柴田宵曲 續妖異博物館 「死者生者」
死者生者
支那の書物を讀む場合、第一に勝手が違ふのは鬼といふ言葉である。日本の鬼は一寸法師に出て來るのも、羅生門に出て來るのも大した違ひない。見上げるやうに丈が高く、兩眼は鏡の如く、頭に角が生えてゐる。中には打出の小槌などを持つてゐるのもあるが、鐡棒を振り𢌞して人を脅かすのが原則のやうである。支那の鬼はこれほど類型的でないから、「太平廣記」にして四十卷に亙る鬼の内容を簡單に説明することは、如何なる學者にしても困難であらう。或者は幽靈であり、或者は化物であり、その外觀も千態萬狀で、鬼に金棒などといふ簡單な概念は通用しにくい。同じ幽靈にしても日本のやうに特殊の扮裝をして居らず、普通の人間と同じやうに行動するから困るのである。
[やぶちゃん注:「鬼」知っている人には言わずもがなであるが、最初に述べておくと、「鬼」という漢字の本来の意味は「死者」或いは「死者の魂」である。「廣漢和辭典」の解字には『グロテスクな頭部を持つ人の象形』文字『で死者のたましいの意を表す』と記す。しかし私は大学時代にしごかれ、しかし故に忘れられない亡き吹野安先生が「鬼」という字は死者の顔に、それを覆い隠すための四角い白い布「幎冒(べきぼう)」を被せ、それを縦横に結んで縛った形であると、講義で絵を描いて教えて下さった時のそれが、目から鱗のインパクトであった。同辞典では二番目(①の㋑。㋐は最初に示した意味)に『ひとがみ。人鬼。神として祭られた霊魂。「鬼神」↔天神・地祇』とし、次(①の㋒)に『不思議な力があると信ぜられるもの。一に聖人の精気を神、賢人の精気を鬼という』とあって、ここまでは非常にフラットな意味である。そこを私は押さえておかないと、中国語に於ける「鬼」概念を踏み誤ることとなると考えている。第四番目に至って、やっと①の㋓で『人に害を与えるもの。もののけ。ばけもの』という邪悪性が示されるのである。ところが、②になると『さとい』『わるがしこい』となり、③では「遠い」の意となるのである。⑧のところで仏教用語として梵語の「プレータ」の漢訳の『餓鬼をいう。飢えて飲食を求める死者。餓鬼道におちた亡者、また夜叉(ヤシャ)・羅刹(ラセツ)など、凶暴な鬼神をいう』とする。これは原型の最初の意味に中国で作られた偽経に基づく複雑怪奇な地獄思想を組み込んだものである。これらの後に国訓しての「鬼」の意として、『想像上の生物。人の形をして角があり、裸で虎の皮のふんどしをしている』と突如くるのである。因みに、これも言わずもがなであるが、何故、角があって虎の皮の褌かと言えば、これは何のことはない、鬼だから鬼門の方角からくるであろうということで、あちらは艮(うしとら)則ち「丑寅」であることから、日本で勝手に「牛の角」と「虎の褌」ということになってしまったに過ぎない。鬼門や十二支やあくまで符牒でしかなく、実在の「鬼」や動物とは無関係なのに、こうした比喩が安易に形成されるのも本邦のお目出度さだと言えば言えると私は思う。また、後の青鬼・赤鬼の肌色や体格は、何人かの法医学者や解剖学者が述べているように、実際の死体が腐敗して変様してゆく過程での、肌の色の変化や腐敗ガスの膨満をリアルに写したものである。]
「夷堅志」に出て來る李吉といふ男は、死んでから十年もたつてもとの主人に逢ひ、一緒に酒を飮んだりしてゐる。彼の説によると、幽靈は隨所に見出すことが出來るので、あれもさうです、これもさうですと云つて指摘した。同じ書物にある王立の話も略々同樣だから、支那では家常茶飯事なのかも知れぬ。「宜室志」にある呉郡の任生なども、この鑑別の出來る人であつた。或時二三の友人と舟を泛べて虎丘寺に遊んだが、その舟の中で鬼神の話になり、鬼は澤山ゐても人が識別出來ぬのだ、と任生は云つた。さうして岸を步いてゐる靑衣の婦人を指し、あれも鬼だが、抱いてゐる子供はさうぢやない、と説明した。友人の楊生が驚いて、どうしてさういふ辨別が出來るのか、と問うたら、君はただ見てゐろ、僕が話して見るから、と云ひ、その婦人に向つて、お前は鬼ぢやないか、どこから人間の子を盜んで來た、と萬聲叱咤した。婦人はびつくりして逃げ出したかと思ふと、忽ち見えなくなつた。楊生も深く感歎して夕方共に歸つて來たが、郭を去る數里のところで、一家が岸の傍に筵を敷き、巫女が鼓を打つたり舞ひを舞つたりしてゐるのに逢著した。樣子を聞いて見たら、今日嬰兒が俄かに亡くなり、今しがた生き還つたので、かうやつてお祝ひをしてゐるのです、と巫女が答へた。その嬰兒は慥かに靑衣の婦人が抱いてゐた子に相違なかつた。幽靈の眞贋鑑定などは日本ではあまり見當らぬ圖であらう。
