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2017/05/01

譚海 卷之二 江戸三傳馬町天王由來の事

 

江戸三傳馬町天王由來の事

○江戸大傳馬町は、むかし寶田村と云(いふ)所也。小傳馬町は千代田村と云所にして、いづれも六本木と云(いひ)、奧州へ往來の馬繼(うまつぎ)也。さるに因(より)て傳馬の公役にあてられ、今も是をつとむる事也。常磐橋の内に千代田稻荷とてあるは、傳馬町より移し祀りたる也。又藤田明神社地に牛頭(ごづ)天王三所まします、則ち大傳馬町・小傳馬町・南傳馬町三所の天王なりしを、正德中疫病流行せし夏、小傳馬町の天王御旅所(おたびしよ)に御出ありし神輿(しんよ)を、小船町へかり行(ゆき)疫氣(えきき)を壓(あつ)せしより、御輿(みこし)を返し奉らず、永く小船町御旅所に成(なり)たる事也。又加藤善三郎と云者、國初より傳馬町に住(ぢゆう)し、その居所北側の地は拜領屋敷也。東照宮御杖(おんつえ)にて畫(かく)し賜りける由をいふ。

[やぶちゃん注:「三傳馬町」「さんでんまちやう」と読んでおく。ウィキの「伝馬町」てんまちょう)によれば、『江戸幕府の本拠地であった江戸の場合、江戸城の大手門にほど近い日本橋を中心に五街道が整備され、日本橋の周辺に五街道向けの伝馬を担う大伝馬町・南伝馬町と江戸内部の伝馬を担う小伝馬町が設けられた(南伝馬町は現在は京橋の一部となっているが、大伝馬町と小伝馬町は現在も日本橋大伝馬町』(現行読みは「にほんばしおおでんまちょう」。(グーグル・マップ・データ)。西北に小伝馬町が、図の下方中央が京橋地区)『・日本橋小伝馬町』(現行読みは「こでんまちょう」)『として地名が残る)』(孰れも中央区)。以下は江戸に限らぬ各地の伝馬町の属性であるが、興味深いので引いておく。『時代とともに、伝馬町の住人で実際に伝馬に関わるのは伝馬役所が置かれた町名主の家などに限定され、多くの地主や家持は金銭などの形で伝馬役を負担した。伝馬町は伝馬役の負担によって城下町の他の地域よりも過重な負担を強いられたが、反面において交通網の整備に伴って商店や問屋などが進出して商業地域として発展する場合もあった。また、地域によっては特定商品の専売権を与えられることで負担に対する見返りが享受される場合もあった』。

「寶田村」「たからだむら」と読んでおく。ブログ「神社と御朱印」の中央区日本橋大伝馬町にある寶田恵比寿神社宝田神社)」についての記事の中で、この『宝田神社は元々江戸城外にあった旧豊島郡宝田村(呉服橋御門付近)の鎮守であった』が(東京駅東北直近の附近(グーグル・マップ・データ))、『江戸城拡張により宝田・祝田・千代田の三村が移転を命ぜられ、宝田村の名主・伝馬役であった馬込勘解由は住民を引率して大伝馬町へ移住し、同町の名主を務めた』。『ちなみに馬込勘解由とは日本橋大伝馬町二丁目で代々伝馬役・名主役を務めた馬込家当主が名乗った名称である』とあるから、この場所が、ここで津村が言うように、ここが古くはもともと「寶田村」「千代田村」と言ったわけではない(但し、元の居住村の名をここに移って初期には再度、旧村名を用いた可能性は極めて高い)

「六本木」位置的に見ても離れているのでお分かりと思うが、これは現在の「六本木」(東京都港区六本木)とは無関係である。nsawc_nfws記事六本木地名由来の真相は?によれば、『古くは日本橋の伝馬町あたりが六本木と呼ばれていたそうで』、これは『馬をつなぐ木が横にならべてあったので、四つ木とか六本木とか呼んだらしい』とある。

「常磐橋の内に千代田稻荷とてある」橋としての常盤橋(ときわばし)は現在の東京都千代田区大手町と中央区日本橋本石町との間の日本橋川に架かるが、この周辺の地名と考えて良かろう((グーグル・マップ・データ))。「千代田稲荷」神社は現在、元の小伝馬町に戻っているようである。(グーグル・マップ・データ)。渋谷百軒店商店街HP管理チームによるブログ「渋谷百軒店コラム」のもう一つの千代田稲荷:小伝馬町の千代田稲荷神社によれば、この稲荷の鎮座地は、最初が江戸城で小伝馬町(A)から『不詳』の地へ移り、次に小伝馬町(A)に戻るも、その後、小伝馬町(B:現在地)に遷座したと推定されているから、まさに、このブログ記事の『不詳』とする場所こそがこの「常磐橋の内」と考えてよいように思われる。ブログ記者は既にそう推測されているのであるが、残念なことに、その常盤橋のどこであったかが判らないようである。同リンク先の神社由来の電子化資料によって(『是後奉仕せる社人窮困して他に社地を讓る 時に屢々異變あり 神慮なりと畏れ 天明年間 旧地に建立し 現在に至る』(恣意的に漢字を正字化し、読み易くするために字空けを増してある))、元の小伝馬町に戻ったのは天明年間(一七八一年~一七八九年)であることが判り、「譚海」は、まさに安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)の見聞内容に基づくのだから、この記事は、その検分閉区間の前半期の記録であることが判明するのである。

「藤田明神社」「牛頭(ごづ)天王」「三所」「大傳馬町・小傳馬町・南傳馬町三所の天王なりしを、正德中疫病流行せし夏、小傳馬町の天王御旅所(おたびしよ)に御出ありし神輿(しんよ)を、小船町へかり行(ゆき)疫氣(えきき)を壓(あつ)せしより、御輿(みこし)を返し奉らず、永く小船町御旅所に成(なり)たる事也」「藤田神社」なる呼称は現存しないが、これは現在の神田明神の牛頭天王三社のことで、ウィキの「江戸祭礼氏子町一覧に、現在では旧南伝馬町の『江戸神社(天王一之宮)、大伝馬町八雲神社(天王二之宮)、小舟町』(こぶなちょう:日本橋小舟町。(グーグル・マップ・データ))『八雲神社(天王三之宮)とそれぞれ呼ばれ』ているとある。「正德」は一七一一年から一七一五年。面白いのは、この小伝馬町の牛頭天王(インドの祇園精舎の守護神。本地垂迹説では素戔嗚命の本地仏とされ、特に除疫神として信仰された。京都の八坂神社が有名)が、貸し出されたまま、戻って来ず、現在に至るまで小舟町にあることである。実に面白い。牛頭天王が怒らず、変事もないというのは、牛頭天王は小伝馬町を見限って、小舟町の方が永劫、居心地がよいということなんだろうか? そもそもが、何で小伝馬町の町人らは怒らなかったんだろう? 誰か、納得のゆく真相をお教え願えると嬉しい。

「加藤善三郎」不詳。

「國初」「くにはじめ」。徳川家康の江戸入府前後の武蔵国の初期から。

「杖にて畫し賜りける」家康公御自ら、自分の杖を以って地引きをし、加藤に屋敷地を下賜された。]

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