南方熊楠 履歴書(その22) 熊楠の霊の見え方とその効能
前状の続き
かくて小生那智山にあり、さびしき限りの生活をなし、昼は動植物を観察し図記して、夜は心理学を研究す。さびしき限りの処ゆえいろいろの精神変態を自分に生ずるゆえ、自然、変態心理の研究に立ち入れり。幽霊と幻(うつつ)の区別を識りしごとき、このときのことなり。
幽霊が現わるるときは、見るものの身体の位置の如何(いかん)に関せず、地平に垂直にあらわれ申し候。しかるに、うつつは見るものの顔面に並行してあらわれ候。
[やぶちゃん注:これを説明した附図が描かれてある。キャプションは
最上段目――「幽㚑」(「㚑」は「霊」の異体字)/「垂直」/「直角」/「地平」/「小生眠レ為ル、」(「眠りたる」或いは「眠れるなる」の誤記か)
第二段目――「垂直」/「直角」/「地平」/「幽㚑」/「小生フトンニモタレ半バ眠ル、」
第三段目――「地平」/「幻像(ウツヽ)」/「並行」
最下段目――「幻」/「並行」/「小生」/「地平」
である。]
この他発見せしこと多し。ナギランというものなどは(またstephanosphara(ステファノスヘーラ)と申す、欧州にて稀(まれ)にアルプスの絶頂の岩窪の水に生ずる微生物など、とても那智ごとき低き山になきものも)幽霊があらわれて知らせしままに、その所に行きてたちまち見出だし申し候。(植物学者にかかること多きは従前書物に見ゆ。)また、小生フロリダにありしとき見出だせし、ピトフォラ・ヴァウシェリオイデスという藻も、明治三十五年ちょっと和歌山へ帰りし際、白昼に幽霊が教えしままにその所にゆきて発見致し候。今日の多くの人間は利慾我執(がしゅう)事に惑(まど)うのあまり、脳力くもりてかかること一切なきが、全く閑寂の地におり、心に世の煩いなきときは、いろいろの不思議な脳力がはたらき出すものに候。
[やぶちゃん注:「ナギラン」単子葉植物綱キジカクシ目ラン科パンダ亜科シンビジウム連 Cymbidiinae 族シュンラン属ナギランCymbidium
nagifolium。サイト「四国の野生ラン」のこちらの解説ページが写真もあり、よい。
「stephanosphara(ステファノスヘーラ)と申す、欧州にて稀(まれ)にアルプスの絶頂の岩窪の水に生ずる微生物」現在の緑藻植物門緑藻綱ボルボックス目ボルボックス科パンドリナ属 Pandorina に属する藻類か? 外国サイトでは Stephanosphara pluvialis という種名を見出せるが、記載がごく少なく、学名は変更されているのかも知れない。
「従前」現代に至るまでの。
「小生フロリダにありしとき」南方熊楠は一八九一年(明治二十四年)五月(二十四歳)にフロリダ州ジャクソンヴィルに赴き、菌類・地衣類・藻類を採集している。この後キューバに渡って曲馬団に加わって巡業し、浴翌年の一月にジャクソンヴィルに帰って、八月にニュヨークへ向かい、翌九月に渡英しているが、これはます一八九一年の体験であろう。
「ピトフォラ・ヴァウシェリオイデスという藻」アオサ藻綱ミドリゲ目シオグサ科Pithophora 属の一種であろうが、この学名(カタカナ音写)にぴったりくる学名は藻類の学術英文サイトを検索しても見出し得ない。やはり変更された可能性が強い。
「明治三十五年」一九〇二年。年譜(現在、私は一九九三年河出書房新社刊の「新文芸読本 南方熊楠」のそれを使用している)によれば、この年の一月(前年十月末に勝浦着)に勝浦から那智村の大阪屋(旅館と思われる)に宿替えし、その三月に『歯の治療のため和歌山へ帰る』とあり、また五月には『田辺に行き、半年ほど田辺・白浜に遊ぶ』とある。「ちょっと和歌山へ帰」ったと明記する以上、前者、三月のそれであろう。
以下の一段落は底本では全体が二字下げ。]
小生旅行して帰宅する夜は、別に電信等出さざるに妻はその用意をする。これはrapport(ラッポール)と申し、特別に連絡の厚き者にこちらの思いが通ずるので、帰宅する前、妻の枕頭に小生が現われ呼び起こすなり。東京にありし日、末広一雄など今夜来ればよいと思い詰めると何となく小生方へ来たくなりて来たりしことしばしばあり。
[やぶちゃん注:「rapport(ラッポール)」臨床心理学用語で現行では「ラポール」と音写する。狭義には臨床心理士(セラピスト)や精神科医と、クライエント(自己の心理療法を依頼した者或いは精神疾患に罹患した患者)との間の心的状態を表わす語で、「相互が信頼し合っていて、自由に振る舞ったり、感情の交流を行える関係が成立している状態」を指す。因みに、通常はそうした良好な関係を指すが、これが過度に進むと、クライアントがセラピストや精神科医に過度の好意や恋愛感情を抱いてしまい、症状が治ってしまうと医師に逢えなくなることから、治療が停滞したり、逆に悪化したりすることがままある。但し、ここは一種の超感覚的或いは霊的な広義の精神遠隔感応、所謂、「テレパシー(Telepathy)」のことを指している。
「末広一雄」「十二支考」の「鶏に関する伝説」の「2」に「末広一雄君の『人生百不思議』」と出る人物であるが、不詳。「南方熊楠顕彰館所蔵資料・蔵書一覧」(PDF)によって他に「男爵近藤廉平伝」「抉眼録」「雁来紅」「前知術と易道」などの著作があることは判る。識者の御教授を乞う。]
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