佐藤春夫 未定稿『病める薔薇 或は「田園の憂鬱」』(天佑社初版版)(その11)
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ここに一つの丘があつた。
彼の家の緣側から見るとき、庭の松の枝と櫻の枝とは互に兩方から突き出して交り合ひ、そこに穹窿形の空間が出來て、その樹々の枝と葉とが作るアアチ形の曲線は、生垣の頭の眞直ぐな直線で下から受け支へられて居た。言はばそれらが綠の枠をつくつて居た。額緣であつた。それの空間の底から、その丘は、程遠くの方に見えるのであつた。
[やぶちゃん注:「穹窿形」「きゆうりゆう(きゅうりゅう)けい」弓形・半球状のもの、円みをつけた天井のようなものを指す語で、後の「アアチ形」という形容は、いらぬ屋上屋の表現である。]
彼は何時、初めてこの丘を見出したのであらう。兎に角、この丘が彼の目をひいた。さうして彼はこの丘を非常に好きになつて居た。長い陰氣な雨の日の每日每日、彼の沈んだ瞳を人生の憂悶からそむけて度每に、彼の瞳にうつうのは、その丘であつた。
その丘は、わけても、彼の庭の樹々の枝と葉とが形作つたあの穹窿形の額緣をとほして見る時に、自づと一つの別天地のやうな趣があつた。丁度いい位に程遠くで、さうして現實よりは夢幻的で、夢幻よりは現實的で、また雨の濃淡によつて、或る時にはやや近く、或る時にはやや遠くに感じられた。或る時にはすりガラスを透して見るやうにほのかであつた。
丘はどこか女の脇腹の感じに似て居た。のんびりとした感情をもつてうねつて居る優雅な、思ひ思ひな方向へ走つて居る無數の曲線の集合から出來上つた一つの立體形であつた。さうして、あの綠色の額緣のなかへきちんと收まつて、譬へば、最も發端と大團圓とがしつくりと照應できる物語のやうに、その景色は美しくも、少しの無理もなくまとまつて居た。それはどこかに古代希臘風な彫刻のやうに、沈靜な美をゆつたりと湛へて居た。丘の頂には雜木林があつて、その木は何れも、彼の立つて居る場所からは一寸か五寸位かに見える。それらの林の空と接する凹凸には、言ふべからざるリヅムがあつて、それの少しばかり不足して居るかと思へるところには、家の草屋根が一つ、それの單調を補うて居る。さうして、その豐にもち上つた綠の天鵞絨のやうな橫腹には、數百本の縱の筋が、互に規則的な距離をへだてて、平行に、その丘の斜面の上を、上から下の方へ弓形に走りおりて、くつきりとした縞を描き出して居た。綠色の縞瑪瑙の切斷面である。それは多分杉か檜か何かの苗畑であるからであらう。この丘をかくまでに繪畫的に、裝飾風に見せて居るには、この自然のなかの些細な人工性が、期せずして、それのために最も著しい効果を示して居るのであつた、それは見て居て優しく懷しかつた。
[やぶちゃん注:「裝飾風に見せて居るには、」ここは定本では「裝飾風に見せて居るのには、」と「の」が入っている。脱字の可能性が疑われるが、ママとした。]
「何をそんなに見つめて居らつしやるの?」
彼の妻が彼に尋ねる。
「うん。あの丘だよ。あの丘なのだがね。」
「あれがどうしたの?」
「どうもしない‥‥綺麗ぢやないか。何とも言へない‥‥」
「さうね。何だか着物のやうだわ。」
この丘は澁い好みの御召の着物を着て居ると、彼の妻は思つて居る。
それは綠色ばかりで描かれた單色畫であつた。しかしこのモノクロオムは、すべての優秀なそれと全く同じやうに、殆んど無限な色彩をその單色のなかに含ませて居た。さうして見て居れば見て居るほど、それの豐富が湧き出した。一見ただ綠色の一かたまりであつて、併もそれは部分部分に應じて千差萬別の綠色であつた。そうしてそれが動かし難い三の色調を織り出して居た。譬へば、一つの綠玉が、ただそれ自身の綠色を基調にして、併し、それの磨かれた一つ一つの面に應じて、各々相異つた色と効果とを生み出して居る有樣にも似て居た。
彼の瞳は、常に喜んで其の丘の上で休息をして居る。
「透明な心を! 透明な心を!」
その丘は、彼の瞳にむかつて、さうものを言ひかけた。
或る日。その日は前夜からぱつたり雨が止んで、その日も朝からうすぐもりであつた。やがて正午前には、雲に滲んで太陽の形さへ、かすかながら空の奧底から卵色に見え出した。
彼の妻は、秋の着物の用意に言寄せて、東京へ行つて來ようと言ひ出した。彼の女は空の天氣を案ずるよりも、夫の天氣の變らないうちにと、早い晝飯をすませると、每夜の憧れである東京へ、あたふたと出かけた。心は恐らく體よりも三時間も早く東京へ着いたに相違ない。
彼は、唯ひとりぼんやりと、緣側に立つて、見るともなしに、日頃の目のやり場であるあの丘を眺めて居た。その時その丘は、何となく全體の趣が常とは違つて居ることに、彼は氣づいた。それはどうもただ天氣の光だけではないのである。けれどもその原因は少しも解らなかつた。と見こう見して居るうちに、彼はやつと思ひ出して、机のひき出しから眼鏡を搜し出した。彼は可なりひどい近眼でありながら、近頃は折々、眼鏡をかけることさへ忘れて居るのであつた。何ごともしない近頃の彼には眼鏡も殆んど用がなくなつて居たから。さうして、つひ眼鏡をかけずに居ることが、彼を一層神經衰弱にさせて居ることにも氣づかずに。