[やぶちゃん注:「虎丘寺」現在の蘇州市の西北五キロメートルの山塘街にある虎丘にあった寺(現在は虎丘公園)。呉王闔閭の墓所と伝えられ、その名は丘が虎が蹲る形に見えるからとするもの、或いは闔閭の葬儀の三日目、白虎が現われて塚の上に蹲ったとも伝える。ここは私も行ったことがある。ここ(グーグル・マップ・データ)。
最初の話は「夷堅志」の「夷堅丙志」にある「李吉爊雞」であるが、原話はもっと長い。
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范寅賓自長沙調官於臨安。與客買酒昇陽樓上。有賣爊雞者。向范再拜、盡以所攜爲獻。視其人。蓋舊僕李吉也。死數年矣。驚問之、曰、「汝非李吉乎。」。曰、「然。」。「汝既死爲鬼。安得復在。」。笑曰、「世間如吉輩不少。但人不能識。」。指樓上坐者某人、及道間往來者、曰、「此皆我輩也。與人雜處商販傭作。而未嘗爲害。豈特此有之。公家所常使浣濯婦人趙婆者、亦鬼耳。公歸試問之、渠必諱拒。」。乃探腰間二小石以授范、曰、「示以此物。當令渠本形立見。」、范曰、「汝所烹雞可食否。」。曰、「使不可食、豈敢以獻乎。良久乃去。」。范藏其石還家、以告其妻韓氏。韓曰、「趙婆出入吾家二十年矣。柰何以鬼待之。」。他日趙至。范戲語之曰、「吾聞汝乃鬼果否。」。趙慍曰、「與公家周旋久。無相戲。」。范曰、「李吉告我如此。」。示以石。趙色變、忽一聲如裂帛、遂不見。此事與小說中所載者多同。蓋鬼技等耳。右二事皆唐少劉説。
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幸い、私の愛読する話梅子(フウメイズ)氏のブログ「寄暢園別館」のこちらに「羹売りの李吉」として訳されてある。ご覧あれ。
次に主人公名「王立」だけを挙げる同書のそれは、「夷堅丁志」の「王立火・麀鴨」で以下。
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中散大夫史忞。自建康通判滿秩。還臨安鹽橋故居。獨留虞候一人。嘗與俱出市。值賣火麀鴨者甚類舊庖卒王立。虞候亦云無小異。時立死一年。史在官日。猶給錢與之葬矣。恍忽間已拜於前。曰、倉卒逢使主。不暇書謁。遂隨以歸。且獻柈中所餘一鴨。史曰、汝既非人。安得白晝行帝城中乎。對曰、自離本府即來此。今臨安城中人。以十分言之。三分皆我輩也。或官員。或僧。或道士。或商販。或倡女。色色有之。與人交關。往還不殊。略不爲人害。人自不能別耳。史曰、鴨豈眞物乎。曰、亦買之於市。日五雙。天未明。齎詣大作坊。就釜灶燖治成熟。而償主人柴料之費。凡同販者亦如此。一日所贏。自足以糊口。但至夜。則不堪說。既無屋可居。多伏於屠肆肉案下。往往爲犬所驚逐。良以爲苦。而無可奈何。鴨乃人間物。可食也。史與錢兩千遣去。明日、復以四鴨至。自是時時一來。史竊嘆曰、吾人也。而日與鬼語。吾其不久於世乎。立已知之。前白曰。公無用疑我。獨不見公家大養娘乎。袖出白石兩小顆。授史曰、乞以淬火中。當知立言不妄。此媼蓋史長子乳母。居家三十年矣。史入戲之曰、外人説汝是鬼如何。媼曰、六十歲老婢。眞合作鬼。雖極忿慍。而了無懼容。適小妾熨帛在旁。史試投石於斗中。少頃焰起。媼顏色即索然。漸益淡淺。如水墨中影。忽寂無所見王立亦不復來。予於丙志載李吉事。固已笑鬼技之相似。此又稍異云。朱椿年説。聞之於史倅。
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『「宜室志」にある呉郡の任生』は「卷四」の「呉任生」。
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呉郡任生者、善視鬼、廬於洞庭山。貌常若童兒、吳楚之俗、莫能究其甲子。寶應中、有前昆山尉楊氏子僑居呉郡。常一日、里中三數輩相與泛舟、俱遊虎丘寺。時任生在舟中、且語及鬼神事。楊生曰、「人鬼殊跡、故鬼卒不可見矣。」。任生笑曰、「鬼甚多、人不能識爾、我獨識之。」。然顧一婦人、衣靑衣、擁豎兒、步於岸。生指語曰、「此鬼也。其擁者、乃嬰兒之生魂爾。」。楊曰、「然則何以辨其鬼耶。」。生曰、「君第觀我與語。」。卽厲聲呼曰、「爾、鬼也、竊生人之子乎。」。其婦人聞而驚懾、遂疾囘去、步未十數、遽亡見矣。楊生且嘆且異。及晚還、去郭數里、岸傍一家陳筵席、有女巫鼓舞於其左、乃醮神也。楊生與任生俱問之。巫曰、「今日里中人有嬰兒暴卒、今則寤矣、故設筵以謝。」。遂命出嬰兒以視、則眞婦人所擁者。諸客皆驚嘆久之、謂任生曰、「先生真有術者。」。生曰、「以神合用、以用合神、則吾得而知之矣。
