リスターによる「粘菌図譜」の改訂(二回目)はこの年に行われている。後に、彼女から南方熊楠先生へミナカテルラ属ミナカタホコリ(Minakatella longifila)の彩色図と「変形菌類図譜第三巻」が贈呈されている(現在、田辺市の南方熊楠顕彰館所蔵)。]

 

 御承知通り連盟とか平和とか口先ばかりで唱えるものの、従来、またことに大戦以後、国民や人種の我執(がしゅう)はますます深く厚くなりゆき、したがって国名に関することには、いかに寛大篤学の欧人も常に自国人をかばい、なるべく他国人を貶(けな)し申し候。したがってこの、ある粘菌に限り、食うものは腐ったもの死んだものを食いながら、結実成熟には必ず死物を避けて生きた物にとりつくを要すということも、小生と別に英国のクラン Cran という僧が、小生と同時に(もしくは少し早く)気づきおりたるように発表され申し候。まことに苦々(にがにが)しき限りにて、当初この発見を小生がリスタ一女史に告げたときCranなどいう坊主のことは聞きも及ばず、リスタ一女史みずからきわめて小生の報告を疑い、精確に小生が検定せる、生物にのみ身を托して初めて結実し得る諸粘菌の名を求められた状は今に当方にあるなり。しかるに、小生の発見確実と見るや、たちまち右の坊主を撰定して小生とその功を分かちまたは争わしめんと致され候。万事この格(かく)で、日本人が自分の発見を自分で出板して自在に世界中に配布するにあらざれば、到底日本人は欧米人と対等に体面を存することは成らず候。リスタ一女史などは実に小生に好意の厚き人なるに、それすらかくのごとくなればその余は知るべし。

[やぶちゃん注:「クラン Cran という僧」不詳であるが、ネットを調べると、海外サイトの変形菌類のリストのかなりの種の学名に“G. Lister & Cran”と附されることから、修道士でグリエルマ・リスターの共同研究者であったものと推定される。

「この格(かく)で」こうした(卑劣な)やり口が定法で。]

 

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