南方熊楠 履歴書(その31) フィサルム・グロスム
[やぶちゃん注:以下、「日夜番(ばん)しおりしなり。」までの三段落は総て、底本では全体が二字下げ。]
この外に枯菌類に、フィサルム・グロスムというものあり。これは他の粘菌とちがい、初め朽木を食って生きず、地中にあって地中の有機分を食い、さて成熟に臨んで地上に現われ、草木等にかきのぼりて生熟するが、中にも土壁や石垣等の生気なきものにはい上りて成熟すること多し。明治三十四年に、小生和歌山の舎弟の宅の雪隠の石壁に、世界中レコード破りの大なるものを見出だす(直径三寸ばかり)。去年秋小畔氏邸の玄関の履(くつ)ぬぎ石につきしものは一層大きかったらしい。他にもアフリカ辺にかくのごとく土中に生活する粘菌二、三種見出だされたるを知る。これは先に申せし、生きた物につかねば成熟せぬものどもと反対に、なるべく生命のなき物を好むとは妙なことなり。朽木腐草などを食って生活するものよりも、有機分の少なき土の中に活きおりては体内に摂取する養分も少なかるべく、したがって成熟した後の大きさも、生物を食うものどもに比して小さかるべきに、事実はこれに反し、尋常生物の腐ったのを食うものどもよりも数百倍または千倍の大きさなり。これをもって見ると、滋養分の多い物を食うから身体大きく、滋養分の少ない物を食うから身体小さいというわけに行かぬと見える。このことを研究したくて、右の畑にこの粘菌をも栽え、不断その変化発生を見たるなり。
[やぶちゃん注:「フィサルム・グロスム」真核生物アメーバ動物門コノーサ亜門変形菌綱モジホコリ目 Physarales モジホコリ科 Physaraceae モジホコリ属クダマキフクロホコリPhysarum
gyrosum。和歌山県公式サイト内のこちら(県総合情報誌『連』の内)に同種の画像があり、そのキャプションに『クダマキフクロホコリ:合祀反対運動により、収監されていた熊楠は、この種類の変形体の色彩変化を刑務所内で観察している』とある。英文サイトのこちらは五葉の画像で細部が観察出来る。こちら(「入生田菌類誌資料」よる(PDF))もよいが、そこでは学名がPhysarum
gyrosa となっている(シノニムであろう)。この拘留はサイト「南方熊楠資料研究会」の「南方熊楠を知る事典」内のこちらのページの中瀬喜陽氏の「神社合祀反対運動」によれば、明治四三(一九一〇)年『八月二十一日のことで、紀伊教育会主催の夏期講習会が田辺町の田辺中学校を会場に開かれたおり、これまで県庁の社寺係をつとめ、合祀督励に再三田辺に来たことのある相良渉(さがら わたる)が、今度』、『県の内務部長で紀伊教育会の会長として来田することを知り、熊楠は積年の思いを叩きつけるつもりで面会を求めた』。『講習会は七日目で、熊楠が訪れたときは閉会式の最中であった。受付で、しばらく待つように言われたのを、その間に逃がすつもりと受け取った熊楠は、ビールの酔いも手伝って、会場に押し入り、手に持っていた標本袋を会場に投げ込み、式場は騒然とした。この件で「家宅侵入」の疑いから十八日間の未決拘留となり、九月二十一日、証拠不十分で免訴の判定がなされた』。という事件を指しており、南方武勇伝の中でもかなり知られた学術物セットのそれである。南方熊楠満四十三の時であった。
「明治三十四年」一九〇一年。]
