萩原朔太郎 ある風景の内壁から (「ある風景の内殼から」初期形)
ある風景の内壁から
どこにこの情慾は口(くち)をひらいたら好いだらう
大海龜(うみがめ)は山のやうに眠るてゐるし
古世代の海に近く
厚さ千貫目ほどもある鷓鴣(しやこ)の貝殼が眺望してゐる。
なんといふ鈍暗な日ざしだらう
しぶきにけむれる岬岬の島かげから
ふしぎな病院船のかたちが現はれ
それが沈沒した錠の纜(ともづな)をずるずると曳いてゐるではないか。
ねえ! お孃さん
いつまで僕等は此處に座り 此處の悲しい岩に並んでゐるのでせう
太陽は無限に遠く
光線のさしてくるところにぼうぼうといふほら貝が鳴る。
お孃さん!
かうして寂しくぺんぎん鳥のやうにならんでゐると
愛も 肝臓も つららになつてしまふやうだ
やさしいお孃さん!
もう僕には希望(のぞみ)もなく 平和な生活(らいふ)の慰めもないのだよ
あらゆることが僕をきがひじみた憂鬱にかりたてる
へんに季節は轉々して
もう夏も季桃(すもも)もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。
どうすれば好いのだらう お孃さん!
ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるえてゐる。
そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし
これほどにもせつない心がわからないの? お孃さん!
[やぶちゃん注:大正一二(一九三七)年二月号『日本詩人』初出。歴史的仮名遣の誤りと「世」「鷓鴣」「錠」「季桃」はママ。太字「つらら」は底本では傍点「ヽ」。
「千貫目」三トン七五〇キログラム。
昭和三(一九二八)年三月第一書房刊の「萩原朔太郎詩集」に収録された際、「あるう風景の内殼から」と改題した上、本文にも手が加えられているが(大きな変更の一つは「もう夏も季桃もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。」の「夏」が「春」となっている点である)、この詩篇、改稿されたものやその後の再録詩集でも、残念ながら、首をかしげざるを得ない表記箇所が多過ぎる。初出の一読で判る通り、
「古世代」は「古生代」、「季桃」は「李桃」
でないとおかしいし、
「鷓鴣」は鳥(狭義には鳥綱キジ目キジ科シャコ属コモンシャコ Francolinus pintadeanus:中国南部・東南アジア・インドに生息し、家禽として飼育され、鶏肉よりも高価に取引される。本邦には棲息しない。広義にはシャコ属
Francolinus を指し、約四十種がアフリカ・アジア・ヨーロッパに分布する)
であるから、ここは明らかに、
「硨磲」貝、則ち、斧足綱異歯亜綱ザルガイ上科ザルガイ科シャコガイ亜科
Tridacnidae のかのシャコガイ類の大型個体
をイメージしているわけから、この誤字のままでは読者は躓いてしまう。
「錠」も、まず「碇」(いかり)の誤りに他ならない
と読める。
されば、本詩篇に関しては、底本とした筑摩書房「萩原朔太郎全集 第二卷」の本文を以下に提示しておくこととしたい(既に述べた通り、この全集の校訂は独善的で不遜な部分が多分にあって不満ではあるが)。実は他にも訳の分からぬいらぬことを底本編者はしている(一行目の「口」のルビの除去など)のであるが、ここは我慢してそのまま底本正規本文を示すこととする。
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ある風景の内殼から
どこにこの情慾は口をひらいたら好いだらう
大海龜(うみがめ)は山のやうに眠るてゐるし
古生代の海に近く
厚さ千貫目ほどもある硨磲(しやこ)の貝殼が眺望してゐる。
なんといふ鈍暗な日ざしだらう
しぶきにけむれる岬岬の島かげから
ふしぎな病院船のかたちが現はれ
それが沈沒した碇の纜(ともづな)をずるずると曳いてゐるではないか。
ねえ! お孃さん
いつまで僕等は此處に坐り 此處の悲しい岩に竝んでゐるのでせう
太陽は無限に遠く
光線のさしてくるところにぼうぼうといふほら貝が鳴る。
お孃さん!
かうして寂しくぺんぎん鳥のやうにならんでゐると
愛も 肝臓も つららになつてしまふやうだ。
やさしいお孃さん!
もう僕には希望(のぞみ)もなく 平和な生活(らいふ)の慰めもないのだよ
あらゆることが僕をきちがひじみた憂鬱にかりたてる
へんに季節は轉轉して
もう春も李(すもも)もめちやくちやな妄想の網にこんがらかつた。
どうすれば好いのだらう お孃さん!
ぼくらはおそろしい孤獨の海邊で 大きな貝肉のやうにふるへてゐる。
そのうへ情慾の言ひやうもありはしないし
これほどにもせつない心がわからないの? お孃さん!
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