[やぶちゃん注:「と見こう見」「とみこうみ」但し、歴史的仮名遣としては「とみかうみ」が正しい「左見右見」と漢字を当てたりもする。あっちを見たり、こっちを見たりすること、あちこち様子を窺うこと。]
眼鏡をかけて見ると、天地は全く別個のものに見え出した。今日は天地の間に何かよろこびのやうなものを見ることが出來た。空が明るいからである。丘ははつきりと見えた。成程、丘はいつもと違つて見える――丘の雜木林の上には鳥が群れて居た。うすれ日を上から浴びて、丘の橫腹は、その凹凸が研ぎ出されたやうな丸味を見せて、滑らかに綠金に光つて居る。苗木の畑である數百本の立縞――成程、違つて居るのは其處だ、その立縞の縞と縞との間の地面をよく見ると、その左の方の一角を要(かなめ)にして、上に開いた扇形に、三角に、何時もの地面の綠色が、どういふわけか、黑い紫色に變つて居るのである。はて!何時の間にこんなに變つたのであらう?何のために變つたのであらう?彼は、實に不思議でならない氣持がした。彼は世にも珍らしい大事が突發したかのやうに、しばらくその丘の上を凝視した。その丘は、彼には或るフエアリイ・ランドのやうに思はれた。美しく、小さく、さうして今日はその上にも不可思議をさへ持つて居る。
[やぶちゃん注:「フエアリイ・ランド」fairyland。妖精の国。]
かうして暫く見つづけて居ると、その丘の表面の紫色と綠色との境目のところが、ひとりでにむくむくと持ち上つて、その紫色の領分が、自然と少しづつ延び擴がつて行くのであつた。尙も瞳を見据えると――さうすると眉と眉との間が少し痛かつたが――其處には、小さな小さな一寸法師が居て、腰をかがめては蠢動しながら、せつせとその綠色(みどりいろ)を收穫して居るのであつた。あの苗木と苗木とのの列の間に、農夫が何かを作つて置いて居たのであらう。併し、見た目には、その農作物が刈りとられて居るといふよりも、紫色の土が今むくむくと持ち上つてくるとしか、彼の目には感じられなかつた。
[やぶちゃん注:「蠢動」「しゆんどう(しゅんどう)」虫などがうごめくこと。また、物がもぞもぞと動くこと。
「あの苗木と苗木とのの列の間に」の「の」のダブりはママ。ママとする。定本は「あの苗木と苗木との列の間に」。]
彼は不可思議な遠眼鏡の底を覗いて、其の中にフエアリイ・ランドのフエアリイが仕事をして居るのをでも見るやうに、この小さな丘に或る超越的な心持を起しながら、ちやうど子供が百色目鏡を覗き込んだやうに、目じろぎもせず眺め入つた。彼は煙草盆と座布團とを緣側まで持ち出して、このひとりでに持ち上る土の紫色を飽かず凝視した。紫色の土は湧くやうに持ち上る。あとから、あとからと持ち上る。紫色の領土が、綠色の領土を見る見る片はじから侵略して行く。
[やぶちゃん注:「百色目鏡」「まんげきやう(まんげきょう)」と読みたくなるが、ここはルビを振らない以上、「ひやくいろめがね」である。意味は万華鏡である。そんな読み方が不審な方は、国立国会図書館デジタルコレクションの明治二一(一八八八)年刊の刑部真琴(桜東小史)著「手工遊戲」のここをご覧あれ。]
うすれ日は段々、と明るくなつて空が晴れて來る。不意に夕日の光が、雲の細い隙間から流れ出て、その丘の上へ色彩のあるフツトライトを投げたかのやうに、丘が一面に可が輝き出す。丘の上ではフエアリイも、雜木林も、永い濃い影を地に曳いた。今もち上つたばかりの紫色の土は、何か一齊に叫び出しでもしさうに見える。丘の頂の雜木林のなかに見える草屋根からは、濃い白い煙が、縷々と、ちやうど香爐の煙のやうに立ち昇つて居た。さうして彼は今、うつとりとなつて、フエアリイ・ランドの王であつた。
[やぶちゃん注:「フツトライト」footlights。舞台の床の前縁に取り付けて演技者を足元から照らす照明。]
その天地の榮光は、一瞬時の夢のやうに、夕日は雲にかくれて、次には遠い連山と一層黑い雲とのなかへ落ちて行つた。
氣がついてみると、丘は全部紫色に變つて居る‥‥見とれて居るうちに、あたりは何時しかとつぷりと暗くなつて居た。フエアリイ・ランドの丘だけが、依然として、闇のなかにくつきりと見えるやうに思ふ。
やがて、その丘も見えなくなつた‥‥‥‥
[やぶちゃん注:前段落の「とつぷり」の傍点は底本では「とつぷ」にしか振られていないが、おかしいので、定本に従った。同じく前段落の「フエアリイ・ランド」は底本では「フエアリイ・ライド」であるが、誤植と断じて、訂した。無論、定本も「フエアリイ・ランド」となっている。]
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