また妙なことは、粘菌類が活動しておるうちの色は白、紅、黒、紫、黄、緑等いろいろあるが、青色のものはなかりし。しかるに大正八年秋末に、この田辺の知人で杓子かけ、くらかけ、ちりとり、鍋ぶた等を作りて生活する若き人が妙なものを持ち来たる。春画に見える淫水のようなものが土の上に滴下しおる。その色がペレンスのごとく青い(きわめて快晴の日の天また海の色なり)。小生はこの人戯れに糊(のり)に彩色を混じ小生を欺きに来たりしかと思いしが、ついでありしゆえその宅にゆき件(くだん)の物の生ぜし所を見るに、ちょうど新たに人を斬ったあとのごとく、青き血が滴(したた)り飛びおる体(てい)なり。およそ三尺ほどの径(わた)りの所(雪隠の前)の地面の中央には大なる滴りがあり。それより四方八方へやや長くなりて大きさ不同の滴りが飛び散りおれり。その滴りを見ると、蠕々(じゆじゆ)として動くから粘菌の原形体と分かり、大なる樽の栓をその辺へころがしおき、この淫水様の半流動体がこの栓に這い上り、全くこれを蓋(おお)うたなら持ち来たれと命じ帰宅すると、翌朝持ち来たり栓が全く青色になりおる。
[やぶちゃん注:「大正八年」一九一九年。
「杓子かけ」(杓子掛け)は杓子や擂粉木(すりこぎ)などの台所用品などを収納するための道具。太い竹の節おとに斜めの穴を開け、そこに杓子などを差し込んでぶら下げ掛けておくようにしたもので、台所の壁等に配された。
「くらかけ」本来は鞍を掛けて置く四脚の台を指すが、この場合はそれを踏み台として援用したことから、日常の用に用いた、四脚の踏み台・足継ぎのことか、或いは、腰掛けを意味していよう。
「淫水」老婆心乍ら、注しておくと、これは精液のことではない。性行為の際に男女の生殖器から分泌される潤滑性を持った液(女性のそれはバルトリン腺分泌液・スキーン腺分泌液等と、男性のそれは尿道球(きゅう)腺液・カウパー氏腺分泌液等と呼称する)の総称である。
「ペレンス」「日本国語大辞典」にも載らず、少し苦労したが、「世界大百科事典」の「紺青(こんじょう)」の項等によって、鉱物性の青色無機顔料の一種であり、一七〇〇年代初頭にドイツで発明されて後にフランスで製法改良された、現在の所謂、「プルシアンブルー」(Prussian blue)のことであることが判った。そうして、同色名は「ベルリン青」(Berlin blue)、「ミロリー・ブルー」(Milori blue:製法改良したフランス人の名に因む)、「ベレンス」などとも呼ばれるとある。この「ベレンス」はネットで調べて見ても、ラテン文字の綴りが見当たらないのであるが、ウィキの「紺青」によれば、日本ではベルリン藍が訛って「ベロ藍(あい)」と呼ばれたとあり、どうもこの「ベレンス」も、地名の「ベルリン」に茜色のフランス語として知られた「ガランス」(フランス語:garance)を強引に結合させた、和製造語のような気が私にはしてきている。]
[やぶちゃん注:一枚目が原図。二枚目は南方熊楠の意を受けて、私が彩色を施し、キャプションを除去したもの。但し、Physarum
gyrosum の画像を検索して見ても、熊楠の描いたような血紅色の半流動体を滲出させたものは残念ながら見当たらなかった。]
さて、その栓を紙箱に入れ、座右に置いて時々見ると、栓の全体を被(おお)った青色の粘液様のものが湧きかえり、そのうち、諸処より本当の人血とかわらざる深紅の半流動体を吐き出す。翌朝に至り下図のごときものとなり、すなわちフィサルム・グロスムという粘菌で、多く栓の上の方に登りて成熟しおりたり。(灰茶色が尋常なれど、この時に限り、灰茶色にして外面に青色の細粒をつけておりたり。しかるに、数日のち青色の細粒は全く跡を留めずなりぬ。)むかしより支那で、無実の罪で死んだものの血は青くなり、年月を経(ふ)るも、その殺された地上にあらわるると申す。周の萇弘という人は惨殺されたが、その血が青くて天に冤(えん)を訴えたという。また、倭冠(わこう)が支那を乱坊(らんぼう)しあるきしとき、強姦の上殺された婦女の尸(しかばね)の横たわった跡に、年々青い血がその女の像形(すがたかたち)に現われたということあり。