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浦城の人が若くして旅中に亡くなり、家に一斤の金があつたのを、妻が隱匿して姑に知らせなかつたところ、翌年その男が夜歸つて來て門を敲く。母親は駭きながらも、お前は本當に死んだのではないのか、と尋ねると、いゝえ本當に死んだのです、たゞ不平の事があるので、ちょつと歸つて來たのです、と答へ、今度は妻に向つて、何故おれの金をお母さんに上げずに、自分で匿したのか、と責め出した。男の手には刀があり、今にも殺しさうな樣子に見えたので、母親が慌ててこれを止め、お前は已に死んでゐる、こゝで嫁が殺されれば、世間では私が殺したと云ふに相違ない、それだけはやめておくれ、と注意した。男は慟哭して母の許を立ち去つたが、その去るに臨み、刀を提げたまゝ妻を實家まで連れて行つた。もう明方近くなつてゐたので、實家の數十步手前まで來たら、忽然見えなくなつた。母親の話によれば、男の言語は平生の如くであつたが、手足は水のやうに冷たかつたさうである。
[やぶちゃん注:ここで柴田は出典を示していないが、これは後に出る「稽神錄」の「卷三」の「浦城人」である。
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浦城人、少死於路、家有金一斤、其婦匿之、不聞於其姑。逾年、忽夜扣門、號哭而歸。其母驚駭、相與哀慟、曰、「汝真死耶。」。曰、「兒實已死、有不平事、是以暫歸。」。因坐母膝、言語如生、但手足冷如水耳。因起握刀、責其妻曰、「我死有金爾、何以不供母乃自藏耶。」。卽往殺之、其母曰、「汝已死矣、儻殺爾妻、必謂我所殺也。」。於是哭辭母而去、復自提刀送其妻歸母家。迨曉及門數十步、忽然不見。
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支那の幽鬼の世間に出沒する樣子は大體こんなもので、現實の人間世界とあまり變つてゐない。中には車馬輜重を從へて堂々と官舍に乘り込み、こゝは自分の舊宅であると云つて地上權を主張するやつまである。一體あなたがこゝに居られたのはいつ頃かと反問したら、隋の開皇の頃であると答へたので、はじめて鬼であることがわかつた。彼等は人間と同じ世界に住み、時にかういふ折衝を敢てしたりするが、中には遠く人間を離れ、獨立國家を經營してゐる例もないではない。
[やぶちゃん注:「輜重」正確に言えば、これは軍隊の糧食・被服・武器・弾薬などの輸送すべき軍需品の総称で、輜重隊とはそうした後続支援部隊を指すが、ここは軍隊と採ってよかろう。
「隋の開皇」隋の文帝楊堅の治世の年号で隋朝最初の年号である。五八一年から六〇〇年で、この開皇一五(五九五)年は、中国で始めて、かの科挙が創設・開始されている。同年は本邦では推古天皇三年に相当する。
これも柴田は出典を明らかにしていないが、やはり同じく「稽神錄」で、「卷二」の「周元樞」(しゅうげんすう)である。
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周元樞者、睢陽人、爲平盧掌書記。居臨淄官舍、一夕將寢、忽有車馬輜重甚眾、扣門、吏報曰、「李司空候謁。」。元樞念親知輩皆無此人、因自思必郷曲之舊、吾不及知矣、因出見之。延坐請問其所從來、曰、「吾新移家至此、未有所止、求君此宅可矣。」。元樞驚曰、「何至是。」。對曰、「此吾之舊宅也。」。元樞曰、「吾從官至此、相傳雲書記之公署也。君何時居此。」。曰、「隋開皇中嘗居之。」。樞曰、「若爾、君定是鬼耶。」。曰、「然。」。地府許我立廟於此、故請君移去爾。」。元樞不可、曰、「人不當與鬼相接、豈吾將死、故君得臨吾耶。雖然、理不當以此宅授君、吾雖死必與君訟。」。因召妻子曰、「我死、必多置紙筆於棺中、將與李君對訟。」。即具酒與之飮相酬數百杯、詞色愈厲。客將去、復留之、良久、一蒼頭來雲、「司空周書記、木石人也、安可與之論難、自取困哉。」。客於是辭謝而去、送之出門、倏忽不見。元樞竟無恙。