これはこの粘菌の原形体が成熟前に地上に現じ、初めは青いが、おいおい血紅となるので、これを碧血となづけ、大いに恐縮したことかと思うて、ロンドンの『ジョーナル・オヴ・ボタニー』へ出しおけり。とにかく、従来かつて無例の青色の原形体を見たのは小生一人(およびむろん発見者たる匠人また小生の家族)で、何故普通にこの種の粘菌の原形体は淡黄なるに、この一例に限り青色なりしかは今において一向分からず、この研究のためにもその種を右の畑にまき、日夜番(ばん)しおりしなり。
[やぶちゃん注:ここまでが、底本では二字下げ。
「萇弘」(ちょうこう ?~紀元前四九二年)は周の霊王・敬王に仕えた学者で政治家。彼は讒言に遭って郷里の蜀に戻って自殺したが、蜀の民が哀れに思ってその血を隠していたが、三年ほど経った後、その血が化して青く美しい碧玉になったという。そこから「碧血丹心」(「至上の真心・忠誠心・赤心(せきしん)」の意。「碧」は「青」、「丹心」は「真心」)という故事成句が生まれた。
「倭寇」十三世紀から十六世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊及び私貿易・密貿易を行った貿易商人の総称。
「乱坊(らんぼう)」乱暴。
「ジョーナル・オヴ・ボタニー」“Journal of Botany”であるが、どこの国の植物学雑誌か不明。“American Journal of Botany”ならば、一九一四年に創刊されている。但し、「南方熊楠コレクション」の注によれば、『上松蓊宛書簡(大正八年十月十二日付)では「近日『ネイチュール』へ出すつもり」とある』と記す。本書簡は大正一四(一九二五)年二月のものである。]
しかるに花千日の紅なく人百日の幸なしとか、大正九年末に及び、小生の南隣の家を、ある(当時の)材木成り金が買って移り住む。もと小生の宅は当地第一の有福の士族の宅地で悉皆(しっかい)で千坪に余るべし。その家衰えて幾度にも売りに出し、いろいろと分かれて、拙宅が中央、さて北隣りの宅は小生知人のものとなり(これは本(もと)持主の本宅たりし)、南隣りの宅がいろいろと人の手に渡りてこの成り金のものとなりしなり。
[やぶちゃん注:「花千日の紅なく人百日の幸なし」「水滸傳』(元・施耐庵著)「第四十三囘 錦豹子小徑逢戴宗 病關索長街遇石秀」に「常言、『人無千日好、花無百日紅。』。」(常に言へり、「人に千日の好(かう)なく、花に百日の紅(こう)なし。」と。)に基づく。「南方熊楠コレクション」の注では、『人の親しい交際も花の盛りと同様に長続きしないものだということ』とする。その場合は、「好」「幸」を「よしみ」「幸福」の意でとっていよう。なお原典の「千」と「百」の数値は理屈から考えても腑に落ち、この引用は熊楠の誤りで、中華に於ける百花の王たる牡丹の花でも、千日もの永きに渡ってはその美しく紅の花弁を咲き誇り続けることが出来ぬように、人もほんの百日の間でさえ良運・栄光に恵まれ続けるということ出来ぬ、というほどの謂いであろう。因みに、実際の牡丹(ユキノシタ目ボタン科ボタン属 Paeonia)の花は開花してから長くてもせいぜい一週間ほどしかもたないから、そのスケール比を適応すれば、人の盛運は十七時間に満たないということになる。
「大正九年」一九二〇年。
「小生の南隣の家」熊楠は大正五年四月に田辺の中屋敷町に約四百坪の宅地と家とを弟常楠の名義で購入して転居していた。
「悉皆」全部(で)。
「千坪」テニス・コート五面分ほど。]
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