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これについては、柴田の謂いは梗概とも言えぬもので、この後の顛末がまるで分らぬ恨みあるが、幸い、こちらで全訳が読める。参照されたい。後半の展開こそが実に面白い。]
梁の時代に靑州の一商人が海上で大風に吹き流され、見馴れぬ國に漂著した。造かに城郭なども見えるけれど、どこであるかわからない。多年海上を往來する船頭にも全く見當が付かず、事によつたらこれが話に聞いた鬼國かも知れません、と云ひ出した。とにかく上陸することにして、城の見える方へ步いて行くのに、家の建築や田畑の樣子は支那の内地と同じ事だが、道で逢ふ人に會釋しても皆知らん顏をしてゐる。城門には門番がいかめしく控へてゐるので、一應會釋して通らうとすると、こゝもまた雲烟過眼であつた。王宮では大宴會の最中らしかつたが、列座の人の服裝も、竝べられた器具や音樂なども別に異國らしいところは見えぬ。咎める人もないまゝに、その樣子を窺つてゐたところ、王が急に發病された。巫が恭しく述べるのを聞けば、これは陽地の人が參りましたので、その陽氣のためと存ぜられます、彼等は偶然漂著致しましたので、祟りをなす次第でもございませんから、飮食車馬の類をお與へになればよろしうございませう、といふのである。早速別室に酒食が用意され、巫や群臣はそこへ來て何か祈つてゐるらしい。宇宙人が地球に降りて來たやうなものと見ればよからう。やがて馬の準備もとゝのつたので、それに乘つてもとの岸に到り、舟は幸ひに順風を得て無事に戾ることが出來たと「稽神錄」にある。もしその間此方の姿が徹頭徹尾先方に見えぬとしたら、皿に盛られた珍味が自然に消え失せたり、影もない者が馬に乘つて行つたり、種々の不思議が演ぜられたものと思はれる。要するにこの話では幽界と人間界とが全く融和せぬので、人間が幽靈をこはがるやうに、鬼國の人々は人間を敬遠する。正に陰陽對立の狀態であるが、どうして此方に向うの人々が見えて、向うの人には此方が見えぬのか、その點はいさゝか相對的でない。かういふ鬼國漂流譚は支那の書物の中でも先づ珍しい話題である。
[やぶちゃん注:「梁」以下に示す原文に「朱梁」とあるように、これは五代の最初の王朝後梁(こうりょう)のこと(南北朝時代の後梁(西梁)と区別するために「朱梁」とも呼ぶ)。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が九〇七年に唐の昭宣帝より禅譲を受けて建国した。国域は参照したウィキの「後梁」を見られたい。
「靑州」現在の山東省の旧称。
「雲烟過眼」普通、雲や霞が目の前を過ぎるのに対して心を動かさないように、全く目の前にあってもなきが如くに振る舞うこと、転じて、如何なる物事にも執着しことの意。しかし、この話柄ではご覧の通り、民に会釈しても知らんぷりに始まって、実際に実は主人公らの姿は彼らに見えていなかったというところがミソ、則ち、本話の重要な伏線なのである。
以上は「稽神錄」の「卷二」の「靑州客」。
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朱梁時靑州有賈客、泛海遇風、漂至一處、遠望有山川城郭、海師曰、「自頃遭風者、未嘗至此。吾聞鬼國在是、得非此耶。」。頃之、舟至岸、因登之、向城而去。其廬舍田畝、皆如中國、見人皆揖之、而人皆不應。已至城、有守門者、揖之亦不應。入城、屋室人物殷富、遂至其王宮、正值大宴、群臣侍宴者數十、其衣冠器用、絲竹陳設之類、多如中國。客因升殿、俯逼王座以窺之。俄而、王疾、左右扶還、亟召巫者示之、巫雲、「有陽地使人至此、陽氣逼人、故王病。其人偶來爾、無心爲祟、以飲食車馬謝遣之、可矣。」。卽具酒食、設坐於別室、王及其群臣來祀祝、客據案而食、俄有仆夫馭馬而至、客亦乘馬而歸。至岸登舟、國人竟不見。復遇便風得歸。時賀德儉爲靑州節度、與魏博節度楊思厚有親、因遣此客使魏、具爲思厚言之。魏人範宣古親聞其事、至爲余言。
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